
『保田輿重郎と萬葉集』(小川榮太郎著)を讀んで
(月刊『VOICE』平成二十八年十・十一月号掲載)
小川榮太郎氏によるこの論説を讀み、保田與重郎による『萬葉集の精神』を讀み、大伴家持による『萬葉集』をひもとき續ける。そんな毎日が續いてゐる。
そんな毎日がわたしに何をもたらしてゐるか。それは、「覺悟」といふ精神の系譜である。その系譜を自分自身で踏んで歩くための力である。靜かだけれども、人のこころの奧底に確かに在る「こころざし」そのものの持つ力である。
新しく小川氏によつて書き表されたこの文章を熟讀する人がゐるならば、かそけきものかもしれぬが、この國にきつと傳來の精神の底流が途切れず保持される。わたしは、さう感じてゐる。
日本といふ國に於て、皇室の存在意義を搖るがすやうな危機は、これまでの長い歴史の中で幾度かあつた。それは同時に我が國の危機であつた。古き神ながらの道・古神道から離れゆく政治的・文化的情勢の怒涛のやうな流れに對する悲哀と慟哭を強く感覺した者が、まづもつて柿本人麻呂であり、大伴家持であり、幕末維新の志士たちであり、保田與重郎であり、そして、この論説を起こした小川榮太郎氏である。
その危機が最初に大きく現前した壬申の亂をどのやうに捉へ、どのやうなことばをもつて記述するか。それによつて、以後の一國のあり方が決められていく。地に堕ちた人のことば(言挙げ)だけでやりくりしようとするのか。神々との繋がりの中で響き來ることば(言霊)にみづからをさらしつつ語つてゆくのか。江戸時代の國學者たちは、古事記と萬葉集、とりわけこのふたつこそがことばの力に依つた古典であるとした。さう、ことばの力(言靈)こそが、人のこころを救ひ、國の歴史を定め、後の世の流れを左右するのだ。萬葉集は、そのことばが、イデオロギーに依るのではなく、民の心情・草莽のこころざしから記された我が國最高の古典なのである。
その國史への悲哀と慟哭が、壬申の亂の後に、大君に仕へる宮廷歌人であり草莽の民である柿本人麻呂によつて詠はれ、そのいくつもの長歌には、この國の精神を救ふ偉大なることばの力が見いだされる。人麻呂は、天智天皇・天武天皇、兩統の間での正邪を斷じて正統性を爭ふやうな言舉げを決してせず、内亂を描いても敵對や分離を示さず、あくまで「國の心の一つに凝り固まらうとする」尊皇によるこの國の根本義をもつて壬申の亂を描く。その人麻呂の詠歌によつて、日本の歴史は救はれ、皇室の純粹性は保たれたのだといふ、家持の直感、保田の深い見識を、小川氏は浮かび上がらせる。
そのやうな、國の精神を救つた、人麻呂の神ながらともいへるこころざしからのことば遣ひをそのままの精神で掬ひ上げ、萬葉集として記録したのが大伴家持である。しかし、藤原氏の政治的專横・暴虐によつて、自分たち大伴氏族の勢力だけでなく、大君を慕ひ、仕へ奉る勤皇の精神が政治の中樞から失墜し續けてゐる當時の運命的状況の中で、家持は既に人としての迷ひ、弱さ、絶望を充分に味はひ知つた人であつた。だからこそ、彼こそは當時の時流に抗して、明晰な意識をもつてその言靈に宿る精神を記録し、またみづからも詠つたのだつた。その行爲は、己れ以外のものからの壓力や命令によるものではなく、ひたすらに己が身の奧底から溢れ出てくる大君への眞情、草莽のこころざしからのものであつた。小川氏はその家持の「覺悟」を見事に描き出してゐる。「新しい政治・文化状況を認めない。が、政治陰謀には加擔しない。認めない事を、人麻呂以來の歌の傳統を繼ぐことで證立てる。‐ これが家持の覺悟だつたと見ていい。」
人の世を生き拔き、この世の榮華を勝ち誇るのではなく、政治的に必敗のこのやうな生き方を家持に選ばせたのは、いつたいどのやうな念ひだつたのか。それは、「かけまくも 畏き」「大君の思想」である。人麻呂の神の力に通われたやうなこころざしからの歌。それらを歴史の藻屑と消え去つていくことから掬ひ出し、更にその心境にみづからも重なるやうに己れの歌を詠ひ、そして四千五百首以上の優れたやまとことばによる歌を集めて萬葉集を編むことで、家持は人麻呂の大君への念ひを繼ぐ。その繼承によつて、家持はその念ひを「大君の思想」へと練り上げたのだ。
現實世界からの逃げではなく、ことばの精神に生きることこそが國を究極には救ふのだといふ、その家持の「見識」「覺悟」こそが、萬葉集といふ我が國最高の古典の源泉、眞髄であり、その覺悟に至るまでの葛藤・勘案が萬葉集を貫くリアリティーだつた。家持は、美學の洗煉の中で古今集以後失はれてしまつたこころざしを述べること、述志こそが和歌の眞髄であることを意識して實行した、一人の人だつたのである。
少年時代からその萬葉集に親しみ、江戸時代の土佐の國學者・鹿持雅澄の『萬葉集古義』にその「覚悟の系譜」を學び續けた保田與重郎は、大東亞戰爭勃發直前に『萬葉集の精神』といふ著述のために筆を起こした。異常な緊張に漲つてゐた當時、彼は己れの「覺悟」をその家持の「覺悟」に重ねた。 そしてその態度は、戰後も一貫するのである。
