2015年01月03日

こころのこよみ(第39週) 〜<わたしがあること>の情〜 (再掲)


精神の啓けに身を捧げ、

わたしは世というものの光を得る。

考える力、それは長ける、

わたしにわたしみずからを明かしながら。

そしてわたしに呼び覚ます、

考える力を通して、わたしがあることの情を。



An Geistesoffenbarung hingegeben
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
Gedankenkraft, sie wächst
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
Und weckend löst sich mir
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.


「精神の啓け」。
それは、イエスというおさな子が、こころの深みに生まれること。
イエスとは、のちに、キリストとなる方。

キリストとは、「わたしこと」「われあり」のもたらし手。

「わたしがある」ということをひとりひとりの人にもたらそうとする方。
それがキリストだと、密のキリスト教では認められ、人から人へと密(ひめ)やかに伝えられてきた。

いまやもはや、この「わたしがある」ということを実感することこそが、限られた人たちだけではなく、すべての現代人における、もっとも深い願いなのではないだろうか。

どんなときでも、どんな場所でも、誰と会っていても、誰に会っていなくても、「わたしがある」ということへの情、信頼、確かさが己に根付いているほどに、人は健やかさに恵まれはしないだろうか。

その「わたしがある」という情が、この時期に、イエスの誕生によって、人にもたらされた。

それを「精神の啓け」と、ここでは言っている。

では、「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」という情はどのように稼がれるだろうか。

それは、「考える力が長ける」ことによって稼がれる。

普段、わたしたちの考える力は、目に見えるもの、手に触れるものなどに、張り付いてしまっている。
物質的な感官を通して入ってくるものに対して考えることに尽きてしまっている。

「いま、何時だろう」
「今日は何を食べようか」
「あそこに行くまでには、どの電車に乗り継いでいったらいいだろうか」
「ローンの返済を今月ちゃんと済ませることができるだろうか」
などなど・・・。

また、目に美しいもの、ここちよいもの、快をもたらしてくれるものには、それらを享受するのに、特に努力はいらない。

わたしたちのふだんの考える力は、そのように特に意志の力を要せず、やってきたものを受けとり、適度に消化し、あとはすぐに流していくことに仕えている。

しかし、たとえば、葉がすべて落ちてしまった木の枝。
目に美しい花や紅葉などが消え去った冬の裸の枝。

それらをじっと見つめながら、こころの内で、考える力にみずからの意欲・意志を注ぎ込んでみる。
 
来たる春や夏に咲きいずるはずの、目には見えない鮮やかな花や緑滴る葉を想い描きつつ、その木というものの命に精神の眼差しを向けてみる。
 
そうすると、その寒々しかった冬の裸の枝の先に、何か活き活きとした光のようなものが感じられてこないだろうか。

それぐらい、考える力を、見えるものにではなく、見えないものに、活き活きと意欲を働かせつつ向けてみる。
 
すると、その考えられた考えが、それまでの外のものごとを単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、ものやことがらの内に通っているかのような、活き活きと命を漲らせたものになる。

考える力を、そのように、感官を超えたものに意志をもって向けていくことによって、わたしたちは内において、自然界に写る影の像を命ある像に転換できる。

死を生に転換できる。

そして、その考える力によって、わたしたちみずからも活き活きとしてくる。

わたしにわたしみずからを明かす。

わたしに、「わたしがあること」の情を、呼び覚ます。

この情は、このように、おのずから生まれるのではなく、ひとりひとりの人がみずから勤しんでこそ稼ぐことのできる高くて尊い情だ。

「わたしがあること」の情とは、みずからに由るという情、「自由」の情でもある。

キリストとは、「わたしがある」「わたしこと」を人にもたらした方。

現代において、わたしたちひとりひとりが、キリストによってもたらされたみずから考える力を長けさせることができる。
 
その考える力によって「わたしがある」ことの情、つまり、内なる自由を稼ぐことができる。
 
その内なる自由からこそ、「わたしを捧げる」意欲、つまり、愛する道を歩いていくことができる。
 
そのことを、キリストは応援している。

そして、「わたしがある」ということをもって「身を捧げる」。
ならば、「わたしは世というものの光を得る」。

それは、どこまでも、この「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」への信頼から、人との対話へと、仕事へと、一歩踏み出していくこと。

それは、きっと、見返りを求めない、その人のその人たるところからの自由な愛からのふるまいだ。

その勇気をもって踏み出した一歩の先には、きっと、「世というものの光」が見いだされる。

たとえ闇に覆われているように見える中にも、輝いているものや、輝いている人、そして輝いている「わたし」を見いだすことができないだろうか。
「わたしがある」という情、「おさな子」の情を育みつづけるならば。

この『こころのこよみ』を読みながら、そのことをメディテーションする(追って繰り返しアクティブに考える)ことができる。


精神の啓けに身を捧げ、
わたしは世というものの光を得る。
考える力、それは長ける、
わたしにわたしみずからを明かしながら。
そしてわたしに呼び覚ます、
考える力を通して、わたしがあることの情を。



posted by koji at 15:31 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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