質問 「自己中心的なシンパシーはあるんでしょうか。」
あるのです。こころの7分節の、“下”(あえて、下と言いますが)三つはある意味で自己中心的です。
四つ目は中立、“上”三つはそこから離れていきます。
ひとつめは、あえてこんな名前をつけています。「欲(ほ)りの熾(おき)」。
熾というのは熾火のような火です。
シンパシーとアンチパシーは通常拮抗しています。
そのアンチパシーが大きくなってくるとき、
その時を欲りの熾の領域と呼んでいます。
例えばそれはチョコレートがほしいと思って、チョコレートだけにはシンパシーを持ちますが、
それ以外には強烈なアンチパシーを持っています。
チョコレートが口に入れば、その熾は消えてシンパシーがいったんは満たされますが、
周りのアンチパシーが強いために、満たされるということが長く続きません。また次を、また別のを、求めざるをえません。
これは、物質に執着しているこころの領域です。
ふたつめは、「そそられつつ流れつつ」の領域です。
とかく執着心を持たないことがたくさんあります。
しかし、かすかにそそられてはいます。
たとえば空の青さにかすかにそそられるからこそ、空にも目を向けるのですが、
しかしすぐに次のところ、次のものに目が移っていきます。
これはシンパシーとアンチパシーがどちらも突出していない状態です。
これが「そそられつつ流れつつ」の領域です。
1番目の領域が大地のような固さであるとするならば、
2番目は流れる水のようです。
3番目は、「願い」の領域です。
これはシンパシーの力によっています。
こんな人間になりたい、こんな生活がしたい、こんなことがしてみたい、というようなこころです。
「高瀬舟」でも語られていたように、願いはきりがないこととも言えます。どこまでも拡がっていきます。たとえれば風のようなものです。
しかし、この領域に於いても、かすかにアンチパシーが紛れ込んでいます。願いというのはそういうものです。
少しだけ、自分にこだわる、頑ななところがあるのです。
4番目は、「快・不快」の領域です。ここでアンチパシーが消えます。シンパシーのみの領域です。
不快はアンチパシーではありません。
たとえば、歯が痛い、というのは、自と他と分けるアンチパシーではありません。
シンパシーが少しでも減ると不快感がやってきます。
この快と不快の間の行き来は、日常生活で常にやっていることなのです。
4番目の領域は、光と影とたとえられるでしょう。
快として感じられる光が遮られて、不快として感じられる影が生じます。
(続く)
2008年07月27日
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