
先日、妻とジブリの映画『風立ちぬ』を観てきました。
その映画の中で、主人公が何度か「美しい」ということばを言っていました。
「美」とはなんだろう。
この世には見えない考え・イデ―というものが精神の世にあって、
その考え・イデ―が見事に整いつつも活き活きと躍動しながら、
この世の何かに宿っているのを見いだした時に、
そのイデーをことばにできず、
ことばになる前に人は「美しい」と感じてしまう。
主人公は、大空を駆け巡る飛行機のフォルムと機能性にその「美」を追い求めています。
そう、飛行機というイデ―そのものが、
きっと、「美」を体現しうるものだという憧れと予感を手放さずに、
その「美」を実現するために飛行機の設計に取り組みつづけます。
飛行機が戦闘機として人を殺戮するための兵器であることを求められたとしても、
彼は、子どもの頃からこころのうちに大切に育んできた「美という理想」を決して手放さず、
その「理想」の実現のために毎日を静かに、しかし、懸命に生きます。
それは、人が空を飛ぶというイデ―そのものが、
もうすでに「美」であり、
「人であることの更なる可能性」であると彼が感じているからなのでしょうか・・・。
そして、彼はこころの次元において、すでに空を飛んでいます。
美しく大空を駆け巡っています。
すでにこころにおいて理想を生きている人が、
己のこころのありかたに等しい世界を求めるのでしょう。
「美」を求める生活、「美」を追い求める生き方、
それは、表層のものではなく、
すでにもうこころに宿ってしまっている「理想としてのわたし」を、
ただ表の世界に実現する、その人その人のありかたなのでしょう。
こころの奥に「美」をすでにもっている人こそが、
その「美」に等しいものを外の世界にも見いだし、創りだそうとする。
そのような、美を求める唯美的、理想主義的精神は、
この世の経済戦争、政治戦争、そして人と人とが実際に殺し合う本物の戦争においては、
必ず、敗れ去るでしょう。
しかし、この世では敗れ去るからこそ、
逆に精神として勝ち、
時の試練を経て必ず人から人へと引き継がれていく不朽の生命を得る。
そのような逆説をわたしたちはどこまで本気になって受け止めることができるでしょうか。
映画から、そのようなことを感じました。
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そしてその努力は、形に現れる技術的な努力だけでなく、心の奥にある「美」を掘り出す努力がもっと難しい努力なのではないかな思います。
本当に美しい「美」は、美しい心から現れるものと思いますが、そのようなことは可能なのでしょうか?
どう思われますか?
芸術に勤しむこころざしは、どの人のうちにも眠っていて、それを目覚めさせるか、眠らせたままにするかは、その人自身に懸っている。
そう思うのです。