2023年03月26日

今日を生きる心意気






今、それぞれのオンラインクラスで、シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』と『テオゾフィー 人と世を知るということ』の二冊を講義させてもらっています。


奇しくも、どちらのクラスでも、テーマがシンクロしていまして、「輪廻転生とカルマ(人が再び体をなすことと仕合わせ)」なのです。


つまり、この肉体の眼では確かめることのできない、いわゆる「スピリチュアル」な事柄なのですね。


しかし、この「スピリチュアル」なことこそ、筋道を辿ってしっかりと考えることを通して、こころの内に、その「スピリチュアル」な階段を一段一段昇ってゆくことができるということを教えてくれているのが、ルードルフ・シュタイナーです。


「感覚」だけでなく、しっかりとしたその「論理性」、つまり考える働きによって、精神の世への道を一歩一歩進んでいく。


その考える働きを、静かに、浄めて行く作業、それがメディテーション(瞑想)です。


毎日繰り返されるそのメディテーションによって、わたしたちは、どこに向かうかと言いますと、それは、先ほど挙げたテーマである「輪廻転生とカルマ(人が再び体をなすことと仕合わせ)」を己が身をもって知ってゆくこと、まことの<わたし>を知りゆくことにあるのです。


そして、その知ったところから、今日という一日をどう生きるかという心意気に転換すること、そこにアントロポゾフィーの学びの最大の眼目があると言ってもいいように私は実感しているのです。


「輪廻転生とカルマ(人が再び体をなすことと仕合わせ)」を学ぶとは、それは、これまでの、長い、長い、時間の中で、わたし自身がなして来たこと、なすことができなかったこと、すべてのわたしの来し方のありようが、今のわたしの毎日の暮らしに運命として働きかけて来ていることの意味をリアルに知ることなのです。


我が運命の意味を知る、とは、その運命が、「幸せ」の仮面をかぶっていようと、「不幸せ」の仮面をかぶっていようと、必然性を持ってわたしの人生に訪れた我が運命を愛することであり、我が運命を抱きしめ、我が運命に体当たりしていくことであります。


その体当たりしていくこと、それが、「今日という日をどう生きるかという心意気」に転換されるアントロポゾフィーの学びの真髄であると、わたしは確信しています。


わたしもまた、ひとりの人として、長い、大いなる旅をして来ました。そして、今、生かされて、ここに、います。


そして、すべての人、すべての子どもたちも、大いなる旅の果てに、いま、生かされて、ここで、出会っている。


できることはたかが知れていたとしても、少なくともわたしが出会うすべての人に、その考えと感覚とを重ね合わせて、お付き合いをしていきたい。


それが、アントロポゾフィーの学びと実践に、相も変わらず、付き合い続けている、わたしの悲願なのです。


地味な歩みですが、確かな道を歩いていると、わたしもまた、実感しています。





2023年03月25日

こころのこよみ(第51週) 〜花が待つてゐる〜



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金沢の武家屋敷庭にて



春を待つ


人といふものの内へと
 
感官を通して豐かさが流れ込む。
 
世の精神は己れを見いだす、
 
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
 
その世の精神から力が、
 
きつと新たに汲み上げられる。
 
 

Frühling-Erwartung

Ins Innre des Menschenwesens
Ergießt der Sinne Reichtum sich,
Es findet sich der Weltengeist
Im Spiegelbild des Menschenauges,
Das seine Kraft aus ihm
Sich neu erschaffen muß.
 
 
 
より目を開いて、より耳を澄まして、ものごとといふものごとにぢつと向かひあつてみれば、ものごとは、より活き活きとした相(すがた)をわたしに顯はしてくれる。
 
 
わたしが花をそのやうに觀てゐるとき、花もわたしを觀てゐる。
 
 
そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、もはや死んだものではなく、ますます、ものものしく、活きたものになりゆく。
 
