世、それはいまにもぼやかそうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想い起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
おのれを保つことができるように。
Die Welt, sie drohet zu betäuben
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte
Sich selbst erhalten kann.
「ひとり生み」とは、何か。
シュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講にそのことばが出てくる。
かつて福音書が書かれた頃、
「ふたり生み」とは、父と母の血の混じりあいから生まれた者のこと、
「ひとり生み」とは、そのような血の混じりあいから生まれた者でなく、
神の光を受け入れることによって、
精神とひとつになった者、
精神として生まれた者、
神の子、こうごうしい子のことだった。
人びとの多くは、「わたし」という人のための下地をすでに備えながらも、
聖書に記されるところの「光」をまだ受け入れることができなかった。
「群れとしてのわたし」のところにまでは「光」は降りてきていたが、
いちいちの人はその「光」をまだ受け入れていなかった。
「ひとりのわたし」という意識はまだなく、
おらが国、おらが村、おれんち、そのような「ふたり生みの子」としての意識が、
ひとりひとりの人のこころを満たしていた。
しかし、少数ではあるが、「光」を受け入れた者たちは、
その「光」を通してみずからを神の子、「ひとり生みの子」となした。
物の人がふたり生み、
精神の人がひとり生みだ。
そして、キリスト・イエスこそは、
その「光そのもの」、
もしくは「光」のおおもとである「ことばそのもの」として、
「父のひとり生みの息子」として、
肉のつくりをもってこの世の歴史の上に現れた。
ことば(ロゴス)、肉となれり(ヨハネ書一章十四節)
彼こそは、
ひとりひとりの人に、こよなく高く、ひとりの人であることの意識、「わたしはある」を、
もたらすことを使命とする者だった。
わたしたちが、その「ひとり生みの力」を想い起こすこと、
それは、キリスト・イエスの誕生と死を想い起こすということ。
そして、わたしたちひとりひとりの内なる「わたしはある」を想い起こすこと。
それは、日々のメディテーションによって生まれる、
精神との結びつきを想い起こすことであり、
目で見、耳で聞いたことを想い起こすことに尽きず、
精神の覚え「わたしはある」を想い起こすことだ。
その想い起こしがそのようにだんだんと深まっていくことによって、
人は、
「わたしはある」ということ、
「みずからが神と結ばれてある」ということ、
みずからの「わたし」が、神の「わたし」の内にあるということ、
そのことを確かさと安らかさをもってありありと知る道が開けてくる。
「想い起こす」という精神の行為は、
意欲をもって、考えつつ、いにしえを追っていくということだ。
普段の想い起こすことにおいても、
頭でするのみでは、その想いは精彩のないものになりがちだが、
胸をもって想い起こされるとき、
それはメロディアスに波打つかのようにこころに甦ってくる。
さらに手足をもって場に立ちつつ、振舞うことで、
より活き活きと、みずみずしく、深みをもって、想いが甦ってくる。
故郷に足を運んだ時だとか、
手足を通して自分のものにしたもの、技量となったものを、いまいちどやってみる時だとか、
そのように手足でもって憶えていることを手足を通して想い起こすかのようにする時、
想いが深みをもって甦る。
そして、そのような手足をもっての想い起こしは、
その人をその人のみなもとへと誘う。
その人が、その人であることを、想い起こす。
その人のその人らしさを、その人はみずから想い起こす。
例えば、
この足で立ち、歩くことを憶えたのは、生まれてから一年目辺りの頃だった。
その憶えは、生涯、足で立つこと、歩くことを通して、
頭でではなく、両脚をもって想い起こされている。
その人が、その人の足で立ち、歩くことを通して、
その人の意識は目覚め、その人らしさが保たれている。
だから、
年をとって、足が利かなくなることによって、
その人のその人らしさ、こころの張り、意識の目覚めまでもが、
だんだんと失われていくことになりがちだ。
手足を通しての想い起こし、
それは、意欲の力をもってすることであり、
人を活き活きと甦らせる行為でもある。
そして、それはメディテーションにも言える。
行われたし、精神の想い起こしを
もって、あなたは真に生きるようになる、まこと人として、世のうちに
(シュタイナー『礎のことば』1923年12月25日)
メディテーションによる想い起こしは、
手足による想い起こしに等しいもの。
メディテーションとは、意欲をもっての厳かで真摯な行為。
毎日の行為である。
「ひとり生みの力」を想い起こすこと、
それは、わたしの「わたし」が、
神の「わたし」の内に、
ありありとあること、
「わたしのわたしたるところ」、
「わたし」のみなもと、
それを想い起こすことだ。
世に生きていると、
その「ひとり生みの力」をぼやかそうとする機会にいくらでも遭う。
世は、ふたり生みであることから生まれる惑いという惑いをもたらそうとする。
「だからこそ、勤しみをもって、想い起こせ」。
「惑いという惑いを払って、想い起こせ」。
想い起こされたものをしっかりとこころの目で観ること、
もしくは想い起こすという精神の行為そのものをもしっかりと観ること、
それがつまり、
「観ることを強める」ということだ。
それはきっと、手足に生きることに等しいような、
意欲の力を通してなされることで、
その意欲の力があってこそ、
人は、「おのれを保つことができる」、
おのれのみなもとにあることを想い起こすことができる。
世、それはいまにもぼやかそうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想い起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
おのれを保つことができるように。
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