2020年01月19日

こころのこよみ(第41週)〜心臓からほとばしりでる力〜



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こころから生み出す力、
 
それは心(臓)の基からほとばしりでる。
 
人の生きる中で、神々の力を、
 
ふさはしい働きへと燃え上がらせるべく、
 
おのれみづからを形づくるべく、
 
人の愛において、人の仕事において。
 
 
 
 
Der Seele Schaffensmacht
Sie strebet aus dem Herzensgrunde
Im Menshenleben Götterkräfte
Zu rechtem Wirken zu entflammen,
Sich selber zu gestalten 
In Menschenliebe und im Menschenwerke.
  

 
 
人は、善きこと、素晴らしいことを、
大いに考へることはできても、
それを行為にまで移していくことには、
難しさを感じるのではないだらうか。
 
 
考へることや思ひ描くこと。
そして、実際に、すること。
 
 
この間には、人それぞれにそれぞれの距離がある。
 
 
 
 
「血のエーテル化」(1911年10月1日 バーゼル)
と題された講演で
シュタイナーが語つてゐることを要約して、
今週の『こよみ』をメディテーションする上での
助けにしてみる。
 
 
 
―――――――
  
 
人は、昼間、目覚めつつ考へてゐるとき、
心臓からエーテル化した血が
光となつてほとばしりでて、
頭の松果体にまで昇つていき、輝く。
 
 
そして、
人は、夜眠つてゐるあひだ、
考へる力が眠り込み、
逆に意志・意欲が目覚め、活発に働く。
そのとき、
大いなる世(マクロコスモス)から
人の頭の松果体を通り、
心臓に向かつて、
「いかに生きるべきか」
「いかに人として振舞ふべきか」
といつた道徳的な力が、
その人に朝起きたときに
新しく生きる力を与へるべく、
色彩豊かに流れ込んでくる。
 
 
それは、神々が、
その人を励ますために夜毎贈つてくれてゐる力だ。
 
 
だから、人は夜眠らなければならない。
 
 
人が少しでも振る舞ひにおいて
成長していくためには、
眠りの時間に神々から助けをもらう必要がある。
 
 
昼間、人において、
「こころから生み出す力」、考へる力が、
「心(臓)の基」から、
エーテル化した血が光となつてほとばしりでる。
 
 
その下から上へのエーテルの流れは、
頭の松果体のところで、
夜、上から下への神々の力と出会ひ、
そこで光が色彩をもつて渦巻く。
 
 
その光の輝きは心臓あたりにまで拡がつていく。
 
 
それが、
人といふミクロコスモスで毎日起こつてゐることがらだ。
 
 
そして、
マクロコスモス、大いなる世からの視野には、
キリスト・イエスが
ゴルゴタの丘で血を流したとき以来、
そのキリストの血がエーテル化し、
地球まるごとを中心から輝かせてゐるのが視える。
 
 
そのとき以来、
ひとりひとりの人が、
キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、
みづからの内なるエーテル化した血の流れが、
キリストのエーテル化した血とひとつになつて、
昼間、人を輝かせ、力づけてゐる。
 
 
そのキリスト化したエーテルの血と、
マクロコスモスから夜毎やつてくる
神々の力とが出会ふことで、
人は、さらに昼間、
愛において、
仕事において、
その神々の力をふさわしい働きへと燃え上がらせる。
 
 
考へ、思ひ描くこと。
(心臓から上つていくエーテル化した血の流れ)
 
 
そして、
実際に、すること。
(高い世から心臓に降りてくる力)
 
 
その間を、人みづからが埋めていく。
 
 
そのふたつを、人みづからが重ねていく。 
 
 
それが時代のテーマだ。
 
 
―――――――
 
 
 
 
 
シュタイナーによつて語られた
これらの精神科学からのことばを、
何度も繰り返して自分の考へで辿つてみる。
鵜呑みにするのではなく、
折に触れて、何度も考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴタのことを親しく知るといふことは、
自分自身が生まれ育つた文化風土において、
どういふ意味を持つのか、
考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴダのことの意味は、
自分以外の人や物事を念ふて死ぬことができる、
といふことではないだらうか。
 
 
むかしの日本に、
さういふ文化が根付いてゐたこと。
大いなる理想を考へ、
そしてその通りに
実行してゐた人が数多ゐたこと。
 
 
わたしたちの先祖の方々が
当り前のやうに歩いてゐたそのやうな道を、
わたしたち現代人が想ひ起こすとき、
そのやうな道があつたことを、
ありありと念ふとき、
本当に自分のこころが、
輝き、力づけられるかどうか、
感じつつ、確かめていく。
 
 
そして、
そのやうに輝き、力づけられた自分のこころと、
神々の力が、交はつてゐること。
 
 
その交はりがあることによつて、
自分の仕事が、充実して、
まるで自分以上の力、神々の力が
燃え上がるやうな瞬間を迎へることができること。
 
 
そのことを感じつつ、確かめていく。
 
 
 
こころから生み出す力、
それは心(臓)の基からほとばしりでる。
人の生きる中で、神々の力を、
ふさはしい働きへと燃え上がらせるべく、
おのれみづからを形づくるべく、
人の愛において、人の仕事において。 
 
 


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2020年01月16日

信じるこころが一番たいせつ


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写真撮影:山本 美紀子さん

 
 
小学生の子どもたちには、
どんな書物がふさはしいか。
 
 
などと、
大人があまり考へない方がいいやうに思ふ。
 
 
本人が読みたいものを
どんどん読むことができるやうに、
計らつてあげるだけでいいと思ふのです。
 
 
ただ、これだけはたいせつだと考へてゐるのは、
一冊の本が祕めてゐる未知の何かに対する、
限りない愛情、尊敬、信頼。
 
 
そこから、本に限らず、
ものといふものに対する、
愛情、尊敬、信頼がおのづと育つていきます。
 
 
何を学ぶにしても、
そのこころもち、感情さへあれば、いい。
 
 
もし、そこに熱烈な尊敬、
熟していく愛情が育つていくなら、
大げさな言ひ方になりますが、
その人のこころには、
誰に何かを言はれなくとも
自分の意欲だけで学んでいく力、
世界中を相手に回しても
自分の道を進んでいく力が宿り始める。
 
 
自分の意欲だけで自分の道を進んでいく、
それが、この身ひとつで、世を生きていく、
といふ力。
 
 
それが、
自由への道を歩いていくといふことではないかと思ふ。
 
 
学ぶ人にとつては、
学ぶ対象に対する疑ひではなく(!)、
学ぶ対象に対する信頼・信といふものがとても大事です。
 
 
では、
その対象についてははじめは未知であるのに、
どうして信頼が、愛情が、尊敬が、抱かれるのか?
 
 
それは、その人のこころのうちに、
既に信じるこころが育つてゐるからだ。
 
 
信じるこころが、
信ずるに値する書物を引き寄せる。
信ずるに値する人を引き寄せる。
 
 
小学生のこころとからだにまづは何を植ゑつけるか。
 
 
それは、信じるこころの力であり、感情の育みです。
 
 
その信じる感情の力が、
やがて、芽をだし、葉を拡げ、花を咲かせて、
きつと、その子がその子の人生に必要なものを、
おのづと引き寄せるやうになるでせう。
 
 
その子が、
その信じる力を自分の内側深くに育てていく。
 
 
ではそのためには、大人は何をすればいいのか?
 
 
その子の傍にゐる先生が、親が、大人自身が、
熱烈に、一冊の本ならその本に、
何かの存在ならその存在に、
尊敬と愛情と信頼を持つことです。
 
 
多くの本でなくてもいい、
この一冊といふ本を見いだせたなら、
本当に幸ひです。
 
 
その一冊の本を再読、熟読、愛読していくことで、
その本こそが、その人の古典になります。
 
 
信じる力と言つても、
それは何かあやしいものを信じてしまふことに
なりはしないかといふ危惧は不要です。
 
 
信じる力の枯渇、
それがまがひものを引き寄せてしまひます。
 
 
信じる力の育み、
それが信じるに値する何かを引き寄せます。
 
 
 

 

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2020年01月14日

「春と修羅 序」との再会


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通訳道場Yokohama CATSの
冠木 友紀子 (Yukiko Kabuki)さんが主宰して下さつた、 
昨日の『「春と修羅 序」との再会』。
 
 
その詩句に、
「かげとひかりのひとくさりづつ」
とある。
 
 
そのことばのリアリティーに
打たれる時が熟した者が集まつた、
そんな昨日だつたやうに感じる。
 
 
光あるところには、
必ず、陰が随伴する。
 
 
そのことを肚の底で分かるには、
随分と時を要するものなのだと、
痛く感じる。
 
 
文学とは、
人の切羽詰まったこころを
ぎりぎりのところで支えるもの。
 
 
こちらが体当たりでぶつかることで、
漸く応へてくれるもの。
 
 
冠木さん、パトリックさん、
来て下さつた皆さん、
本当にありがたうございました。
 
 
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2020年01月11日

こころのこよみ(第40週)〜虚しい想ひ込みを焼き尽くす世のことば〜



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そして、わたしはある、精神の深みに。
 
わたしのこころの基において、
 
心(臓)に満ちる愛の世から、
 
己れであることの虚しい想ひ込みが、
 
世のことばの火の力によつて、焼き尽くされる。
 
 
 
Und bin ich in den Geistestiefen,
Erfüllt in meinen Seelengründen
Aus Herzens Liebewelten
Der Eigenheiten leerer Wahn
Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft.
 
 
 
「わたしは、いる」
「わたしは、いま、ここに、いる」
といふ響きから生まれてくる情よりも、
 
 
「わたしは、ある」
といふ響きから生まれてくる、
「いま」「ここ」さへも越えた、
「わたし」といふものそのもの、
「ある」といふことそのことの、
限りのない広やかさと深さと豊かさの情。
 
 
何度も声に出してゐる内に、その情を感じる。
 
 
「わたしは、ある」。
 
 
それは、その人が、
どんな能力があるとか、
どんな地位に就いてゐるとか、
からだの状態が、健やかであらうが、
さうでなからうが、
そのやうな
外側のありやうからのことばではなく、
ただ、ただ、
その人が、その人として、ある、といふこと。
そのことだけをその人自身が見つめて、
出てきたことば。
 
 
そのときの「わたし」は、
目には見えない<わたし>だ。
 
 
 
 
そして、
シュタイナーの『精神の世の境』といふ本から
要約したかたちだが、
「愛」についてのことばを引いてみる。
 
 
―――――
 
 
精神科学の学び手は、考へる力を通して、
「わたしがあることの情」を
育んでいくことに重きを置いてゐる。
 
 
その情が、
こころに強さと確かさと安らかさを
与へてくれるからだ。
 
 
そして、学び手は、
この感官(物質)の世を生きるにおいては、
その強められた「わたしがあることの情」を
抑へることを通して、
愛を生きる。
 
 
愛とは、
みづからのこころにおいて、
他者の喜びと苦しみを生きることである。
 
 
感官を凌ぐ意識によつて
人は精神の世に目覚めるが、
感官の世においては、
精神は愛の中で目覚め、
愛として甦る。
  
 
ーーーーーー
  
 
 
「世のことばの火の力」
1月6日、ヨルダン川におけるヨハネの洗礼によつて、
30歳のイエスは、
「世のことば」キリストを受け入れた。
その「世のことば」は火の力にまでなつてゐる。
 
 
その火の力は、
わたしたちひとりひとりのこころの基において
「己れであることの虚しい思ひ込み」を焼き尽くす。
 
 
そして、心(臓)に、他者への愛が息づき始める。
 
 
わたしによつて強められた
「わたしがあることの情」が、
わたしによつて抑へられることによつて、
「己れであることの虚しい想ひ込み」
が焼き尽くされる。
心(臓)に愛(インスピレーション)が満ちる。
 
 
そして、わたしはある、精神の深みに。
 
 
 
 
そして、わたしはある、精神の深みに。
わたしのこころの基において、
心(臓)に満ちる愛の世から、
己れであることの虚しい想ひ込みが、
世のことばの火の力によつて、焼き尽くされる。


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2020年01月07日

恥を知る



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先日の三日間連続講座を受けられた参加者の方から、
感想が届けられました。
 
 
講座をする者として、
かうしてことばを改めてもらへることは、
この仕事をして行く上で、
内なる炎になります。
 
 
そして、この方も、
かうしたことばをこころから発せられるまでに、
「ことばの家」で学ばれ始めて、
約十年の歳月が経つてゐます。
 
 
この方は、
御自身のこれまでを
顧みざるをえないところまで来られてゐて、
人が学ぶといふことの本当の意味や、
舞台に立つといふことの本当の意味が、
とんと分かつてゐなかつたことに、
昨年の一年を通して忽然と気づきが訪れ、
「これまでの自分が恥ずかしい」といふ、
ことばを発してをられました。
 
 
大の大人が、
かういふことばを発することは滅多にありませんし、
できません。
 
 
しかし、わたしも、師の前で、
この想ひから
大泣きに泣いたことがありました。
 
 
自分のいたらなさ、なつてなさに、
自分で気づかずにゐる傲慢さ。
 
 
その傲慢さに気づいたときの、
「恥づかしさ」。
 
 
それは、わたしの成長の上で、
とてもとても大切なメルクマールでした。
 
 
「恥を知る」といふことばは、
現代ではとても異様に響くのかもしれません。
 
 
しかし、そのことばは、
日本人の道徳の礎をつくることばだつたのです。
 
 
かうしたことばは、
特別な宗教施設で話されるものではもはやなく、
学びの場といふ場で、
再び発せられていいことばです。
 
  
 

