本来的に、人は、
幼児期には、ひたすら、欲します。
小学校期には、ひたすら、感じます。
中学校期から成人するまでは、ひたすら、考えます。
この普遍人間学では、主に小学校期の子どもたちに対する教育を扱っていますが、
その小学生の子どもたちの「感じる力」を育てていくために、
この第二講では、
両サイドの「欲する力」と「考える力」の育みのバランス・塩梅加減を、
まずは、見てとっていくのです。
まず、今回は、「考える力」についてです。
「考える力」は、「想う力」でもあります。
「想う」とは、読んで字の如く、考えつつ、心の前に相を据えること、像を描くことです。
小学生の子どもたちは、
初めて、文字を習ったり、計算を習ったりしながら、
この「想う力」「考える力」をだんだんと使っていくことになります。
ここからは、シュタイナーが語る事柄を、
目で見るが如く確かめることができなくとも、
まずは、こころに受け取ってみましょう。
わたし自身も、その受け取ったところと、
自分自身の人生の中で感じ、考えていることとを、
重ね合わせつつ、学んでいます。
この第二講で論じられることを先取りして言いますが、
授業によってどれほど活き活きとした像に満ちた「想い」が子どもに与えられるか、
そのことが、子どものからだとこころの健やかさを大きく左右します。
そもそも、像とは、ありありと、そこにあるものではなく、何かの像です。
鏡の像のように、何かが映っているのです。
そして、像は、生きたものではなく、生命をもたないもの、死んだものです。
そして、「想い」とは、常に、像です。
死んでいる像です。
死んでいる像だからこそ、
わたしたちは「想い」を様々につぎはぎしたり、自由に操ることができるのです。
自由に考えることができます。
もし、像が生きていたら、生き物だとしたら、
わたしたちは、その生き物の都合を見てとらなければなりません。
自分の勝手には扱えません。
想いは像であり、像は死んでいるがゆえに、わたしたちはそれに自由にアクセスできます。
では、「想い」「考え」とは、何の像なのでしょうか。
何が映っているのでしょうか。
この世に生まれる前の生です。
わたしたちが日々、時々刻々、抱く「想い」「考え」は、
わたしたちがこの世に生まれる前に精神存在として生きたことごとの像です。
生まれる前のことごとが、
いまも、リアルタイムで、時々刻々、想いとして、像として、こころに映っているのです。
ですから、ひとりひとり、想い方、考え方が違います。
その人がこの人生において、何を、どう、想い、考えるか、
それは、生まれる前の精神の生き方に随分左右されてもいます。
人が、想いつつ、考えつつ、学ぶものというのは、
すでに生まれる前に経験したところのもの、
すでに知っていることであり、
この世に生まれた時に、すべてを忘れ、
人は、学ぶことによって、それらを想い起こすのだ。
そう、プラトンも語っています。
すでに知っていることごとを想い起こす。
それが学びです。
「想い」が、いったんは、死んだ像となって、こころにやってこようとします。
しかし、小学生のころから、
その像が、抽象的な死んだものとしてではなく、
教師によって、より具象的な、活き活きとした絵姿を帯びたものとして与えられるならばどうでしょう。
日々、こころにやって来る想いが、
固定的なものとしてではなく、
生きた動きのあるもの、やがては自分自身の中で成長していくものとして、
その子自身の成長を促すものとなります。
「想い」が、こどものこころの中で、死んだものから甦るのです。
より活き活きとした像・絵姿として「想い」を語ること。
死んでいるものに息を吹き込むこと。
それによって、子どもの「想う力」を活き活きと育てること。
そのことがおのずと子どもの「感じる力」を育んでいきます。
それが、小学生の傍にいる教師や大人が各々工夫しながら練習していいことです。
●『普遍人間学を読む』クラス
日時:大阪市住吉区帝塚山 第二水曜 午後13時30分〜15時30分
和歌山県岩出市 Aクラス 第一水曜 午前10時〜12時
Bクラス 第二土曜 午後13時〜15時
参加費: 毎回3,000円 6回連続15,000円
※ご参加される前に本のご購入をお願いいたします。
次のサイトでご購入いただけます。
精巧堂印刷所 http://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
場所・お問い合わせ・お申込み:
帝塚山クラス ことばの家 http://www.kotobanoie.net/access.html
岩出クラス モモの会 http://momo-society.org/contact.html
講師: 諏訪耕志 http://www.kotobanoie.net/profile.html