写真は、三輪山の麓の山の辺のみち。
『われらが萬葉集』出演者の想ひの最後に、わたくしの拙文を掲載します。
【われらが萬葉集 國語藝術の源 諏訪耕志】
皆さんは、萬葉集の歌をどんな風に口ずさみますか?
わたしたち日本人は古來、ことばを大切に扱ふ民族でした。ことばの使ひ方、運用に纖細な意識を持つ民族でした。
それはなぜでせうか。ことばとはそこに神が通ふものであると云ふ信仰が、我が國にはあつたからです。一年の始まりに、神に米の豐作を祈るべく、祝詞(のりと)と云ふことばを發し、一年の終はりには、その年の豐作を感謝すべく、再び祝詞を唱へる。そのときの、ことばの神聖さを決して蔑ろにしてはいけないと云ふ感覺が、わたしたち日本民族には、からだの奧底まで滲みとおつてゐるのです。なにせ、米の出來不出來は死活問題だからです。神への信仰は、年から年への、季節から季節への暮らしの營みと全くひとつでした。そして、そのふたつを、祝詞と云ふことばの藝術が繋ぎ合はせてゐました。
神との応答を荷う、そのやうなことばの藝術は、眞實と創造力とを孕んでゐて、さう云ふことばの働きを、本來、言靈(ことだま)と云ひました。その言靈と云ふものを信じ、その善きことばの力・日本語の力が日本と云ふ國の精神を守ることを祈念・熱祷した人々がをりました。それは、『萬葉集』に於る最大の藝術家・柿本人麻呂であり、その彼の精神を繼承し、この『萬葉集』を編纂した大伴家持であり、更には、ここに登場する多くの歌人たちです。國の危機に面したとき、武の力を尊さと重要性を充分に認識しつつ、敢へて、文の力、ことばの力で、國の精神を守らうとした人たちでした。
皆さんは、萬葉集の歌をどんな風に口ずさみますか?
その文字の後ろには、わたしたちの祖先の方々による、神への遙かな念い、激しい祈り、己が民族の運命への深い悲しみ、晴れやかな歡びが、潛んでゐます。それら樣々な念いを貫くひとつの精神を感じるなら、皆さんも萬葉集の歌を全身全靈をもつて謠ひ上げざるをえないでせう。
わたしは、この舞臺のやうに萬葉の歌が謠はれるのを現代に於て他で聽いたことがありません。おそらく初めての試みです。何が正しく、何がふさはしいのか、決まつた答へはありません。しかし、わたしたちが、殘されてゐる萬葉集から聽き取つた響きは、このやうに今も鳴り響いてゐるのです。
國語藝術の源である『萬葉集』の歌を、皆さんとともに味はひ、謠ひ上げたいと思ひます。日本と云ふ國のおおもとにあることばの精神・言靈の働きを、共に壽ぎ、祝ひ、讃へ合ひませう。