2014年10月16日

「使う」から「仕える」へのメタモルフォーゼ(言語造形について)


荻原守衛 女.jpg


ことばとは、わたしたち人が「使う」ものだと、通常思っている。自分の考えていることや思っていることを言い表すための道具として、日本人ならば日本語を当たり前のように使いこなせるものだと、ある意味、高をくくっている。

人と人との間において情報という情報が交わされている。その際、情報の中身、伝えようとしている内容、意味、それらをできる限り簡潔に分かりやすく伝えることができればいいのであるから、ことばはその情報を伝えるための道具であり、記号にすぎない。そんな風にわたしたちは漠然と感じているのではないだろうか。そういう漠然とした意識の中で漠然と教育されてきたわたしたちに、例えばシュタイナーのことばがひどく難解に感じられてしまうのも致し方ないのかもしれない。

そのことばに対する漠然とした意識に、アントロポゾフィーから生まれたことばの芸術「言語造形」は揺さぶりをかける。

試しに、ひとつの短いメルヘンを語ってみる。昔のように人に語ってもらって聴いて覚えるのではなく、現代においては紙に印刷された文字を読んで覚えるメルヘンである。書いてある通りに読めばいいと思って、まずは声に出してみるのだが、やはりそれだけではどうも物足りなく感じてしまう。ただ読んでいるだけの読み聞かせに、聴き手はほとんど魅力を感じにくいはずだ。そこで、ちょっとここは感情を込めてだとか、ここは盛り上がりをもって表現してみようだとか、自分なりに工夫を凝らしてやってみる。

ところが、そのような、ことばを知性からの判断でもって表現しようという試みは、言語造形をすることにおいて、ことごとく却下される。なぜなら、そのような頭における考えによってことばを操作しようとするとき、えてして、その表現はことばそのものの表現ではなくなり、話す人その人の人となりを押し付けがましく表立たせることになってしまうからだ。

ことばを声に響かせて話すとき、自分なりの解釈をもってするのではなく、ことばの音韻ひとつひとつの響きや、ことばとことばのあいだに生まれる間(ま)や、呼吸のくりなしに沿うことに挑戦していく。

そのようにことばに沿いつつ手足を動かすことによる身ぶりを通してこそ、ことばそのものが本来もっている感情や深みのある意味が立ち上ってくる。ことばとは、本来、手足による行為とひとつのものなのだ。手足の動きは、頭における操作よりもずっと賢いところがあることに気づくのは、現代人にとってはことさらに厄介なことかもしれない。できるだけ動かずに、ボタンひとつの操作で情報をやりとりできる現代においては。

頭とは、人体の中で最も物質的なところであり、死が支配しているところである。一方、手足とは、最も精神的なところであり、生命が漲ろうとしているところである。動きを通して手足は、まさに精神に通われ、精神の世を生きる。ことばの響きとことばに内在している動きに沿って手足を連動させながらそのことばを声に出し、身ぶりをもって一文一文響かせていく練習を重ねることで、だんだんとことばの味わいやメルヘンのもっている密やかなささやきを感覚していくことができる。

そして、そのように、吐かれる息の中で声になったことばがかたちと動きをもっていることで、聴き手もそのかたちと動きを共に生きることができる。そのかたちと動きに通ういのちを人と人とが分かち合うことが、芸術がこの世にあることの意味のひとつでもある。

まずはことばを、頭でもって捉えることで、わたしたちはことばをキャッチするのだが、それを練習によってだんだんと胸へ、腰へと降ろしていき、ついには、頭でいちいち考えなくても、手足の動きの感覚から語れるようにもっていくこと。そのようなからだまるごとを通した経験が言語造形によってなされる。それは、ことばの外側に立ってあれこれ考え、操作していくのではなく、ことばの響きと動きの真っ只中に飛び込むことで、ことばの芸術を生き、新しい認識に至ることなのだ。

印刷されている文字から読み取られることばというものは、まずもって、死んでいる。その死んでいることばにいのちを吹き込むのは、生きている人である。精神を活発に働かせながら、活き活きと読み取り、活き活きと理解し、活き活きと発声することで世に響かせる人である。

若い人たちに、子どもたちに、このような観点から、ことばの芸術を伝えていくこと。それが言語造形をする人の担うことだと感じている。

ことばを死んだものとして「使いまわそう」とするのではなく、人よりもより賢い叡智を秘めたものとして、そこにいのちを吹き込むべく、ことばに「仕える」こと。「わたしが手前勝手に使う」のではなく、「みずからすすんで使われる」こと、「仕える」こと。その行為によってこそ、人は、満ち足りていくのだということを、シュタイナーは言語造形を通しても教えてくれる。

シュタイナーが1924年に行った連続講演「言語造形と演劇芸術」の中でのことばを紹介させてもらって、終わりにしたい。


舞台芸術の養成学校で必ず次のことを学んでいただきたいのです。
そもそも、響きに対する宗教的なこころもちをわたしたちの芸術に引き込むことができてこそ、舞台芸術につきまとう危険を凌ぐことができるはずです。道徳的に堕落してしまう危険すらあるのです。
わたしたちは、非日常的なもの、聖なることに踏み込んでいいのです。
こうごうしい教師である音韻をものにして然るべきなのです。
そもそも音韻の内に根源的なまるごとの世があるからです。
ことばの造形者になりたいのなら、まず、「はじめにことばありき」というヨハネ福音書に書かれてあることばを忘れてはなりません。
(中略) 芸術に宗教的なこころもちが披かれるまで、俳優はこころのメタモルフォーゼを経ていって然りなのです。
それは、音に耳を傾ける精神への帰依をもつことから始まります。





posted by koji at 20:50 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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