2020年11月25日

小さな芸術共同体



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今日の言語造形のクラスで、石垣りんの詩「儀式」に生徒さんと共に取り組んだのです。


「儀式」石垣りん

母親は
白い割烹着の紐をうしろで結び
板敷の台所におりて
流しの前に娘を連れてゆくがいい。

洗い桶に
木の香のする新しいまないたを渡し
鰹でも
鯛でも
鰈でも
よい。

丸ごと一匹の姿をのせ
よく研いだ庖丁をしっかり握りしめて
力を手もとに集め
頭をブスリと落すことから
教えなければならない。
その骨の手応えを
血のぬめりを
成長した女に伝えるのが母の役目だ。

パッケージされた肉の片々(へんぺん)を材料と呼び
料理は愛情です、
などとやさしく諭すまえに。
長い間
私たちがどうやって生きてきたか。
どうやってこれから生きてゆくか。


何度も何度も取り組んでいくうちに、朗唱してゐる者も聴いてゐる者も、たつた一語と一語の間に、涙が溢れてくる時が突然やつて来たのでした。

それは、語と語のあひだ、音と音の間(ま)に隠れてゐた扉が開けられ、詩の作者の思ひや意図を遥かに超える、人類の抱き続けざるをえない悲しみが溢れ出て来たのでした。

たつた一音の扱ひによつて、人は激しく情を動かされたりするのです。

ことばの芸術によつて、そこに集まる人たちが皆、涙を流す。

このやうな小さな場において芸術・文化・精神が育まれて来たこと、芭蕉の俳諧、連句の場などで江戸の元禄時代には特に集中的になされてゐました。

まことと美、それを真ん中に据ゑて、こころを開いた少数の人が集まる。そんな芸術共同体が、ふたたび、日本の各地に数多く生まれて来ることこそ、文化の国、日本の再生を促します。

クラスの終はりに、秋の七草の花の名を歌つた山上憶良の萬葉歌を言語造形でたつぷりと味はひました。

萩の花 尾花 葛花 なでしこの花
女郎花 また藤袴 朝貌の花  (萬葉集 1538)

花の名を唱へるだけで、花といふものの精神が空間一杯に拡がり、花の神さまと交はることの喜びを感じることができるのです。

この国の精神文化をふたたび甦らせることができると信じて、また今日も励んでゐます。




posted by koji at 13:33 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人のこころは何かを信じる必要がある



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19世紀の初頭に生きたスペインの作家、マリアーノ・ホセ・デ・ラーラ。彼は27歳の時、みづから死を選んでしまつたのですが、彼のエッセイ『1836年クリスマスイヴ』の中の一文を見て(執行草舟氏『脱人間論』から)、こころが揺さぶられ、考へてしまひました。

「人のこころは何かを信じる必要がある。信じるべきまことがない時、人は嘘を信じる」

信じる。それは、その人がその人であるためのぎりぎりの力じゃないだらうか。

信じることを諦めてしまはざるをえなくなつてしまつたこころは、己れも世も、共に失ふ悲惨を生きねばならない。

しかし、嘘でもいいから信じたい、と叫ぶこころは、やがて悲劇の中に突入していかなければならないのだけれども、それでも信じることを諦めずに己れと世との紐帯を繋ぎ止めてゐる。

たとへ、どれほど嘘が横行する世であつたとしても、世にはまことが、きつとある。さう信じる力はどこから来るのだらう。こころの奥底から、としか言ひやうがない。

信じる力は、考へる力よりも、もつと深い力。昔からの力。こころの底力。

自分が自分でありつづけるために、かつ、人と共に、世と共にありつづけるために、このこころの底力、信じる力を護り、育てる工夫を自分は毎日してゐるか。



posted by koji at 00:05 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月23日

神代の手ぶり


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今日、11月23日は、新嘗祭(にひなめさい、より古くは「にひなへのまつり」)です。そもそも旧暦の11月23日に行はれてゐた祭。だから、今の暦・新暦だと、一年の終はりにあたり、冬至の祭でありました。思ひを再び昇りゆく太陽に向ける祭でありました。

コロナウイルス禍で社会が大混乱を起こしてゐる最中にも関はらず、宮中では、天皇陛下御みづから、今年の米の収穫を天恵として、神に感謝の念ひを粛々と捧げて下さつてゐる。高天原での神々の「手ぶり」をそのまま行つてをられる。神代の手ぶりとおきてをそのまま伝へるのが、我が国・瑞穂の国の祭です。

このことがいかなる精神的意味をいまだに持つてゐるかを子どもたちに教へることは、大切なことであると思ひます。

そして、全国各地の神社においても同様に祭が執り行はれてゐます。

ハイテク文明に支へられてゐる近代国家である日本は、この神代の手ぶりを何千年も(何万年も?)伝へ来つてゐます。このやうな国は近代国家群の中では、世界で唯一です。

posted by koji at 20:44 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月22日

カーネーション ライブ


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カーネーション CARNATION
五十代も半ばになつて好きになつてしまつたロックバンド。

コロナウイルス禍の中、わたしにとつて、本当にこのバンドの音と歌声にどれほど励まされ、支へられてきたことか、といふ存在でした。

そのカーネーションが大阪に来るといふので、今晩、ライブに馳せ参じました。

直枝政弘氏のギターと歌声で一曲目がゆつくりと始まり、ズシン、とドラムとベースとキーボードが入つて来て、静かに情念に満ちた歌が朗々と歌ひ上げられるのを聴いて、いきなり、さう、いきなり、涙がボロボロと流れ出し、胸を鷲掴みにされてゐることに、自分自身で驚く。

直枝氏の切ないメロディーと歌とギターの凄いコンビネーション、ベースの太田氏とドラムの張替氏による太くうねるやうなグルーブ、深いセンスに裏打ちされた伊藤氏によるキーボードワーク、たつた四人の男たちによる練り上げられた極上の演奏と歌に、次から次へと喜びが足元から立ち上がつて来る。涙が何度も溢れ出て来る。こんなことは初めてです。

ゲストの山本氏のギターも凄かつた。さう、「凄い」といふことばでしか言へない鋭さと一曲一曲に相応しい雄弁さ。

そして、静かな佇まひから生まれる強い感情に満ちた直枝氏の歌。さう、歌を聴きに来たのだ。歌が、聴きたかつたのだ。本当に、歌が聴けて、よかつた。

直枝氏も太田氏(カーネーションはこのおふたりで活動してゐる)も御年六十を超えてをられる。自分よりも年上の男たちが、こんなにもみづみづしく活き活きと、かつ味はひ深い仕事をしてゐるのを、目の当たりにして、生きて行く希みのやうなものまでももらつてゐることを感じる。

十四の歳からロックやソウルのライブコンサートに行き続けて来たのですが(一番最初は1979年の大阪フェスティバルホールでのクイーンでした!)、今晩は、もしかしたら五本の指で数へられる中に入る、わたしにとつて忘れられないライブだと感じてゐます。

会場に、小学生の男の子と父親らしき人が来てゐて、終演後、二人で話しながら、夜の梅田の街を帰つて行く後ろ姿を見ながら、わたしも家路に着きました。親子で、こんなにすばらしい音楽を、ともに、聴けるなんて、本当に、最高じゃないか。



posted by koji at 00:02 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月19日

間(ま)が怖い?


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言語造形をするときに大事にされるまづ最初のことは、息遣ひ、呼吸です。

深く吐き出される息が、ことばとことばのあひだ、文と文のあひだに、おのづと間(ま)を生み出すのです。

その無音の間は、豊かないのち溢れる動きを孕んでゐます。ことばが発音されるときよりも、むしろ、その無音の間の中にこそ、ことばの精神、言霊が響きます。ですから、時閧ニ空間を、ことばといふもので埋め尽くさないのです。無音の間が活き活きとしてゐる事で、そこに物質的なものではない、精神的な豊かさが立ち顕れてくるのです。

その精神の豊かさは、人の頭にではなく、胸から腹、そして手足へと働きかけてきます。

そのやうな間(ま)に触れるとき、人によつて、随分と違ふ反応が表れます。

からだの調子が悪い時、そのやうな間に触れて、人は眠りにいざなはれるやうです。きつと、精神がその人を休息へと導いてくれるのでせう。

逆に、からだもこころも健やかな時、そのやうな間は、その人の意識をますます目覚めさせ、ことばの響きと間に呼び起こされる、様々な感覚を享受させてくれます。色合ひ、音、匂ひ、熱、風、光、こころ模様、それら様々な情景を「もののあはれ」として、人は享受することができるのです。

また更に、次のことは、これからの時代、ますます顕著になつてきます。それは、こころの奥に自分自身で隠し持つてゐるものがあるとき、自分自身に嘘をついてゐるとき、自分自身のこころの闇を見やうとしないとき、人は、そのやうな間に触れると、不快感を感じたり、不機嫌に成つたり、耐へられない思ひに捉はれたりするやうになります。

現代人に、「間(ま)」を嫌ひ、「間(ま)」を避けやうとする傾向が見られるのは、この自分自身のこころの奥底に眠つてゐるものを直視する事への恐れがあるのかもしれません。

「間(ま)」とは、魔なのかもしれません。しかし、それは、きつと、「真(ま)」なのです。「真(ま)」に触れて人は、だんだんとみづからの真実に目醒めつつ、健やかに、欣びを存分に享受しながら仕事をしていくでせう。

芸術はそんな仕事を荷つてゐます。

言語造形もそのやうな芸術のひとつだと思ひます。





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2020年11月18日

自分自身の声を聴くこと


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保育園の0〜2歳児、3歳児、4歳児、5歳児、それぞれのクラスで昔話をさせてもらつた時、その保育園の先生方と言語造形のワークショップもしたのですが、その時、おひとりおひとりの先生に、こんなことを訊きました。

皆さんは、御自身の声が好きですか。すると、すべての先生が、嫌ひだとお答へになりました!

そこで、こんなお話をさせてもらひました。先生といふ職業は、その存在まるごとで、子どもたちに向き合ふお仕事。だけれども、まづもつて、子どもたちに働きかけるのは、先生の声とことばです。その先生自身が、御自身の声を好きになれないとしたら、その好きになれない声で、子どもたちに話しかけることになりますね。

声とことばが、人にとつての道具だとするなら、その人自身が愛してゐない道具で決していい仕事はできません。声とことばは道具だと言ひましたが、道具にしては、あまりにも、我が身と我がこころに密着している道具です。だからこそ、まづもつて、我が親しい道具である、自分自身の声を好きになることから始めませう。

そんな話をさせてもらひました。
 
その後、保育園からの帰りの電車の中で、こんなことを考へました。 

なぜ、自分自身の声が好きになれないのだらう。たとへば、録音された自分自身の声を聴く時の違和感。自分は、こんな声で話してゐるのか!そのショックは、どこからやつて来るのだらう。

もちろん、録音された音声は、生の音声とは質が全く違ふ。しかし、本質的なこととして、そのショックは、普段、自分自身の声に耳を傾けることがほとんどないことから来てゐる。

思ひ切つたことを言つてみよう。そもそも、ことばとは、意を伝へるものではない。ことばで、自分自身の言ひたいことが、他人に伝はると、本当に思ふか。どこまで、ことばを尽くしても、人と人との間には、常に理解の差異が存在しないだらうか。むしろ、ことばとは、自分自身が聴くために、発せられる。そして、自分自身を知るために、発せられる。

自分が発する声とことばに、どこまで、自分自身が耳を澄ますことができるか。その瞬間瞬間に、わたしたちは、ことばといふものの本当の価値を感じる。

自分の声を好きになるには、自分自身の声を、よおく聴くことだ。自分自身の声とことばに、よおく意を注いであげることだ。

そもそも、どの人の声も、美しい。

その美しさは、人から、自分自身から、意を注がれて、初めて顕はになる。



posted by koji at 18:10 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

結婚の意味



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といふテーマで、昨日は講義をさせてもらひました。わたしにとつて、なんと身の程知らずなテーマでせう!

昔の人にとつては、伝統的な暮らしぶり、長い月日から生まれて来た叡智が大家族といふシステムの中で見事なまでに機能的に作用してゐましたので、ひとりひとりのエゴもある意味、集団の中で撓められ、育まれ、結婚を通して家族を持つといふこと、「結婚の意味」がおのづと分かるやうになつてゐました。

しかし、現代、ライフスタイルは激変し、大家族がどんどん分化して、核家族として結婚生活を営むやうになつて、昔では考へることもできないやうな自由を享受しながらも、エゴとエゴとがまともにぶつかり合ふ、そんなきわどいバランスの上でわたしたちは生きてゐます。そして、「結婚の意味」は誰も教へてくれません。ひとりひとりが自分自身で見いだし、つかみ取つていく他なくなつてしまひました。

つまるところ、結婚の意味とは、様々な社会的な意味のさらに深みにある、「愛」の問題に尽きますので、人の内なる精神への問ひかけになつてしまひます。

愛とは、からだを超える精神の次元があること。いや、むしろ、精神の次元でこそ、愛が本質を顕はにすること。さらに、痛みや苦しみや悲しみを痛切に感じ、死といふものが目前に迫らないと、たいていの人は愛に目覚めることができないので、「結婚」とは何を意味するのか、といふ問ひを本心本当に自分の問ひとして抱くことは、とてもとても難しいことです。

エルンスト・フォン・フォイヒタースレーベンといふ人が、こんなことばを残してゐます。

精神のみだ。
こころが外に希んで得られないものを
つくりだすことができるのは。
愛を求める者は愛を見いだすまい。
が、愛を与へる者は愛を受けるだらう。

これらのことばは、重くはないでせうか。
わたしには、とても重いことばと感じられます。



posted by koji at 07:54 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月17日

12/6〈日〉青森公演「やさしい世界の終はり方」のお知らせ


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青森の川崎なおみさんからの投稿をシェアさせてもらひます。

ーーーーー
なんと!なんと!

言語造形の諏訪耕志さんが

大阪から✈️

青森に飛んできてくださいます!

