2019年11月19日

(ま)といふ真実



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言語造形をするときに、
大事にされるまづ最初のことは、
息遣ひ、呼吸です。
 
 
そして、深く吐き出される息が、
ことばとことばのあひだ、
文と文のあひだに、
おのづと(ま)を生み出すのです。
 
 
その無音の閧ヘ、
豊かないのち溢れる動きを孕んでゐます。
 
 
ことばが発音されるときよりも、
むしろ、その無音の閧フ中にこそ、
ことばの精神、言霊が響きます。
 
 
ですから、時閧ニ空閧、
ことばといふもので埋め尽くさないのです。
 
 
無音の閧ェ活き活きとしてゐる事で、
そこに物質的なものではない、
精神的な豊かさが立ち顕れてくるのです。
 
 
その精神の豊かさは、
人の頭にではなく、
人の知性にではなく、
胸から腹、そして手足へと、
人の情、
人の意欲へと働きかけてきます。
 
 
そのやうな(ま)に触れるとき、
人によつて、随分と違ふ反応が表れます。
 
 
からだの調子が悪い時、
そのやうな閧ノ触れて、
人は眠りにいざなはれるやうです。
きつと、精神がその人を、
休息へと導いてくれるのでせう。
 
 
逆に、からだもこころも健やかな時、
そのやうな閧ヘ、
その人の意識をますます目覚めさせ、
ことばの響きと閧ノ呼び起こされる、
様々な感覚を享受させてくれます。
 
 
色合ひ、音、匂ひ、熱、風、光、こころ模様、
それら様々な情景を、
「もののあはれ」として、
「言霊の風雅(みやび)」として、
「わび、さび」として、
人は享受することができるのです。
 
 
「(ま)」に耳を澄ます。
 
 
それは、静けさに耳を澄ますことであり、
かつ、
豊かに、活き活きと、
精神的な動きを共にすることです。
 
 
また更に、次のことは、これからの時代、
ますます顕著になつてきます。
 
 
それは、
こころの奥に、
自分自身で隠し持つてゐるものがあるとき、
自分自身に嘘をついてゐるとき、
自分自身のこころの闇を見ようとしないとき、
人は、そのやうな閧ノ触れると、
不快感を感じたり、不機嫌になつたり、
耐へられない思ひに捉われたりするやうになります。
 
 
現代人に、「(ま)」を嫌ひ、
「(ま)」を避けようとする傾向が見られるのは、
この自分自身のこころの奥底に眠つてゐるものを
直視する事への恐れがあるのかもしれません。
 
 
「(ま)」とは、魔なのかもしれません。
 
 
しかし、それは、きつと、「真(ま)」なのです。
 
 
「真(ま)」に触れて人は、
だんだんとみづからの真実に目醒めつつ、
健やかに、
欣びを存分に享受しながら仕事をし、
人生を生きていくでせう。
 
 
芸術はそんな仕事を荷つてゐます。
言語造形もそのやうな芸術のひとつです。
 


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2019年11月18日

自分自身の声を好きになること


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今日も、
保育園の0〜2歳児、3歳児、4歳児、5歳児、
それぞれのクラスで昔話をさせてもらひました。
 
 
そして、
その保育園の先生方と
言語造形のワークショップをしたとき、
おひとりおひとりの先生に、
こんなことを訊きました。
 
 
皆さんは、
御自身の声が好きですか。
 
 
すると、すべての先生が、
嫌ひだとお答えになりました!
 
 
そこで、こんなお話をさせてもらひました。
 
 
先生といふ職業は、
その存在まるごとで、
子どもたちに向き合ふお仕事。
 
 
だけれども、まづもつて、
子どもたちに働きかけるのは、
先生の声とことばです。
 
 
その先生自身が、
御自身の声を好きになれないとしたら、
その好きになれない声で、
子どもたちに話しかけることになりますね。
 
 
声とことばが、
人にとつての道具だとするなら、
その人自身が愛してゐない道具で
決していい仕事はできません。
 
 
声とことばは道具だと言ひましたが、
道具にしては、あまりにも、
我が身と我がこころに密着している道具です。
 
 
だからこそ、まづもつて、
我が親しい道具である、
自分自身の声を好きになることから始めませう。
 
 
そんな話をさせてもらひました。
 
 
その後、保育園からの帰りの電車の中で、
こんなことを考へました。 
 
 
なぜ、自分自身の声が好きになれないのだらう。
 
 
たとへば、
録音された自分自身の声を聴く時の違和感。
 
 
自分は、こんな声で話してゐるのか!
 
 
そのショックは、
どこからやつて来るのだらう。
 
 
もちろん、
録音された音声は、
生の音声とは質が全く違ふ。
 
 
しかし、本質的なこととして、
そのショックは、
普段、自分自身の声に耳を傾けることが
ほとんどないことから来てゐる。
 
 
思ひ切つたことを言つてみよう。
 
 
そもそも、ことばとは、
意を伝へるものではない。
 
 
ことばで、
自分自身の言ひたいことが、
他人に伝はると、
本当に思ふか。
 
 
どこまで、ことばを尽くしても、
人と人との間には、
常に理解の差異が存在しないだらうか。
 
 
むしろ、ことばとは、
自分自身が聴くために、
発せられる。
 
 
自分が発する声とことばに、
どこまで、
自分自身が耳を澄ますことができるか。
 
 
その瞬間瞬間に、
わたしたちは、
ことばといふものの本当の価値を感じる。
 
 
自分の声を好きになるには、
自分自身の声を、
よおく聴くことだ。
 
 
自分自身の声とことばに、
よおく意を注いであげることだ。
 
 
そもそも、
どの人の声も、美しいのだ。
 
 
その美しさは、
人から、
自分自身から、
意を注がれて、
初めて顕わになる。
 
 


 
 



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2019年11月14日

今宵、大嘗祭(おほにへのまつり)

 
大嘗祭.jpg
平成の大嘗祭の御様子です
 
 
 
本年、令和元年五月一日、
新しく天皇陛下御即位され、
践祚の儀において、
三種の神器をお受けになり、
皇位を継承なされました。
 
 
十月二十二日、
即位礼正殿の儀において、
内外に御即位を宣言なされました。
 
 
そして今日、十一月十四日、
大嘗祭です。
 
 
天照大御神より、
「斎庭(ゆには)の穂(いなほ)」の
ことよさしを享けられて、
皇祖であられる大御神と霊的に、
おひとつになられる儀式です。
 
 
太古より行はれて来た大嘗祭です。
 
 
このやうな儀式を行ひ続けてゐる近代国家は、
唯一、日本だけです。
 
 
 
 

大嘗(おほにへ)の 
祭りに向かふ 今日一日(ひとひ)
雲間にひかる 天(あま)つ日まぶし
 
 
 

大君は われらの希ひ 背負はれむ
人と神との むすぶ夜かな
 
  



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2019年11月13日

こころのこよみ(第32週) 〜世の力の源は決して枯れない〜



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林武「花」

 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
 
その力は強められたわたしを世に委ねる。
 
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
 
明るみへと向かふべく、
 
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
  
 
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
Sich stärkend mich der Welt verleihn;      
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend        
Zur Klarheit sich zu wenden             
Im Lebensschicksalsweben.              
 
 
 
 
この秋といふ季節に、
稔りゆく<わたし>の力は、
どこから得られるか。
 
 
わたしがわたしみづからを
支へ引き上げていくための力は、
どこから得られるか。
 
 
「稔りゆく己れの力」
「強められたわたし」
「わたしのわたしたるところ」
 
 
これらは、みな、
己れから己れを解き放ち、
己れの小なる力を諦め、
大なるものに己を委ね、任せられるとき、
感じられるものではないだらうか。
 
 
大いなるもの、それを「世」と言ふのなら、
世の力の源は決して枯れることがない。
 
 
その源から、
<わたし>は常に力をiいただいてゐる。
 
 
その繋がりを信頼して、
今日も仕事をしていかう。
 
 
今日といふ一日、明日、あさつて・・・
「生きることの仕合はせ(運命)が
 織りなされる中で」何が待つてゐるのだらう。
 
 
小さなわたしが
あれこれと采配していくのではなく、
大いなるものがわたしの生を
織りなしてくれてゐることへの
信頼を育みつつ、
勇気をもつて、今日も仕事をしていかう。
 
 
そのときこそ、
「わたしのわたしたるところ」
「強められたわたし」が、
きつと顕れてくる。
 
 
今日も、ていねいに、
牛のやうにひたすら押しながら、
「明るみへと向かふべく」仕事をしていかう。
 
 
 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
 

posted by koji at 21:36 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

志の鎮もる所 義仲寺


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琵琶湖の南端にある義仲寺に、
日の暮れる前にお参りしました。
 
 
木曾源義仲公の、
松尾芭蕉翁の、
保田與重郎大人の、
御墓所であります。
 
 
我が志を確かめることができました。
 
 
 
 
学び舎の 子どもら帰る 夕暮れ道
そつと鎮もる 御霊(みたま)よきかな
 


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2019年11月12日

ことばを学ぶ会 in 能登川 11月


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自分なりの感じ方。
 
自分なりのやり方。
 
自分なりの話し方。
 
そこから、飛び立つのです。
 
さうして、
自分自身の腕の動き、
脚の動き、
息遣ひに従つて声を出してみるのです。
 
さうすると、
これまでに、
自分自身でも聴いたことのない声!
 
それは、
精神の法則に沿つた話し方をし始めてゐる証拠です。
 
芸術は、
どこか遠いところにあるのではなく、
自分自身の声とことばこそが、
芸術になりうるのです。
 

今日の皆さんからも、
とても晴れやかで、
ユーモアにあふれた、
豊かな表現が、
またしても生まれて来ました!
 
 
幼な子たちも、
とても喜んでゐました。
 
 
かういふ場を持たせてくださつて、
本当にありがたうございます!

 
 

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2019年11月11日

新幹線の車窓から、養老山地を眺めて


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おほぞらは 青きこころの 住み処かな
峰吹きゆきて 走る白雲
 
 
のぼりこし 天(あめ)の御光 矢のごとく
朝の浄めの ひとときひとり
 

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2019年11月09日

演劇企画体ツツガムシ「ドイツの犬」


 
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先日、新宿区中落合にある小劇場「風姿花伝」にて、舞台「ドイツの犬」を観ました。
 
 
劇団の主宰者であり、劇作家である日向十三氏の舞台。やつと観れた。
 
 
人間の姿の向かう側に存在するものへの、日向氏の良心を感じる。
 
 
それは、痛みと希み、怖れと憧れ、切なさと優しさとが、交差する舞台。
 
 
フリードリヒ・フォン・シラーの「歓喜の歌」のことばがこれほどこころに浸みるとは。
 
 
いい俳優ばかり。素晴らしい演出。そして深くて重い輝きを持つ宝石のやうな作品。
 
 
いくつもの場面でこころを深く動かされたのですが、中でも、ある登場人物が最後にみづからに死を与へる。
 
 
そのとき、それはドイツ人の死であるはずなのだけれども、日本人がみづから死を決するときのやうな、極めて日本的な死の印象。わたしには感銘が深かつたのです。
 
 
11月11日(月)まで。
 
 
シアター風姿花伝 (目白)です。
http://www.fuusikaden.com/
〒161-0032 東京都新宿区中落合2-1-10
TEL:03-3954-3355
JR山手線「目白駅」より 徒歩18分
西武池袋線「椎名町駅」より 徒歩8分
西武新宿線「下落合駅」より 徒歩10分

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2019年11月06日

日本の新しい舞台言語

 
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西戸崎の浜から日本海を臨む
 
 
 
『 をとめ と つるぎ 』。
 
 
この戯曲は、
「古事記」『日本書紀」「古語拾遺」などの、
我が国の古典文学を礎にしながら、
第十四代・仲哀天皇とその皇后・神功皇后を、
主人公とする現代戯曲として書いたものです。
 
 
先日は、
この作品のテーマが、
史実として展開した地、
福岡の香椎宮、宇美八幡宮に行き、
志賀島近くで三日間の合宿を行つて来ました。
 
 
この作品の中では、
現代的なことば遣ひもあれば、
古語そのまま、
古典そのまま、
そんなことば遣ひも多用されてゐます。
 
 
それら古語によつて記されてゐる古典、
とりわけ、「古事記」は、
本来、朗唱・朗読されるものでした。
 
 
その本当の意味は、
発声・発音によつてこそ、
初めてこころに深く受け取られるものです。
 
 
しかし、問題は、
「ふさはしい」発声・発音とは、
いかなるものなのか、といふことです。
 
 
これまで、我が国の演劇においては、
能楽、歌舞伎、文楽、その他いくつかのものが、
その様式を保ちつつ、生彩を放ちつつ、
生き残つてゐます。
  
 
昭和二十年代半ばあたりから、
木下順次といふ劇作家が、
「山本安英の会」といふ会を創り、
日本の舞台言語としての芸術性の追求を
試みたことがありました。
 
 
舞台公演としては、
『夕鶴』や『子午線の祀り』が特に有名です。
 
 
そこでは、
それらの古い様式をもつ演劇と明治以降の新劇とを、
なんとか、舞台上で合一させて、
新しい日本の舞台言語を生みだせないか。
 
 
木下順二の試みはそのやうなものであつた、
と思ひます。
 
 
わたしたち「ことばの家 諏訪」も、
これまで、古典作品を原語のままで、
舞台作品化することに挑戦してきました。
 
 
それは、古語の持つてゐる、
ことばのダイナミズム、生命感、奥深さ、美しさを
引き立てたかつたからに他なりません。
 
 
そのために、古典作品に、新しい意識で取り組むこと。
 
 
それは、言語造形といふことばの芸術をもつてです。
 
 
話す人の間合ひ、勢ひ、身遣ひ、息遣ひ、
そこから空間の中に解き放たれる、
音韻の形、動き、リズム、ハーモニー、タクト・・・。
 
 
それらは、
生きた言語の精神の法則に則つたものです。
 
 
それら、ことばから生まれる様々な要素を一身に響かせ、
音韻の動きと形に導かれ、奏でながら、
ことばを話す。
 
 
それは、ことばの意味を踏まえつつも、
ことばの表層的な意味から離れ、
ことばの音韻、ことばの調べを感覚しつつ、
ことばを奏で、ことばでその場を満たし、
空間をことばのお宮にすること。
 
 
演じる人も、観る人、聴く人も、共に、
そのことばのお宮のなかに包まれること。
 
 
その技量と見識を養ひ、培ひ、育んでいくのが、
わたしたち「ことばの家 諏訪」の仕事なのです。
 
  
日本の舞台言語とはどのやうなものでありうるのか。
 
 
明治以来、いまだに見いだせてゐないそのことに、
わたしたちはひとつの具体的可能性を提示しようとしてゐます。
 
 
日本の新しい舞台言語を生み出すこと。
 
 
それが、わたしたちの仕事です。
 
 
しかし、その最も新しいものは、
最も古いものと、きつと、響き合ふことでせう。
 
 
 
 

来年、令和2年3月28日(土)に大阪にて、
3月29日(日)に東京にて、上演いたします。
 
 
ぜひ、聴きにいらして下さい。


 


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2019年11月01日

「利用」と「入門」の違ひ



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この言語造形といふ芸術に携わはり始めて、
二十六年ほどになります。
 
 
東京で、師匠のもとに入門して七年を過ごし、
地元の大阪に帰つてきて、
なんとかこの芸術を仕事にし始めました。
 
 
ですので、いはゆる「言語造形をする人」として、
ひとさまの前でひとり仕事を始めて、
約二十年が経つたことになります。
 
 
お陰様で、この仕事ひとつで、家族四人が、
幸せに暮らしていくことができてゐることに、
本当にありがたい念ひがします。
 
 
この芸術を自分の「仕事」にすることができたのは、
ひとへに、
「入門」したからだと確信してゐます。
 
 
「入門」とは、
文字通り、「門」に入ることです。
 
 
それは、身を預けることです。
 
 
わたしの場合は、月曜日から金曜日まで、
毎日、師匠のもとに通ひました。
 
 
大切なことを学ぶことができたのは、
師匠といふ「人」がこの世に存在してゐたからでした。
 
 
言語造形といふ芸術に身を投じてゐる、
まさにその人あつてのことでした。
 
 
そこで毎日繰り広げられてゐたのは、
まさに、人と人とのわたりあひに他なりませんでした。
 
 
七年間、毎日、です。
 
 
そのやうな「毎日」があつたからこそ、
師匠の許から離れた後、
その「毎日」が「仕事」として結晶化し、
おのづから世に発展・展開していきました。
 
 
それは、能力のあるなしが問題なのではなく、
積み重ねてきた「時間」と「労力」と「精神」の問題です。
 
 
わたしは、とりわけ、「時間」といふものの積み重ねは、
決して馬鹿にならないものだといふことを、
この身で実感してゐます。
 
 
既定の自分のできる範囲でしか動こうとせず、
何かを、誰かを、「利用」しつつ、
それを「仕事」にすることは、
決してできません。

 
その「入門すること」と「利用すること」の
違ひが、現代人の多くに分からなくなつてゐるやうです。
 
 
わたし自身、その違ひに対する認識が、
これまで甘かつたことを、
今、痛感してゐます。
 
 
よつて、何人かの人が、
「入門」してゐないのにも関はらず、
それを「仕事」にしようとしました。 
 
 
いくらでも「利用」してもいいと思ふのです。
 
 
それは、現代人にとつて、ごくごく、
当たり前のことです。
 
 
しかし、
その「利用」と「入門」とは、
違ふのだといふことは明確にするべきです。
 
 
「入門」しなければ、
仕事にはならないこと。
 
 
より精確に言ふと、
「入門」してゐなければ、
片手間の仕事にはなるかもしれませんが、
決して、本物の仕事として展開していかないこと。
 
 
このことは、平成の三十年間には、
誰も教へてくれなかつたことのひとつです。
 
 
だから、現代人は、
この「利用」と「入門」の違ひを、
「知らない」のです。
 
 
「入門」できる仕組みを創ることでしか、
このことは、現代人には分かり得ないことでせう。

 
これは、
派閥を造ることとか、
王国を築き上げるといふやうなこととは、
精神を異にすると確信します。
 
 
言語造形といふ芸術を、
まこと、この日本の地に根付かせ、
芽を出させ、
花開かせ、
稔らせること、
そのために他なりません。
 
 
わたしの令和年間の仕事は、
そのための仕組みを創り始めることです。
 
 
師匠がして下さつたやうに。
 
 


『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/
 


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こころのこよみ(第31週) 〜「事」と「言」と「心」〜


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本居宣長像
 
 
 
精神の深みからの光が、
 
まるで太陽のやうに輝きだす。
 
それは生きる意欲の力になり、
 
そして、おぼろな感官に輝きいり、
 
力を解き放ち、
 
こころから創らうとする力を
 
人の仕事において、熟させる。
 
  
 
Das Licht aus Geistestiefen, 
Nach außen strebt es sonnenhaft.
Es wird zur Lebenswillenskraft
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit, 
Um Kräfte zu entbinden, 
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben 
Im Menschenwerke reifen lassen.           
 
