2016年06月07日

全身で感覚することの意味深さ


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やまとことばの響きは、
胸、こころ、ハートに波打つように感じる。 
 
漢字による音読みの響きは、
頭、知性、ヘッドに向かってやってくるように感じる。
 
また、
古い日本語による文章を全身で浴びるように聴いていると、
たとえ、意味はすぐには分からなくても、
ことばと息遣いの流れに身を浸すような感覚を味わうことがある。
 
その古い日本語を現代語訳したものを聴いていると、
なるほど意味は分かりやすくなるのだけれども、
ことばの響きの音楽性が途切れ、
いちいち説明されているようで、
くどく感じることがままある。

 
 
例えば、『和泉式部日記』の冒頭部分。
 
原文では、
 
夢よりもはかなき世の中を、
嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、
四月十余日(うづき じふよひ)にもなりぬれば、
木の下暗がりもてゆく。

 
それを現代語訳したもののひとつの例だが挙げてみると、
 
夢よりもはかない男女の仲を、
嘆き悲しんで日々を明かし暮らすうちに、
四月十日過ぎになったので、
(たくさん葉がついてきて)木の下がしだいに暗くなってゆく。

 
 
一行目の「夢よりもはかなき世の中を」という原文が、
「夢よりもはかない男女の仲を」という現代文に訳されるとき、
確かに正確な意味を理解するにはいいのだろうけれども、
それを耳で聴くとき、
「世の中を」ということばの響きのもつ、
なだらかで、含み豊かな調べが失われ、
「男女の仲」という、この文にはふさわしからぬ、
ごつごつとした、
即物的にも聞こえる響きをもたらしてしまうように感じる。
 
そして、このひと節まるごとが、
原文の簡潔さを失わせてしまい、
聴く人の想い描く力を損なってしまっているようにも感じる。
 
 
 
頭で意味を捉えようとすることから、
からだまるごとで響きと調べを味わうことへ。
 
意味をすぐさま捉えられないことの恐れを置いておき、
全身で感覚することの意味深さを、
あらためて学んでいくこと。
 
今日も、言語造形のクラスで、
そんなことを皆と分かち合ったのでした。


posted by koji at 21:41 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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