山本恵美さんとコラボします!

『言語造形とピアノが響きあう

        七つの詩と物語』

12月6日 日曜日 14:30〜

十和田市東コミュニティセンターにて。

「シュタイナーに学ぶAOIもり」主催

参加はドネーションです♡

皆さま♡是非とも

この貴重な公演会にご参加ください♡

諏訪耕志さんが語る言語造形という

芸術の世界を味わってみませんか♡

♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾

8月の越中さんの
「かんのくらオイリュトミークラス」

言葉のオイリュトミーでは、

与謝蕪村の詩の母音を動く。

「月天心 貧しき町を 通りけり」

Zuki Tenshin
Masushi ki Machi wo
tohori keri

ひとりが、詩を語り(初体験‼️)

残りの人が、黒板のフォルメンを動く。

我ながら…ビックリするくらい

棒読みで…早くて…

感情の欠片も感じられないような口調💧

「蕪村が作った詩を、

生き生きと言葉を語ることは、

芸術に引き上げることになる」

と越中さんが語る。

本当にそうだ!

越中さんが語る詩の言葉が

いかに生き生きと

響いて感じられることか!感動♡

これは、言語造形という芸術!

こんな風に言葉を語りたい。

エーテル体を内側を生かしたい!

いつか、きっと❗️と思っていたら、

言語造形の師匠に学ぶチャンスが

与えられることの奇蹟…を感じながら♡

今から、ワクワク♡

posted by koji at 19:32 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人と世を知るといふこと



いま、地上の世における大動乱のさなかにゐつつも、それがサイバー空間の中での出来事に思へて、「都構想」選挙が終はつた大阪にゐるわたしは呑気に過ごしがちだ。


しかし、ほんの少しでも想像力を働かせてみれば、これは大変なことであることにすぐに気づく。


アメリカにおいて、大統領選を通して、非常に危機的な状況が繰り広げられてをり、これまで闇に蠢いてゐたものが白日のもとに引きずり出されようとしてゐる。そして、この結果は、必ず、日本に激烈な影響を及ぼす。


そして、これは本当に不思議なことだが、おそらく、わたしだけでなく、多くも多くの人が、みづからの内面の闇にこれまで蠢いてゐたものに直面せずにはゐられなかつたのが、この2020年、令和二年といふ年なのではないだらうか。


隠されてゐたものが顕はになる。


むしろ、今年、己れの内なる「膿」を出さずにゐるとするならば、逆に後々、より大変なことになるのではないだらうか。


コロナウイルスによる脅威などでは全くなく、捏造されてゐるコロナウイルス「禍」による社会の大混乱によつて、実は、ひとりひとりの内なる闇、そしてなんと全世界にこれまで隠微にはびこり続けてきた巨大な闇が、白日の下に引きずり出されようとしてゐる。


この2020年、令和二年といふ年は、なんといふ年だらう!

posted by koji at 19:29 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月16日

萬代池の秋


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今朝の萬代池はきれいだつたナ。澄み切つた青空の下、家族連れや年老いた方々が歩いてゐた。幼いころ父や母に連れてきてもらつたことを想ひ出す。池の周りにある家の窓が開け放しになつてゐて、中からその家の親子らしい笑ひ声が聴こゑてきました。


この池は 千代に八千代に 萬代(よろづよ)に
秋を奏でむ 黄みどりくれなゐ


亡き父の みまもるひとみ 微笑みて
幼な子あそぶ 萬代(よろづよ)の池


秋空に ひと筆ふた筆 走らせて
青地に白く たなびく雲かな


今日もまた 池のほとりに 佇みて
いのち洗ひし 秋の青空


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posted by koji at 19:53 | 大阪 ☁ | Comment(0) | うたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第32週) 〜世の力の源は決して枯れない〜



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林武[花」



わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
 
その力は強められたわたしを世に委ねる。
 
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
 
明るみへと向かふべく、
 
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
  
 
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
Sich stärkend mich der Welt verleihn;      
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend        
Zur Klarheit sich zu wenden             
Im Lebensschicksalsweben.              
 
 
 
 
この秋といふ季節に、
稔りゆく<わたし>の力は、
どこから得られるか。
 
 
わたしがわたしみづからを
支へ引き上げていくための力は、
どこから得られるか。
 
 
「稔りゆく己れの力」
「強められたわたし」
「わたしのわたしたるところ」
 
 
これらは、みな、
己れから己れを解き放ち、
己れの小なる力を諦め、
大なるものに己れを委ね、任せられるとき、
感じられるものではないだらうか。
 
 
大いなるもの、それを「世」と言ふのなら、
世の力の源は決して枯れることがない。
 
 
その源から、
<わたし>は常に力をiいただいてゐる。
 
 
その繋がりを信頼して、
今日も仕事をしていかう。
 
 
今日といふ一日、明日、あさつて・・・
「生きることの仕合はせ(運命)が
 織りなされる中で」何が待つてゐるのだらう。
 
 
小さなわたしが
あれこれと采配していくのではなく、
大いなるものがわたしの生を
織りなしてくれてゐることへの
信頼を育みつつ、
勇気をもつて、今日も仕事をしていかう。
 
 
そのときこそ、
「わたしのわたしたるところ」
「強められたわたし」が、
きつと顕れてくる。
 
 
今日も、ていねいに、
牛のやうにひたすら押しながら、
「明るみへと向かふべく」仕事をしていかう。
 
 
 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
 

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2020年11月15日

1/4〜1/7 連続講座「言語造形とアントロポゾフィー」



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冬の言語造形・連続講座のお知らせです。 

わたしたちは、フィジカルなからだ(肉体)だけを使つて、ことばを話してゐるのではありません。

エーテルのからだ、アストラルのからだ、そして、〈わたし〉といふ、目には見えないところをこそ使つて、言語生活を営んでゐます。

そのことを感じながら、意識しながら、ことばを話す練習をしませう。ことばととひとつになりゆく体験を積み重ねませう。

書かれてゐる文字に、息を吹き込みませう。命を吹き込みませう。そして、ことばを空間一杯に響かせるのです。

それは、ことばを甦らせ、わたしたち自身のいのちとこころを甦らせます。

 
午後は、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーを平易に、かつ深く学んで行きます。

四日間の連続講座だからこそ、日常を突き抜けて、こころの奥深く、からだの奥深くに、芸術が働きかけます。

身体まるごとを使ひ、こころまるごとを注ぎ込み、そんな言語造形といふことばの芸術に、わたしと共に取り組みませんか。

それは、フィジカルなからだ、エーテルのからだ、アストラルのからだ、そして〈わたし〉といふ、四重の生を感じつつ生きる始まりです。

そして、言語造形に勤しむ人になりませんか。

講師: 諏訪耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji

日時:
令和三年1月4日(月)より7日(木)までの四日間
実践の部 午前10時より12時まで
理論の部 午後13時半より15時半まで

場所:
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

参加費:
四日間連続 32000円
単発参加 一日 10000円

お振り込み:
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904


 
お問ひ合はせ・お申し込み
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/


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2020年11月14日

精神からの何か


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「BEAUTIFUL PLANET EARTH」から


先日、ある人と話しをしてゐるうちに、どんどんこちらのこころが晴れやかに、健やかになつて行くのを感じたのです。


その時、確かにわたしが持つたのは、精神から発せられることばと声を聴いてゐるといふ感覚でした。


ルサンチマン・恨みつらみからではなく、精神から発せられてゐるならば、たとへ、その発言が怒りから発せられてゐるとしても、その声とことばは、聴いてゐる人の深みに健やかに働きかける。


そのことをとても強く感じて、嬉しかつた。


発言のひとつひとつ、書くことのひとことひとことに、精神からの何かがあるのかないのか。


わたし自身、顧みることを常にしたいし、だんだんとリアルタイムで感じられるやうになりたい。


さう思ひます。


では、精神とは、何か。


それに対する答へではなく、その問ひそのもののリアリティーを見失はないことがたいせつなことであるとも感じられます。





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2020年11月13日

滋賀県草津 両親の問診時間 11/17(火)のお知らせ


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オリジナルラブ アルバム『bless you』ジャケットから


いま、わたしは何かを考へてゐる。
いま、わたしは何かを感じてゐる。
いま、わたしは何かを欲してゐる。


自分自身のそれらのこころの営みをていねいに見てとる。そこからこそ、アントロポゾフィーの学びは始まります。


そして、今回のテーマは、「生涯のパートナーと結婚の意味」です。


結婚といふこと、家庭といふこと、それがまぎれもない自己教育の場であることを確かめていきます。


初めての方でも、ご参加いただけます。



●11月17日(火)
「生涯のパートナーと結婚の意味」 


●12月15日(火)
「課題としての結婚」


●1月19日(火)
「家庭と仕事への力の泉」


●2月16日(火)
「こころの織りなし、からだのつくり」


以降も毎月第三火曜日に学びの会は続きます。


保育(有料)も受け付けいたします。
どうぞ奮ってご参加下さい。



講師: 
諏訪 耕志
https://www.facebook.com/koji.suwa


場所:
滋賀県草津市内 個人宅
(お申し込みいただきました方に詳しくお知らせします)


参加費:
単発ご参加 3000円
4回連続ご参加 10000円
講師の交通費(大阪市内玉出駅・南草津駅間)を
その日の参加者で頭割りしてご負担していただいています。
どうぞご了承下さい。


お申し込み・お問い合わせ:
筒井 聡子さん
https://www.facebook.com/satoko.tsutsui.1





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2020年11月11日

命ある芸術 〜フルトヴェングラー『音と言葉』〜



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「まさに、我が意を得たり・・・!」
フルトヴェングラーの著書『音と言葉』の中の「作品解釈の問題」を読んでゐて、こころを揺さぶられました。


それは、作曲する者の営みと、その曲を再現・演奏する者の営みとを、対照的に描きつつ、つひには、ひとつのところへと収斂していきながらも、作曲した者も演奏する者も思つてもみなかつた、より広やかでより奥深い境へと解き放たれていく、そんな芸術的な秘儀の道筋を描いてくれてゐる。


かういふことばで言ひ表しにくいことを的確に言ひ表してくれる先人があることは、本当にありがたいことです。


これは、文学作品を音声として芸術化する時にもそのまま当て嵌まるのです。


なかなか、このことは上手く言へないのですが、今日の言語造形のクラスでも実感したこととして、鍵は、足の運び、腕の動きにあります。


つまり、意欲をいかにして芸術的に洗練させるか。眠れる意欲こそが、新しい生き物を産み出す秘訣。特に足の運びは、普段無意識でなされてゐるけれども、その無意識の領域、眠りの領域にまで、ことばを降ろすことができたとき、ことばが命を持ち、また、新しいことばが生まれてくる。


この、眠りの意識にこそ働きかけるありやうは、書く人にも、それを再現する人にも、ことばの生命に預からせます。


ゲーテは、狭い書斎の中を歩き回りながら、『ファウスト 第二部』の彫りの深いことばを次々と秘書に書き取らせていつたさうです。


きつと、『ファウスト』を演じる俳優も、その足の運びが、ものを言ふはずです。


要(かなめ)は、ものに命を吹き込むこと、ものの命を汲み取ること、ものから命を甦らせること、そのためには、人はみづからの意欲をもつて芸術的にものに働きかけていくことだと思ふのです。



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こころのこよみ(第31週) 〜「事」と「言」と「心」〜



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本居宣長自画像



精神の深みからの光が、

まるで太陽のやうに輝きだす。

それは生きる意欲の力になり、

そして、おぼろな感官に輝きいり、

力を解き放ち、

こころから創らうとする力を

人の仕事において、熟させる。


Das Licht aus Geistestiefen, 
Nach außen strebt es sonnenhaft.
Es wird zur Lebenswillenskraft
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit, 
Um Kräfte zu entbinden, 
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben 
Im Menschenwerke reifen lassen.           



「精神の深みからの光が、
 まるで太陽のやうに輝きだす」


わたしたちは、太陽の輝きには馴染みがある。


しかし、上の文を読んで、
「まるで太陽のやうに輝きだす
 精神の深みからの光」
をどう捉へていいものか、
途方に暮れはしないだらうか。


この文、これらのことばの連なりから、
どのやうなリアリティーを
摑むことができるだらうか。


ことばのリアリティーを摑むために、
何度もこころの内に唱へ、
口ずさんでみると、
どうだらうか。
 
 
水が集つて流れるやうに声に出すことを
「詠む」といふさうだが(白川静『字訓』)、
そのやうな活き活きとした息遣ひで味はつてみる。
 
 
また、
その川底に光るひとつひとつの石を見るやうに、
一音一音、味はふやうにしてみる。
 
 
そのやうにことばを味ひ、
ことばの響きに耳を澄まさうとすることにより、
こころの静けさとアクティビティーを通して、
「精神の深みからの光」が、
「事」として、だんだんと顕れてくる。
 
 
ここで言はれてゐる
「事」と「言」が重なつてくる。
 
 
「考へる」が「感じる」とかさなつてくる。
 
 
また、過去に幾度か経験した
「輝きだす」瞬間を想ひ起こし始める。
 
 
そのやうにして、
リアリティーの糸口が見いだされてくるにつれて、
いまこの瞬間において、
「精神の深みからの光」が、
こころに降りてくるのを感じ、覚える。
 
 
そのやうにして、
「事(こと)」と
「言(ことば)」と
「心(こころ)」が、
光の内に重なつてくる。
 
 
その重なりが、
こころの内なる化学反応のやうに
生じてくるのを待つ。
 
 
 
  
 

