
2015年11月、再読後、書き改める。
柳田國男と柳宗悦の仕事。
それは「似ている」というような次元でここで語られているのでは全くない。
この『民俗と民藝』という本は、ゆっくりと再読、愛読することで、そのことをはっきりと分からせてくれる。
まえがきでも、こう述べられている。
「実際、この本は、早く読み終わる必要など少しもない本なのだから」
柳田と柳の実際の出会いは、すれ違いに終わったのだが、二人の仕事は、精神の次元において、全く軌を一にしている。
二人は、まさに、前田氏の言う「原理としての日本」を認め、愛し、失われてゆくのを惜しむところから、何か大きなものに動かされるように、それぞれ自分の仕事をしたのである。
この『民俗と民藝』という本は、その二人の精神の邂逅を見てとり、描き切った前田氏の傑作のひとつである。
「原理としての日本」とは、米作りを基とする手足を投じてなされる暮らしそのものであり、それがそのまま信仰の道でもある生き方である。
それは、二人が生きた頃から随分と時を経たこの現代においては、表側ではほとんど徹底的に破壊されたように見えてはいる。
しかし、それでも、いまだに密やかにひとりひとりの日本人の内側も内側に息づいているのではないか、と、この本を読み終えて、わたしは感じている。
たとえ、自分自身が米作りに携わってはいないとしても、この繰り返される毎日のなかから、いかにして精神の産物を産みだしていくことができるか。
そのことを問い続けながら暮らしを創造的に織りなしていくことが、きっと、できる。
繰り返される毎日の暮らし。毎日の仕事。
その中で営まれる当たり前の幸せ。
そのような、いまも、わたしたち日本人の精神に微かに流れ続けている、生きること自体の美しさ、正しさ、善さへの訴求は、決して、止んではいないと、思う。
前田氏は、その清流の微かな流れの音を聴き取り、その調べを、まさしくフーガのごとく美しく、かつ力強く、歌うように奏でた。
この本に注ぎ込んだ前田英樹氏の精神の労働量をまざまざと感じる。
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以下、以前に書いたもの。
この前田氏の本は、柳田國男と柳宗悦、各々の本を更に読み深めていきたいという欲求をわたしのうちに呼び起こしてくれる。
自分自身が生きていくための指針を思い起こしたいという、こころの深い憧れを刺激するからだと思う。
柳田と柳が仕事において貫こうとした主要なモチーフが、今の日本で生きる自分自身のリアリティーと深いところでいまだ繋がっていて、その繋がりを更にこれから積極的に育んでいきたいという憧れだ。
そのリアリティーとは、この肉体は先祖の血を引き継いで、いま、ここにあるが、その肉体を通してこそ、先祖や民族を超える普遍的な生を生きること。
肉体をもって、いかに精神を生き切るか。
この肉体に秘められている血の深みを踏まえつつ、いかにして精神の骨を天に向けて直立させるか。
その問いがわたしにとってリアリティーを持つ。
この本を再読したくなるのも、自分自身の人生とこの本とを繋げるためだと感じている。
前田氏は、そんな憧れを読む者に呼び起こさせる文章を書き続けてくれている。
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