2016年06月25日
眼光紙背に徹す、ということ
小林秀雄の『考へるヒント』や『本居宣長』を讀んでいて、
とりわけ魅力的なのは、
江戸時代の學者たちについて縷々述べているところだ。
ものを學ぶには、
本ばかり讀んで、机上の知識を弄ぶのではなく、
外に出て、人と世に交われ、人と世に働きかけよ。
そう言う人は幾らでもいる。
しかし、江戸時代中後期に現れた學者たちは、
市井で生きていくことの中に眞實を見いだすこと、
俗中に眞を見いだすことの価値の深さを知っていた。
だから、
そういう當たり前のことはわざわざ口に出して言わなかった。
寧ろ、獨りになること、
そして、その「獨り」を強く確かに支え、励ますものが、
本であること。
師と古き友を、本に求める。
本というもの、とりわけ、古典というものほど、
信を寄せるに値するものはないと迄、
こころに思い決め、その自恃を持って、
みずからを學者として生きようとした人たち。
そして、古典という書の眞意は、
獨りきりで、幾度も幾度も讀み重ねることから、
だんだんと讀む人のこころの奥に、啓けて來る。
そのときの工夫と力量を、
彼らは心法とか心術と云うた。
一度きりの讀書による知的理解と違って、
精讀する人各自のこころの奥に映じて來る像は、
その人の體得物として、
暮らしを根柢から支える働きを密かにする。
數多ある注釋書を捨てて、
寝ころびながら、歩きながら、
體で驗つすがめつ、
常に手許から離さず、
そういう意氣に応えてくれるものが、
古典というものだろう。
そうしているうちに、
學び手のこころの奥深くで眞實は熟し、
やがて表の意識に浮かび上がってくる。
そのとき浮かび上がってくるものは、
學説などというものではなく、
眞理を追い求めた古人の人格であり、
それは浮かび上がった後も、
依然多くの謎を湛えている筈だ。
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