―――――
 
 
 
諏訪先生、こんばんは。
 
 
3日間ありがとうございました。
 
 
帰り際、
諏訪先生が声をかけてくださったことばと表情に
思わず私の感情があふれ出てしまい、
心の内を吐露してしまいました。
 
 
私も様々な心の動きを感じられるようになってきました。
「感情を観る」
これからはこのことを意識的にしていきたいと思います。
 
 
ずっと蓋をしていた感情は、
言語造形、様々な講座、シェアリング等、
ことばの家で出逢う人たちとの交流を通して
出てくるようになりました。
とてもとてもありがたいことです。
 
 
ことばの主になり、
一人前になるための道のりはまだまだ続きますが、
様々なことばを獲得して、
自分の感じていること、
考えていることを的確に話し伝えられるようになりたいです。
 
 
人が生きていく上で土台となる最も大切な、
第1七年期、第2七年期、第3七年期を
理想通りに過ごせなくても
いくつになっても辿りなおすことができる。
 
 
安堵しました。
 
 
私を含め必要としている人が多くいると思います。
 
 
3日間の講座を終えた今、
言語造形という芸術を味わいながら、
自己教育を続けていくことを強く欲しています。
 
 
そのことが世の中の平和につながる小さな小さな一歩になると予感して…。
 
 
濃密で豊かな時間を本当に本当にありがとうございました。
 
 
ブログ記事を受け取りました。
 
 
大切な思い出をありがとうございます。
 
 
 
(S・Aさん)
 
 
 

2020年01月06日

現代人への警告



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100年近く前の
ルドルフ・シュタイナーが語つたことばを、
fbfの山際勇起さんが書き込んでをられました。
 
 
――――――
 
今日の人間は、
全く考えなくても済むように、
全てのものを一目瞭然、
たとえば、
スライドで映し出してもらえるような形を
求めているのであります。(…)
 
 
たとえば、
『ハムレット』が演劇として上演されます時には、
私達はまだ劇中の出来事に入りこんで、
そこで語られる言葉を
追わなければならないのでありますが、
今日では劇場が映画館にとって代わり、
そこでは私たちはもはや
積極的に参加する必要はなく、
画像が機械で映写されますので、
私達は完全に受身的であることが
可能になってしまっているのであります。
 
 
このようにして、
私達は徐々に人間としての精神活動を
喪失してしまってきているのであります。
 
 
しかし、把握されなければならぬのは、
まさにこの精神活動でありまして、
精神活動の掌握によって初めて、
思考は単に外部から
活力を与えられるだけのものではなく、
人間それ自体の内部に存する
精神的な力であることが認識されるのであります。
 
 
(GA307
 1923年8月5日イルクリーでの講義より、
 佐々木正昭訳
 『現代の教育はどうあるべきか』
 人智学出版社、26ページ)
 
――――――
 
 
 

ここに示されてゐる現代人への警告は、
本当に身に沁みて感じさせられることです。
 
 
わたしがさせてもらつてゐる講義も、
舞台公演も、すべて、
この警告への応答のつもりであります。
 
 
講義では、
レジメやパワーポイントなど、
用意したことがなく、
板書もほとんどせず、
ただただ、
語ることばで、
どこまで場を創ることができるか。
 
 
舞台公演でも、
ときに、現代語訳を全くせず、
古語のまま、
ことばのうねりを
全身全霊で聴いていただけるやう、
ことばを造形していきます。
 
 
そのとき、
講義をする者、講義を聴く者、
舞台に立つ者、客席に座る者、
共に必要とされるのは、
まさしく精神の活発さ・アクティビティーです。
 
 
さうして、
精神を目覚めさせることのみが、
唯一、大切なことであり、
知識を覚え込んで、
家に持ち帰ることなど、
何ほどのものでもなく、
実践の上でも全く役に立たないことに気づくのは、
難しいことかもしれません。
 
 
このやうな学び方は、極めて、
反現代的なことです。
 
 
しかし、
時代の風潮に迎合することは、
なんら本質的なことではないのでした。
 
 
わたしたちは、
尊敬できる方々の生き方に
学びたいのでした。
 
 
そして、尊敬できる方々は、
時代の風潮に迎合することは、
なかつたのです。
 
 

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宮沢賢治「春と修羅・序」英日2言語ワークショップ



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『1月13日(月・祝)新横浜★臨時講座★
 宮沢賢治「春と修羅・序」との再会
 英日2言語ワークショップのお知らせ』
 
  
賢治の『春と修羅』。
 
 
それは、
賢治の透視による、
こころに見えるままの世のなりたち、
こころに見えるままの悪、
こころに見えるままの聖なるものを
できうる限りあるがまま、
「そのとほり」に写し取り、
(心象スケッチ)
かつ、
精神から芸術的に構成し尽した作品を含む、
(mental sketch modified)
賢治自身が最初にまとめた作品集です。
 
 
今回取り上げますのは、
賢治がその一冊をもつて、
世に何を問はうとしたかを、
まざまざと示す宣言のやうな「序」です。
 
 
わたしたち現代人のこころはまさに
闇の中にある。
 
 
また、
わたしたちが当たり前に思つてゐる、
この時間と空間そのものが、
精神の生き物として 、
変遷と建設と破壊とを繰りなしてゐる。
 
 
賢治の精神は、
そのことへの目覚めを促す。
 
  
その印象がわたしにも強く働きかけてきます。
 
 
賢治によつて描かれた
それらこころの印象(心象スケッチ)を、
わたしたちの身をもつて、声とことばをもつて、
鮮やかに、かつ深切に、
何度でも描いてみませんか。

 
 

 
このたびの臨時講座を企画された
通訳道場Yokohama CATS
さんからのご案内の文章を紹介します。

―――――
 
 
「私は何者なのか」
「私はどこから来て、どこへ行くのか」
 
そんな問いを抱くあなたに、
宮沢賢治の世界を耳、声、身体で深く味わう
1日を贈ります。
 
素晴らしい英訳作品と日英の言語造形を通して、
「今を生きる」を支える
詩と声のちからを体験しましょう。
 
英語訳の水先案内人は
アメリカ出身の日本文学研究者、
パトリック・ヘラー先生です。
 
日本の大学でも「翻訳で学ぶ日本文学」講座が評判。
文学のなかに深い思潮を読み取るセンスが光ります。
 
通訳は、
話芸としての通訳を探求する通訳道場主宰、
冠木友紀子です。
訳した感まるでなしの語りをお楽しみください。
 
言語造形は大阪から諏訪耕志先生をお招きします。
諏訪先生の、
参加者のちょっとした語りから心の在りようを聴きとり、
気づきを促す言葉かけは芸術そのものです。
 
三者の共働があなたの喜びにつながれば幸いです。
 
今回は特別臨時講座のため、次回の予定はありません。
また、講座の性質上、オンライン参加や録画公開もしません。
 
ぜひこの機会をお見逃しなく。
 
 
 
日時 
2020年1月13日 10時―17時
 
 
第1部 10時―12時30分(途中休憩あり) 
講演
「春と修羅 序」(英訳版)に読みとるこころの道
 パトリック・ヘラー/冠木友紀子
 
 
第2部 14時ー17時(途中休憩あり)
ワークショップ
「『春と修羅 序』を言語造形で生きる」諏訪耕志
 
 
会場 
新横浜近辺(お申込みの方にご連絡します)
 
 
参加費 
各部 10000円
第1・2部通し 18000円 
通訳道場メンバー 15000円
(お申込みの方にお支払い方法ご連絡します)
 
 
定員 12名
 
 
なお、
会場限定で通訳道場オリジナル商品を
消費税サービスの実質1割引でご用意しています。
例)ストーリーテリングCD、
  英語音声回路サポート「プロナウンス」など
 
 
フェイスブックのイベントページはこちら ↓
https://www.facebook.com/events/436507093697155/
 
 
お申し込みフォームはこちら ↓
https://ycats.linguamusica.jp/kenjispecial01/
 
 
――――――

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2020年01月05日

『シュタイナー教育と自己教育』ありがたうございました!



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新春の
三日連続アントロポゾフィー講座
『シュタイナー教育と自己教育』が
今日終はりました。
 
 
@子どもをほめることとしかること
A子どもの内なる善と悪
B子どもの判断力を育てる
 
 
午前は、
ことばの教育といふことを真ん中に据えつつ、
この三つのテーマを有機的に深めて行きながら、
午後には、
日本昔話『笠地蔵』を
三日間かけてお芝居仕立てに仕上げていく、
そんなプロセスを辿りました。
 
 
最終日の『笠地蔵』。
 
 
先ほど終演したばかりなのですが、
そのみづみづしい感動に、
いまもこころが静かに波打つてゐます。
 
 
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お正月の大切な日々を
かうして共に過ごして下さつた皆さんに、
こころから感謝します。
 
 
そして、
アントロポゾフィーといふ人間学、
言語造形といふ芸術を、
共に自分自身の内側で育てて行かうといふ志が、
ほのかに光り始めました。
 
 
「こいつは、春から、縁起がいいやぁ!」
 
 
まさに、そんな気分です。
 
 
ありがたうございました!
 

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2020年01月04日

言語造形劇「 をとめ と つるぎ 」のお知らせ(神功皇后御崩御1750年記念)



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舞台の上には、
ことばを語る俳優だけ。
 
 
それだけで、あとは何もゐらない。
 
 
そんな、
ことばの芸術としての演劇芸術を確立したい。
 
 
さう希ひつづけて、
ここまでやつてきました。
 
 
春、3月28日(土)大阪にて、
3月29日(日)東京にて、
神功皇后御崩御1750年記念として
書き上げた戯曲を、
このたび、上演させていただく運びとなりました。
 
 
神功皇后(息長帯比売尊)によつて建てられ、
その方御自身が祀られてゐる住吉大社の
お膝元に暮してゐて、
そのご神徳をとくと受けてゐるわたしは、
この方の御崩御1750年といふ節目の年(令和元年)には、
どうしてもこの方を顕彰するやうな作品を
創り上げたかつたのです。
 
 
我が国の歴史の一大転換点を描くこの作品を、
そして、
言語造形といふ芸術を通してのことばの世界を、
ご堪能いただきたく、
ご案内させていただきます。
 
 
 
 
詳しくは、どうぞこちらをご覧ください。
   ↓
言語造形劇 『 をとめとつるぎ 』
https://kotobanoie.net/play/
 
 
 

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2020年01月03日

こころのこよみ(第39週)〜<わたしがあること>の情〜


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精神の啓けに身を捧げ、
 
わたしは世といふものの光を得る。
 
考へる力、それは長ける、
 
わたしにわたしみづからを明かしながら。
 
そしてわたしに呼び覚ます、
 
考へる力を通して、わたしがあることの情を。
 
 

An Geistesoffenbarung hingegeben
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
Gedankenkraft, sie wächst
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
Und weckend löst sich mir
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.
 

 
「精神の啓け」。
 
 
それは、「わたしがある」といふことを
実感すること。
 
 
それこそが、
すべての現代人における、
もつとも深い願ひなのではないだらうか。
 

どんなときでも、どんな場所でも、
誰と会つてゐても、誰に会つてゐなくても、
「わたしがある」といふことへの
情、信頼、確かさが己れに根付いてゐるほどに、
人は健やかさに恵まれはしないだらうか。
 
 
その「わたしがある」といふ情が、この時期に、
イエスの誕生によつて、人にもたらされた。
 
 
それを「精神の啓け」と、ここでは言つてゐる。
 
 
では、
「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」
といふ情はどのやうに稼がれるだらうか。
 
 
それは、
「考へる力が長ける」ことによつて稼がれる。
 
 
普段、わたしたちの考へる力は、
目に見えるもの、手に触れるものなど、
物質的なものについて考へることに、
尽きてしまつてゐる。
 
 
「いま、何時だらう」
「今日は何を食べようか」
「あそこに行くまでには、
 どの電車に乗り継いでいつたらいいだらうか」
「ローンの返済を今月ちやんと済ませることが
 できるだらうか」
などなど・・・。
 
 
わたしたちのふだんの考へる力は、
そのやうに特に意志の力を要せず、
やつてきたものを受けとり、適度に消化し、
あとはすぐに流していくことに仕へてゐる。
 

しかし、たとへば、
葉がすべて落ちてしまつた木の枝や、
目に美しい花や紅葉などが消え去つた冬の裸の枝。
 

それらをぢつと見つめながら、こころの内で、
次のやうなことを
みづからの意欲・意志を注ぎ込みながら、
考へてみる。
 
 
その寒々しい冬の裸の枝に、
やがて来たる春や夏には
鮮やかな花が咲き、
緑滴る葉が生い茂る。
 
 
そのいまは目には見えない花や葉を想ひ描きつつ、
その木に脈々と通ふ生命について、
熱く考へてみる。
 
 
さうすると、
その寒々しかつた冬の裸の枝の先に、
何か活き活きとした光のやうなものが
感じられてくる。
 
 
それぐらゐ、考へる力を、見えるものにではなく、
見えないものに、
活き活きと意欲を働かせつつ向けてみる。
 
 
すると、その考へられた考へが、
それまでの外のものごとを
単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、
ものやことがらの内に通つてゐるかのやうな、
活き活きと命を漲らせたものになる。
 
