2021年03月03日

なめとこ山の熊(その三)〜この世とあの世との調和〜






死んでゆく熊たちは、死んだ後も、生き続ける。

熊は、死んでも、その息遣ひと血の巡りの調和を、宇宙へと、大いなる世へと、もたらす。

熊の胸の領域におけるその調和は、この世とあの世との調和を促す。

その調和ゆゑに、人は、熊を山の神として崇めてゐた。

そもそも、山はこの世とあの世とを繋ぐところであり、熊は山であつた。

そして、神は、我々、人に、その身を捧げて下さつてゐる。



言語造形による語り「なめとこ山の熊」、賢治の本作品からの抜粋を全四回でお届けします。


2021年03月02日

なめとこ山の熊(その二)〜音の世を培ふ〜






密(ひめ)やかに学ぶ人は、動物の声が知らせてゐる快や痛みに、みづからの情を親しく繋ぎ、そのやうな声と響き交はす。

その人は、さらにそれを超えて、その声がみづからにとつてなんであるかに迫る。

その声が心地よからうとなからうと、気に入らうと入るまいと。

その声を発するものの内に生じてゐることこそが、みづからのこころのまるごとに満ちるやうにする。

はからひに沿ひ、先立つ考へをもつて、そのやうな練習をする人は、声を発するものと、合流するやうになる。

自然のまるごとが音によつて秘密をささやきはじめる。

かつてはみづからのこころにとつて訳のわからない音であつたものが、意味に満ちた自然の言語となる。

そのやうな情の培ひにおいて、やがては、それまで思ひも寄らなかつたものを聴くことができてゐることに気づくやうになる。

その人が、こころをもつて、聴きはじめる。


(ルードルフ・シュタイナー「いかにして人が高い世を知るにいたるか」より)



言語造形による語り「なめとこ山の熊」、賢治の本作品からの抜粋を全四回でお届けします。

こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜



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平櫛田中『養老』



光に、世の高みから、
 
こころに力満ちて流れくる。
 
現はれよ、こころの謎を解きながら、
 
世の考へるの確かさよ。
 
その光り輝く力を集め、
 
人の胸に愛を呼び覚ますべく。
 
 
 
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
 
 
 
考へる力といふものについて、人はよく誤解する。
 
 
考へるとは、あれこれ自分勝手にものごとの意味を探ることでもなく、浮かんでくる考へに次から次へとこころをさまよはせることでもなく、何かを求めて思ひわづらふことでもなく、ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
 
 
考へるとは、本来、みづからを措いてものごとに沿ふこと、思ひわずらふことをきつぱりと止めて、考へが開けるのをアクティブに待つこと、そして、ものごととひとつになりゆくことで、愛を生みだすこと。
 
 
今回もまた、鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから多くの示唆を得てゐる。
 
 
人が考へるとは、考へといふ光が降りてくるのを待つこと、人に考へが開けることだ。
 
 
考へが開けるきつかけは、人の話を聴く、本を読む、考へに考へ抜く、道を歩いてゐて、ふと・・・など、人によりけり、時と場によりけり、様々あるだらうが、どんな場合であつても、人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、考へは開ける。


たとへ、身体は忙しく、活発に、動き回つてゐても、頭のみは、静かさを湛えてゐるほどに、考へは開ける。
 
 
そして、頭での考への開けと共に、こころに光が当たる。考へが開けることによつて、こころにおいて、ものごとが明るむ。そして、こころそのものも明るむ。
 
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふときの、こころに差し込む光の明るさ、暖かさ。誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
 
 
明るめられたこころにおいて、降りてきたその考へは、その人にとつて、隈なく見通しがきくものだ。
 
 
また、見通しがきく考へは、他の人にとつても見通しがきき、その人の考へにもなりうる。
 
 
そもそも、考へは誰の考へであつても、考へは考へだから。
 
 
人に降りてくる考へは、その人の考へになる前に、そもそも世の考へである。
 
 
自然法則といふものも、自然に秘められてゐる世の考へだ。
 
 
人が考へることによつて、自然がその秘密「世の考へ」を打ち明ける。
 
 
その自然とは、ものといふものでもあり、人といふ人でもある。
 
 
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、我が子が、どういふ人になつていくのか、もしくは、自分自身がどういふ人なのか、それは、まづもつては、謎だ。
 
 
その謎を謎として、長い時間をかけて、その人と、もしくはみづからと、腰を据ゑてつきあいつつ、その都度その都度、こころに開けてくる考へを摑んでいくことによつてのみ、だんだんと、その人について、もしくは、わたしといふ人について、考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
 
 
それはだんだんと明るんでくる「世の高みからの考へ」でもある。
 
 
わたしなりの考へでやりくりしてしまうのではなく、からだとこころをもつて対象に沿ひ続けることによつて、「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
 
 
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。長い時間をかけて、ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
 
 
どちらにしても、そのやうに、考へと共にこころにやつてくる光とは、世からわたしたちへと流れるやうに贈られる贈り物といつてもいいかもしれない。
 
 
さらに言へば、それは、わたしの<わたし>が、わたしの<わたし>に、自由に、本当に考へたいことを、考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
 
 
―――――――
 
人のこころ!
あなたは安らう頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。
 
(『礎のことば』より)  
――――――――
 
 
その贈り物があるからこそ、わたしたちは、また、世の考へが贈られるのを待ちつつ考へることができるし、考への光が降りてくればこそ、わたしたちは、こころの明るさと共に、その考へを見通し、見はるかすことができ、その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
 
 
ある人の長所にあるとき、はつと気づいて、その人をあらためてつくづくと見つめ、その人のことを見直したり、好ましく思つたりもする。
 
 
長所にはつと気づく、それこそが、考への光が降りてきたといふことだらうし、その人について光をもつて考へられるからこそ、こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
 
 
人を愛する時とは、世の高みから、力に満ちて流れてくる「世の考へ」が、こころに開ける時。
 
 
考へが開けるとき、そこには、きつと、愛がある。
 
 
愛が生まれないときは、考へてゐるやうで、実は考へてゐない。自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、巡り巡る考へや思ひに翻弄されてゐるときだ。
 
 
考へることによつて愛が生まれることと、愛をもつて考へることとは、きつと、ひとつの流れとして、人の内側で循環してゐる。
 
 
  
 
光に、世の高みから、
こころに力満ちて流れくる。
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考へるの確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の胸に愛を呼び覚ますべく。
  

posted by koji at 14:19 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月28日

なめとこ山の熊(その一)〜信仰といふものの深みを引き出したい〜




宮沢賢治の「なめとこ山の熊」から部分を抜粋して、四回に分けて語らせてもらひました。

この作品には、多面的な意味や魅力が詰まつてゐます。

しかし、とりわけ、このたびは、信仰といふものの深みをこの作品から引き出して、それを提示したい。

その希ひから、作品のまるごとから四つの場面を抜粋し、また、その希ひに叶ふやうなタッチで語ることに挑戦してみました。

第一回目。

熊といふ山の生き物を殺すこと。

だからこそ、猟師の小十郎のこころが、祈りへと導かれて行く。

その悲しみ・・・。


「信仰といふものの深みを引き出したい」と書きましたが、言語造形といふ芸術は、いつも、作品といふ作品、ことばといふことばから、こころの、信仰の、祈りの、精神の、強さ、深さ、確かさ、美しさを、引き出すものだと感じてゐます。

このやうにして動画に収録することも、一回一回が、ひとつの舞台作品創りで、何度も何度もやつてはやり直し、やつてはやり直しといふ、その作業は、多くの苦しみを伴ふのですが、その苦しみがまた、とてつもなく楽しいのです。楽しんで、苦しんでゐる、といふか・・・。

なぜ、楽しいのか。それは、きつと、美とまことに向かつてゐるからだと思ふのです。

この作業は、間違ひなく、子どもの時の遊びの延長線上にあります。



※サムネイルの絵は、ken kaizuさんのブログの次のページから拝借いたしました。
http://blog.livedoor.jp/kaizuken1/archives/51376959.html

2021年02月26日

遊び、その自由と美と耳を澄ますこと



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雑誌「モエ」の3月号、ミヒャエル・エンデの「モモ」の特集号。


「特別ふろく『モモ』史上初のクリアファイル」なる宣伝文句の意味の不可思議さにはてなと思ひながらも、そこに収録されてゐるエンデの昔のインタヴュー記事にまた深く感銘を受けたのでした。


「芸術といふものは、最高の意味における『遊び』なのだといふこと、そしてその遊びの本質は、『美』といふ質的シンボルを目指してゐる」といふ彼の芸術観に、まこと、意を深くするのです。


しかし、その『遊び』に通暁することが、がちがちに頭と体を固めてしまつてゐるわたしたち現代人には、ことのほか、難しいのです。


『遊び』には、必ずルールといふものが必要なのですが、ただ肝心なことは、昨日には昨日のルールがあり、今日には今日のルールがあつて、それは、その都度、自由に書き換へられるといふことなのです。


しかし、毎日変はるからといつて、でたらめなのではない。ちゃんと、その日その日のものとことをしつかり見て取つてゐて、そこに素直に順応して行くからこそ、その『遊び』は、いつも活き活きと弾みつつ、その『遊び』ならではの本質は決して失はれないのです。


「芸術」とは、そのやうなファンタジーといふシンパシーに基づいた大人の『遊び』なのです。


その『遊び』を遊びとして担保するものの要のものは、自由であり、「美」に向かふといふことであり、さらにまうひとつ挙げるとするなら、それは、互ひに互ひを聴き合ふ、耳を澄ますといふことではないでせうか。


長野県の信濃町黒姫童話館といふエンデの資料館にもなつてゐるところで、エンデが亡くなつて四年後の1999年の夏のある日、子安美知子さんのご紹介、師鈴木一博さんの演出のもとに、一柳慧作曲のオペラファンタジー『モモ』に出演させてもらつたことを想ひ起こしました。わたしは、床屋のフージーさんと吟遊詩人のジジ、二役でした。


そのオペラのパンフレットに鈴木さんが書かれた素晴らしい『モモのあらすじ』があります。その一部をご紹介したいと思ひます。


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


モモがそこにゐると、仲たがひをしてゐる大人たちにも、いつかは仲なほりの道が見えてきたし、こころから遊ぶことに飢えてゐる子どもたちにも、ひとりでに遊びがわいてきたし、歌を忘れたカナリヤまでが、歌を思ひ出して鳴くやうになつた。


といつても、モモには、特別なことができたんじやない。モモは、ただ、そこにゐるだけ。いや、ゐるだけでもなかつた。おそらく、モモの友だちには、かういふことも、分かつてきてはゐないだらうか。


モモがゐるやうに、自分もゐあはせてゐると、かすかに響くいろいろな音が、いつの日か、はつきりと聞こえるやうになつてゐる。雨の時にも、風の時にも、蝉や、こおろぎの鳴き声にも、草木のたたずまひにも、大地の静けさ、青空の深み、星空のきらめき、そして人といふ人にも。


いろいろなものが、かすかに、いつだつて、響きをかなでてゐる。


でも、その響きは、耳に聞こえるやうでゐて、本当はこころに響く音だつた。


人が、時間や、音楽や、言葉と呼んでゐるものも、もともとは、その響きのことだつた。


モモに起こつたことは、これからも、いろいろなところで起こるだらう、それぞれどの人にも起こるだらう。


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さう、モモに起こつたこと、それは、人と人との間に織りなされる『遊び』、そして、そこに秘められてゐる豊かさ、美しさ、尊さだつたのです。

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posted by koji at 21:30 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

5/1〜5/3 アントロポゾフィーハウス「オイリュトミーと言語造形 春の連続講座」


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ことばの家、すぐ近くの万代池


令和三年のゴールデンウィーク、大阪にて、オイリュトミーと言語造形、そしてアントロポゾフィーを共に学ぶ連続講座のお知らせです。
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声に出されることばは、目には見えません。こころも見えません。感情も、考へも、精神も、目には見えません。
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しかし、言語造形とオイリュトミーは、そこにかたちと動きを見ようとする芸術です。
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それらは、すべて、精神の「かたちと動き」を持ちます。
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この春から夏にかけて、大阪においておそらく初めての営みですが、オイリュトミーと言語造形といふミューズから授かるふたつの芸術を通して、その目には見えない「かたちと動き」を、感覚し、動き、共に生きて行く時間を持ちます。
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「アントロポゾフィーハウス」第一回目の営みです。
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どうぞよろしくお願ひいたします。
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言語造形: 諏訪耕志
https://www.facebook.com/koji.suwa
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
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オイリュトミー 越中奉
https://www.facebook.com/tasuku.etchu
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●日時:
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5月1日(土)2日(日)3日(月・祝)
9時半から16時半まで
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●場所:
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アントロポゾフィー言語造形「ことばの家」
https://kotobanoie.net/access/
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●スケジュール:
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9:30   言語造形(諏訪)
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11:00  アントロポゾフィー講義(諏訪)
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12:30  昼食
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14:00  オイリュトミー(越中)
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15:30  一日の振り返り(越中、諏訪)
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16:30  終わり
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●参加費:
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三日間連続 3万円
一日単独参加 12000円
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●お振り込み  
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// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  
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// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    
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●お申込み・お問ひ合はせ:
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アントロポゾフィー言語造形「ことばの家」
https://kotobanoie.net/access/
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●言語造形の時間(諏訪耕志):
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ことばひとつひとつの音韻の「かたちと動き」を、深く闊達な息づかひの中で追ひ求めませう。
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日本古来の和歌、俳句、詩といふことばの芸術を、からだまるごと、こころまるごとで奏で始めるのです。
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その営みは、ことばと〈わたし〉の深い互いの関はりを体感させてくれます。
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その時、生きてここにあることのよろこび、かなしみ、あらゆる高くて澄んだ感情が、天から流れて来るのです。
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●アントロポゾフィーの時間(諏訪耕志):
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『〈わたし〉を育むためのアントロポゾフィー 
 〜ことばとの関はりにおいて〜』
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いま、わたしたちは、こころの内をみづから育ててゆくことのたいせつさ、必要性を感じてはゐないでせうか。
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内なるものを仕立ててゆく。それは、こころのまんなかに眠つてゐる、わたしのわたしたるところ、〈わたし〉を目覚めさせ、育んでゆくことに他なりません。
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〈わたし〉を育んでゆく。それがアントロポゾフィーの、まこと、シンプルな目標、目当てです。
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『テオゾフィー』『いかにして人が高い世を知るにいたるか』『ヨハネ福音書講義』(いずれも鈴木一博氏訳)におけるシュタイナーのことばから、こころを精神に結はひつける密やかな細道、メディテーションの道を歩み始めるためのよすがを今回の連続講座においてしつかりと掴みませう。
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●オイリュトミーの時間(越中奉):
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わたしたちは、この時間まことに『「ことばとの新たなであい<いいえ、むしろ蘇るであい>」』をみなでつくりだしたいと思います。わたしたちはまるまる全てのからだでアクティブに動きつつ出会いましょう。
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それは必ず誰もがなせることとなります。しかし大切な課題がひそんでいます。
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静かなたわわなこころで明らけく聞きつつの<わたし>に喜びが持てるように、
 和歌、俳句、詩、シュタイナー『こころのこよみ』より一文とともに。
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また母音、子音、三節の歩みなど基礎練習の課題も許す限りに「ききつつ」で繰りなしましょう。
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テーマは、「相、形になろうとするうごき」また「動きになろうとする相、形」を基として、ききつつ体験します。
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「始めと終いがあり」繊細で美しい日本語のひびきを見つけたいと思います。