「精神の深みからの光」
 
 
その「光」こそが、
「生きる意欲の力になり」、
「こころから創ろうとする力を、
 人の仕事において熟させる」。
 
 
意欲をもつて生きるとは、
どういふことなのか。
自分の仕事において創造力が熟してくるとは、
どういふことなのか。
 
 
まづ、
内なる「光」といふもののリアリティーを得ることで、
それらのことが分かる道が開けてくる。
こころを暖め、熱くさせながら。
 
 
光だけを生きるのではなく、
熱をもつて仕事に向かい始める。
 
 
「考へる」「感じる」が、
さらに「欲する」とかさなつてくる。
 
 
「事」と「言」と「心」が、
さらに幾重にもかさなつてくる。
 
 
今週、
精神の光・考へる働きが、
活き活きと感じる力となり、
生きる意欲の力になり、
仕事を熟させていく。
 
 
その「事」を、
ことばとこころで辿つていかう。
 
 
 
 
 
精神の深みからの光が、
まるで太陽のやうに輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝きいり、
力を解き放ち、
こころから創らうとする力を
人の仕事において、熟させる。
 

posted by koji at 13:51 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月10日

風の人


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ルオー『キリストと漁夫たち』


芸術をする人は、ときどき、おかしなことを言ひます。普通の感覚では決して捉えることができない、おかしなことを言ひます。今日もおかしなことを言ひます。


人の息遣ひから、ことばが、生まれる。
さらに、風から、人は生かされてゐる。
風、それは、神の息遣ひである。
そこに、言語造形の稽古は常に帰つていく。


昨日の言語造形クラスでも、言語造形の基本に立ち返つて、まづ最も基本の身ぶりに取り組んだ。それは、歩みつつ「息をする」といふ身ぶりだ。


普段よりも活き活きとした、より深くなされる息遣ひから、ことばと共に、見えない身振りが生み出され、繰りなされてくる。その息遣ひの中にこそ、生きた身ぶりが不可視のつくりでつくりなされる。


外から取つてつけた身振りではない、息遣ひから生まれてくる「空氣人間のすがた」「風からなる人のすがた」だ。そのすがたは、わたしたちに「人のおほもとのすがた」を想ひ起こさせてくれる。


そのすがたは、遙かな昔に人がとつてゐたすがたであり、そして、遙かな先にわたしたちが意識的に勝ち取るであらうすがたでもあつて、芸術に取り組む人は、そのことをだんだんと先取りしながら、未來にあるであらう「人のすがた」を密やかに提示していく。


それは、ことばが、單に情報を伝へるためだけの抽象的なものではなく、活きたことばとなり、人そのものとなり、そして、だんだんと、人がことばそのものとなることである。


「はじめにことばありき」へと、これからはだんだんと遡つていくのだ。


ヨハネ福音書に、キリストのことばとして、かうある。


まこと、まこと、わたしは、あなたに言ふ、
それ、人、水と風から生まれん、
そも、さにあらずんば、人、天の国に入るを得ず
(ヨハネ 三章五節)





posted by koji at 14:44 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月08日

旋律造形と言語造形



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ここに書かれてゐる「指揮するといふこと」についての小西収さんの文章は、何十年来持ち続けてゐるわたしの自問自答の道に一筋の光をもたらすものです。


時間といふ動きの世界の中で、何をよりどころにして、そして、いかにして、人は新しい世界を創造していくことができるのか。


一瞬一瞬の精神の身振りによつて、おのづから鳴らされる一音一音の音、音韻にわたしたち演者は導かれてこそ、恣意から大きく飛翔できる何かにまみえることができる。


その身振りの創造。その持続。


「冷静に言えば、できるはずのないこと」に「賭けている」。


その行為そのもの、その行為の持続そのことに、かけがへのない「意味」がある。


わたしには、さう思へて仕方がありません。


なぜならば、大仰な言ひ方になつてしまひますが、それこそが「音楽の神」「ことばの神」に導かれつつ、歩いてゆく道だと思ふからです。


出逢ひの僥倖をひたすらに思ひます。


ーーーーーー


言語造形家・ 諏訪 耕志さんの公演『やさしい世界の終はり方』、大阪、京都の2公演が終わりました。クラリネット演奏で共演させて頂きました。写真は今回のために編んだ楽譜の一部です。こんなことを考えこんなものを作るのもなかなか珍しい、と我ながら思っています(笑)。
 
今回はトークのコーナーもありました。が、当意即妙というのは苦手で…特に京都では、せっかく諏訪さんに振ってもらったお話に十分には応じることができなかったなあ、と省みておるところです。そこで、今ここで答えてみようかと思い立ちました。本来会場でこそ聞けるトークでしたので、ご来場頂いた方々にはご寛容のほどお願いしたく…、野暮を承知で書こうと思います。
 
指揮者とは何をしているのか。
 
「奏者が気持ちよく音を出せるように」とか「合わせやすいように示す」といったところに焦点を持つ指揮法・指揮者論が主たる潮流の一つとしてあることをもちろん知っていますが、私の指揮はそれとは異なる方の流儀といえます。もちろん、私の全身を奏者が読み取ってくれたおかげで、その奏者が弾きやすくも合わせやすくもなる…というふうに進めばたいへん幸いなことで、ぜひそうありたいものですが、それでもそれは結果に過ぎず、私にとっては、それが指揮をする目的ではありません。
 
「身振りそのものが、何らか、演奏する音符自体音楽自体をそのまま体現するものである」ように注力すること。私は、普段からほぼそれだけを考えています。極言すれば、その動きさえ追えば音を聴かなくとも曲がわかりどんな演奏かもわかる!のが理想です(笑)。実際の音楽は無くてもよいというのは、何とも荒唐無稽で反転した言い方ではありますが…。しかし、自らは音を出さずに、ひたすら空を切っては消えていく指揮者の動き、それは、1曲のスコアの中身を表すのにはあまりにも持ち合わせが少な過ぎるように思えます。しかも、上記で「全身」と書きはしましたが、主として用いるのはせいぜい両腕と両五指のみ。そのような指揮者の身振りに、1曲の音楽世界のすべてを体現する…なんて、冷静に言えば、できるはずはないのでしょう。が、そこに賭けている、というのもほんとうなんです。
 
初めて諏訪耕志さんの言語造形の舞台に接したとき、ああ、この人は私と同様の格闘をされている!と強く感じたのでした。一文・一語・一音を生成させることに賭けるという、無二の芸術。京都公演に来場した親友のKがいみじくも「神は細部に宿る」と。そう!この言葉こそふさわしい。その一瞬一瞬を聴き追うことが、言語造形鑑賞の醍醐味です。私は私の表現追求のことを「旋律造型」という造語で言うことがあるのですが、言語造形という語句との共通性も偶然ではないと思いました。そのようなわけで、諏訪さんとの共演(諏訪さんへの助演)は、指揮ではなくクラリネット演奏によってではありますが、他ではけっして得られない体験を与えられ、私の芸術活動の中でも小さくない意味を持ち続けます。

文 小西収氏


ーーーーーー

posted by koji at 12:15 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

世は美しい 〜国語教育のこれから〜



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晩秋の箕面山


「百人一首の歌をいまやつてるねん」と言ひながら、小学六年生の次女が、国語の教科書を持つてきました。


奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
声聞く時ぞ秋は悲しき 
猿丸大夫


秋風にたなびく雲の絶え間より
もれ出づる月の影のさやけさ
左京大夫顕輔


嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
龍田の川の錦なりけり
能因法師


鹿の鳴き声が悲しいといふこと。


雲からもれ出づる月の光をうち見るときの感覚を「さやけさ」といふことばで言ひ表すといふこと。


川面に落ちたたくさんのもみぢの葉の流れる様を「錦」と見立てること。


子どもにとつては、いまだ経験したことのない景色と感情かもしれません。


しかし、まづ、このやうに、日本人は、詩人によつて「選ばれたことば」で、世を観ることを習つてきたのです。


さうして、鳴く鹿の声は悲しく哀れだ、と感じてきたのです。


そのやうに詩に、歌に、ことばで誰かによつて言ひ表されてゐなければ、ただ、鹿が鳴いてゐるだけであり、ただ、月が出てゐるだけであり、ただ、川に葉っぱが流れてゐるだけとしか、人は感じられないはずです。


国語とは、価値観であり、世界観であり、人生観であり、歴史観です。


世は美しい。


その情を最も豊かに育むことができるのは、小学生のころ。


国語の風雅(みやび)を謳歌してゐる古い詩歌が、そんな教育を助けてくれます。


その時、その高い情は、決して先生や大人から押し付けられるのではなく、子どもひとりひとりの内側でおのづから生まれてくるのを待たれる情です。


しかし、その高い情を、大人がまづ真実、心底、感じてゐなければ話になりません。


そのやうな、子どものうちにことばの芸術を通して生まれてくる情を待つこと、それが国語教育です。決して、決まり切つた情、決めつけられた作者の意図などを教え込むことが国語教育ではありません。


作者の意図を汲み取らせることなど、特に小学校時代には意味がありません。知性で意図されたものなど、たかが知れてゐます。ことばといふものは、それを話す人、それを書く人にも、意識できないところを含んでゐて、その意識できないところに潜んでゐる豊かな世界を、それぞれひとりひとりの人が汲み上げて行く喜び。それこそが国語芸術の存在意義です。そのやうな含む所豊かな本物の文章しか、時代を超えて残りません。どんな小さな子にも本物を与えることが、大人に課せられてゐる課題です。


この世がどんな世であらうとも(いま!)、子どもたちのこころの根底に、「世は美しい」といふ情が脈々と流れ続けるやうに、わたしたちができることは何だらう。


そんなことを念ひます。





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2020年11月06日

息遣ひの徳用(さきはひ)〜フィジカルなからだから羽ばたく〜



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ある秋の日の四条畷の空


あなたは、フィジカルなからだの中に、こころを持つてゐるのでは全くない。

あなたの息遣ひのうちに、こころは生きてゐる。

わたしたちは、風の中にこころを持つて生きてゐる。

息を吸ひ、吐くときに、こころは風の中を、風と共に泳いでゐる。

地球は絶えず重力をもつて、人を病と死に追ひやらうとするが、呼吸をすることで、人は地球のその働きかけから守られ、健やかに生きることができる。

息遣ひとは、地球から与へられてゐる働きではなく、大いなる世(宇宙)から与へられてゐる働きであり、人のこころとからだの健やかさを守り、育む。

(ルドルフ・シュタイナー「精神科学における感官への教育の礎」第八講より)


言語造形といふ芸術は、その息遣ひを促すことにおいて、法則に沿ひつつ、かつ、フィジカルなからだから羽ばたいて、空間へとこころを自由に解き放ちます。その行為が、する人を、また聴く人をも、健やかさへと促すのです。




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2020年11月05日

文学の徳用(さきはひ)



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芸術、特に文学には親しんでおいた方がいいと思ふのです。


文学は、人といふものの複雑さ、怪奇さ、異常さ、怪しさ、崇高さ、美しさ、愛らしさ、駄目さ、情けなさ・・・といふやうなありとあらゆる人の内なるものを感じ、知ることのできるものだからです。


例へば、何かに対して極端に感情的な嫌悪を表す人は、その何かに対する羨望を密かに隠し持つてゐることなど。怪奇なことです。


具体的に挙げると、権力といふものに対して嫌悪を抱く人の内側には、密かに、権力を持つことへの欲望が隠れ潜んでゐたり、政治家の腐敗や芸能人のスキャンダルなどをやたらとバッシングする人の内側には、自分自身もできるならそのやうな酒池肉林の体験をしてみたいといふ隠れた欲望を持つてゐたり・・・。


そのやうに、自分自身が「正義」であることを振り回すことが、実は、無意識のジェラシー・嫉妬、そして恐怖からの振る舞ひであること、この社会では結構ありますよね。


「権力」といふものに対する欲望が自分自身の内にもあることや、自分自身も決して清廉潔白であり続けることなどできないことを認めることができてゐたり、または、人の世には「権力」といふものも必要な時と場があることをしつかりと認めることができてゐる人は、「権力」や「腐敗」に対してさほど感情的にもならないでせう。


そのやうな人の内をみて、自分自身を顧みる練習をするのには、文学がうつてつけです☺️


もちろん、文学、芸術には、人の崇高さ、偉大さ、美しさを描くといふ中心課題があるからこそ、それを精神の糧として取り込むことなしに、人は人として生きて行くことができないのです。


この二週間は、漱石の『行人』、三島由紀夫の『仮面の告白』、又吉直樹の『劇場』にどつぷりと浸かつてゐました。



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2020年11月04日

ありがたうございました!京都「やさしい世界の終はり方」



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昨日、京都の北山にあるカフェ・ヨージクにて、
言語造形公演『やさしい世界の終はり方』を終へました。


このコロナウイルス禍の中、
ゐらして下さつたカフェ一杯のお客様、
素敵な場を設へて下さつたカフェ・ヨージクさん、
そして、写真撮影から受付まで荷つてくれた前田さんご夫妻、
本当にありがたうございました。
こころからお礼を申し上げます。


言語造形を通して実現したい空間と時間。
それをことばで説明することほど、
野暮なことはないと思ひます。


しかし、言語造形をする者が挑んでゐることを、
舞台から見事に観て取り、聴き取り、汲み取つてゐる、
そんな聴き手がゐて下さつたこと。


そのことを終演後の語らひのひととき、
書いて下さつたアンケートからや、
打ち上げ(最高の時間!)のときに、
知ることができました。


演者とは、それなりの矜持を持ちつつも、
返事の来ない便りを瓶に詰めて、いつも、
海に向かつて放擲し続けてゐるやうな者ですので、
かうした反応をいただくことは、
渇き切つた喉に、
次なる創造に向かふための
一滴のかけがへのない水を感じさせてくれます。


今回もまた、クラリネット演奏者として、
小西収さんにご一緒していただいたのですが、
共演して下さる方が、
この言語造形といふ舞台芸術が何を意味し、
何に向かつてゐるのかといふことに対する意識を、
深いところで共有して下さつてゐること、
これは本当に心強く、ありがたいことです。


そのクラリネットの響きと調べは、
ことばのやうに聴き手に語りかけて来たと、
お客様から感想をいただきました。


その選曲の妙を改めて感じたと共に、
わたしも横で、
小西さんによつて奏でられるクラリネットの調べに触れ、
なにかわたしの内側にぐいぐいと入り込んでくるものを
昨日は感じました。