 
考へる力を、そのやうに、
感官を超えたものに、
意志をもつて向けていくことによつて、
死んでゐた考へを命ある考へに転換できる。
 
 
死を生に転換できる。
 
 
そして、その考へる力によつて、
わたしたちみづからも活き活きとしてくる。
 
 
その考へる力によつて、
わたしにわたしみづからが明かされる。
 
 
わたしに、
「わたしがあること」の情を、呼び覚ます。
 
 
それは、おのづから生まれるのではなく、
ひとりひとりの人がみづから勤しんでこそ
稼ぐことのできる高くて尊い情だ。
 
 
「わたしがあること」の情とは、
みづからに由るといふ情、
「自由」の情でもある。
 
 
その内なる自由からこそ、
「わたしを捧げる」意欲、つまり、
愛する道を歩いていくことができる。
 
 
そして、
「わたしがある」といふことをもつて
「身を捧げる」。
 
 
ならば、「わたしは世といふものの光を得る」。
 
 
それは、どこまでも、
この「わたしのわたしたるところ」、
「わたしがある」への信頼から、
人との対話へと、仕事へと、
一歩踏み出していくこと。
 
 
それは、きつと、見返りを求めない、
その人のその人たるところからの
自由な愛からのふるまいだ。
 
 
その勇気をもつて踏み出した一歩の先には、
きつと、「世といふものの光」が見いだされる。
 
 
たとへ闇に覆はれてゐるやうに見える中にも、
輝いてゐるもの、輝いてゐる人、
そして輝いてゐる「わたし」を
見いだすことができる。
 
 
「わたしがある」といふ情を育みつづけるならば。
 
 
 
 
 
精神の啓けに身を捧げ、
わたしは世といふものの光を得る。
考へる力、それは長ける、
わたしにわたしみづからを明かしながら。
そしてわたしに呼び覚ます、
考へる力を通して、わたしがあることの情を。

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2019年12月31日

このたびこそ 〜令和元年の歳の暮れ〜



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秋の暮れの、和歌の浦の海



令和元年の歳の暮れを迎へました。
 
 
 
お世話になつたすべての皆様、
本当にありがたうございました。
 
 
この人生のなかで、
これまでにないことに、
漸く行き当たらせてもらへてゐることに、
本当に奇しきものを感じてゐます。
 
 
これを読んで下さつてゐる方々には、
何のことだか分からないものだと思ふのですが、
個人的なつぶやきを詩のやうなものとして、
歳の瀬に記し置かずにはゐられませんでした。
 
 
来年も、どうぞ、よろしくお願ひ申し上げます。
 
 
 
―――――
 
 
 
吾(あれ)、父のことよさしのまにまに
このたびこそ
海原(うなはら)しらさむ
大海原とひとつになりて
世を幸(さき)ははせむ
 
 
いくたび泣きいさちきか
いくたび青山枯らしきか
いくたび母を求めしか
 
 
さはあれ
このたびこそ
海原しらさむ
大海原とひとつになりて
世を幸ははせむ
 
 
 



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2019年12月29日

『親子でしたしむむかしばなし』ありがたうございました!


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今日は、『親子でしたしむ むかしばなし』でした。
 
 
樋口早知子先生の手遊びとライゲン。
諏訪千晴による昔話「ねずみの伊勢参り」。
諏訪耕志による昔話「笠地蔵」と「子守り泥棒」。
 
 
「したしむ」とは何と趣深いことばでせう。
 
 
何かと動きを共にすること、
それこそが、
何かに「したしむ」ことへと通じます。
 
 
幼い子どもたちと、
動きを共にしつつ、
共振しつつ、
ひとつひとつ、むかしばなしを、
したしみをもつて織り上げていきました。
 
 
年の終はりのこの喜び。
 
 
この次は、春。
またご一緒に昔話にしたしむでみませんか。
 

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2019年12月28日

明治の精神 乃木神社


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東京の乃木坂にある乃木神社にお参りをしました。
 
 
御祭神に、
乃木希典命、乃木静子命
とあるのを見るだけで、
胸に迫るものを覚える。
 
 
この御夫婦の精神は、
当時でさへも理解できないものが数多ゐて、
志賀直哉などは、
この乃木夫妻の殉死を
「浅はかな下女の振る舞ひ」
と決め付け、嘲笑したと云ふ。
 
 
夜になつて、
明かりが灯され、
ひとり、ふたりと、
粛然と参拝されては、
帰つて行かれる。
 
 
この社を包む夜の静かさと冷気の漲り。
 
 
わたしにとつては、
ふさはしい年の瀬のひとときでした。


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2019年12月27日

12月29日(日)親子でしたしむ むかしばなし


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『12月29日(日)
親子でしたしむ むかしばなし 
シュタイナー教育の叡智から』
 
 
くすのき園あびこシュタイナー幼稚園の
樋口早知子先生による
歌・手遊び・ライゲン。
 
 
諏訪耕志・諏訪千晴による日本の昔話。
 
 
幼い子どもたちに、
四季の巡りに応じて、
昔話を語りかけて行きたい。
 
 
わたしたち「ことばの家 諏訪」の願ひに、
樋口先生がお応へ下さり、
このやうな会が始まります。
 
 
0歳から6、7歳辺りまでの幼な子たちよ。
 
 
集まれ〜!
 
 
 
――――――
 
 
日程:
令和元年12月29日(日)
14:30から15:30
(春夏秋冬、季節の巡りに応じて開催を予定しています)
 
 
場所:
くすのき園あびこシュタイナー幼稚園 
https://kusunokien.exblog.jp/
大阪市住吉区遠里小野5丁目7−28
南海高野線「我孫子前」より徒歩5分
 
 
対象:
0歳から6歳までの幼児と親御さん
 
 
参加費:
家族一組 1000円
大人のみ 1000円
 
 
お申し込み・お問い合わせ:
ことばの家 諏訪 
https://kotobanoie.net/access/
 
 
 

歌・手遊び・ライゲン: 
樋口早知子
(くすのき園あびこシュタイナー幼稚園教師)
 
 
昔ばなしの語り:
諏訪耕志
諏訪千晴
(ことばの家 諏訪主宰)

 

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こころのこよみ(第38週) 聖き夜の調べ


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わたしは感じる、
 
まるでこころの奥で、
精神の子が魔法から解かれたやうだ。
 
その子は心の晴れやかさの中で、
 
聖き、世のことばとして、
 
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
 
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
 
わたしのわたしたるところ、神の基から。
 
 
 
Weihe-Nacht-Stimmung   
Ich fuehle wie entzaubert
Das Geisteskind im Seelenschoss,
Es hat in Herzenshelligkeit
Gezeugt das heil'ge Weltenwort
Der Hoffnung Himmelsfrucht,
Die jubelnd wächst in Weltenfernen
Aus meines Wesens Gottesgrund.
 
 
 
 
クリスマス、それは、をさな子の誕生を寿ぐ日。
 
 
どの人のこころの奥にも眠つてゐる、
をさな子のをさな子たるところの生まれを祝ふ日。
 
 
をさな子、それは、
子ども時代の内でもとりわけ、
記憶の境の向かう、
三歳以前のわたしたちのありやう。
 
 
いまこそ、この時代こそ、
世の男たちの(このわたしの)
内なるをさな子が目覚めますやうに。
さう祈らずにはゐられない。
 
 
なぜなら、をさな子のをさな子たる力とは、
世のすべての争ひ、分け隔て、エゴ、
それらを越える、創造する力、愛する力だから。
 
 
わたしたちは、この世に生まれてから、
おほよそ三年かけて、
歩く力、話す力、考へる力を育み始める。
 
 
その三つの力は、
人のからだを創つていく力でもある。
 
 
歩く力によつて脚が、
話す力によつて胸が、
考へる力によつて頭が、
だんだんと創られていく。
 
 
歩く力、話す力、考へる力は、
当然その子によつて、
意識的に身につけられたものでもなければ、
大人によつて教へ込まれたものでもなく、
そのをさな子の内から、
まるで神々しい力が繰り出してくるかのやうに、
地上的な力を超えたところから、生まれてくる。
 
 
そのおのづと生まれてくる神々しい力は、
しかし、三年間しかこの世にはない。
 
 
をさな子のをさな子たるところが輝く三年間から後は、
その子の内に、
少しづつ地上を生きていくための知性と共に、
エゴがだんだんと育ち始める。
 
 
しかし、きつと、それも、
人の育ちにはなくてはならないもの。
 
 
三年の間のみ、人の内に、
からだを創るための神々しい力が通ふ。
 
 
その地を越えた神々しい力は、
この地を生きていくための基の力である。
 
 
「聖き、世のことば」キリストも、
この世に、三年間しか生きることができなかつた。
 
 
イエス、三十歳から三十三歳の間だ。
 
 
そのイエスにキリストとして三年間通つた力は、
をさな子のをさな子たるところからの力であつた。
 
 
キリストは、
世のすべての争ひ、分け隔て、エゴを越え、
人のこころとこころに橋を架ける愛する力として、
この地上に受肉した。
 
 
後にキリストを宿すイエスが
母マリアから生まれたとされてゐる、
24日から25日の間の聖き夜。
 
 
その夜から、
キリストがイエスに受肉した1月6日までを
クリスマスとして祝ふ。
 
 
そして、このクリスマスは、
二千年以上前のおほもとの聖き夜に
起こつたことを想ひ起こすことを通して、
わたしたちの内なるをさな子たるところを
想ひ起こす時だ。
 
 
そして、いまから三千年以上あとに、
すべての人がみづからのこころに
精神のをさな子(生命の精神 Lebens Geist)、
キリストを見いだすことを、
予め想ひ起こして祝ふ時だ、
さうシュタイナーは語つてゐる。
 
 
三歳以前のわたしたちの内に、確かに、
その神々しい力が通つてゐた。
 
 
そして、実は、いまも、通つてゐる。
 
 
しかし、そのことを人は知らない。
 
 
わたしが、
その神々しい力を想ひ起こせばこそ、
いまもその力が通つてゐることに
目覚めることができる。
 
 
このクリスマスの日々に、
その力を自分の内にも認めればこそ、
来る年への希みが羽ばたき始める。
 
 
争ひ、闘ひ疲れてゐる男たちが、
みづからの内なるをさな子を
想ひ起こしてゆくならば、
世はおのづから刻一刻となりかはつていくだらう。
 
 
 
 
  
『聖き夜の調べ』

わたしは感じる、
まるでこころの奥で、
精神の子が魔法から解かれたやうだ。
その子は心の晴れやかさの中で、
聖き、世のことばとして、
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
わたしのわたしたるところ、神の基から。
 
 

 
※シュタイナーが、
 Seele といふことばを使ふときは、
 からだと繋がるところでありながらも、
 からだからは独立した働きを荷ふ
 「こころ」を言つてゐますが、
 Herzen といふことばを使ふときは、
 物質の心臓といふ意味合ひも持ち、
 またその物質の心臓の働きを支えている
 エーテルの心臓をも指すやうです。
 ここでは、
 Herzen を「心(臓)」と書き表しています。


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2019年12月24日

こころのこよみ(第37週) 〜歌へ、冬の夜に〜


 
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世の冬の夜に精神の光を荷ひゆくべく、
 
恵みに満ちたわたしは心底追ひ求める。
 
輝くこころの萌しが、
 
世の基に根をおろすことを。
 
そして神のことばが、感官を覆ふ闇の中で、
 
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くことを。
 
 
 
Zu tragen Geisteslicht in Weltenwinternacht
Erstrebet selig meines Herzens Trieb
Dass leuchtend Seelenkeime
In Weltengruenden wurzeln
Und Gotteswort im Sinnesdunkel
Verklaerend alles Sein durchtoent.
 