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2021年02月24日

マスクを剥がさう 2021😉


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―――――――

意識といふことばに怯(ひる)みはすまい。

意識は芸術を殺さずに、深める。

意識が芸術を<わたし>へと引き上げ、わたしたちのマスクのごときパーソナリティの絆から解き放つに於いてである。 (マリー・シュタイナー)

―――――――


人は、たいていマスクを被つて生活してゐます。


自分は、かういふタイプ、かういふ性格、かういふ人間・・・そんな自分自身のイメージを当然のやうに身にまとひつつ、生きてはゐないでせうか。


「マスクのごときパーソナリティの絆」に縛られて生きてゐないでせうか。


言語造形の舞台や、教室で、意識して、手足を動かしながら、言葉を話し始めるやいなや、その人のマスクがはがれ始めます。


その人のその人たるところ、その人の幼な子が、顔を顕はし始めます。


さう、天照大御神が、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)の舞ひによつて天岩戸からお出ましになられたやうに、です。


頭部の精神が、手足の芸術的な動きによつて、目覚めるのです。


それは、手足といふ人体の部分が、最も精神に通はれてゐるところだからです。


その手足を意識的に、芸術的に、動かすことで、人は、精神に、神に、通はれ、人の内の精神〈わたし〉がお出ましになるからなのです。


さうしますと、人は、そもそもの自分自身〈わたし〉に立ち返つてまいります。


麗(うるは)しいことではないですか。

posted by koji at 14:00 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

野上 峰さんの朗読会


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三重の名張にて、ラジオやテレビでのパーソナリティーのお仕事をされてゐらつしやる、野上 峰さんによる朗読会。大阪の難波でされるとのことで、伺はせてもらひました。


ご主人様の音楽と共に、絵本や昔話、そして詩の朗読。


美しいことば遣ひと軽妙な中にも暖かさと真率さに満ち溢れる、本当に素敵な時間でした。


昨年、京都で行ひましたわたしの公演の中で、石村利勝さん作の「やさしい世界の終はり方」といふ詩に感銘を受けられ、その後、ずつと、その詩のことばと情景がこころの中を「ループ」してゐるのですと仰られ、今日、その作品を朗読されたのです。


聴いてゐて、涙が流れました。やはり、かけがへのない作品です。


若い人も聴きに来てゐました。ことばが芸術であるといふことを体感できる、このやうな会が、またこれから盛んに行はれて行きますやうに・・・。


posted by koji at 10:38 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月22日

こころのこよみ(第47週)〜行はれたし、精神の慮りを〜


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世のふところから立ち上がつてくるだらう、
 
感官への輝きを甦らせる繰りなす喜びが。
 
それは見いだす。わたしの考へる力が、
 
神々しい力を通して備へられ、
 
力強く、わたしの内に、生きることを。
 
 
 
Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.
 
 
 
 
以前にも引用させてもらつたが、鈴木一博さんが以前、日本アントロポゾフィー協会会報に掲載された『礎(いしずえ)のことば』から、ここ二、三週間の『こころのこよみ』への大きな示唆をもらつてゐる。
 
 
精神、こころ、からだ。
 
 
人は、この三つの次元の違ふありやうからなりたつてゐる。
 
 
自分自身を顧みても、やはり、どちらかといふと、精神が上の方に、からだが下の方にあり、こころがその間に挟まつてゐることを感じる。
 
 
そして、この『こころのこよみ』は、その名の通り、真ん中の「こころ」が、活き活きと生きることを願つて書き記されてゐる。
 
 
この時期、陽の光がだんだんと明るく、暖かく、長く、わたしたちを照らし出すとともに、地から、少しづつ少しづつ、草木の力が繰りなしてきてゐるのを見てとることができる。そして、「啓蟄」といはれるやうに、虫たちをはじめとする動く生き物たちも地の下から、水の中から這ひ出してきてゐる。
 
 
わたしたち人は、どうだらう。
 
 
人においても、近づいてきてゐる春の陽気にそそられて、からだもこころも動き出さうとしてゐないだらうか。
 
 
世の、春に近づいていく繰りなしが、まづは、下のからだへの蠢(うごめ)き、繰りなしを誘ひ出し、感官へのそのやうな働きかけが、真ん中のこころを動かさうとしてゐないだらうか。
 
 
その動きこそが、喜びにもなりえる。
 
 
以下、鈴木さんの文章からの引き写しだが、その精神の想ひ起こし、精神の慮り、精神の見はるかしに、まさにリアリティーを感じる。
 
 
________________
 
 
 
こころといふものは、常にシンパシーとアンチパシーの間で揺れ動いてゐる。
 
 
しかし、人は、そのシンパシー、アンチパシーのままにこころを動かされるだけでなく、その間に立つて、そのふたつの間合ひをはかり、そのふたつを引き合はせつつ、バランスを保ちつつ、静かなこころでゐることもできる。
 
 
むしろ、さうあつてこそ、こころといふものをわたしたちは感じとることができる。
 
 
そのこころの揺れ動き、そしてバランスは、からだにおける心臓と肺の張りと緩みのリズムとも織りなしあつてゐる。
 
 
こころのシンパシー、アンチパシーとともに、心拍は高まりもするし、低まりもする。
 
 
また、呼吸といふものも、そのこころのふたつの動きに左右される。吐く息、吸ふ息のリズムが整つたり、乱れたりする。
 
 
そして、心拍の脈打ちと脈打ちの間、吐く息、吸ふ息の間に、静かな間(ま)をわたしたちは感じとることができる。
 
 
その静かな間(ま)を感じとつてこそ、わたしたちは、リズムといふもの、時といふものをリアルにとらへることができる。
 
 
そして更に、こころにおいて、シンパシーとアンチパシーとの間で生きつつ、からだにおいて、心と肺のリズムの間で生きつつ、わたしたちは、世といふものとの間においても、リズミカルに、ハーモニックに、調和して生きていく道を探つていくことができる。
 
 
荒れた冬の海を前にしてゐるときと、茫洋として、のたりのたりと静かに波打つてゐる春の海を前にしてゐるとき。
 
 
峨々たる山を前にしてゐるときと、穏やかな草原を前にしてゐるとき。
 
 
いまにも雨が降り出しさうな、どんよりとした曇り空の下にゐるときと、晴れ晴れとした雲ひとつない青空を仰ぐとき。
 
 
しかめ面をしてゐる人の前にゐるときと、につこりしてゐる人の前にゐるとき。
 
 
そして、春夏秋冬といふ四季の巡りにおいて、それぞれの季節におけるからだとこころのありやうの移りゆき。
 
 
世といふものと、わたしたちとの間においても、ハーモニーを奏でることができるには、そのふたつが、ひとりひとりの人によつて、はからわれ、釣り合はされ、ひとつに響き合つてこそ。
 
 
世とわたし。そのふたつの間を思ひつつ、はかりつつ、響き合はせる。その精神の慮(おもんぱか)りを積極的にすることによつて、人は、世に、和やかに受け入れられる。
 
 
人と世は、ひとつに合はさる。
 
 
そして、人は、歌ふ。春夏秋冬、それぞれの歌を歌ふ。
 
 
慮る(besinnen)は、歌ふ(singen)と語源を同じくするさうだ。
 
 
こころにおける精神の慮り、それは歌心だ、と鈴木さんは述べてゐる。
 

 人のこころ!
 あなたは心と肺のときめきに生き
 心と肺に導かれつつ、時のリズムを経て
 あなたそのものを感じるに至る。
 行はれたし、精神の慮りを
 こころの釣り合ひにおいて。
 そこにては波打つ世の
 成りつ為しつが
 あなたの<わたし>を
 世の<わたし>と
 ひとつに合はせる。
 もつて、あなたは真に生きるやうになる
 人のこころの働きとして。
         (『礎のことば』より)
 
 
春の訪れとともに世のふところから、下のからだを通して、感官への輝きを通して、こころに、繰りなす喜び。
 
 
そして、上の精神からの考へる力。その考へる力は、冬のクリスマスの時期を意識的に生きたことによつて、神々しい力によつて備へられてゐる。その考へる力によつて、こころにもたらされる力強い<わたし>。
 
 
世とからだを通しての下からの繰りなしによつて、こころに生まれる喜びといふ情を、上の精神からやつてくる考へる力が支へてくれてゐる。
 
 
この下からと上からのハーモニックな働きかけによつて、真ん中のこころに、喜びが生まれ、育つていく。
 
 

 
 
世のふところから立ち上がつてくるだらう、
感官への輝きを甦らせる繰りなす喜びが。
それは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
力強く、わたしの内に、生きることを。
 
 
 


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春よ 来い はあやく 来い


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大阪の住吉、万代池にも春が近づいて来ました。


しかし、今年、「春よ 来い はあやく 来い」といふ歌を、四季の巡りだけでなく、「こころの巡り」としても、切実に歌つてゐます。


「こころ」とは、「人のこころ」です。


わたしたちは、ますます、その「人のこころ」を、「人のこころ」の次元で見てはゐられなくなつてゐるやうに思はれてなりません。


「人のこころ」を、精神・靈(ひ)の次元で、観たいと思ひます。


さうすることは、こころを健やかに、力強く、確かに、柔らかく育てて行くことに助けになるのです。


精神・靈こそが、こころの糧だからです。


その精神・靈のリアリティーを覚えて行く、そんなこころの春の始まりです。




♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


「知ることの細道」の章から


どの葉も、どの虫も、わたしたちに数えきれない秘密をあらわにするようになるのは、それらに、わたしたちの目だけでなく、その目をとおして精神が向けられているときである。


どのきらめきも、どの色のニュアンスも、どの音の調子も、目と耳にとっていきいきと覚えられるままでありつづけ、なにも失われはしない。ただ、それらに加えて、限りのない新たな生きるが得られるようになる。


ルドルフ・シュタイナー『人と世を知るということ テオゾフィー』(鈴木一博訳)


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾




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2021年02月21日

こころをことばで照らすこと






「聴くこと」と「語ること」。


このふたつの国語力を培つていく。


その力の培ひは、20世紀初頭、ヨーロッパ中部に生まれたアントロポゾフィーといふ精神の学びのまんなかのことでもあるのです。


その学びの中核には、「人とことば」の深い関はりを見据ゑる、精神からの見識があります。


その見識は、我が国・日本がはやくも古代から育み続けて来た「もののあはれを知る」といふ、こころの機能の開発でもあり、文学といふものの歴史的存在意義でもあり、人間教育の粋でもある、精神文化と、全くもつて重なるものです。


ことばとは、そもそも、その民族の精神・靈(ひ)を体現してゐるものであり、そのことばによつて、こころを照らすことが、その人その人のの成長になくてはならないものなのです。


わたしは、「ことばの家」において、アントロポゾフィーの学びの真髄と言つてもいい、その「ことばと人」との関はりを日本語において語り伝へて行くことを、天職としてゐます。


そして、「アントロポゾフィーハウス」といふ新しいかたちを持つて、多くの方々と共に仕事をして行くことを考へてゐます。

2021年02月19日

声の贈りものD 動画「すやすや おやすみ」





絵本の読み聞かせへのアドバイスシリーズ。今回で締めくくり、第三回目です。


今回のテーマは、ことばのひとつひとつを、音韻のひとつひとつを、丁寧に、大切に、発音する、といふことです。


動画で、ご説明、ならびに一部ですが、読み聞かせの実際をご覧いただけます。


どうぞ、ご覧ください。(ちなみに、この動画は、出版社「福音館書店」からの著作権法に関する許諾の条件を踏まえてゐます。)



【楽しんで読み聞かせをするポイント】

@まづは、息を吐きながら一文一文ゆつくりと
Aことばの身振りや、物語の絵姿を感じながら
B一音一音をていねいに

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2021年02月18日

滋賀・草津でのアントロポゾフィーの学び



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毎月一度、琵琶湖のそばの草津にて、アントロポゾフィーの学びを、絵本の読み聞かせの練習と共に、繰り返し積み重ねてゐます。


仕事や人生の中で、様々なことがありますね。


そんな中、わたしたちは、一体、どこから、生き抜いて行く力をもらつてゐるのでせう。その力の源はどこにあるのでせう。


「考へる」ことからです。


たいせつなことを建設的に考へることからです。


さうして考へられた〈考へ〉には、情や意欲を動かす力があることがぢかに感じられます。


それは、父なる働きです。メディテーションです。


一方、母なる働きとは、「欲する」こと、意欲の働きです。何かを求めて、動くことです。世の内に飛び込んで行くことです。芸術実践です。そもそも、すべての仕事が、芸術実践でありえます。


考へるは父であり、欲するは母であり、その間に生まれる子は、感じる情です。


たいせつなことを建設的に考へること(メディテーション)と、まつすぐに̪恣意なく何かを繰り返し繰り返し求めつつ受け取ること(芸術実践・仕事)が、重ね合はされて、まこと、力強くも、美しい、健やかな情が生まれます。


毎日の健やかな生活は、実は、そのふたつの働きの重なりで成り立つてゐます。


父(爺さま)は、山へ登り、神が降り給ふ樹を伐り、その樹を山の辺の里へと持ち来たります。それが、考へるといふこころの働きです。


母は、その山の辺にて、父が持ち来たる神の宿りし樹を待ち望むべく、身を清めてゐます。それが、欲するといふこころの働きです。


そんな父と母との間に、小さ子・幼な子が生まれます。それが、感じるといふこころの働きです。


だからこそ、爺さまは山で柴を刈り、婆さまは山の辺の川で身を清めるべく洗ひ物をし、神代から人を救ふと言はれてゐる桃から、桃太郎が生まれるのでせう。


昔話は、毎日、こころの中に生き続けてゐます。


そんな学びを毎月続けてゐます。


お世話をして下さつてゐる、聡子さん、英理子さん、武史さん、そして、皆さん、いつも、ありがたうございます。

posted by koji at 23:41 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大阪公演「山月記」より





「この気持は誰にも分からない。誰にも分からない。」
 
夢や大志を抱く青年が、ひとりの男となる。
 
その長いプロセスには、己れのなかに潜む魔と対峙せずにはおれません。
 
狂気とは、理性を忘れた人が陥るのではありません。
 
理性しか信じられなくなってしまった人に襲いかかってくるものです。
 
男は、一歩間違えば、きっと、化け物になります。
 
これは、詩人になれず、虎になってしまった男の物語りです。

平成30年(2018年)11月30日 大阪で行ひました言語造形公演「山月記」から一部をご覧ください。



言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。

わたしたち「ことばの家 諏訪」は、大阪の住吉にて、その言語造形を学ぶ場を設けています。

「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/​​

「言語造形 ことばの家諏訪」チャンネル登録、
どうぞよろしくお願ひします!
https://www.youtube.com/user/suwachim​​...

