2013年06月12日

『高瀬舟』との年月(としつき)   

Friedrich 海辺の修道士.jpg


開演が迫っています『高瀬舟』について、
言語造形をすることから感じたことを書いてみます。

この『高瀬舟』という作品にわたしが出逢ったのは三十代半ばで、
いまから十四年ほど前になります。
この十四年の間、わたしはこの作品にたびたび挑戦してきました。
その間、二つの面において、牛のような歩みでありますが、
少しずつ新しいものを見いだしてこれたように思っています。

ひとつは、「芸」においてです。
この作品は、高瀬川を流れていく舟に乗る二人の男の対話が軸になっています。
そして対話といいましても、一方の長い独白のあと、
もう一方がそれを再び己の身に引き寄せて考え直してみる、
そのようなやりとりになっていますので、それを演じる場合、
派手な動きなど全くありません。
川の流れとひとつになったような静かさに包まれている二人の男の姿が浮かび上がってきます。
しかし、その静かさという水面上の姿とは裏腹に、
水面下においてはなんという激しく切迫したこころの動きが秘められていることでしょう。

わたしは、この作品に取り組みつづけることを通して、
身ぶりという身ぶりがことばの内に収斂されうるということ、そして、静の内に動があり、
時に動の内に静があるという、密やかな芸のありようを学ばせてもらっているように思います。

そのようなことばの秘儀と言ってもいいような芸の境へと、
時間をかけてわたしを導いてくれる「言語造形」という芸術に繰り返し畏怖の念を覚えています。

もうひとつは、「作品の読み」においてです。
わたしが自分のからだという重みをもつものを立ち上がらせ、それを汗と共に動かし、
声の響きを通してからだとこころのハーモニーに耳を傾けていくことによって、
作品は新しい表情を少しずつ顕わしてくれるのです。
三十代や四十代前半にはわたしには全く見えなかった表情をこの頃は垣間見せてくれます。

描かれている事件の表層や思惟の織りなしよりもいまわたしに強く響いてくるのは、
人として生きてきた年月の重なりや、背負ってしまっているさだめと自意識との葛藤から
浮かび上がってくる二人の男の深みある表情。
この作品に秘められている人として生きることの根本的な悲しさと美しさが
惻々とわたしの胸を打ち始めたのは、漸くここ最近のことです。

ものに秘められている本当の豊かさと深さに出逢うため、
人は年月を重ねてそのものにつきあいつづける必要がある。

そのことをこの『高瀬舟』は、わたしに教えてくれるのです。


※6月16日(日)夕の部には、あと数席、空きがあります。
 よろしければ、どうぞ聴きにいらしてください。
 http://kotobanoie.seesaa.net/article/358706547.html



posted by koji at 12:43 | 大阪 ☀ | Comment(0) | ことばづくり(言語造形) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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