 
 
 
わたしは、既に十分な恵みに満たされてゐる。
この世に生かされてゐる、といふことの中に、
どれほどの豊かな恵みが既に潜んでゐるか。
 
 
そのことを想ひ起こすたびごとに、
わたしのこころは明るく暖かくなる。
こころが精神の光に照らされてゐるのを感じる。
 
 
でも、そんな恵みに満ちてゐるわたしが、
心底追ひ求めることがある。
それは、自分の力を最大限に使ひ尽くして、
仕事をすることだ。
 
 
この恵みに満ちたからだとこころを
フルに使つて仕事をすることだ。
 
 
輝くこころの萌しを世の基に根づかせることだ。
天から戴いてゐる恩恵を大地にお返しするのだ。
照らされてゐるだけではなく、
自分自身から照らしていくのだ。
 
 
さうして、そのやうに仕事をしていくうちに、
この恵みに満ちたからだとこころを使つてゐるのが、
わたしのわたしたるところ、
「精神」だといふことが感じられてくる。
 
 
実は、精神こそが隠れた主役で、
わたしの人生の一コマ一コマを進めてゐたことに気づく。
 
 
その精神は、からだを基にしながら、
からだの制約を超える。
 
 
こころに足場を見いだしながら、
こころを、豊かに、大きく、広くしていく。
 
 
精神が主役である。
 
 
その精神が奏でようとしてゐる音楽がある。
 
 
その音楽を奏でることに、
このからだとこころが
いかに仕へていくことができるか。
 
 
仕事をすることによつてこそ、
ますます精神が主役になつていくのを、
日一日と感じることができる。
 
 
身の回りが暗く寒くなつてくるほど、
身の内に宿つてゐる<わたし>こと精神が、
ますます明るさ・暖かさ・熱さを滾らすことができる。
 
 
<わたし>こと精神。
 
 
「神のことば」と和して響くところをこそ、
<わたし>といふのではないだらうか。
 
 
「神のことば」はありとあらゆるものを輝かせ、
貫いて響いてゐる。
 
 
だからこそ、<わたし>よ、歌へ。
 
 
もつと高らかに。
 
 
そしてもつと優しく。
 
 
 
 
世の冬の夜に精神の光を荷ひゆくべく、
恵みに満ちたわたしは心底追ひ求める。
輝くこころの萌しが、
世の基に根をおろすことを。
そして神のことばが、感官を覆ふ闇の中で、
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くことを。


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2019年12月23日

新春講座『シュタイナー教育と自己教育』


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令和二年初頭、
『シュタイナー教育と自己教育』のお知らせです。
 
 
1月3日(金)、4日(土)、5日(日)の
三日間連続アントロポゾフィー講座のご案内です。
 
 
今回のアントロポゾフィー講座では、
三つのテーマに取り組みます。
 
 
@「 子どもをほめること、しかること 」(1月3日)
A「 子どもの内なる善と悪 」(1月4日)
B「 子どもの判断力を育てる 」(1月5日) 
 
 
その三つは、わたしたち大人にとつての、
自己教育に基づくものに他なりません。
 
 
こころの内に生まれ出づる、
善きもの、悪しきもの。
 
 
それらの間を行き来しながら、
それらの間の真ん中を見いだす力。
 
 
その力を「良心」とも呼びます。
 
 
わたしたちは、子どもの頃から、
その力をどのやうにして、
身につけて行くことができるのでせうか。
 
 
共に考へていきませう。
 
 
また、午後には、
「演劇教育へのみちびき
〜昔話を語り、歌い、演じる〜 」をテーマにします。
 
 
三日間かけて、
我が国の昔話『笠地蔵』を、
まづは語り、
そして歌ひ、
さらに演じてみることで、
ことばの芸術を、
まず大人自身が生き生きと味はつてみませう。
 
 
そのお話は、
日本における太陽の神の御来臨、
日本のクリスマスの物語であります。
 
 
三日目の終わりには、お客様を呼んで、
ささやかなお披露目の時間ももちます。
 
 
 

●日時:
令和二年1月3日(金)〜5日(日)
9時15分開場 9時半開始 
17時終了予定
 

●場所: 
ことばの家 諏訪 https://kotobanoie.net/access/
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20  
南海高野線「帝塚山」駅徒歩5分
 
 
●参加費: 
三日間連続参加 25000円  
一日単発参加 10000円
※お子さまの託児はありません。ご了承ください。
 
 

●振込先: 
ゆうちょ銀行
ゆうちょ銀行から 記号 10260 番号 28889041 スワ チハル
他銀行から  店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904 
 
 
 
●お問い合わせ・お申し込み: ことばの家 諏訪
T/F 06-7505-6405  
E−Mail  info@kotobanoie.net

 
 

【講座ご紹介】
 
 
●9時半〜10時  
「シュタイナー幼児教育の朝のひととき」 
  講師:樋口早知子

 
●10時〜12時  
「アントロポゾフィー講座」 
  講師:諏訪耕志
@「 子どもをほめること、しかること 」 (1月3日)
A「 子どもの内なる善と悪 」 (1月4日)
B「 子どもの判断力を育てる 」  (1月5日) 
 
 
●13時半〜16時   
「演劇教育へのみちびき 〜昔話を語り、歌い、演じる〜 」
  講師:諏訪耕志(言語造形)・武内ゆかり(歌・音楽)
 
 
 
 
【講師プロフィール】
 
 
●樋口早知子
くすのき園あびこシュタイナー幼稚園教師。保育園に勤めながら乳幼児の教育のあり方を模索し続け、シュタイナー教育に出会う。2006年ミカエルカレッジで学ぶ。2008年よりくすのき園を開園。乳幼児の保育に携わっている方たちと共に学びを深めている。
 
 
 
●武内ゆかり
1970年大阪生まれ。幼少時よりクラシック教師であった母よりピアノを学ぶ。上智大学卒業。
メーザー音楽院ピアノ科卒業。ジャズ音楽理論・作・編曲、古楽、声楽、グレゴリオ聖歌を学ぶ。
アウディオペーデ教員養成コース卒業。第3期シュタイナー教員養成講座修了。
 
 
 
●諏訪耕志
「言語造形のためのアトリエ ことばの家 諏訪」主宰。1964年大阪市出身。1994年よりルドルフ・シュタイナーハウスにて言語造形家鈴木一博氏に師事。2004年より関西を中心に自身の活動を始める。言語造形の舞台、ワークショップ、シュタイナーのアントロポゾフィー講義などを通して活動中。日本語の美と風雅(みやび)を甦らせていくことを念願にしている。

 

 

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2019年12月21日

意志の芸術 言語造形 「 をとめ と つるぎ 」クラス


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今日は、「をとめとつるぎ」クラスの稽古。
 
 
建築・彫塑が思考を芸術化したものであり、
音楽・絵画が感情を芸術化したものであるやうに、 
言語造形とは意志の芸術であります。
 
 
それゆゑ、
俳優の皆さんは、
ひたすらに走ることを要求されます。
 
 
ことばを話してゐる間だけでなく、
他の俳優のせりふの間も、
常に走つてゐます。
 
 
その動きは、
外には見えず、
内的な走りなのです。
 
 
しかし、運動量はさほど変はりません。
 
 
ですので、
冬の最中であるのにもかかはらず、
皆、汗びつしょりです。
 
 
  
 
★言語造形劇公演『 をとめ と つるぎ 』
 
 
日時・場所:
 
令和2年
3月28日(土) 大阪公演
山中能舞台 14時開演 
 
3月29日(日) 東京公演
中村中学・高等学校フェニックスホール 
15時開演
 
※大阪公演のみ、
住吉大社権禰宜の小出英詞氏による講演
『今蘇る神功皇后の伝承』があります。
 
 
料金:
ご予約 4000円  当日4500円  全席自由
 
 
 
お申し込み・お問い合わせ:  
「ことばの家 諏訪」 
Tel/Fax 06-7505-6405  
Mail info@kotobanoie.net

 
  

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2019年12月19日

こころのこよみ(第36週)〜汝は何を怖がつてゐるのか〜


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レオナルド・ダヴィンチ『サルヴァトール・ムンディ』


 
わたしといふものの深みにおいて
 
いま、目覚めよ、と
 
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
 
  汝の仕事の目当てを
 
  我が精神の光で満たせ、
 
  我を通して、汝を捧げるべく。
 
 
 
 
In meines Wesen Tiefen spricht
Zur Offenbarung draengend
Geheimnisvoll das Weltenwort ;
Erfuelle deiner Arbeit Ziele
Mit meinem Geisteslichte
Zu opfern dich durch mich
 
 
 
 
わたしといふものの深みにおいて、
「いま、目覚めよ」と、
世のことばが密やかに響く。
 
 
「世のことば」とは、キリスト。
キリストがささやくやうに
「いま、目覚めよ」と言ふ。
 
 
「目覚めよ」とは、
恐れや不安を乗り越えよ、といふこと。
 
 
世のことばがささやいてゐる。
 
 
汝は何を怖がつてゐるのか。
何も怖がることはない。
己れの内に隠されてゐる恐怖から、
他者を罵り、責め、他者に期待することは、
もうやめよ。
 
 
汝を捧げよ。
汝の仕事に。
我・キリスト・汝の〈わたし〉を通して。
 
 
仕事をするといふこと、
生きるといふことは、
さういふことであつた。
 

 
わたしといふものの深みにおいて
いま、目覚めよ、と
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
  汝の仕事の目当てを
  我が精神の光で満たせ、
  我を通して、汝を捧げるべく。
 
 
 



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2019年12月18日

12月22日(日)古事記の傳へ in 和歌の浦


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今週末のわたしたちの言語造形公演
『古事記(ふることぶみ)の傳へ』
 
 
いざなぎ、いざなみ、
あまてらすおほみかみ、
そして、すさのをのみこと・・・
 
 
それらの神々の実在が信じられ、
生きられる物語。
 
 
現代語訳は一切せず、
古語のまま、です。
 
 
舞台に耳を傾けて下されば、
そこには一切の解釈が入り込む余地はなく、
ことばの響きがもたらす、
圧倒的な力ある運動とかたちがあります。
 
 
その動きとかたちこそが、
神々の顕れです。
 
 
その顕れは、
見るも飽かぬ眺めであり、
その中から、
汲んでも汲んでも尽きせぬ、
本当の「意味」が立ちのぼつてくることでせう。 
 
 
そんな舞台に、
主婦の方々と小学生と中学生が
己れのからだを楽器にして挑戦してゐます。
 
 
詳しくはこちらをどうぞ


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2019年12月17日

人はいかにして生きるか


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学問とは、そもそも、
「人はいかにして生きるか」
を考へ抜くものだつたはず。
 
 
大の大人が端坐してでも、
聴くに値するやうな講座であるか。
 
 
自分自身の仕事場として、
毎回、毎回、
この場を与へてもらつてゐること、
本当に感謝以外の何ものでもありません。
 
 
皆さん、本当に、ありがたう。

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2019年12月16日

明日の滋賀県草津 両親の問診時間の会


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ミヒャエラ・グレックラー女史の講演録
『両親の問診時間』を学ぶ会のお知らせです。
 
 
グレックラーさんは、
シュタイナー学校校医、
アントロポゾフィー精神科学自由大学の
医学部門代表などを務められた方です。
 
 
明日12月17日(火)のテーマは、
「健康のときと病気のとき」です。
 
 
人の成長と病との関係。
 
 
そこに人間学からの認識の光を当てることで、
わたしたちは、「安心」といふ、
最も大切なこころの真ん中に立つことを
学ぶことができます。 
 
 
ともに、家庭教育、自己教育における、
シュタイナーの人間学を学んで生きませんか。
 
 
初めての方でも、どうぞお気軽にお越しください。
 
 

 
 
講師: 諏訪耕志
 
 

 
場所: 滋賀県草津市内 個人宅
(お申し込みいただいた方に個別のご連絡いたします)
 
 
時間: 午前10時より12時半まで
 
 
参加費: 単発でのご参加 3000円
     4回連続参加 10000円
    (プラス講師の交通費を頭割りで)
  

※有料にてお子様の託児あり。お申し込み時にお伝えください。
 
 
お申し込み・お問い合わせ: 
minttea221@gmail.com(筒井)
 

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2019年12月14日

こころのこよみ(第35週) 〜<わたしはある>そして<慎ましく生き抜いていく>〜


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<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
 
それを再び見いだしえるのか、
 
こころが活き活きと働くならば。
 
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
 
それは、己みづからが手足となつて、
 
世を慎ましく生き抜いていく力だ。
 
 
  

Kann ich das Sein erkennen,
Daß es sich wiederfindet   
Im Seelenschaffensdrange ?   
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n, 
Das eigne Selbst dem Weltenselbst   
Als Glied bescheiden einzuleben.
 