2021年02月16日

文字を手書きで書く時のこころもち




毎日、日記といふか、読書ノートといふか、そのやうなものをノートに手書きで書き続けてゐます。


もう三十年以上だと思ひます。


書くときに意識してゐることがあつて、それは、何もまだ書き記されてゐない頁に文字を書き記さうとする時、部屋の空間のありやうを感じ取ることです。


その場の広さ、高さ、気温の寒暖、湿度、その空気のありやう、さういふものを感じながら、右手にペンをとつて、文字を書き連ねて行くのです。


ペン先と紙のページとが擦り合はされ、心地よい滑らかさでペンは紙の上を運ばれて行きます。


そして、その運びが、上から下へと、縦の方向になされる書法は、きつと、アジア地域、とりわけ、東アジアに特有のものではないでせうか。


上から下へと書き下ろして行き、また、上へと戻つて、下へと向かふ。


その運動は、まるで、天と地の間の往復のやうです。


ことばを話す、言語造形の練習の時に、天と地の間を行き来するかのごとく、息遣ひの練習を歩きながらするのですが、かうして毎日ノートに縦書きで文字を書く時にも、天と地を行き来する運動を引き継いでゐるやうに感じながら、書いてゐます。


部屋の中において、その部屋の空間の様々なものを感覚しながら、深い息遣ひと共に、文字を上から下へ書き下ろして行く。


これは、直立して存在してゐる人の精神の理法として矛盾のない、息遣ひの運動、命の脈動と機を一にするものなので、きつと、言語造形と同じく、文字の縦書きは人を健やかにするのではないかなと思つてゐます。


書を嗜む人などは、このことを深くリアルに感じてゐるのではないでせうか・・・。





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2021年02月14日

アントロポゾフィー運動における二本の基の柱






「メディテーションと芸術実践」といふことがらにつきまして、オンラインクラスで述べさせてもらつたことをご紹介させていただきます。


このことは、先日、投稿させてもらひました「アントロポゾフィーハウス設立」のことと関はることでして、運動のまんなかの指針といふやうなことです。


「ハウス」と言ひましても、物理的な家も何も持たない、理念上、精神上の「ハウス」であります。


また、「運動」と言ひましても、そこに加はることが、何らかの思想の走狗や手先になることでもありません。


アントロポゾフィーの運動・動きは、すべて、ひとりひとりのこころの内から沸き上がり、生まれて来るものですので、誰かが誰かを動かすといふやうなことは生じ得ないものです。


ただ、「アントロポゾフィーから生まれることを仕事として共同作業して行くための意識体」であらうとするものです。


その意識体の二本柱が、「メディテーションと芸術実践」といふ営みであります。


そのことをルードルフ・シュタイナーが33歳の時に出版した『自由を考へる(自由の哲学)』の観点から述べさせてもらつたものです。


このことは、おほよそ25年ほど前に師の鈴木一博さんから教へてもらつたことでして、随分とこころに深く刻み込まれたことがらでした。


26分と長い動画ですが、ご覧いただけましたら、ありがたく思ひます。

こころのこよみ(第46週)〜行はれたし、精神の想ひ起こしを〜


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世、それはいまにもぼやかさうとする、
 
こころのひとり生みの力を。
 
だからこそ、想ひ起こせ、
 
精神の深みから輝きつつ。
 
そして観ることを強めよ、
 
意欲の力を通して、
 
己れを保つことができるやうに。
 
  
 
Die Welt, sie drohet zu betäuben 
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf 
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte 
Sich selbst erhalten kann.
 
 
 
 
「ひとり生み」とは、何か。
 
 
シュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講に、そのことばが出てくる。
 
 
かつて福音書が書かれた頃、「ふたり生み」とは、父と母の血の混じりあいから生まれた者のこと、「ひとり生み」とは、そのやうな血の混じりあいから生まれた者でなく、神の光を受け入れることによつて、精神とひとつになつた者、精神として生まれた者、神の子、神々しい子のことだつた。
 
 
今から二千年以上前には、人びとの多くは、「わたし」といふ、人のための下地をすでに備へながらも、後に聖書に記されるところの「光」をまだ受け入れることができなかつた。
 
 
「群れとしてのわたし」のところには、「光」は降りてきてゐたが、ひとりひとりの人は、その「光」をまだ受け入れてゐなかつた。
 
 
「ひとりのわたし」といふ意識はまだなく、おらが国、おらが村、おれんち、そのやうな「ふたり生みの子」としての意識が、ひとりひとりの人のこころを満たしてゐた。
 
 
しかし、少数ではあるが、「光」を受け入れた者たちは、その「光」を通してみづからを神の子、「ひとり生みの子」となした。
 
 
物の人がふたり生み、精神の人がひとり生みだ。
 
 
そして、キリスト・イエスこそは、その「光そのもの」、もしくは「光」のおおもとである「ことばそのもの」として、「父のひとり生みの息子」として、肉のつくりをもつてこの世の歴史の上に現れた。
 
 

ことば(ロゴス)、肉となれり(ヨハネ書一章十四節)
 
 
彼こそは、ひとりひとりの人に、こよなく高く、ひとりの人であることの意識、「わたしはある」をもたらすことを使命とする者だつた。
 
 
わたしたちが、その「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、キリスト・イエスの誕生と死を想ひ起こすといふこと。
 
 
そして、わたしたちひとりひとりの内なる、「わたしはある」を想ひ起こすこと。
 
 
それは、日々のメディテーションによつて生まれる、精神との結びつきを想ひ起こすことであり、目で見、耳で聞いたことを想ひ起こすことに尽きず、精神の覚え「わたしはある」を想ひ起こすことだ。
 
 
その想ひ起こしがそのやうにだんだんと深まつていくことによつて、人は、「わたしはある」といふこと、「みづからが神と結ばれてある」といふこと、みづからの「わたし」が、神の「わたし」の内にあるといふこと、そのことを確かさと安らかさをもつて、ありありと知る道が開けてくる。
 
 
「想ひ起こす」といふ精神の行為は、意欲をもつて考へつつ、いにしへを追つていくといふことだ。
 
 
普段の想ひ起こすことにおいても、頭でするのみでは、その想ひは精彩のないものになりがちだが、胸をもつて想ひ起こされるとき、メロディアスに波打つかのやうに、想ひがこころに甦つてくる。
 
 
さらに手足をもつて場に立ちつつ、振る舞ふことで、より活き活きと、みずみずしく、深みをもつて、想ひが甦つてくる。
 
 
故郷に足を運んだ時だとか、手足を通して自分のものにしたもの、技量となつたものを、いまいちどやつてみる時だとか、そのやうに手足でもつて憶えてゐることを、手足を通して想ひ起こすかのやうにする時、想ひが深みをもつて甦る。
 
 
そして、そのやうな手足をもつての想ひ起こしは、その人をその人のみなもとへと誘ふ。
 
 
その人が、その人であることを、想ひ起こす。
 
 
その人のその人らしさを、その人はみづから想ひ起こす。
 
 
例へば、この足で立ち、歩くことを憶えたのは、生まれてから一年目辺りの頃だつた。その憶えは、生涯、足で立つこと、歩くことを通して、頭でではなく、両脚をもつて想ひ起こされてゐる。


その人が、その人の足で立ち、歩くことを通して、その人の意識は目覚め、その人らしさが保たれてゐる。
 
 
だから、年をとつて、足が利かなくなることによつて、その人のその人らしさ、こころの張り、意識の目覚めまでもが、だんだんと失はれていくことになりがちだ。
 
 
手足を通しての想ひ起こし、それは、意欲の力をもつてすることであり、人を活き活きと甦らせる行為でもある。
 
 
そして、それはメディテーションにも言へる。
 
 
行はれたし、精神の想ひ起こしを
もつて、あなたは真に生きるやうになる、
まこと人として、世のうちに
(シュタイナー『礎のことば』1923年12月25日)
 
 
メディテーションによる想ひ起こしは、手足による想ひ起こしに等しいもの。
 
 
メディテーションとは、意欲をもつての厳かで真摯な行為。
 
 
毎日の行為である。
 
 
「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、わたしの「わたし」が、神の「わたし」の内に、ありありとあること、「わたしのわたしたるところ」、「わたし」のみなもと、それを想ひ起こすことだ。
 
 
世に生きてゐると、その「ひとり生みの力」をぼやかさうとする機会にいくらでも遭ふ。
 
 
世は、ふたり生みであることから生まれる、惑ひといふ惑ひをもたらさうとする。
 
 
「だからこそ、勤しみをもつて、想ひ起こせ」。
 
 
「惑ひといふ惑ひを払つて、想ひ起こせ」。
 
 
想ひ起こされたものをしつかりとこころの目で観ること、もしくは想ひ起こすといふ精神の行為そのものをも、しつかりと観ること、
それがつまり、「観ることを強める」といふことだ。
 
 
その意欲の力があつてこそ、人は、「己れを保つことができる」、おのれのみなもとにあることを想ひ起こすことができる。
 
 
 


世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。

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2021年02月13日

アントロポゾフィーハウス設立のお知らせ 〜メディテーションと芸術実践〜



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東山魁夷「道」



わたしは、自分自身の仕事であり、運動体であるものを、「ことばの家」と銘打つて、これまでアントロポゾフィーと言語造形といふ芸術活動に勤しんできました。


もちろん、これからも、わたしの仕事として「ことばの家」を勤しんで行きます。


しかし、今年、令和3年、2021年からは、自分ひとりだけで仕事をして行くのではなく、自分自身の仕事が他の方々の各々の仕事と結びつくやうな形を模索・実現して行きたいと希つてゐます。


仕事において、他者と協力し合ひながら、自分一人ではできなかつた仕事をひとつひとつ、創り出して行きたいと希つてゐます。


その際に、わたしにとつて大切になるのは、アントロポゾフィーといふ精神(靈・ひ)です。


このアントロポゾフィーを共有して行くことが、他者との共同・協働における大切な点です。


アントロポゾフィーとは何か。何か特別なものなのか。さうとも言へます。しかし、さうとも言へません。そのことには、様々な観点から答へることができるでせう。


ルードルフ・シュタイナー自身は、あるところで、端的に、それは「人であることの意識」だと言つてゐます。


「人であることの意識」。これは、現代を生きるすべての人にとつて、人として生きる上での何かとても大切なものではないでせうか。


「人であることの意識」、それは現代においては、「人がその人であること」「人が、ますます、その人になりゆくこと」「人が、人との関係性の中で、自由と愛を生きること」と言つてもいいのではないでせうか。


「自由と愛」などといふことばは、すぐに宙に浮いてしまふ、大変やつかいなことばでもあるのですが、きつと、どの人も、こころの奥底で、そのことばの実現を乞ひ求めてゐるはずです。


生きた日本語でこのアントロポゾフィーを語ること、それが、わたしがわたし自身に課してゐる大きな、途方もなく大きな仕事です。


アントロポゾフィーとは、「道」です。その「人であることの意識」を学び、それを己れのからだとこころで確かめて行く実践です。人であること、自由であること、愛することができるといふこと、そのことへの「道」と言つてもいいでせう。


その「道」とは、まぎれもなく、読書(講義の受講)と芸術実践です。


わたしは、アントロポゾフィーの基本文献を基にした講義をすることで、おひとりおひとりをみづからする読書へといざなひます。講義において、共に考へること。その考への世の内で、こころを暖めること、励ますこと、ひとりひとり目覚めゆくこと、へと共に歩いて行くのです。読書が、著者の助けを借りながらひとりでするメディテーションであるならば、講義とは、共なるメディテーションと言つてもいいでせう。


わたしは、さらに、言語造形といふことばの芸術を通して、ことばの力の内側に参入して行きます。


その営みを多くの人が必要としてゐることを確信してゐますので、必要とする人とその芸術を分かち合つて行きます。それもまた、極めて具体的な仕事です。


ことばを話すといふ、まぎれもなく、その人まるごとを使ふ芸術的な仕事です。


その仕事のためには、舞台づくりといふものが、何よりもうつてつけです。ですので、共に、舞台を創つて行き、舞台に立つことのできる人を養成していくことが必要です。


己れの外へと飛び出し、世の内に飛び込んで行き、そこでの世との関係性の中で、〈わたし〉を見いだして行くのです。それが芸術実践です。


メディテーション、それは、考へる〈わたし〉の内に、世を見いだすことです・・・。


芸術実践、それは、世の内に、〈わたし〉を見いだすことです・・・。


あなたみづからを見いだしたければ、世を見よ。
世を見いだしたければ、あなたみづからを見よ。


アントロポゾフィーの講義、そして言語造形、それは、どちらも、日本語をもつて「人であることの意識」を耕し、育て、稔らせるやうな仕事です。この仕事には、十年、三十年、百年、何百年とかかるはずです。


これは、わたしがして行く仕事ですが、さらに、他の芸術に勤しんでゐる方々とのコラボレーション、共同でアントロポゾフィーに根付いた仕事をして行くことを今年から始めます。






ひとつめの「読書」もしくは「講義の受講」とは、つまるところ、メディテーションをするといふことです。「本を読む」といふ行為、「講義を聴く」といふ行為は、読む人、聴く人をこころの旅に赴かせるのです。メディテーション・瞑想とは、からだはひとところに据ゑながら、精神(靈・ひ)に向かつてこころの旅をすることです。


それは、考へることから始まり、感じることへ、そして欲することへと、道は続いて行きます。本を読み、講義を聴くことで、著者や講師の考へを受け取り、そして、自分自身の内側に想ひと考へを生み出します。


その考へを囚はれなく受け取る、といふことが、精神の道のはじまりです。決して、盲目の信仰が強要されるのではなく、自分自身の意志で自由にその本に書いてある考へ、講師の語る考へを受け入れるのです。


囚はれなく受け取られた考へが、何度も繰り返し考へられて、曇りなく、まぎれなく考へられて、やがて、腑に落ちます。心根において、よく理解できるやうになつて来ます。そしてその考へを自分自身のこころの内に暖めます。その熱が情の昂ぶりとなりもします。そして、意欲の発露にもなります。その人の内側から、動きが生まれて来ます。


その動きがふたつめの「芸術実践」でもあります。


「芸術実践」とは、その人がその人を見いだして行くために、その人がその都度その都度新しいその人に出会ふために、いまの時代においては、なくてはならない作業なのです。





メディテーションと芸術実践。このふたつの柱をもつて、共にアントロポゾフィーを学びつつ生きて行く。そのための物理的な場を固定しない精神の共同の仕事場としての「アントロポゾフィーハウス」を設立いたします。


人は、何かとアイデンティファイすることによつて、そのアイデンティファイしたものから力をもらへることがあります。


誰かにとつて、「アントロポゾフィーハウス」が、その何かになることができれば、これほどありがたいことはありません。





令和3年(2021年)2月13日 諏訪耕志


posted by koji at 13:45 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天からの贈りもの 〜動画「天福地福」〜






昨日は、旧暦における一月一日でしたね。


わたしも、目覚ましいやうな初夢を見させてもらひました。


そして、年の初めのお年玉(新しい年のたましひ)も、そもそもは、地上のものではなく、天からの、神様からのプレゼントでした。


人に授けられる贈りもの。


それは、そもそも、天からやつて来るといふことを、洋の東西を問はず昔の人は信じてゐたやうです。


そして、こころの善い爺さまと慾深い爺さまとの対比は、わたしたち人の根本のありかたを徹底的にえぐり出すかのやうに、何度も昔話に出て来ます。


人のこころのこの両極の現はれを子どもたちにシンプルに伝へて行くこと。


それは、思つてゐる以上に大切なことはないでせうか。


善を好み、悪を嫌ふ、その人としての基本的な気持ち、感情、良心を養つて来たのは、このやうな昔話なのです。


このお話「天福地福」を聴くことで、わたしたち現代人も、もう一度、天からの贈りものを待ち望むやうな気持ちを想ひ起こすことができたら、そして、善と悪への基のこころもちを今一度、養ふことができたら、素敵ですね。




2021年02月12日

3/26(金)第一回発表会のお知らせ 京田辺三山木・言語造形クラス「おとない会」


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昔話を語るよろこび。空間がことばのお宮になる驚き。


言語造形を通して、その喜びと驚きを多くの方がと分かち合ひたい!