 
また、わたしの瞳も、だんだんとそのありやうを深めていく。物理的なものの内に精神的なものを宿すやうになる。
 
 
花へのそのやうなアクティブな向かひやうによつて、わたしみづからが精神として甦る。
 
 
そして、その深まりゆくわたしの内において、花の精神(世の精神)が甦る。花の精神は、さういふ人のアクトを待つてゐる。
 
 
「待つ」とは、そもそも、神が降りてこられるのを待つことを言つたさうだ。
 
 
松の木は、だから、神の依り代として、特別なものであつたし、祭りとは、その「待つ」ことであつた。
 
 
中世以前、古代においては、人が神を待つてゐた。
 
 
しかし、いま、神が人を待つてゐる。世の精神が人を待つてゐる。
 
 
世の精神が、己れを見いだすために、わたしたち人がまなこを開くのを待つてゐる。わたしたち人に、こころの眼差しを向けてもらふのを待つてゐる。
 
 
植物は、激情から解き放たれて、いのちをしづしづと、淡々と、また悠々と営んでゐる存在だ。
 
 
しかし、植物は、人の問ひかけを待つてゐるのではないだらうか。
 
 
さらには、人のこころもちや情に、応へようとしてゐるのではないだらうか。
 
 
人と植物とのそのやうな關係は、古来、洋の東西を問はず営まれてきた。
 
 
とりわけ、日本においては、華道、さらには茶道が、そのやうな植物と人との關係をこの上なく深いものにしてゐる。
 
 
それは、表だつて言挙げされはしないが、植物を通しての瞑想の営みとして深められてきたものだ。
 
 
落(おち)ざまに 水こぼしけり 花椿
松尾芭蕉
 

 
 
春を待つ

人といふものの内へと
感官を通して豐かさが流れ込む。
世の精神は己れを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
その世の精神から力が、
きつと新たに汲み上げられる。





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2023年03月21日

精神の仮想空間



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朝日新聞デジタルより



遅ればせながら、昨日、初めて、「メタバース」なるものについて人様から教えていただきました。


それは、「 3 次元の仮想空間(バーチャル空間)」を指すことばで、そこで複数の人との間でゲームを楽しんだり、会議をしたり、コミュニティーを営むことができ、新しいビジネスも展開されているそうです。


目や耳を覆う VR ゴーグルやヘッドセットを装着して、その仮想空間に没入することができ、また、アバターという自分の分身を作ることで、自分のキャラクターを取り替えたりしながら、その仮想空間の中で人とやりとりをするとのこと。


このような新しい仮想空間、仮想社会が生まれて来るのは、時代の流れの中における必然だと思います。


こういった、ことの運びに対して言うべきことは一杯、一杯、ありますよね。


ただ、この時代の必然的な流れをどう迎えるか、この悪魔的とも言える流れに沿いつつも(無視することはできない!)、どう人としての根底の力を培い続けて行くか、そこにわたしたちの意識にとっての課題があるように思います。


人としての根底の力とは何か。


それは、またしても、手前勝手なことになってしまうのですが、昨日、生徒さんたちと言語造形をしていまして、わたしたちもまた、「仮想空間」を創りなしているではないか!ということに気がついたのであります。


人から息遣いを通して空間に発せられる、ことばの響きが、肉の眼には見えませんが、明らかに精神のとしか言いようがない、「絵姿」を描き出している!ということです。


ことばの音韻が息の流れと共に連なって、空気中に形と動きをもって動く様、そしてことばに沿った情景や色彩、匂い、調べなどをありありと感覚できる、この言語造形の時間と空間は、まさに、ことばという芸術による「精神の仮想空間」です。


その「精神の仮想空間」の中では、わたしたちはこころがみずみずしく甦るような、いのちが活き活きと甦るような時を生きることができるのです。


そして、この「仮想空間」を織りなすには、VR ゴーグルやヘッドセットを必要とせず、身ひとつあればできることであります。


からだとこころが、精神に向かって健やかに働くこと、つまり、芸術をまるごとで生きること、そこに向かって汗を流すこと、そこに向かって血をたぎらせることが要求されます。


時代の流れの必然を認めつつ、わたしたちは、からだとこころの内側からの欲する力、感じる力、考える力を目一杯使い切る、そんな時間をあえてこしらえることで、外側からの様々な流れや動きに翻弄されない、しなやかで強い内側を養い、培い、育て上げていくことに、邁進していきたいと思ったのでした。










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2023年03月18日

こころのこよみ(第50週)〜願はくば、人が聴くことを!〜



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人の<わたし>に語りかける。
 
みづから力強く立ち上がりつつ、
 
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
 
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
 
「あなたの内に、
 
 わたしのいのちを担ひなさい。
 
 魔法の縛りを解いて。
 
 ならば、わたしは、
 
 まことの目当てに行きつく」
 
 
 
Es spricht zum Menschen-Ich,
Sich machtvoll offenbarend
Und seines Wesens Kraefte loesend,
Des Weltendaseins Werdelust:
In dich mein Leben tragend
Aus seinem Zauberbanne
Erreiche ich mein wahres Ziel.
 