  
 
  
「精神の深みからの光が、
 まるで太陽のやうに輝きだす」
 
 
わたしたちは、太陽の輝きには馴染みがある。
 
 
しかし、上の文を読んで、
「まるで太陽のやうに輝きだす
 精神の深みからの光」
をどう捉へていいものか、
途方に暮れはしないだらうか。
 
 
この文、これらのことばの連なりから、
どのやうなリアリティーを
摑むことができるだらうか。
 
 
ことばのリアリティーを摑むために、
何度もこころの内に唱へ、
口ずさんでみると、
どうだらうか。
 
 
水が集つて流れるやうに声に出すことを
「詠む」といふさうだが(白川静『字訓』)、
そのやうな活き活きとした息遣ひで味はつてみる。
 
 
また、
その川底に光るひとつひとつの石を見るやうに、
一音一音、味はふやうにしてみる。
 
 
そのやうにことばを味ひ、
ことばの響きに耳を澄まさうとすることにより、
こころの静けさとアクティビティーを通して、
「精神の深みからの光」が、
「事」として、だんだんと顕れてくる。
 
 
ここで言はれてゐる
「事」と「言」が重なつてくる。
 
 
「考へる」が「感じる」とかさなつてくる。
 
 
また、過去に幾度か経験した
「輝きだす」瞬間を想ひ起こし始める。
 
 
そのやうにして、
リアリティーの糸口が見いだされてくるにつれて、
いまこの瞬間において、
「精神の深みからの光」が、
こころに降りてくるのを感じ、覚える。
 
 
そのやうにして、
「事(こと)」と
「言(ことば)」と
「心(こころ)」が、
光の内に重なつてくる。
 
 
その重なりが、
こころの内なる化学反応のやうに
生じてくるのを待つ。
 
 
 
  
 

「精神の深みからの光」
 
 
その「光」こそが、
「生きる意欲の力になり」、
「こころから創ろうとする力を、
 人の仕事において熟させる」。
 
 
意欲をもつて生きるとは、
どういふことなのか。
自分の仕事において創造力が熟してくるとは、
どういふことなのか。
 
 
まづ、
内なる「光」といふもののリアリティーを得ることで、
それらのことが分かる道が開けてくる。
こころを暖め、熱くさせながら。
 
 
光だけを生きるのではなく、
熱をもつて仕事に向かい始める。
 
 
「考へる」「感じる」が、
さらに「欲する」とかさなつてくる。
 
 
「事」と「言」と「心」が、
さらに幾重にもかさなつてくる。
 
 
今週、
精神の光・考へる働きが、
活き活きと感じる力となり、
生きる意欲の力になり、
仕事を熟させていく。
 
 
その「事」を、
ことばとこころで辿つていかう。
 
 
 
 
 
精神の深みからの光が、
まるで太陽のやうに輝きだす。
それは生きる意欲の力になり、
そして、おぼろな感官に輝きいり、
力を解き放ち、
こころから創らうとする力を
人の仕事において、熟させる。
 
  
 



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2019年10月28日

覚悟といふ精神の系譜 〜小川榮太郎著『保田與重郎と萬葉集』(月刊『VOICE』掲載)を読んで〜

 
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奈良県桜井市にある保田與重郎ご生家
 

 
わたしは思ふのです。
 
 
これから先、わたしたちの国の将来において、
たとへ何が亡びて行かうとも、
偉大なる先人が書き上げた偉大なる文業は、
残つて欲しい。
 
 
優れた先人による優れた文学は、
残つて欲しい。
 
 
それらの作品が、
この国の精神の証だからです。
 
 
文芸評論家の小川榮太郎氏は、これまで、
事実に基づく記述による、
徹底的な検証が重ねられた仕事を、
たくさん重ねてをられます。
 
 
日本といふ国を守るため、
人が人として生きるための尊厳を守るための、
志高い、かつ、大変質の深い仕事をし続けてをられます。

 
下に掲げるのは、
月刊雑誌『VOICE平成二十八年十・十一月号』に掲載の、
小川榮太郎氏の論文「保田與重郎と萬葉集」に対する、
三年前のわたしの拙い感想文です。
 
 
この論文は、
密やかに、この国の底の底でわたしたちを支へ続けてきた、
我が国ならではの精神文化について論じられたものです。
 
  
「日本の巨きな亡びの自覚」は、
国史上、極めて少数の文学者によつて、
極めて意識的に、ことばにされてきました。
 
 
そしてそれを熟読する読者が、
極めて少数かもしれませんが、ゐたことと思ひます。
 
 
その精神の継承あつてこそ、
日本はいまだ、日本として、
なんとか、存続しえてゐると念ふのです。
 
 
それゆゑ、この三年前の論文の感想文を、
いま、また、掲載します。
 
 
小川氏によるその非常に素晴らしい論文は、
いつか一冊の書籍の中に収録されるのでせうか。
 
 
そのことを強く希みます。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー
 



小川榮太郎氏による論文『保田與重郎と萬葉集』を読む。
 
 
そして、保田與重郎による『萬葉集の精神』を読む。
 
 
さらに、大伴家持による『萬葉集』をひもとき続ける。
 
 
そんな毎日が続いてゐる。

 
ここに記されてあるのは、「覚悟」といふ精神の系譜だ。
 
 
そのやうなこの国に伝来の精神が、
しづしづとわたしのこころの中に流れ入つて来るのを感じる。
 
 
その「覚悟」とは、
その精神の系譜を踏んで歩くのだと腹を決めることである。
 
 
それは、静かだけれども、
こころの奥底に確かに響いてゐる「志」からの声である。
 
 
新しく小川氏によつて書き表されたこの文章を熟読する。
 
 
さう、熟読を通してこそ、 
この精神の流れは、きつと、
こころある人から人へと承け渡されるのだから。
 
 
 
 
【大伴家持の覚悟】
   
 
日本といふ国において、
皇室の存在意義を揺るがすやうな危機は、
これまでの長い歴史の中で幾度かあつた。
 
 
それは同時に我が国の危機であつた。
 
 
古き神ながらの道・古神道から離れゆく、
政治的・文化的情勢の怒涛のやうな流れ。
 
 
その流れに対する悲哀と慟哭を強く感覚した者が、
まづもつて柿本人麻呂であつた。大伴家持であつた。
おどろの下の道を歩いた幾人もの詩人たちであり、
さらに、幕末維新の志士たちであり、岡倉天心であり、
保田與重郎であつた。
 
 
そして、いま、
この論文を起こしてゐる小川榮太郎氏である。
 
 
その危機が最初に大きく現実化した壬申の乱。
 
 
それをどのやうに捉へ、
どのやうなことばをもつて記述するか。
 
 
その記述によつて、以後の一国のあり方が決められていく。
 
 
地に堕ちた人のことば(言挙げ)だけでやりくりしようとするのか。
 
 
それとも、
神々との繋がりの中で響き来ることば(言霊)に、
みづからを啓きつつ語り、歌つてゆくのか。
 
 
江戸時代の国学者たちは、祝詞と古事記と萬葉集、
とりわけこの三つこそがことばの力に依つた古典であるとした。
 
 
さう、ことばの力(言霊)こそが、
人のこころを救ひ、国の歴史を定め、後の世の流れを左右するのだ。
 
 
萬葉集の歌は、
粗暴なイデオロギーから歌はれたのではなく、
秘めやかな民の心情・草莽のこころざしから歌はれた。

 
国史への悲哀と慟哭が、壬申の乱の後に、
大君に仕へる宮廷歌人である柿本人麻呂によつて歌はれ、
そのいくつもの長歌には、
この国の精神を救ふ偉大なることばの力が見いだされる。
 
 
人麻呂は、
天智天皇・天武天皇、両統の間での、
正邪を断じて正統性を争ふやうな、
そのやうな言挙げを決してしなかつた。
 
 
内乱を描いても敵対や分離を示さなかつた。
 
 
あくまで「国の心の一つに凝り固まらうとする」、
尊皇によるこの国の根本義をもつて壬申の乱を描く。
 
 
その人麻呂の詠歌によつて、
日本の歴史は救はれ、皇室の純粋性は保たれたのだといふ、
家持の直感、保田の深い見識を、小川氏は浮かび上がらせる。
 
 
そのやうな、国の精神を救つた、
人麻呂の神ながらともいへる志からのことば遣ひを、
そのままの精神で掬ひ上げ、
萬葉集として記録したのが編纂者・大伴家持である。
 
 
しかし、藤原氏の政治的専横・暴虐によつて、
自分たち大伴氏族の勢力だけでなく、
大君を慕ひ、仕へ奉る勤皇の精神が、
政治の中枢から失墜し続けてゐる当時。
 
 
その運命的状況の中で、
家持は既に人としての
迷ひ、弱さ、絶望を充分に味はひ知つた人であつた。
 
 
だからこそ、彼こそは当時の時流に抗して、
明晰な意識をもつてその言霊に宿る精神を記録し、
みづからも歌つたのだつた。
 
 
その行為は、
己れ以外のものからの圧力や命令によるものではなく、
ひたすらに己が身の奥底から溢れ出てくる、
大君への真情、草莽のこころざしからのものであつた。
 
 
小川氏はその家持の「覚悟」を見事に描き出してゐる。
 
 
「新しい政治・文化状況を認めない。
 が、政治陰謀には加担しない。認めない事を、
 人麻呂以来の歌の伝統を継ぐことで証立てる。
 ― これが家持の覚悟だつたと見ていい。」
 
 
人の世を生き抜き、この世の栄華を勝ち誇るのではなく、
政治的に必敗の、
このやうな生き方を家持に選ばせたのは、
いつたいどのやうな念ひだつたのか。
 
 
それは、「かけまくも 畏き」「大君の思想」である。
 
 
家持は、
人麻呂の神の力に通はれたやうな志からの歌を、 
歴史の藻屑と消え去つていくことから掬ひ出した。
 
 
さらにその心境にみづから重なるやうに己れの歌を歌つた。
 
 
そして四千五百首以上の優れたやまとことばによる歌を集め、
萬葉集を編んだ。
 
 
さうして、家持は、人麻呂の大君への念ひを、継ぐ。
 
 
その継承からさらに、
家持はその念ひを、
「大君の思想」へと練り上げたのだ。
 
 
現実世界からの逃げではなく、
ことばの精神に生きることこそが
国を究極には救ふのだ。
 
 
そのやうな家持の「見識」と「覚悟」が、
萬葉集といふ我が国最高の古典の源泉、真髄であり、
その覚悟に至るまでの彼の葛藤・勘案が、
萬葉集を貫くリアリティーだつた。
 
 
家持は、
志を述べること、述志こそが、
和歌の真髄であることを意識して実行した、
一人の人だつたのである。
 
 

 
 
【保田與重郎の覚悟】
  
 
昭和の文人、保田與重郎は、
萬葉集に少年時代から親しみ、
江戸時代の土佐の国学者・鹿持雅澄の『萬葉集古義』に、
その「覚悟の系譜」を学び続け、
大東亜戦争勃発直前に、
『萬葉集の精神』といふ著述のために筆を執つた。
 
 
異常な緊張に漲つてゐた当時、
彼は己れの「覚悟」をその家持の「覚悟」に重ねた。
 
 
そしてその態度は、戦後も一貫するのである。
 
 
彼は、
当時のアララギ派を中心とした近代歌論を明確に否定し、
一首一首に表れる美、
ひとりひとりの歌人に表れる美学よりも、
それらを土台で支へる
「国の心の一つに凝り固まらうとする」
志こそが、本質なのだといふ、
萬葉集に対するもつとも古く、もつとも新しい見立てを行ふ。
 
 
そして、戦前、戦中、
ヒステリックに叫ばれる国策としての萬葉集の利用を根柢から侮蔑する。
 
 
そのヒステリックな叫びは、
右往左往する国際情勢からの、
場当たり的な論から生まれたものであり、
国のおほもとに立ち返つての、
揺るがぬ志からのものではなかつたからである。
 
 
当時のアメリカと日本の、
物量における圧倒的な彼我の差は、
当然保田にも認識されてをり、
その上で絶叫される戦意昂揚などに、
彼は全く同調することはできない。
 
 
ここで、小川氏は、
文業に対する保田の身を賭してのあり方を鮮やかに、
かう書き記してゐる。
 
 
「戦が始まつたことをまづ神意と見た上で、
 日本の祷りを行くしかない、
 これは狂信ではなく、
 あの時代に一文学者の立ち得る
 唯一の合理だつたとさへ言へるであらう。
 その意味で、これは寧ろ、時局を批判しながら、
 大東亜戦争の精神を救ふ立場だといふべきではないか。」
 
 
この立場に徹することが、保田の第一の「覚悟」であつた。
 
 
さういふ保田の姿勢を理解したものは、
出征していつた多くの多くの若者たちだつた。
 
 
そして年老いたインテリゲンチャほど、
その草莽のこころざしを理解できなかつた。
 
 
さういふ状況は、彼自身出征し、
帰国した戦後も変はりなく、
戦前親交を持つてゐた亀井勝一郎にさへ、
保田は曲解されてゐる。
 
 
さうして彼は戦後、
アメリカのGHQによる公職追放だけでなく、
文壇からの追放といふ四面楚歌のやうな立場に追ひ込まれる。
 
 
ここで、二つ目の保田の挺身、
「覚悟」が小川氏によつて記されてゐる。
 
 
それは、友であつた亀井のことばに端的に表されてゐるやうな
「いひがかり」に対する戦後のことばである。
 
 
その「いひがかり」とは、
保田の文業が多くの若者を
無残にも戦争に駆り立てたのではないか、
そのことに対する反省は如何、といふものだつた。
 
 
GHQによる占領検閲下の昭和二十四年、
戦前の日本は全否定され、
連合軍の正義と日本軍国主義の悪は絶対的なテーゼだつた。
 
 
その時に、保田は亀井勝一郎に答へる形で、
「小生は戦争に行つた日と同じ気持で、
 海ゆかばを歌ひ、
 朝戸出の挨拶を残して、死す」
と書いた。
 
 
「海ゆかば」とは、大伴家持によつて、
「大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」
と詠はれた長歌のことである。
 
 
小川氏は書く。
 
 
「戦後かういふことを明確に、
 それもここまで激しい言葉で堂々と言ひ放つた文学者は、
 川端康成や小林秀雄を含め、
 残念ながら他に一人もゐないのである。」
 
 
 
  
 