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複数の作品を取り上げた今回のプログラムの中でも、
とりわけ、石村利勝氏の作品、
『小さな村で見た』『やさしい世界の終はり方』での、
ことばの音韻ひとつひとつが、
空間の「ここぞ」といふ場所に置かれる様、
そしてその音韻から音韻に亘る、
フォルムの繋がり、拡がりから生まれるこころの美しさに、
深い感銘を伝へて下さつたお客様が複数ゐらつしやつたこと。


この二作品に向けて、
コロナウイルス禍の中、
アトリエで毎日、毎日、稽古して来たものですから、
とりわけその作品で、
そのやうに精神的にお客様と通じ合へたことは、
わたしにとつて何よりもの何よりもの贈り物でした。


昨日の公演を終へて、今朝は、
1952年フルトヴェングラー指揮、
ヴィーンオーケストラ演奏の
ベートーヴェンの第六交響曲「田園」に浸つてゐます。


今朝のゆつたりとしたわたしの想ひに、
とても寄り沿つてくれて、ありがたいです。




皆さん、本当にありがたうございました!
また、再演できる機会を望んでゐます。
聴きたい、演つて欲しいといふご要望がございましたら、
ぜひお知らせください。
飛んで行きます(笑)。
なにせ舞台芸術は演じる回数がものを言ひますので・・・。


そして、最後に、
珠玉の作品をこころよく提供して下さつた、
石村利勝さん、
本当にありがたうございました。
こころからお礼を申し上げます。



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2020年11月02日

こころのこよみ(第30週) 〜秋の喜び、垂直性〜



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こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
 
考へることの豊かな実り。
 
みづからを意識することの確かさにおいて、
 
すべての感じ方が変はる。
 
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
 
秋の精神の目覚めを。
 
「冬はわたしの内に、
 
こころの夏を目覚めさせるだらう」
 
 
 
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht  
Des Denkens reife Früchte, 
In Selbstbewußtseins Sicherheit
Verwandelt alles Fühlen sich.
Empfinden kann ich freudevoll
Des Herbstes Geisterwachen:
Der Winter wird in mir
Den Seelensommer wecken.  
 
 
 
 
秋が深まつてきた。
 
 
それまでの曖昧で不安定だつた
考へる力の焦点が定まつてきて、
本当にこころから考へたいことを
考へられるやうになつてくる。
 
 
考へたいことを考へる。
 
 
その内なる行為こそが、
こころに太陽の光をもたらす。
 
 
それは、わたしの場合、
本当に喜ばしいことで、
考へる力に濁りがなくなつてくると、
感情も清明になり、
意欲にも火がついてくるのだ。
 
 
そして、本、文章、テキスト、さらには、
人とのいい出逢ひに恵まれるやうになつてくる。
 
 
生きることの意味。理想。希望。
 
 
それらの考へと情が、
わたしにとつて何よりも気力と意欲、
そして喜びを起こしてくれる。
 
 
そのことを実感できる日々はありがたいものだ。
 
 
見えるものについてただ無自覚に考へ、
なんとなく思ひ続けてゐるよりも、
見えないものへの信を深めるやうな、
考へと情を育んでいくことが、
どれだけ、こころを目覚めさせることだらう。
 
 
ものがただ並んでゐる平面を生きることよりも、
ものといふものにおける垂直を生きること。
 
 
秋から冬への生活とは、
そのやうな「ものへゆく道」
「深みを見いだす生活」になりえる。
 
 
日々のアップ・アンド・ダウンはある。
 
 
しかし、週を経るごとに、
こころが織り目正しく織りなされていく。
 
 
そして、「わたしがあること」の
安らかさと確かさをもたらしてくれる。
 
 
ありがたいことだと思ふ。
 
 
 
 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考へることの豊かな実り。
みづからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変はる。
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
秋の精神の目覚めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覚めさせるだらう」

posted by koji at 07:00 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月01日

11/3(火・祝)京都 言語造形公演 「やさしい世界の終はり方」



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絵は、カフェ・ヨージクのために描かれたOlga Yakubovskayaさんによるもの



前回の大阪での公演から、
引き続き、毎日、
作品に取り組んでゐるのですが、
前回には訪れもしなかつた感情が、
作品から、ことばから、余韻から、
その都度その都度、
新しく立ち上がつて来ます。


舞台といふ場所に向かつて、
かうして毎日稽古ができることで、
作品に対する、
人といふものに対する、
新しい情、新しい認識に恵まれる。
作品が新しく秘密を打ち明けてくれる。
こんなありがたいことはありません。


このたびの公演は、
七つの詩と物語を、
豊かなクラリネットの響きと共に、
深い息遣ひと共に、
聴いていただきます。


●演目
・「幼い日」 八木重吉
・「おこぶちゃん」 ミヒャエル・エンデ
・「戦場の兵士」 作者不明
・「人形」 小林秀雄
・「大阪弁で人生の痛恨を救済できるか」 井上俊夫
・「小さな村で見た」 石村利勝
・「やさしい世界の終はり方」 石村利勝



言語造形の新しい世界を、
今回は京都にて、
どうぞお楽しみください!


言語造形:諏訪耕志

クラリネット演奏:小西収





京都公演 
11月3日(火・祝)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
カフェ ヨージク
http://www.life-info.co.jp/cafe/cafeyojik.html


参加費: 
ご予約 2500円  当日 3000円
終演後にカフェでの1オーダーをお願い致します。


お申し込み: 
ことばの家 諏訪 
https://kotobanoie.net/access/


お振り込み:
// ゆうちょ銀行から//
記号10260 番号28889041 スワ チハル

// 他銀行から//
店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904


※ 会場では、特にウイルス対策はいたしません。
 マスクを着用につきましても、
 おひとりおひとりの判断にお任せいたします。


詳しくはこちら↓
https://kotobanoie.net/play/




posted by koji at 20:02 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月29日

大阪公演のご感想



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先日の言語造形公演を聴いて下さつた方が、
感想を寄せて下さいました。
ありがたいことです・・・。


ーーーーーー


大阪公演を実際に見てきました。
言語造形。
ことばで説明するのはとても難しいですが、
ことばとして響いているものの奥に、
何かほんとうのものがある。
クラリネットの素晴らしい音の奥にも
同じように深く響くものがある。
それがわたしの奥で触れ合って、
ただただ感動しました。
一つ一つの物語が、
ほんとうにあったことのように思えました。
見終わった後も、
自分の生活のなかに物語のかけらが生きているのです。
本当にあたたかく優しい舞台です。
(t.m.さん)


ーーーーー


11/3(火・祝)京都言語造形公演 
詩と物語「やさしい世界の終はり方」




posted by koji at 19:26 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月28日

ことばといふ世界



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ことば、といふものは、
人の世界観を形作るものです。


人はこの世に生まれて来て、
教育を受けなければ、
桜が美しいと感じるやうにはできてゐない。


さくら花 ちりぬる風の なごりには
水なきそらに 浪ぞたちける   紀貫之


このやうな、
先人によることばの美に触れるからこそ、
桜、ことにその散りゆく様に、
もののあはれを、美を、
感じるやうに人は教育されうるのです。


ことば、とは、そもそも、
美を伝へるものであります。
それゆゑ、情を育むものであります。
そして、「人の情(こころ)を知る」べく、
「もののあはれを知る」べく、
和歌が歌はれ、
ことばからことばへと文が編まれます。


「もののあはれを知る」
これこそが源氏物語の肝だと、
本居宣長は喝破しました。


王朝における精神生活の深まり。


それは、研ぎ澄まされたみづからの感覚を、
どうことばで言ひ定めることができるのか、
不定なこころの揺れ動きを、
どうことばに鋳直すことができるのか、
といふ現代人にも通ずる、
人生とことばの渡り合ひそのものです。
一千年以上前の王朝の人々、
とりわけ女性たちが、
その渡り合ひの深化を促しました。


文化の種を蒔くのは男性性かもしれませんが、
文化を文化として見いだし、
担保し、育むのは女性性ではないでせうか。


そのやうなひとりの人の内なる渡り合ひが、
また、男と女のひめやかな渡り合ひが、
王朝において日本精神文化の基盤を創り上げました。


日本人の育んできた世界観、
それは主にことばの美から、
創り上げられて来たのです。


ことば一語一語の用ゐ方、運用の仕方に、
ひとりの人のこころのすべてが賭けられてゐる。
そのやうな働きをする詩人たちの精神が、
過去にも現在にもあるからこそ、
ありきたりな言語生活を営んでしまひがちな、
わたしたち凡夫に、
目覚めを促してくれます。
「汝みづからを知れ」といふ目覚めを、です。


言語造形をするわたしは、
その目覚めへと人を促す詩人たちのことばを、
生き物として、声として、
空間に響かせることへと挑戦します。


詩人が意を注いだ、
一語一語、一音一音に耳を澄ませながら、
淀みない息の流れの中にことばを解き放つ。
さうして、あたらしい世界が、
ことばの響き、余韻から、生まれる。


そんな文化の誕生を、
いつも思つてゐます。



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2020年10月27日

11/3(火・祝)京都 言語造形公演 詩と物語「やさしい世界の終はり方」へのお誘ひ



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自分が大好きな時間を、
こんな風に創ることができて、
また、その時間を共にしたいと思つて、
足を運んでくださる方があるといふこと、
本当にありがたく、
これほど仕合はせなことはありません。


七つの詩と物語を、
豊かなクラリネットの響きと共に、
深い息遣ひと共に、
聴いていただきます。


●演目
・「幼い日」 八木重吉
・「おこぶちゃん」 ミヒャエル・エンデ
・「戦場の兵士」 作者不明
・「人形」 小林秀雄
・「大阪弁で人生の痛恨を救済できるか」 井上俊夫
・「小さな村で見た」 石村利勝
・「やさしい世界の終はり方」 石村利勝



言語造形の新しい世界を、
今回は京都にて、
どうぞお楽しみください!


言語造形:諏訪耕志

クラリネット演奏:小西収





京都公演 
11月3日(火・祝)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
「カフェ・ヨージク」 
http://www.life-info.co.jp/cafe/cafeyojik.html


参加費: 
ご予約 2500円  当日 3000円
終演後にカフェでの1オーダーをお願い致します。


お申し込み: 
ことばの家 諏訪 
https://kotobanoie.net/access/


お振り込み:
// ゆうちょ銀行から//
記号10260 番号28889041 スワ チハル

// 他銀行から//
店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904


※ 会場では、特にウイルス対策はいたしません。
 マスクを着用につきましても、
 おひとりおひとりの判断にお任せいたします。


詳しくはこちら↓
https://kotobanoie.net/play/


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2020年10月25日

さとりの化けもん 〜精神みづからによる自己教育〜





秋も深まつて来ますと、
人のこころも、
外のものごとに向けられることから、
内なる精神に、
向けられるやうになりはしないでせうか。


その人その人の内なる精神のことを、
シュタイナーは、
「精神みづから Geistselbst」と名付けました。


わたしが〈わたし〉に意識を向け、
〈わたし〉に問ひかけるとき、
精神である〈わたし〉、
「精神みづから」は、
どのやうな内容をわたしに伝へるでせうか。


まづもつて、
わたしが考へてゐること、
感じてゐること、
欲してゐることを、
鏡に映すやうに伝へてくれるでせう。


それが、精神みづからによる、
自己教育の始まりです。


もしかしたら、
精神みづからが示す鏡像は、
おぞましいものかもしれません。
精神みづからも美しいすがたで現れるか、
おぞましいすがたで現れるか、
その人のこころのありやうをきつと示すはずです。
そして、それは、秋から冬にかけて、
内において顕れます。


ドイツでは、
庶民のことばで「マーネン(Mannen)」として、
日本では、八百萬(やをよろづ)の神々として、
「低いわたし」の顕れから、
「高い、まことの〈わたし〉」の顕れに至るまで、
それら精神みづからがらが言ひ表されてきました。


そのやうな精神からこころへの、
自己教育(こころざし)の内実は、
絵姿を湛えた神話や昔話、メルヘンを通して、
どの民族においても語られてきました。


日本にも、さういふお話があります。
『さとりの化けもん』です。




言語造形(Sprachgestaltung)とは、
ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、
ことばの芸術です。
ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、
シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。


わたしたち「ことばの家 諏訪」は、
大阪の住吉にて、
その言語造形を学ぶ場を設けています。


「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/




「言語造形 ことばの家諏訪」チャンネル登録、
どうぞよろしくお願ひします!
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/featured?view_as=subscriber

こころのこよみ(第29週) 〜コトバ第一ナリ〜



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Marina Fernandes Calache「詩」



みづから考へることの光を、

内において力強く灯す。

世の精神の力の源から、

意味深く示される数々の験し。

それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、

秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。


Sich selbst des Denkens Leuchten 
Im Innern kraftvoll zu entfachen, 
Erlebtes sinnvoll deutend
Aus Weltengeistes Kräftequell,
Ist mir nun Sommererbe,
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.  



