2014年12月08日

こころのこよみ(第35週) 〜<わたしはある>そして<慎ましく生き抜いていく>〜 (再掲)


<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、

それを再び見いだしえるのか、

こころが活き活きと働くならば。

わたしは感じる、わたしに力が与えられているのを。

それは、己みずからが手足となって、

世を慎ましく生き抜いていく力だ。




Kann ich das Sein erkennen,
Daß es sich wiederfindet   
Im Seelenschaffensdrange ?   
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n, 
Das eigne Selbst dem Weltenselbst   
Als Glied bescheiden einzuleben.



この週の『こよみ』の<ある>ということばから、言語造形家の鈴木一博さんが以前、シュタイナーの『礎のことば』について書かれていた文章を想い起こした。
 
そもそも、<わたし>は、気づいたときには、もうすでに、ここに<あった>。ものごころがついたときから、<わたし>がすでに<あらしめられてある>ことに、気づきだした。
 
この<わたし>は、わたしが気づく前から<ある>。
 
そして、いま、<わたしはある>という事態をありありと感じることができる時というのは、わたしのこころが活き活きと生きて、働いていた後、そのことをその活き活きとした感覚を失わずに想い起こす時ではないか。
 
だから、そのように、こころにおいて活き活きと何かを想い起こすことで、<わたしがある>ということを、より深く、より親しく感じ、より明らかに知っていくことができる。
 
何を想い起こすのか。
 
内に蘇ってくる、ものごころがついてからの想い出。
 
また、ふだんは想い起こされないものの、故郷の道などを歩くときに、その場その場で想い出される実に多くのこと。
 
当時あったことが、ありありと想い出されるとき、そのときのものごとだけでなく、そのときの<わたし>という人もが、みずみずしく深みを湛えて蘇ってくる。
 
それらを頭で想い描くのでなく、胸でメロディアスに波立つかのように想い描くならば、その想い出の繰りなしは、みずみずしい深みを湛えて波立ついのちの織りなしと言ってもいいし、「精神の海」と呼ぶこともできる。
 
その「精神の海」に行きつくことによって、人は「みずからがある」ことに対する親しさを得ることができはしないだろうか。
 
そして、その「精神の海」には、わたしが憶えているこころの憶いだけではなく、からだが憶えているものも波打っている。
 
たとえば、
この足で立つこと、歩くこと。
ことばを話すこと。
子どもの頃に憶えたたくさんの歌。
自転車に乗ること。
字を書くこと。筆遣い。
包丁遣い。
などなど。
 
身についたこと、技量、それはどのように身につけたかを頭で想い出すことはできなくても、手足で憶えている。
 
手足というもの、からだというものは、賢いものだ。
 
それらの手足で憶えていることごとへの信頼、からだの賢さへの信頼があるほどに、人は、<わたしがある>ということに対する確かな支えを持てるのではないだろうか。
 
また、パーソナルな次元を超えて、人という人が持っている、
からだというなりたち、
こころというなりたち、
果ては、
世というもの、
神というもの、
それらも人によって想い起こされてこそ、
初めて、ありありと、みずみずしく、その人の内に生き始める。
 
だからこそ、<わたしはある>という想いを人は深めることができる。
<神の内に、わたしはある>
<わたしの内に、神はある>
という想いにまで深めることができる。
 
想い出をみずみずしく蘇らせること。
手足の闊達な動きに秘められている技量という技量を発揮すること。
それらすべてを司っている世の生みなし手にまで遡る想いを稼いで得ること。
 
それらが、<わたしがある>ということの意味の解き明かし、<わたしがある>ということへの信頼を生みはしないか。
 
それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。
 
そのようにわたしのこころが活き活きと生きたことを想い起こすことと、<わたしはある>とが響きあう。
 
<ある>ということを知っていくことは、
<ある>ということを想い起こしていくことだ。
 
世の中において、
こころが<生きた>こと、
手足が<生きた>こと、
わたしまるごとが<生きた>ことを、
活き活きとわたしが想い起こす時、
<わたし>も、世も、ありありと共にあったのであり、
いまも共にあるのであり、
これからも共にありつづける。
わたしと世は、きっと、ひとつだ。

そして、いまも、これからも、精神からの想い起こしをすることで、
こころを活き活きと働かせつつ、
力が与えられているのを感じつつ、
手足を使って、
地道に、
慎ましく、
世を生きてゆくほどに、
<ある>ということを、
つまりは、
<わたしがある>ということを、
わたしは知りゆき、何度でも見いだしていくだろう。
 
ここで、クリスマス会議でシュタイナーにより発せられた『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。

    人のこころ!

   あなたは手足に生き

   手足に支えられつつ、場を経て

   精神の海へと行きつく。

   行われたし、精神の想い起こしを

   こころの深みにて。

   そこにては

   世の生みなし手が司り

   あなたの<わたし>が

   神の<わたし>のうちに

   ありありとある。

   もって、あなたは真に生きるようになる

   まこと人として、世のうちに。

              (鈴木一博さん訳)



<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与えられているのを。
それは、己みずからが手足となって、
世を慎ましく生き抜いていく力だ。




posted by koji at 21:43 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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