【覚悟といふ精神の系譜】
  
 
この「覚悟」の系譜を小川氏は改めて家持から辿る。
 
 
壬申の乱後約八十年が経つた後でも、
防人をはじめとする草莽の民たちによつて、
大君への純粋な念ひが詠われる。
 
 
そして、その純粋を裏切るやうな藤原氏の陰謀の政治。
 
 
その間に立つて、
絶大な責任を感じた家持は歌をもつて
「国の柱となり神と民との中間の柱になるものは」
自分以外にないといふ自覚に達したのである。
 
 
昭和十年代に於いて保田與重郎は、
この家持の自覚・覚悟を引き継ぎ、
我が国未曽有の危機である大東亜戦争に面して、
みづからも文人として、
この神と民との間に立つ柱となる自覚を覚える。
 
 
「保田は萬葉集を解いたのではなく、
 自らの言葉で同じ道を踏まうとしたのである。
 保田自身が現に経験してゐた、
 日本の更に巨きな亡びの自覚が、
 それを彼に強ひたからだ。」
 
 
そして、この文章の最後に、
筆者小川榮太郎氏の「覚悟」が、
韜晦のかたちに包まれて記されてゐる。
 
 
「・・・真の戦ひは全く終はらぬまま、
 『国の柱となり神と民との中間の柱となる』
 覚悟のない七十年が過ぎ、
 我々は亡びの過程を今も下降し続けてゐる。
 萬葉集は決して過去の詩歌集などではない
 といふやうな言葉が、
 一体今、誰に届くのかを怪しみながら、
 ひとまづ、私は筆を擱く。」
 
 
文学者とは、
ともすれば離叛していかうとする、
精神と物質を仲介する橋にならうとする人である。
 
 
ことばをもつて、
神と民との中間の柱になることを念じ、
悲願し、
志す人である。
 
 
さういふこころざしを持つ人の系譜が、
柿本人麻呂から大伴家持へ、
そして幕末ごろの国学者たち、維新の志士たちへ、
更に保田與重郎へと引き継がれてゐることを
小川氏は書き記した。
 
 
そして、さらに小川氏自身が、
この系譜の尖端に立つてゐることをも、
わたしは改めて強く感じることである。
 
 
現実の世の混乱・危機から、
人のこころを救ふのは、
究極において、ことばである。
 
 
人のこころを覚醒させ、
非本質的なところから
本質的なところに立ち返らせる、
そんなことばなのである。
 
 
小川氏によるこの
『保田與重郎と萬葉集』といふ文章は、
さういふことばを発し続ける覚悟を固めた人の系譜を記してゐる。
    
 
 
平成二十九年二月 「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
(令和元年十月三十一日 加筆修正)


posted by koji at 21:49 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第30週) 〜秋の喜び、垂直性〜


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こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
 
考へることの豊かな実り。
 
みづからを意識することの確かさにおいて、
 
すべての感じ方が変はる。
 
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
 
秋の精神の目覚めを。
 
「冬はわたしの内に、
 
こころの夏を目覚めさせるだらう」
 
 
 
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht  
Des Denkens reife Früchte, 
In Selbstbewußtseins Sicherheit
Verwandelt alles Fühlen sich.
Empfinden kann ich freudevoll
Des Herbstes Geisterwachen:
Der Winter wird in mir
Den Seelensommer wecken.  
 
 
 
 
秋が深まつてきた。
 
 
それまでの曖昧で不安定だつた
考へる力の焦点が定まつてきて、
本当にこころから考へたいことを
考へられるやうになつてくる。
 
 
考へたいことを考へる。
 
 
その内なる行為こそが、
こころに太陽の光をもたらす。
 
 
それは、わたしの場合、
本当に喜ばしいことで、
考へる力に濁りがなくなつてくると、
感情も清明になり、
意欲にも火がついてくるのだ。
 
 
そして、本、文章、テキスト、さらには、
人とのいい出逢ひに恵まれるやうになつてくる。
 
 
生きることの意味。理想。希望。
 
 
それらの考へと情が、
わたしにとつて何よりも気力と意欲、
そして喜びを起こしてくれる。
 
 
そのことを実感できる日々はありがたいものだ。
 
 
見えるものについてただ無自覚に考へ、
なんとなく思ひ続けてゐるよりも、
見えないものへの信を深めるやうな、
考へと情を育んでいくことが、
どれだけ、こころを目覚めさせることか!
 
 
ものがただ並んでゐる平面を生きることよりも、
ものといふものにおける垂直を生きること。
 
 
秋から冬への生活とは、
そのやうな「ものへゆく道」
「深みを見いだす生活」になりえる。
 
 
日々のアップ・アンド・ダウンはある。
 
 
しかし、週を経るごとに、
こころが織り目正しく織りなされていく。
 
 
そして、「わたしがあること」の
安らかさと確かさをもたらしてくれる。
 
 
ありがたいことだと思ふ。
 
 
 
 
こころの太陽の光の中でわたしに生じる、
考へることの豊かな実り。
みづからを意識することの確かさにおいて、
すべての感じ方が変はる。
わたしは喜びに満ちて感覚することができる、
秋の精神の目覚めを。
「冬はわたしの内に、
こころの夏を目覚めさせるだらう」
 
 
 

posted by koji at 15:32 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月27日

「現実」といふ詩


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現実に己が身の周りに起こることごとと、
〈わたし〉が抱かざるをえない「理想」とは、
どういふ関係にあるのだらう。
 
 
着々とその「理想」が現実化してゐる一方、
その「理想」を嘲笑ふかのやうな出来事も目の前で起こる。
 
 
そのやうな出来事が起こるたびごとに、
自分自身の「理想」など、
身の程知らずの愚か者が喋々する「夢物語」に思へてくる。
 
 
そんな「理想」を喋々してゐる自分自身への不信感に苛まれる。
 
 
自己不信の淵に立つてしまふとき、
わたしには昔の人の事績に救われる思ひがする。
 
 
偉大な先人は、皆、苦闘されてゐた。
 
 
甘い道など、何もなかつた。
 
 
再読してゐる最中の保田與重郎の『後鳥羽院』の頁をまた開く。
 
 
ーーーーー
 
 
限あれば さても耐へける 身の憂さよ
民のわらやに 軒をならべて
 
 
この遠い孤島(隠岐の島)に十九年の歳月を送られたことは、
ご壮健の玉体によるとはいへ、
それ以上に激しい精神と烈々の意志に、
末世の我らは畏れ多い教訓さへ感じられたのである。
 
 
(後鳥羽院の詩心は)
廣い茫漠とした天地と人間の歴史からわく感銘の自己反省であらうし、
ある永遠な決意と志の詩化である。
 
 
ーーーーー
 
 
志を貫かうとされた人が、
外的な敗北ゆゑに、
内なる精神が光り輝くありやうを、
かういふ文章からも知ることができる。
 
 
いや、そのこと以上に、
失意の中でも「理想」を決して手放さうとはなさらなかつた、
後鳥羽院の孤島での日々の過ごされ方に、
驚異を覚えるのだ。
 
 
偉大な先人と自分を比べるのは、
余りにもの不敬の誹りを免れえないが、
しかし、その精神のありやうに、
わたしは最大限に励まされる。
 
 
「理想」を生き抜くためには、
毎日、「理想」を熱く考へることではないだらうか。
 
 
毎日、その「理想」と内においてひとつになること。
 
 
毎日、この「道」を歩くのだといふ決意を、
新たにすること。
 
 
そして、毎日、少しずつでも、
この「理想」を現実に行為に移すことである。
 
 
毎日、考へ続けることを通して、
「理想」を決して手放さず、
毎日、決意と志から、
「現実」といふ詩を作ることである。



posted by koji at 20:07 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月25日

私立高校の先生方とのワークショップ


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昨日、今日と、
日能研の下藤 陽介さんの肝煎りによつて、
東京の江東区にある、
ふたつの私立中・高校へ伺わせていただきました。
(下藤さん、どうもありがたうございました!)
 
 
昨日は、江東区東雲にある、
かえつ有明中学校・高等学校。
 
 
来月、11月に、高校生たちに特別授業として、
和歌のワークショップをするのですが、
まづは、国語の先生方と図書室司書の方とで、
言語造形を体験していただきました。
 
 
テキストは、
本居宣長読み下し文による『古事記』と、
中島敦『山月記』。
 
 
先生方は、
それらのテキストに、
まさに体当たりで挑んで下さいました。
 
 
印刷されてゐる文字を、
空間に生き物としてありありと甦らせる言語造形。


この芸術に初めて触れられたのにも関はらず、
先生方のその理解のダイレクトなこと。


先生方のそのご理解の直接性、深みは、
国語教育の長いご経験から、
長い自問自答の重なりから、
即座に摑まれた感覚の鋭さに基づいてゐること。
 
 
わたし自身、深く感銘を受けました。
 
 
ことばの働きに通じてゐない若者たちの現況。
 
 
それは、
わたしたち親の世代の国語力の反映に他なりません。


わたしたちは、これから、
どのやうな国語教育を模索・敢行していくことができるか。
 
 
国語教育を、
言語造形から、
創り始めて行く。
 
 
わたしは、
そんなプロジェクトを起こしていくことはできないか、
そのことをずつと考へ続けてゐます。
  
 
これから先生方と語りあふことができれば、
さう希つて止みません。
 
 
 

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そして、今日は、
江東区清澄にある中村中学・高等学校にお邪魔しました。
 
 
来年の3月29日(日)にする、
東京言語造形公演『 我らが神秘劇 をとめ と つるぎ 』。
 
 
その公演のためのホールを見させていただきました。
 
 
人の声がまろやかに優しく、かつ、明瞭に響く、
とても優れたホールでした。
 
 
担当して下さる中村高等学校の先生も、
言語造形にご関心を抱いて下さり、
12月に、
先生方で言語造形のワークショップをすることも決まりました。
 
 
 
わたしは、国語教育は、
国史教育と並んで、
国創りの根幹をなす大切なものだと考へてゐます。
 
 
新しい時代を生きる若い人たちのために、
新しい国創りのために、
少しずつ、種を蒔いて行きたいと思ひます。

 
 



posted by koji at 22:22 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

尊敬する存在


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平櫛田中作「養老


 
わたしたちは、各々、
尊敬に値する人をこころに持つてゐるだらうか。
 
 
もし、持つてゐないといふのなら、
それは、しんどいことだ。
 
 
生きて行く上で、
それはとてもしんどいことである。
 
 
人は、
敬ひ、尊ぶ存在を、
こころにしつかりと持つてゐることで、
人になるのだから。
 
 
自分自身になるのだから。
 
 
人が人であることの感覚。
 
 
それは、他者を敬ひ、尊ぶことから、
だんだんと育まれていく。
 
 
幼な子は、皆、
この念ひを無意識に持つて生まれてくるのだが、
小学校に入つて数年経つうちに、
その念ひを失くしてしまふことがある。
 
 
大人になつて、その念ひを失つてしまつてゐる人は、
自分自身の意志でその念ひを持つことができるやう、
自分自身を導くことで、こころが健やかさに向かつていく。
 
 
 

日本に於いては、歴史の中で随分と長い間、
人が人であることの感覚が育まれてゐた 。
 
 
それは、ひとりひとりの民が、各々、
尊敬する存在を持つことで育まれてゐた感覚であり、延びてゆく道であつた。
 
 
生きていく上でのお手本を見いだすことで育つてゆく樹木であつた。
 
 
樹木が育つていくためには、
上から陽の光と雨水が降り注がれなければならないやうに、
とりわけ、子どもにとつて、そのやうな尊敬に値する存在が必要なのだ。
 
 
子どもは、
尊敬する存在が傍にゐてくれることで、
健やかに成長していく。
 

実は、大人だつて、さうである。
 
 
あなたには、尊敬する人がゐるだらうか・・・。
 
 
大人になつてゐる以上、
おのづと尊敬できる存在が目の前に現れてくることはない。
 
 
尊敬する存在を自分自身の意志で持つことだ。
 
 
さうすることで、人は、
己れのこころが健やかに浄められるのを感じることができる。
 
 
人は、
己れよりも、高い存在がゐる、といふことを認めることで、
初めて謙虚になることができる。
 
 
古来、日本の民は皆、強制されてではなく、
どこまでもこころから尊敬する存在、
大君といふ存在を己れのうちにいただいてゐた。
 
 
昔の日本人は、さういふ道を歩いてゐたのだ。
 
 
このことは、令和元年のいま、これから、
国民的な趨勢として、
意識的に学び直されて行くだらう。
 
 
なぜなら、それは、
これまでわたしたちが受けて来た教育では、
意図的に全く教へてもらへなかつたことだからだ。
 
 
批判的に、客観的に、
ものごとや、人や、すべてのものを見るやうに、
つまり、科学的に見ることを、
ひたすらに教へられてきたのだ。
 
 
これからは、ひたすらに意識的に古(いにしへ)を学ぶ、
そんな古学が甦つて来るだらう。
 
 



 
 

 

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2019年10月23日

小川榮太郎氏『国柄を守る苦闘の二千年』を読んで


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雑誌『天皇こそ世界の奇跡』といふ雑誌に、
寄稿された小川榮太郎氏による文章。


何度も読んでゐますが、
そのたび、感銘を深くしてゐます。


この文章を読むことから、
学ばせてもらへることは数多ありますが、
最初の一文が、まづもつて、驚きをもたらすのです。


「私たちは今、日本史上、
天皇と国民の距離の最も近い時代、
心情的にも自然な一体感を味はへる幸福な時にある。」


確かに、
昨日の新しい天皇陛下による「即位礼正殿の儀」も、
インターネットの画面で生中継で見ることができました。


さういふメディアの発達によつて、
「天皇と国民の距離の近さ」が醸成されてゐることも、
確かにあるでせう。


しかし、そんなことよりも、より本質的なことがある。


その近さとは、
江戸後期、
第119代光格天皇がなされた朝廷儀式の再興と、
それを準備したとも言へる、
水戸学や国学などの江戸思想、
それらが生み出した「新しい天皇像」ゆゑのことだつたのです。
 
 
それまでは、
「天皇と国民との紐帯が
終始一貫してゐたといふわけにはゆかない。」


「天皇伝統」は、
明治維新から本格的に再興したのです。


「伝統」とは、
人によつて明確に意識されてこそ、
初めて「伝統」たりえます。


まぎれなく考へられてこそ、
初めて人のこころに、
「引き続き大切なものごとが守られ育まれてゐる」
といふ「引き続き」に対する自覚が生まれるのです。


天皇伝統、
保田與重郎はそれを「大君の思想」と呼びましたが、
我が国の歴史の中で、
極めて高い精神をもつ幾人かの文学者たちが、
その伝統を己れの生命をもつて密かに生きました。


文芸の伝統として、言霊の思想として、
「おどろが下の道」「奥の細道」を歩んできたのです。


そして、何より、誰より、
代々の天皇ご自身が、
我が国の天皇のあり方を研究され続け、
どのやうな外的状況に国が晒されても、
その伝統意識を守り、育み続けて来られました。


小川氏は記します。


「天皇伝統とは、
その一歩一歩の危ふひ歩みの必死の務めの中から、
(天皇ご自身が)
苦心惨憺創造され続けてきたものなのである。」


その一歩一歩の危ふひ歩みのいかなるかが、
各段落ごとに歴史の流れに沿つて描かれてあります。
 

それらすべての描写は、
小川氏が最後に書かいてゐる、
ひとつの「問ひ」に向かつて、
収斂していきます。
 
 
その「問ひ」とは、かうです。
 
 
二千年以上の間、一国を、
政治的・経済的共同体たらしめて来ただけでなく、
ひとりひとりの民の自由闊達な生き方を促すやうな、
「精神的共同体」たらしめるために、
代々の天皇陛下がなされて来た苦闘に対して、
わたしたち国民はどうお応へするべきか。


いま、わたしたちは、歴代の御苦闘の果てに、
新しい天皇陛下をお迎へしてゐます。
 
 
わたしは、
いはゆる「天皇制」なるものの議論などよりも先に、
その御存在と歴史について謙虚に学ぶことが、
なによりも先であると思ふのです。
 
 
大嘗祭が施行されるこの令和元年、
まづは、わたしたち国民の中から、
天皇といふ御存在について学び始める、
そんな熱意と気運を起こしていくこと。
 
 
わたしも始めて行きたいと考へてゐます。




 
さて、この雑誌にもたくさんの寄稿文が掲載されてゐます。
 
 
しかし、石平氏や数人の外国の方の文章、そして、
在日朝鮮人でボクシング連盟前会長の山根明氏の文章を除き、
ほとんどの寄稿者の文章が、
やや情緒的で紋切り型の考へやものの言ひ方に
安住してしまつてゐる感が否めません。
 
