「わが(国の)歴史は祭りの歴史であった。文芸の歴史も、実に詩人にあらはれた神を祭る歴史に他ならなかったのである」
保田與重郎は『芭蕉』の冒頭に近いところでそう書いている。
詩人に神は現れる。
その現れた神を祭る歴史が文学史である。
その歴史の最期に位置するのが江戸の元禄期に生涯を終えた芭蕉である。
その芭蕉がいかにして俳諧をもって神を祭ることに人生を賭けたかを保田は論じている。
2011年3月11日以降、明治維新以来近代的経済成長を至上価値としてきた日本に生きるわたしたちは、その行き詰まりまで経験したのではないか。
そして、これほどの惨事を経験したいま、「神を祭る」ということの現実的意味を多くの人が求め始めているのではないか。
しかし、詩人たちが代々守り通してきたその精神は、現代を生きるわたしたちにとって、外側に何かを求めて探し回るようなものではなく、己の内側にすでにずっと流れているいのちの原理であって、何も特別なものではない。
その精神は、教義の中にあるのではなく、米作りを中心にした日本人の生活の中にある。その当たり前の生活こそが、神(かむ)ながらの道であるからだ。
その生活と分離せず一如である精神を、おおらかに軽みをもって、かつ激しく謳い上げたのが、芭蕉である。
そのような歴史を一貫する志の道を明確にあぶりだす保田の論は、彼自身の志とひとつになっている。論じる対象と自分自身の生きる原理たる志がひとつになっている。
保田のものを読む時の爽快感は、その言行一致のあり方、研究と志の一体性、そして自己と国の歴史を貫く精神の一貫性によっている。
芭蕉が、古人の跡を求めず古人の求めたるところを求めよ、と弟子に言い残したように、この本を書いた保田與重郎も、芭蕉を求めるのではなく芭蕉が求めたものを求めて生涯を生き抜いた。
この本を読む人も古人の跡を慕うのではなく古人の求めたるところを求めて生きていくことができるのだ、という励ましが文章の背後に満ち満ちているように感じる。
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