
わたしたちはめいめい仕事を持っている。
その仕事というものが、機械によってではなく、その人その人によってからだとこころを総動員させながら数限りない反復を通してなされる時、その反復は極めて微妙で繊細ながらも確かな手応えというものを人に授ける。
それは、仕事という「もの」のなかにその人が入りこんで、共に呼吸をするような具合とも言える。
その時、自身のこころが静まり、清まり、深まっていることにも気づく。
そして、そのようなこころのありようによって喜びと感謝と共に初めて見えてくるもの・ヴィジョンがあることをも知っている。
それをわたしたち日本人は、神として捉えてきた。
前田氏はこの本で、幾人かの先人たちの仕事を通して、そのことの内実を観ようとしている。
保田與重郎、小林秀雄、柳宗悦、柳田國男、本居宣長・・・
その先人たちはいずれも、「もの」のなかに入り込むことによって仕事をした人たちである。
彼らは、無数の無名の水田耕作者が神からの「ことよさし」である米作りを通して、植物的生命の中に入り込み、神への感謝と喜びと畏れと共に生活してきた、その信仰を身をもって感じ取っていたからである。
日本人の信仰は、経典や説教や伝道で育まれて来たのではない。
米作りという生産生活そのものが信仰を育んできたのだし、米作りによる祭の生活そのものが信仰生活だった。
それは、「神ながらの道」「ものへゆく道」であった。
「言挙げ」を拒む静かな日々の労働、無言の反復こそが、人を神に導く。
いま、わたしたちは、各々、各自の仕事を「ことよさし」された仕事として捉え直すことができるだろうか。
そして、外側の何かに反発するのでも同調するのでもなく、自分の生業に静かに立ち戻り、感謝をもってそれに取り組むことができるだろうか。
それ以外の言動や行動は、結局のところ、いったい何を引き起こすことになるのだろうか。
あまりにもかまびすしい「言挙げ」に満たされている現在、いかにしてあえて目を塞ぎ、耳を閉じ、理屈を言わずに、手足を動かしていくか。
その胆力が問われている。
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この本には、これまでの前田氏の仕事のエッセンスすべてが注ぎ込まれているように思われる。
そして、2010年の12月に出版されたこの本が、その約三ヶ月後に起こった未曾有の出来事に対して、すでに、ある「ことば」を予兆のように鳴らしている。
それは、人に根本的な覚醒を促す呼びかけの「ことば」である。
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