2015年12月31日

わたしの平成27年(2015年)のこころの練習   

 
もっともらしいこと、正しいことを言ったとしても、
その言っている自分のこころの奥の奥に、
「俺のことをもっと認めてほしい」
「わたしのことをもっと愛してほしい」
という声が響いていて、
その声に本人が無自覚なら、
そのとき、そのことばは、
とても押しつけがましく他人に響いてしまう。 
 
何が正しくて、何が間違っているか、ではなく、
自分自身のこころの真ん中の、
さらにその奥から聴こえてくる声に耳を傾けながら、
そのこころの奥底からの、
子どものような求めを自分自身で慈しみながら、生きる。
 
その声がまるで幼い子どものような、
「もっと自分のことを認めてほしい!」であったとするなら、
まずは、その求めがあることを自分で認める。
いい大人になっても、いまだに、
そんなこころの奥底からの求めに喘いでいることを受け止める。
 
そして、その求めを、
他人によってではなく、
自分自身によって満たしてあげる練習をする。
 
他の誰かによってではなく、
わたしが、わたしを、認める練習を毎日する。
 
そんな、自分自身の内なる子どものような叫び声を聴き取る毎日。
 
他人のこころではなく、
自分自身のこころを見て、聴いて、慈しんでいく練習。
 
その練習を続けていると、
子どものような求めがやがて癒されていき、
他者との関係も柔らかく、穏やかなものになっていき、
さらに、真実、本当の、こころの奥底からの求め、意欲、希望、夢が、
立ち上がってくる。
 
他人がどう思うだろうか、とか、
こういう場合は、どう考え、どう振る舞うべきだろうか、とか、
普通〜すべきでしょう、とか、
そのような余所からの声ではなく、
自分自身のこころの奥底からの声。
 
ひとりひとりの、そのこころの奥底からの声、
その人の、その人たるところからの声、
その声そのものが、イエス・キリストであることが、
新約聖書に描かれていて、
たとえば、マタイ福音書八章二十一から二十二にこうある。
 
  また弟子の一人いふ、
  『主よ、先づ、往きて、我が父を葬ることを許したまへ』
  イエス言ひたまふ
  『我に従へ、死にたる者にその死にたる者を葬らせよ』

 
もし、その弟子のこころの奥底からの声が、
「父のもとへ帰りたい、父を葬る時、その場に何があっても駆けつけたい」
というものであったならば、
イエスは、
「父を葬りに、いますぐに帰りなさい」と言っただろうと思う。
 
しかし、
「父を葬る、そのときには、世間の常識から言っても帰らねばなるまい」
とその弟子が思っていることをイエスはすぐに見抜き、
「主とともに行きたい」という彼のこころの奥底からの真実の声を、
彼本人に代わって代弁した。
 
そのとき、イエスのことばに従うことは、
その弟子にとって、
押しつけがましさや、不自由を強いられるものではなく、
こころの迷いから吹っ切れた、
爽やかで晴れやかなものだったろう。
 
 
皆さん、今年も本当にありがとうございました。
来年、平成二十八年も、どうぞ、よろしくお願いいたします。
よきお年をお迎えください。


posted by koji at 13:55 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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