 
 
 
この『こよみ』の<ある>といふことばから、
言語造形家の鈴木一博さんが以前、
シュタイナーの『礎のことば』について
書かれてゐた文章を想ひ起こした。
 
  
そもそも、<わたし>は、気づいたときには、
もう既に、ここに<あつた>。
 
 
ものごころがついたときから、
<わたし>が既に<あらしめられてある>ことに、
気づきだした。
 
 
この<わたし>は、
わたしが気づく前から<ある>。
 
  
そして、いま、<わたしはある>といふ事態を
ありありと感じることができる時といふのは、
わたしのこころが活き活きと生きて働いた後、
そのことをその活き活きとした感覚を失はずに
想ひ起こす時ではないか。
 
 
だから、そのやうに、
こころにおいて活き活きと何かを想ひ起こすことで、
<わたしがある>といふことを、
より深く、より親しく感じ、
より明らかに知つていくことができる。
 
 
何を想ひ起こすのか。
 
 
内に蘇つてくる、ものごころがついてからの想ひ出。
 
 
また、ふだんは想ひ起こされないものの、
故郷の道などを歩くときに、
その場その場で想ひ出される実に多くのこと。
 
 
当時あつたことが、ありありと想ひ出されるとき、
そのときのものごとだけでなく、
そのときの<わたし>といふ人もが、
みずみずしく深みを湛えて蘇つてくる。
 
 
それらを頭で想ひ描くのでなく、
胸でメロディアスに波立つかのやうに想ひ描くならば、
その想ひ出の繰りなしは、
みずみずしい深みを湛えて波立つ
いのちの織りなしと言つてもいいし、
「精神の海」と呼ぶこともできる。
 
 
その「精神の海」に行きつくことによつて、
人は「みづからがある」ことに対する
親しさを得ることができはしないだらうか。
 
 
そして、その「精神の海」には、
わたしが憶えてゐるこころの憶ひだけではなく、
からだが憶えてゐるものも波打つてゐる。
 
 
たとへば、
この足で立つこと、歩くこと。
ことばを話すこと。
子どもの頃に憶えたたくさんの歌。
自転車に乗ること。
字を書くこと。筆遣ひ。
包丁遣ひ。
などなど。
 
 
身についたこと、技量、
それはどのやうに身につけたかを
頭で想ひ出すことはできなくても、
手足が憶えてゐる。
 
 
手足といふもの、からだといふものは、
賢いものだ。
 
 
それらの手足が憶えてゐることごとへの信頼、
からだの賢さへの信頼があるほどに、
人は、
<わたしがある>といふことに対する
確かな支へを持てるのではないだらうか。
 
 
また、パーソナルな次元を超えて、
人といふ人が持つてゐる、
からだといふなりたち、
こころといふなりたち、
果ては、
世といふもの、
神といふもの、
それらも人によつて想ひ起こされてこそ、
初めて、ありありと、みずみずしく、
その人の内に生き始める。
 
 
だからこそ、
<わたしはある>といふ想ひを
人は深めることができる。
 
 
<神の内に、わたしはある>
<わたしの内に、神はある>
といふ想ひにまで深まることができる。
 
 
想ひ出をみづみづしく蘇らせること。
 
 
手足の闊達な動きに秘められてゐる
技量といふ技量を発揮すること。
 
 
それらすべてを司つてゐる
世の生みなし手にまで遡る想ひを稼いで得ること。
 
 
それらが、
<わたしがある>といふことの意味の解き明かし、
<わたしがある>といふことへの信頼を生みはしないか。
 
 
それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。
 
 
わたしのこころが
活き活きと生きたことを想ひ起こすことと、
<わたしはある>とが響きあふ。
 
 
<ある>といふことを知つていくことは、
<ある>といふことを想ひ起こしていくことだ。
 
 
世の中において、
こころが<生きた>こと、
手足が<生きた>こと、
わたしまるごとが<生きた>ことを、
活き活きとわたしが想ひ起こす時、
<わたし>も、世も、
ありありと共にあつたのであり、
いまも共にあるのであり、
これからも共にありつづける。
 
 
わたしと世は、きつと、ひとつだ。
 
 
そして、いまも、これからも、
精神からの想ひ起こしをすることで、
こころを活き活きと働かせつつ、
力が与へられてゐるのを感じつつ、
手足を使つて、
地道に、
慎ましく、
世を生きてゆくほどに、
<ある>といふことを、
つまりは、
<わたしがある>といふことを、
わたしは知りゆき、何度でも見いだしていくだらう。
 
 
ここで、
クリスマス会議でシュタイナーにより発せられた
『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。
 
 
 
 
   人のこころ!
  
   あなたは手足に生き
 
   手足に支へられつつ、場を経て
 
   精神の海へと行きつく。
 
   行はれたし、精神の想ひ起こしを
 
   こころの深みにて。
  
   そこにては
 
   世の生みなし手が司り
 
   あなたの<わたし>が
 
   神の<わたし>のうちに
 
   ありありとある。
 
   もつて、あなたは真に生きるやうになる
 
   まこと人として、世のうちに。
 
 
              (鈴木一博さん訳)
 
 
 
 
<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
それは、己みづからが手足となつて、
世を慎ましく生き抜いていく力だ。



posted by koji at 10:14 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

教室こそ、ことばのお宮

 

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東京のとある女子中・高の先生方と、
『枕草子』の言語造形に取り組んでみました。
 
 
一段目の、
四季おりおりの景物とこころの織りなし合ひ。
 
 
そのやうな日本人ならではの感覚が、
和歌ではなく、
エッセイとして書き残されてゐます。
 
 
そこに滲み出る情をこそ、
文を声に出すことで、
じつくりと感じてみる。
 
 
そこに聴こえて来る沈黙の間の豊かさに、
耳を澄ます。
 
 
先生方ご自身が、
自身の息遣ひとことば遣ひから、
そもそも「ことばとは芸術そのものなのだ」
といふことに気づくほどに、
教室といふところが、
意味深い場になりえます。
 
 
教室が、ことばのお宮になりえます。
 
 
神聖な場といつてもいいやうに思へます。
 
 

この場を準備して下さつた方、
教務その他でまことにお忙しい中、
新しいことに挑戦された先生方、
本当にありがたうございました。
 
 
子どもたちや若い人たちが、
国語の底知れぬ魅力に目覚めていく、
そのことを何よりも希ひます。
 
 

posted by koji at 07:40 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月10日

笠地蔵


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今日は、
昔話「笠地蔵」を子どもたちに語りました。
 
 
このお話をしてみて、
これは日本の昔話の中でも、
本当のまごころと神秘を伝へる、
屈指の国語芸術だと思はざるをえません。
 
 
町に出て笠が売れないといふことが、
生きることの苦しみを、
どれほど子どもたちに予感させるか。
 
 
そして、売れなかつた笠を
お地蔵様にかぶせて家に帰ってきた爺様を、
「それはよいことをしなさつたなあ」
と言つて迎へる婆様。
 
 
きつと、日本人が何百年にも何千年にも渡つて、
「人はこんなにも美しいこころを持つてゐるのだ」
といふことを静かに感じ続けてきたお話です。
 
 
そして、
一年の終はりに捧げられる神仏への思ひ。 
一年の初めに甦る太陽の神からの恵み。 

 
そんなお話が終はつた時の静寂の深さ。
 
 
年の終はりと始まりに、
いまもなくてはならない、
幼な子たちとのかけがへのない時間です。
 
 

posted by koji at 20:34 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月09日

健やかな判断力

 
 
知識の図式化・組織化はできるのだらうけれど、 
判断力の組織化はできない。
 
 
いいか、悪いか。
 
 
美しいか、醜いか。
 
 
まことか、嘘か。
 
 
判断を下すのに、公式も図式もない。
 
 
その判断は、その時、その場で、
その人によつて、なされる。
 
 
だから、判断力とは、
知性や教養よりも深いところでなされる、
働きである。
 
 
では、判断力といふ、
人が生きて行く上でなくてはならない力は、
どこから生まれて来るのか。
 
 
それは、知性ではなく、
その人の内側で育まれて来た、
感じる力、情の力である。
 
 
だから、人は、少年少女の時にこそ、
感じる力・情の働きを育むことこそが、
最も肝要である。
 
 
混迷を極めるこの世において、
これから、ますます、人は、
何を選ぶか、どちらを選ぶか、
判断を迫られることが増えて来るだらう。 
 
 
健やかな判断力。
 
 
それは、
その人の感じる力をもつて、
そのつど、その場で、なされる。

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2019年12月08日

ものが見え過ぎる人

 

先日、ある友人と話しをしてゐて、
様々なことを思ひました。
 
 
長いお付き合ひの中で、
感じてきたことですが、
その人は言はば、
「ものが見える」人でした。
 
 
「ものが見え過ぎる」人、
と言つてもいいかもしれません。
 
 
さて、
今日12月8日は、
大東亜戦争の火蓋が切つて落とされた日ですが、
その戦時の真っ只中に、
文芸批評家の小林秀雄が書いた古典論のひとつ、
「徒然草」といふ短い一篇があります。
 
 
その中で、こんなことが記されてゐます。
 
 
――――――
 
 
(吉田兼好の)あの正確な鋭利な文体は
稀有なものだ。
 
 
一見さうは見えないのは、
彼が名工だからである。
 
 
『よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。
 妙観が刀は、いたく立たず』、
 
 
彼は利き過ぎる腕と鈍い刀との必要とを
痛感してゐる自分の事を言つてゐるのである。
 
 
物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、
これが『徒然草』の文体の精髄である。
 
 
――――――
 
 
「ものが見え過ぎる」人の苦悩は、
ものの見えてゐないわたしなどには、
到底分かりやうのないものだと思ひます。
 
 
その友人は、だからこそ、
外側の世界に向かつて己れを表現するときには、
きつと「少し鈍き刀を使」つてゐることでせう。
 
 
おのづから手にしてしまつてゐる鋭過ぎる刀では、 
外の世をあまりにも鮮やかに切つてしまふからです。
 
 
わたしなどの凡庸な者にできることは、
そのやうな友人が語らざるところをこそ、
我が乏しい力でも、なんとか、
汲み取り、聴き取ることです。
 
 
いや、そのことをどれほど、
し損ねてきたことか、
忸怩たる念ひがあります。

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2019年12月07日

こころのこよみ(第34週) 〜ありありとしてくる<わたし>〜


 
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ルオー「聖顔」
 
 
密やかに古くから保たれてきたものが
 
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
 
内において活き活きとするのを感じる。
 
きつと目覚めた世の数々の力が
 
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
 
そしてだんだんと、ありありと、わたしを刻み込んでいくだらう。
 

 
 
Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
Mit neu erstandnem Eigensein 
Im Innern sich belebend fühlen:  
Es soll erweckend Weltenkräfte 
In meines Lebens Außenwerk ergießen 
Und werdend mich ins Dasein prägen.          
 
 
 

 
この肉をもつたからだは、
なんのためにあるのだらう。
 
 
この世で仕事をし、この世に仕へ、
自分の周りの世をほんの少しづつでも
善きものにしていくために、
このからだをわたしは授かつてゐるのではないだらうか。
 
 
そして、そのやうに、
「からだを使つて、今日も生きていかう」
といふ意気込みはどこから生まれてくるのだらう。
 
 
日々、寝床から、起き上がれるといふこと。
手を動かして、洗顔できるといふこと。
ものを食べられるといふこと。
歩いて、行きたいところへ
行くことができるといふこと。
子どもと遊ぶことができるといふこと。
そして、仕事ができるといふこと・・・。
 
 
これらすべてのことをするためには、
からだが健康であることは勿論だが、
さらに意気込みが要る。
 
 
その意気込みは、
自分自身で生み出すといふよりも、
朝起きて、眠りから覚めて、
おのづといただいてゐる。
それは本当に恩寵だと感じる。
 
 
これこそが、
世の数々の力からの恵みではないか。
 
 
この恩寵への感謝の日々を
毎日生き続けていくことが、
この季節、きつと、
わたしたちの外なる仕事に
生きた力を吹き込んでくれる。
 
 
感謝の念ひこそが、
わたしたちの心意気を日々目覚めさせてくれる。
 
 
そして、この目覚めは毎日を新しくする。
わたし自身を新しくしてくれる。
 
 
感謝できないときが、人にはあるものだ。
しかし、そんなとき、
人は意識の上で夢見てゐる状態か、
眠り込んでゐる状態だ。
 
 
さあ、当たり前にできてゐることに、
あらためて目を注いでみよう。
 
 
からだを当たり前に使へることの恩寵に
あらためて驚くことができるだらうか。
 
 
さらに、あなたにとつて、わたしにとつて、
「密やかに、古くから保たれてきたもの」とは、何か。
 
 
それは、みづからのこころといふものの核のこと。
 
 
こころの相(すがた)は刻一刻と変はるが、
こころといふものの核は、変はらずに留まり続ける。
 
 
その核を「わたしのわたしたるところ」、<わたし>、
もしくは精神と言つてもよく、
それを意識の上に育てていくために、
メディテーションといふこころの練習がある。
 
 
この『こころのこよみ 第34週』では、
そのこころといふものの核を
「密やかに、古くから保たれてきたもの」
と言ひ表してゐる。
それは、無理をせず、
どこまでも自分自身であること
(精神からの光)。
 
 
そして、毎日の感謝から生まれる、
「新しく生まれてくる己れのありやう」。
それは、日々新鮮に自分自身を感じること
(からだからの恩寵)。
 
 
このふたつが重なつて、
こころそのものが、活き活きと動き出す。
 
 
活き活きと動き出して、いよいよ、わたしは、
<わたし>として、ますます、
「ありありと」あるやうになつてくる。
 
 
外の仕事に「ありありと」<わたし>が刻み込まれていく。
 
 
わたしが、仕事を通して、
<わたしはある>といふありやうに、なりゆくこと。
 
 
これこそが、豊かさである。
 
 
ひとりひとりの<わたしはある>
といふありようこそが、世を豊かにする。
 
 
  

密やかに古くから保たれてきたものが
新しく生まれてくる己れのありやうと共に
内において活き活きとするのを感じる。
きつと目覚めた世の数々の力が
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれ
そしてだんだんと、ありありと、わたしを刻み込んでいくだらう。
 
 
 


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2019年12月06日

酌み交はす 盃あれば


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酌み交はす 盃あれば 酔ひのまま
こころほぐさむ 晩(をそ)き秋の夜 
 
  

ものづくりをする人と人とが集まるとき、
そこには様々なドラマが生まれますね。
 
 
そこには、苦しみも喜びも織り込まれて、
ひとつの織物が創られていきます。
 
 
ものが出来上がつていくプロセスと共に、
人の感情も、その行き場を求めます。
 
 
その感情の交錯をほぐすべく、
宴の場が設えられます。
 
 
その思ひやりは、
これまでの長い時間があつたからこそ、
さりげなく人から人へと
手渡されます。
 
 

わたしは、そんな織物づくりのプロセスに、
ことばの芸術を通して、
ほんのひととき、
ひと息つく時間を皆さんにもたらすべく、
伺はせてもらつてゐます。
 

 

