5番目は、「こころの光」の領域です。
下の四領域ではシンパシーが何かに遮られることがありますが、
ここからは遮るものは何もありません。
私たちはこの第5領域を生きることがよくあります。
例えば、自分から進んで人のことを気遣うことができたときです。
この領域で、人は他者をも立てることができるのです。
この領域で、人はこころから何かを、誰かを、愛することができるのです。
いちいちの植物や動物を愛でるということ、
それはいちいちの植物や動物に光を当てるということです。
人からこころの光を当てられた植物や動物が語り出します。
他者からこころの光を当てられた人は、照らされ、暖められ、こころを解きほぐし、
その人のことばを語り出します。
第6の領域は、もっとアクティブな光の領域です。
「する働きのこころ」の領域です。
これだと思う義務に邁進する。
集約的にこころの光を注ぎ続ける領域です。
第5領域では、自と他がありましたが、
第6領域は、他を喜ばせることが自分の喜びだというように、自と他がひとつになっています。
第7の領域は、「こころが生きること」の領域です。
愛しかない状態です。
物質的なものを欲していない状態、精神にだけ目を向けている状態です。
もう肉体はいいんだ、という領域です。
下の三領域は、からだにとても影響を受けるこころの領域といえるかもしれません。
そして上の三つは、精神からの働きかけを受けています。
そして、四つ目が、こころの中のこころなのです。
さて、ここで、虹の7領分とどう繋がっているか、ですが、
それは、ご自分で観察してみてください。
色彩を見て取って、自分のこころがどのような動きになるのかを感じてみてください。
そのかすかな動きを観察する助けとして、この7領域の話があるのです。
質問 「義務に邁進するということはどういうことでしょうか。」
「モモ」に出てくるベッポじいさんのように、仕事をすること自体が喜びだということです。
人を喜ばせるためにやっているというよりは、やること自体が喜びなのです。
質問 「自分勝手な願いということがあると思うのですが。」
世界が教えてくれるといいましょうか。
本当に光の領域から来ているのか、どこかにアンチパシーが潜んでいるのか、
それは世界が教えてくれ、人間は修正を求められていきます。
その人がこの世に生まれてきて本当にやりたいこと、もしくは使命と言ったらいいんでしょうか、
そういった本当にやりたいことをやらないと、まわりの人をハッピーにできないんですね。
自分の立ち位置をはっきりさせること、
それを問い続けることを続ければ続けるほど、まわりをハッピーにできる、ということを、私はリアルに感じています。
自分がしたことの価値は、内なる喜びとなって必ず帰ってきます。
その喜びによって、人は世界と自分が調和しているということに気付くことができます。
他人からの評価ではなく、証明できることでもなく、自らのこころの内でリアリティを感じるのです。
そのリアリティーを自内証といいます。
宮沢賢治は「春と修羅」という作品の序文において、
自らのこころの内でリアリティを感じることがらが世の人々にとってもきっと意味のあることなんだという確信を記していますが、彼はそういった自分の仕事の意味を自覚していたと思います。
例えば、我が子をつくづく、しみじみと見つつ考えて、
「この子なら、この子が本当にやりたいことをやったとき、きっと周りをハッピーにさせることができる」という信頼がないでしょうか。
人はみな、よきものです。それは人が精神の世界から来ているからです。
俳優のこころの練習として、
この七つの領域を生きているみずからのこころをみずから見て取ることに取り組んでみてください。
(完)
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