さういふ想ひで、月に一回の稽古を繰り返して来たメンバーの皆さんによる「おとない会」第一回目の発表会です。


以下、稽古場であり、発表会会場の家主である、前田 三四郎さんによる発表会に向けてのことばをご紹介します。


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1年前、京田辺で始まった言語造形の講座「おとない会」。
今回、一つの区切りとして発表会を開くこととなりました。

「上手く話せるようになりたい」
との思いで始められた参加者も
言葉を整え、心を整えていくうちに
いつの間にか「遊び心」が育っていました。

今回の発表会ではそれを感じてもらえたら嬉しいです。

日常の一瞬でいい。
日々の暮らしの中で「遊び心」を
取り戻しましょう。

幸魂塾(さちみたまじゅく) 前田三四郎


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【発表者と作品】

菊川真美  「星の銀貨」
前田三四郎 「にわか入道」
前田恭仁子 「大歳の焚き火」
諏訪耕志  「外郎売」
青木りえ  「絵姿女房」
成毛恭子  「ぽっとこせ」



時間: 3月26日(金)14時〜15時半
   (1時間ほどの発表のあと、歓談の時間あり)

場所:「幸魂塾」
    京都府京田辺市三山木西羅26
    https://goo.gl/maps/f5e7BHwLxJPEnLXU9

料金: 一家族500円 おひとりでも500円 
   (収益は、京田辺シュタイナー学校への寄付に充てさせていただきます)

連絡先: 090-9257‐6521(前田まで)
     hodokite@gmail.com (前田まで)
     suwa@kotobanoie.net (諏訪まで)

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『アントロポゾフィー運動における二本の基の柱』(2021年1月23日 オンライン収録)





アントロポゾフィーといふ精神の学びの基ともいへる「自由を考へる(自由の哲学)」における、「人が自由になるべく、こころに打ち樹てて行く二本の柱」とも言へることを語らせてもらつてゐます。


「ことばの家」は、ルードルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーと言語造形を学ぶ場として大阪の住吉区帝塚山に居を構へてゐます。

そして、2020年5月から、オンラインクラスも始めてゐます。

シュタイナーの講義録『普遍人間学』をそのオンラインクラスで扱つてゐます。

その講義録では、子どもの教育はどうありうるかを考へ、自分自身のあり方と発意から教育といふ仕事を実践して行きたい人に語りかけられてゐます。

それゆゑに、自己教育の大切さを感じてゐるすべての大人に向けてこそ、「人とは何か」といふ大切な智慧を語りかけてゐます。

このオンラインクラス、2クラスあります。金曜日の夜クラスと土曜日の朝クラスです。どちらも、月に二回のペースで、進んでゐます。

いつからでもご参加、可能です。ご参加希望の方は、金曜か土曜、どちらかのクラスにご参加いただきます。

アントロポゾフィー(人といふものの意識)に根差した『普遍人間学』。共に、学んで行きませんか。

講師:諏訪耕志



●月二回 『普遍人間学』金曜夜クラス 7時半〜9時半


●月二回 『普遍人間学』土曜朝クラス 10時〜12時


●参加費    初回体験参加 3500円、 3回連続 9000円  

連続して受講していただくことが最善だと考へますので、初回体験参加を除いては、3回連続で受講していただくやう、お願ひいたします。   
またその場合でも、御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。   なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    


●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

.お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を用いてゐます。可能ならば、講座の前にでも、あとにでも、ご自身で読んでいただくことで、学びの主体性も高まりますので、ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌 しかし、本がなくても、講義をまづは聴くことから始められても、全く大丈夫ですよ。本をお求めの際は、「ことばの家 諏訪」にご連絡ください。  


ありがたうございます。   


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


2021年02月10日

声の贈りものC 動画「おおきなかぶ」




絵本の読み聞かせへのアドバイスシリーズ。動画では、前回に引き続き、第二回目です。

今回は、ますます、ことばを話す際の本質的なところへ踏み込んでいきますね。

それは、ことばを話す際に、身振りがある、といふことです。

今回は、トルストイ再話、佐藤忠良画の「おおきなかぶ」です。

動画で、ご説明、ならびに一部ですが、読み聞かせの実際をご覧いただけます。

よろしければ、どうぞ、ご覧くださいね。(ちなみに、この動画は、出版社「福音館書店」からの著作権法に関する許諾の条件を踏まえてゐます。)

この「おおきなかぶ」といふお話における、ことばの使ひ方は、明らかに、黙読されるためのものではなく、ロシアの民が長い年月の中で、「語り継いできた」息遣ひ、リズム、強弱、集中と解放が脈打つてゐます。

そのことば遣ひには、人の生きた身振りが籠められ、日本語に翻訳したものにも十分に感じ取られるものです。

読み聞かせ、語り聴かせの内側に、お話に応じた内的な身振りを注ぎ込んでみて下さい。

この作品が、一層、活き活きとしてきますよ。


【楽しんで読み聞かせをするポイント】

@まづは、息を吐きながら一文一文ゆつくりと
Aことばの身振りや、物語の絵姿を感じながら
B一音一音をていねいに


※この動画は、出版社「福音館書店」からの著作権法に関する許諾の条件を踏まえてゐます。



言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想ひ起こさせようとしたのです。

わたしたち「ことばの家 諏訪」は、大阪の住吉にて、その言語造形を学ぶ場を設けてゐます。

「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/​​

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2021年02月09日

エジプト時代の甦りとしての言語造形  


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わたしたちは、いま、西暦2021年に生きてゐます。


現代社会の中で現代的な暮らし方で生きてゐます。


ことばも、最新の文明に囲まれた暮らしの中でひたすら機能的に使はれ、大量の物と同じやうに、人と人との間に大量に流通してゐます。


さて、遥か昔においては、当然、暮らし方が違ふので、ことばに対する感覚、姿勢も随分と違つてゐました。


日本では、室町時代以前では、ことばを話すときには、ひたすらに、精確に、間違ひのないやうに話すこと、正しく話すことが重視されてゐました。ことばとそれを話す人の思ひ・考へとが、ひとつに重なつてゐることが、とても重要なことなのでした。ことば数は少なくても、ひとことひとことに論理性がありましたし、さらには、その人の思ひが籠もつてゐました。


ただ、だからこそ、と言つてもいいのかもしれませんが、西暦の紀元前500〜600年辺りから室町時代辺り(14〜15世紀)までに、ことばは、人が内側で思ひ、考へてゐることと重なつて来たが故に、ゆつくりとことばに生命が失はれて来ました。


「正しく話す」といふ価値観のもとに、言霊に満ち溢れてゐたことばの精神が、考へとひとつに重なるにつれて、ことばだけの独り立ちした美しさ、力強さ、賢さが失はれ、考への僕(しもべ)へと、いはば、その地位が転落してきたのです。つまり、だんだんと、考へを表すための道具になつて来ざるを得なかつたのです。


そして、戦国時代から江戸時代、明治、大正、昭和、平成と経て来て、いま。


考へ同様、ことばも、その「正しさ」さへ担保されなくなり、一体、人の何を信じればいいのか、日本だけでなく世界中の人が、大きな岐路に立つてゐる。さう、わたしは実感してゐます。


いまといふ、このとき、わたしたちは、本当に、立ち止まつて、人とことばの関係を深く捉へ直し、見つめ直し、教育を新しく始めなければならない、と念ひます。


さて、わたしが携わつてゐることばの芸術「言語造形」。


それは実は、西暦紀元前500〜600年よりも、さらに古い時代、アフリカのエジプトに文明が榮へてゐた頃、日本では、おそらくですが、大和朝廷がその初代天皇、神武天皇によつて一文明国となり始めてゐた日本のはじまりの頃、ことばを「美しく話す」ことに重点が置かれ、信仰が持たれてゐた頃の名残・反映だと思つてゐます。


ことばを美しく話す。


それは、今から三千年、四千年以上昔、遥か古代の実際的な営みでもあつた、言語の精神、言霊への信仰の中心的テーマでありました。それは、礼拝、祭といふ営みと不可分のものでありました。言辞・文学といふものも、それは、詩人に降りて来た神を祭る営みでした。


ことばは、考へから独立して、ことばそのものとして、空を風に乗つて響き渡る、生きた作用力でした。ひとつひとつの音韻のかたち、動き、響きの高低、長短、強弱などが、明瞭にものを言ひ、音楽のやうに美しく話すことが目指されてゐたのでした。


その当時のことばの使はれ方が、いまも、礼拝のときや、祝詞やお経が誦される時に、感じられます。


言語造形といふ20世紀の中部ヨーロッパから生まれた芸術は、きつと、そのころの営みの再現・甦りです。


しかも、全く新しく、意識された人の営みとして、意識された、神への供御として、なされて行く、新しい芸術です。


それは、おほよそ四千年前の宗教的営みの生まれ変はりとして、いま、芸術として、この世に息づかうとしてゐる「をとめ」のやうな存在です。


なんだか、大風呂敷を広げたやうなお話になつてしまひましたが、述べさせていただいたことを、〈考へ〉としてよりも、むしろ「感覚」で掴んでをられる方が増えて来てゐるやうに思ふのです。


ことばを聴くこと、そして、話すこと。


そのことを練習し、稽古することによつて、「感覚」「みること」と、「これは何だらうか」と「考へること」を重ねて行くことができます。


さうして、わたしたちは、新しい息吹を言語に吹き込んで行きつつ、「美しく話すこと」「正しく話すこと」を踏まえた上で、意識的に新しい時代のテーマを探ることをこころざしてゐます。






posted by koji at 14:19 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3/1〜3/4  言語造形とアントロポゾフィー


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春の「言語造形とアントロポゾフィー 連続講座」のお知らせです。 


わたしたちは、フィジカルなからだ(肉体)だけを使つて、ことばを話してゐるのではありません。


エーテルのからだ、アストラルのからだ、そして、〈わたし〉といふ、目には見えないところをこそ使つて、言語生活を営んでゐます。


そのことを感じながら、意識しながら、ことばを話す練習をしませう。ことばととひとつになりゆく体験を積み重ねませう。


書かれてゐる文字に、息を吹き込みませう。命を吹き込みませう。そして、ことばを空間一杯に響かせるのです。


それは、ことばを甦らせ、わたしたち自身のいのちとこころを甦らせます。



午後は、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーを平易に、かつ深く学んで行きます。


四日間の連続講座だからこそ、日常を突き抜けて、こころの奥深く、からだの奥深くに、芸術が働きかけます。


身体まるごとを使ひ、こころまるごとを注ぎ込み、そんな言語造形といふことばの芸術に、わたしと共に取り組みませんか。


それは、フィジカルなからだ、エーテルのからだ、アストラルのからだ、そして〈わたし〉といふ、四重の生を感じつつ生きる始まりです。


アントロポゾフィーにおける芸術実践とメディテーションへのご案内。


共に四日間を過ごしませう。



講師: 諏訪耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji


日時:
令和三年3月1日(月)より4日(木)までの四日間
実践の部 午前10時より12時まで
理論の部 午後13時半より15時半まで


場所:
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/


参加費:
四日間連続 32000円
単発参加 一日 10000円


お振り込み:
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904


お問ひ合はせ・お申し込み
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

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2021年02月08日

境の守 〜動画「大工と鬼六」〜





境(さかい)の守(もり)とは、生と死の境、フィジカルな世と精神の世の境に現れる存在です。


人がその境(川)を超えようとするとき、その渡らうとする人のまさしき相(すがた)をその人の前に呈し、その人に「境を超えるな」と戒めを発する存在です。


鬼六は、大工その人の、内なる相(すがた)そのものなのです。






言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。

わたしたち「ことばの家 諏訪」は、大阪の住吉にて、その言語造形を学ぶ場を設けています。

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2021年02月07日

こころのこよみ(第45週)〜こころの満ち足り、晴れやかさ〜


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東山魁夷 「碧湖」


考への力が強まる、
 
精神の生まれとの結びつきの中で。
 
それは感官へのおぼろげなそそりを
 
まつたき明らかさへと晴れ渡らせる。

こころの満ち足りが、

世のくりなしとひとつになれば、
 
きつと感官への啓けは、
 
考へる光を受けとめる。
 
 
 

Es festigt sich Gedankenmacht
Im Bunde mit der Geistgeburt,
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
Zur vollen Klarheit auf.
Wenn Seelenfülle
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
Muß Sinnesoffenbarung       
Des Denkens Licht empfangen.
 
