2016年02月23日
中将ゆみこさん「言葉とわたし」
先日、『安達原』に出演された中将ゆみこさんが、
「言葉とわたし」と題して、
言語造形と中将さんとの内的な関わりを綴られた文章をご紹介します。
(雑誌「めたもるふぉーぜ」掲載のものを中将さんの承諾を得て転載しています)
日本人が、日本語を愛し、日本語を育てていくことの尊さを、
未来の人である若い人たちに手渡していきたい。
そんな深い願いを抱いておられること。
中将さんに接しているとき、いつも強く感じられることです。
「言葉とわたし」
芸術行為における道具のお話を、鹿喰容子さんから受け継ぎます。粘土が造形教育に携わっておられる鹿喰さんの大切な道具であるように、確かに言葉は言語造形に取り組むわたしの大切な道具と言えます。いえ、道具であるに留まらず、畏敬の対象でもあります。
わたしは、お話を読むのが大好きな子どもでした。図書館の本を片っ端から読みふけっておりましたが、ルビコン河を渡った頃、ある本の中でひとつの言葉に出会います。
「ひとは命の言葉に出会うために生きている。」命の言葉!命の言葉とは一体何なのか…。それは、聖書にある「はじめに言葉ありき。」の“言葉”に近い響きがして、また日常の遣り取りの言葉とはどうも違うものとして、子ども心に鮮烈な印象を残したのでした。
長じてわたしは国語の教師になり、三児の育児を経て、またある学校の国語科アドバイザーに就任しましたが、二〇〇三年、諏訪耕志先生の言語造形に出会ってご指導を仰ぐことになります。そしてわたしは言語造形を学ぶ中で、実は自分が学んでいることは“命の言葉”へ続く小径を歩んでいることなのだと気づいたのです。その歩みはじりじりするほどに遅々としたもので、しかも対象は虹のように、追いかけても追いかけても近づけないものに感じられるのですが。
言葉の本質のなかに沈潜すると、言葉が生み出す生命がいかに創造的かを感じ取ることができます。言葉の内的な音の意味が感じられます。しかし言葉は論理的理解にではなく、芸術的な創作にのみ、みずからを開きます。論理は言語の骸骨です。言語の呼吸と脈動は、言語を形成する精霊と接することによって感じられるものです。
人が言葉を話すという行為は、本来は言語の精神の内的な創造の体験であるとシュタイナーは教えてくれています。内的に耳を澄ませて言語の精霊を迎えようとすれば、私たちの存在全体を通して創造される言葉の一音一音は、目には見えない色や拡がりを持ち、確かな息使いとリズムに導かれます。
このとき言語の精霊・言葉の精神といった存在から人間が授かった言葉は、語るという芸術行為を通して、確かに生き生きとしたものを空間に解き放ってくれます。つまり、言語造形という営みは、“命の言葉”と出会い、それを自らを通して再創造していくことだとわたしは確信するのです。
これまで、学校でサークルで公演でと、老若男女さまざまな方に語りを聞いていただく機会に恵まれました。お話が終わった瞬間の静寂の時は、まさに至福の時間です。語り手も聞き手も、お話の世界に浸った後の何とも言えない心の躍動がありながら、ただ静かに空間を共有しているとき、その場に響いているのは、音なき“命の言葉”なのだと思います。
子どもたちは、お話を通して、“命の言葉”に育まれます。その営みは実は人類が綿々と繋いできたものであることに思いを馳せると、数多の祖先の愛や願いが語りを後押ししてくれるように感じます。そしてわたしもまた、謙虚に真摯にこの営みを継承したいと思います。
現代においては、言葉とは論理思考の道具であり、コミュニケーションのツールであるといった認識が一般化していますが、大いなるものへと繋がる芸術の神聖な道具としての認識が取り戻されることを願ってやみません。
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