正岡子規という人が、
毛唐の大砲や軍艦をもって攻めてきても、
びくともしない日本文芸を作るのだ、
と、どこかに書いたそうです。
明治の人のことばですので、
いま、聞くと、
二重にも、三重にも、訳が分からず、藪から棒、奇妙奇天烈に感じられるでしょう。
これは、
人のこころの奥深くに育むべき精神は必ず土着のものでなければならない、
ということを言っているのだと思うのです。
自分の国の古典作品に出会っていくことは、
外国作品に出会っていくことよりも、
いまは縁遠いことのように感じられます。
しかし、自国の古典や物語はほとんど知らず、
他国の作品には親しんでいる、
そのありようは、どう考えても、おかしくはないでしょうか。
自分の国の文物に対する縁遠さは克服していっていいのではないか。
言語造形をすること、言語造形を聴くことをもって、
我が国の昔話や古典作品に向かい合うひとときを重ねていくことができます。
そしてだんだんと、
この国の上に暮らしてきた先つ祖(さきつおや)たちの、
こころのありように親しみを感じてきます。
そんな文学への参入から、
だんだんと、自国の歴史というものを、情でもって受け止めてゆく。
歴史というものを、
闘いと殺戮の事件報告ではなく、
人が大切な何かを、誰かを、愛そうとしたことを伝える、
精神からの叙事文学なのだと捉える練習を重ねていくのです。
先つ祖(さきつおや)たちが歩んできた文化の営みを尊び、愛するほどに、
きっと、未来の人たち、未来の子どもたちの暮らしに対する責任の情も、
おのずから高まってきます。
それが、過去の人たちと未来の人たちを繋ぐ、
わたしたち現在に生きる者の、
国に対する愛なのではないかと、個人的に捉えています。
愛する気持ちだけが、栄えさせる。
己れを愛するものだけが、己れを栄えさせるように、
家族を愛する者が、家族を栄えさせるように、
国を愛する者が多ければ多いほど、
その国は栄えてゆくでしょう。
ひとつの国が栄えるとは、
覇権を誇ることではなく、
世界まるごとが栄えることに繋がってゆくことでしょう。
ひとつの国が栄えるとは、
静かに己れの分を守り、
己れを愛するほどに他を尊び、
静かに他と和することができる、
そんな精神のありようが時と共に益々顕れてゆく、
ということです。
過去、二千年以上にわたって、
日本の美しさは、米作りを中心にした暮らしの中に息づいていました。
米作りの暮らしから折々の祭りが営まれ、
ことばが神と人とを繋ぐ美しさを備えていました。
そのことばの美しさ、暮らしの美しさがこれからも守られ、育まれるほどに、
他国の人から喜びと尊崇の念いとが寄せられるでしょう。
ケニア人も、アメリカ人も、フランス人も、
ロシア人も、中国人も、すべての外国人たちにとって、
日本人おのおのが己れのこころの奥底に流れている美を自覚し、
日本で暮らすということが独自の美しさを取り戻すほどに、
そのことは尊い喜びになるでしょう。
美しさは儚いものだと言いますが、あえて、云うなら、
びくともしない美しさ。
それこそが土着の精神です。
それは、ひとりひとりの人が
ちょっとしたきっかけを得て、
暮らしの中で実践し、発展させてゆくことのできる、
文化創造です。
【断想の最新記事】