2015年03月22日

こころのこよみ(第48週) 〜行われたし、精神の見はるかしを〜 (再掲)


世の高みから

力に満ちてこころに流れてくる光の中で

現われよ、こころの謎を解きながら、

世の考えの確かさよ。

その光り輝く力を集め、

人の心(臓)の中に愛を呼び覚ますべく。



Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.



考える力というものについて、人はよく誤解する。

考えるとは、
あれこれ自分勝手にものごとの意味を探ることでもなく、
浮かんでくる考えに次から次へとこころをさまよわせることでもなく、
何かを求めて思いわずらうことでもなく、
ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。

考えるとは、本来、
みずからを置いてものごとに沿うこと、
思いわずらうことをきっぱりと止めて、
考えが開けるのをアクティブに待つこと、
そして、ものごととひとつになりゆくことで、愛を生みだすこと。

今回もまた、鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから多くの示唆を得ている。

人が考えるとは、
考えという光が降りてくるのを待つこと、
人に考えが開けることだ。

考えが開けるきっかけは、
人の話を聴く、本を読む、考えに考え抜く、道を歩いていて、ふと・・・など、
人によりけり、時と場によりけり、様々あるだろうが、
どんな場合であっても、
人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、考えは開ける。
たとえ、身体は忙しく、活発に、動き回っていても、
頭のみは、静かさを湛えているほどに、
考えは開ける。

そして、頭での考えの開けと共に、こころに光が当たる。
考えが開けることによって、こころにおいて、ものごとが明るむ。
そして、こころそのものも明るむ。

「ああ、そうか、そうだったのか!」というときのこころに差し込む光の明るさ、暖かさ。
誰しも、覚えがあるのではないだろうか。

明るめられたこころにおいて、
降りてきたその考えは、その人にとって、隈なく見通しがきくものだ。

また、見通しがきく考えは、他の人にとっても見通しがきき、その人の考えにもなりうる。

そもそも、考えは誰の考えであっても、考えは考えだから。

人に降りてくる考えは、その人の考えになる前に、そもそも世の考えである。

自然法則というものも、自然に秘められている世の考えだ。

人が考えることによって、
自然がその秘密「世の考え」を打ち明ける。

その自然とは、ものというものでもあり、人という人でもある。

目の前にいる人が、どういう人なのか、
我が子が、どういう人になっていくのか、
もしくは、自分自身がどういう人なのか、
それは、まずもっては、謎だ。

その謎を謎として、
長い時間をかけて、その人と、もしくはみずからと、腰を据えてつきあいつつ、
その都度その都度、
こころに開けてくる考えを摑んでいくことによってのみ、
だんだんと、その人について、もしくは、わたしという人について、
考えが頭に開け、光がこころに明るんでくる。

それはだんだんと明るんでくる「世の高みからの考え」でもある。

わたしなりの考えでやりくりしてしまうのではなく、
からだとこころをもって対象に沿い続けることによって、
「世の考え」という光が頭に降りてくるのを待つのだ。

すぐに光が降りてくる力を持つ人もいる。
長い時間をかけて、ゆっくりと光が降りてくるのを待つ人もいる。

どちらにしても、
そのように、考えと共にこころにやってくる光とは、
世からわたしたちへと流れるように贈られる贈り物といってもいいかもしれない。

さらに言えば、それは、
わたしの<わたし>が、
わたしの<わたし>に、
自由に、
本当に考えたいことを、考えとして、光として、贈る贈り物なのだ。

    人のこころ!
   あなたは安らう頭に生き
   頭は、あなたに、とわの基から
   世の考えを打ち明ける。
   行われたし、精神の見はるかしを
   考えの安らかさのうちに。
   そこにては神々の目指すことが
   世とものとの光を
   あなたの<わたし>に
   あなたの<わたし>が自由に欲すべく
   贈る。
   もって、あなたは真に考えるようになる
   人と精神との基にて。         (『礎のことば』より) 
 


その贈り物があるからこそ、
わたしたちは、また、世の考えが贈られるのを待ちつつ考えることができるし、
考えの光が降りてくればこそ、
わたしたちは、こころの明るさと共に、その考えを見通し、見はるかすことができ、
その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。

ある人の長所にあるとき、はっと気づいて、
その人をあらためてつくづくと見つめ、
その人のことを見直したり、好ましく思ったりもする。

長所にはっと気づく、
それこそが、
考えの光が降りてきたということだろうし、
その人について光をもって考えられるからこそ、
こころに愛が呼び覚まされるのだろう。

人を愛する時とは、
世の高みから、力に満ちて流れてくる「世の考え」が、こころに開ける時。

考えが開けるとき、
そこには、きっと、愛がある。

愛が生まれないときは、
考えているようで、実は考えていない。
自分勝手に考えや思いをいじくりまわしているか、
巡り巡る考えや思いに翻弄されているときだ。

考えることによって愛が生まれることと、
愛をもって考えることとは、
きっと、ひとつの流れとして、人の内側で循環している。



世の高みから
力に満ちてこころに流れてくる光の中で
現われよ、こころの謎を解きながら、
世の考えの確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の心(臓)の中に愛を呼び覚ますべく。



posted by koji at 21:22 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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