改めてこの夏を振り返つて、
夏といふ季節からの贈り物は、何だらう、
さう問ふてみる。


それは、「ことば」であつた。
 

「わたしはひとりである」といふ「ことば」だつた。


いま、秋になり、外なる静けさの中で、
その「ことば」を活発に消化する時であることを
わたしは感じてゐる。


そして、来たる冬において、
その「ことば」は、血となり、
肉となつて、
生まれ出る。


夏に受けとられ、
秋に消化された「ことば」が、
冬には、
「己れのことば」、
「わたしの内なるひとり生みの子」、
「わたしの仕事(ことに仕へる)」として、
世へと発信される。


そんなクリスマスへの希みがある。


夏に贈られた「ことば」があるからこそ、
この秋、その「ことば」を基点にして、
自分の情を鎮めることができる。
自分の考へを導いていくことができる。
自分の意欲を強めていくことができる。
そして、冬へと、クリスマスへと、備へるのだ。


メディテーションをする上にも、
余計なことを考へないやうにするために、
飛び回る鬼火のやうな考へや情を鎮めようとする。


しかし、いくら頑張つてみたところで、
どうにも鎮まらない時がよくある。


そんな時、
メディテーションのために
与へられてゐる「ことば」に沿ひ、
その「ことば」に考へを集中させていくと、
だんだん、おのづと、
静かで安らかなこころもちに至ることができる。


「ことば」を先にこころに据ゑるのだ。


その「ことば」に沿ふことによつて得られる感覚。


日本人においては、
特に、万葉の歌を歌ふ頃から時代を経て、
「古今和歌集」の頃もさらに経て、
「新古今和歌集」が編まれた頃、
その「ことば」の感覚が、
意識的に、尖鋭的に、磨かれてゐたやうだ。


歌を詠むこと、詠歌において、
「題」を先に出して、
その「題」を基にして、
まづ、こころを鎮め、こころを整へて、
その後、歌を詠んだのである。


こころの想ふままに歌を歌へた時代は、
だんだんと、過ぎ去つていつたのだ。


こころには、あまりにも、
複雑なものが行き来してゐて、
それが、必ずしも、
歌を詠むに適した状態であるとは限らない。



ーーーーー


詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ

トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ

コトバ第一ナリ

(本居宣長『あしわけ小舟』より)


ーーーーーーー


「ことば」が、
こころの内に据ゑられてあるからこそ、
「ことば」といふ手がかりがあるからこそ、
わたしたちはみづからのこころのありやうを、
手の内に置くことができるやうになる。


わたしたち日本人は、長い時を経て、
歌を詠むことを通して、
「ことば」の世界に直接入り、
「ことば」の力に預かりながら、
己れのこころを整へ、
情を晴らし、
問ひを立て、
明日を迎へるべく意欲をたぎらしてゐた。


秋になり、
わたしたちは夏に贈られた「ことば」を通して、
妄念を鎮め、
こころを明らかにしていくことができる。
さうして初めて、
「みづから考へることの光を、
 内において力強く灯す」。


歌を何度も何度も口ずさむやうに、
メディテーションを深めていくことが、
来たる冬への備へになるだらう。



みづから考へることの光を、
内において力強く灯す。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。





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2020年10月21日

ひとつの批評 〜漱石「夢十夜」〜



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今日、言語造形のクラスをしてゐて、
夏目漱石の『夢十夜 第一夜』によつて、
部屋一杯に満ちる悲しみと、
その情の昇華に、
激しくこころを揺さぶられたのでした。


黙読するだけでは、
感じることのできないやうな、
女といふものへの、
漱石の乞ひ求めの切実さと切迫。
男といふものの性(さが)が持つ、
どうしやうもなさからの救ひへの渇望の深さ。


それは、神話に語られてゐる、
イザナギノミコトとイザナミノミコトによる、
「みとのまぐはひ」から、
「黄泉平坂(よもつひらさか)での別れ」以来の、
男と女の間に起こらざるをえない運命の必然を思はせます。


漱石に対する評論は、
全く読んだことはありませんが、
(近々、江藤淳のものを読むつもりでゐるのですが)
言語造形によつて作品が「演奏」されることは、
ひとつの最上の批評になりうるのではないか、
さう実感するのです。



posted by koji at 20:28 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ふたつの悪魔



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己れが愛してゐることを、
仕事としてすることができることほど、
ありがたいことはない。
今朝、仕事に行くために、
長い時間、電車に乗つてゐて、
心底、さう思つたのでした。


二十九歳のとき、
師匠である鈴木一博さんの講義を聴き始め、
言語造形の稽古をつけてもらひ始めました。
そのとき、すぐに、
アントロポゾフィーを己れのものにして、
自分自身のことばで自由自在に語ること、
そして言語造形といふ芸術を生きること、
そのふたつのことを仕事にするのだ。
さう、こころを決めたのでした。
彼の講義を聴きつつ、
おのづから、さう、こころを決めてゐたのでした。


こころを決める。
ああだ、かうだ、言はずに、
自分の実力や、向き不向きなど思案せず、
こころを決める。


その不思議な志の誕生と巡り合はせに、
ただただ、感謝するしかないのです。


今日も、こころから語らせてもらつたことを、
こころから聴いて下さる方々がゐて下さる。
こんなにありがたいことはありません。


言語造形の舞台についても、
もうこの世に生きてゐる間、
ああだ、かうだ、言はずに、
ただただ、こつこつと、根気を持つて、
ひたすら創り続けるだけです。
そのために毎日稽古できることこそが、
自分自身への信頼を育て、
こころとからだを健やかになりたたせてくれます。
これも、本当にありがたいことです。


今日、させてもらつた講義は、
「理想主義」についてでした。


「理想」と「現実」といふことばは、
いまは、対義語のやうにして人々に使はれてゐますが、
そもそも、どちらも、
人が自己との闘ひから勝ち取るものであり、
他者や世から与へられるものではなく、
自分自身が創り出すものです。


本当の「現実」、本当の「理想」とは、
まぎれもなく、
「わたしがわたしになる」といふことではないでせうか。


「いい人になる」「素晴らしい成果を産み出す」・・・
それらも理想となりうるでせうが、
「わたしが〈わたし〉になる」
それこそが真の理想であり、
それこそが真の現実であり、
それは自己教育なしにはなしとげられないものです。
その他のことはすべて、
「わたしが〈わたし〉になりゆく」ことに伴つて、
必然的についてくる。


しかし、その自己教育を阻むふたつの働きかけが、
すべての人に及んでゐる。


ひとつは、ルーツィファーといふ、
人を虚ろな思ひ上がり、高慢、妄想、夜郎自大へ、
さらにはそれらの傾向と重なつて、
「人から認めてほしい」
「人から褒められたい」
「人から愛されたい」
といふ承認欲求の過剰、
と同時に他者への批判へと誘ふ、
悪魔、堕天使からの働きかけです。


まうひとつは、アーリマンといふ、
人を自己不信へ、自信喪失へ、自暴自棄へ、自殺へ、
さらにはそれらの傾向と重なつて、
諦め、不安、過剰な享楽、
自己への不満、自己への必要以上の批判へと誘ふ、
悪魔、堕ちた大天使からの働きかけです。


リアリスティックな自分自身の姿を直視せず、
思ひ上がつた自己像といふ幻想の中に戯れ続ける人。
それは、わたしのことでした。
ルーツィファーといふ堕天使に、
なずみ続けてきた長い年月でした。


幻想の中で自己に戯れることと、
リアリティーの中で自己と闘ふこと。
この間の違ひは、
年月を経れば経るほど大きくなつて来るのでした。


一方、アーリマンからの働きかけは、
日々、わたしの日常を当たり前に蝕んで行きました。
それは、わたしのまことのエネルギー、精神からの力を、
密やかに、しかし、確実に、毎日、殺いで行きました。
自己不信を確かに証明するやうに、
外の世もそんな仕事の成果をわたしに見せつけるのでした。


これからも、
そんなふたつの悪魔的な働きかけは、
休まずわたしに及ぶのですが、
「すべてに感謝すること」
「精神的なことに関心を持つこと」
「こつこつと根気を持つて、
 仕事を繰り返し続けて行くこと」
この三つを練習することによつて、
ふたつの悪魔に向き合ひつつ、
その働きかけを凌いで行く。
さうして少しづつ自由への道を歩みゆく。
それこそが人生であり、
さうして、
わたしが〈わたし〉になりゆくことこそが、
我が理想であることは確かです。


練習することを、こころに決める。
それだけです。



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2020年10月19日

こころのこよみ(第28週) 〜こころの太陽の力〜



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棟方志功『R火頌(かぎろひしやう)』より
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保田與重郎の和歌「火の國の阿蘇の神山神の火の魂依りしづか燃えていませり」


わたしは、内において、新しく甦ることができる。
 
己れであることの拡がりを感じる。
 
そして、力に満ちた考への輝きが、
 
こころの太陽の力から、
 
生きることの謎を解いてくれる。
 
いくつもの願ひを満たしてくれる。
 
これまで希みのつばさは、弱められてゐたのに。
 
 
 
Ich kann im Innern neu belebt          
Erfühlen eignen Wesens Weiten         
Und krafterfüllt Gedankenstrahlen        
Aus Seelensonnenmacht             
Den Lebensrätseln lösend spenden,        
Erfüllung manchem Wunsche leihen,       
Dem Hoffnung schon die Schwingen lähmte.   
 
 
 
わたしたちひとりひとりは、
こころにおいて、アクティブになれる。
 

それは、
影のやうな様々な死んだ考へを漠然と抱くのを止めて、
積極的に、こころの熱くなるやうな考へをリアルに持つときだ。
 

自分自身が本当に考へたいことのみを考へるときだ。
 

そのとき、考へが、干からびた枠組みだけのものから、
こころを熱く息づかせるいのちを持ち始め、こころは新しく甦る。
 

太陽は夏の間、外側に照り輝いてゐたけれども、
秋からは、こころの内に輝き始めることができる。
 

そして15世紀から始まつてゐる新しい時代において、
人が抱く考へがどんどん干からびたものになつてきたのも、
ちやんとした理由がある。
 

それは、わたしたちが生きてゐる20世紀から21世紀にかけて、
その死んだ考へを、ひとりひとりが意識的に、アクティブに、
こころの内でいのちあるものに変容させるためだ。
 

考へを活き活きとしたみずみずしいものに。
 

その変容は、秋といふ季節において起こり得ることであり、
またわたしたちの時代において起こし得ることである。
 

「内において、新しく甦る」
「己れであることの拡がり」
「力に満ちた考への輝き」
「こころの太陽の力」
 

なんと、力強い、
いのちのみずみずしさを湛えたことばたちだらう。
 

ことばを繰り返し繰り返し詠むことで、
ことばに湛えられてゐるいのちを汲み出さう。
 

声に出すことで、考へを活き活きと深めていかう。
 

考へがいのちを得て、こころが熱く息づく。
 

こころに太陽が輝き始める。
 
 

 
わたしは、内において、新しく甦ることができる。
己れであることの拡がりを感じる。
そして、力に満ちた考への輝きが、
こころの太陽の力から、
生きることの謎を解いてくれる。
いくつもの願ひを満たしてくれる。
これまで希みのつばさは、弱められてゐたのに。
 

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2020年10月18日

『やさしい世界の終はり方 大阪公演』無事、終はりました!



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『やさしい世界の終はり方 大阪公演』、
無事、終はりました。
このやうな状況の中、来て下さつた皆様、
こころより、こころより、感謝いたします。
本当に、本当に、ありがたうございました。
.
.
クラリネットを演奏して下さつた小西さんは、
ご自身の楽団「トリカード・ムジーカ」
を率いる指揮者でもあります。
.
.
終演後、彼が話をしてくれたのですが、
わたしたち、再現芸術に勤しむ者は、
作品そのものに全身全霊で取り組むことによつて、
作品そのものが語りかけてゐる
「秘めやかなことば」を聴き取ることが仕事である、と。
.
.
そして、演奏する時、意識するのは、
その作者が、生きてをられる方であらうと、
すでに亡くなつてゐる方であらうと、
その人に聴いてもらつてゐる、
その人に聴いてもらふのだといふことです。
.
.
より精確に言ふならば、
その作者と共にその作品の秘密に耳を澄ます、
といふことです。
.
.
わたしも全くさうでして、
今回の公演は、
詩人の石村利勝氏の作品を礎に据ゑた公演でしたので、
石村氏が聴いて下さつてゐるのだ、
といふ意識でありました。
.
.
また、この「ことばの家 諏訪」に、
何度も何度も通つてわたしの公演を聴いて下さり、
しかし、
いまはすでに亡くなられてしまつた何人かの方が、
今日共にここにゐて下さり、
お話と詩に耳を澄まして聴いて下さつてゐることを
感じながら、演じさせてもらひました。
.
.
今日といふ一日から、
わたし自身は新しい一歩を歩み始めようと思ひます。
この一歩を踏み出せたのは、
今日にいたるまでの、
多くの方のお気持ちのお蔭以外の何ものでもありません。
本当にありがたうございました。

posted by koji at 20:36 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月15日

小林秀雄「人形」 〜行間に秘められてゐるもの〜






和歌、そして俳諧(俳句)のやうに、
極限まで切り詰めたことばの響きの内に、
深々と揺蕩ひ、沈み込むやうなこころの営みと、
世のまるごとに亘るやうな精神の運動を包みこむ、
そんなことばの芸術が、
日本といふ国に育つてきました。


「もののあはれを知る」。
その文学の持つ意義を、
昭和の人、小林秀雄もその批評文の中に、
見事に引き継いでゐます。


この「人形」といふ小さな作品は、
しかし、批評文ではありません。
「もののあはれを知る」人が記しとどめた、
文学の持つ機能を深める、
ひとつの金字塔のやうなエッセイです。


行間といふ間(ま)に鎮められてゐる、
もののあはれをわたしも引き上げたい一心で、
この作品に取り組んでゐます。



2020年10月14日

滋賀県草津市 両親の問診時間クラス 10月からのお知らせ



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秋も深まってきました。
感覚で生きる夏から、
思慮深い生き方へと移りゆく秋です。


わたしたちは、その思慮深さをもって、
ますますわたしたち自身になっていきます。


「両親の問診時間」というテキストを通して、
わたしがわたしになりゆく道・アントロポゾフィーを、
共に歩いていきましょう。


ぜひ、秋からの歩みを、ご一緒に!
初めての方も、お気軽にご参加いただけますよ。


また、滋賀県草津市にある、
滋賀シュタイナーこども園そら
にお子さんを通わせたいと考えておられる方は、
どうぞいらしてみてください。
保護者の方々が集ってくださっています。




