2015年10月18日

手足で聴く


   視るにおいて迎えられるところが覚えられるのは、
  それなりの自立性をもった頭のなりたちによってであり、
  聴くにおいて迎えられるところが覚えられるのは、
  節分かれしたからだのまるごとによってです。
  見るにおいて迎えられるところは、
  からだへと向かう流れをもち、
  聴くにおいて迎えられるところは、
  からだから上へと向かう流れをもちます。
         (『メディテーションをもってものにする人間学』)



シュタイナーが、ヴァルドルフ学校を初めてシュテュットガルトに開校して、
丁度一年後に教師たちに向けてした講義からです。

視えるもの。
それは、目という感覚器官を通して、
頭の部位から、首から下、胸へ、腹へ、下半身へと密やかにからだに働きかけていく。

一方、聴こえるもの。
それは、本質的には、節分れしている手足、下半身、腹、胸で覚えられ(受け取られ)、
上へと密やかに昇っていき、頭において想われる。
耳という感覚器官で聴かれるのは、むしろ、残響といえるものではないか。
空気の震えを集約的に受け取るのは確かに耳だろうけれども、本来的に音の音たるところを、わたしたちは胸、腹、さらには手足において受け取っている。

ことばや音楽というものは、手足によって聴かれている!

頭、耳で聞こうとするのではなく、
たとえからだはじっと静かに据えられていても、
ことばや音楽に密やかに手足を沿わせるようにして聴こうとするとき、
そのことばや音楽の「中味」「こころ」「精神」に触れることができる。
そのとき、人は、健やかに、聴く力を育んでいくことができる。

しかし、聴き手がそのように聴くことができるのも、
話し手が手足をもって語ろうとするときです。

話し手が頭のみで、口先のみで、ことばを話すとき、
そのことばは、聴き手の手足によっては受け取られず、頭のみに働きかけます。


昨日の百年長屋さんでの言語造形のワークショップで、参加者の方が、高校の教師をされていて、授業で井伏鱒二の『山椒魚』を30分かけて語ったと仰っていました。そして終わったあと、ひとりの女の子が「ありがとうございました」とわざわざ伝えに来てくれたそうです。

密やかに、手足を動かしたくなるような感覚を感じながら、語られることばに耳を傾ける機会。
そんな機会をもっと、もっと、創っていくことができたら、と思っています。



posted by koji at 09:55 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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