 
天皇といふ御存在あるからこそ引き続いて来た、
またこれからも引き続いて行くべき、
我が国の歴史精神。


この歴史精神に対し、
ひとりの現代人としてどう向き合つて行くのか。
 
 
この決して他人事にはできない切羽詰まつた問ひが、
この小川氏の文章には貫かれてゐます。
 
 
この文章のうしろには、
書く人、小川氏本人の、
生活の、人生の、切羽詰まつたやうな哀感が滲んでゐます。
 
 
人生を懸けて問うてゐる問ひと、
この時代がもたらす状況との間に、
必然的に生じる不協和音が響いてゐるのです。
 
 
さうであつてこそ、
評論や批評は、
文学たりえるのではないでせうか。
 
 
そして、造形された文章・文体だからこそ、
そこに精神が存在してゐます。
 
 
文章のうしろには、精神がある。
 
 
その精神といふ光が読み手のこころにもたらす、
形、運動、色彩、陰翳・・・。
 
 
論理をもつてだけでなく、
それらを感覚させてくれる文章を書く人が、
現代とても少なくなつて来てゐるやうに思はれてなりません。




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2019年10月22日

「即位礼正殿の儀」を祝します


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新しい令和の御代。
 
 
「ことばの家 諏訪」も、
内において、
大きな変はり目に来てゐます。
 
 
言語造形を通して、
日本の国語の生命が甦ること。
 
 
そして、言語造形をもつて、
人間教育の基としての国語教育が、
新しく立ち上がつて来ること。
 
  
語り・演劇・詩歌の朗唱。
 
 
それら、国語芸術が、
言語造形を通して、
舞台芸術として、
古来の精神を引き継ぎつつ、
新しい精神文化として甦り来ること。

 
 
それらこそが、
わたしたちの何よりの希ひ。
 
 
その希ひをなんとか具現化していくべく、
毎日毎日、
考へ続け、想ひ続け、念じ続け、
仕事をしてゐます。
 
 
もつと、もつと、
勉強し、稽古し、動き、創つていくことで、
令和の新しい御代を、
よき時代にしていきます。
 
 
皆様、なにとぞ、どうぞ、
よろしくお願ひ申し上げます。

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2019年10月21日

現場における精神の役割


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わたしは、若い頃から、ずつと、
精神からの指針を求めてゐました。
 
 
何を学ぶにしても、何をするにしても、
そこに、精神からの指針が貫かれてゐないものに、
どうしても満足することができなかつたのです。
 
 
二十代の後半、
ルドルフ・シュタイナーに出会ひ、
わたしは、その喘ぎと渇きにも似た認識欲を、
初めて満たすことができました。


しかし、その認識といふものは、
無限の深みをもつものであること、
学べば学ぶほど、
人生の痛みと共に、
気づかされて来たのでした。
 
 
分かつてゐたつもりで、
実は、何も分かつてはゐなかつたことに、
痛みと共に何度も何度も気づかされるのです。
 
 
しかし、かうして仕事をしながら確信することは、
精神からの指針を己れのものにしてゐることほど、
強いものはないといふことです。
 
 
現場で働いてゐる人は、
その職場の教育がよほどしつかりしてゐて、
伝統といつていいやうな環境に恵まれてでもゐない限り、
たいてい、
何を指針にしていいか分からず、
その場その場の状況に、
右往左往してゐます。

 
アントロポゾフィーを学ぶといふこと。
 
 
それは、たとへ翻訳であつても、
原書をひたすらに読みこむことです。

 
そして、そこから必然的に生まれて来る学びの道に、
素直に従つて行くことです。
 
 
そこには、精神からの指針が、
生き物のやうに、脈打つてゐて、
現場で働く人を、
どこまでも支へ、
どこまでも自由にします。
 
 
決して、精神は、人を縛りません。
 
 
その人の真ん中に軸を打ち樹てます。
 

ぶれません。
 
 
さういふ学びこそが、大切に、守護されてしかりです。
 
 
癒しをもたらすやうな体験では、
決して、人生の本当の活路は開かれません。
 
 
これまで「ことばの家 諏訪」においても、
ルドルフ・シュタイナーによる、
『テオゾフィー』、
『自由の哲学』、
『いかにして人は高い世を知るにいたるか』
(いずれも、鈴木一博氏訳)
を講座として読みこんできました。
 
 
そして今は、『普遍人間学』を、
月に一回、
参加者の皆さんと一緒に読みこんでゐます。
 
 
そこに語られてゐること。
 
 
それは、
「人とは何か」
「そして、人はどのやうにすれば、成長していくのか」
といふことに尽きます。
 
 
言語造形を仕事としてゐるわたしなどは、
原書の読みこみ、読み重ね、熟読に助けてもらつて、
その精神の確かさを実感しながら、
子どもたちや生徒さんたちと共に生きてゐます。
 
 
とりわけ、子どもたちは、
その仕事の精神の確かさに、
素直に反応を返してくれます。
 
 
今日は、日本の昔話「さとりのばけもの」を中心に、
いろいろなことばの芸術を楽しみました。
 
 
アントロポゾフィーは、
そんな精神からの仕事を、
静かですが、強烈に推し進めていくための、
現代人にとつてとても大切な精神の糧たりえるものです。
 

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2019年10月20日

こころのこよみ(第29週) 〜コトバ第一ナリ〜



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Marina Fernandes Calache「詩」

 
  
みづから考へることの光が、

内において力強く輝く。

世の精神の力の源から、

意味深く示される数々の験し。

それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、

秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。
 
 
 
 
Sich selbst des Denkens Leuchten 
Im Innern kraftvoll zu entfachen, 
Erlebtes sinnvoll deutend
Aus Weltengeistes Kräftequell,
Ist mir nun Sommererbe,
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.  
 
 
 
 

改めてこの夏を振り返つて、
夏といふ季節からの贈り物は、何だらう、
さう問ふてみる。
 
 
それは、「ことば」であつた。
 
 
「わたしはひとりである」といふ「ことば」だつた。
 
 
いま、秋になり、外なる静けさの中で、
その「ことば」を活発に消化する時であることを
わたしは感じてゐる。
 
 
そして、来たる冬において、
その「ことば」は、血となり、
肉となつて、
生まれ出る。
 
 
夏に受けとられ、
秋に消化された「ことば」が、
冬には、
「己れのことば」、
「わたしの内なるひとり生みの子」、
「わたしの仕事(ことに仕へる)」として、
世へと発信される。
 
 
そんなクリスマスへの希みがある。
 
 
夏に贈られた「ことば」があるからこそ、
この秋、その「ことば」を基点にして、
自分の情を鎮めることができる。
自分の考へを導いていくことができる。
自分の意欲を強めていくことができる。
そして、冬へと、クリスマスへと、備へるのだ。
 
 
 
 
 
メディテーションをする上にも、
余計なことを考へないやうにするために、
飛び回る鬼火のやうな考へや情を鎮めようとする。
 
 
しかし、いくら頑張つてみたところで、
どうにも鎮まらない時がよくある。
 
 
そんな時、
メディテーションのために
与へられてゐる「ことば」に沿ひ、
その「ことば」に考へを集中させていくと、
だんだん、おのづと、
静かで安らかなこころもちに至ることができる。
 
 
「ことば」を先にこころに据えるのだ。
 
 
その「ことば」に沿ふことによつて得られる感覚。
 
 
日本人においては、
特に、万葉の歌を歌ふ頃から時代を経て、
「古今和歌集」の頃もさらに経て、
「新古今和歌集」が編まれた頃、
その「ことば」の感覚が、
意識的に、尖鋭的に、磨かれてゐたやうだ。
 
 
歌を詠むこと、詠歌において、
「題」を先に出して、
その「題」を基にして、
まづ、こころを鎮め、こころを整へて、
その後、歌を詠んだのである。
 
 
こころの想ふままに歌を歌へた時代は、
だんだんと、過ぎ去つていつたのだ。
 
 
こころには、あまりにも、
複雑なものが行き来してゐて、
それが、必ずしも、
歌を詠むに適した状態であるとは限らない。
 
 
 
ーーーーーー
 
 
詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ
 
 
トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ
 
 
コトバ第一ナリ
 
 
(本居宣長『あしわけ小舟』より)
 
 
 
ーーーーーーー
 
 

「ことば」が、
こころの内に据えられてあるからこそ、
「ことば」といふ手がかりがあるからこそ、
わたしたちはみづからのこころのありやうを、
手の内に置くことができるやうになる。
 
 
わたしたち日本人は、長い時を経て、
歌を詠むことを通して、
「ことば」の世界に直接入り、
「ことば」の力に預かりながら、
己れのこころを整へ、
情を晴らし、
問ひを立て、
明日を迎へるべく意欲をたぎらしてゐた。
 
 
秋になり、
わたしたちは夏に贈られた「ことば」を通して、
妄念を鎮め、
こころを明らかにしていくことができる。
さうして初めて、
「みづから考へることの光が、
 内において力強く輝く」。
 
 
歌を何度も何度も口ずさむやうに、
メディテーションを深めていくことが、
来たる冬への備へになるだらう。
 
 
 
 
 
みづから考へることの光が、
内において力強く輝く。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。
 
 
 
 
諏訪耕志記

 
 


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2019年10月19日

ことばひとつで描かれる情景  〜『 をとめ と つるぎ 』の稽古〜


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演劇といふ芸術。
 
 
そこには、
音楽、照明や小道具・大道具や衣装など、
様々な素材が用いられ、
そのどれもがとても重要な役割を持ちます。
 
 
しかし、
わたしたち「ことばの家 諏訪」の創る演劇は、
ほとんど、
ことばといふものを、
芸術的に、精神的に、
立ち上げることを、
あえて主旨にした舞台創りをしてゐます。
 
 
ことばひとつで、
何の舞台装置や書き割りがなくとも、
果てしない大空の青さや星々の輝き、
人のかなしみ、喜び、すべての情といふ情の、
色彩を、かたちを、動きを、
空間に描き出さうと試みます。
 
 
それは、演劇の核は、
言語であると信じてゐるからであります。
 
 
日本のことばの芸術、
ことばの舞台芸術を創り出したい。
 
 
そんな希ひをもつて、今日も、
『 をとめ と つるぎ 』の稽古。
 
 
朝の9時半から夕方5時過ぎまで、
芸術に汗を流すことの仕合はせは、
もうことばがないほどなのです・・・!
 
 
もうすぐ、この劇の主人公である、
仲哀天皇と神功皇后とが営まれたお宮址、
香椎神宮近くでの合宿です ♪
 
 

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2019年10月18日

親子で楽しむ言語造形 in 能登川


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今日は「ことばを学ぶ会in能登川」にて、
言語造形を親子で楽しみました。
 
 
生まれて三か月の幼な子たちも、
昔話をじぃ・・・と聴いてくれました。
 
 
幼な子たちは、まだ意識は眠つてゐますが、
そのぶん、
大人の声とことばを全身全霊で聴いてゐます。
 
 
そんな子どもたちに、息遣ひ深く、
身ぶりたつぷりにお話を語り聴かせる。
 
 
そんな語りは、
幼な子の血の巡りを中心とする、
からだの育みを健やかに促してくれます。
 
 
お母さんたちも、みづから、声を解き放つて、
絵本を声に出してみました。
 
 
その体験は、どんなだつたでせう。
 
 
また来月11月12日(火)に集まります。
 
 
お近くの方、よろしければ ♪
 
 
ご連絡は、よしむら助産所
よしむら 真弓 (Mayumi Yoshimura)さんまでお願ひします。

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2019年10月16日

もののあはれを知る 〜日本人ならではの学びのサイクル〜



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秋きぬと目にはさやか見えねども風の音にぞおどろかれぬる

(藤原敏行朝臣)



世の季節の移り変はりを敏く感じ取つてゐたわたしたち日本人は、和歌のことばに沿つて、内なるこころの移り変はりをも敏く感じ取る訓練をしてきました。



外なるものとともに、内なるものをも、深く味はふ。



感じたこと、見て取つたこと、感覚したこと、想ひ描いたこと。



それらを「ことば」に鋳直す。



それは、感覚の享受に留まつてゐるのではなく、それをアクティブに消化するといふことです。



そして、その消化を経て、わたしたちは、ものやことやこころのありさまをより深く「知る」。



感覚の享受から、内においてそれをアクティブに消化することへと進む。



さらに、その消化し、稼がれた知を自分の中に溜め込むのではなく、世に向けて、発信する。



そのアウトプットの仕方を学んでいく。



享受し、消化し、発信していく。



この一連のこころの訓練を通して、人は、自分自身の「内なる神々しさ」を、だんだんと学び取つていくことができます。



本居宣長は、そのこころの訓練を「もののあはれを知る」ことと言ひ、その学びの粋を、紫式部による『源氏物語』に観ました。



そこに、歌と物語がことばの芸術として活き活きと織りなされてゐること。
 
 

日本人が、人として、世にどう呼応し、どう向き合つてゐるのか、といふことがありのままに活写されてゐること。
 

 
そのやうなことを宣長は言ひました。



心情のこころを育んできた時代において、日本人は、和歌と『源氏物語』を、こころから愛し、それを読み、詠みこむことを通して、こころの糧にしてきたのです。



そして、意識のこころの時代に入り、宣長は、その享受への愛と、消化し発信していく勤しみを連動させていく学びのサイクルを、日本人のものの学びのありようの粋として、意識的にことばに捉えたのでした。
 

 
それを、「もののあはれを知る」ことと言つたのです。



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2019年10月15日

こころのこよみ(第28週) 〜こころの太陽の力〜


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棟方志功『R火頌(かぎろひしやう)』より
保田與重郎の和歌「火の國の阿蘇の神山神の火の魂依りしづか燃えていませり」


 

わたしは、内において、新しく甦ることができる。
 
己れであることの拡がりを感じる。
 
そして、力に満ちた考への輝きが、
 
こころの太陽の力から、
 
生きることの謎を解いてくれる。
 
いくつもの願ひを満たしてくれる。
 
これまで希みのつばさは、弱められてゐたのに。
 
 
 
Ich kann im Innern neu belebt          
Erfühlen eignen Wesens Weiten         
Und krafterfüllt Gedankenstrahlen        
Aus Seelensonnenmacht             
Den Lebensrätseln lösend spenden,        
Erfüllung manchem Wunsche leihen,       
Dem Hoffnung schon die Schwingen lähmte.   
 
