2015年03月27日

こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜 (再掲)


「わたしは世のありありとした力を感じる」

そう、考えの明らかさが語る。

考えつつ、みずからの精神が長けゆく、

暗い世の夜の中で。

そして世の昼に近づきゆく、

内なる希みの光をもって。




Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.



今回の『こころのこよみ』について、以前書いたもののうちのひとつに、
2011年3月11日のことがあってすぐのものがある。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/191122893.html

地震と津波と原発事故から遠く離れた大阪に生きている自分にとってさえも、
この『こよみ』で言われていることが、あの当時、リアリティーをもって強く迫ってきた。

今年、この週の『こよみ』に、
精神のありようから、もう一度、向かい合う中で、
シュタイナーの1923年2月3日、4日のドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、
今週の『こよみ』が響き合ってきた。

春が近づいてくる中で感じる、ありありとした世の力。

たとえ、その力を感じることができても、
わたしが考えつつ、その感じを考えで捉えなければ、
わたしはそれをことばにして言い表すことはできない。

世のありありとした力も、
それに対して湧きあがってくる感じも、
<わたし>という人からすれば、
外側からやってくるもの。

それらに対して、人は、考えることによって、
初めて、内側から、<わたし>から、応えることができる。

そのようにして外側からのものと内側からのものが合わさって、
知るということ(認識)がなりたち、
ことばにして言い表すこともできる。

2011年の3月11日以来の月日の中で、
わたしたちの外側からあまりにもたくさんの世の力がありありと迫ってきた。

そんな外側からの力に対し、わたしたちの内側からの考える力が追いつかない、
そんな脅威と焦慮にわたしたちは見舞われた。

そして、たくさんの、たくさんの、ことばが行き交った。

わたしたちの考える力は、その都度その都度、
外の世からやってくる力に対して応じていかざるをえないが、
しかし、そのことに尽きてしまわざるをえないのだろうか。

対応していくにしても、
その考える力が、明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、
その対応は、とかくその場限りの、
外の世に振り回されっぱなしのものになりはしないだろうか。

その確かな一点、明らかな一点とは、
「わたしはある」ということを想い起こすこと、考えることであり、
また、その考えるを見るということ。

他の誰かがこう言っているから、こう考える、
ああ言っているから、ああ考えるのではなく、
他の誰でもないこの「わたしはある」という一点に立ち戻り、
その一点から「わたしが考える」という内からの力をもって、
外の出来事に向かっていくことができる。

それは、外の出来事に振り回されて、考えるのではなく、
内なる意欲の力をもって、
みずから考えるを発し、
みずから考えるを導いていくとき、
考えは、それまでの死んだものから生きているものとして活き活きと甦ってくる。

そのとき、人は、考えるに<わたし>を注ぎ込むこと、意欲を注ぎ込むことによって、
「まぎれなく考える」をしている。
(この「まぎれなく考える」が、よく「純粋思考」と訳されているが、「いわゆる純粋なこと」を考えることではない)

わたしたちが日々抱く考えという考えは、死んでいる。

それは、考えるに、<わたし>を注ぎ込んでいないからだ。
みずからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、
外の世に応じて「考えさせられている」からだ。
そのような、外のものごとから刺激を受けて考える考え、
なおかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考えは、死んでいる。

多くの人が、よく、感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言う。
実は、その多くの人は、
そのような死んだ考えをやりくりすることに対するアンチパシーから、
ものを言っているのではないだろうか。

ところが、そのような受動的なこころのあり方から脱して、
能動的に、エネルギッシュに、考えるに意欲を注ぎ込んでいくことで、
考えは死から甦り、生命あるものとして、人に生きる力を与えるものになる。

その人に、軸ができてくる。

世からありとあらゆる力がやってくるが、
だんだんと、その軸がぶれることも少なくなってくるだろう。

その軸を創る力、
それは、みずからが、考える、
そして、その考えるを、みずからが見る。
この一点に立ち戻る力だ。

この一点から、外の世に向かって、その都度その都度、考えるを向けていくこと、
それは、腰を据えて、その外のものごとに沿い、交わっていくことだ。

では、その力を人はどうやって育んでいくことができるのだろうか。
また、そのように、考えるに意欲を注ぎ込んでいく力は、どこからやってくるのだろうか。

それは、夜、眠っているあいだに、
人という人に与えられている。

ただし、昼のあいだ、
その人が意欲を注ぎつつ考えるほどに応じてである。

夜の眠りのあいだに、人はただ休息しているのではない。

意識は完全に閉じられているが、
考えるは、意識が閉じられている分、まったく外の世に応じることをせずにすみ、
よりまぎれなく考える力を長けさせていく。

それは、眠りのあいだにこそ、意欲が強まるからだ。
ただ、意欲によって強められている考える力は、まったく意識できない。
眠っていることによって、
意識の主体であるアストラルのからだと<わたし>が、
エーテルのからだとフィジカルなからだから離れているのだから。

眠りのあいだに、わたしたちは、わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、
次の一日の中でフレッシュに力強く考える力をその世の方々から頂いて、
朝、目覚める。

要は、
夜の眠りのあいだに長けさせている精神の力を、
どれだけ昼のあいだにみずからに注ぎこませられるかだ。

そのために、シュタイナーは、その講演で、
本を読むときに、もっと、もっと、エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでほしい、
そう述べている。

それは、人のこころを育てる。

現代人に最も欠けている意欲の力を奮い起こすことで、
死んだ考えを生きた考えに甦らせることこそが、
こころの育みになる。

アントロポゾフィーの本をいくらたくさん読んでも、
いや、シュタイナー本人からいくらいい講演、いい話を聴いたとしても、
それだけでは駄目なのだと。

文という文を、意欲的に、深めること。

ことばを通して、述べられている考えに読む人が生命を吹き込むこと。

アントロポゾフィーは、そのようにされないと、途端に、
腰崩れの、中途半端なものになってしまうと。

1923年という、彼の晩年近くの頃で、
彼の周りに集まる人のこころの受動性をなんとか奮い起こして、
能動的な、主体的な、エネルギッシュな力に各々が目覚めるように、
彼はことばを発していた。

その力は、
夜の眠りのあいだに、高い世の方々との交わりによってすべての人が贈られている。

夜盛んだった意欲を、
昼のあいだに、どれだけ人が目覚めつつ、意識的に、
考えるに注ぎ込むか。

その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、「内なる希みの光」。

外の世へのなんらかの希みではなく、
<わたし>への信頼、<わたし>があることから生まれる希みだ。

その内なる希みの光こそが、
昼のあいだに、人を活き活きとさせ、
また夜の眠りのあいだに、精神を長けさせる。

その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、
「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、
それが復活祭を前にした、こころの仕事であり、
2011年3月11日以降の日本に生きるわたしたちにとって、
実はとても大切なこころの仕事なのだと思う。



「わたしは世のありありとした力を感じる」
そう、考えの明らかさが語る。
考えつつ、みずからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光をもって。




posted by koji at 16:17 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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