●10月20日(火)
「理想主義 自己教育の問いとして」


●11月17日(火)
「生涯のパートナーと結婚の意味」 


●12月15日(火)
「課題としての結婚」


●1月19日(火)
「家庭と仕事への力の泉」



以降も毎月第三火曜日に学びの会は続きます。


保育(有料)も受け付けいたします。
どうぞ奮ってご参加下さい。



講師: 
諏訪 耕志
https://www.facebook.com/koji.suwa


場所:
滋賀県草津市内 個人宅
(お申し込みいただきました方に詳しくお知らせします)


参加費:
単発ご参加 3000円
4回連続ご参加 10000円
講師の交通費(大阪市内玉出駅・南草津駅間)を
その日の参加者で頭割りしてご負担していただいています。
どうぞご了承下さい。


お申し込み・お問い合わせ:
筒井 聡子さん
https://www.facebook.com/satoko.tsutsui.1

 
いつも、お世話をしてくださっている聡子さん、
そしてお家を解放してくださっている、
英理子さん、武史さん、
どうもありがとうございます。

posted by koji at 19:06 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ひとつの社(やしろ)



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大阪市住吉区にある万代池。
子どものころからずつとここで遊んで育つてきました。
初めての女の子とのデートもここ(苦笑)。
池の周りをときにがむしゃらに走つたりして、
若いころの鬱屈を晴らしてくれる、
かけがへのない場所でした。
いまも毎日、
この池の周りを歩いたり走つたりしてゐます。


今朝も秋晴れのすばらしい朝。
ここへ来て、広がる空と木々の緑を目にするたびに、
幼いときの憧れのやうなものが甦ります。


そして、
いまだに、こころの泉のやうなものは、
干上がつてゐないこと、
子どものころの憧れが、
なんといまだに脈々と息づいてゐることに、
我ながらはつとしたり、
ありがたいと念つたりします。


この泉から、何度でも、
新しく清水を汲み出して行かう。


そのことをはつきりと想ひ出させてくれる場所です。


この池には竜神様が祀られてゐますが、
ここもわたしにとつてはひとつの社(やしろ)なのです。



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2020年10月13日

四日間の体験 松岡知栄子さん






先月四日間連続で行ひました、
「秋の言語造形連続講座」。
その参加者の方が嬉しいことに、
ぎつしりと熱い文章を書いて送つてくれました。


朝から夕方まで四日間、
顔を突き合はせてゐますと、
息も合つてきますし、
ひとりひとりの人の力が、
なぜか深いところで作用し合ひ、
学びがつねづねより深いところまで降りてゆきます。


言語造形とは、ことばの芸術であり、
息遣ひの芸術です。


ことばと呼吸の関はりを、
実践的に学ぶことによつて、
「人といふものについての学び」
「人間学」の学びが俄然深まるのです。


それは、芸術を通して、
ご自身の内なるものに直面するといふことでもあります。


しかし、一番大切なのは、
学び手の、
信頼に満ちた敬虔なこころのありやうであり、
そのこころのありやうが、
ものごとのものごとたるところ、
ものごとの本質を、
深いところで掴ませるのだといふことが、
文章を寄せて下さつた松岡さんのお人柄をもつて、
感じさせられます。
このことが本当に奇跡のようなことだと思ふのです。


また、動画といふ加工されたものではありますが、
言語造形の実際の片鱗を観て聴いていただきたく、
その時に学んだ、
グリム・メルヘン「星の銀貨」の動画を合はせて、
松岡さんの文章をご紹介いたします。
https://www.youtube.com/watch?v=yysoXz4_CR0


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☆秋の言語造形連続講座の学び☆ 松岡知栄子


この4日間の学びを通して大きな驚きと共に強く感じられたのは、「頭だけで学ぶこと」と、「息遣いを通して全身そして心も頭も使って自分のまるごと全部で学ぶこと」がいかに違うかということ、そして息づかいを通して自分のまるごと全部を使って学ぶことで、自分の内側に大きな変化がもたらされていったということです。


これまでの自分の学び(勉強)は、講座など話を聞いてわかったつもり、本を読んでわかったつもりになっていました。もちろんそのことを通して日常で経験したことが深まったり、心が動かされたり、視界が広がって問題が解決されたような気持ちになりましたが、しばらくするとまた何かが違っているような気がして、新たなものを求めて、あてもなくさまようことになっていました。

.
また日常生活の中でも頭に偏りがちで、まずどうするか考えて決めてからでないと動けなかったり、動きながらも「これでいいのかどうか」気になってしまったり、ひどい時は考えるばかりで動けなかったりすることもよくありました。
そのため自分の深いところでは空虚さがあり、不安があり、どこか疲れていて、何かしなくては、もっと何かを身につけなければ、このままでは・・・という思いがありました。


そんな中この4日間の講座の学びでは、驚くほど自分自身をまるごとを使うことへと導かれていきました。
そしてその学びがどれほど生きていくこととつながり、息づかいを丁寧に練習していくことが大きな力になっていくことか、講座を終えてから気づかされることがたくさんありました。


立つところから足をあげて運んでおろすの練習をした時、いつも考えずにしている歩くという動作を、呼吸と共に丁寧に行う。シンプルな動作でありながら、自分の全部を集中しようとしないと難しく、その1連の流れの中に自分の全部で入っていくことを自然と促されたように感じました。いつもは意識せずに行っている呼吸と歩くこと、それを意識的に丁寧に行うと全く違うものになって、今まで知らなかった世界がひらけるような、様々なところが使われ、自分の内にいきいきとしたものが出てきました。


私たちは丁寧に呼吸をすることを通して、いつも高天原にのぼって行け、地に降りてきて空間を満たしていけるということがとても心に響きました。生きてる間休みなく行っている呼吸を通して、とても身近な呼吸を通して、そしていつでもそのようなところで生きている(生かされている)ということが・・・。


お手玉を使った練習で、からだを使ってアンチパシーからシンパシーへと移っていく中で、日常ではとても難しいレベルで解き放つこと、相手へと共感をもって開いていくことへ促されていったと思います。


日常では、相手へと、外の世界へとひらくことが大切さだと思っていても、いざそのような場面なると緊張したり、不信感がでてきたり難しく感じることがよくありました。


でも一度そのような日常から離れて安心できる空間の中で、導いていただきながら、頭で考えるより腕を解き放って息づかいを通して相手に開いていく練習をしてみると、様々なことが感じられました。相手へひらいてゆく時の緊張と喜び、少し勇気を出して前へ進んでいく感覚、自分に閉じこもっているところから相手に気づいた時に生まれてくるもの、晴れやかな感じ、様々な感覚を安心してそのまま感じることができ、自分なりにですが、確かな解き放つ感覚がひとつ自分の内側に生れていったと思います。
そして様々な感覚があったあと、最後は相手へと共感をもってひらいていった時の大きな喜び!それが確かな体験として刻まれたと思います。


「星の銀貨」のお話に出会い、先生に導いていただきながらお稽古し、4日間でしたが、声に出すことを積み重ねる中で、お話の中に入っていくようなお話と自分がだんだん親しくなるような何とも言えない喜びがありました。これまでお話や詩を声に出すにあたって、まずその感情になるようにそのように表現できるようにと、頭で考えていたのだと思います。何度も声に出す中で、発見があったり少し理解が深まったように感じることはあっても、それまではいつもお話と自分との間に一定の距離があったと、初めて気がつきました。


4日間で体験したことは全く違っていて、まずお話へと扉をあけて入っていこうとして、そこでだんだんお話と自分がひとつになっていく感覚でした。(それはほんの入口のことだったと思いますが)


和歌をみんなでよんだ時、先生が昔の人がよんでほしいようによもうと話されたこと、そしてそのようによむと、昔の人が喜んでいるとおっしゃった時、ほんの短い時間でしたが、目には見えなくても美しさと何とも言えないようなありがたい感情が感じられました。


自分は拙い読み方であっても、和歌を声にだすことで、昔の人々と今がしっかりとつながっているのを感じられ、先生がおっしゃられ、その空間を同じくさせて頂いたことで、想像上のことではなく、本当にそのように体験として自分の内に刻まれたことに驚きを感じました。


昔の人がことばを通して磨いてこられた日本人ならではの豊かな感覚を体験すること、神様を感じること、その詩やお話とひとつになるように親しくなっていくこと、それらのことへみんな、とても具体的な練習を行うことを通していつでも開かれているのだと、そのことがとても心に響いています。


言葉に対して日頃の自分は、知らず知らずの内に、言葉で(情報として)言えば分かってくれると思ってしまっていて、「言ってみる、言葉にしてみることで、自分の中に、そして相手との間に生じてくるもの」を見ることなく、または自分の見えてることしか見ず、そして相手の言葉もそのように受け取っていたことがよくあったと思います。さらに言えば生じてくるものを見ることに恐れがあったと思います。


エーテルのからだアストラルのからだを感じて、同じ場に身を置かせていただき、空間に響く声、聞こえるものも聞こえないものも、見えるものも見えないものも感じようとすることに導いていただき、「きく」「みる」ことへのあり方、そこへ自分が扉を開いていくことの大切さを感じました。


ことばに対する感覚を磨いていくこと、息づかいを大切にしていくこと、生きたことばにしていくことが、自分の命もいきいきとしていくことにつながるのだとのだということ、人というものはそのようになっているということに、新鮮なハッとするような驚きを感じます。


諏訪先生の言葉で直接教えていただいた、「人というもの」のお話は、「人というもの」に対してより細やかに丁寧に見ていく道しるべだと感じました。


人間は9層の存在でそれぞれの層に働きや大きな力が込められていること、7年ごとにからだ、こころ、精神が目覚めていく道すじなど、それまでは浅はかにもそのようなことを知ることで、その見方にしばられるのでは、窮屈になるのではと思っていたのですが、全くそうではなく、そのことでより自分を理解し、人というものを細やかに丁寧に見ていける、また子どもたちにとって何が大切なのか、様々な方法に振り回されない、大きな助けになるのだと気づきました。


人間の存在の神秘を感じると同時に、何をめざしていけばいいのか?それは何かに操られたり縛られたり息苦しくなってしまうことではなく、自分自身を育み自由になっていく、ひとりひとりにまかされた「わたし」を育むことなのですね。外から何かを持って来なくてもいい、探しにいかなくてもいい、これでいいのかと常に思い悩まなくていい、自分でないものになろうとしなくていいのは、なんて安らかなことだろう・・・と感じました。


でもそのように感じられましたのは、諏訪先生が深められ諏訪先生の生きた言葉で直接教えてくださったからこそ、諏訪先生のことばが全身に染み渡るようで、心が動かされ直接自分に響いたからこそだったと思います。


そして一つの学びを終えると必ず先生が「どうでしたか?」と問いかけてくださり、からだとこころ、自分のまるごとを使った体験を、頭でとらえ直して自分とのむすびつきを感じさせてくださったからだと思います。


4日間を終えた時、今までの自分に思いが至りました。お話の練習の時、先生から同じ方向で前へ前へというアドバイスをいただきましたが、実際に自分自身様々な場面で(仕事の場や人との関係などで)ふっと引いてしまうことが癖になっていて、自分でも自覚がありました。


そのことで大きく困っていたわけではなかったので、問題としてしっかり捉えず、そのままにしていたのですが、小さな違和感は積もっていました。今振り返ってみると、ふっとひいてしまったことで何かを生かさず溜めてしまったもの、飲み込んでしまったもの、それはほんの小さなことであっても、そのことで生きていることが薄まっているような、結果として自分自身をじわりじわりと苦しめ、疲れている状態に持って行っていたかと思います。そしてこれでいいのかと気になってしまうのも、1つの方向に定まっていない表れだったと思います。腰を前に前に同じ方向で語っていく、その時はそのことに取り組むので精一杯でしたが、終わった後に何とも言えない晴れやかさとからだの中心が感じられるような安定感があり、それと同時に心の中にも安定感が広がっていきました。これこそ自分の望んでいたことだと感じました。


また外の世界に対して、自分の捉え方が原因だと分かっていながら、外や環境(人との関係が、職場が、社会が・・・)に原因を見出し、そこから距離をとろう、それを取り除こうとそちらに意識がいくことがよくありました。


でもそれを超えるカギは自分の中にあったと、自分の丸ごとを使っていくこと、自分から扉をひらいていくこと、腰を運んでいくこと・・・そのことを通して自分を育んでいくこと、すべて自分の中にあったのだと気づきました。


4日間の言語造形の練習をし、人というものを学ぶ中で、1番大きな変化は、「生きていこう!今いるこの場所で生きていこう。」というしっかりとした気持ち、意志のようなものが自然と芽生えたことです。そのことはとてもありがたく私にとって喜びです。そして空虚な感じが消えたことです。フィジカルなからだだけでなく、エーテルのからだ、アストラスのからだを使って声を出そうとすることで、練習することで、自分の内側が満たされ、空虚さを埋めるためにもう何かを探す必要はないのだと、自分の奥も安心したのだと思います。4日間、時間を超えたような美しさの中に身を置かせていただき、自分の内側にも新しい風が吹きこまれたような、そこから新たな力をいただいたのだと思います。


4日間の講座を終えてその後2,3日は諏訪先生、生徒の皆さんと共に共有した場の空気にすっぽり包まれていました。


私にとって喜びとあたたかさに包まれた4日間だったように思います。日にちが経つにつれ、包まれていた空気感は少しずつ静まっていきましたが、元の日常に戻ったのではなく4日間での体験、学んだことはしっかりと自分の土台に落ち着きと共に確かに内側に入ったのを感じます。内側に芽生えたこの種を、いただいた宝物を今いる場所で大切に育んでいきたいと思います。




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2020年10月11日

こころのこよみ(第27週) 〜世を信頼する〜



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セザンヌ「庭師 ヴァリエ」


わたしといふものの深みへと進みゆくほどに、
 
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
 
わたしはわたしを見いだす、みづからを見てとりつつ、
 
夏の太陽から贈られた萌しとして。
 
秋の調べの中で熱く息づく、
 
こころの力として。
 
 
In meines Wesens Tiefen dringen:
Erregt ein ahnungsvolles Sehnen,      
Daß ich mich selbstbetrachtend finde,     
Als Sommersonnengabe, die als Keim
In Herbstesstimmung wärmend lebt    
Als meiner Seele Kräftetrieb.  
 