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2019年12月02日

精神が泣かないやうに



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一冊の本を書棚から引き抜き、
頁を開いて、
一行一行読んで行く時、
当り前のことだが、
その時、他の本を読むことはできない。
 
 
その時には、
わたしはまさにこの一冊を選び取つてゐる。
 
 
この世に幾千万とある他の本を読むことはできない。
 
 
他のすべての本を読むことを断念しなければならない。
 
 
そこで、もし、いま、
この一冊といふ本を選び取つて、
その一頁一頁に向かひ合ふならば、
わたしはみづからがみづからに課す責任において、
その一頁一頁を全力で読みたい。
 
 
ややもすれば、
今読んではゐない本のことを、
ちらちら思ひながら、気にしながら、
こころここにあらずの状態で
本を読んでしまふ。
 
 
しかし、さうではなく、
今向かひ合つてゐるこの一冊に、
己れのまるごとをもつてぶつかつて行きたい。
 
 
なぜならば、
己れの自由の精神のもとにおいて、
このひとときをみづから選び取つたのなら、
そこに己れの全精力を注ぎ込まねば、
己れの精神が泣くではないか。
 
 
これは本を読む時だけでなく、
わたしたちの一挙手一投足に
かかはつて来ることだと思ふ。
 
 
わたしたちは己れの行為を
自由の精神のもとでみづから選んでゐる。
 
 
それならば、
その行為そのものを
〈わたし〉の行ひとして、
全精力をもつて行ひたい。
 
 
その時に、人は、
この人生を支配しようと襲ひかかつてくる、
相対性といふ甘い罠から脱し得ることができる。
 
 
〈わたし〉は、ここにゐる。
 
 
この〈わたし〉は、
この世でたつたひとりの人であり、
わたしがそのことを選び取つたのだ。
 
 
精神とこころとからだが重ね合はさる
絶対の境に立つことができる。

posted by koji at 18:33 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月01日

わたしたちの舞台創りにおける観点A



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今年1月に奈良で行はれた「古事記のまつり」にて


――――――――
 

シェイクスピアの英語は
語彙、語法、すべての点において、
他の同時代の作者に較べて遥かに難しい。
 
 
一般大衆の日常英語と較べたら、
それこそ雲泥の差であつた。
 
 
彼等は或る意味では
シェイクスピアのせりふは難しくて
よく理解できなかつたに相違ない。
 
 
エリザベス時代よりはるかに教育が普及し、
その程度も遥かに高くなつてゐる
今日のイギリス人にとつても、
シェイクスピアは難解なのである。
 
 
それでもイギリスでシェイクスピア劇を
一般観客が理解し易い様に
現代語訳して上演したりはしない。
 
 
そんな事を考へもしない。
 
 
だが、語彙、語法が難しいといふのは、
だからといつてそれが
楽しめないといふ事とは全く別事である。
 
 
近松の浄瑠璃の一語一語が理解できなくとも、
無学な江戸の民衆はそれを充分に楽しむ事ができた。
 
 
同様にエリザベス時代の大衆も今日のイギリスの一般観客も
原文のままのシェイクスピアを楽しんでゐるのである。
 
 
       (福田恒存『言葉の芸術としての演劇』より)
 
―――――――
 
 
 
たとへ、ことばの「意味」が分からなくとも、
わたしたちは、ことばの芸術としての演劇を
楽しむことができます。
 
 
前回の文章でも述べさせていただいたやうに、
ことばは、まづ、
その響きであり、
その質であり、
その形であり、
その動き、うねり、拡がりこそが、
その本質なのです。
 
 
ことばを理解しようとするのではなく、
ことばのそれらの質を感覚すること。
 
 
それらを感覚できるといふことが、
舞台で俳優が生の声をもつて演じるのを、
観に行き、聴きに行く、楽しみであるのです。
 
 
詩人のやうに言ふなら、
ことばとは音楽であり、
彫塑であり、
舞踊なのです。
 
 
幼い子どもたちは、皆、
理解してからことばを使ふのではなく、
そのやうに感覚をもつてことばを味はひつつ、
だんだんと日本語に上達して行きます。
 
 
大人は、ややもすると、
そのやうなことばの感官を閉じてしまひ、
理性だけでことばを聞き、
情報伝達のためにだけことばを使はうとしてしまひます。
 
 
しかし、ことばとは、もつと、もつと、
全人間的なもの、
宇宙的なもの、
神々しいものなのです。
 
 
だから、
わたしたちの舞台では、
その言語の言語たるところを引き立てるべく、
主に日本の古典作品を
原語のまま上演することに挑戦し続けてゐます。
 
 
これまでに、
『古事記』や『萬葉集』『風土記』に、
『源氏物語』や『平家物語』などを取り上げて来ました。
 
 
まだまだこれらの作品を深めて行きたいですし、
また別の作品にも挑戦して行くことで、
ことばに生命あり、精神ありと深く信仰してゐた、
日本古来の古典精神を、
ことばの造形を通して、
追ひ求めていきたいと希つてゐるのです。
 
 
そして、そのやうなわたしたちの仕事が、
新しくこの国の精神文化を支へ、育み、
後代へと大切な何かを受け渡していく
橋となることを
固く信じてやつてゐます。



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1月3〜5日『シュタイナー教育と自己教育』のお知らせ



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令和二年初頭、
『シュタイナー教育と自己教育』のお知らせです。
 
 
1月3日(金)、4日(土)、5日(日)の
三日間連続アントロポゾフィー講座のご案内です。
 
 
今回のアントロポゾフィー講座では、
三つのテーマに取り組みます。
 
 
その三つは、わたしたち大人にとつての、
自己教育に基づくものに他なりません。
 
 
@「 子どもをほめること、しかること 」(1月3日)
A「 子どもの内なる善と悪 」(1月4日)
B「 子どもの判断力を育てる 」(1月5日) 
 
 
また、午後には、
「演劇教育へのみちびき
〜昔話を語り、歌い、演じる〜 」をテーマにします。
 
 
三日間かけて、
我が国の昔話『笠地蔵』を、
まづは語り、
そして歌ひ、
さらに演じてみることで、
ことばの芸術を、
まず大人自身が生き生きと味はつてみませう。
 
 
そのお話は、
日本における太陽の神の御来臨、
日本のクリスマスの物語であります。
 
 
三日目の終わりには、お客様を呼んで、
ささやかなお披露目の時間ももちます。


 


●日時:
令和二年1月3日(金)〜5日(日)
9時15分開場 9時半開始 
17時終了予定
 

●場所: 
ことばの家 諏訪 https://kotobanoie.net/access/
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20  
南海高野線「帝塚山」駅徒歩5分
 
 
●参加費: 
三日間連続参加 25000円  
一日単発参加 10000円
※お子さまの託児はありません。ご了承ください。
 
 

●振込先: 
ゆうちょ銀行
ゆうちょ銀行から 記号 10260 番号 28889041 スワ チハル
他銀行から  店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904 
 
 
 
●お問い合わせ・お申し込み: ことばの家 諏訪
T/F 06-7505-6405  
E−Mail  info@kotobanoie.net

 
 

【講座ご紹介】
 
 
●9時半〜10時  
「シュタイナー幼児教育の朝のひととき」 
  講師:樋口早知子

 
●10時〜12時  
「アントロポゾフィー講座」 
  講師:諏訪耕志
@「 子どもをほめること、しかること 」 (1月3日)
A「 子どもの内なる善と悪 」 (1月4日)
B「 子どもの判断力を育てる 」  (1月5日) 
 
 
●13時半〜16時   
「演劇教育へのみちびき 〜昔話を語り、歌い、演じる〜 」
  講師:諏訪耕志(言語造形)・武内ゆかり(歌・音楽)
 
 
 
 
【講師プロフィール】
 
 
●樋口早知子
くすのき園あびこシュタイナー幼稚園教師。保育園に勤めながら乳幼児の教育のあり方を模索し続け、シュタイナー教育に出会う。2006年ミカエルカレッジで学ぶ。2008年よりくすのき園を開園。乳幼児の保育に携わっている方たちと共に学びを深めている。
 
 
 
●武内ゆかり
1970年大阪生まれ。幼少時よりクラシック教師であった母よりピアノを学ぶ。上智大学卒業。
メーザー音楽院ピアノ科卒業。ジャズ音楽理論・作・編曲、古楽、声楽、グレゴリオ聖歌を学ぶ。
アウディオペーデ教員養成コース卒業。第3期シュタイナー教員養成講座修了。
 
 
 
●諏訪耕志
「言語造形のためのアトリエ ことばの家 諏訪」主宰。1964年大阪市出身。1994年よりルドルフ・シュタイナーハウスにて言語造形家鈴木一博氏に師事。2004年より関西を中心に自身の活動を始める。言語造形の舞台、ワークショップ、シュタイナーのアントロポゾフィー講義などを通して活動中。日本語の美と風雅(みやび)を甦らせていくことを念願にしている。

 

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2019年11月30日

幼児教育における芸術としての人形劇


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今日は、たつぷり時間をかけて、
保育園の先生方と、
人形劇をいかに形づくるかに
取り組んでみました。
 
 
人形劇は、
観る者、聴く者を、
一挙にファンタジーの世界へといざなふ、
極めて優れた仕掛けであります。
 
 
ファンタジーとは、
精神の芸術に触れることで、
観る者、聴く者の意欲の力が昂ぶり、
自分のこころの奥から溢れ出る、
想像力といつてもいいでせう。
 
 
そんなファンタジーの世界へといざなふべく、
演者に要求されるのは、まづ何よりも、
深い息遣ひです。
 
 
その息遣ひが、
物語を語るその語りやう、
人形を動かすその手振り、
一語一語、一挙手一投足に、
通ふまで練習することなのです。
 
 
写真のやうに、
ひとりが語り、
ひとりが人形を動かす場合、
ふたりの息が合ふことがとても大切なことです。
 
 
その息遣ひから生まれる、
ことば遣ひ、
身の動きが、
人形劇まるごとを、
精神の衣に包みこみます。
 
 
その精神の手触りこそ、
幼な子が求めてゐるものです。
 
 
物語を説明するやうな、
人形の動きも効果音も要りません。
 
 
造形されたことばと、
極めて抑制された人形の動き。
 
 
それがありさへすれば、
精神の手触りを実感することのできる、
幼な子も大人も楽しむことができる、
極めて創造的な人形劇が生まれて来ます。
 
 
今日の研修を通して、
先生方皆さん、
人形劇に通ふ精神の法則を体感されたやうな、
満たされたお顔をされてゐました。
 
 

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2019年11月29日

わたしたちの舞台創りにおける観点@



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文芸評論家であり、
翻訳家、戯曲家、演出家でもあつた、
福田恒存がこんなことを書いてゐます。 
 
―――――――
 
 
演劇とは、
せりふの芸術、
ことばの芸術である。
 
 
そして、
そもそも、
そのことばの「意味」が
分からうが分かるまいが、
そのことばに身ぶりがあれば、
観客は存分に楽しめるのだ。
 
 
なぜなら、せりふとは、
俳優の口を突いて出てくる、
その身悶えであり、
身振りであるからだ。
 
 
どんなに悲劇的な場面であつても、
ハムレットは、
自分のことばが身振りとしての律動に乗つて、
宙に飛び散つてゆくのを、
実はひそかに楽しみ、
その楽しみに酔つてゐる。
 
 
何かの「意味」などを
伝へようとしてゐるのではなく、
彼は自分のことばを吐き出してゐる。
 
 
ことばで自分を鞭打ち、
ことばで自分にまじなひを掛け、
自分をことばの次元にまで引き上げようと、
暴れ回つてゐるのだ。
 
 
わたしは、それを演戯とも呼んだ。
 
 
        (福田恒存『翻訳論』より)
 
 
―――――――
 
 

ことばこそが、
演劇を芸術へと高めるのであり、
決して理論や思考や思惑が
さうするのではないといふこと。
 
 
より精確に言ふなら、
ことばの音韻と律動とスタイルに導かれて、
ことばを生きれば生きるほど、
初めて演戯が成り立つ。
 
 
さらには、身振り、身悶え、しぐさ、
さういふ人のこころからの行ひこそが、
ことばの内実なのだといふこと。
 
 
だから、
俳優は、
音韻から音韻へ、
身振りから身振りへと、
繰りなしていくことができるほどに、
舞台の上での自由を獲得できる。
 

ハムレットが話すことばの「意味」を探つて、
役作りをするなどといふことは、
芸術としてお門違ひなことであり、
ことばからことばへと、
リズムに乗つて口ずさむ心地よさから、
しだいにことばの流れ、波、うねりの中へと、
入り込んでいくことで、
俳優はその役を摑んでいくのです。 
 
  
演出家とは、さういふ、
ことばの芸術としての演戯を
俳優ひとりひとりから引き出すべく働く者です。
 
 
今年の暮れの12月22日(日)の、
和歌の浦での『古事記の傳へ』。
 
 
来年3月28日(土)、29日(日)の、
大阪・東京での『 をとめ と つるぎ 』。
 
 
いづれも、
演出家のわたしとして、
その観点に絞り切つて創る舞台です。
 
 
木下順二や福田恒存が押し進めたかつた、
日本の舞台言語を芸術へと高める仕事を、
もう一歩奥へと進めたい、
と希つてゐます。
 

posted by koji at 23:29 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第33週) 〜人に任されてゐる仕事〜



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わたしはいま、世をかう感じる。
 
それは、わたしのこころがともに生きることなしには、
 
そこにはただ凍りついた虚しいいのちのみ、
 
そして、力が啓かれることもない。
 
人のこころにおいて、世は新しく創りなす。
 
世そのものにおいては、死を見いだすのみ。
 
 

 
So fühl ich erst die Welt,
Die außer meiner Seele Miterleben
An sich nur frostig leeres Leben
Und ohne Macht sich offenbarend, 
In Seelen sich von neuem schaffend, 
In sich den Tod nur finden könnte.           
 
