2015年02月04日

こころのこよみ(第43週) 〜天に向かうこころの炎〜(再掲)


冬の深みにおいて、

精神のまことのありようが暖められ、

世の現われに、

心(臓)の力を通してありありと力が与えられる。

「世の冷たさに力強く立ち向かうのは、

人の内なるこころの炎」




In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.




いま、人と人は、どれほど分かり合えているだろうか。

人と人との間に、無関心が、行き違いが、無理解が、そして憎しみまでもが立ちはだかっている。

自分自身のこととしても、そのことを痛切に感じる。

わたしたちは、そのようなあり方を「世の冷たさ」として、密かに、ときにひどく辛く感じている。

その冷たさから自分を守ろうとして、こころを閉ざす。

こころを閉ざした者同士がいくら出会っても、求めている暖かさは得られそうにない。

しかし、このあり方が時代の必然であることを知ることができれば、何かを自分から変えていくことができるのではないだろうか。

15世紀以降、人のこころのあり方が変わってきている。

意識のこころの時代だ。

この時代において、まず、人のこころは冷たく、硬い知性に満たされる。

その知性は、すべてを、人までをも、物質として、計量できるものとして、扱おうとする。

この時代において、この冷たく、硬い知性が人のこころに満ちてきたからこそ、現代の文明がここまで発達してきた。

そして、文明が発達すればするほど、人は、己が分からなくなってくる。
人というものが分からなくなってくる。
人というものは、からだだけでなく、こころと精神からもなりたっているからだ。

だから、その冷たく、硬い知性を己のものにすることによって、人は、人というものがわからなくなり、他者との繋がりを見失ってしまう。

己の己たるところとの繋がりさえも見失ってしまうにいたる。

文明の発達を支える冷たい知性が、冷たい人間観、人間関係を生み出した。

そして、そのように繋がりが断たれることによって、人は、自分が「ひとりであること」を痛みと共に感じざるをえない。

以前の時代には無意識に繋がっていた人と人との関係。人と自然との関係。人と世との関係。
それらが断たれていく中で、人はひとりであることに初めて意識的になり、改めて、自分の意志で繋がりを創っていく力を育んでいく必要に迫られている。

しかし、むしろ、こう言った方がいいかもしれない。
ひとりになれたからこそ、そのような力を育んでいくことができるのだと。

ひとりになることによって、初めて、人と繋がることの大切さにしっかりと意識的になることができる。

だから、このような人と人との関係が冷たいものになってしまうことは、時代の必然なのだ。


そして、この時代の必然を見やる、ひとり立ちしたひとりひとりの人がみずから天(精神)と繋がり、垂直の繋がりをアクティブに創り出すならば・・・。

そのとき、至極精妙な天からの配剤で、横にいる人との繋がり、水平の繋がりが与えられる。

垂直の繋がりがひとりひとりの人によって育まれるがゆえに、水平の繋がりが天から与えられる。

その中で、人と人とが分かち合い、語り合い、愛し合うことができる。

地上的な知性で、地上的なこころで、地上的なことばで、人と人とが分かり合えるのではない。

そのような意識のこころの時代が始まって、すでに500〜600年経っている。

わたしたち人は、そのように、いったん他者との関係を断たれることによって、痛みと共に、冷たく、硬い知性と共に、ひとりで立つことを習ってきた。

そして、そろそろ、ひとりで立つところから、意識のこころの本来の力、「熱に満ちた、暖かい知性」「頭ではなく、心臓において考える力」「ひとり立ちして愛する力」を育んでいく時代に入ってきている。

他者への無関心、無理解、憎しみは、実は、人が、からだを持つことから必然的に生じてきている。

硬いからだを持つところから、人は冷たく、硬い知性を持つことができるようになり、からだという潜在意識が働くところに居座っている他者への無理解、憎しみが、こころに持ち込まれるのだ。

だから、これからの時代のテーマは、そのような、からだから来るものを凌いで、こころにおいて、暖かさ、熱、人というものの理解、愛を、意識的に育んでいくことだ。

「世の冷たさに力強く立ち向うのは、人の内なるこころの炎」だ。

その「内なるこころの炎」は、天に向かって燃え上がる。精神に向かう意志の炎となる。
日常生活を送るうえで、日々の忙しさにかまけつつも、なおかつ求めざるを得ないこころの糧。
それは、精神である。

地上に生きる人にとって、なくてはならないこころの糧としての精神。
その精神の具象的なもののうち、代表的なもののひとつは、キリストであろう。

キリストのこと、クリスマスにおさな子としてこの世に生まれたこと、春を迎えようとする頃ゴルゴタの丘の上で起こったこと、そのことを深みで感じつつ、深みで知りゆくことによって、ますます意識的にこころを精神に向かって燃え上がらせることができる。

そして、人と人との間に吹きすさんでいる無理解と憎しみという「世の冷たさ」に、立ち向かう(ひとりで立って、ひとりで向かい合う)ことができる。

キリストのことを考えないまま信じるのではなく、キリストのことを考えて、想い、そして知りゆくこと。

意識のこころの時代において、人は、そのようなキリスト理解をもって、みずからのこころに炎を灯すことができる。

なぜなら、キリストの別の名は、「わたしは、ある」だからだ。

「わたしは、ある」。

そう、こころに銘じるとき、わたしたちは、こころに炎を感じないだろうか。

そして、キリスト教徒であるなしにかかわらず、キリストと繋がる。



冬の深みにおいて、
精神のまことのありようが暖められ、
世の現われに、
心(臓)の力を通してありありと力が与えられる。
「世の冷たさに力強く立ち向かうのは、
人の内なるこころの炎」



posted by koji at 16:20 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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