2017年05月02日

ことばの農作業


10305249_647185292028187_8387247822279962315_n.jpg

 
夏も近づく八十八夜・・・。
 
立春から數へて八十八日目の今日。農においては、種を蒔くに相応しい時期ださうです。
 
晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家に引きこもつて讀書しながら心穩やかに暮らすことを「晴耕雨讀の暮らし」とよく云ふけれど、自分は晴れても降つても、耕して、讀んでるなあ、と今朝ふと思つたのです。
 
自分の場合、「耕す」といふことは、すなはち、言語造形の稽古をするといふことになるのですが、それは身體をもつて稽古しながら、この身體といふ土壤を耕し、ここにことばの種を蒔き、ここからやがてことばの花が咲き、ことばの実がなりゆく。
 
その花なり実なりを人と分かち合ふことができれば、そして更に高い世の方々に奉ることができれば、これほどの喜びはない、といふほどの喜び。
 
わたしは、日本のもつともベーシックな食べ物であるお米を作る感覺に近いのかもしれないと思つてゐるのですが。
 
自然の作用といふ天からの扶けをもつて米作りに勤しむ人は、きつと、その過程で米といふ植物存在の内部にだんだんと入りこんでいくでせう。
 
言語造形の場合、ことばといふ神から授かつてゐるものが、稽古を通してだんだんと植物のやうにわが身體を土壤にして育つていく。
 
その身體を通してわたしのこころはだんだんとことばといふものの内側に入りこんでいき、ひとつになつて、花あることば、実のあることばとして、世に羽ばたいていく。
 
稽古といふものは、獨り部屋に籠つて、同じことばや文を繰り返し繰り返し口にして身體に覺え込ませることから始まるとても地味な作業です。
 
しかし、その作業が、ことばに潛んでゐるいのちを育て、育んでいくことであり、また、つひには、そのいのちとひとつになつていく、内なる見えない農作業なのだと思ひながらやつてゐると、喜びが溢れてくるのです。
 
うだうだと悩んだり考へたりしてゐる暇があるなら、稽古をする。
 
さうして手足を動かしながら何かに勤しむことができるのは、仕合はせなことです。


posted by koji at 09:02 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。