 
 
わたしたちひとりひとりは、こころにおいて、アクティブになれる。
 
それは、影のやうな様々な死んだ考へを漠然と抱くのを止めて、積極的に、こころの熱くなるやうな考へをリアルに持つときだ。
 
自分自身が本当に考へたいことのみを考へるときだ。
 
そのとき、考へが、干からびた枠組みだけのものから、こころを熱く息づかせるいのちを持ち始め、こころは新しく甦る。
 
太陽は夏の間、外側に照り輝いてゐたけれども、秋からは、こころの内に輝き始めることができる。
 
そして15世紀から始まつてゐる新しい時代において、人が抱く考へがどんどん干からびたものになつてきたのも、ちやんとした理由がある。
 
それは、わたしたちが生きてゐる20世紀から21世紀にかけて、その死んだ考へを、ひとりひとりが意識的に、アクティブに、こころの内でいのちあるものに変容させるためだ。
 
考へを活き活きとしたみずみずしいものに。
 
その変容は、秋といふ季節において起こり得ることであり、またわたしたちの時代において起こし得ることである。
 
「内において、新しく甦る」
「己れであることの拡がり」
「力に満ちた考への輝き」
「こころの太陽の力」
 
なんと、力強い、いのちのみずみずしさを湛えたことばたちだらう。
 
ことばを繰り返し繰り返し詠むことで、ことばに湛えられてゐるいのちを汲み出さう。
 
声に出すことで、考へを活き活きと深めていかう。
 
考へがいのちを得て、こころが熱く息づく。
 
こころに太陽が輝き始める。
 
 
 
わたしは、内において、新しく甦ることができる。
己れであることの拡がりを感じる。
そして、力に満ちた考への輝きが、
こころの太陽の力から、
生きることの謎を解いてくれる。
いくつもの願ひを満たしてくれる。
これまで希みのつばさは、弱められてゐたのに。
 
 
 
 


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令和二年冬の集中講座『シュタイナー教育と自己教育』


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令和二年初頭、1月3日(金)、4日(土)、5日(日)の三日間連続アントロポゾフィー講座のご案内です。 
 
  
人は、誰かに育てられて、人になります。
 
お父さんも、お母さんも、近所のおじさんも、おばさんも、みんな、人は、誰かに育てられてきたのです。
 
むかしは、その人の育て方といふものを、暮らしの知恵から、ご先祖様の教えから、おのずと導き出してくることができました。
 
いま、わたしたちはそういう昔ながらの知恵を失ってはいないでしょうか。
 
そういふ昔ながらの知恵を改めて意識的につかんでいこうではないか、この三日間の講座はそのことを目指しています。
  
一年のはじまりに、ご一緒に、そんな人間学を学んでみませんか。
 
 

午前のアントロポゾフィー講座では、三つのテーマに取り組みます。
 
@「 子どもをほめること、しかること 」(1月3日)
A「 子どもの内なる善と悪 」(1月4日)
B「 子どもの判断力を育てる 」(1月5日) 
 
この三つの観点から、人が自由になりゆくために何が大切なことなのかを、共に学んでいきます。

昔の人の知恵を改めて意識的に捉え直す、それらの観点。それは、きっと、子どもへの教育、そして大人の自己教育における、大切な指針となります。
 
また、午後には、「演劇教育へのみちびき 〜昔話を語り、歌い、演じる〜 」をテーマにして、三日間かけて、素朴な昔話をお芝居仕立てで生きてみましょう。三日目の終わりには、お客様を呼んで、ささやかなお披露目の時間ももちます。

そんな体験から、子どもたちと分かち合っていく演劇の魅力をまずわたしたち大人が実感できたらと願っています。


シュタイナー教育は初めて、という方も、どうぞ、奮ってご参加ください。
 
 
「ことばの家 諏訪」諏訪耕志
 
 
 
 
●日時:
令和二年1月3日(金)〜5日(日)
9時15分開場 9時半開始 
17時終了予定
 

●場所: 
ことばの家 諏訪 https://kotobanoie.net/access/
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20  南海高野線「帝塚山」駅徒歩5分
 
 
●参加費: 
三日間連続参加 25000円  
一日単発参加 10000円
※お子さまの託児はありません。ご了承ください。
 
 

●振込先: 
ゆうちょ銀行
ゆうちょ銀行から 記号 10260 番号 28889041 スワ チハル
他銀行から  店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904 
 
 
 
●お問い合わせ・お申し込み: ことばの家 諏訪
T/F 06-7505-6405  
E−Mail  info@kotobanoie.net

 
 

【講座ご紹介】
 
 
●9時半〜10時  
「シュタイナー幼児教育の朝のひととき」 
  講師:樋口早知子

 
●10時〜12時  
「アントロポゾフィー講座」 
  講師:諏訪耕志
@「 子どもをほめること、しかること 」 (1月3日)
A「 子どもの内なる善と悪 」 (1月4日)
B「 子どもの判断力を育てる 」  (1月5日) 
 
 
●13時半〜16時   
「演劇教育へのみちびき 〜昔話を語り、歌い、演じる〜 」
  講師:諏訪耕志(言語造形)・武内ゆかり(歌・音楽)
 
 
 
 
【講師プロフィール】
 
 
●樋口早知子
くすのき園あびこシュタイナー幼稚園教師。保育園に勤めながら乳幼児の教育のあり方を模索し続け、シュタイナー教育に出会う。2006年ミカエルカレッジで学ぶ。2008年よりくすのき園を開園。乳幼児の保育に携わっている方たちと共に学びを深めている。
 
 
 
●武内ゆかり
1970年大阪生まれ。幼少時よりクラシック教師であった母よりピアノを学ぶ。上智大学卒業。
メーザー音楽院ピアノ科卒業。ジャズ音楽理論・作・編曲、古楽、声楽、グレゴリオ聖歌を学ぶ。
アウディオペーデ教員養成コース卒業。第3期シュタイナー教員養成講座修了。
 
 
 
●諏訪耕志
「言語造形のためのアトリエ ことばの家 諏訪」主宰。1964年大阪市出身。1994年よりルドルフ・シュタイナーハウスにて言語造形家鈴木一博氏に師事。2004年より関西を中心に自身の活動を始める。言語造形の舞台、ワークショップ、シュタイナーのアントロポゾフィー講義などを通して活動中。日本語の美と風雅(みやび)を甦らせていくことを念願にしている。

 
 


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2019年10月12日

数多の本を分かち合ひたい


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台風19号ゆゑ、今日は家族全員、家に籠もつてゐる。
 
ふと、購つてそのままにしておいた『遠山一行著作集(二)』を読み始める。
 
ヨーロッパのクラシック音楽に対する批評文集である。
 
はじめの数十頁を読んだだけであるが、すぐさま感じとられたのは、昭和の文人による文章の素晴らしさである。
 
想ひが思索によつて整へられ、奥行きのある清潔な文体。
 
著者にとつては、その対象は音楽であるが、対象が何であれ、考へる働きをもつてこころを導きながら、己れの想ひを深めて行くことのできる対象に出会へたとき、その人は仕合はせである。
 
そのやうな「もの」との出会ひ方、つきあひ方、取り組み方ができたとき、その人は対象についての知だけではなく、己れみづからの〈わたし〉といふものの充実をも受け取ることができる。
 
それが、科学的認識とは一線を画する芸術体験(芸術的認識)のもつ意味なのだ。
 
そのやうな芸術的認識へと導くものこそが、批評といふものであらう。
 
文章といふものそのものが、芸術になりうる。
 
遠山氏の文章も、そのやうな文章である。
 
たとへ、そこに記されてある音楽をこの身で聴いたことがなかつたとしても、文章そのものを読む喜び、感動、知的刺激を得ることができる。
 
芸術としての文章、そのやうなものをたくさん読みたい、声にも出してみたい、といふ気運を多くの人と分かち合ひたいと念ふ。
 
先人の織りなしてきた文目(あやめ)豊かな文章の織物に触れ、それを着こなして己れのものにする、そんな自己教育のあり方を模索していかうと念ふ。
 
時代から時代へとそのつど情勢は移りゆくが、それらを貫いて、決してそれらに左右されない根本の精神を語り、謡ふ、文芸の道、ことばの道を指し示してゐる数多の本を、多くの人と分かち合つていきたいと念ふ。
 
こころを慰め、疲れを癒し、喜びを感じること、それは人が何よりも芸術に求めるものではあるが、そこだけに尽きない、考へる働きを促し、想ひを拡げ、得心を深める、そんなこころの使ひ方をしたくなるやうな芸術や文章に出会ひたい。
 
また、これは大変な身の程知らずの不遜な言ひ方になつてしまふが、自分自身もそのやうな芸術作品を生み出していきたい。

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2019年10月09日

目で読むだけでは見いだせない面白さ


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大阪城公園内の豐國神社

 
今日は、水曜・言語造形クラス。
 
引き続き、『古事記』を本居宣長の読み下し文でしてみました。
 
建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)が、八俣遠呂智(やまたおろち)を十拳剣(とつかつるぎ)で斬るに至る場面。
 
建速須佐之男命と足名椎命(あしなづちのみこと)との間の、二柱の神による、畳み掛けるやうな対話がもたらす、息詰まる切迫感!
 
この切迫感などは、実際に人によつて言語造形を通して響かせられねば、見いだせないもの。
 
しかも、現代語訳されたものでなく、古語のままだからこそ感じられる、ことばの音韻がもたらす音楽性と彫塑性。
 
目で読むだけでは見いだせない、かういふ面白さ、文学の味はひ深さが、言語造形にはある。
 
言語造形するにふさはしい言語芸術が、日本には古典として残されてゐること・・・。
 
ことばの感官(言語感覚)を啓くためにも、小学校・中学校から、この古典作品を言語造形することを国語教育に取り入れる先生が出てくればいい・・・。
 
国の歴史が神話のふところから生まれて来ることの神秘感が、人の内に育てばいい・・・。
 
 
 

 

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2019年10月08日

ことばの音韻は神である


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今日は、親子えんげき塾 ことばの泉の皆さんと言語造形。
 
ルドルフ・シュタイナー曰く、「ことばの音韻は神である」。
 
そのことを毎日毎日、確かめようと意識してゐます。
 
今日もまた、このシュタイナーのことばが真実であることを実感したのでした。
 
人のこころには、浮き沈みがあり、時に戸惑ひ、彷徨ひ、落ち込み、それゆゑ、自分で自分が分からなくなることもありますよね。
 
言語造形は、息遣ひをフルに繰りなしながら、ことばの音韻のひとつひとつに意を注いで行く作業にひたすらに取り組んでいきます。
 
ことばが空間に解き放たれて鳴り響く、そのとき、その音韻のひとつひとつが空間の中を動きゆくのを追い掛けて行くのです。
 
さうして、息の流れに伴つて、音韻から音韻へと造形と運動が繰りなされていく時、わたしたちはいつしか、己れのことを忘れてゐます。
 
ことばの音韻は、精神だからです。
 
精神に沿ふ時、人は己れのこころの外に出ることができます。
 
ことばの音韻にかたちを与へ、動きを生みなしていくとき、さらにことばは、リズム(長短)とタクト(強弱)とメロディー(高低)をも奏で始めます。
 
さうして、ことばは芸術として甦ります。
 
そのとき、人も、甦ります。
 

 

「古事記(ふることぶみ)の傳(つた)へ」と題して、今年の12月22日(日)、和歌の浦にて上演予定です。
 
我が国の古典『古事記』から、どのやうな音楽が聴こえて来るのでせうか。
 

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2019年10月07日

本の読み方


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今日は、和歌山の岩出市にてシュタイナーの『普遍人間学』の講義。
 
わたしが、何よりもお伝へさせていただきたいこと。
 
それは、本の読み方なのです。
 
わたしは、そのことをこそ、我が師・鈴木一博さんから教へてもらへたと信じてゐます。
 
また、ルドルフ・シュタイナーも、そのことをこそ、現代人に伝へたかつたであらうと思はれてならないのです。
 
自力で大切な何かをつかみとる力をひたすらに培ふ。
 
そのためには、一文一文、一語一語に立ちどまりつつ、問ひつつ、答へつつ、さうして、イメージ(想ひ)をみづから創つてゆく作業をもつて、少しずつゆつくりと読み進めていきます。
 
遅読、熟読、再読、再々読、・・・です。
 
読み終えて、やがて、そのイメージ(想ひ)は、こころの奥深くに沈んでいきます。
 
つまり、忘れ去られていきます。
 
しかし、アクティブにことばに向かひ合つた、精神の働きそのものは、わたしのこころに痕跡を残してゐます。
 
アクティブであればあるほど、その痕跡は深くこころに印しをつけてゐます。
 
その精神の働きによるこころの痕跡が深いほどに、忘れられたイメージ(想ひ)を、忘却の泉の底からふたたび引き上げる力・想ひ起こす力が、増します。
 
そして、そのつど、そのつど、新しく想ひ起こされたイメージ(想ひ)は、こころを暖め、甦らせ、癒す力をもたらします。
 
人のこころといふものは、そのやうに、みづからアクティブに働くことによつてこそ、充たされます。
 
その、アクティブに、ことばに取り組むといふ働き、さらに、意識的に勤しんで想ひ起こすといふ働き、それこそが、この時代ならではの勉強法なのです。
 
本とは、偉大なる先人が死にもの狂いになつて残した叡智の結晶、生の痕跡です。
 
さういふ本しか、時代の変遷を超えて、残りません。
 
さういふ本を、さういふ読み方で、読む。
 
書くことが、人によるひとつの偉大なる「仕事」であるやうに、読むことも、まさしく紛れもない「仕事」です。
 
その本の読み方は、その人をますますその人にします。
 
その人の〈わたし〉を磨き、研ぎ、鍛え上げます。
 
ルドルフ・シュタイナーが、20世紀以降の現代人になんとしても伝へたかつたのは、その〈わたし〉の育みでした。
 
〈わたし〉の自律・自立・自由・自尊でした。

若い人たちにこそ、このことを伝へたい、さう念ふのです。
 


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2019年10月06日

こころのこよみ(第27週) 〜世を信頼する〜


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セザンヌ「庭師 ヴァリエ」

 
わたしといふものの深みへと進みゆくほどに、
 
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
 
わたしはわたしを見いだす、みづからを見てとりつつ、
 
夏の太陽から贈られた萌しとして。
 
秋の調べの中で熱く息づく、
 
こころの力として。
 
 
In meines Wesens Tiefen dringen:
Erregt ein ahnungsvolles Sehnen,      
Daß ich mich selbstbetrachtend finde,     
Als Sommersonnengabe, die als Keim
In Herbstesstimmung wärmend lebt    
Als meiner Seele Kräftetrieb.  
 
 
 
自然はリズムを刻んでゐる。世はリズムを刻んでゐる。
 
わたしもリズムを刻んで生きていくことができる。
 
この『こころのこよみ』は、そのことを助けるひとつの「道」だ。
 
道といふものは、先人が歩んでくれたからこそ、いま、そこにある。
 
先人への信頼が、その道への信頼となり、それが更に、人といふものへの信頼、世といふものへの信頼へと育つてゆく。
 
このメディテーションの道を歩んでいくことで、世のリズムと我がこころのリズムとを重ね合はせる練習ができる。
 
それは、大いなる世の生命と己れの生命とを重ね合はせていく作業だ。
 
この『こころのこよみ』に沿つて、夏から秋へと歩んでくると、この秋から冬にかけて、新しい「わたし」にきつと出逢ふといふ予感に満ちた憧れに満たされるのを感じる。
 
その新しいわたしは、熱く息づくこころの力として、新しいアイデアと新しい意欲に通はれようとしてゐるのだ。
 
わたしは、何も力んで、何かをしようといふのではない。
 
世のリズムが、わたしにその新しいわたしを授けてくれるのを、待つことを習へばいい。
 
世を信頼するのだ。
 
 
 
 
わたしといふものの深みへと進みゆくほどに、
予感に満ちた憧れが呼び起こされる。
わたしはわたしを見いだす、みづからを見てとりつつ、
夏の太陽から贈られた萌しとして。
秋の調べの中で熱く息づく、
こころの力として。
 
 


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2019年10月05日

来春に向けて粛々と稽古進行中


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令和二年(2020年)3月28日(土)に大阪にて上演予定の言語造形劇『 我らが神秘劇  をとめ と つるぎ 』(作・演出 諏訪耕志)。
 
ルドルフ・シュタイナーの『言語造形と演劇芸術』に学びつつ、少しずつ、少しずつ、ことばの密なるところ、人の密なるところへと踏み込んでゐます。
 
粛々と稽古、進行中です。

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2019年10月04日

企業といふ場においてさへも


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今日は、ある企業での言語造形研修でした。
 
言語造形のレッスンに入る前に、ひとりひとりの方が、こころに溜まつてゐる想ひをことばにするのを、他のメンバー全員が静かに耳を傾け続ける。
 
そのときに発せられることばが、胸の奥底から出て来るものでありつつも、聴き手である他者をどこまでも意識したことば遣ひであるとき。
 
しかも、論点をずらさず、非本質的なところから本質的なところを掬い取つて、話しをするとき。
 
そこで交はされる対話から生まれる、人といふ存在の深さと真率さに、わたし自身、聴かせてもらつてゐて、今日はとりわけ胸が一杯になつてしまひました。
 
企業といふ場は、そのやうなこころの奥底を語りあふ場にはなりにくいところだと思ひます。
 
あくまでも利益追求を第一にする場であると思ひます。
 
にもかかはらず、そのやうな企業といふ場に、人と人とが真実、触れ合ふ時間が生まれること。
 
そんな場に居合はせることができたことの僥倖を念ひます。

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2019年10月03日

こころのこよみ(第26週) 〜ミヒャエル祭の調べ〜



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月岡芳年 『素戔嗚尊出雲の簸川上に八頭蛇を退治したまふ図』
 


自然、その母のやうなありやう、
 
わたしは、それを、意欲において担ふ。
 
そして、わたしの意欲の火の力、
 
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
 
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
 
わたしをわたしにおいて担ふべく。   (鈴木一博訳)
 
  
 
Natur, dein mütterliches Sein,
Ich trage es in meinem Willenswesen;      
Und meines Willens Feuermacht,         
Sie stählet meines Geistes Triebe,         
Daß sie gebären Selbstgefühl           
Zu tragen mich in mir.             
 