 
 
 
春が少しづつ近づいて来てゐる。木々や草花たちのたたずまひ。なんと「ものものしい」までに、活き活きとしてゐることだらう。
 
 
明るく暖かな日差しの中で、それぞれの植物が歓声を上げてゐるのが聴こえてくるやうな気がする。
 
 
この週の「こよみ」において、「世のありありとした繰りなす喜びが、人の<わたし>に語りかける」とある。
 
 
この語りかけを人は聴くことができるだらうか。
 
 
2行目に「offenbarend」といふことばがあつて、それを「立ち上がりつつ」と訳してみたが、鈴木一博さんによると、この「offenbaren」は、「春たてる霞の空」や、「風たちぬ」などの「たつ」だと解いてをられる。
 
 
「たつ」とはもともと、目に見えないものがなんらかの趣きで開かれる、耳に聴こえないものがなんらかの趣きで顕わに示される、さういふ日本語ださうだ。
 
 
「春がたつ」のも、「秋がたつ」のも、目には見えないことだが、昔の人は、それを敏感に感じ、いまの大方の人は、それをこよみで知る。
 
 
いま、植物から何かが、「力強く」「ものものしく」立ち上がつてきてゐる。
 
 
人の<わたし>に向かつて、<ことば>を語りかけてきてゐる!
 
 
わたしはそれらの<ことば>に耳を傾け、聴くことができるだらうか。
 
 
喜びの声、励ましの声、時に悲しみの声、嘆きの声、それらをわたしたち人は聴くことができるだらうか。
 
 
それらを人が聴くときに、世は「まことの目当てに行きつく」。
 
 
「聴いてもらへた!」といふ喜びだ。
 
 
世が、自然が、宇宙が、喜ぶ。
 
 
シュタイナーは、晩年の『礎(いしずゑ)のことば』といふ作品を「願はくば、人が聴くことを!」といふことばで締めくくつてゐる。


わたしも、この「願はくば、人が聴くことを!」といふことばに和して叫びたくなる。

 
願はくば、人が、
世の<ことば>を、
生きとし生けるものたちの<ことば>を、
海の<ことば>を、
風の<ことば>を、
大地の<ことば>を、
星の<ことば>を、
子どもたちの<ことば>を、
聴くことを!
 
 
 
 
 
人の<わたし>に語りかける。
みづから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、
 わたしのいのちを担ひなさい。
 魔法の縛りを解いて。
 ならば、わたしは、
 まことの目当てに行きつく」



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2023年03月16日

日本昔話「舞ひ戻つた蝶」






【教師から子どもたちへの語りかけ】

・・・ねえ、蝶が、蛹から出て来るのを観たことがあるかい?同じように、人は、死が訪れると、からだからこころが抜け出して飛び去ってゆくのだよ。蛹から蝶が抜け出し、飛んで行くようにね・・・


【教師の内なる確信】

神は、とこしえというものを人が分かるようにと願った。だからこそ、蛹から蝶が生まれるという絵姿を人に与えて下さったのだ。このような絵姿は、人が勝手に作り出せるものではない。神が、この絵姿を人の前に描いて下さっている。わたしは信じている、この絵姿がまことであることを・・・


【ルードルフ・シュタイナーからの伝え】

子どもたちを教えるにあたって、「子どもは愚かだから、利口なわたしが教えねばならないのだ」と考えている教師は、何ひとつ子どもに授けることはできないのです。密(ひめ)やかながら、子どもは、わたしたち大人よりも遥かに賢い。子どもは、精神の世から降りて来たばかりです。しかし、子どもの精神は、この地上においてまだ目覚めてはいない。教師の仕事とは、子どもの精神を目覚めさせること。それができないとしたら、それは、子どものせいではなく、教師の過失なのです。蛹から蝶が生まれるその絵姿が、人の死を描いており、蝶とは人のこころと精神の表れなのだと深く信じている教師は、精神科学からのその叡智とひとつになっているからこそ、子どもとひとつになることができます。

精神科学であるアントロポゾフィーを学び、メディテーションを続けて行って欲しい。しかし、まだイマジネーションの力、明るく観る力、透視力を得ていなかったとしても、学びを続けゆく中でこのようなこころの構えが織りなされているならば、教師は子どものこころに働きかけてゆくことができるのです。

だから、「子どもと向かい合うことによって、このわたしが学ぶのであり、このわたしが成長して行くことができるのだ」と考えることのできる教師こそが、いま、求められています。




2023年03月13日

こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜



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「わたしは世のありありとした力を感じる」
 
さう、考への明らかさが語る。
 
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
 
暗い世の夜の中で。
 
そして世の昼に近づきゆく、
 
内なる希みの光を放ちつつ。
 
 
 
Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.
 
