

終展間近の兵庫県立美術館『富岡鉄斎展』を観る。
ここのところ熱中してずっと読んでいる島崎藤村の『夜明け前』。
その作品の主人公・青山半蔵(藤村の実父・島崎正樹がモデル 1831年生)と、同時代を生きたであろうこの富岡鉄斎(1837年生)の画業とが、どこか重なるのではないか、そんな想いで足を運んだ。
『夜明け前』は、日本という国のおおもとを問うべく、近世国学に殉じた半蔵の生涯を描いた作品である。
鉄斎も若くして奔走した明治維新のあとに堺の大鳥神社の宮司を務めていた。そのころの写真が展覧会の最初に掲げられてあり、まず、じっと見入ってしまった。

鉄斎は自身を画描きではなく、文人・学者であると思い、公言もしていたそうだが、その彼が八十九年の生涯の最後まで描いて描いて描こうとしたものを観た。
しかし、切磋琢磨に貫かれたその長年月の業を、二、三時間で観ようとは浅はかである。小林秀雄でさえ、一度、四日間朝から夜までぶっとおしで鉄斎を観たという。
そんな自分にも感じられるものが多いにあった。
水墨画を描くときにおける基本の六法の一つ目に、「気韻生動」というありかたが挙げられているそうなのだが、その気韻が今も圧倒するように活き活きと動き、初めて鉄斎の画の前に立つ自分のまるごとを掻きまわし、動かし、世の奥へと、陶然とさせる透明さへと連れてゆこうとする。
山水というものは、生きて動いているのだ。
日本という国のおおもと、それは我が国の神話に語られているとおりである。
いまも、国生みはなされ続けていて、神々は生きて働いておられる。
そしてわたしたちの生き方の奥底には、いまだ、生きて働いている自然との共生感、親しみ、畏怖の念いが息づいていはしないだろうか。
そのことを鉄斎の画は、画讃とひとつになって教えてくれようとしている。
その神話を、現代においても、真摯に、密やかに、自分の生活と人生の根底に見いだすことは、あなたにとってどういう意味があるのか。
読了前ではあるが、『夜明け前』という、藤村の問いも、そこを突いてきているように思われる。

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