 
 
 
先週の『こころのこよみ』で、「内なるこころの光と熱。これほど、頼りになるものがあるだらうか。」と書いた。
 
この頼りになるものを、わたしたちひとりひとりの人にもたらさうとしてくれてゐる精神存在がゐる。さうシュタイナーは語つてゐる。
 
大いなる精神存在、ミヒャエル。
 
この存在は、どのやうにして、この時期に、わたしたちのこころとからだに働きかけて下さつてゐるのだらうか。
 
今週の『こよみ』を読んでみる。口ずさんでみる。
 
息遣ひも活き活きと、声を解き放ちながら唱へてみる。
 
何度もこころとからだで味わつてみる。
 
意欲をもつて、ことばとつきあつてみる。
 
さうすると、普段以上の意欲をもつてしなければ、何も感じられないことに気づく。
 
そして、積極的にことばを唱へるほどに、わたしはこころへと立ち上つてくる意欲といふ熱があればこそ、我がこころとからだが活き活きとしてくるのを感じる。
 
その熱をもつてこそ、もつとも近く親しい「自然」である我がからだとこころを担つてゐると感じることができる。
 
意欲とは、わたしのからだへと、こころへと、下から、足元から、立ち上がつてくる熱である。
 
それは熱心さであり、こころざしの顕れである。
 
その「意欲の火の力」があつてこそ、その火を、わたしが、燃やすからこそ、わたしのからだとこころに、上から、天から、降り注いでくる「考へ・想ひ・こころざし・精神の萌しのかずかず」である光が、だんだんと暖められ、鍛へられる。
 
わたしたちは、この時期、上からの光(考へ)と、下からの熱(意欲)とを、織りなしあわせる。
 
その織りなしあいが、こころに「みづからの情」を生む。
 
その情とは、「わたしは、わたしだ」「わたしは、ひとりだ」といふこころの真ん中に生まれる情だ。
 
その情をもつて、わたしといふ「ひとりの人」は活き活きと甦つてくる。
 
恐れや不安や物思ひなどを凌いで、「ひとりの人」として、この世に立ち、目の前にあることにこころから向かつていくことができる。
 
光としての考へが、こころを暖め熱くするものへと練られ、実行可能なものへと鍛へられていく。
 
 
 
 
そのやうに、自分のこころとからだで、『こころのこよみ』のことばをひとつひとつ味はつていくと、シュタイナーが多くの著書や講演で語つた精神存在を、リアルに親しく感じることができる通路が開かれていくし、さうしていくことによつて、実人生を安らかに確かに積極的に歩んでいくことができると実感する。
 
 
 
これからの秋から冬にかけて、外なる闇と寒さがだんだんと深まつてくる。
 
そしてややもすれば、闇と冷たさがこころにまで侵蝕してくる。
 
そんな時に、内なるこころの光と熱を、ひとりひとりの人がみづからの力で稼ぐことができるやうにと、共に一生懸命働いて下さつてゐるのが、ミヒャエルだ。
 
一方、闇と寒さを人にもたらす者、それがミヒャエルの当面の相手、アーリマンだ。
 
人を闇と寒さの中に封じ込めようとしてゐるそのアーリマンの力の中に、剣の力をもつて、鉄の力をもつて、切り込み、光と熱を人のこころにもたらす助けを、秋から冬の間にし、毎年毎年、ひとりひとりの人が、キリスト・イエスが生まれるクリスマスを、こころに清く備へ、整へるのを助けて下さるのが、ミヒャエルだ。
 
シュタイナーは『こころのこよみ』を通して、ことばの精神の力を四季の巡る世に打ち樹てようとした。
 
祝祭を、世における大いなる時のしるしとして、ひとりひとりの人がみづからのこころにおいて新しく意識的に創つていくことができるやうにと、『こころのこよみ』を書いた。
 
「こよみ」とは、
事(こと)をよむことであり、
言(ことば)をよむことであり、
心(こころ)をよむことである。
 
意識的に四季を生きること。
 
四季を『こころのこよみ』とともに生きること。
 
それは、地球をも含みこむ大いなる世とともに精神的に生きるといふ新しい生き方を、わたしたちが摑む手立てになつてくれるだらう。
 
また、みづからの狭い枠を乗り越えて、こころの安らかさと確かさと積極さを取り戻す手立てにもなつてくれるだらう。
 
 
 
 
自然、その母のやうなありやう、
わたしは、それを、意欲において担ふ。
そして、わたしの意欲の火の力、
それが、わたしの精神の萌しのかずかずを鍛へる。
その萌しのかずかずが、みづからの情を生む、
わたしをわたしにおいて担ふべく。
 
 


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2019年10月02日

こころの安らかさ、静けさ、まぎれなく考へる、そしてリアリティー



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奈良の山の辺の道に咲くコスモス
 


「その人のこころの内側に、静けさがなければ、平和な外側の世界は生まれない」
 
こころの安らかさ、静けさ。
 
ここにこそ、<わたし>がある。
 
ここにこそ、個人があり、
 
さらには、個人といふパーソナリティーをも超える、
 
<人>(インディヴィジュアリティー)がある。
 
意識のこころの培ひは、人と議論をしたり、批判的に考へたりすることによつてではなく(それは15世紀以前の分別のこころの培ひにおいてなされてきたことでした)、意識的にみづからのこころを静かに、安らかにする訓練の中から生まれてくる精神の声に耳を澄ますことによつてこそ、促される。
 
それが、「まぎれなく考へる」といふこと。(シュタイナーはそのことを「reine Denken」と言つてゐますが、「純粋思考」といふ訳語はわたしには分かりにくく、「まぎれなく考へる」といふ言ひ方をさせてもらつてゐます)
 
わたしたちは、とかく、ある観点、ある立場のもとに立つて考へることによつて、さうではない観点、さうではない立場を批判することに傾いてしまふ。
 
「批判的にものごとを考へる」といふあり方は、どうしてもそのやうなあり方にならざるをえないのではないでせうか。
 
一方、「まぎれなく考へる」といふあり方は、そのやうに、批判的にものごとを捉へることを言ふのではなくて、ものごとをまづは、優劣なしに、高低なしに、正邪なしに、純粋と不純を分けることなしに、ありのままに、迎へ、親しく付き合つてみることを言ひます。
 
さうでこそ、まさしく、理性的なあり方に立つことができるのではないでせうか。
 
そこからこそ、本質的なところが、本質的でないところからおのづと別れる道が開けてくるのではないでせうか。
 
 
 

しかし、だからこそ、この「意識のこころの培ひ」「まぎれなく考へる」は、誰にでも啓かれてゐる自己教育の指針でありつつも、決して誰にでもいますぐに当て嵌めることのできない「高い理想」なのです。
 
現代、隆盛を誇つてゐる「個人主義」は、実のところ、たいがいが、エゴイズムです。
 
そのエゴイズムは、おいそれとは、簡単に、その理想、つまり「インディヴィジュアリティー」へと「進化」などいたしません。
 
アントロポゾフィー界隈では、「意識魂の時代」といふやうなことばを、あまりにも、安易に用い過ぎてゐます。
 
「自分はすでに意志魂の時代に生きてゐる」などと、あまりにも安易に思ひ込んでゐます。
 
その「理想」は、わたしたちのこれまでの習ひのありやうには、いまだ、馴染まない、ある種の跳躍をわたしたちに要求します。
 
牛の歩みのごとき遅さでしか、エゴイズムに満ちたパーソナリティーはインディヴィジュアリティーへとは成り変はらないのだ、といふリアリティーをもつことは、とても大切なことだと強く自戒します。
 
だからこそ、意識のこころの培ひです。
 
その培ひの備へが「こころの安らかさ、静けさ」ですし、それは、己れを統御して行く長い道のりの始まりです。
 
そして、それは、だんだんと、外なる世が安らかになりゆくことへの礎に、きつと、なります。
 
 
 
わたしたちは、いまの精一杯の己れの現状からの「批判的に考へる」といふあり方と、高い理想としての「まぎれなく考へる」との間に、妥協点、中和点を見いださなければなりません。
 
そこにこそ、きれいごとではない、リアリティーが息づきます。
 
 
 


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2019年10月01日

幼な子の欲することば 〜グリム童話「へんな旅芸人」〜


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むかしむかしのおほむかし、ことばは、人の意欲への呼びかけでした。
 
現代のやうに、抽象的な思考をみすぼらしく表現するものではありませんでした。
 
人は、ことばを聴くたびに、からだがうずうずしたのです。
 
さらに、それに応ずる動きをしてしまふことが身についてゐたのです。
 
ことばは、発声器官だけでなく、人の運動器官まるごとのなかに息づいてゐました。
 
いま、人は、このことを忘れてしまつてゐます。
 
しかし、幼な子たちは、まだ、このむかしのことばの性質のなんたるかを知つてゐて、それを欲してゐます。
 
「はじめにことばありき」といふ時の「ことば」のなんたるかを知つてゐます。
 
「ことば」とは、世を創り、動かし、人を創り、動かすものでした。
 
そして、いまも、その「ことば」の働きの精神は、少なくとも幼な子には失はれてをりません。
 
 
 
 
昨日は、グリム童話の8番「へんな旅芸人」を語りました。
 
幼な子たちは、森の中の動物たちが旅芸人(音楽を生きる人)によつて次々とやりこめられる(統御される)様を絵を観るやうに聴きます。
 
語り手の(〈わたし〉による)目覚めて統御された意識。
 
(アストラルのからだによる)鮮やかな身振りと表情。
 
(エーテルのからだによる)呼吸の長短。
 
(フィジカルなからだによる)表現のまるごと、表現のすみずみに動きがあること。
 
旅芸人は、つひに、森の中で、「人」に出会ひます。
 
「人」は斧(つるぎ、でもいいでせう)を振り上げ、けものたちを退散させ、旅芸人を守ります。
 
音楽とは、人の精神に出会ふためのものであり、かつ、人の内なる動物性を統御するものであること。
 
このお話は、そんな精神から語られてきました。
 
そして、ことばのひとつひとつが、動きとかたちをもつて、語られます。
 
それは、ことばそのものが、動きの精神を孕み、かたちの精神を秘めてゐるからです。
 
語り手は、その動きとかたちを顕はにするべく、声にするのです。
 
そのことばの精神と物語の精神は、実際に子どもの前で語る数多くの回数の中で実感されてきます。

 
 
  
 
幼な子たちは、お話を聴きながら、ことばとともに走りたがつてゐます。空を飛びたがつてゐます。海に、川に潜りたがつてゐます。
 
幼な子たちが欲してゐる、そんなことばを与へて行くこと。
 
それが、幼児教育のひとつの指針です。
 
そんなことばで育つことができたなら、その子は、後年、大人になつてから、生命に満ちた精神を、自分自身の力で把握することができます。
 

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2019年09月30日

箕面高校OB吹奏楽団演奏会


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昨日、箕面高校OB吹奏楽団の演奏会に出かけました。

 
音楽を聴くといふこと。
 
それは、わたしにとつては、演奏者の背景に巨大な音の精神が立ち上がつて来るのを、ありありと迎えることです。
 
昨日の演奏は、まさに、まさに、そのやうな時間でありました。

わたしは聴いてゐて、涙が流れました。
 
音楽の精神とは、音の法則。
 
法則とは、厳しさ、精(くわ)しさ、確かさをくぐり抜けたあとに顕はれてくるもの。
 
それは、なんと、活き活きとしてゐて、美しく、明るく、澄み徹つたものなのでせう。
 
 
現役高校生を含めた吹奏楽団の皆さん、指揮された小西収さん、大迫智さん、旨くことばにならず申し訳ないのですが、本当に素晴らしい時間をありがたうございました。
 
演奏してゐる皆さんの姿を観てゐて、陳腐な表現で恥ずかしいのですが、音楽つていいなあ、仲間つていいなあ、人間つていいなあ、さういふ想ひで一杯になつて、夕方の箕面の街を歩いて駅に向かひました。

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こころのこよみ(第25週) 〜仕事の季節〜


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ルオー「《受難》1 受難」1935年


昨日はミヒャエル祭の日でしたが、毎年『こころのこよみ』の週ごとに進むペースを、祝祭日ごとに、緩やかにですが速めたり遅くしたりします。
 
と、いふことで、先日、第24週を掲載したばかりですが、今日、第25週を掲載し、また後日、引き続き「ミヒャエル祭の調べ」である第26週も掲載していきたいと思ひます。
 
 
 

 
 
わたしはいま、わたしを取り戻し、
 
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
 
空間と時の闇の中へと。
 
眠りへと自然がせきたてられるとき、
 
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
 
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
 
寒い冬のさなかへと。
 
  
 
Ich darf nun mir gehören          
Und leuchtend breiten Innenlicht          
In Raumes- und in Zeitenfinsternis.   
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen,        
Der Seele Tiefen sollen wachen           
Und wachend tragen Sonnengluten      
In kalte Winterfluten.   
 
  
 
 
陽の光と熱を浴びながら歩き回る夏の彷徨が終はつて、静かに立ち止まり、内なるこころの光と熱を生きていく秋が始まつてゐる。
 
内なるこころの光と熱によつて、こころが目覚めてゐるといふこと。

「わたしがわたしである」ことに目覚めてゐるといふこと。
 
そして、こころが生きる情熱を感じてゐるといふこと。
 
これほど、頼りになるものがあるだらうか。
 
これがあれば、秋から冬にかけて、たとへ外の世が生命力を失つていき、枯れていつても、内なるこころは、きつと、「ひとりのわたし」として、活き活きと目覚めてゐることができる。
 
夏にいただいた太陽の光と熱の大いなる働きを、内なるこころの光と熱としていく。
 
そして、来たる冬の寒さのさなかへと意欲的にそのこころの光と熱を注ぎ込んでいくことができる。
 
光と熱。
 
それはいまやわたしのこころの内から発しやうとしてゐる。
 
そしてこれからやつてくる冬の闇と寒さとのコントラストを際立たせようとしてゐる。
 
太陽の光と熱と共にあの夏をからだ一杯で生きたからこそ、この秋があるのだ、そして、この秋が、冬へと引き続いていく。
 
そのやうな季節のつながり、くりなし、なりかはりをていねいに、確かに、感じること。それが、内なるこころのつながり、くりなし、なりかはりをも自覚することへと繋がつていく。
 
四季を生きること、一年のいのちを生きることが、みづからを知ることへとわたしを導いていく。
 
この『こころのこよみ』に沿ひつつ、四季それぞれに息づいてゐる「ことば」を聴く。
 
ならば、それらの「ことば」が、生命ある連続としてこころにしずしずと流れてくる。
 
夏、外なる光と熱の中にわたしは溶け込み、ある意味、わたしはわたしを見失つてゐた。
 
秋、わたしはわたしを取り戻し、萌してゐた希みが羽を拡げようとしてゐる。
 
さあ、これからが、稔りの季節、粛々とした仕事の季節だ。
 
 
 
 
 
わたしはいま、わたしを取り戻し、
そして、輝きつつ、内なる光が拡がりゆく、
空間と時の闇の中へと。
眠りへと自然がせきたてられるとき、
こころの深みはきつと目覚めてゐる。
そして、目覚めつつ、太陽の熱を担ひゆく、
寒い冬のさなかへと。
 
 
 


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2019年09月27日

こころのこよみ(第24週) 〜生産的であるもののみがまことである〜



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みづからを絶えず創り上げつつ、
 
こころは己れのありやうに気づく。
 
世の精神、それは勤しみ続ける。
 
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
 
そして、こころの闇から汲み上げる、
 
己れであることの意欲の稔りを。
 
 
 
Sich selbst erschaffend stets,         
Wird Seelensein sich selbst gewahr;      
Der Weltengeist, er strebet fort        
In Selbsterkenntnis neu belebt        
Und schafft aus Seelenfinsternis       
Des Selbstsinns Willensfrucht.     
 
