
永い間、昔の日本人は、
自分たちが何を信じ、何を敬い、何を尊んで生きているかを、ことばにはしなかった。
あまりにも当たり前のこととして自分たちの信仰心のありようを言挙げしなかった。
それは、あえて、しなかったのだ。
人は、視えているものを、あえて、ことばにしようとはしない。
理屈で述べようとはしない。
行為と感覚で応じ、応えるだけだ。
昔の日本人たちは、何を視ていたのか。
柳田は、それを「何か普通の宗教の定義以上に、更に余分のもの」と言っている。
その余分のものとは、
「天然又は霊界に対する、信仰といふよりも寧ろ観念と名づくべきもの」と言っている。
その観念とは、きっと、
精神というものの、あるがままの生きた絵姿と言ってもいいのではないか。
わたしたち日本人は、
その精神のリアリティーを失わずに保ち続けていた時間が、
西洋の人に比べて随分と長かったのではないだろうか。
そのように、神さまを親しく迎え、リアルな精神的絵姿(ヴィジョン)とともに、
喜びと感謝と畏れをもって、
その年にとれた米や酒を、神さまと共にいただく行為が、我が国の「祭」である。
祭において、神さまと共に、喜び、食べ、飲み、歌い、舞う。
そこにいたる備えとして、ひとりひとりが身を、こころを、浄める。
その浄めがあってこそ、その神人同食が聖なるものになり、
祭そのものが、聖なる消費となって、
わたしたちの生活を単なる物質の営みに堕することから救い出してくれていたのだろう。
昭和16年夏、大学で理工農医を学びに地方から東京に出てきた学生たちに、
諸君たちが後にしてきた故郷の暮らしの中にこそ、
文字だけを頼りにしていては学ぼうとしても学びえない「真実といふもの」があること、
その「人生の事実」は、諸君が学ぼうとしている「学問」よりも遥かに大事な事なんだ、
そう柳田は、アメリカとの戦争を目前にして、
静かに、しかし、切実に、語り伝えようとしている。
21世紀を生きているわたしたちが人間らしく健やかに生きていくために、
この本を読むことで、昔の我が国の固有の信仰のあり方を学び知ること。
そして、さらに、わたしたちの暮らしのなかに、新しい意識をもって、
新しい「祭」を創り出していくこと。
そのことを追い求めていきたいと、考えている。
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