 
 
 
ここで言はれてゐる「考へる力」とは、余計なことを考へない力のことである。
 
 
そして、この時、この場で、何が一番大事なことかを考へる力のことだ。 
 
 
その力を持つためには、練習が要る。その練習のことを、シュタイナーはメディテーションと言つた。             
 

普段に感じる共感(シンパシー)にも反感(アンチパシー)にも左右されずに、浮かんでくる闇雲な考へを退けて、明らかで、鋭く、定かなつくりをもつた考へに焦点を絞る。ひたすらに、そのやうな考へを、安らかに精力的に考へる練習だ。
 
 
強い意欲をもつて考へることで、他の考へが混じり込んだり、シンパシーやアンチパシーに巻き込まれて、行くべき考への筋道から逸れて行つてしまわないやうにするのだ。
 
 
その繰り返すメディテーションによつて、「考への力」が強く鍛へられ、その力がそのまま、「光」の働きであることを感覚するやうになる。
 
 
この時期に、メディテーションによつて強められる考への力が、こころに及んでくるひとつひとつのそそりを明るく照らす。


一つ一つの感覚、情、意欲、考へが、考への明るく晴れ渡らせる光によつて、明らかになる。
 
 
それが明らかになるほどに、こころも晴れ晴れとした満ち足りを感じる。こころのなかで感覚と精神が結ばれるからだ。
 
 
そして、そのこころの満ち足りは、自分だけの満ち足りに尽きずに、人との関はり、世との関はりにおいてこそ、本当の満ち足りになるはずだ。
 
 
こころの満ち足りは、やがて、ことばとなつて羽ばたき、人と人とのあひだに生きはじめ、精神となつて、人と世のあひだに生きはじめる。
 
 
こころの満ち足りが、世の繰りなしとひとつになつてゆく。
 
 
ひとりで考へる力は、考へる光となつて、人と人のあひだを、人と世のあひだを、明るく晴れ渡すのだ。
 
 
 

考への力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まつたき明らかさへと晴れ渡らせる。
こころの満ち足りが
世の繰りなしとひとつになれば、
きつと感官への啓けは、
考へる光を受けとめる。
 
 
 


posted by koji at 09:12 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

比べる、から、敬ふへ



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誰かに憧れたり、何かにときめいたり、こころが突き動かされたりして、その誰かや何かに近づかうと気持ちが盛り上がることが、特に若いときにはよくありますよね。


その憧れの対象は、マスメディアに出てくるタレントさん、スポーツ選手、有名人から、職種といふ職種における有能な人、魅力的な人、魅力的な生活スタイル、考へ方、生き方、そして人を超えた存在、神のやうなあり方、精神界、霊界、天国、神に至るまで、物質的なものから精神的なものまで、人各々、それぞれです。


しかし、その誰かがやつてゐることや、素敵な何かに向かつて、自分自身も努力し始めることができればいいのですが・・・。


その誰かや何かが素晴らしければ素晴らしいほど、いつしか、自分自身とその憧れの対象とを比べ、その間の遠い距離ばかりにこころを向けはじめるきらひがないでせうか。


そして、自分自身とその憧れの対象とを比べて、自分自身を卑下しだす。


「自分には無理だ」と。


わたしがアントロポゾフィーを学んでゐて、最も強く励まされるのが、『いかにして人が高い世を知るにゐたるか』の「条件」の章にある、次のことばです。


 こころのしかるべき基調が、
 きつと、はじまりとなる。
 密(ひめ)やかに究める人は、
 その基調を敬ひの細道と呼ぶ。
 わたしたちはわたしたちよりも
 高いものがあるといふ、
 深みからの情を内に育まないのであれば、
 高いものに向けて
 みづからを育み高める力を
 内に見いだすこともないであらう。



憧れのもの、状態、それは、別な言ひ方をするならば、人にとつての「高いもの」と言つてもいいかもしれません。


「わたしたちよりも高いものがある」。


その「高いもの」と己れを比べるのではなく、「高いもの」を敬ふ。


そのこころの向きは、自然には生まれない。意識的に練習しなければ、「敬ふ」といふこころの力は身につかない。


「高いもの」に対する敬ひから始まり、生きとし生けるものに対する敬ひ、ありとあらゆるすべてに対する敬ひへと、その練習は続けられる。


しかし、人は、放つておいたら、その対象と自分自身との距離をもてあまし、自分自身を卑下しだす。


そして、敬ひとは反対の方向、対象をけなし、裁く方向へおのづと傾いていく。


「高いもの」と己れを比べるといふこと、そしてみづからを卑下するといふこと、それはその相手を「さげすむ」ことと裏表であり、それは実はその人のエゴなのです。


そして、一方、「高いもの」を敬ふといふこと、それはその人のこころの高い力です。


比べる、から、敬ふ、へ意識的に方向を変へる。


敬ふからこそ、その対象と共にゐられるのです。人間関係など、まつたく、そのことが当てはまります。


敬ふことによつて、初めて、その対象から力が自分に流れ込んできます。


そして、敬ふからこそ、その対象に向かつて、いや、もうすでに、その対象と内的にひとつになつて、こつこつと根気をもつてその人その人の憧れの道を歩いていけるのでせう。


誰がなんと言はうと、歩き続けられるのでせう。


シュタイナーが、その本の最初の章に、「条件」としてそのことを述べたのは、それだけ現代人にとつて、比べることから敬ふことへのこころの移行が必要なことだからです。



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2021年02月06日

精神の学びの場、精神の運動



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今日も、アントロポゾフィークラス・オンライン「普遍人間学」を行ふことができました。


前半、「学ぶ」といふことの本質的な意味を捉へることから必然的に、「アントロポゾフィーにおける基」、さらには、「アントロポゾフィー運動」「アントロポゾフィー協会」について、お話しをすることになりました。


「運動」といふと、そこに加はることは、なんらかの手先になるやうなイメージがありはしないでせうか。


「協会」といふと、そこに加はることは、なんらかの足枷を課せられるやうなイメージがありはしないでせうか。


しかし、アントロポゾフィーといふ「精神の学び Geisteswissenshaft」を地上的に進めていく、深めて行く、また運営していくことにおいては、決して、何かの手先になつたり、足枷を課せられるやうなことはありません。


なぜならば、この学びは、どこまでも現代といふ時代に根差したものであつて、それは、どこまでも、ひとりひとりの〈わたし〉を育てゆくもの、立てゆくものだからです。人が自由になりゆくための学びだからです。その人が、ますます、その人になつてゆく道だからです。


〈わたし〉が、何を、どう、考へ、感じ、欲してゐるのか。そして、〈わたし〉は、何を、どう、行為するのか。


あるものごとを、あるあり方で考へるのは、他の誰でもなく、この〈わたし〉がさう考へるからであります。


あることばを、ある言ひ方で話し、語るのは、他の誰が言つたからでもなく、この〈わたし〉がさう語りたいからさう語るのです。


あることをするのに、さうこころを決めるのは、他の誰が決めたからでなく、この〈わたし〉が、さうするとこころを決めたから、さうするのです。


シュタイナーが、ああ言つたから、かう言つたから、ではなく、神がかう仰つてゐるから、ああ仰つてゐるから、ではなく、〈わたし〉といふこの精神が語ることにわたし自身が耳を澄ますことから、こころを決めていくことの練習をすることこそが、このアントロポゾフィーの基であります。


ルードルフ・シュタイナーが、この世で仕事をしてゐた時から、おほよそ百年が過ぎました。


わたしは、以前にも「ゲリラ的アントロポゾフィー活動」といふやうな書き方で書かせてもらつたのですが、これからは、だんだんと、「シュタイナー」や「アントロポゾフィー」といふ固有名詞が消えてゆくだらうと考へてゐます。「協会」といふものも、物質的なものから、だんだんとより精神的なものへとなりかはりゆくでせう。


しかし、シュタイナーといふ人に学べば学ぶほど、アントロポゾフィーを深めれば深めるほど、学ぶその人その人の内から発せられる精神(靈・ひ)の働きが、各々の仕事場、家庭、現場で、密(ひめ)やかに発揮されて行く、ひとりひとりの「仕事」に流れ込んでゆく、さう感じざるを得ません。


だからこそ、看板や表式や資格などが要(かなめ)などではなく(これまでもそのやうなものは決して要ではありませんでした!)、その人の学びの深さがこれからはますます問はれて行くのでせう。その人のこころの深さと豊かさと広さがますます、ものを言ふやうになつて行くのでせう。


だからこそ、逆説的ですが、ますます、その人がその人になりゆくための本当の学びの場(精神の協会)、精神の運動が心底求められるでせう。


わたしたちの社会は、切に、さういふものを求めてゐます。



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2021年02月05日

自己教育における三つの道筋A 〜情への問ひ〜


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カスパー・ダーヴィッド・フリードリッヒ「窓辺の女」


日々の暮らしにおける感情の起伏。


わたしたちは、その情の営みあるからこそ、人としての喜びと悲しみ、その他様々なものに彩られながら毎日を生きてゐます。


しかし、時に強すぎる情の力に巻き込まれてしまひ、自分の中心軸を見失つてしまふこともあります。


情、それは、シンパシー(共感)とアンチパシー(反感)の間を常に揺れ動いてゐます。


その情が、シンパシーに偏り過ぎても、アンチパシーに偏り過ぎても、そのどちらかの情に巻き込まれてゐて、みづからを見失ひ、わたしたちは不自由なはずです。


わたしたちが求めてゐる自由とは、まづもつて、みづからの情のまんなかに立つことと言つてもいいでせう。


どうすれば、そのまんなかに立つことができるのか。


それは、情が起こるたびに、さういふみづからを正当化するのでもなく、罪悪感にさいなまれるが故に、その情を抑え込むのでもありません。


その情が起こつて来た意味を、みづからに問ふのです。


この怒りは、この嬉しさは、この悲しみは、この熱さは、わたしに一体、何を教へてくれようとしてゐるのか、と。


答へはすぐにやつては来ないかもしれません。しかし、そのやうに問ふことによつて、わたしは強すぎるシンパシーからもアンチパシーからも距離をとることができます。


みづからにそのやうに問ふことが、そのまま、こころのまんなかに立つことです。


そして、そのやうに問ふことを重ねてゆくほどに、こころのまんなかに、〈わたし〉が育つて来ます。


「快と痛みは教へ上手である」


ルードルフ・シュタイナーは、『テオゾフィー』にさう書き記してゐます。


情が教へてくれようとしてゐるものは、こころの奥深くに眠つてゐるものへの気づきの促しです。


気づくべき時が来てゐるからこそ、何らかの情が、その時に立ち上がつて来てゐるのです。


ひとつひとつの情に対して、「あなたは何を教へようとしてゐるのですか」と問ひを立てることが、〈わたし〉をこころのまんなかに育て、だからこそ、ものごとをより細やかに深く豊かに感じるやうになり、さらには、インスピレーションの出どころである精神に少しずつ目覚めさせていく道の歩みを促します。





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2021年02月03日

声の贈りもの B 動画「よあけ」




絵本の読み聞かせ。


それは、ゆつたりとした息遣ひとことば遣ひを想ひ起こすことのできる、子どもたちとのかけがへのない時間をもたらしてくれます。


今回は、ユリ―・シュルヴィッツ絵・作の「よあけ」です。


言語造形からのアドバイスシリーズ第一回目として動画に撮つてみました!(コメント欄に動画を貼つてゐます。よろしければ、どうぞ、ご覧くださいね。ちなみに、この動画は、出版社「福音館書店」からの著作権法に関する許諾を得てゐます。)


この静かさに満ちた「よあけ」といふ絵本、一頁一頁ごとに、短い詩のやうなことばが記されてゐます。


深い息遣ひと共に、その間における静かさを味はひながら、ぜひ、ご自身でも、この絵本を手に取られて、お子様とご一緒に試してみて下さいね。


【楽しんで読み聞かせをするポイント】

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2021年02月01日

古事記より「スサノヲノミコトのヤマタノヲロチ退治」(現代語訳)






シュタイナー学校などでは、小学三年生から四年生にかけて、「家造り」といふ授業があります。


天から降りて来て約9年経つた子どもたちが、その家造りを通して、この地上におけるこころと精神の居場所、囲ひを造るのです。


それは、9歳の危機と言はれてゐる時期に、子どもたちが自分のこころと精神をしつかりとからだに収めることを促してくれるのです。それは、地上を生きて行くためにはとても大切なことなのです。


我が国の神話において、スサノヲノミコトといふ神も、天から降りて来られ、ある困難を乗り越えて使命を果たし(ヤマタノヲロチ退治)、そして妻を迎へ、家造り(宮造り)をなされることで、とてつもない暴れん坊だつた神が、こころすがすがしい、愛の神となられ、地上の国を守る神になられゆきます。


なしとげられるべきその人ならではの使命といふもの、造り上げられるその人その人の家といふもの、家庭といふもの、それらの意味深さを、この神話を通して、子どもたちと分かち合ひたく念つて語らせてもらひました。





言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。



わたしたち「ことばの家 諏訪」は、大阪の住吉にて、その言語造形を学ぶ場を設けています。

「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
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2021年01月30日

こころのこよみ(第44週) 〜ひとりの人〜



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東山魁夷「冬華」



新しい感官へのそそりに捉へられ、
 
こころに明らかさが満ちる。
 
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
 
世の繰りなしが、絡み合ひながら芽生える、
 
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
 
 
Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit,
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
 
 
 
空気の冷たさはいつさう厳しくなつてきてゐるが、陽の光の明るさが増してきてゐることが感じられる。
 
 
わたしたちの感官に、まづ、訴へてくるのは、その陽の光だ。
 
 
冬から春への兆しを、わたしたちは何よりもまず、陽の光のありやうに感じ取つてゐる。
 
 
しかし、現代を生きてゐるわたしたちは、その外なる陽の光が明るさを増してきてゐる、そのことを感じはしても、それ以上の何かを感じることはほとんどないのではないだらうか。
 
 
昔の人は、その陽の光に、あるものを感じ取つてゐた。
 
 
それは、ひとりひとりを、神の力と結ぶことによつて、まさしく精神としての『人』とする力だ。
 
 
太陽を見上げたときに、次のやうな情を強く感じた。
 
 
「この天の存在から、
 光とともにわたしたちの内に、
 わたしたちを暖め、
 わたしたちを照らしながら、
 わたしたちに染み渡り、
 わたしたちひとりひとりを
 『人』とするものが流れ込んでくる」
 
 
(『人の生きることにおける、引き続くことと繰りなすこと 1918年10月5日ドルナッハ』より)
 
 
しかし、だんだんと、そのやうな情と感覚は失はれてきた。
 
 
陽の光を通して感じてゐた神からの叡智がだんだんと失はれてきた。
 
 
そして人は、自分の周りの事柄に対しては知識を増やしていつたが、ますます、自分は何者か、自分はどこからやつてき、どこへ行くのかが、分からなくなつてきた。
 
 
人といふものが、そして自分自身といふものが、ひとつの謎になつてきたのだ。
 
 
そのとき、ゴルゴタのこと、イエス・キリストの十字架における死と、墓からの甦りが起こつた。
 
 
もはや、物質としての太陽の光からは、わたしたちを『人』とする力を感じ、意識することはできない。
 
 
しかし、キリストがこの世にやつてき、さらにゴルゴタのことが起こることによつて、もはや外の道ではやつてくることができない力、人の最も内なる深みから、精神から、自分を『ひとりの人』とする力が立ち上がつてくる可能性が開けた。
 
