自分の考へてゐること、感じてゐること、欲してゐることを、無駄なことばを使はず、ふさはしいことばで、端的に、語る力。
そして、そのやうに、書く力。
一方、他者の考へてゐること、感じてゐること、欲してゐることを聴き取る力。
そして、他者の書いたことば、読むべきことばを熟読、味読し、行間を読み取る力。
これら四つの力、話す力、書く力、聴く力、読む力を育むことが、すべての人にとつて、人として生きていく上で、とても、とても、大切なことであるやうに思ふ。
とりわけ、読む力、書く力は、時代を越え、地域さへも越えて、人と人とが繋がりあふために育みたい大切な力だが、まづは、読む力について述べたい。
ことばと深く、長く、付きあひ続け、ことばが描く世界を最後まで辿り抜く内的な経験。
そんな熟読・味読といふ行為こそが、人が人であることを想ひ起こさせ、人を歴史と文化に接続し、精神的存在とする。
それは、己れと己れを囲んでゐる狭い時代性と地域性とを忘れてしまふやうな深い驚きと、孤独と孤独を繋ぐ安らぎと満ち足りを読者にもたらし、または、古と今を貫く連続性、伝統といふものに目覚めさせる。
この驚きと喜びを知ることが、どれほど生きることに力と指針を与へてくれることか。
そして、聴く力を促し、育むやうな働きをするのが、言語造形といふ芸術であると思ふ。
言語造形の舞台は、上に書いたやうな読書体験での味はひを、聴く体験へと精神的に深める。
ことばといふものが、知的に理解されるものであるだけでなく、全身で感覚され、情で感じられるものへと、その働きを拡げ、深める。
ことばを聴く時間を芸術的なものにすること。
読書を情報収集と一緒にしないこと。
その積み重ねが、芸術的に話す力へと、人間力そのままが出てしまふ書く力へと、おのづからなりかはつてゆく。
国語力が、人をその民族の子とし、その人をその人とする。
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