2015年04月17日

こころのこよみ(第2週) 〜こころの農作業〜 (再掲)


外なるすべての感官のなかで、

考えの力はみずからのあり方を見失う。

精神の世は見いだす、

再び、人が芽吹いてくるのを。

その萌しを、精神の世に、

しかし、そのこころの実りを、

人の内に、きっと、見いだす。




Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.



わたしは、目を、耳を、もっと働かせることができるはずだ。
全身全霊で、ものごとにもっと集中して向かい合うことができるはずだ。
身というものは、使えば使うほどに、活き活きと働くことができるようになってくる。

たとえば、自然に向かい合うときにも、
たとえば、音楽に耳を傾けるときにも、
この外なるすべての感官を通して意欲的に見ること、聴くことで、
まったく新たな経験がわたしの中で生まれる。

ときに、からだとこころを貫かれるような、
ときに、浮遊感を伴うような、
ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるような、
そのような感覚を明るい意識の中で生きることができる。

「外なるすべての感官の中で、考えの力はみずからのあり方を見失う」とは、
感覚を全身全霊で生きることができれば、
あれこれ、小賢しい考えを弄することなどできない状態を言うのではないか。

このようないのちの力に満ちたみずみずしい人のあり方。
それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だろう。

春になると、地球は息を天空に向かって吐き出す。
だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。

そして、地球の吐く息に合わせるかのように、
人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。

春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、
秋になるころには、
ある結実をきっと見いだすだろう。

春、天に昇る竜は、
秋、地に下り行く。

中国では、その竜を聖竜とするそうだ。

それは、きっと、この時代を導こうとしている精神ミヒャエルに貫かれた竜だろう。

秋から冬にかけてキリストと地球のためにたっぷりと仕事をしたミヒャエルは、
その力を再び蓄えるために、
春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、帰りゆく。
そしてまた、秋になると、ミヒャエルは力を蓄えて、
この地の煤払いに降りてきてくれるのだ。

わたしたちの意欲もミヒャエルの動きに沿うならば、
春に、下から萌え出てき、
感官を通して、ものを観て、聴いて、世の精神と結びつこうとする。

そして、秋には、上の精神からの力をもらいつつ再び降りてきて、
地に実りをもたらすべく、方向性の定まった活きた働きをすることができる。

だから、春には春で意識してやっておくことがあるし、
その実りをきっと秋には迎えることができる。

それは、こころの農作業のようなものだ。



外なるすべての感官のなかで、
考えの力はみずからのあり方を見失う。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きっと、見いだす。




posted by koji at 23:21 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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