 
イエス・キリストはみづからをかう言つた。「わたしは、世の光である」。
 
 
ふたたび、ひとりひとりの人に、みづからを『ひとりの人』として捉へうる力がもたらされた。
 
 
その力は物質の太陽の光からでなく、精神の光から、もたらされてゐる。
 
 
わたしたちは、1月から2月へかけて、明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、精神的な観点においても、内なる陽の光からのそそりを捉へてみよう。
 
 
さうすることから、きつと、わたしたちは、みづからの出自を改めて明らかさとともに想ひ起こすことができる。
 
 
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。「わたしは、そもそも、精神の人である」と。「<わたし>は、ある」と。
 
 
キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。
 
 
わたしたちは、そのことを、「いま、想ひ起こす」「念ふ」ことができる。
 
 
「新しい感官へのそそりに捉へられ、
 こころに明らかさが満ちる。
 満を持して精神が生まれたことを念ふ」
 
 
そして、明るさを増してきてゐる陽の光によつて、外の世において、命が、植物や動物たちの中で繰りなしてくる。絡みあひながら、芽生えながら。
 
 
さらに、わたしたち人は、秋から冬の間に、まぎれなく考へる力を内において繰りなしてきた。
 
 
考へる力には、意欲の力が注ぎ込まれてこそ、まぎれなく考へる力となる。
 
 
考へる力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、人はまぎれなく考へる力において、自由になりうる。
 
 
外の世に、どんなことが起こらうと、どんな出来事が繰りなされやうと、こころに、意欲的に考へる働きを繰りなして行くことで、わたしたちは、みづから自由への道を開いていくことができる。
 
 
日々、自分に向かつてやつてくるものごとのひとつひとつを、自分に対してのメッセージとして受けとり、考へていき、そして振舞つていくことによつて、開けてくる道がある。
 
 
その道は、『ひとりの人』としてのわたしを、自由へと、導いていくだらう。
 
 
  
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
 

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2021年01月28日

自己教育における三つの道筋@ 〜考へを甦らせる〜


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カスパー・ダーヴィッド・フリードリッヒ「漂ふ雲」


精神・靈(ひ)としてのわたしのことを、ここでは、〈わたし〉と書きます。


わたしのわたしたるところであり、まことのわたしと言つてもいいものです。


この〈わたし〉を育てること。それが、21歳以降の、特に35歳以降の人の自己教育の眼目です。


それは、こころのまんなかに育ちます。


さうして、こころの三つの働きをだんだんと統御して行く力になります。こころの三つの力、それは、考へると感じると欲するです。いはば、思考、感情、意志、と呼ばれるものです。


人は何かを学ばうとする時、本を読むか、人の話を聴かうとすることが多いと思ひます。


さうして、他者の考へを受け取り、受け入れ、咀嚼しようとします。


その際の、考へを受け取り、受け入れ、噛み砕き、己れのものにする、といふプロセスに、こころの熱を注ぎ込むことによつて、〈わたし〉をこころのまんなかに育てて行く仕事に着手することができます。


本を読み、他者の話を聴く時、敬意と熱意、情と意欲をもつて、他者の考へを、こころの内に暖め続け、考へ続けるのです。


ここで、とても大切なのは、「自分自身の意見などは脇においておき、こころに、敬ひと篤さの情を持ちつつ、伝へられようとしてゐる内容に沿つて考へる」といふことなのです。


その予断に曇らされてゐない健やかな情と意欲といふ下地がこころにあつて初めて、考へ、特に高い考へがこころに根をはりだします。


さうしてゐると、自分のこころが熱く脈打つやうな、ときめくやうな、あるいは、懐かしいやうな情が沸き上がつて来ることがあるはずです。


本に記されてある考へ、そしてまだ己れのものになつてゐない他人の考へ、それは、いはば、「死んだ考へ」です。人にまづもつて与へられるのは、すべて、「死んだ考へ」なのです。人が、やりくり、やりとりしてゐる考へは、死んだものなのです。情報としての考へは死んだものだからこそ、人から人へと自由に、気ままに、やりとりされます。


その「死んだ考へ」が、先ほど書いたやうに、敬ひと篤さをもつて真摯に考へられ続けるならば、その考へは、いのちを吹き返します。甦ります。


「死んでゐた考へ」が、人のこころによつて、いのちを吹き込まれるのです。


他の誰から押し付けられたものでもなく、こころのまんなかのこの〈わたし〉が考へたことによつて、考へがいのちをもつて甦り、脈打ち始め、その人の内で輝き出し、熱を放ち出し、力を持ち始めます。


その人が、その人自身の内側で、その考へを自由に活き活きと育てることで、その考へはその人の暮らしを支へ、人生を導くやうな、理想といふものへとなり変はりゆきます。


「考へ」を大切に育てる。


そのやうに、考へるを鍛えるのです。


やがて、その仕事をし続けることによつて、しつかりと揺るぎなく二本の足で立ち、頭を雲の上高く掲げ、明るくお日様の光に照らされて、〈わたし〉がこころのまんなかに育ちゆき、小さなわたしを支へ、こころ貧しいわたしを導きます。


死んだ考へを活き活きと甦らせること。


それが、人の〈わたし〉を育てる、ひとつめのことです。




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2021年01月27日

勉強といふ美しい気風


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昨日、和歌山のお墓参りに行つたので、一年半ぶりに南海線の和歌山市駅に降り立ちました。


すると、去年の六月に出来たといふ和歌山市民図書館が駅に隣接してゐました。


わたしの管見では見たことのない立派な図書館で、一階にはカフェや書店、文房具店、和歌山の郷土品店などがあり、4階建てのそれぞれの階の天井高い書棚には、膨大な書籍が美しく収められてゐます。


また、なにより、印象的だつたのは、多くの若い人が一生懸命、本を読みつつ、「勉強」してゐる姿でした。


もちろん、色々な人がゐるのでせうが、さういふ多くの若い人の姿が目に映りました。


日本人の特質のひとつに、「勉強」することの喜びを知つてゐることがあります。


猛然と勉強をする若い人が出てくればくるほど、この国は安心です。


さういふ人が、この国を安らかで力強い場所に創りなしてゆくのです。


そして、さういふ場所であるからこそ、子どもたちは安心して成長して行くことができるのです。


遥か古代から、昭和の初期まであつた、そんな美しい気風が甦つてくるやうに、こころから願ひつつ、大阪に帰つて来ました。



posted by koji at 11:50 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自己教育における三つの道筋「序」


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カスパー・デイビッド・フリードリッヒ「海の上に昇る月」



こころを育てるのは、外の物ではなく、精神・靈(ひ)だ。


さう、ルードルフ・シュタイナーは語ります。


もちろん、外の物質的なものに囲まれて生きてゐるわたしたちは、外の物や事から働きかけられつつ、内なるこころをもつてそれら外の物や事に対応しながら、毎日を懸命に生きてゐます。


また、外なる我がからだを育て、維持するには、外なる物が必要です。


もちろん、いま、この瞬間のわたしも、外なる物を必要としてゐます。


しかし、おほよそですが、人は、どうでせう、35歳を過ぎる頃から、外なる物も大事ですが、むしろ、自分自身の成長のために内なるこころを育てるのは、物じゃない、何か、もつと、大切なものがある、そんな風に感じ始めはしないでせうか。


その大切なもののことを、シュタイナーは、精神・靈(ひ)と言つたのです。


その精神・靈(ひ)を別のことばで言ひ換へるなら、それを、〈わたし〉と言ひませうか。


その〈わたし〉は、普段よく使つてゐる「わたしは〜です」「わたしは〜が欲しい」「わたしはすごく元気です」などといふ時の「わたし」ではありません。


また、「自我」といふ難しい言葉がややもすると指し示してしまふエゴイスティックなものでもありません。


ドイツ語だと、小文字の「i」で始まる「ich」と書いて、普通、「わたし」の意味でそのことばを使ふのですが、シュタイナー書くところの、大文字の「I」 で始まる 「Ich」、それは、どの人にも宿らうとしてゐる精神・靈(ひ)、エゴから自由になつてゐる〈わたし〉を表します。


その〈わたし〉こそが、こころを育てます。


逆に言へば、その〈わたし〉を、こころの内に健やかに育てて行くことこそが、すべての教育のテーゼだと言へます。


〈わたし〉を育てること。


おほよそ三つの七年期を費やして、三つの順番で、この世に生まれて来た幼な子は、二十一歳ごろにこの世での〈わたし〉の誕生を迎へます。


そこで、とても大切にしたいのが、人の成長にとつて相応しい三つの順番に沿つて、大人からのサポート・教育を受けられるやう21歳までの三つの七年期の教育を設えるといふことです。


そして、21歳以降、人は自分で自分を教育しようとしなければ、人としての内的な成長が止まつてしまひます。


たいていは、その人次第ですが、仕事を通して、人は成長して行くことができますよね。「仕事」とは「ことに仕へる」ことです。


しかし、ここでは、あらためて、アントロポゾフィーといふ精神・靈(ひ)の学び(Geisteswissenschaft)の観点から、大人自身の自己教育における、まづもつての、三つの道筋を挙げてみます。


これは、わたし自身の道なのです。


〈続く〉

posted by koji at 11:06 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

亡くなつた方々との繋がり


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昨年、思ふやうに行くことができなかつた和歌山への墓参り。


十四年前に亡くなつた父、そして祖母と叔父が眠る墓なのですが、申し訳ないといふ思ひが積もつてゐました。


しかし、今日、小春日和の中、やうやく、お参りすることができ、ほつとしました。


このほつとする気持ちはどこから生まれてくるのだらうと、いつも墓参りをするたびに思ふのです。


それは、おそらく、墓参りをすることの義務を果たしたといふことではなく、亡くなつた方々と繋がることから来る、安堵感なのではないかな、と感じます。


いつも墓参りのたびごとに感じることなのですが、精神・靈(ひ)の国に帰つてゐる人は、この世にゐる時よりも遥かに浄められ高められ透き通つて、いまも、生きてをられる。


その清らかで慈しみに満ちてゐる高い情が、この世にこころ貧しく生きてゐるわたしを包んでくれるのです。


日本は、やはり、ご先祖崇拝を信仰心の基とし続けて来てゐる国なのだと思ひます。それは、きつと、仏教がこの国に流入して来る遥か以前からのものでせう。


墓を守る、といふことがだんだんと難しくなつて来てゐる、昨今の状況だと思ひます。


ただ、亡くなつた方々、特に先祖の方々の連なりの果てに、いま、かうして、わたしはここにあり、それらの方々は、この世に生きてゐるわたしを暖かく見守つて下さつてゐることを想ひ起こすよすがを持つことが、安らかさを我がこころに与へてくれるといふことは忘れない方がいい。


さう、改めて思ひました。

posted by koji at 00:03 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月25日

表現する喜び! 水曜・朝 オンライン言語造形クラス開講のお知らせ


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春が来るのに先駆けて、ご一緒に、ことばを発して表現する喜びを創りだしていきませんか。


この2月10日より、毎月二回、第二・四水曜日の午前10時から12時まで、ズームを使つての言語造形オンラインクラスを開講いたします。


自宅のお部屋にゐながら、言語造形といふことばの芸術に取り組んでみませんか。


おひとりおひとり、ご自身が選んだ文学作品(詩、昔話、物語、神話、小説、戯曲など)を声に出していただきます。


さうして、空間に声の響きをもつて、ことばの造形を織りなしてゆくのです。


そのとき、詩はまるで音楽を奏でるやうに、物語は絵姿をもつて、空間に響き渡ります。


自分自身の声だけでなく、仲間が発する声とことばに触れることで、必ず、ことばの魅力に包まれます。


そして、そのやうに言語造形に取り組む人は、こころもからだも健やかさに満たされることでせう。


初めての方も、ご経験のある方も、オンラインでの言語造形、ご一緒に楽しみながら学び始めませんか。


奮つてのご参加、お待ちしてゐます。


●講師: 諏訪耕志



●スケジュール: 毎月第二・第四水曜日 午前10時から12時まで

2月10日、24日、
3月10日、24日、
4月14日、28日、
5月12日、26日、
6月 9日、23日、
7月14日、28日・・・


●参加費: 体験ご参加 4000円
      6回連続  21000円

御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。  
なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    


●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。



●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」



you tube 動画ページ『アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」』





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こころのこよみ(第43週)〜冷たさに立ち向かふこころの炎〜


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冬の深みにおいて、
 
精神のまことのありやうが暖まる。
 
それは、世の現はれに、
 
胸の力を通してありありとした力を与へる。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 
 人の内なるこころの炎」
 
 
 
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
 
 
 
 
いま、人と人は、どれほど分かり合へてゐるだらうか。
 
 
人と人との間に、無関心が、行き違ひが、無理解が、そして憎しみまでもが立ちはだかつてゐる。
 
 
自分自身のこととしても、そのことを痛切に感じる。
 
 
わたしたちは、そのやうなあり方を「世の冷たさ」として、密かに、ときにひどく辛く感じてゐる。
 
 
その冷たさから自分を守らうとして、こころを閉ざす。
 
 
こころを閉ざした者同士がいくら出会つても、求めてゐる暖かさは得られさうにない。
 
 
しかし、このあり方が時代の必然であることを知ることができれば、何かを自分から変へていくことができるのではないだらうか。
 
 
15世紀以降、人のこころのあり方が変はつてきてゐる。
 
 
意識のこころの時代だ。
 
 
この時代において、まづ、人のこころは冷たく、硬い知性に満たされる。
 
 
その知性は、すべてを、人までをも、物質として、計量できるものとして扱はうとする。
 
 
この時代において、この冷たく硬い知性が、人のこころに満ちてきたからこそ、現代の文明がここまで発達してきた。
 
 
そして、文明が発達すればするほど、人は、己れが分からなくなつてくる。人といふものが分からなくなつてくる。
 
 
人といふものは、からだだけでなく、こころと精神からもなりたつてゐるからだ。
 
 
だから、その冷たく硬い知性を己れのものにすることによつて、人は、人といふものがわからなくなり、他者との繋がりを見失つてしまふ。
 
 
己れの己れたるところとの繋がりさへも見失つてしまふにいたる。
 
 
文明の発達を支へる冷たい知性が、冷たい人間観、人間関係を生み出した。
 
 
そして、そのやうに繋がりが断たれることによつて、人は、自分が「ひとりであること」を痛みと共に感じざるをえない。
 
 
以前の時代には、無意識に繋がつてゐた人と人との関係。人と自然との関係。人と世との関係。
 
 
それらが断たれていく中で、人はひとりであることに初めて意識的になり、改めて、自分の意志で繋がりを創つていく力を育んでいく必要に迫られてゐる。
 
 
しかし、むしろ、かう言つた方がいいかもしれない。
 
 
ひとりになれたからこそ、そのやうな力を育んでいくことができるのだと。
 
 
ひとりになることによつて、初めて、人と繋がることの大切さにしつかりと意識的になることができる。
 
 
だから、このやうな人と人との関係が冷たいものになつてしまふことは、時代の必然なのだ。
 
 
そして、この時代の必然を見やる、ひとり立ちしたひとりひとりの人が、みづから天(精神)と繋がり、垂直の繋がりをアクティブに創り出すならば・・・。
 
 
そのとき、至極精妙な天からの配剤で、横にゐる人との繋がり、水平の繋がりが与へられる。
 
 
垂直の繋がりが、ひとりひとりの人によつて育まれるがゆゑに、水平の繋がりが天から与へられる。
 
 
さうして初めて、人と人とが分かち合ひ、語り合ひ、愛し合ふことができる。
 
 
地上的な知性で、地上的なこころで、地上的なことばで、人と人とが分かり合へるのではない。
 
 
そのやうな意識のこころの時代が始まつて、すでに500〜600年経つてゐる。
 
 
わたしたち人は、そのやうに、いつたん他者との関係を断たれることによつて、痛みと共に、冷たく、硬い知性と共に、ひとりで立つことを習つてきた。
 
 
そして、そろそろ、ひとりで立つところから、意識のこころの本来の力、「熱に満ちた、暖かい知性」、「頭ではなく、心臓において考へる力」、「ひとり立ちして愛する力」を育んでいく時代に入つてきてゐる。
 
