質問 「シンパシックに見るというとき、アブラムシがいるかしらとか考えるけれども、
そういう見方でもいいのか。
成長しているかどうかわからないものを見るとき、
そのときも、成長しているとか、衰退しているとかいう大まかな思考を持った方がいいのか。」
最初は、アブラムシがいる、でもいいじゃないですか。
目に見えるものをしっかりと見つめていく。
段々と見ることに習熟していくと、植物の成長する力の相をまずは感じることができてきます。
感じたもの、それが何なのか、を詮索しなくてもいいのです。
成長か衰退かわからないときも、生命はそこに営まれています。
ここで大切なのは、
その成長か衰退、いずれかのプロセスにある植物の生命の相を受け取るということなのです。
質問 「シンパシックに受け取るというのは、自分が植物になる気持ちでするんですか。」
「自分が植物になる気持ちでする」ということは、
すでに「考える」から始めていますね。
まずは、「見る」ことです。
こころ、感官をひらいて、世界を受け取ることです。
そしてその「見る」のアクティビティーが高まるほどに、
植物の生命の相が感じられてくる、
また、見ている「わたし」と見られている「植物」とがひとつに合わさる経験、
「主客合一」という験しがある、ということが、様々な人・賢人によって言われています。
世阿弥も松尾芭蕉もそのようなことを書き記しています。
質問 「見るとき、考えが入ってくることがあります。
それに対してはどういう対応をとったらいいのでしょう。」
考えるが入ってくることこそ、まさに自然なあり方だと言えます。
しかし、その考えるが、見られるものごとにふさわしいものかは、また別のことです。
ものごとは、いかようにも考えられます。
それは、考えるが人の自由に任されているからなのです。
しかし、だからこそ、人は、自分勝手に考えるのではなく、
ものごとに沿っていきいきと考える力を養っていいですし、
よりこころの力を使う練習として、あえて、考えるを排するという方法もあります。
考えること、それこそがまさしく自由の領域です。
自由ですから、敢えて考えるを差し置くことも、人はできるものです。
それは、よりアクティブな行為のはずです。
質問 「苦手な人や物に対しては、シンパシーを持って見るのは難しいのですが。」
ここで大切なのは、練習の対象として見るということです。
練習の対象として見ようとしたときに、シンパシーを持つようにすることはできます。
しかし、素の自分であるときに、それを「しなければいけない」ということでは決してないのです。
ある時間、決まった時間、そう決めてすればいいのです。
(続く)
2008年07月25日
この記事へのコメント
シュタイナーの「天使たち妖精たち」に同じような言葉がありましたね、とても素敵な言葉でした。
Posted by kenshin at 2008年07月27日 14:02
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