 
 
自然はリズムを刻んでゐる。
世はリズムを刻んでゐる。
 

わたしもリズムを刻んで生きていくことができる。
 

この『こころのこよみ』は、
そのことを助けるひとつの「道」だ。
 

道といふものは、
先人が歩んでくれたからこそ、いま、そこにある。
 

先人への信頼が、その道への信頼となり、
それが更に、
人といふもの、世といふものへの信頼へと育つてゆく。
 

このメディテーションの道を歩んでいくことで、
世のリズムと我がこころのリズムとを重ね合はせる練習ができる。
 

それは、大いなる世の生命と己れの生命とを
重ね合はせていく作業だ。
 

この『こころのこよみ』に沿つて、
夏から秋へと歩んでくると、
この秋から冬にかけて、
新しい「わたし」にきつと出逢ふといふ予感に満ちた憧れに満たされるのを感じる。
 

その新しいわたしは、熱く息づくこころの力として、
新しいアイデアと新しい意欲に通はれようとしてゐるのだ。
 

わたしは、何も力んで、何かをしようといふのではない。
 

世のリズムが、
わたしにその新しいわたしを授けてくれるのを、
待つことを習へばいい。
 

世を信頼するのだ。
 
 
 
 
わたしといふものの深みへと進みゆくほどに、
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
わたしはわたしを見いだす、みづからを見てとりつつ、
夏の太陽から贈られた萌しとして。
秋の調べの中で熱く息づく、
こころの力として。


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2020年10月09日

静かに響いてゐるものに耳を澄ます



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学校で先生がわたしたちに、
「将来の夢は何か」つて訊くことつて、
よくないと思ふ。


あるとき、小学六年生の次女がさう言ひました。


自分で自分を決めてしまひたくない、
さういふことをことばで言ひたくない、
とも言つてゐました。


「将来の夢」といふことばは、
きつと「就きたい職業」といふ意味ですよね。


いまは、「You Tuber」といふ職業が、
小学生にもとても人気があるさうですね。


「You Tuber」といふ職業は、
昔で言ふと、
「歌手」「タレント」
とかに近い感覚で受け止められてゐるのでせうか。


とにもかくにも、
現在ある職業、社会に沿つて、
子どもを育てることを、
多くの親たちも望んでゐると思ひます。


しかし、それが一番いけない。


それは、
いまある職業のほとんどは、
10年後には無くなつてゐるだらう、だとか、
いまの時点では全く予想もつかないやうな職業が、
10年後には出てきてゐるから、とか、
さういふ理由からではありません。


教育といふものは、
社会といふ外の世に合はせてなされるものではなく、
人の精神といふ内の世に合はせてなされるべきものだからです。


社会に沿つて人を育てるのではなく、
まづもつて、
ひとりひとりの子どもの内なるものを引き出すこと。


そしてその引き出されたひとりひとりの精神が、
やがて社会を創つて行く。


もちろん、これは綺麗ごとかもしれません。
確かにこの世の社会は綺麗ごとでは済まないところです。
しかし、教育は綺麗ごとであるべきですし、
そもそも聖域での営みであるべきです。
大人が営んでゐる社会に沿つて、
子どもを教育しないこと。


社会を根本から見直し、
よくしていくことができるのは、
政治や社会といふ外側の世界からではなく、
ひとり人のみ、
ひとり〈わたし〉のみからです。
人が自分自身をよくして行くこと以外に、
道はありません。


どのやうな職業に就くか。


それは、
その人がこの世で様々なことを体験して、
深く何かを感じて生きていくうちに、
内側に深く静かに響いてゐるものに、
耳を澄ますなら、
きつと、
その人その人をふさはしい場所に導くものです。


posted by koji at 23:48 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

いろいろあつていい、けれど・・・



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東山魁夷「道」



「これもあり、あれもあり」
「ここから、あそこから、
 いいとこだけ取つて自分の役にたてよう」


それが、わたしたち現代人に、
多く見られる相対的で、
スマートなものの見方、生き方。


あまりにも当たり前の考へ方なので、
その考へ方を疑ふことなど、
現代ではほとんどないと思ひます。
また、さういふ相対的な考へ方は、
大いにあつていいことだと思ふのです。
何事も比較して、検討して、
そこから良きもの、役立つもの、得するものを取り入れる。


しかし、それは、どこか、
自分自身のこころに対する
信頼のなさに裏打ちされてゐるありやうに感じられる。


さういふ生き方とは、また違ふ、
もう一つの生き方もあつていい。
「これだ」といふものを深めていく。
「ここだ」といふ場所にとどまりつづける。


そんな生き方は、
現代人にとつてはあまりにも奇異に感じられることでせう。
そのやうなあり方は、ときに、なだらかでない、
不器用さが表立つやうなことにもなるでせう。
お洒落でもなく、
垢抜けないたくさんの時期もくぐらなければならないでせう。


しかし、どんな世界にも、
「これだ」といふ次元があり、
その「これだ」の奥へ、奥へと入つていくことによつて、
そこには思つてもみなかつた豊穣な沃野が
広々と拡がつてゐることに、
人は驚異と畏敬と尊崇の念ひにうたれるし、
うたれてきたのです。


「これだ」といふものを深めていく、
絶対の力をもつこと。


そしてこれは逆説的なのですが、
そのためには、
自分なりの意見だとか、
自分なりのやり方をいつたん捨て去り、
自己を空つぽにして学ばうとする
謙虚で素直なこころの力が必要です。
我流ではなく、世の法則に沿ふことです。


亜流とは、全くの素人から生まれるのではありません。


道に好意を寄せてゐる人々。
しかし、そのやうな人々のうちに潜む軽薄から、
もしくは己れを見つめ切らうとしないごまかしから、
必然的に生まれます。
それはまさに必然的に、です。
軽薄と偽善は、すべての人の内に潜むものです。


だから、亜流はいくらあつてもいい。
しかし、しかし、本流を細らせてはならない。
枯らせてはならない。
世界を亜流ばかりの世界にしてはいけない。
本流を生きるのは、「これだ」を生きる者です。
自分なりのやり方をおいておき、世の法則に沿ふ道、
さういふ科学的・芸術的・宗教的な道を
歩くことの健やかさを、
後の世代に伝へていくことが、
現代人であるわたしたちの仕事でもあると思ふのです。


亜流と本流を分かつのは、能力の違ひではなく、
意識の違ひです。
亜流は、自分自身のことに意識が尽きてゐます。
孔子のことば、「三十にして立つ」に向かふのみです。


本流は、自分自身を越えて世代を越えて、
世に文化の礎をこつこつと築いていくこと、
過去から未来へと引き続く意識を
自分自身のなかに燃やし、育み、
他者へ、後の世代へと伝へようとしてゐます。
時間の連綿としたつながりをたいせつにする、
意識のありやうです。



posted by koji at 23:46 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月08日

お聴き逃しなく!言語造形公演「やさしい世界の終はり方」






わたくし諏訪耕志、
そしてクラリネット演奏の小西収氏とでの、
リハーサルでのひとコマです。


よろしければ、秋も深まるひと日、
耳で、からだまるごとで、
文学を味はひにお越しになりませんか。


大阪公演 於ことばの家 諏訪
令和2年10月18日(日)

京都公演 於 カフェ・ヨージク
令和2年11月3日(火・祝)

詳しくは、ホームページにて
https://kotobanoie.net/play/


2020年10月07日

日本昔話「桃太郎」〜死からの甦り〜






皆さん、お馴染みの「桃太郎」です。


やはり、川から流れて来るものは、
「栗」でも「柿」でも「すいか」でもなく(笑)、
「もも」でなければなりません。


「桃」は、
人が、死といふものを乗り越えて、
再び命の甦り(黄泉帰り)を果たす際に、
働かれた神であるからです。
(『古事記』より)


また、「もも」といふ音韻の持つやはらかさが、
その命の持つういういしさを表はしてはゐないでせうか。

 
「桃太郎」といふお話が、
ずつとずつと語り継がれて来たのには、
桃太郎といふ精神の人が、

鬼の住むこころの混沌(鬼が島)から、
お姫様(まことのこころ)を救ひ出す、
そんな死からの甦りを描いてゐるからでせう。



わたしたち日本人はずつと、
このお話を愛してきました。


どうぞ、お楽しみください。






言語造形(Sprachgestaltung)とは、
ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、
ことばの芸術です。
ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、
シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。

わたしたち「ことばの家 諏訪」は、
大阪の住吉にて、
その言語造形を学ぶ場を設けています。



「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/


神話を見いだす



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若き日のミヒャエル・エンデ


暮らしと芸術が、
深いところで通ひ合つてゐた時代があつた。


その通ひ合ひが、
暮らしと芸術の互ひを
生命力で満たしてゐた時代があつた。


連綿と続く、さういふ営み、
育みがあるといふことが、
文化に型があるといふことなのではないか。


文化の型が失はれ、
いや、文化そのものが失はれ始めて、
どれほどの年月が経つたのか。


わたしは、文化といふことばを、
物語と言ひ替へてもいいかもしれないと思つてゐる。


物語が、わたしたちから失はれてしまつた。
物語るとは、ものを語ること。


ものとは、そもそも、
見えないもの、
聴こえないもの、
さはれないもののことを指す。


物語りとは、
人のこころ、夢、内なる秘め事、
表沙汰にはならない隠されていたこと、
そして通常の感覚を超えた叡智を語ることであり、
果ては、神のことを語ることを指す。


だから、物語は、そもそも神話だ。
神話とは、
神自身が語られたことばを
そのまま人が語り継ぐことから始まり(古事記)、
神に触れ、神に通はれるやうな、
驚くべき、畏るべき経験を語ることであつた。


文化に型があつた時には、
物語の共有、
神話の共有がなされてゐた。


わたしたちは、
共有する物語を失ひ、
神話を失ひ、
文化の型を失ひ、
文化そのものさへも失つてしまつてゐる。
人と人とをむすぶエレメントを失つてしまつてゐる。


だから、いま、人は、
自分自身の神話を見出すしかない。
芸術を真摯に生きようとする人は、
とりわけさうだ。


ひとりひとりが孤独に夢を織り続け、
その孤独の中に、
自分ひとりだけの神話を見いだし、聴きとること。
そして見いだしたもの、聴きとつたものを、
下手でもなんでもいいので、
外に表し続ける。


そのやうな神話の個人的な表出の仕方が、
いつたい何にむすびつくのだらう。
わからない。


しかし、自分自身の足元を
掘つて掘つて掘り進むことによつて、
見たこともない岩盤にたどり着くかもしれない。
その岩盤はとても古く、とても新しい。
その岩盤が語りだす物語は、
新しい共有性を持つ可能性はないだらうか。


芸術を通して、
人と語り合ひたいと思ふ今日この頃。



posted by koji at 08:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月05日

これが自己教育の要かと・・・



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公演が迫つて来てゐるので、
当然、毎日、稽古を重ねてゐるのですが、
この稽古をするといふことそのことが、
わたしにとつては、
本当に「確かな手応へ」を与へてくれるのです。
生きてゐることの、いや、
生かされてあることの「確かな手応へ」です。


人にも会はず、繰り返し繰り返し、練習する。
これがとても充実した作業なのです。
ありがたい・・・。


音と音の境目である間(ま)の深みと拡がり、
そこに走る活き活きとした精神の躍動。
余計なことを考へずに、
それらのものを追つてゐると時間を忘れてしまふ。
とても地味な作業だけれども、
確かなものと出逢つてゐる感覚に、
内から満たされる。


お金にはならないけれども、
かうした「行為」そのもの、
「すること」そのことが、
人に健やかさをもたらすんですね〜。


「生きるといふことへの健やかな情」
「確かな手応へをもつて毎日を生きる」


これがあれば、
わたしは何とか生きていくことができる(笑)。


この先どんなことがあるか、どんなことになるか、
誰も予想がつかない。
自分の人生がどんな風に転がつて行くのか、
本当にわからない!