  
  
 
世とは、
この地球を含む
宇宙まるごとのことであり、
四季折々に織りなしてゐる自然の
いちいちのことであり、
このわたしをも含む
人といふ人のことでもあり、
そして、物質の域だけでなく、
こころの域、精神の域にまで及ぶものであるだらう。
 
 
その「世」といふものに、
この「わたし」が働きかけることによつて、
何が生じるだらうか。
 
 
たとへば、
こころを籠めて世の何かを、
世話する、
面倒をみる、
手塩にかけて育てる、などなど・・・。
人が、さうするとき、
その何かはどのやうな変化を見せてくれるだらうか。
 
 
人がこころを注ぎつつ手入れしてゐる庭と、
ほつたらかしの庭とでは、
何かが違ふ。
 
 
人が大事に、感謝をもつて住んでゐる家と、
家のあちこちに対して文句を言ひつつ、
手入れが行き届かない家と、
また、誰も住んでゐない家とでは、
それぞれ、趣きを異にする。
 
 
対象が、
庭や家だけでなく、
動物や人ならば、
その違ひもより明らかに見られるのではないだらうか。
 
 
それは、決して、気のせゐではない、
明らかな趣の違ひとしてしつかりと感じられる。
 
 
今週の『こよみ』では、かう記されてある。

 わたしのこころが共に生きることなしには、
 そこにはただ、凍りついた虚しいいのちのみ
 
 
世は、
人によつてこころから意を注がれることを
待つてゐるのではないだらうか。
 
 
花も、動物も、
水や風やあらゆる自然のものも、
人が創り出したあらゆるものといふもの、
機械類までも、
そして、
もちろん、人や、
目には見えないが世に存在してゐる者たちも、
人から、こころを向けられるのを、
待つてゐるのではないだらうか。
 
 
人がこころを注ぐところに、
新しいいのちが宿る。
 
 
いのち、
それは人が、
その人みづからのこころの力をもつて、
世に新しく与へることのできる愛、
と言つてもいいかもしれない。
 
  
人からの愛が注がれるところに、
新しく、世そのものがもつてゐる力が啓かれる。
 
 
さうして、世は、
人とともに、時とともに、更新されていく。
 
 
世は、
人からの積極的な行為、愛を、
待つてゐる。
 
 
人とは、
なんと大きな仕事を任されてゐることだらう。
 
 
 
 
わたしはいま、世をかう感じる。
それは、わたしのこころがともに生きることなしには、
そこにはただ凍りついた虚しいいのちのみ、
そして、力が啓かれることもない。
人のこころにおいて世は新しく創りなす。
世そのものにおいては死を見いだすのみ。
 
  
 

posted by koji at 20:26 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月28日

己れの声を己れが聴く


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先日、高校生たちに伝へようとした事柄を、
いま一度、ここに記してみようと思ひます。 
 
 
そもそも、
和歌(うた)は読むものではなく、
声に出して歌ふものです。
 
 
なぜか。
 
 
和歌とは、そもそも、
なげきであつたからです。
 
 
なげきとは、
長く息を吸ひ、
長く息を吐くことだからです。
 
 
息遣ひから、
声が発せられ、
ことばの響きが宙に拡がつてゆく。
 
 
さうして虚空に拡がりゆく響きと調べが、
人の乱れに乱れてゐたこころを鎮め、
落ち着くべきところに落ち着かせるのです。
 
 
この声の作用は、
頭で考へられるだけのことばよりも、
いつさう、深く、強く、
人のこころとからだに降りて行きます。
 
 
なぜなら、
考へは過去に根差すものですが、
声は現在にあるものだからです。
 
 
ひたすらに、
声を出す人の「いま」を響かせます。
 
 
よつて、
声あることばの力によつて、
情が慰められ、
思ひが整へられ、
動揺に耐えることができ、
己れを建て直す機縁が得られます。
 
 
何千年前から日本人は、
そのやうにして、
激しい情の渦に巻き込まれさうになる
己れのこころを律し、
こころの解放と自由を生きるために、
和歌を声に出して歌ひつづけてきました。
 
 
その声は誰に聴かれたでせうか。
 
 
もちろん、人に聴かれました。
 
 
人に聴いてもらふべく、
ことばを整へました。
 
 
より上手く、より深く、
我がこころのありやうを
人に聴き取つてもらへるやうに
ことばを整へました。
 
 
しかし、本質的なこととして、
まづもつて、
他でもない自分自身によつて聴かれるべく、
その声は発せられたのです。
 
 
己れの声を己れが聴く。
 
 
これほどに、
ことばの持つ力が実感されるときはありません。
 
 
己れの声は、己れの「いま」であります。
 
 
嘘をつくことのできない「いま」であります。
 
 
己れの「いま」を、
己れが見いだし、
己れが深く受け取り、
己れが己れを消化するため、
人は、
和歌を歌つたのです。
 
 
『萬葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』・・・
それらは、
ことばの芸術に通じるわたしたちの御先祖様たちが、
なんとかこころの悶えを抑えようとして抑ええた、
ことばの事績の集積なのです。
 
 
さういふ声による自己陶冶の道を、
いまに甦らせるのが、
言語造形の道です。
 
 
ことばに鋳直され、造形された、
先人のこころの振幅を、
わたしたちは、
言語造形をもつて、
いま一度、追体験してみます。
 
 
そのとき、
わたしたち現代人と、
古(いにしへ)の人とが、
一挙に、こころを通はすことが生まれ得る。
 
 
それは、国語の、
さらには歴史・国史の最善の学びやうだと、
わたしは思ひます。

 
 

posted by koji at 19:10 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月27日

Mikko 写真展「40±」



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山本 美紀子さんの初めての個展。
 
 
今日が、もしかして、初めて、
写真といふものの良さ、
芸術として存在する意味を
知ることのできた日かもしれない・・・。
 
 
お恥づかしや・・・😓
 
 
撮る人と同年代の40歳前後の女性たちが被写体。
 
 
40歳といへば、
男も女も、
これまでの人生と、
これからの人生との間の、
分水嶺に立ち尽くす時ではないか。
 
 
これまでの自分なりの生き方を続けていくのか。
 
 
それとも、
全く新しく、
己れ本来の道を、
己れの理想を追い求めて生きると、
こころを決めるのか。
 
 
ある人は揺らめき、
ある人はこころを決め、
ある人はまさに立ち尽くしゐる。
 
 
写真に写るおひとりおひとりの背景に何があるか。
 
 
明示されてはゐないが、
おひとりおひとりの後ろに拡がる風景が、
室内であらうと室外であらうと、
おひとりおひとりの情のありやう、
情景となつて、
写真の画面に映つてゐる。
 
 
それは、おそらく、
撮る人と撮られる人との歩調の重なり、
一瞬の息遣ひの重なり、
そして、その内的な歩行から見いだされる、
合意された場所。
 
 
その時、そこにしか生まれ得ない
雰囲気が写つてゐて、
それが、
人の、
重さと軽さを、
図らずも表してゐる。
 
 
写真について何も知らない、
素人の感想に過ぎないのだけれど・・・。
 
 
勝手に、
写真の見方を教へてもらへたやうな気になつてゐます。
 
 
みっこさん、ありがたう!
 
 
心斎橋の大阪農林会館の地下一階にある、
solaris(ソラリス)にて、
12月8日(日)までです。
イベントページ ↓
https://solaris-g.com/portfolio_page/191126/?fbclid=IwAR1e_WaEVmbC-32O0b5e9O8zzrcaL_j51Uq1BBc4U6ZS7LmNgX0NYCtVisk

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2019年11月25日

若さと老い

 
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若い時、わたしはよく人と群れてゐた。
 
 
しかし、内においては、孤独であつた。
 
 
なぜなら、からだをもつて生きてゐたから。
 
 
からだは、ひとつひとつ離れてゐるから。
 
 
年老いるに従ひ、群れずに仕事をするやうになつてきた。
 
 
しかし、内においては、世と繋がつてゐる。
 
 
なぜなら、精神において生きるやうになるから。 
 
 
精神は、時空を超えて、自由自在に交はりうるから。
 
 

posted by koji at 22:46 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月24日

道を訊く



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大神神社摂社の桧原神社から西の二上山を臨む道


携帯もスマホも持たないわたしは、
初めての場所に行く時、
よく道に迷ひ、
よく道ゆく人に道を訊きます。
 
 
特に、旅してゐる時など、
見知らぬ土地で、
見知らぬ人に、
道を訊くことが楽しみでもあるのです。
 
 
道で人から話しかけられることに、
警戒する人もゐますが、
なぜか喜んで案内して下さる方もゐます。
 
 
さういつたことも、
文明の機器を持たないことから得られる、
人とのふれあひです。
 
 
五十五才にならんとする自分も、
人に道を尋ねる時は、
なぜか、
二十五才くらゐの自分になつてゐます。
 
 
不思議な感覚であります。
 
 


posted by koji at 20:24 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

老いることと考へる力

 
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先日、ある方とお話しをたつぷりすることができた。
 
 
その方は、わたしよりも八歳年長の方であつたが、
精神的には、もつと年上の方であるやうに感じた。
 
 
それは、その方の考へる力から来るやうに思はれた。
 
 
人文学の領域であるが、
古典文学その他の読書の量が本当に豊かであられる。
 
 
そして、
御自身独自の見識をしつかりと保持されながら、
話し相手であるわたしのことばにも、
注意深く耳を傾け、
それに対して、
確かな口調で答へられる。
 
 
読書で育まれた考へる力によつて、
対話といふものを、
健やかに爽やかに営むことができることを、
その方は身をもつて証明してをられる方だつた。
 
 
対話とは、
考へる力と、
感じる力と、
それらをことばに鋳直す力、
これら三つの力の共同作業である。
 
 
さらには、
聴く力である。


人は、五十から六十の年齢へと進んで行くにつれ、
若い時のやうにからだは利かないし、
こころもみづみづしさや弾みを失ひがちだ。
 
 
さうして、さらに老いていくに従つて、
考へることや言ふことも、
的を得なくなり、
どこか支離滅裂になつていくことを見るのは、
とても、とても、悲しいことだ。
 
 
からだは老いていく。
 
 
しかし、その衰えていくからだの甦りの力が、
考へる力・精神の力としてなり変はりゆく。
 
 
さうして、こころは、
みづみづしさを失ふことを避けることができる。
 
 
精神の働きによつて、
こころは、若々しくあることができるし、
年令を重ねることによつて、
熟していくことができる。
 
 
ただ、そのためには、
からだから自由になる考へる力を
うまく汲み取ることを、
若い頃から先だつて習ふことが必要になる。
 
 
理想をもつて生活し続けること。
 
 
自分などよりも、
遥かに上を行く存在があることを知つてゐること。
 
 
己れのライフワークがあることを自覚してゐること。
 
 
それらは、
読書によつて、
歴史を知り、
文学を知り、
人生を感じ、
己れを知りゆくことからこそ、
生じる意識である。
 
 
生命力は、
からだを保持する働きからだんだんと、
こころを精神に向けて、
透明にしていく働きへとなり変はつてゆく。
 
 
さうして、
みづからのこころに炎をつけることもできる。 
 
 
若いうちから読書を通して、
考へる力を養ひ続けることは、
人生の終盤において、
何かが深く違つて来るだらう。
 
 
そのことは、
男性も女性も変はりはない。
 

生きてゐて、
先達に出会ふことができるといふことは、
ありがたく、仕合はせなことだ。
 
 

 


posted by koji at 16:23 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

両親の問診時間の会@滋賀のお知らせ



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今年のお雛祭りの時

 

滋賀の草津で
毎月開かせていただいてゐる
勉強会のお知らせです。
 
 
『両親の問診時間』とは、
長年シュタイナー学校で校医を務められ、
普遍アントロポゾフィー協会の医学部門で、
代表を務められてゐた、
ミヒャエラ・グレックラーさんによる、
連続講演録です。
 
 
人が人として育ちゆく最も大切な場、家庭。
 
 
それは、子どもだけでなく、
夫も、妻も、です。
 
 
その家庭の営みを、
アントロポゾフィーの観点から、
見つめ直していくための示唆が、
そこに示されてゐます。
 
 
それは、
家事や育児をどうするといふやうな
問題設定ではなく、
ひとりひとりに、
そしてわたし自身に、
こころと精神がある、
といふところに立ち返り、
立ち止まるところから、
暮らしのあり方を捉え直していく。
 
 
そんな学びです。
 
 

 
学びの場として、
ひとつの民家の畳敷きの広いお部屋を、
参加者のご夫婦の方のご好意で
ありがたくも使はせていただいてゐます。
 
 
お近くの方で、
ご関心があられる方、
どうぞ、御遠慮なく、
学びの仲間にお入りください。
 
 
場所は、草津市内で、
まとめ役を担つて下さつてゐる、
筒井 聡子 (Satoko Tsutsui)(フェイスブック・ページ)
さんへ、お申し込みいただいた方に、
個別にお伝へしてゐます。
 
 
夫婦でご参加の場合は、
おふたりでおひとりの参加料金です。
 
 
保育も、別料金になりますが、ございます。
 
 
 
 
筒井さんからのインフォメーションです。
 
 
―――――
 
 
次回は11/26(火)10時スタートです!
 
