2015年02月05日

『普遍人間学を読む会 第一講A』〜エゴイズムを凌ぐには〜


雲海を見下ろすさすらい人 .jpg



先月一月のクラスにおいても、14日間連続講義の第一日目を引き続き読み進めました。

15世紀中ごろ以降、わたしたちは、新しいエポック(時代の周期)に生きている、とシュタイナーは語ります。

この新しいエポックにおける教育という仕事にとっての課題を、わたしたちははっきりと見通せてはいないのかもしれません。

しかし、その課題があるということ、もしくは、課題のなんらかを感覚・予感はしています。

感覚・予感しているからこそ、シュタイナーというひとりの賢者のもとに集まるのですし、この『普遍人間学』を読もうとしますし、このブログの記事も読もうとしているのではないでしょうか。

その感覚・予感から始めつつも、わたしたちはだんだんとその課題を検討していきます。

わたしたちのエポックにおける課題としてまず挙げられているのは、わたしたちの文化がエゴイズムにもとづいていることに意識的であることです。

わたしたちの文化は、とりわけ、宗教の領分でのエゴイズムの上に成り立っている。

死の後、人は<わたし>というものがなくなりはしないだろうかという恐怖から、宗教を求める。
その求めがどれほど切実で、細やかなものであっても、やはりそれはエゴイズムである。
その求めに、説教をする人が応える。
慰安を与えようとして説教をする。
しかし、その説教が、人を益々エゴイスティックにしていく。
儀式ではなく説教がなされることに重きが置かれるようになってくるにしたがって、ますます教区内の人々は分裂していく。
説教をする人が個人としてリアリティのあることを語ろうとするほどに、聴いている人たちは、「個人」としてそれを聴くようになり、その教えが「個人」を強め、ますます人々は分裂していくという事態になってきている。

説教は、エゴイズムのもとにある不安を打ち消そうとして、逆に人々の個人化を押し進めてしまい、さらなる不安に駆りたててしまっている。

それは、説教をする人のことばの内容にではなく、こころの奥に、何があるか、ということだろう。

つまるところ、「ない」ということへの不安、恐れに裏打ちされているからこそ、その宗教の領分から発しているエゴイズムはここまで現代のわたしたちの生活の隅々に、そしてこころの奥深くにまで巣食っているのではないでしょうか。

安全・安心がないことへの不安。
お金がないことへの不安。
友がいないことへの不安。
健康が失われることへの不安。
死ぬことによって<わたし>がなくなることへの不安。

子どもたちに対しても、この「ないこと」への不安から教育をしようとしてはいないか。

わたしたちのエゴイズムが「ないこと」、「なくなること」への不安から発しているとするなら、そのエゴイズムを凌いでいく要(かなめ)のものはなんでしょう。

それは、「あること」を認識することであり、「あること」への信頼を育むことであり、「あること」への信仰を生きることです。

その道筋は、「ないこと」にではなく、身近に、すぐ近くに「あること」に目を向けることから始める。

そして、その「あること」に目を向けていくうちに辿りつくのは、「わたしは、ある」ということではないでしょうか。
「わたしは、ない」とは、人は現在形で決して言うことができません。
「わたしは」と言うとき、必ず、それは、「ある」のです。

人は死んだ後も「わたしは、あるのか」と問うけれども、生まれる前に「わたしは、あったのか」とはあまり問わない。

未来への不安にさいなまれているゆえに、わたしたちは死ぬということばかりにこころが捉われ、生まれるということを忘れてしまっている。

わたしたちが、「わたしは、ある」という現在形の認識・信頼・信仰を深めていくほどに、この、意識が意識を捉えていること自体の不思議さに驚くと共に、こころがからだの制限から解き放たれ、精神に向かって安らかに、確かに、力強く息づいてくることに気づきます。

そして、地上に生きている時間だけではなく、死の後も、生まれる前も、この「わたしは、ある」という、意識が意識を捉えているこのありようは変わりようがないのではないか、と問い始めるのです。

わたしたちは、生まれる前も、死んだ後も、「ある」。

その念いから、わたしたちは、ひとりひとりの子どもを前に迎えるに際して、こんなことに意識的でいましょう、とシュタイナーは語ります。

 ここでのフィジカルな「ある」は、精神の「ある」の続きであり、
 わたしたちのすることが加わらずに高いものが世話してきたことを、
 わたしたちが教育によって引き継ぐことができます。


わたしたちが子どもたちにする教育というものは、その子たちが生まれてくる前に精神の世において高い方々がしていきたことの引継ぎである。

そう意識しつつ、子どもに向かい合う。

その時に醸される雰囲気・気分こそが、わたしたちの仕事を支えてくれるのです。

そのこころもちが、わたしたちの内に巣食うエゴイズムを浄めてくれます。


●『普遍人間学を読む』クラス
 
 日時:大阪市住吉区帝塚山 第二水曜 午後13時30分〜15時30分
    和歌山県岩出市   第二土曜 午後13時00分〜15時00分
 参加費: 毎回2,500円  6回連続12,000円
 
 ※ご参加される前に本のご購入をお願いいたします。
  次のサイトでご購入いただけます。
  精巧堂印刷所 http://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 場所・お問い合わせ・お申込み: 
 帝塚山クラス ことばの家 http://www.kotobanoie.net/access.html
 岩出クラス  モモの会 http://momo-society.org/contact.html
 
 講師: 諏訪耕志 http://www.kotobanoie.net/profile.html



posted by koji at 15:50 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 普遍人間学を読む会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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