2011年11月20日

こころのこよみ(第32週)〜己の足で立つ〜

Ich fühle fruchtend eigne Kraft

わたしは、実りゆく己の力を感じる。

Sich stärkend mich der Welt verleihn; 

その力は、強められたわたしを世に委ねる。

Mein Eigenwesen fühl ich kraftend 

わたしのわたしたるところを力強く感じる。

Zur Klarheit sich zu wenden  

明るみへと向かうべく、

Im Lebensschicksalsweben. 

生きることの仕合わせが織りなされる中で。




「実りゆく己の力」
「強められたわたし」
「力強く感じられるわたしのわたしたるところ」


それは、どのようなものを言っているのでしょうか。
どのようなわたしの状態を言っているのでしょうか。

人がこの状態を生きることからこそ、人の世に愛が育っていく、
という確信。

シュタイナーのすべての仕事の基は、その確信にあります。

ものには順序があり、
人ひとりひとりが自分の足で立ってこそ、
そこから人と人とのハーモニーが生まれてくる。

ハーモニーを目指して人が集まってくるとき、
みずからの足で立つということを、
ひとりひとりが意識して育んでいくことができればいいですね。

みずからの足で立つという状態は、どういう状態なのか。

このことを論じるのは難しい。

ひとりひとりが、各々の状況にあり、
各々の「仕合わせ(運命)」を生きていて、
その中でみずからの足で立つということは、
それこそ各々のあり方、スタイルでなされていくことで、
一般論では捉えられません。
(たとえば、経済的に自立することが自分の足で立つことだと捉える人もいるでしょうし、
他者への依存心からの決別こそがそうだと捉える人もいるでしょう)

しかし、その己の足で立つということを、
こころの側面で見てみるならば、
そこにひとつの共通した趣きが現れてきます。

考える、感じる、欲する。
このこころの三つの力にある種の調和が息づいています。

安らかさ、確かさ、優しさ、強さ、そして愛が、
こころに息づいています。

また、
自分自身を含めたあらゆるものごとに、
バランスを見いだすことのできるこころの状態とも言えはしないでしょうか。

物質の側面に偏るでもなく、
精神の側面に偏るでもなく、
その両方を兼ね備えた存在として己を見、世のものごとのすべてを見ることができる。

気をつけたいのは、
自分が高みに立ってしまい、
知らず知らずのうちにこころが批判的になることです。

そうなることによって、
ことばの上では精神を唱えながら、
精神が干からびていく。

精神が干からびていけば、
人とものごとの、
こころとからだしか目に入らなくなる。

精神と物質の間のバランスを感じながら、
人は己のこころの充実をもって、
世に出て行きます。

その内なる充実、バランスが、
きっと、外なる充実、バランスを呼び寄せます。

世とは、
その充実とバランスが人によって委ねられているところのものです。

世とは、
人が「わたしのわたしたるところ」から照らす光に応じて、
 「明るみ」を増していくところです。

世とは、
人によって、
 「生きることの仕合わせが織りなされる」ところです。

「仕合わせ Schicksal」とは、
「運命」とも訳されますが、
人がする「仕事」が、
人に「合わさる」ことです。

己の足で立つことから、
人が、
「仕合わせ」をみずから織りなしていきます。

世は、
「明るみ」へ向かって、
人が「わたしのわたしたるところ」から足を踏み出すのを待っています。

人は世によって創られますが、
世も人によって創られます。






posted by koji at 17:42 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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