 
他者への無関心、無理解、憎しみは、実は、人が、からだを持つことから必然的に生じてきてゐる。
 
 
硬いからだを持つところから、人は冷たく硬い知性を持つことができるやうになり、からだといふ潜在意識が働くところに居座つてゐる他者への無理解、憎しみが、こころに持ち込まれるのだ。
 
 
だから、これからの時代のテーマは、そのやうな、からだから来るものを凌いで、こころにおいて、暖かさ、熱、人といふものの理解、愛を、意識的に育んでいくことだ。
 
 
「世の冷たさに力強く立ち向ふのは、人の内なるこころの炎」だ。
 
 
その「内なるこころの炎」は、天に向かつて燃ゑ上がる。精神に向かふ意志の炎となる。
 
 
日常生活を送るうへで、日々の忙しさにかまけつつも、なほかつ求めざるを得ないこころの糧。それは、精神である。
 
 
地上に生きる人にとつて、なくてはならないこころの糧としての精神。その精神の具象的なもののうち、代表的なもののひとつは、キリストであらう。
 
 
キリストのこと、クリスマスにをさな子としてこの世に生まれたこと、春を迎へようとする頃、ゴルゴタの丘の上で起こつたこと、そのことを深みで感じつつ、深みで知りゆくことによつて、ますます意識的にこころを精神に向かつて燃ゑ上がらせることができる。
 
 
そして、人と人との間に吹きすさんでゐる無理解と憎しみといふ「世の冷たさ」に立ち向かふことができる。
 
 
ひとりで立ち、ひとりで向かひ合ふことができる。
 
 
キリストのことを考へないまま信じるのではなく、キリストのことを考へて、想ひ、そして知りゆくこと。
 
 
意識のこころの時代において、人は、そのやうなキリスト理解をもつて、みづからのこころに炎を灯すことができる。
 
 
なぜなら、キリストの別の名は、「わたしは、ある」だからだ。
 
 
「わたしは、ある」。
 
 
さう、こころに銘じるとき、わたしたちは、こころに炎を感じないだらうか。
 
 
そして、キリスト教徒であるなしにかかはらず、キリストと繋がる。
 
  
 

冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖まる。
それは、世の現はれに、
胸の力を通してありありとした力を与へる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 人の内なるこころの炎」
 
 

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2021年01月24日

古事記より「天の岩屋戸の話」(現代語訳)






自分たちの国、民族、世界がいかにして創り上げられてきたか。


「神話」とは、そのやうなわたしたちのおほもとを語る物語として、各民族によつて、おのおのの言語でずつと語り続けられて来たものです。


「古事記」。「ふることぶみ」と訓みます。


この書に語られてゐるのは、世の始まり、天地(あめつち)の初発(はじめ)からの、我が国の神話です。


この書は、時のすめらみこと、天武天皇が御みづから口で語られた「神がたり」を、稗田阿礼が聴き取り、その詩的な音韻の並び、抑揚、リズム、調べを全身で受け取り、身につけた、ことばの芸術品であり、日本といふ国をとこしへに精神的に支へる言霊のつづれ織りでもあります。


ですので、本来は、本居宣長による訓み下しの原日本語で語ることをしたいのですが、今回は、小学生にもまづは抵抗なく聴き取つてもらへるやうに、わたしみづから現代語訳し、編集したものを語らせてもらひました。


いま、この神話を語らせてもらひましたのは、明らかに、いま、世界中が新しいまことの夜明けの前の暗闇を経験してゐるからだと実感してゐるからなのです。


動画をコメント欄に貼つてゐます。よろしければ、ご覧になつて下さい。


※サムネイルの絵は、山田 泉さんが描かれたものです。





言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想い起こさせようとしたのです。

わたしたち「ことばの家 諏訪」は、大阪の住吉にて、その言語造形を学ぶ場を設けています。

「ことばの家 諏訪  言語造形のためのアトリエ」
https://kotobanoie.net/

「言語造形 ことばの家諏訪」チャンネル登録、
どうぞよろしくお願ひします!
https://www.youtube.com/user/suwachim...

2021年01月20日

声の贈りもの A 『だいくとおにろく』


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自分の目で文字を追ふ黙読とは違ひ、誰かにお話を読んでもらふといふことは、本当に特別な体験です。


とりわけ子どもたちにとつて、お母さんやお父さん、先生などの声によつてお話が読まれ、語られることで、大人が、親が、一緒に物語の世界の中を歩いてくれてゐる、そんな幸福な一体感をもつことができるのです。


よく、子どもが同じお話を繰り返ししてほしい、同じ絵本を繰り返し読んでほしい、と親にねだるのは、繰り返しを愛する幼い子ども特有の意欲の働きであると共に、この「一体感」を何度でも味はひたいからなのです。


今日の絵本は、日本昔話から、松居直再話、赤羽末吉絵の『だいくとおにろく』です。


昔話や伝説では、ある領域ともうひとつの領域との間に、「川」が流れてゐることがよく出てきます。


お話を聴く子どもたちにとつて、その子、その子なりの領域から新しい領域への境を超えなければならない時が、遅かれ早かれやつてきます。


その時の、川を渡るかのやうな、橋を架けるかのやうな、恐れを乗り越える経験。


それは、このお話におけるやうに、「おに」の正体(本当の名前)を知る時、なのかもしれません。


そして、大人にとつては、この鬼は、精神の世の境にをられる「境の守」なのです。


この絵本を何度も何度も読み聞かせてあげること、それは、そんな境を超えようとしてゐる子どもへの、そして読むわたし自身への、密やかな応援なのです。



●こんな読み方をしてみては?

いちいちのことばや言ひ回しには、必ず、身振りといふものがあります。

必ずしも身振りをからだの動きとして表さなくても、その身振りを感じながら声に出してみることで、俄然、ことばが生命感を持つてきますよ〜!

このお話の最後の「おにろくっ!」とどなる場面では、必ずしも大きな声を出す必要はなく、強くはつきりと鬼に向かつて指し示すやうな身振りを感じてゐれば、ていねいに静かに声を出しても、相応しい響きにおのづとなります。

その指し示す身振りこそが、聴いてゐる子どもに、「こころを決める力」「意志の力」を感じさせるのです。

その力は、人生にとつて、とても大切な力です。

どうぞ、試してみてくださいね。


【楽しんで読み聞かせをするポイント】

@まづは、息を吐きながら一文一文ゆつくりと
Aことばの身振りや、物語の絵姿を感じながら
B一音一音をていねいに



アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos

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2021年01月18日

通訳藝術道場 【シュタイナー学校の先生のための英詩講座】



外国語を学ぶ、といふこと。


わたしも27歳の時に、アフリカのケニアとタンザニアに一年間暮らして、スワヒリ語を一から学びましたが、その時の毎日は本当にエキサイティングでした。


何がこころ沸き立たせるかと言ふと、新しい言語を覚え、その言語を用ゐる際に、おのづから、こころを籠めてことばを聴き、話すことでした。そこに、全注意力を注ぎ込まざるをえなかつたのです。


日本に帰つて来て、一年も経たないうちに言語造形に出会つたのは、決して偶然ではないのでせうね。


注意深くことばを話す。それは、一音一音を大切にするといふことでもあり、ことばの抑揚、強弱など、音楽的な要素に自分の身もこころもおのづから沿はせようとすることにもなります。


そのことは、その外国語でお喋りできるやうになるといふことではなく、母国語とは異なる趣きの美しさをその外国語から汲み取るといふことへと道が続いて行くのですね。


その美しさには、その国、その民族の生き方のスタイル、姿勢が脈打つてゐて、そのスタイルを学ぶ(まねぶ)ことによつて、人は自分自身の内側にある多面性、多様性と共に固有性にも改めて気づかされたりもします。


そのために、詩といふ言語芸術の粋を原語で味はふことに取り組んでみる。


通訳藝術道場の修練長、冠木さんによつて広く開かれる学びの門から続く道は、民族を超えて、国を超えて、地域を超えて、価値観の違ひを超えて、自他の境を超えて、ことばで生きて行かうとする人にとつて、想ひ出したい一筋の命脈のやうに、わたしには感じられます。


なぜならば、学びとは、そもそも芸術的行為だから・・・。そして、通訳をするとは、ことばの芸術なのだから・・・。


【シュタイナー学校の先生のための英詩講座】


アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
https://www.youtube.com/user/suwachimaru/videos



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2021年01月17日

こころのこよみ(第42週) 〜こころをこめてする仕事〜


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この冬の闇に

みづからの力の啓けがある。

こころからの強い求めがある。

暗闇にそれをもたらし、

そして予感する。

胸の熱を通して、感官が啓くことを。



Es ist in diesem Winterdunkel
Die Offenbarung eigner Kraft
Der Seele starker Trieb,
In Finsternisse sie zu lenken
Und ahnend vorzufühlen
Durch Herzenswärme Sinnesoffenbarung.



毎週、この『こころのこよみ』を生きていく。


毎週、ここに記されてある詩句を繰り返しこころの内で味はつてみる。


さうすると、ここに記されてあることばが、それを読んでゐる自分自身のこころの歩みと、重なつてくるのを感じることができる。


そのこころに重なつてきてゐる力は、さらに、心(物質の心臓とエーテルの心臓の重なりあひ)の働きを活性化させるやうに感じる。


そのことは、この詩句に沈潜するほどに感じられる、体内に流れ出す熱い血をもつて確かめられる。


物質の心臓は、物質のからだの中心を司る器官で、血液の巡りによつて活き活きと脈打つてゐる。


エーテルの心臓は、人のエーテルのからだの中心を司る器官だが、愛の巡りによつて活き活きと脈打ち、そこから光が発し、熱が生まれる。


内に抱く考へが、愛を基にしたものならば、その考へはエーテルの心臓を活き活きと脈打たせる。


さうでないならば、その考へはその心臓を締め付ける。


活き活きと脈打つエーテルの心臓が光と熱をもつて、物質の心臓の働きを促し、熱い血の巡りを促す。それをここでは、「胸の熱」としてゐる。その胸の熱が、さらに、こころの働きといふ働きを促しだす。


その活性化されだしたこころの働きを通して、ものが、よく見えだし、よく聴こえはじめる。


そして、肉の目や耳には映らない、こころのもの、他者の情や他者の考へがリアリティーをもつて、心臓で感じられるやうになつてくる。


きつと、その道は、人の情や考へだけでなく、ものといふもの、例へば、植物や動物の情、地水風火の情や考へなどをも感じられることへと繋がつていくだらう。


頭の脳で理解するのではなく、心臓で感じ、心臓で考へることができるやうになつていくだらう。


外なる感官だけでなく、そのやうな内なる感官もが啓きはじめ、働きはじめる。


「そして予感する
 胸の熱を通して、感官が啓くことを」


そして、その啓かれるものを受けとることを通して、わたしたちはどう振舞ふことができるだらうか。


「 みづからの力の啓け
 こころからの強い求め
 それを冬の暗闇にもたらす」


その振る舞ひは、きつと、その人その人の仕事として、世の冬の暗闇に光をもたらすものになるはずだ。


お金を稼ぐことが仕事をすることだといふ意味ではなく、その人がこころをこめてすることこそが仕事であるとするならば、わたしたちは、いま、いる場所で、
その仕事を始めることができる。



この冬の闇にみづからの力の啓けがある。
こころからの強い求めがある。
暗闇にそれをもたらし、
そして予感する。
胸の熱を通して、感官が啓くことを。


アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
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2021年01月16日

青森公演から「小さな村で見た」「やさしい世界の終はり方」


「無言歌 no,3(G.フォーレ作曲)」
「小さな村で見た(石村利勝作)」
「Old Plantation(W.ギロック作曲)」


「やさしい世界の終はり方(石村利勝作)」
「交響曲/新世界より第2章(A.ドヴォルザーク作曲)」



この石村利勝氏によるふたつの詩、「小さな村で見た」「やさしい世界の終はり方」を初めて目に読んだ時、こころが、静かに、静かに、なつたことを憶へてゐます。


そして、このふたつの詩を何とかして言語造形をもつて奏でたい、その響き、調べを人さまに聴いてほしい、この詩の美しさと悲しさを多くの人と共有したい、といふ希ひに突き動かされて、昨年は生きました。


しかし、声に出して詠ふことで、この詩の静けさの内に漲る、みづみづしさと悲しみを損なはないだらうか・・・。


そんな畏れにも似た念ひでありました。


これらの詩が秘めてゐるこころと精神の何十分の一も表はせられたのかどうか、分からないのですが、これらのことばの精神に付き添はれ守られた昨年だつたことは、間違ひありません。これらの詩と共に生きた昨年でした。


とりわけ、「やさしい世界の終はり方」といふ作品は、本当に激しい外の世の動きの中にあつて、わたしを支へてくれたやうに実感してゐます。


この詩の作者・石村利勝氏は、この詩に以下のやうに註記してをられてゐます。https://note.com/ishimuratoshi58/n/n3838036004b6


「これは、前に世界が終はつた時のことを思ひ出してかいたものです。なつかしい思ひ出です。」


青森公演の最後の演目がこの作品だつたのですが、終演後、中学生の女の子がわたしに駆け寄つて来て、この詩に対する深い感動を様々なことばでわたしに伝へてくれました。


わたしは、かけがへのない、ひとりの聴き手に恵まれたことの仕合はせにこころから感謝しました。


令和2年12月6日 青森県十和田市東コミュニティセンターにて行ひました言語造形公演『やさしい世界の終はり方』から、諏訪耕志による言語造形・詩の朗唱と山本恵美さんによるピアノ演奏をお聴きください。