けれども、
先ほど書いた、
「生きるといふことへの健やかな情」
「確かな手応へをもつて毎日を生きる」
といふ生きるための内的な元手は、
「健やかに、まぎれなく、考へる」といふ、
さらなる内の営みから生まれてくるものなんだ、
といふことが年齢を重ねるごとに、
「まこと」のこととして胸に迫るのです。


「考へる」。


ごちゃごちゃと余計なことを
なるべく考へないやうにしてゐます。


もし、考へるなら、
健やかな情と確かな意欲(手応へ)を産み出すやうに、
「考へる」。


それが、自己教育の要(かなめ)かなと思ひます。


いろいろな感情や欲望が
ありありと内側に渦巻くのですが、
すべて認めて、ゆるす。
そして内なる作業として解き放つ。


さうして、毎日、この、
「考へる」向きを、
先ほど書いた方向へもつて行く。


折角何かを「考へる」なら、
健やかさに向けて。
そして、毎日稽古して、
確かな手応へを稼ぎつつ。


わたしもあと二か月ほどで、
五十六歳になるのですが、
自由になりゆくための、
九つ目の新しい七年期が始まると感じてゐます。


自分自身が自由になりゆかないと、
周りの人も自由になれませんものね。


「考へる」をそっちの方向にもつて行くための、
環境づくりはとても大切なことで、
そのことも始めようと考へてゐます。


オンラインで始められるだらうかと思案中です。


また、ご関心のおありになる方は、
どうぞご連絡くださいね〜。





posted by koji at 10:14 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月04日

シュタイナーの新翻訳「人と世を知るということ」



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二十二年前に鈴木一博さんの翻訳で出版された、
ルドルフ・シュタイナーの『テオゾフィー』。
この本を読むことが、
どれほどわたしの人生において、
とりわけ三十代から四十代、
支へになつてくれたことか・・・。


その書が、同じ翻訳者によつて、
新しい版として出ました。
『人と世を知るということ』と、
タイトルがアレンジされてゐます。


早速読み始めました。
声に出して訓みながら、
おのづと自分自身のこころの働きを確かめることになります。


それは、言語造形をしてゐる時と、
全く同じ感覚です。


鈴木さんの仕事はずつとさうだつたと、
読みながら念ひます。


読む人のこころに、
内なるアクティビティーを呼び起こさうと、
意図することばの使ひ方、こころの使ひ方。


さういふこころから精神への道を歩くことを、
読書を通して促す指南者でもありました。


「事と心と言はひとつなり」
さう本居宣長が書き記したことを、
鈴木さんは自身の見解・見識を述べる時だけでなく、
ドイツ語の翻訳でも成し遂げてをられる。


まさしく「学」を全身全霊で生きる人は、
皆そのことを証明してくれてゐます。


わたしの非常に狭い管見の限りではありますが、
本居宣長も鹿持雅澄も内村鑑三も小林秀雄も、
ゲーテもフィヒテも、
そしてシュタイナー、鈴木一博も、
「事」と「こころ」にひとつに重なる「ことば」に、
すべてを賭けてをります。


彼らは皆、
いはゆる「学者」といふ、
ある意味狭くカテゴライズされた立場などから、
自由に力強く羽ばたいてゐる人ばかりです。


そのやうな著者の書を出版してくれる、
「Hannogi Books」さんにこころから感謝です。


そして、かうして新しい版が出ることによつて、
古い読者には改めてじつくりと読み直させ、
また新しい読者がういういしく読み始める、
そんな機縁が生まれます。



日本語によつて、
アントロポゾフィーを語ること。
その意味深い仕事を、
しつかりと見つめ続けていきたい。
わたしの志もそこにあります。



posted by koji at 19:06 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

秋の花の名



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山上憶良の「秋の七草」として知られている歌二首。
『萬葉集」からの歌です。


 秋の野に 咲きたる花を 指折り(をよびをり)
 かき数ふれば 七種(ななくさ)の花


 萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花(をみなえし)
 また藤袴 朝貌(あさがほ)の花


花の名を唱へるだけのこの歌。


しかし、その名を發音するとき、
部屋の空閧ノ、
その花、その花の奥深い内部が開かれ、
各々の植物がその精神を語りだす、
そんな感覺が生まれたのでした。


さうして、秋の野原がこころの目の前に拡がるのです。


すると、不覺にも目に涙が溢れてしまひました。


親しくて、懐かしく、そして悲しい、感情です。



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2020年10月03日

大阪・京都 言語造形公演 詩と物語「やさしい世界の終はり方」



小さな村で見た 写真2-COLLAGE.jpg



このたびの公演における演目、
七つの小さな物語と詩です。


・「幼い日」 八木重吉
・「おこぶちゃん」 ミヒャエル・エンデ
・「戦場の兵士」 作者不明
・「人形」 小林秀雄
・「大阪弁で人生の痛恨を救済できるか」 井上俊夫
・「小さな村で見た」 石村利勝
・「やさしい世界の終はり方」 石村利勝


ひとつの物語、ひとつの詩を
どうしたら理解できるのでせう。
実は、理解することはできません。
ことばの芸術の魅力、音楽、秘密は、
内容やストーリー、分かりやすい意味とは、
別のところにあるやうです。
さういふ「別のところ」を顕はにするために、
言語造形といふ芸術があります。
ことばで表はせないものを、
ことばで顕はしたい、
さう希つて準備を進めてゐます。




======



言語造形: 諏訪耕志

クラリネット: 小西収


場所・日時:  
大阪公演  
10月18日(日)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/


京都公演   
11月3日(火・祝)
14時開場 14時30分開演 16時30分終演予定
「カフェ・ヨージク」 
http://www.life-info.co.jp/cafe/cafeyojik.html


参加費: 
ご予約 2500円  当日 3000円
京都公演のみ、終演後にカフェでの1オーダーをお願い致します。


お申し込み: 
ことばの家 諏訪 
https://kotobanoie.net/access/


お振り込み:
// ゆうちょ銀行から//
記号10260 番号28889041 スワ チハル

// 他銀行から//
店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904


※ 会場では、特にウイルス対策はいたしません。
 マスクを着用につきましても、
 おひとりおひとりの判断にお任せいたします。

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2020年09月30日

こころのこよみ(第26週) 〜ミヒャエル祭の調べ〜



57568326.jpg
ラファエロ「大天使ミヒャエルと竜」



自然、その母なるありやう、
 
わたしは、それを、意欲において担ふ。
 
そして、わたしの意欲の火の力、
 
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
 
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
 
わたしをわたしにおいて担ふべく。   
 
  
 
Natur, dein mütterliches Sein,
Ich trage es in meinem Willenswesen;      
Und meines Willens Feuermacht,         
Sie stählet meines Geistes Triebe,         
Daß sie gebären Selbstgefühl           
Zu tragen mich in mir.             
 
 
 
 
先週の『こころのこよみ』で、
「内なるこころの光と熱。
 これほど、頼りになるものがあるだらうか。」
と書いた。
 

この頼りになるものを、
わたしたちひとりひとりの人に
もたらさうとしてくれてゐる精神存在がゐる。
さうシュタイナーは語つてゐる。
 

大いなる精神存在、ミヒャエル。
 

この存在は、どのやうにして、この時期に、
わたしたちのこころとからだに
働きかけて下さつてゐるのだらうか。
 

今週の『こよみ』を読んでみる。
口ずさんでみる。
 

息遣ひも活き活きと、
声を解き放ちながら唱へてみる。
何度もこころとからだで味わつてみる。
意欲をもつて、ことばとつきあつてみる。
 

さうすると、普段以上の意欲をもつてしなければ、
何も感じられないことに気づく。
 

そして、積極的にことばを唱へるほどに、
こころへと立ち上つてくる意欲といふ熱があればこそ、
我がこころとからだが活き活きとしてくるのを感じる。
 

我がからだもこころも、
「自然」の内のひとつである。


その熱をもつてこそ、
最も近く親しい「自然」を担つてゐると感じることができる。
 

意欲とは、わたしのからだへと、こころへと、
下から、足元から、立ち上がつてくる熱である。
それは熱心さであり、こころざしの顕れである。
 

その「意欲の火の力」があつてこそ、
その火を、わたしが、燃やすからこそ、
わたしのからだとこころに、
上から、天から、降り注いでくる
「考へ・想ひ・こころざし・精神の萌しのかずかず」
である光がだんだんと暖められ、鍛へられる。
 

わたしたちは、この時期、
上からの光(考へ)と、
下からの熱(意欲)とを、
織りなしあわせる。
その織りなしあいが、
こころに「みづからの情」を生む。
 

その情とは、
「わたしは、わたしだ」「わたしは、ひとりだ」といふ
こころの真ん中に生まれる情だ。
その情をもつて、
わたしといふ「ひとりの人」は活き活きと甦つてくる。
恐れや不安や物思ひなどを凌いで、
「ひとりの人」としてこの世に立ち、
目の前にあることにこころから向かつていくことができる。
光としての考へが、
こころを暖め熱くするものへと練られ、
実行可能なものへと鍛へられていく。
 
 
 
 
そのやうに、自分のこころとからだで、
『こころのこよみ』のことばをひとつひとつ味はつていくと、
シュタイナーが多くの著書や講演で語つた精神存在を、
リアルに親しく感じることができる通路が開かれていくし、
さうしていくことによつて、
実人生を安らかに確かに積極的に歩んでいくことができると実感する。
 
 
 
これからの秋から冬にかけて、
外なる闇と寒さがだんだんと深まつてくる。
そしてややもすれば、
闇と冷たさがこころにまで侵蝕してくる。
 

そんな時に、内なるこころの光と熱を、
ひとりひとりの人が
みづからの力で稼ぐことができるやうにと、
共に一生懸命働いて下さつてゐるのが、ミヒャエルだ。
 

一方、闇と寒さを人にもたらす者、
それがミヒャエルの当面の相手、アーリマンだ。
 

人を闇と寒さの中に封じ込めようとしてゐる
そのアーリマンの力の中に、
剣の力をもつて、鉄の力をもつて、切り込み、
光と熱を人のこころにもたらす助けを、秋から冬の間にし、
毎年毎年、ひとりひとりの人が、
キリスト・イエスが生まれるクリスマスを、
こころに清く備へ、整へるのを助けて下さるのが、
ミヒャエルだ。
 

シュタイナーは『こころのこよみ』を通して、
ことばの精神の力を四季の巡る世に打ち樹てようとした。
 

祝祭を、世における大いなる時のしるしとして、
ひとりひとりの人がみづからのこころにおいて
新しく意識的に創つていくことができるやうにと、
『こころのこよみ』を書いた。
 

キリスト者共同体司祭であつた
ミヒャエル・デーブス氏が語つたこととして、
以下のことばがある。


大天使ミヒャエルといふ大いなる方が、精神の世から、
すべてのイニシアティブを持つ人に力を贈り始めたのは、
1879年だつた。
その年、シュタイナーは18歳で、
「人における知ることの秘密(認識論)」に取り組み始めた。
そして、33年経た1912年に、
シュタイナーはアントロポゾフィー協会を立ち上げ、
この『こころのこよみ』を世に贈り出した。


33年といふ時間は、
イエスがこの世に
フィジカルなからだを持つて存在した時間であり、
その誕生から十字架の死を経て、
甦るまでに要した時間だ。


シュタイナーは語つたといふ。
「いま、起こつてゐることは、
 ひとつのクリスマスのありやうだ。
 これから33年後に、その甦りの祭り、
 復活祭がやつて来るだらう」と。
精神のことがらが、地上において成就するには、
その仕事が着手されてから33年かかるのだ。
(ミヒャエル・デーブス『魂の暦について』からの要約)


このシュタイナーによる『こころのこよみ』とは、
大天使ミヒャエルとの共同作業によるひとつの結実と言へるかもしれない。


『アントロポゾフィーのこころのこよみ』。


「こよみ」とは、
事(こと)をよむことであり、
言(ことば)をよむことであり、
心(こころ)をよむことである。
 

意識的に四季を生きること。
四季を『こころのこよみ』とともに生きること。
それは、地球をも含みこむ大いなる世(宇宙)と共に、
精神的に生きるといふ新しい生き方を、
わたしたちが摑む手立てになつてくれるだらう。
また、みづからの狭い枠を乗り越えて、
こころの安らかさと確かさと積極さを取り戻す
手立てにもなつてくれるだらう。
 
 
 
 
自然、その母なるありやう、
わたしは、それを、意欲において担ふ。
そして、わたしの意欲の火の力、
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
わたしをわたしにおいて担ふべく。


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2020年09月29日

こころのこよみ(第25週) 〜仕事の季節〜



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ルオー「《受難》1 受難」1935年



わたしはいま、わたしを取り戻し、
 
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
 
空間と時の闇の中へと。
 
眠りへと自然がせきたてられるとき、
 
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
 
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
 
寒い冬のさなかへと。
 
  
 
Ich darf nun mir gehören          
Und leuchtend breiten Innenlicht          
In Raumes- und in Zeitenfinsternis.   
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen,        
Der Seele Tiefen sollen wachen           
Und wachend tragen Sonnengluten      
In kalte Winterfluten.   
 
  
 
 
陽の光と熱を浴びながら
歩き回る夏の彷徨が終はつて、
静かに立ち止まり、
内なるこころの光と熱を生きていく秋が始まつてゐる。
 

内なるこころの光と熱によつて、
こころが目覚めてゐるといふこと。


「わたしがわたしである」ことに
目覚めてゐるといふこと。
 

そして、こころが生きる情熱を感じてゐるといふこと。
 

これほど、頼りになるものがあるだらうか。
 

これがあれば、秋から冬にかけて、
たとへ外の世が生命力を失つていき、枯れていつても、
内なるこころは、きつと、「ひとりのわたし」として、
活き活きと目覚めてゐることができる。
 

夏にいただいた太陽の光と熱の大いなる働きを、
内なるこころの光と熱としていく。
 

そして、来たる冬の寒さのさなかへと
意欲的にそのこころの光と熱を注ぎ込んでいくことができる。
 

光と熱。
 

それはいまや
わたしのこころの内から発しようとしてゐる。
 

そしてこれからやつてくる冬の闇と寒さとの
コントラストを際立たせようとしてゐる。
 

太陽の光と熱と共にあの夏をからだ一杯で生きたからこそ、
この秋があるのだ。
そして、この秋が、冬へと引き続いていく。
 

そのやうな季節のつながり、くりなし、なりかはりを
ていねいに、確かに、感じること。
それが、
内なるこころのつながり、くりなし、なりかはりをも
自覚することへと繋がつていく。
 

四季を生きること、一年のいのちを生きることが、
みづからを知ることへとわたしを導いていく。
 

この『こころのこよみ』に沿ひつつ、
四季それぞれに息づいてゐる「ことば」を聴く。
 

ならば、それらの「ことば」が、
生命ある連続としてこころにしずしずと流れてくる。
 

夏、外なる光と熱の中にわたしは溶け込み、
ある意味、わたしはわたしを見失つてゐた。
 

秋、わたしはわたしを取り戻し、
萌してゐた希みが羽を拡げようとしてゐる。
 

さあ、これからが、稔りの季節、
粛々とした仕事の季節だ。
 
 
 
  
わたしはいま、わたしを取り戻し、
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
空間と時の闇の中へと。
眠りへと自然がせきたてられるとき、
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
寒い冬のさなかへと。

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2020年09月27日

日本昔話「天福地福」






日本昔話「天福地福」、
ゆつたりとした時に、
よかつたら、
聴いてみて下さい。



言語造形(Sprachgestaltung)とは、
ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、
ことばの芸術です。
ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、
シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。


わたしたち「ことばの家 諏訪」は、
大阪の住吉にて、
その言語造形を学ぶ場を設けています。
「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/