 
 
創る人は幸ひだ。生み出す人は幸ひだ。育てる人は幸ひだ。
 
金と引き換へにものを買ひ続け、サービスを消費し続ける現代人特有の生活のありやうから、一歩でも踏み出せたら、その人は幸ひだ。
 
その一歩は、料理を作ることや、手紙や日記を書いてみることや、花に水をやることや、ゴミを拾ふことや、そんなほんの小さな行ひからでもいいかもしれない。
 
この手と脚を動かし、世と触れ合ふ。
 
そのやうな行為によつてこそ、みづからを創り上げることができ、その行為からこそ、こころは己れのありやうに気づく。
 
そして、「世の精神」。
 
それは、一刻も休まず、勤しみ、生み出してゐるからこそ、「世の精神」であり、だからこそ、太陽や月は周期を持ち、四季は巡る。
 
「世の精神」はそのやうにして絶えず勤しみながら、人に働きかけ、また人からの働きかけを受けて、絶えず己れを知りゆかうとしてゐる。
 
「世の精神」は、人にみづからを捧げ、愛を与へようとし、人から愛を受け取る。

その交流を通して、より確かに己れといふものを知りゆき、己れを知れば知るほど、そのつど新たに新たに「世の精神」は甦る。
 
「世の精神」には、人が必要なのだ。人の働きを待つてゐるのだ。
 
同じく、わたしたち人は、そんな「世の精神」に倣ひつつ、地球上のものといふものに働きかけ、ものを愛し、ものに通じていくことをもつて、みづからを新たに新たに知りつつ、たとへ、肉体は年老いても、そのつどそのつどこころは甦り、精神的に若返ることができる。
 
我が国、江戸時代中期を生きた稀代の国学者、本居宣長(1730-1801)も、そして、ゲーテ(1749-1832)といふ人も、その「世の精神」に倣ひ続け、「ものにゆく道」を歩き通した人であり、両人の残された仕事の跡を顧みれば、晩年に至るまでのその若々しい生産力・創造力に驚かされる。
 
シュタイナーは、そのゲーテのありかたをかう言ひ当ててゐる。
 
 
ーーーーー
 
ゲーテは、ひとたび、こんな意味深いことばを語りました。
 
「生産的であるもののみが、まことである」
 
それは、かういふことです。
 
人は、きつと、みづからを、まことの有するところとなします。
 
そして、まことは働きかけます。
 
そして、人が生きて歩むとき、まことは、まことであることの証を、生産的であることを通して見いだします。
 
これが、彼にとつて、まことの試金石でした。
 
すなはち、生産的であるもののみが、まことです。
 
(1908年10月22日 於ベルリン 講演「ゲーテの密やかなしるし」より)
  
ーーーーー
 
 
 
秋には、「己れの力」が「意欲の稔り」として発露してくる。
 
創ること、生み出すこと、育てることなどの行為は、わたしたち人にこころの確かさ、安らかさ、活発さを取り戻させてくれる。
 
そして、行為し、ものと交はり、人と交はる時に、各々人は初めて、己れのこころの闇に直面する。壁に突き当たる。
 
しかしながら、その己れの闇を認め、赦すことからこそ、「わたしはある」「わたしはわたしである」といふ、こころの真ん中の礎である情に目覚め、己れであることの意欲の稔りを、汲み上げていく。
 
「ものにゆくこと」「生産的・創造的であること」、それがまことへの道だ。
 
 
 
 
みづからを絶えず創り上げつつ、
こころは己れのありやうに気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
そして、こころの闇から汲み上げる、
己れであることの意欲の稔りを。
 
 

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2019年09月26日

オキツさんの夏のレポート


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8月の終はりに開催しました『第一回 シュタイナー教育と自己教育』。
 
あれからはやひと月が経つたのですが、参加者のおひとりの方、オキツさんが、レポートを書いて下さいました。
 
これは、講義をしたわたしの、あらためての想ひなのですが、教育を学ぶとは、「何を、どうすべきか、どう教へるべきか」を学ぶのではありません。
 
「人といふものを知ること」「人間認識」を学ぶことなのです。
 
さうして、ひとりひとりの大人が、その人間認識から、新しく子どもへの教育を生みだすのです。
 
また、自己教育に取り組み始めるのです。
 
決まり切つた教育方法などありません。
 
家庭のなか、教室のなか、その人間認識を基にして、そのつど、そのときの、人間関係を生きて行くのです。
 
このたびは、『人生における七年ごとの成長』と『十二の感官を育む』と題して、人生といふものを、長いスパン、広やかな(宇宙的な)視野で、見てとりました。
 
この人間認識を表面的な知識として取り入れるのではなく、自分自身の深みへと落とし込む作業を、この講座のあと、受講者の方々がなされてゐることを希つてゐます。
 
三日間連続講座だつたからこそ、醸造された豊かな時間でした。

オキツさん、懇切なレポート、どうもありがたうございます。


ーーーーーーー



新しいことって、身体から入って来るんだ!
〜「シュタイナー教育と自己教育」集中講座〜


「シュタイナー教育」と言うと、素朴なおもちゃに囲まれた幼児教育や、教科書を使わない小学校などを思い浮かべます。その柔かい雰囲気に魅力を感じながらも、一方で「今の時代に取り残されないかな」と不安を持つ人も多いのでは。現在は、技術の進歩に伴って人が軽視され、自分が考えることすら誰か(何か)に任せてしまう傾向があります。多くの知識を覚えたり、効率よく間違いのない仕事をすることは大切ですが、それだけのために生きているわけではありません。誰でも本当は、唯一無二の「わたし」として成長し、歩いていきたいと願っているのではないでしょうか。

そんな願いに応えるべく、真夏の大阪で「シュタイナー教育と自己教育」をテーマに3日間の集中講座が行われました。「ことばの家 諏訪」主催の諏訪耕志さんは「シュタイナー教育というと、何か特別なもののように思われがちですが、シュタイナーが探究した人間への深い視点を学べば、どの園でも家庭でも取り組めることがあります。私たちは、それによって自分を育て、子どもたちが人間として成長して行けるようサポートしていけるのです」と熱く語ります。

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その熱い志に共鳴した保育・教育・介護関係、子育て中の方たちが、近畿はもちろん関東・北陸・四国など各地から集まり、共に汗を流し、感じ、考え、人間を深く見つめた3日間。幼児教育、アントロポゾフィー講座、音楽、言語造形など盛りだくさんのプログラムから、さまざまなことを学びました。



まずは、「シュタイナー幼稚園の朝の時間」です。輪になって集まり、樋口早智子先生のリードで季節に合わせた歌や手遊びなどを体験しました。最初はテレもありましたが、やわらかい歌声に合わせて身体を動かしているうちに、懐かしい一体感に包まれていきます。広がる・集まる、走る・歩く…。全体に「呼吸」が意識された時間でした。

「この歌、知らない」なんて心配はゼロで、不器用だろうが、ルールを知らなかろうが、「私が参加する方がみんなも嬉しい」と思える不思議な一体感。評価されない(いい意味で)でまるごと受け入れられる心地良さって、こういう感じなんだなぁ。

外からは「小さい子が喜びそうなこと」にしか見えなかったのに、参加してみると至福の抱擁力。こんな時間を重ねた子どもは、自信を持って「自分」になって行けることでしょう。

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次は諏訪耕志先生のアントロポゾフィー講座。

今回のテーマは「人生における七年ごとの人の成長」と「十二の感覚を育む(十二の星の宮とのつながり)です。「人って何だろう」「世の理はどうなっているのだろう」「今の時代に私が生きている意味って」…。そんなことを問い続け、熱く語ってくださる講座には、いつも自分の中の高いところが照らされ、励まされます。…たまに火傷します。

今回も、なんとなくモヤモヤと予感していることを整理してもらうことで、自分の成長の道のりやいろんな感覚を照らしだす大きなヒントがいただけました。半分は、言われて気づく部類の「そういえば!」と思い当たるアレコレ。もう半分は「人間ってこんなに深く宇宙とつながっているのね…」という、奇跡のような宇宙の調和の一部だったことを知る驚きの講座でした。

星々と人間との関係を学ぶことで、壮大な調和の一カケラである自分を、自分本来の姿に育ててあげたくなります。自分も宇宙の調和の一部なのだとしたら、他の誰かに憧れなくてもピュアに自分になっていけばいいんじゃないか。そんな課題に向かう勇気が湧いてきました。

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お昼を挟んで、次は武内ゆかり先生の音楽です。

「シュタイナーの音楽」って何だろう。見当がつかないまま始まってすぐにわかったのは、この音楽の目標は上手に演奏することではない、ということでした。たとえば、輪になって自分の選んだ楽器を一回だけ鳴らしてみます。誰の指示も待たず、全体に耳を澄ませながら好きな時に。どこで鳴らしてもどう鳴らしても失敗はなく、その場にいるみんなで曲を作り出します。

自分が鳴らす時と人の響きを聞く時、叩く時と止める時、ハーモニーを支える時と上に乗る時など、いろんなことが呼吸と関わってきます。全体を調和させるのには「息を合わせること」も意識します。ここでも「全体でひとつ」という絶対的な心地よさの中で、私が私として生きる経験ができました。

幼稚園の朝の時間は全体が溶け合ってひとつ。音楽の時間は、一人ひとりの役割が際立ってひとつ。そんな違いも感じました。一人ひとりが立つことによって全体の輝きが増していく。そんな社会が実現したら理想的だなぁ。みんな同じなんてロボットだもの。
音楽はいろんなことを伝えてくれます。

余談ですが、最初に歌ったコンガの歌が気持ちよくて、あれから3週間経つ今でも時々口ずさんでいます。家族もいつの間にかメロディを覚え、料理中や一緒に歩く時など、「あれ、ハモろう〜♪」とリクエストされる幸せな時間が続いています。うふふ。

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音楽が終わり、最後は再び諏訪先生による言語造形です。

今回は「白雪姫」「ももたろう」「絵本の読み方」に取り組みました。最初は「呼吸を意識して」と言われも、ゆっくりとテキストを読むことくらいしか出来ません。しかし、リードする先生の勢いに乗せられて無心に取り組むうちに、どんどん呼吸が深くなり、自分が解放され、堂々と言葉を発するようになっていきます。

真剣に言語造形に取り組むと、声が枯れ、息切れし、筋肉痛になることすらあります。体当たりで練習するうちに、本来、言葉はこんなにも重みや熱や勢いを持てるんだ、という事に気づかされます。普段の口調で語るのと、触れれば切れるような凄味、近づけば飲み込まれるような迫力で語るのとは、物語がまるで違ったものになります。

先日、小学校で絵本を読む時に、今回の講座で学んだ息遣いのリズムを実践してみました。ちょっと意識しただけで変わるような即効性は期待していなかったのですが、子どもたちが確かに集中して聞いてくれたのは驚きです。言語造形に取り組む人は、雑談ですらまっすぐ言葉を届けますし、言語造形の謎は深まるばかりです。

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この三日間、普段取り組めないような貴重な経験をさせてもらいました。その中で、自分が今までまったく予期していなかった感覚が、アタマではなく身体を通して入ってきたことに驚いたので一例を紹介します。

これまでは「私として立ちたい」「自由でありたい」という思いが強くて、全体の一部であることを窮屈に感じていました。だけど手遊びや歌を通して「私も全体の中の大切な一部である」「私の役割がある」ということが、なんと嬉しく勇気を与えてくれることかということを思い出せたのです。

大切だとわかっていることを深めるのは「アタマ入口」で出来ますが、意識していないことに気づくのは「身体入口」だったんだ! 頭で学んだことは自分と切り離しても成立するけど、身体から学んだことは自分とぴったり重なってるんだ! 等身大だから行動のスイッチも入りやすいんだ! 静かな興奮が私を満たします。

参加されたみなさんも、毎日さまざまなことを感じ、シェアしてくださいます。「まわりで起こるアレコレの問題は自分への問いなんですね」「考えるんじゃなくて感じることを意識してみたら熱を受け取りました」「呼吸が私の課題です」「自分のこととして学ぶ人がこんなにいて眩しい」「言葉ではない方法で伝えるって大切」…。

見知らぬ者同士だった私たちが、全身全霊でさまざまな課題に取り組む中で心を開き、語り合い、学びあった三日間。最終日の土砂降りの中、日常に戻っていく仲間を互いに応援し合い、名残を惜しみながら集中講座を終えました。
先生方、集まったみなさん、素晴らしい時間をありがとうございました。
またどこかでお会いできますように。

オキツ

オキツさんのブログ:http://blog.goo.ne.jp/oneby1





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2019年09月25日

こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜


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秋めいて、和らぐ、
 
感官へのそそり。
 
光の顕れの中に混じる、
 
ぼんやりとした霧のとばり。
 
わたしは空間の拡がりの中で観る、
 
秋、そして冬の眠り。
 
夏はわたしに、
 
みづからを捧げてくれた。
 
 
 
Es dämpfet herbstlich sich            
Der Sinne Reizesstreben;            
In Lichtesoffenbarung mischen          
Der Nebel dumpfe Schleier sich.         
Ich selber schau in Raumesweiten         
Des Herbstes Winterschlaf.           
Der Sommer hat an mich            
Sich selber hingegeben.       
 
 

 
ゆつくりと和らいでくる陽の光。
 
それとともに、感官へのそそりも和らいでくる。
 
そして、秋が日一日と深まりゆくにつれて、過ぎ去つた夏と、これからやつてくる冬とのあひだに、立ちかかるかのやうな、霧のとばり、「秋霧」。
 
その「とばり」によつて、戸の向かう側とこちら側にわたしたちは改めてこころを向けることができる。
 
戸の向かう側において、過ぎ去つた夏における世の大いなる働きの残照をわたしたちは憶ひ起こす。
 
夏における外なる世の輝き。
 
そして夏における内なるこころの闇。
 
その外と内のありようを憶ひ起こす。
 
そして、戸のこちら側において、だんだんと深まつてくる秋における生命の衰へと、来たるべき冬における生命の死とを、わたしたちは予感する。
 
これからの冬における外なる世の闇。
 
そしてクリスマスに向かう内なるこころの輝き。
 
その外と内のありやうを予感する。
 
夏を憶ひ起こすことと、冬を予感すること。
 
こころのアクティブな働きをもつて、その間に、わたしたちは、いま、立つことができる。
 
さうすることで、きつと、こころが和らげられ、静かでありながらも、意欲を滾らせてゆくことができる。
 
 
 
秋めいて、和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れの中に混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
わたしは空間の拡がりの中で観る、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みづからを捧げてくれた。
 
 
 

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2019年09月22日

エーテル界の太陽と月(古事記)



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人は、13,14歳ごろから性的な成熟がからだに現れて来る。
 
男の子は、男のからだのありやうへ、女の子は女のからだのありやうへと、成熟していく。
 
しかし、丁度、そのころ、男の子のエーテルのからだは、まさしく女性の姿をとり始めるのであり、女の子のエーテルのからだは、男性の姿をとり始める。(※)
 
さうして、フィジカル(物理的)なからだにおいて性が表立つことに対して、エーテルのからだにおいては、その対の性を姿としてとることで、人としてのバランスをとらせるといふ、神の計らひだらうか。
 
 
 
さて、ここで、『古事記(ふることぶみ)』の話になる。
 
そこにおいては、とりわけ神代の巻にはエーテル界の顛末が描かれてある。
 
天照大御神は高天原において、太陽を司る「女神」として描かれてゐる。
 
それは、いまだ、フィジカル(物理的)な状態にまで凝つてはゐないエーテルの状態の太陽が女性的な姿をされてをられるからである。
 
そして、フィジカルな次元では、太陽は、まさしく男性的な働きを荷つて下さつてゐる。
 
それは、光と熱を通して、すべての地上のものに命を吹き込む、受精させる、そんな働きである。
 
一方、月は、エーテル界においては月讀命(つくよみのみこと)といふ「男神」として描かれてゐる。
 
そしてフィジカルな次元では、月は、まさしく、女性的な働きを荷つて下さつてゐる。
 
太陽の光を照り返し、夜の国をしろしめされてをられる。
 
 
 
『古事記』は、そのやうに、この大宇宙と地球のなりたちをエーテルの次元において、さらにアストラルの次元において、さらにまぎれない精神の次元において、描いてゐる。
 
 
 

※Rudolf Steiner : Gegenwärtiges Geistesleben und Erziehung 第4講より 
 
 

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2019年09月21日

こころのこよみ(第22週) 〜深まりゆく感謝の念ひ〜


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世の拡がりから来る光が、
 
内において力強く生き続ける。
 
それはこころの光となり、
 
そして、精神の深みにおいて輝く。
 
稔りをもたらすべく、
 
世の己れから生まれる人の己れが、
 
時の流れに沿つて熟していく。
 
       ルドルフ・シュタイナー
 
 

Das Licht aus Weltenweiten,
Im Innern lebt es kräftig fort:          
Es wird zum Seelenlichte            
Und leuchtet in die Geistestiefen,        
Um Früchte zu entbinden,            
Die Menschenselbst aus Weltenselbst       
Im Zeitenlaufe reifen lassen.    
 