山本さんのピアノは、清潔なタッチの中にとてもみづみづしい情の漲りがあり、このたびの青森での時間が、詩と楽音との新たな響演の時となりました。


また、三瓶哲也さんによる照明もシンプルながらとても、とても、印象深く、本当に素晴らしいものです。


重ね重ねですが、この公演を主催して下さつた方々に、こころよりお礼を申し上げます。ありがたうございました。


そして、今年纏められ、出版されるであらう石村氏の詩集を心待ちにしてゐます。

             
アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
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2021年01月15日

メルヘン この世とあの世の架け橋 「おこぶちゃん」





メルヘンは、この世とあの世との架け橋なのさ・・・。


ミヒャエル・エンデのメモ箱に残されてゐた小さなお話「おこぶちゃん」。


主人公の女の子の背中にあるこぶの中には翼があります。


翼をもつアストラル(星)のからだは、精神の世とこの地上の世を行き来する、目には見えないからだです。


亡くなつた方々の世(精神の世)と、生きてゐるわたしたちとの間を、行き来するからだです。


アストラルのからだ。それを大切に育むことが、人に、本当のふるさとを想ひ起こさせます。


アストラルのからだを育む。それが芸術の営みです。


動画「おこぶちゃん」、よろしければ、どうぞご覧ください。小西収氏のクラリネット演奏「マーラー作曲交響曲第三番」と共に8分にわたるメルヘンの世界をお楽しみいただければ、幸ひです。



アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
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2021年01月14日

声の贈りもの @ 『手ぶくろを買いに』


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「シュタイナー幼児教育では、絵本の読み聞かせではなく、素話を子どもに聴かせます」と言はれるのをよく聞きますね。


そのことには、もつともな理由があり、子どもがお話を聴くとき、絵本の絵によつて、こころの内側に絵姿を自由に描く力を損なはないやうに、との配慮からです。


それは、もつともなのですが、やはり、親御さんにとつては、我が子に素話をするといふことも、ある意味、ハードルが高く感じられることでせう。


それならば、絵本といふものを通して、お子さんと親御さんが声のやりとりをする時間を一日の内、ほんの少しの時間にでも持つことができた方がいいのではないかと思ふのです。


もちろん、ことばの響きだけで、大人から子どもへとお話の贈り物ができれば、それはこの上なく素晴らしいことなのですが、そのことを承知した上で、絵本を通して親子のことばの時間を大切にしていくことを、言語造形をする者として提案したいのです。


お父さんやお母さんの息遣ひと声の響きこそが、子どもたちに取つて何よりの何よりの贈りものなのです。


「声の贈りもの」と題して、今日が第一回目。新見南吉作、黒井健絵の『手ぶくろを買いに』です。


冷たい雪にかじかんだ手を温めてあげたい。母狐は子狐に町まで手ぶくろを買ひに行かせます。しかし母狐は人間を恐れてゐます。かたや、子狐はいまだ無垢なまま世を信じて生きてゐます。心配と信頼。こころが微妙に交差する、冬の物語です。


●こんな読み方をしてみては?

月の光に照らされた白い雪と夜の闇。その明暗のコントラストが際立つ世界。

また雪の冷たさと、母と子の間に営まれる暖かさ。その寒暖のコントラスト。

そこからわたしたちは何を感じることができるでせうか。

絵の繊細なタッチを感じながら声に出してみませう。

そこから生まれる「こころの情」を子どもと分かち合ふことができたらいいですね。「寒いね、寒いね」「暖かいね、暖かいね」と言ひながら・・・。


【楽しんで読み聞かせをするポイント】

@まづは、息を吐きながら一文一文ゆつくりと
Aことばの身振りや、物語の絵姿を感じながら
B一音一音をていねいに



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1〜3月 アントロポゾフィークラス・オンラインのスケジュールです


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ルードルフ・シュタイナーの講義録『普遍人間学』は、子どもの教育はどうありうるかを考へ、自分自身のあり方と発意から実践して行きたい人に語りかけられてゐます。


それゆゑに、自己教育の大切さを感じてゐるすべての大人に向けてこそ、「人とは何か」といふ大切な智慧を語りかけてゐます。


このオンラインクラス、2クラスあります。金曜日の夜クラスと土曜日の朝クラスです。どちらも、月に二回のペースで、進んでゐます。


いつからでもご参加、可能です。ご参加希望の方は、金曜か土曜、どちらかのクラスにご参加いただきます。


アントロポゾフィー(人といふものの意識)に根差した『普遍人間学』。共に、学んで行きませんか。


講師:諏訪耕志



●これからのスケジュール


金曜夜クラス 7時半〜9時半

1月22日 「見ることと聴くこと」(第五講から)

2月5日  「眠りから目覚めへ」(第六講から)

2月19日 「まんなかの〈わたし〉」(第六講から)

3月5日  「メディテーションと芸術実践」(第六講から)

3月19日 「幼な子から老人へ」(第七講から)


土曜朝クラス 10時〜12時

1月23日 「メディテーションと芸術実践」(第六講から)

2月6日 「幼な子から老人へ」(第七講から)

2月20日 「人によつて受け取る世界が違う!」(第七講から)

3月6日 「空間における人 時間における人」(第七講から)

3月20日 「忘れることと想ひ起こすこと」(第八講から)




●参加費    初回体験参加 3500円、 3回連続 9000円  

連続して受講していただくことが最善だと考へますので、初回体験参加を除いては、3回連続で受講していただくやう、お願ひいたします。   
またその場合でも、御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。   なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。    


●お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

.お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を用いてゐます。可能ならば、講座の前にでも、あとにでも、ご自身で読んでいただくことで、学びの主体性も高まりますので、ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌 しかし、本がなくても、講義をまづは聴くことから始められても、全く大丈夫ですよ。本をお求めの際は、「ことばの家 諏訪」にご連絡ください。  


ありがたうございます。   


●お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/



ふたつのクラスのご紹介動画です。よろしければ、ご参照ください。

参加者の方の声@


参加者の方と講師の声A




アントロポゾフィーと言語造形「ことばの家」
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2021年01月13日

今年から始まる仕事 アントロポゾフィーハウス


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東山魁夷「白い馬の見える風景」



わたしは、自分自身の仕事であり、運動体であるものを、「ことばの家」と銘打つて、これまでアントロポゾフィーと言語造形といふ芸術活動に勤しんできました。


もちろん、これからも、わたしの仕事として「ことばの家」を勤しんで行きます。


しかし、今年、令和3年、2021年からは、自分ひとりだけで仕事をして行くのではなく、自分自身の仕事が他の方々の各々の仕事と結びつくやうな形を模索・実現して行きたいと希つてゐます。


仕事において、他の方と協力し合ひながら、自分一人ではできなかつた仕事をひとつひとつ、創り出して行きたいと希つてゐます。


その際に、わたしにとつて大切になるのは、アントロポゾフィーといふ精神(靈・ひ)です。


このアントロポゾフィーを共有して行くことが、他者との共同・協働における大切な点です。


さうすることで、アントロポゾフィーそのものを、日本といふ国に根付かせ、花咲かせ、稔らせるのです。


アントロポゾフィーとは何か。何か特別なものなのか。さうとも言へます。しかし、さうとも言へません。そのことには、様々な観点から答へることができるでせう。


ルードルフ・シュタイナー自身は、あるところで、端的に、それは「人であることの意識」だと言つてゐます。


「人であることの意識」。これは、現代を生きるすべての人にとつて、人として生きる上での何かとても大切なものではないでせうか。


それは現代においては、「人が、その人であることの意識」「人が、ますます、その人になりゆく意識」「人が、自由と愛を生きる意識」と言つてもいいのではないでせうか。


「自由と愛」などといふことばは、すぐに宙に浮いてしまふ、大変やつかいなことばでもあるのですが、きつと、どの人も、こころの奥底で、そのことばの実現を乞ひ求めてゐるはずです。


生きた日本語でこのアントロポゾフィーを語ること、それが、わたしがわたし自身に課してゐる大きな、途方もなく大きな仕事です。


アントロポゾフィーとは、「道」です。その「人であることの意識」を学び、それを己れのからだとこころで確かめて行く実践です。人であること、自由であること、愛することができるといふこと、そのことへの「道」と言つてもいい。


その「道」とは、まぎれもなく、読書(講義の受講)と芸術実践です。


わたしは、アントロポゾフィーの基本文献を基にした講義をします。そこにおいて、共に考へること。考への世の内でこころを暖めること、励ますこと、ひとりひとり目覚めゆくこと、へと共に歩いて行くのです。講義とは、共なる、メディテーションです。


わたしは、さらに、言語造形といふことばの芸術を通して、ことばの力の内側に参入して行きます。その営みを多くの人が必要としてゐることを確信してゐますので、必要とする人とその芸術を分かち合つて行きます。それは、極めて具体的な仕事です。ことばを話すといふ、まぎれもなく、その人まるごとを使ふ芸術的な仕事です。その仕事のためには、舞台づくりといふものが、何よりもうつてつけです。共に、舞台を創つて行くのです。


メディテーション、それは、考へる〈わたし〉の内に、世を見いだすことです・・・。


芸術実践、それは、世の内に、〈わたし〉を見いだすことです・・・。


あなたみづからを見いだしたければ、世を見よ。
世を見いだしたければ、あなたみづからを見よ。


アントロポゾフィーの講義、そして言語造形、それは、どちらも、日本語をもつて「人であることの意識」を耕し、育て、稔らせるやうな仕事です。この仕事には、十年、三十年、百年、何百年とかかるはずです。


これは、わたしができる仕事であり、わたしから始めて行くのですが、さらに、他の芸術に勤しんでゐる方々とのコラボレーション、共同でアントロポゾフィーに根付いた仕事をして行くことを、今年から、始めたいと考へてゐます。


メディテーションと芸術実践、わたしたちのテーマは、それです。


物理的・固定的な場を持たない、この精神からの仕事場を、「アントロポゾフィーハウス」と名付けます。


声を掛けさせていただきました時には、できましたら、お耳をお貸しいただきたく、なにとぞ、どうぞ、よろしくお願ひいたします。共に、日本語の内に、アントロポゾフィーの精神(靈・ひ)を灯していきませう。



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2021年01月12日

捧げる何か 大阪公演から「おこぶちゃん(ミヒャエル・エンデ作)」




この世を去りし人たちは、きつと、この世に生きてゐるわたしたちを見守つてゐる。わたしたちは、そのことを感じつつ、生きることができる。


そして、わたしたちから何かを捧げることができる。それは、祈りであり、まごころであり、メルヘンである。


その時、確かに、向かうの世にゐる方々が耳を澄まして聴いて下さつてゐるのを、リアルに感じる。


令和2年10月18日「ことばの家 諏訪」にて行ひました言語造形公演『やさしい世界の終はり方』から、お聴き下さい。



言語造形 諏訪耕志  
クラリネット 小西収


「おこぶちゃん(ミヒャエル・エンデ作)」

「交響曲第三番第四楽章(マーラー作曲)より」



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2021年01月11日

冬、考へを育む季節


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平櫛田中「平安老母」 何を読んでをられるのか・・・。




ひとつの考へは、人のこころにしつかりと宿れば、その人にとつてやがて成長して行くひとつの種になりえます。


種は、情報として本に書かれたままであつたり、インターネットの空間で行き交つてゐるだけでは、死んだものとして人々の間を忙しく交換・消費・廃棄されるだけです。


しかし、その考へといふ種をこころの内側にみづから宿すやうに受け入れ、お日様の光を当て、水分を補給してあげるやうに、何度も何度も繰り返し、その考へを、改めて、引き続き、考へ続けることによつて、その種は命を持ち始め、こころの内において芽を出し、葉を茂らせ、やがて、きつと、花咲かせ、稔りを得ます。


考へとは、一旦、死んでしまつてゐて、仮死状態にあるのですが、人が積極的にそれを自分自身の内側で育てますと、見事に息を吹き返し、その人に稔りを与へるのです。


そして考へは生き物として、その人の人生を前後左右に導いていきます。


ですので、どのやうな考へを胸の内に抱くのかが、とても大切なことなのです。それは、良き考へであれ、悪しき考へであれ、胸の内で生き物となつて、その人の生を導いて行くのですから。


それほどに、「考へ」といふものは、素晴らしいものでもあり、恐ろしいものでもあります。


その考へが、良きものか、悪しきものか、その判断はどうしてつけることができるのでせうか。


良き考へは、それを抱いたときに、こころが、胸の内が、広々と、明るく、暖かく、時に柔らかく、時に強く、開かれたやうな情をその人に与へませんか。


悪しき考へは、こころに固さと冷たさと狭さと暗さをもたらすでせう?


さう、情が、教へてくれますね。


情が教へてくれるためには、その情が健やかに育てられてゐなければならないでせう。


情を育てるのは、何でせう。


ひとつは、循環したものの言ひ方になつてしまひますが、よき考へを日々抱く練習をすること。それは、考へることの練習です。メディテーション、瞑想です。


まうひとつは、何か同じ行為をすることを繰り返すこと。それは、芸術的行為です。それは、意欲の練習、欲することの鍛錬です。


考へるの練習と、欲するの鍛錬とが、感じるの健やかな成長へと稔つてゆきます。


かうして、人のこころの育みとは、考へること、感じること、欲すること、それら三つの働きにみづから働きかけることであり、とりわけ、冬の季節においては、考へることの練習を始めるのに、適してゐるのです。


年の初めには、良き考へを抱き、その考へを考へつづけることによつて、種から芽へ、目から葉へ、葉から花へ、とこころに大切なものを時間をかけて稔らせて行く。


その習慣がこころを精神へと導きます。


その精神が、その人を、ますます、その人にして行くでせう。


その精神の育ちが、手取り足取り人から教へられなくても、自分自身の足で自分自身の道を、その都度その都度あやまたず選び取れるやうになることでせう。



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2021年01月10日

大阪公演から「幼い日」「おこぶちゃん」「戦場の兵士」





八木重吉の詩「幼い日」の朗唱による母音の余韻。それは、記憶の砌(みぎり)にたゆたふ、幼な子の命と世の命との対話です。


ミヒャエル・エンデの「おこぶちゃん」といふ物語りによつて開かれて行く場。そこに結ばれるのは、わたしたち生者とすでにこの世を去りし人々との対話。


そして、叙事詩「戦場の兵士」が立ち上げる、静けさの中の沈痛な情。それは、生きてゐるこのわたしと精神(靈・ひ)の境にある高い〈わたし〉との語り合ひ、語らひ、対話なのです。


小西収さんによるクラリネットの響きと共に、わたしは、この対話といふものの値を汲み上げたかつたのです。


令和2年10月18日「ことばの家 諏訪」にて行ひました言語造形公演『やさしい世界の終はり方』から、お聴き下さい。


「ことばの家 諏訪」諏訪耕志




言語造形 諏訪耕志  
クラリネット 小西収


「幼い日(八木重吉作)」

「唐八景(さだまさし作曲)」

「おこぶちゃん(ミヒャエル・エンデ作)」

「交響曲第三番第四楽章(マーラー作曲)より」

「戦場の兵士(作者不明)」

「彼方へ(冬木透作曲)」




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