
夏至を前にして、ことばの家に来られている生徒さんの多くの方が体調を崩されている。今日来られた方も、全員がそうだった。
しかし、帰られる頃には、みんな、お風呂上がりのような晴々とした笑顔になっておられることがとても多くて、今日もありがたいことにそうだった。(皆さん、そんな時間を共に創ってくださって、どうもありがとう!)
どうも、ことばには、そもそも、そんな人の生命力を呼び起こす力があるようだ。
活き活きとした呼吸を通してことばが発声されるとき、まるで空間自体が動くように感じられる。
そして、そのことばにふさわしい身振りに伴われることで、その空間に、肉体の眼には見えない色彩やフォルムや絵姿が瞬間瞬間に立ち顕れるように感じられ、肉体の耳には聞こえない調べが奏でられるのが感じられる。
また、時には、まるでデジャブのようになんらかの記憶の像のようなものが立ち顕れたりする。
そして、何より、声を発するその人ならではの精神のようなものが立ち顕れてくる。
そんな、ことばの力に触れると、人は甦るようだ。
甦る。それはまさしく黄泉から帰ることだろう。
黄泉とは、我が国の神話では、死んだ者がゆく国として描かれてある。
この死とは、きっと、肉体において間断なく進行しているあるプロセスのことでもあろうし、こころにおいては光が見えず、闇の中を彷徨い歩くようなプロセスのことでもあるだろう。
一年のうち、冬至の前には、最も外的な光が失われ、闇が極まるが、夏至の前には、内的な光が見失われ、こころの闇に直面することがとても激しくなるのではないかと感じている。
闇からの甦り(黄泉帰り)は、きっと、この夏至を境にして多くの人にリアルに感じられるだろう。
言語造形も、きっと、その甦りを支え、促す、ひとつの人間的な行為だ。