先日、小学六年生の娘の授業参観に行く。「日本の古典(俳句・短歌)を味わおう」というテーマだつた。この学校は、とりわけ、國語に力を入れて下さつてゐる。そして、初めて、わたしは國語の授業参観に出ることができたのだ。
受け持つて下さつてゐる先生は、とても暖かなお人柄で、娘もとても慕つてゐる。参観の時の授業も、先生と子どもたちとの間に親しみと活発さが漲つてゐて、いいクラスだなあと思ふ。
しかし、その國語の授業を見させてもらひ、いろいろなことを考へさせられた。
教科書に載つてゐる詩歌の何人かの作者の顔写真を黒板に貼り出し、この歌の作者は誰かを子どもたちに当てさせる授業だつた。
そこで唱へられる詩歌も、一回だけ、ぼそぼそと発声されるだけで、その詩歌やことばの味わひなど全く感じられなかつた。
つまり、詩歌といふことばの芸術作品を先生はどう扱つていいのか分からないのだらう。作者の顔を当てさせたり、その詩歌の中にどんな言葉遊びが潜まされてゐるかを子どもに当てさせるのが、子どもたちの気を引く、その時の最上の手段だと思はれたのだらう。
繰り返し言ふが、先生はとても暖かいお人柄で、ユーモアに満ちてをられ、わたしも学校中で最も好きな先生である。娘もわたしも、最後の六年生になつて、この先生に担任を持つてもらへたことを本当に嬉しく思つてゐる。
先生を責めるやうなことは決してしたくない。
しかし、である。
我が國の文化を支へる、最も大切なものである國語教育が、小学六年生の時点でかういふものであることに、あるショックを受けてしまつたのだ。
少し前になるが、水村美苗氏によつて書かれた『日本語が亡びるとき』といふ本が随分話題になつた。
わたしもその本には魅了され、幾度も讀み返した。
子どもたちへの國語教育の質いかんによつて、わたしたちが営むこの社会を活かしもすれば殺しもすることを多くの人が認識してゐないこと。
國語教育の腐敗によつて、必ず一國の文明は亡びゆくこと。
そのことは、多くの他國の歴史が証明してくれてゐること。
その時代の典型的な精神は必ずその時代に書かれた文学作品に現れるが、現代文学の実情を「『荒れ果てた』などという詩的な形容はまったくふさわしくない、遊園地のようにすべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった」と帰國子女である彼女は痛覚する。
そんな「ひたすら幼稚」である、現代のわたしたちのことばの運用のあり方から、どのやうにすれば抜け出すことができるのか。
未来にとつて最も具体的な、ひとつの処方箋を彼女は挙げてゐる。
「日本の國語教育はまずは日本近代文學を讀み継がせるのに主眼を置くべきである」
なぜ、さうなのか、この本はとても説得的な論を展開してゐる。詳しくは、ぜひ、この本をお讀みいただきたい。
また、水村氏のこの論を、より明確に、より奥深く、批評してをられる小川榮太郎氏の『小林秀雄の後の二十一章』の中の「日本語といふ鬼と偉さうな男たち」も讀まれることを強くお勧めしたい。
國語教育の理想とは、〈讀まれるべき言葉〉を讀む國民を育てることである。
どの時代にも、引きつがれて〈讀まれるべき言葉〉があり、それを讀みつぐのがその国ならではの文化であり、その國のいのちなのである。
子どもたちへの國語教育。わたしたち自身の國語教育。
これはわたしたちの國づくりだと念つてゐる。
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