 
タイトルは
「人の考える力と
  からだの蘇える力、育つ力には
    どんなかかわりがあるでしょうか」
 
 
前回の「口を介さない教育」も、
大人の私たちが考えさせられる内容が
たくさん詰まっていましたが、
そういう大人でありたい
とブレない芯をもらったような宝物の時間でした。
 
 
今回もとても深そうなタイトルです。
テキストお渡し出来てない方、
会えるタイミングあればご連絡ください🙇‍♀️
 
 
連続の方 12,500円(2,500円/回)
単発参加 3,000円/回 交通費割など500円
 
 
資料・交通費・場所代も
1,500円(5回まとめ)づつ集めさせてください🙇‍♀️
こちらは筒井が取りまとめます!
 
 
よろしくお願いします。
 
 
―――――
 
 

 

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2019年11月23日

和歌の浦のひかり



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今朝、
和歌の神を祀る、
玉津島神社の裏山に登り、
和歌の浦を見渡す。
 
 
 
穏やかに 秋のまさをき 和歌の浦
こころいざなふ 潮の満ち引き
 
 
ひかりかな この世をかくも あらしめて
己れ隠れて ことば与へし
 
 

 

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2019年11月22日

高校生たちと言語造形



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東京の高校生たちと言語造形。
 
 
和歌の道。しきしまの道。その入り口の入り口。
 
 
おそらく、若い人たちにとつて、
「なんじゃ、これ!」の世界。
 
 
和歌を歌ふとは、
なげくことであり、
長く息を吐くことであり、
耐え切れないやうなこころの渦巻きを、
治め、整へ、律していくため、
形あることばにこころを鋳直していくこと。
 
 
ことばがあるからこそ、
人はこころを知る。
もののあはれを知る。
 
 
その道。しきしまの道。
 
 
一千年以上前の先人のこころの煩悶を、
空間にいま、響かせてみる今日の試み。
 
 
彼らの人生の行く手に、
ことばにせざるをえない、
こころの煩悶に苦しむ日が、
必ずやつて来る。
 
  
そのときに、
今日の日を想ひ出してもらふことができたらな・・・。
 
 
今日の日を用意して下さつたすべての皆様に、
こころから感謝いたします。
 
 
本当にありがたうございました。
 
 

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靖国の坂、降り来る人々



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西に傾いていく陽射しに、
われ、靖国の社の坂をのぼる。
 
 
参拝のあとの人々の
坂を降り来るを見つつ。
 

 
 
沈む陽を 背に受け来たる 人々も
くれなゐいろに かんばせ染めて 
 
 
 

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2019年11月19日

(ま)といふ真実



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言語造形をするときに、
大事にされるまづ最初のことは、
息遣ひ、呼吸です。
 
 
そして、深く吐き出される息が、
ことばとことばのあひだ、
文と文のあひだに、
おのづと(ま)を生み出すのです。
 
 
その無音の閧ヘ、
豊かないのち溢れる動きを孕んでゐます。
 
 
ことばが発音されるときよりも、
むしろ、その無音の閧フ中にこそ、
ことばの精神、言霊が響きます。
 
 
ですから、時閧ニ空閧、
ことばといふもので埋め尽くさないのです。
 
 
無音の閧ェ活き活きとしてゐる事で、
そこに物質的なものではない、
精神的な豊かさが立ち顕れてくるのです。
 
 
その精神の豊かさは、
人の頭にではなく、
人の知性にではなく、
胸から腹、そして手足へと、
人の情、
人の意欲へと働きかけてきます。
 
 
そのやうな(ま)に触れるとき、
人によつて、随分と違ふ反応が表れます。
 
 
からだの調子が悪い時、
そのやうな閧ノ触れて、
人は眠りにいざなはれるやうです。
きつと、精神がその人を、
休息へと導いてくれるのでせう。
 
 
逆に、からだもこころも健やかな時、
そのやうな閧ヘ、
その人の意識をますます目覚めさせ、
ことばの響きと閧ノ呼び起こされる、
様々な感覚を享受させてくれます。
 
 
色合ひ、音、匂ひ、熱、風、光、こころ模様、
それら様々な情景を、
「もののあはれ」として、
「言霊の風雅(みやび)」として、
「わび、さび」として、
人は享受することができるのです。
 
 
「(ま)」に耳を澄ます。
 
 
それは、静けさに耳を澄ますことであり、
かつ、
豊かに、活き活きと、
精神的な動きを共にすることです。
 
 
また更に、次のことは、これからの時代、
ますます顕著になつてきます。
 
 
それは、
こころの奥に、
自分自身で隠し持つてゐるものがあるとき、
自分自身に嘘をついてゐるとき、
自分自身のこころの闇を見ようとしないとき、
人は、そのやうな閧ノ触れると、
不快感を感じたり、不機嫌になつたり、
耐へられない思ひに捉われたりするやうになります。
 
 
現代人に、「(ま)」を嫌ひ、
「(ま)」を避けようとする傾向が見られるのは、
この自分自身のこころの奥底に眠つてゐるものを
直視する事への恐れがあるのかもしれません。
 
 
「(ま)」とは、魔なのかもしれません。
 
 
しかし、それは、きつと、「真(ま)」なのです。
 
 
「真(ま)」に触れて人は、
だんだんとみづからの真実に目醒めつつ、
健やかに、
欣びを存分に享受しながら仕事をし、
人生を生きていくでせう。
 
 
芸術はそんな仕事を荷つてゐます。
言語造形もそのやうな芸術のひとつです。
 

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2019年11月18日

自分自身の声を好きになること


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今日も、
保育園の0〜2歳児、3歳児、4歳児、5歳児、
それぞれのクラスで昔話をさせてもらひました。
 
 
そして、
その保育園の先生方と
言語造形のワークショップをしたとき、
おひとりおひとりの先生に、
こんなことを訊きました。
 
 
皆さんは、
御自身の声が好きですか。
 
 
すると、すべての先生が、
嫌ひだとお答えになりました!
 
 
そこで、こんなお話をさせてもらひました。
 
 
先生といふ職業は、
その存在まるごとで、
子どもたちに向き合ふお仕事。
 
 
だけれども、まづもつて、
子どもたちに働きかけるのは、
先生の声とことばです。
 
 
その先生自身が、
御自身の声を好きになれないとしたら、
その好きになれない声で、
子どもたちに話しかけることになりますね。
 
 
声とことばが、
人にとつての道具だとするなら、
その人自身が愛してゐない道具で
決していい仕事はできません。
 
 
声とことばは道具だと言ひましたが、
道具にしては、あまりにも、
我が身と我がこころに密着している道具です。
 
 
だからこそ、まづもつて、
我が親しい道具である、
自分自身の声を好きになることから始めませう。
 
 
そんな話をさせてもらひました。
 
 
その後、保育園からの帰りの電車の中で、
こんなことを考へました。 
 
 
なぜ、自分自身の声が好きになれないのだらう。
 
 
たとへば、
録音された自分自身の声を聴く時の違和感。
 
 
自分は、こんな声で話してゐるのか!
 
 
そのショックは、
どこからやつて来るのだらう。
 
 
もちろん、
録音された音声は、
生の音声とは質が全く違ふ。
 
 
しかし、本質的なこととして、
そのショックは、
普段、自分自身の声に耳を傾けることが
ほとんどないことから来てゐる。
 
 
思ひ切つたことを言つてみよう。
 
 
そもそも、ことばとは、
意を伝へるものではない。
 
 
ことばで、
自分自身の言ひたいことが、
他人に伝はると、
本当に思ふか。
 
 
どこまで、ことばを尽くしても、
人と人との間には、
常に理解の差異が存在しないだらうか。
 
 
むしろ、ことばとは、
自分自身が聴くために、
発せられる。
 
 
自分が発する声とことばに、
どこまで、
自分自身が耳を澄ますことができるか。
 
 
その瞬間瞬間に、
わたしたちは、
ことばといふものの本当の価値を感じる。
 
 
自分の声を好きになるには、
自分自身の声を、
よおく聴くことだ。
 
 
自分自身の声とことばに、
よおく意を注いであげることだ。
 
 
そもそも、
どの人の声も、美しいのだ。
 
 
その美しさは、
人から、
自分自身から、
意を注がれて、
初めて顕わになる。
 
 


 
 



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2019年11月14日

今宵、大嘗祭(おほにへのまつり)

 
大嘗祭.jpg
平成の大嘗祭の御様子です
 
 
 
本年、令和元年五月一日、
新しく天皇陛下御即位され、
践祚の儀において、
三種の神器をお受けになり、
皇位を継承なされました。
 
 
十月二十二日、
即位礼正殿の儀において、
内外に御即位を宣言なされました。
 
 
そして今日、十一月十四日、
大嘗祭です。
 
 
天照大御神より、
「斎庭(ゆには)の穂(いなほ)」の
ことよさしを享けられて、
皇祖であられる大御神と霊的に、
おひとつになられる儀式です。
 
 
太古より行はれて来た大嘗祭です。
 
 
このやうな儀式を行ひ続けてゐる近代国家は、
唯一、日本だけです。
 
 
 
 

大嘗(おほにへ)の 
祭りに向かふ 今日一日(ひとひ)
雲間にひかる 天(あま)つ日まぶし
 
 
 

大君は われらの希ひ 背負はれむ
人と神との むすぶ夜かな
 
  



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2019年11月13日

こころのこよみ(第32週) 〜世の力の源は決して枯れない〜



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林武「花」

 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
 
その力は強められたわたしを世に委ねる。
 
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
 
明るみへと向かふべく、
 
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
  
 
Ich fühle fruchtend eigne Kraft
Sich stärkend mich der Welt verleihn;      
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend        
Zur Klarheit sich zu wenden             
Im Lebensschicksalsweben.              
 
 
 
 
この秋といふ季節に、
稔りゆく<わたし>の力は、
どこから得られるか。
 
 
わたしがわたしみづからを
支へ引き上げていくための力は、
どこから得られるか。
 
 
「稔りゆく己れの力」
「強められたわたし」
「わたしのわたしたるところ」
 
 
これらは、みな、
己れから己れを解き放ち、
己れの小なる力を諦め、
大なるものに己を委ね、任せられるとき、
感じられるものではないだらうか。
 
 
大いなるもの、それを「世」と言ふのなら、
世の力の源は決して枯れることがない。
 
 
その源から、
<わたし>は常に力をiいただいてゐる。
 
 
その繋がりを信頼して、
今日も仕事をしていかう。
 
 
今日といふ一日、明日、あさつて・・・
「生きることの仕合はせ(運命)が
 織りなされる中で」何が待つてゐるのだらう。
 
 
小さなわたしが
あれこれと采配していくのではなく、
大いなるものがわたしの生を
織りなしてくれてゐることへの
信頼を育みつつ、
勇気をもつて、今日も仕事をしていかう。
 
 
そのときこそ、
「わたしのわたしたるところ」
「強められたわたし」が、
きつと顕れてくる。
 
 
今日も、ていねいに、
牛のやうにひたすら押しながら、
「明るみへと向かふべく」仕事をしていかう。
 
 
 
 
わたしは稔りゆく己れの力を感じる。
その力は強められたわたしを世に委ねる。
わたしのわたしたるところを力強く感じる、
明るみへと向かふべく、
生きることの仕合はせが織りなされる中で。
 
 
 

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志の鎮もる所 義仲寺


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琵琶湖の南端にある義仲寺に、
日の暮れる前にお参りしました。
 
 
木曾源義仲公の、
松尾芭蕉翁の、
保田與重郎大人の、
御墓所であります。
 
 
我が志を確かめることができました。
 
 
 
 
学び舎の 子どもら帰る 夕暮れ道
そつと鎮もる 御霊(みたま)よきかな
 


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posted by koji at 20:13 | 大阪 ☁ | Comment(0) | うたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月12日

ことばを学ぶ会 in 能登川 11月


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自分なりの感じ方。
 
自分なりのやり方。
 
自分なりの話し方。
 
そこから、飛び立つのです。
 
さうして、
自分自身の腕の動き、
脚の動き、
息遣ひに従つて声を出してみるのです。
 
さうすると、
これまでに、
自分自身でも聴いたことのない声!
 
それは、
精神の法則に沿つた話し方をし始めてゐる証拠です。
 
芸術は、
どこか遠いところにあるのではなく、
自分自身の声とことばこそが、
芸術になりうるのです。
 

今日の皆さんからも、
とても晴れやかで、
ユーモアにあふれた、
豊かな表現が、
またしても生まれて来ました!
 
 
幼な子たちも、
とても喜んでゐました。
 
 
かういふ場を持たせてくださつて、
本当にありがたうございます!

 
 

posted by koji at 19:12 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする