みずからを絶えず創り上げつつ、
こころは己のありように気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みずからを知ることにおいて、新しく甦り、
そして、こころの闇から汲み上げる、
己であることの意欲の稔りを。
Sich selbst erschaffend stets,
Wird Seelensein sich selbst gewahr;
Der Weltengeist, er strebet fort
In Selbsterkenntnis neu belebt
Und schafft aus Seelenfinsternis
Des Selbstsinns Willensfrucht.
「みずからを絶えず創り上げつつ、こころは己のありように気づく」
これは、特に現代において、ひとりひとりが担っているテーマではないだろうか。
そのテーマとは、
わたしたちひとりひとりが、他に寄りかからず、
みずからの足で立つ、自立する、ということである。
「論語」において孔子が言うところの「三十にして立つ」という、その「立つ」である。
その「立つ」とは、「こころが己のありように気づく」ことであり、
わたしが「ひとりのわたし」であること、
「ひとりぼっち」「ひとりきり」であることに目覚めるということだ。
先々週の『こよみ』からわたしの中で生まれたことばとして、
「『ひとりであること』の自覚の上にこそ、キリストは寄り添ってくださる」と書かせてもらった。
その「ひとりのわたし」の自覚をすべての人にもたらそうとしているのが、
いまもって地球の精神、世の精神として働き続けているキリストであり、
キリストは、ひとりひとりの人の内なる闇に、
「ひとりのわたし」であることの光をもたらそうとしている。
「世の精神(キリスト)、それは勤しみ続ける」
洗礼者ヨハネは、みずからを「ひとりにて、呼ぶ者の、声」だと名のった。
彼は、「ひとりのわたし」のもたらし手であるキリストがこの世にやってくるのを知っていた。
そのためには、みずからが、血の絆、民族の絆を超えた「ひとりのわたし」であることを、
他の人々に先駆けて知っていた。
そして、彼は、「呼ぶ」者であった。
キリストをこの世に呼ぶ人であった。
「ひとりのわたし」のもたらし手であるキリストを、
「ひとりのわたし」を自覚しているみずからを通して呼び入れる人であった。
さらに、彼は、「声」であった。響きであった。
その声は肉の耳には届かぬ響きであり、
声ならぬ声であり、
全身全霊を賭したいのちの漲りからいずる声であり、
エーテルの動きにみずからの使命を響かせていた。
わたしたちは、皆、いずれ、洗礼者ヨハネに倣い、
各々、「ひとりのわたし」の内にこそ、キリストを呼び、キリストを迎え入れる。
たとえ、
「闇、光を捉えざりき」「こころの闇が、光を捉えるのに備えがなされていない」期間が長く続こうとも、
きっと、人は、だんだんと、
「みずからを知ること(ひとりのわたしであることの自覚)において、新しく甦り」、
だんだんと、
「己であること(ひとりのわたしであること)の意欲の稔りを、こころの闇から汲み上げ」ていく。
洗礼者ヨハネは、わたしたち人の先駆けとしてのシンボルである。
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