2016年04月08日
ことばと子どもの育ち(5) 〜国語教育としての言語造形〜
これからの国語教育を考えるなら、
手軽な話しことばの習得や、
おざなりな書きことばの練習に子どもたちを向かわせるのではなく、
自分自身の考えていること、感じていること、欲していることを、
明確に、丁寧に、活き活きと、
ことばにして話すことのできる力、
文章にして書くことのできる力を、
養わせてあげることに向かうべきだと思うのです。
昔から我が国の人は、とりわけ、美しいものを美しいと、
簡潔に、かつ、委細を尽くして、
ことばにする力に秀でていたように思われますが、
善きものを善きものと、
美しいものを美しいものと、
まことなるものをまことなるものと、
ことばにする、そんな力を養うことです。
国語のその力は、おのずから、聴く人、読む人のこころをはっとさせるような、
ひいては、日本の精神文化を啓くような言辞の道へと、文章の道へと、
若い人たちを導いていくでしょう。
文章を書くためのそのような力は、
口からいずることばに、
口からいずることばは、
やがて文を綴りゆく力に、
きっと、深さをもたらしていき、
互いにその深みで作用しあうことでしょう。
話しことばは、
練られ、研がれ、磨かれた、書きことばに準じておのずからその質を深め、
書きことばは、
活き活きとした話しことばに準じておのずと生命力を湛えるようになりゆくでしょう。
そして、国語教育にさらに言語造形をすることを注ぎ込んでいくことが、
これからの教育になくてはならないものだとわたしは思っています。
前もって詩人たち、文人たちによって書き記されたことばを、
言語造形をもって発声する、その行為はいったい何を意味するのでしょうか。
話すことのうちにも、
書くことのうちにも、
リズムのようなものが、
メロディーのようなものが、
ハーモニーのようなものが、
時に晴れやかに、時に密やかに、通いうる。
さらには、色どりのようなもの、かたちあるもの、動きあるものも、孕みうる。
言語の運用において、
そのような芸術的感覚をもたらすこと。
それが言語造形をすることの意味なのです。
そうして話されたことば、語られた文章は、
知性によって捉えられるに尽きずに、
音楽のように、色彩のように、彫塑のように、
全身で聴き手に感覚される。
詩人や文人は頭でものを書いているのではなく、
全身で書いています。
言語造形をもって、口から放たれることばは、
そのことばを書いたときの書き手の考えや思いだけでなく、
息遣い、肉体の動かし方、気質の働きまでをも、活き活きと甦らせる。
そして、ことばの精神、言霊というものが、リアルなものとして、
人のこころとからだを爽やかに甦らせる働きをすることを実感する。
言語造形を通して、
書かれたことばが、活き活きとした話しことばとして甦り、
やがて、その感覚から、自分の書くことばにも生命が通いだす。
そんな国語教育。
子どもたちがそんな言語生活を営んでいくために、
わたしたち大人自身がまずは言語造形を知ることです。
言語造形をやってみることです。
ことばのことばたるところを実感することです。
そして、こどもたちの前でやって見せること、やって聴かせることです。
ここ数年、わたしも、
『古事記』や『平家物語』、能曲、
そして樋口一葉などの作品を舞台化してきたのですが、
現代語訳することなく、
原文のまま、
古語を古語のまま、
言語造形をもって響かせることで、
現代を生きているわたしたちのこころにも充分に届くのだということを、
確信するに至りました。
昔のことばだからといって無闇に避けずに、
感覚を通してそのような芸術的なことばを享受していく機会を、
どんどん与えていくことで、
子どもたちは、わたしたち大人よりも遥かに柔軟に全身で感覚できます。
これは、保田與重郎が『近代の終焉』という本の中で、
昭和15年に述べていることですが、
手軽に日常の用を足し、お互いの生活に簡便なことばだけを、
子どもたちに供するだけなら、
わたしたちの国語を運用していく力はたちまちのうちに衰えていくでしょう。
また、
わたしたちの祖先の方々が守り育ててきた日本の精神文化は、
日本のことばを知る労力を費やしてまで近寄るに値しないので、
出来る限り学ぶ者の負担を軽減してやろうというだけなら、
いっそうこの国はアメリカやヨーロッパ諸国の植民地となっていくのでしょう。
70年、80年前の話しではなく、
いまの、そして、これからの話しだと思うのです。
古典を古典として敬うことを学ぶ。
その学びによって、子どもたちはやがて自分たちが住んでいる国が、
一貫した国史をもっていることを実感していきます。
そうして、彼らもやがて、後の代の人たちに誇りをもって、
我が国ならではの精神を伝えていく。
それはきっと他の国々の歴史をも敬い理解していくことへと繋がっていくでしょう。
いつの日か、己れの文章を言語造形してもらうことを希う、
そんな詩人・文人が現れるでしょう。
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