昨日の稲尾教彦さんの公演を終え、一日を経て、ゆっくりと想い起こす。
やはり、他人様の言語造形を聴かせてもらうことは、本当に刺激になり、勉強になる。
昨日の公演の題は『詩とメルヘン』だったのだけれども、詩というものこそ、自分自身が切に求めているものなのだということを今更ながら自覚した。
ことばが詩であるとき、とりわけ、そのことばが声として響くとき、わたしは、何を聴き、何を観ているのだろう。
それは、考えることでは摑むことはできない「何か」であり、ことばではくるむことのできない「何か」。
ことばが空間に解き放たれ、響き、余韻を残す。
そのプロセスが幾度も繰り返され、聴き手として詠い手と共にそのプロセスを辿っているうちに、わたしはこの地にいながら、この地とは別のところにいるような感覚に入ってゆく。
そして、こころは、少年の日に謳歌していた、あのどこまでも自由な世界、懐かしいふるさとにもうすでに帰っている、そんな感覚を想い出すのだ。
稲尾さんによって選ばれたことばは、「じっと待つ人」のみが聴きとることができる響きそのものであり、そこには天との繋がりから生まれてくるもの以外の響きは注意深く取り除かれているように感じられる。
彼の詩集を購って、改めて、一頁ごと、一文ごと、一語ごと、じっくりと読んでみる。こころの中で詠ってみる。
昨日、詩人自身の声で聴いたその詩群がいっそう親しく我が内側でこだまするように響き出す。
滅多にない、ことばの充実を味わう。
公演の後、そのときの経験を引き続き深めていくようにすることで感じられる喜びは、こころの受動性と能動性が織りなしあうようで、とても豊かな実りを感じさせてくれる。
そのようなまぎれのない響きを持っていることばを、そのまぎれなさのまま奏でること、それが言語造形をすることだと言えるのだが、そのことがどれほど簡単ではないかをも、昨日は痛感させてもらった。
舞台では、何がものをいうか。
初発の勢いだとか、表現技術の巧拙などではなく、繰り返される練習と舞台によってのみ育まれる太くておおらかなこころ。
そのこころは、その都度その都度耳を澄ますことで受け取られる天からの響きに幾度も共振している。
そのこころは、練習と舞台の反復、また反復を通して、まるで大地からもらうような意欲の力に通われている。
そのようにして、天と繋がり、そして大地に立ち、働き続けることが、人を一本のたくましい樹木にする。
詩人は、天に向かって耳を澄まし、その天の響きを大地にまで降ろすべく、ことばとして結晶させる。
言語造形をする人は、その聴き取られたことばをその響きのまま発声することで、我がからだという大地から再び精神という天に向かって詩をお返しさせてもらう。
詩人が我が身体を通してことばを声にして響かせようとするとき、おのずから言語造形をすることへと向かっていくのだろうし、言語造形をしようとする人が声を発するその刹那に、みずからの声に耳を澄ますことをするなら、おのずから詩人のありように近づいていくのだろう。
詩を紡ぐ人と言語造形をする人は、内なる意味で、ひとりの人のなかに同居していて、それは天に向かって高く枝葉を延ばし、大地に深く根を張る一本の樹木として、年を経るごとに太くおおらかに育ってゆく。