2015年10月20日

「てにをは」の秘儀


いま、日本語が話されるとき、
ややもすれば<語>の意味さえ伝わればいいのだとばかりに、
名詞、動詞、副詞、形容詞、形容動詞が駆使され羅列される。

でも、日本語をこころから使おうとする人は古来、
助詞や助動詞の使いようにこそ、こころを配ってきた。

なぜなら、「てにをは」にこそ、
「語のふり」(本居宣長)があるからだ。


  「てにをは」は、<語>ではなく「語のふり」を支えるものであり、
  「言霊のさだまり」はこれらの運動を常に貫流している・・・
                     (前田英樹『小林秀雄』)

  国語はこれ(てにをは)に乗じて、われわれの間を結び、
  『いきほひ』を得、『はたらき』を得て生きるのである、宣長はさう考へてゐた。
                     (小林秀雄『本居宣長』)


わたしも、言語造形をするとき、「てにをは」にこそ、内なる身振りを注ぎ込むことによって、ことばと文に命が吹き込まれ、文体が生きたものになることを実感する。

いま、取り組んでいる樋口一葉の『十三夜』における文体。
そこに、今ならではの命を吹き込んでゆくためには、
一葉が精魂込めて、まさに、そこに、記し置いた、「てにをは」に、
わたしがどれほど意識的になれるかということに懸っていると感じている。

朗読や語り、演劇の舞台を聴きに行って、
ストーリー(情報のつながり)が分かっただけでは、何にもならない。
それならば、黙って本を読んでいればいい。
同じ作品を、人の肉声で聴くのならば、
そこに、ストーリー展開を追うのではなく、
人の活き活きとしたこころの「いきほひ」「はたらき」をこそ感じたいのだ。
生きている「人」を感じたいのだ。

「てにをは」の響きのなかにこそ、人が、息づいていると感じる。




posted by koji at 19:59 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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