2011年12月06日

こころのこよみ(第35週)〜<ある>と<生きる>〜

Kann ich das Sein erkennen,

<ある>とは何か、わたしは知りえるのか、

Daß es sich wiederfindet   

それを再び見いだしえるのか、

Im Seelenschaffensdrange ?   

こころが活き活きと働くならば。

Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n, 

わたしは感じる、わたしに力が与えられているのを。

Das eigne Selbst dem Weltenselbst   

それは、己みずからが手足となって、

Als Glied bescheiden einzuleben.

世を慎ましく生き抜いていく力だ。




この週の『こよみ』の<ある>ということばから、
言語造形家の鈴木一博さんが以前、
シュタイナーの『礎のことば』について書かれていた文章を想い起こしました。


そもそも、わたしは、気づいたときには、もうすでに、ここにありました。
ものごころがついたときから、
わたしがすでにあらしめられてあることに、気づきだしました。

そして、この<わたしがある>という事態は、
わたしのこころが活き活きと生きて、働いているときにこそ、
まさに、ありありと感じられます。

その感じから始まって、
<わたしがある>ということをより深く、より親しく、より明らかに知っていくためには、
こころにおいて、
活き活きと想い起こすことが助けになります。

何を想い起こすのか。

内に蘇ってくる、ものごころがついてからの想い出。

また、ふだんは想い起こされないものの、
故郷の道などを歩くときに、その場その場で想い出される実に多くのこと。

当時あったことが、
ありありと想い出されるとき、
そのときのものごとだけでなく、
そのときの<わたし>という人もが、
みずみずしく深みを湛えて蘇ってきます。

それらを頭で想い描くのでなく、
胸でメロディアスに波立つかのように想い描くならば、
その想い出の繰りなしは、
みずみずしい深みを湛えて波立ついのちの織りなしと言ってもいいですし、
「精神の海」と呼ぶこともできる。

その「精神の海」に行きつくことによって、
人は「みずからがある」ことに対する親しさを得ることができはしないでしょうか。

そして、その「精神の海」には、
わたしが憶えているこころの憶いだけではなく、
からだが憶えているものも波打っています。

たとえば、
この足で立つこと、歩くこと。
自転車に乗ること。
ことばを話すこと。
子どもの頃に憶えたたくさんの歌。
字を書くこと。筆遣い。
包丁遣い。
などなど。

身についたこと、技量、
それはどのように身につけたかを頭で想い出すことはできなくても、
手足で憶えています。

それらの手足で憶えていることごとへの信頼があるほどに、
人は、<わたしがある>ということに対する確かな支えを持てるのではないでしょうか。

また、パーソナルな次元を超えて、
人という人が持っている、
からだというなりたち、
こころというなりたち、
果ては、
世というもの、
神というもの、
それらも人によって想い起こされてこそ、
初めて、ありありと、みずみずしく、
その人の内に生き始める。

だからこそ、
<わたしがある>という想いを、
<神の内に、わたしがある>、
もしくは、
<わたしの内に、神がある>
という想いにまで、
人は深めることができる。

想い出をみずみずしく蘇らせること。
手足の闊達な動きに秘められている技量という技量を発揮すること。
それらすべてを司っている世の生みなし手にまで遡る想いを稼いで得ること。

それらが、<わたしがある>ということの意味の解き明かし、
<わたしがある>ということへの信頼を生みはしないか。

それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。

そのようにわたしのこころが活き活きと生きることと、
<わたしがある>とが響きあいます。

こころとからだが、活き活きとしているときこそ、
わたしは、ここに、<ある>ことを実に感じ、実に知ります。

<ある>ということを知っていくことは、
世の中において、
こころが<生きる>こと、
手足が<生きる>こと、
わたしまるごとが<生きる>ことと、
きっと、ひとつです。

そして、いまも、これからも、
精神からの想い起こしをすることで、
こころを活き活きと働かせつつ、
力が与えられているのを感じつつ、
手足を使って、
世を生きてゆくほどに、
<ある>ということを、
つまりは、
<わたしがある>ということを、
わたしは知りゆき、再び見いだしていくでしょう。

ここで、『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。

    人のこころ!

   あなたは手足に生き

   手足に支えられつつ、場を経て

   精神の海へと行きつく。

   行われたし、精神の想い起こしを

   こころの深みにて。

   そこにては

   世の生みなし手が司り

   あなたの<わたし>が

   神の<わたし>のうちに

   ありありとある。

   もって、あなたは真に生きるようになる

   まこと人として、世のうちに。


              (鈴木一博さん訳)






posted by koji at 23:25 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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