もっともらしいこと、正しいことを言ったとしても、
その言っている自分のこころの奥の奥に、
「俺のことをもっと認めてほしい」
「わたしのことをもっと愛してほしい」
という声が響いていて、
その声に本人が無自覚なら、
そのとき、そのことばは、
とても押しつけがましく他人に響いてしまう。
何が正しくて、何が間違っているか、ではなく、
自分自身のこころの真ん中の、
さらにその奥から聴こえてくる声に耳を傾けながら、
そのこころの奥底からの、
子どものような求めを自分自身で慈しみながら、生きる。
その声がまるで幼い子どものような、
「もっと自分のことを認めてほしい!」であったとするなら、
まずは、その求めがあることを自分で認める。
いい大人になっても、いまだに、
そんなこころの奥底からの求めに喘いでいることを受け止める。
そして、その求めを、
他人によってではなく、
自分自身によって満たしてあげる練習をする。
他の誰かによってではなく、
わたしが、わたしを、認める練習を毎日する。
そんな、自分自身の内なる子どものような叫び声を聴き取る毎日。
他人のこころではなく、
自分自身のこころを見て、聴いて、慈しんでいく練習。
その練習を続けていると、
子どものような求めがやがて癒されていき、
他者との関係も柔らかく、穏やかなものになっていき、
さらに、真実、本当の、こころの奥底からの求め、意欲、希望、夢が、
立ち上がってくる。
他人がどう思うだろうか、とか、
こういう場合は、どう考え、どう振る舞うべきだろうか、とか、
普通〜すべきでしょう、とか、
そのような余所からの声ではなく、
自分自身のこころの奥底からの声。
ひとりひとりの、そのこころの奥底からの声、
その人の、その人たるところからの声、
その声そのものが、イエス・キリストであることが、
新約聖書に描かれていて、
たとえば、マタイ福音書八章二十一から二十二にこうある。
また弟子の一人いふ、
『主よ、先づ、往きて、我が父を葬ることを許したまへ』
イエス言ひたまふ
『我に従へ、死にたる者にその死にたる者を葬らせよ』
もし、その弟子のこころの奥底からの声が、
「父のもとへ帰りたい、父を葬る時、その場に何があっても駆けつけたい」
というものであったならば、
イエスは、
「父を葬りに、いますぐに帰りなさい」と言っただろうと思う。
しかし、
「父を葬る、そのときには、世間の常識から言っても帰らねばなるまい」
とその弟子が思っていることをイエスはすぐに見抜き、
「主とともに行きたい」という彼のこころの奥底からの真実の声を、
彼本人に代わって代弁した。
そのとき、イエスのことばに従うことは、
その弟子にとって、
押しつけがましさや、不自由を強いられるものではなく、
こころの迷いから吹っ切れた、
爽やかで晴れやかなものだったろう。
皆さん、今年も本当にありがとうございました。
来年、平成二十八年も、どうぞ、よろしくお願いいたします。
よきお年をお迎えください。
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