2009年10月23日

立つことと昔ばなし その2(終わり)

 アントロポゾフィーに沿って人間学を学んでいくと、昔ばなしを語ることが幾重にもおもしろくなってくる。それは、人というものが歩んできた道のり(人類史)、もしくは、ひとりの人の成長と、昔ばなしにおけるお話の展開が、重なって視えてくるからだ。その重なりをこじつけ、牽強付会(けんきょうふかい)と取る人がいるかもしれない。しかし、丹念に自分自身に沿ってアントロポゾフィーを吟味していくならば、数多くの昔ばなしや神話や伝説の持つ意味深さが己のこととしてリアルに分かってくる。


 ひとりの人間には、からだの面においても、こころの面においても、精神の面においても、それぞれに様々な位相がある。
 からだの面を取ってみると、まずは、感覚器官の大部分と脳を備えた頭の部分がある。そこは本来的に静かに丸く構えられていて、静かに紛れなく考え、また周りに生じていることやものをひたすら受けとる場所だ。それが天の領域だとするならば、運動と仕事を担う手足は地の領域にあって、外の世にひたすら働きかけようとしている。そしてそれら両極の間にあってふたつの働きのバランスを取ろうとしている胸。その胸の領域においては呼吸や血液循環といったリズムを刻む主要な働きが担われている。その胸の働き次第で、頭と足の間のバランスがうまく取れ、風通しの良さをもたらしたり、バランスが時に狂ってしまい、滞ってしまい風通しが悪くなったりしてしまう。
 このからだの三面を、こころの角度で捉えてみると、頭の領域には考えが宿り、手足の領域には意欲が現れ、そして胸の領域においては、まさしく、情が脈打つ。 それら、考え、意欲、情の三つは、こころにおいて常に織りなされて働いている。
 また、精神の角度でこの三面を捉えてみると、頭の領域で人は目覚め、手足の領域では眠っている。そして間の胸の領域では夢見ている。


 昔ばなしの中には、様々な存在が登場してくる。父や王様や殿様であったり、母や鬼婆やお后であったり、娘や王子であったり、その他様々な存在が闊歩するのだが、それらの存在はまさにそれぞれに独特の特徴を帯びている。しかし、それらの存在がすべて、ひとりの人の中にあるそれぞれの部分を担っている。そう考えながらお話をあらためて吟味していくと、そのお話に新しい理解の光が差し込んでくるように思われることが多い。
 例えば、父はわたしの中にいる父であり、母はわたしの中の母なのであり、子はわたしが何歳になろうとも、わたしの中にもありつづけている子なのではないか。そして、父がひとりの人の天に向かおうとする頭の役割、精神を、母が地の領域にあってわたしたち人を支えようとする手足の領域、からだを、子がその父と母との間で新たに生まれ、また葛藤を乗り越え成長していくことを通して、新しい世界を切り開いていくこころの領域を担っている。その子の成長こそがわたしたち人のこころの成長を表してくれている。
 そのように、物語の中で複数の存在が交じり合ってドラマを生じさせていくことは、ひとりの人の内で、頭と手足と胸が、考えと意欲と情が、精神とからだとこころが、それぞれふさわしく育ち、またふさわしくブレンドされていくことを言おうとしている。そのことを通して、ひとりの「人というもの」が立ち上がっていく過程を描いている。
 昔ばなしの中で、ひとりの人が立ち上がり、その人の道を歩き出すのだ。


 今度のわたしたちの舞台『夕鶴/絵姿女房』でも、(父、母、子は出てこないが)そのように、ひとりの人が立ち上がり、歩き出す相(すがた)を描き出すことができれば、本当に嬉しい。
posted by koji at 01:18 | 大阪 晴れ | Comment(0) | 断想
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