 
 
 
夏の間、外に輝いてゐた陽の光が、いつしか、こころの光になつてゐる。
 
そのこころの光は、萌しであり、これから、だんだんと、長けゆく。
 
そのこころの光は、感謝の念ひであり、だんだんと深まり、秋から来たるべき冬に向けて、だんだんと、熟してゆく。
 
その成熟は、冬のさなかに訪れる新しい年の精神の誕生を我がこころに迎へるための、なんらかの備へになる。
 
それは、太陽の輝きの甦りに向けての備へである。
 
むかし、我が国では、そもそも、その冬至の頃(旧暦の十一月の終わり頃)に、新嘗祭(にいなへのまつり)を毎年行つて来た。
 
一年の米の収穫には、いい年もあれば、悪い年もある。
 
しかし、どんな年であれ、米(むかしは米のことを「とし」と言つた)を授けて下さつた神に対する感謝の念ひを育みつつ、日本人は生きて来た。
 
この感謝の念ひが、秋から冬への移り行きの中に生まれる寂しさ、孤独、侘しさといつた情を凌ぐ、静かな元手となつてゐた。
 
それが、また、こころの光であつた。
 
 
 

西の国々では、冬至の直後にイエス・キリストの誕生を祝ふクリスマスがある。
 
そして、キリストの誕生とは、「ひとり生みの子ども」「神の子」「ひとりであることのもたらし手」「世の己れから生まれる人の己れ」の誕生であつた。
 
西洋では、一年の稔りへの感謝の念ひを年の終はりにすることに代はつて、キリストの誕生を寿いだのだ。
 
それは、「ひとりであること」の稔りであつた。
 
その「ひとりであること」の自覚の光が、秋から冬に向けて熟して行く。
 
 
 憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥   芭蕉
 
 
人は、「ひとりであることの自覚」から生まれる寂しさといふ情にまで徹してみることで、鬱々としたもの思ひを突き抜けることができる。そして、この「ひとりであること」の自覚の上にこそ、キリストは寄り添つてくださるのかもしれない。
 
そして、「ひとりであること」の自覚を持つひとりの人とひとりの人が出会ふところにこそ、精神は息づく。
 
芭蕉は、また、この「閑古鳥」も「ひとり」であり、その閑古鳥との精神の交流、閑古鳥への感謝をも感じてゐる。
 
 
 
世の拡がりから来る光が、 
内において力強く生き続ける。 
それはこころの光となり、 
そして、精神の深みにおいて輝く。 
稔りをもたらすべく、 
世の己れから生まれる人の己れが、 
時の流れに沿つて熟していく。



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2019年09月20日

みすまるの玉 〜情の育み〜


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上向いてゐたと思つてゐたら、下向いてゐたり。
 
 
右向いてゐたと思つてゐたら、左向いてゐたり。
 
 
欠けてゐたと思つてゐたら、満ちてゐたり。
 
 
それが、人の情といふもの。
 
 
思ふままにならないものの最たるものが、己れの情ではないだらうか。
 
 
おもに小学生の頃あたりから、褒められることと叱られることを通して、わたしたちは情といふ、己れに湧き上がる得体の知れないものを少しずつ膨らませて来た。
 
 
しかし、大人になつた今でも、その己れに湧き上がる情といふものを手なずけられずに、苦労してゐる。
 
 
 

 
むかしの高貴な人は、胸に玉を下げてゐた。
 
 
「みすまるの玉」と言ふ。
 
 
「みすまる」とは、「総(す)べる」のもとのことば「すばる」といふ動詞が「すまる」となりかはり、その頭に「み」がついて生まれたことば。
 
 
美称としての「み」に、統御するといふ意味の「すまる」を合はせて、「みすまる」。
 
 
「みすまるの玉」とは、「統御された玉」といふことにならう。
 
 
そして、「玉」は、「勾玉」である。
 
 
あの形。
 
 
満ち欠けする月の形。
 
 
伊耶那伎命は月讀命(つくよみのみこと)に「夜の食国(をすくに)を知らせ」とことよさしされた。
 
 
こころの働きの内でも、感じる働き、情の働きは、まるで夜の夢見る営みに似て、無意識と意識の間を漂つてゐる。
 
 
胸に下げられた「みすまるの玉」は、みづからによつて統御された情の徴である。
 
 
そして、きつと、月讀命(つくよみのみこと)は、わたしたち人の情の育みを支へて下さつてをられる神である。
 
 
夜の食国(をすくに)を知らされてをられる神である。
 
 

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剣を研ぐ 〜意欲の育み〜

 
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毎朝、寝床から起き上がる意欲、歩き出す意欲、仕事に行かうといふ意欲、人と会はうといふ意欲、何かを学ばうといふ意欲、それらの意欲が湧き上がつてくるのはどうしてなんだらう。
 
 
もし、この意欲がこの身に授けられてゐなかつたとしたら、わたしたちは、寝床から起き上がれないだらう。仕事場に行かうとして駅に何とか着きはしたものの、電車がホームに入つて来ても、ドアの前で立ち尽くしてしまふかもしれない。
 

人の意欲。
 
 
それは、どこから、誰から、与へられてゐるのだらう。
 
 
我が国の神話において、人の意欲といふものが、つるぎとしてかたどられてゐる。
 
 
それは、常に、未来へと立ち上がり続ける剣(つるぎ)だ。
 
 
建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)によつて八俣遠呂智(やまたおろち)の尾から取り出された剣、草薙(くさなぎ)の剣だ。
 
 
殺し合ふための剣ではなく、こころに妄念のやうにのさばり生へる草を薙ぎ祓ひ、人が己れの足で歩くことができるこころの道、人が己れの腕で耕すことのできるこころの田、人と人とがこころから出会へ、睦みあへる広々とした野原を現出させるための剣だ。
 
 
その剣は、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)によつて高天原の天照大御神に預けられ、その上で、天照大御神から地上に降臨するホノニニギノミコトに授けられた。
 

その剣は、意欲の力として、ひとりひとりの人に神より授けられ、ひとりひとりの人によつて未来へと掲げられる。
 
 
それは、血の中に流れる鉄の剣である。
 
 
死の後の世にまで届く剣だ。
 
 
この剣の働きは、とりわけ、歯が生へ変はるまでの幼児期に育まれる。
  
 
そして、この意欲の働きは、大人になつてからも、自己教育としてみづから育んでいくことができる。
 
 
わたしも、この剣を、毎日、研ぎ続け、高く、低く、掲げ続けていきたい。
 
 
 

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2019年09月19日

鏡を磨いて待つ 〜考への育み〜

 
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わたし自身、講座をしながら、想ひ、考へ、そしてまた想ひ起こす、といふ一連の作業をしつつ、ことばを選んで、他者に語りかけていきます。
 
語るべきことがらを想ひ起こすのは、天に拡がつてゐる「考への空間」からきらきらと金色の何かが降り注いでくるのを我がこころの鏡に照らし出すやうな感覚なのです。
 
しかし、時には、想ひ起こさう、想ひ起こさうと焦つてしまひ、天から降つてくる何かを待てずに、こころの腕を振り回して空回りしてしまふやうなことも、ままあります。
 
そんな時は、たいてい、ことばが宙に浮いてしまふ。
 
焦らずに、待つこと。
 
それを会得・体得することが、ずつと、わたしのテーマでもあります。
 
 
 
日本神話から、こんなイメージが、湧き上がつてきます。
 
我がこころの鏡に照らし出される光、それは、つまるところ、高天原にをわします天照大御神といふ精神存在からの光であります。
 
このこころの鏡は、まづもつては、頭の位置、脳にあつて、そこにわたしたちの抱く考への像が映りますが、その考への像に親しめば親しむほど、その鏡は胸の位置、心臓にまで降りて来ます。
 
わたしたちはひとりひとり、そのやうな光を照らし返し、像を映し出す鏡を、この身に授かつてゐます。
 
「この鏡は、もはら吾(あ)が御霊(みたま)として、吾が御前(みまへ)をいつくがごとく、いつきまつり給へ」と天照大御神がホノニ二ギノミコトに授けられたやうに、です。
 
 
 
 
わたしたちは、己れのその鏡を磨いて待つほどに、鏡面は曇りなく像を映し出し、しつかりと想ひ起こすべきことを想ひ起こすことができる。
 
その「待つ」といふこと、それは、できうる限り準備を重ねるだけでなく、落とされる小石が拡げるどんな波紋も見ることができる湖面のやうにこころを磨き、平明に静かに整えておくこと。
 
そのためには、深い息遣ひ、呼吸のありやうが、鍵を握つてゐます。
 
想ひ起こすこと、考へること、その考へを的確に精確にことばに鋳直すこと、それは、高天原からの光を我が鏡に出来る限り曇りなく映し出すことなのです。
 
 

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2019年09月18日

聴くときの身ぶり 京田辺言語造形クラス

 
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京田辺・言語造形クラス「森のしずく」は、毎月毎月欠かさず集まるメンバーの方々のお蔭で、もう始まつてから16年経ちます。
 
中川 恵美 (Emi Nakagawa)さんがずつとお世話して下さつてゐます。
 
普段の暮らしの中で堆積した想ひを語りあひ、聴きあふ時間からいつもこのクラスが始まります。
 
聴き手は、己れのこころに浮かび来る共感と反感をうしろに措いておきながら、他者の声とことばをただただ聴く。この時間は、語り手にとってだけでなく、聴き手にとつても、とても大切な時間になつてゐます。
 
しかし、聴き手は、語られることばをそのやうに受容することは、実はとても難しく、度重ねての練習が要ります。
 
まさしく、聴くときの内的な身ぶりを聴き手自身で「みる」こと。
 
精神から他者の語ることばを聴くための身ぶりといふものが、だんだんと会得されてきます。
 
十二の感官の論で、「聴く感官」と対に位置してゐる「釣り合ひの感官」から、その身ぶりを学ぶことができます。
 
または、「ことばの感官」と対に位置してゐる「動きの感官」をもつても、学ぶことができます。
 
さうして、言語造形の稽古に入つて行き、昔話などをたつぷりと真髄から聴くことができるのです。
 
言語造形では、それらのことをからだとこころと精神をもつて学ぶことができます。
 
言語造形クラス「森のしずく」は、毎月第三水曜日午前9時45分から12時まで、京都府京田辺市中央公民館にて行つてゐます。
 
お問ひ合はせは、中川 恵美 (Emi Nakagawa)さんまで、お願ひします。
電話 0774-64-2645
 
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2019年09月16日

幼な子が熱望してゐるもの

 
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幼い子どもたちは、何を熱望してゐるか。
 
数多くあるうち、最も熱望してゐるものは、大人です。
 
テレビやインターネットなどを通さない、活き活きとした大人といふ存在そのもの、実在そのものです。
 
嘘のない表現、活き活きとした息遣ひ、こころのこもつたことば遣ひ。
 
さういふものは、昔の日本においては、普段の日常生活でも、たつぷりと、ありました。ありありとありました。
 
いま、子どもたちは、日常において、さういふ、なまの大人の表現に出会へません。
 
だからこそ、教育の現場において、さういふ見識と技量をもつ大人が必要です。
 
何を教へるかも大切なことですが、それ以上に、どう教へるか、どう語りかけるか、といふ「いかに」といふ側面をわたしたち大人は学んでいく必要があります。
 
「ことばの家 諏訪」で、言語造形の学びをしていきませんか。
 
実践として、定期的に、子どもたちにお話しを語りかける場も設けていきます。
 
クラスの情報は、以下をどうぞご覧下さい。
https://kotobanoie.net/spra/
 
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2019年09月15日

精神のゲリラ 〜アントロポゾフィーのこれからのひとつの可能性〜



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アントロポゾフィーといふ学問に随分と長い間、取り組んできて、念ふところあつて、以下のやうな文章をしたためてみました。長文です😇
 
 
(アントロポゾフィーとは、ルドルフ・シュタイナーによる精神科学のことです)
 
 
ーーーーーー
 
 
アントロポゾフィーが「地上で」繁栄することは、すでに20世紀末で終焉を迎えた。
 
 
いま、アントロポゾフィーは、各国、各地域においてその国の文化、精神とひとつとなり、いはば地下に潜り、土壌となつて、つまりアントロポゾフィーといふ名が消えて、生き抜いていく時代になつてゐる。
 
 
(いはゆるアントロポゾフィーの本場と考へられてゐるドイツを中心としたヨーロッパ人や、またはアメリカ人などがどのやうに思はうと、です)
 
 
しかし、精神を求め、精神に学ばうとする人は世に絶えないだらう。
 
 
(特に、日本においては、です)
 
 
さういふ潜在的なニーズに、どう、応へて行くかが、アントロポゾフィーを学んで来たわたしの人生のテーマのひとつである。
 
 
シュタイナーやアントロポゾフィーといふ名のついた、なんらかの団体や協会や学校が地上的に栄える時も、すでに終はつてゐる。
 
 
さうではなく、一冊一冊の本と、ひとりひとりの人(精神の人)が、最後の拠り所になるだらう。
 
 
本を真摯に読み抜くことを通して、ひとりの精神の人からどこまでも真摯に学ぶことを通してこそ、学びがどこまでも深められて行くだらう。
 
 
その孤独な学びをもつて自分の足元にある土壌を耕すのだ。
 
 
孤独に学ぶひとりひとりの人から生まれて来る創造的なもの。
 
 
その創造的なものをもつて、自分自身にすでに与へられてゐる現場で、働くのだ。
 
 
それは、ことさらに新しくアントロポゾフィーの共同体作りに向かふものではなく、すでに持つてゐる自分自身の家庭や職場に活かされる学びと働きである。
 
 
そのやうなゲリラ的な働きをもつて、世に密やかにアントロポゾフィーを問ふていく時代になつてゐる。
 
 
これからは、世にゲリラ的に、かつ密やかにアントロポゾフィーは浸透していき、志をもつひとりひとりが各々の働く現場でその精神的な力を発揮していく時代だ。
 
 
これまでのシュタイナー学校やアントロポゾフィー的な共同体は残るだらう。
 
 
しかし、より多くの子どもたちが通ふ一般の学校の中、アントロポゾフィー的人間学を踏まえた、たつたひとりの先生によつて、確かな教育が少しずつ少しずつ広まつてゆく可能性。
 
 
たつたひとりの人によつて、少しずつ何かが変はりゆく可能性。
 
 
家庭の中が、少しずつ、変はりゆく可能性。
 
 
その可能性を育むために、どんな仕事ができるかを考へてゐる。
 
 
共にこの仕事を考へる人、共にこの仕事をする人を、求めてゐる。
 
 
公立や私立の学校の先生たち、社会で働いてゐる人たち、家庭の親たち、それらの方々おひとりおひとりに、アントロポゾフィーからの人間学とことばの芸術「言語造形」をお伝へしていくことが、わたしの仕事である。
 

 
 

posted by koji at 22:21 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第21週) 〜問ひを立てる力〜


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わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。
 
その力はしつかりとわたしにわたしみづからを与へてくれる。
 
わたしは感覚する、萌しが熟し、
 
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。
 
内において、己れの力として。
 
         ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle fruchtend fremde Macht      
Sich stärkend mir mich selbst verleihn,    
Den Keim empfind ich reifend        
Und Ahnung lichtvoll weben         
Im Innern an der Selbstheit Macht.     
 
 
 
 
「これまでにない稔りの力」とは。
 
それは、夏、こころにおいて稼がれた、新しい感じ方、考へ方、ものの捉へ方を、その後何度も繰り返し自分自身に引き続き、問ふて、問ふて、問ひ続けることから生まれる力のことである。
 
夏は、豊かな自然の輝きが人に語りかけてくるときであつたし、人と人とが出会ひ、交はる季節だつた。
 
しかし、そのやうに外の世が輝いてゐるとき、人と人とが交はる、そんなときこそ、みづからが孤独であることに思はず出くはしてしまふこともあるのではないだらうか。
 
みづからが孤独であることに出くはして、初めて人は孤独であることの意味を見いださうと葛藤し始める。
 
そして葛藤するといふことは、「わたしは、いつたい、どのやうに生きていきたいのか」といふ問ひをみづからに問ふといふことでもある。
 
みづからに問ひ続ける。そして答へを探し求める。
 
その自問自答の繰り返しが、何を育てるか。
 
己れみづからに問ひを立てる力を育てるのだ。
 
その「問ひを立てる力」が、「わたしみづからの力」「己れの力」としての「稔りの力」をわたしにもたらしてくれる。
 
ふさはしく問ひを立てることこそが、手前勝手な答へを作りだして満足することへと自分を導くのではなく、精神といふ高い次元に耳を澄ませる力になりゆくからだ。
 
その力は、己れが生まれ変はることへの予感を、ゆつくりと、こころの内に光に満ちて織りなしていく。
 
それは、秋といふ季節ならではのこころの織りなしである。
 
そのやうにして、秋とは内なる意識が明るんでいく季節だ。
 
意識が明るむ、とは何とありがたく、幸ひなことだらう。
 
 
 
 
わたしはこれまでにない稔りの力を感じる。 
その力はしつかりとわたしにわたしみづからを与へてくれる。 
わたしは感覚する、萌しが熟し、 
そして予感が光に満ちて織りなされるのを。 
内において、己れの力として。
 
 
 

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2019年09月14日

パワフル和歌山



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親子えんげき塾 ことばの泉の素晴らしい仲間たち。
 
 
古事記(ふることぶみ)を古語のまま全身全霊で演じるお稽古。
 
 
終わるころには、みんなへとへとです。
 
 
しかし、その意欲が持続してゐるのは、なぜだらう。
 
 
どうも、日本の古いやまとことばが、みんなの意欲を焚きつけてゐるやうです。
 
 
「あ」の響き、「を」の響き、「こをろ、こをろ」の響き、それぞれの母音、子音が、音韻が、からだとこころを貫くのです。
 
 
呼吸を合はせて、いにしへの神と人の、身ぶり、手振り、ことば遣ひに倣ふのです。
 
 
そりゃあ、元気ももらへるつてもんです。
 

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posted by koji at 20:24 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする