奈良県東吉野の丹生川上神社へ參拜に。
家族の役割として、
男性であるわたしは、
行く先を決め、その場所までみんなを連れて行く。
三人の女性は、
その場で杉の樹に触れながら樹木と語りあい、
社の靈気に包まれ、
社の前を流れる川の水で身を濯ぎ、遊ぶ。
ここの御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、
水一切を司る神様。
吉野宮滝ではなく、
この丹生川上の神域こそ吉野離宮であると、
考えた研究者、文人も多く、
萬葉集を讀んでいくにつれ、
わたしもその想いが深まっている。
この社から車で五分ほど東へ入っていった所に、
「ふるさと村」があって、
約百年前に建てられたという小学校校舎を中心に、
宿泊や食事や温泉のためのセンターがある。
夏の川遊びに大勢の人が來ていて、
愉しい「俗」の空閧ェそこにしっかりと営まれている。
一方、少ない人しか來ていないようだったが、
神の社や、お宮址といった「聖」なる空閧焉A
強固な意志で保持されている。
ひとつの場所が栄えてゆくには、
そのような「俗と聖」とが両立していること、
そして、現代においては、とりわけ、
「聖」のあり方を大事に育む意識を、
子どもたちに傳えていくことが大切だと痛感している。
「俗と聖」を體(からだ)いっぱいに感じる、
毎年、我が家の夏の恒例行事。
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