2011年10月02日

こころのこよみ(第26週)〜ミヒャエル祭の調べ〜 

Natur, dein mütterliches Sein, 

自然、その母のようなありよう、
          
Ich trage es in meinem Willenswesen;

わたしは、それを、意欲において担う。

Und meines Willens Feuermacht,

そして、わたしの意欲の火の力、

Sie stählet meines Geistes Triebe,

それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛える。

Daß sie gebären Selbstgefühl

その萌しのかずかずが、みずからの情を生む、

Zu tragen mich in mir. 

わたしをわたしにおいて担うべく。




人にとって最も近しい自然は、己のからだです。
この世にある限り、ずっとつきあっていくものです。

そして、からだという自然は、
意識をもってつきあえばつきあうほど、
意識がからだに通いだし、
その意識が盛られ、技量が宿る、細やかな器へとなりたってゆきます。

それは、人が、己のからだをものにしていくプロセスです。

日々生きることを通して、
または、日々の意識的な練習を通して、
その人の表現、立ち居振る舞い、一挙手一投足から、
ことば遣い、果ては、こころの領域に至るまで、
その人の<わたし>が、
その人のからだとこころの主(あるじ)になりゆく。

そのプロセスを促そうとするのが、
ミヒャエルという大いなる天の使いの方であり、
特にこの秋の時期、精神の世から降りてくることを、
シュタイナーは語っています。

アントロポゾフィーは、
「人であることの意識」と言い換えられます。

そして、アントロポゾフィーは、
「人であることの意識」を育んでいくための練習を差し出します。

人は、練習して、人になっていきます。

むしろ、練習そのものの中に、アントロポゾフィーがあります。

ですから、アントロポゾフィーとは、
ミヒャエルとの共同作業そのものだと言えます。

その練習とは、次のようななりたちをしています。

からだという器は、
まさしく地球とのつながりから「母のようなありよう」だと言えます。

その器は、意欲という下からのこころの支えがないと、
器として機能しません。

また、その器は、
上からの考え・想い・意識・理想・こころざしという、
「精神の萌し」としてのこころの糧、
父なるものが降りてこないと、
枯れて、渇ききり、ひび割れてしまいます。

そこで、器は、
下からわたしの意欲の火で暖められ、熱せられることで、、
上から降り来たった、人であろうとする意識を煮込んでいきます。
もしくは、
わたしのこころとからだに降りてきた「精神の萌しのかずかずを鍛え」ます。

わたしたちは、この練習を、意識をもって、
仕事の一場面一場面、
生活のひとこまひとこまにおいて、
担っていくことができます。

そのような父と母との結びつきから、
子としての「みずからの情」が生まれます。

それは、「人であることの意識」を促す情、
「わたしをわたしにおいて担う」情です。

その「みずからの情」の誕生は、
きっと、こころの甦りでもあるはずです。

春の復活祭がキリストの死と復活を想い起こす祝祭であったように、
秋のミヒャエル祭は、人のこころの復活をみずからに認め、
そして、練習する者同士互いに認め合う祝祭です。



posted by koji at 23:40 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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