彼は、當時のアララギ派を中心とした近代歌論を明確に否定し、一首一首に表れる美、ひとりひとりの歌人に表れる美學よりも、それらを土臺で支へる「國の心の一つに凝り固まらうとする」こころざしをこそ本質だとする、萬葉集に對するもつとも古く、もつとも新しい見立てを行ふ。
そして、戰前、戰中、ヒステリツクに叫ばれる國策としての萬葉利用を根柢から侮蔑する。その叫びは、右往左往する國際情勢からの場當たり的な論から生まれたものであり、なんら國のおほもとに立ち返つての搖るがぬこころざしからのものではなかつたからである。
當時のアメリカと日本の、物量に於る壓倒的な彼我の差は、當然保田にも認識されてをり、その上で絶叫される戰意昂揚などに彼は全く同調することはできない。
ここで、小川氏は、文業に對する保田の身を賭してのあり方を鮮やかにかう書き記してゐる。
「戰が始まつたことをまづ神意と見た上で、日本の祷りを行くしかない、これは狂信ではなく、あの時代に一文學者の立ち得る唯一の合理だつたとさへ言へるであらう。その意味で、これは寧ろ、時局を批判しながら、大東亞戰爭の精神を救ふ立場だといふべきではないか。」この立場に徹することが、保田の第一の「覺悟」であつた。
さういふ保田の姿勢を理解したものは、出征していつた多くの多くの若者たちだつた。そして年老いたインテリゲンチャほど、その草莽のこころざしを理解できなかつた。さういふ状況は、彼自身出征し、歸國した戰後も變はりなく、戰前親交を持つてゐた龜井勝一郎にさへ、保田は曲解されてゐる。さうして彼は戰後、アメリカのGHQによる公職追放だけでなく、文壇からの追放といふ四面楚歌のやうな立場に追ひ込まれる。
ここで、二つ目の保田の挺身・「覺悟」が小川氏によつて記されてゐる。それは、友であつた龜井のことばに端的に表されてゐるやうな「ものいひ」に對する戰後のことばである。その「ものいひ」とは、保田の文業が多くの若者を無殘にも戰爭に驅り立てたのではないか、そのことに對する反省は如何、といふものだつた。GHQによる占領檢閲下の昭和二十四年、戰前の日本は全否定され、聯合軍の正義と日本軍國主義の惡は絶對的なテーゼだつた。その時に、保田は龜井勝一郎に答へる形で、「小生は戰爭に行つた日と同じ氣持で、海ゆかばを歌ひ、朝戸出の挨拶を殘して、死す」と書いた。「海ゆかば」とは、大伴家持によつて「大君の邊にこそ死なめ 顧みはせじ」と詠はれた長歌のことである。小川氏は書く。「戰後かういふことを明確に、それもここまで激しい言葉で堂々と言ひ放つた文學者は、川端康成や小林秀雄を含め、殘念ながら他に一人もゐないのである。」
論説文の最後に、この「覺悟」の系譜を小川氏は改めて家持から辿る。
壬申の亂後約八十年が経つた後でも、防人をはじめとする草莽の民たちによつて大君への純粹な念ひが詠われる。そして、その純粹を裏切るやうな藤原氏の陰謀の政治。その間に立つて、絶大な責任を感じた家持は歌をもつて「國の柱となり神と民との中間の柱になるものは」自分以外にないといふ自覺に達したのである。
昭和十年代に於いて保田與重郎は、この家持の自覺・覺悟を引き繼ぎ、我が國未曾有の危機である大東亞戰爭に面して、みづからも文人として、この神と民との間に立つ柱となる自覺を覺える。小川氏は書く。「保田は萬葉集を解いたのではなく、自らの言葉で同じ道を踏まうとしたのである。保田自身が現に經驗してゐた、日本の更に巨きな亡びの自覺が、それを彼に強ひたからだ。」
そして、この論説文の最後に、筆者小川榮太郎氏の「覺悟」が、韜晦のかたちに包まれて記されてゐる。「・・・眞の戰ひは全く終はらぬまま、『國の柱となり神と民との中間の柱となる』覺悟のない七十年が過ぎ、我々は亡びの過程を今も下降し續けてゐる。萬葉集は決して過去の詩歌集などではないといふやうな言葉が、一體今、誰に屆くのかを怪しみながら、ひとまづ、私は筆を擱く。」
文學者とは、ともすれば離叛していかうとする精神と物質を仲介する橋にならふとする人である。ことばをもつて、神と民との中間の柱になることを念じ、悲願し、志す人である。さういふこころざしを持つ人の系譜が、柿本人麻呂から大伴家持へ、そして幕末ごろの國學者たち、維新の志士たちへ、更に保田與重郎へと引き繼がれてゐることを小川氏は書き記した。そして、さらに小川氏自身が、この系譜の尖端に立つてゐることをも、わたしは改めて強く感じることである。
現實の世の混亂・危機から、人のこころを救ふのは、まづもつて、ことばである。人のこころを覺醒させ、非本質的なところから本質的なところに立ち返らせる、そんなことばなのである。小川氏によるこの『保田與重郎と萬葉集』といふ文章は、さういふことばを發し續ける覺悟を固めた人の系譜を記してゐる。


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