つい、先日、あまりの腹部の痛みに、救急車に乗せられて真夜中病院に担ぎ込まれた。
そのとき、30代ぐらいの年齢とおぼしき担当医二人が施してくれたことは、何度も機械のなかにわたしのからだを横たえさせ、検査ということを繰り返し、そして最後には、「これといった原因が分からないので、しばらく様子を見るしかないので、お引き取り下さい」ということばを4〜5メートル離れたところからコンピューターの画面を見ながら言うだけであった。
一方、20代に見える若い方お二人も傍にいて、その方々は、親しく声をかけてくれ、痛みにうめくわたしのからだを支えてくれたり、何よりも目の前のわたしという「人」に向き合い、寄り添って下さった。
それは、ありがたいことだった。
科学的な検査結果ではなく、目の前の生きている「人」を診てくれる本当のお医者さんに出逢えた感覚で、感謝でいっぱいになった。
「いま」というときには、二種類あるように感じている。
「表に表れている、いま」と「密(ひめ)やかな、いま」。
「表に表れている、いま」において、人はいつも先のことを考えつつ、その「いま」にいる。未来のことがこころにかかり、より安全でより有益な未来に進むために、「いま」というときを費やす。しかし、その「未来のためのいま」を生きるところからは、本質的には、何の安心も、何の救いも、見いだせない。
人は、「密やかな、いま」においてこそ、「人」としてこの世に生かされている喜びと安らかさを感じることができる。そのような「いま」においてこそ、人は人間的になれる。
そして「密やかな、いま」は「密やかな、来し方」と結びついているのを感じる。
あの若い方々は、なぜ、あのような人間的な優しいありかたができたのだろうか。
きっと、彼らはこれまでの人生の中で、両親に、または他の多くの誰かに、人間的に、優しく、相対(あいたい)してもらったことがあるに違いない。そして、人と人とが愛し合い、語り合い、助け合う、そんな姿を身をもって感じたことがあるに違いない。それは、その人の中に、まさしく「密やかな、来し方」として息づいているからこそ、「いま」の中にも「密やかさ」を見てとることができるのだろう。
しかし、そのような人間的な経験(密やかな、来し方)は、就職の際に出される面談表や、成績通知書や、学位証明書や学歴などには表れでない。
どの人にも、「密やかな、来し方」が、きっとある。
要(かなめ)は、己れの「密やかな、来し方」を、想い起こすことかもしれない。とにもかくにも、こうして「人」として生きてくることができたということ。誰かに育ててもらったからこそ、こうして「いま」があるということ。そして、その想い起こしを積極的にしていくうちに、人の起源というような宗教的な想い起こしにまで至ること。
そして、わたしたちは、それぞれ、「密やかな、いま」を見いだすことのできる通路が、いたるところにあることに気づく。
人として生きていくうちには、いろいろなことがあるが、「密やかな、いま」を共有できる人と出逢える喜びは、本当にかけがえのないものだ。
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