「考える」という精神の働きは、
まずもっては、アンチパシーというこころの力と、ともどもひとつです。
アンチパシーの力は、何かとの距離を取ろうとする働きであります。
考えることによって、ものごとと距離が取れるからこそ、
人は冷静に、ある意味、客観的な立場に立つこともできます。
一方、「見る」という精神の働きは、
シンパシーというこころの力とともどもひとつです。
シンパシーの力は、何かとの距離をなくそう、ひとつになろうとする働きです。
「見る」という働きは、何かを「迎える」「覚(おぼ)える」「受け取る」ことと言ってもいいですし、
またその根底には「愛でる」「愛する」という働きが潜んでいます。
「見る」とは、自分に親しく物事を引き寄せる、とも言えます。
わたしが、光とともにすること、とも言えますし、さらには、光を得ようとしてすること、とも言えます。
わたしたち人は、
この「見る」と「考える」というふたつの働きをいつなりともしつつ、生活を送っていますが、
人の歩む歴史の必然からでしょうか、
現代人は、兎角ものごとをアンチパシックに捉えがちでありますし、
「見る」と「考える」のバランスを欠き、
「考える」の方へと精神の働きが傾きがちでもあります。
知性のみが重視されてしまう教育のあり方も省みられていいときが来ているように思われます。
ものごとをシンパシックに捉える、もっとものをよく「見る」ということは、
現代人にとっては、意識的にしていっていいことです。
「見る」ということ、それは目だけでなく、感官を通して覚える、感覚するということです。
意識的に感官をより豊かに拓いていくということ、
それが現代人の新しい課題といえるかもしれませんし、
俳優にとって、とても大切な課題です。
シュタイナーは、全部で12の感官があり、
そして更なる精神の感官もあると言っています。
それらの感官を拓いていくこと、見ることを練習するためには、
シンパシーの力を育む必要があるんですね。
万葉のころの人たちは、本当にものを愛でていた、そして歌を詠んでいたということが分かります。
シンパシーがまだ人のこころに際立っていました。
それが、古今和歌集、新古今和歌集と時代を経るにしたがって、
ものと距離を取るようになっていきます。
アンチパシーの力が、人のこころの内でより強くなってきたと言えるでしょう。
そのアンチパシックなこころのありよう、考えるというありようが極まったところに俳諧があり、
松尾芭蕉はそれをひっくり返し、世界と自分とのより高い合一・シンパシックなあり方を打ち立てました。
(続く)
2008年07月21日
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