すべての芸術には、その芸術を「芸術」たらしめる、秘められた法則があります。
すべての人の仕事には、その仕事を「仕事」たらしめる、秘められた法則があります。
その法則は、いっときに、一挙に、顕わにはなってくれず、
取り組みの連続の中で、ゆっくりと、だんだんに、みずからの秘密を打ち明けてくれるのです。
このたびの『夕鶴』再演に至るまでにも、
その作品に秘められている法則を改めて説き明かす日々でした。
その解き明かしは、本番の直前まで続きました。
なぜなら、精神は、稽古のたびごとに、新しく、こころとからだに降りてくるのですから。
むしろ、本番の最中でさえも、説き明かしは新しくやってきます。
ですから、昨日の演技、昨日の解釈に安住できないのです。
そんな仕事の進め方に俳優の皆は、柔軟に、積極的に、対応してくれました。
ふたりの子どもたちもです。
子どもたちは、子どもならではの演技などはまったくせず、
ただひたすら、ことばの精神から生まれるリズムとメロディーと身振りを通して、
舞台をまさに生ききりました。
大人たちもひとりひとり、各々、言語への取り組みがあったのですが、
ことばの音楽性、彫塑性を引き上げていくことで、
その都度、新しく表現を見いだし、
その都度、新鮮な感情に包まれていったのでした。
神奈川公演の後、
『夕鶴』について、言語造形という芸術について、ことばの力について、
いろいろなことをその後も考え続け、感じ続けて下さっている方がとても多いことに、
嬉しい驚きを感じています。
そのように、言語造形による舞台を機にして、
それを体験した各々の人が、各々の内面において、
作品について、ことばというものについて、自分自身について、人というものについて、神について、
考え、感じ続けていくことこそを、
わたしたちは希っていました。
芸術は、人が生きることの秘密、自然の秘密、世の秘密を解き明かすもの。
そう語ったのは、ゲーテでした。
芸術を生きることで(創造すること、感じ尽くしつつ鑑賞することで)、
人は、秘密を解き明かす新しい生きた知を求め、
ついには、こころの憧れを満たすべく、感謝という宗教の道を見いだします。
この五年間に、わたしたち「ことばの家」はこの『夕鶴』を計四回上演しました。
これからも、もっと、もっと、機会を見いだして再演を重ねていきたいと思っています。
神奈川での上演の後、You Tube で初めて、山本安英さんがつうを演じる『夕鶴』を観ました。
「持続は、刻々の誕生」ということばを胸に、
彼女は1949年の初演から三十五年間に計一千回、つうを演じました。
そのヴィデオで観た彼女のことばへの意識のあり方、舞台上での振る舞いの洗練、
それらはわたしにとって圧巻でした。
同時に、俳優ひとりひとりへの演出、浮かび上がってくる感情の色濃さ、奥行きなどは、
わたしたちの舞台と全く違っていたことも、新鮮な発見でした。
このたびの公演でわたしに改めて、この『夕鶴』が披いてくれたことは、
「とこしえに女であるもの、われらを引き寄せる」ということばが、
わたしの内に掻き立てる、なんとも一言では言い表しがたい感情でした。
五年前の初演の時にも、うっすらと予感はしていたのですが、
今回の上演後には、その感情の深みをより鮮明に、かつ、より謎めいて、感じたのでした。
そのことばは、ゲーテが『ファウスト・第二部』の最終部に書き記したものです。
なべて過ぎ行くものは
喩えに過ぎず。
地上にてはいたらざりしもの
ここにまったきものとして現われ
およそことばに絶したること
ここになりいたる。
とこしえに女であるもの
われらを彼方へと導きゆく。
「とこしえに女であるもの」、つう。
つうは、織る。
この地においては、身を削りながら、美を織る。
そして、つうは、わたしたちから去ってゆく。
しかし、わたしたちは、ゆくゆくは、つうと共に、とこしえに、生きていくことができる。
「とこしえに女であるもの」と共に生きていくことができる。
わたしたちは、みな、彼方の「とこしえに女であるものの世」「母たちの国」に帰りゆく。
それまでのプロセスにおいて、
人は様々な過ちを犯しつつも、その過ちからこそ、学んでゆく。
みずからのこころをゆっくりと浄めていく。
みずからのこころを「とこしえに女であるもの」になりかわらせていく。
そうして、みずからのこころの内側で、つうと与ひょうが、とこしえに、結ばれる。
このような、望みに裏打ちされた感情が、上演以来、わたしの胸にこんこんと湧き出ています。
「とこしえに女であるもの」に光を当てていき、かつ、それと繋がりつづけること。
それこそが、わたしの生きる上での最も大切なテーマであることに気づかされました。
来て下さった皆さん、お手伝いしてくれた友人たち、共演してくれた仲間たち、
どうもありがとうございました。
※ちなみに、大阪では、開場した途端に最前列から席が埋まっていったのですが、 神奈川では、最前列には誰も座らず、後ろの方の席から埋まっていくのでした。 関西と関東の違いをそこはかとなく感じました。
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