 
 
この週の『こよみ』に、向かひ合ふ中で、シュタイナーの1923年2月3日、4日のドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、今週の『こよみ』が響き合つてきた。
 
 
春が近づいてくる中で感じる、ありありとした世の力。
 
 
たとへ、その力を感じることができても、わたしが考へつつ、その感じを考へで捉へなければ、わたしはそれをことばにして言ひ表すことはできない。
 
 
世のありありとした力も、それに対して湧きあがつてくる感じも、<わたし>といふ人からすれば、外側からやつてくるもの。
 
 
それらに対して、人は、考へることによつて、初めて、内側から、<わたし>から、応へることができる。
 
 
そのやうにして、外側からのものと内側からのものが合はさつて、知るといふこと(認識)がなりたち、ことばにして言ひ表すこともできる。
 
 
わたしたちの外側からたくさんの世の力がありありと迫つてくる。
 
 
そんな外側からの力に対し、わたしたちの内側からの考へる力が追ひつかないときがある。
 
 
そんなとき、たくさんの、たくさんの、思ひやことばが行き交ふ。
 
 
わたしたちの考へる力は、その都度その都度、外の世からやつてくる力に対して応じていかざるをえないが、しかし、そのことに尽きてしまはざるをえないのだらうか。
 
 
対応していくにしても、その考へる力が、明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、その対応は、とかくその場限りの、外の世に振り回されつぱなしのものになりはしないだらうか。
 
 
その確かな一点、明らかな一点とは、「わたしはある」といふことを想ひ起こすこと、考へることであり、また、その考へるを見るといふこと。
 
 
他の誰かがかう言つてゐるから、かう考へる、ああ言つてゐるから、ああ考へるのではなく、他の誰でもない、この「わたしはある」といふ一点に立ち戻り、その一点から、「わたしが考へる」といふ内からの力をもつて、外の出来事に向かつていくことができる。
 
 
それは、外の出来事に振り回されて考へるのではなく、内なる意欲の力をもつて、みづから考へるを発し、みづから考へるを導いていくとき、考へは、それまでの死んだものから生きてゐるものとして活き活きと甦つてくる。
 
 
そのとき、人は、考へるに<わたし>を注ぎ込むこと、意欲を注ぎ込むことによつて、「まぎれなく考へる」をしてゐる。(この「まぎれなく考へる」が、よく「純粋思考」と訳されてゐるが、いはゆる「純粋なこと」を考へることではない)
 
 
わたしたちが日々抱く考へといふ考へは、死んでゐる。
 
 
それは、考へるに、<わたし>を注ぎ込んでゐないからだ。みづからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、外の世に応じて「考へさせられてゐる」からだ。


そのやうな、外のものごとから刺戟を受けて考へる考へ、なほかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考へは、死んでゐる。
 
 
多くの人が、よく、感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言ふ。実は、その多くの人は、そのやうな、死んだ考へをやりくりすることに対するアンチパシーからものを言つてゐるのではないだらうか。
 
 
ところが、そのやうな受動的なこころのあり方から脱して、能動的に、エネルギッシュに、考へるに意欲を注ぎ込んでいくことで、考へは死から甦り、生命あるものとして、人に生きる力を与へるものになる。
 
 
その人に、軸ができてくる。
 
 
世からありとあらゆる力がやつてくるが、だんだんと、その軸がぶれることも少なくなつてくるだらう。
 
 
その軸を創る力、それは、みづからが、考へる、そして、その考へるを、みづからが見る。この一点に立ち戻る力だ。
 
 
この一点から、外の世に向かつて、その都度その都度、考へるを向けていくこと、それは、腰を据ゑて、その外のものごとに沿ひ、交はつていくことだ。
 
 
では、その力を、人はどうやつて育んでいくことができるのだらうか。また、そのやうに、考へるに意欲を注ぎ込んでいく力は、どこからやつてくるのだらうか。
 
 
それは、夜、眠つてゐるあひだに、人といふ人に与へられてゐる。
 
 
ただし、昼のあひだ、その人が意欲を注ぎつつ考へるほどに応じてである。
 
 
夜の眠りのあひだに、人はただ休息してゐるのではない。
 
 
意識は完全に閉ぢられてゐるが、考へるは、意識が閉ぢられてゐる分、まつたく外の世に応じることをせずにすみ、よりまぎれなく考へる力を長けさせていく。
 
 
それは、眠りのあひだにこそ、意欲が強まるからだ。ただ、意欲によつて強められてゐる考へる力は、まつたく意識できない。


眠つてゐることによつて、意識の主体であるアストラルのからだと<わたし>が、エーテルのからだとフィジカルなからだから離れてゐるのだから。
 
 
眠りのあひだに、わたしたちは、わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、次の一日の中でフレッシュに力強く考へる力をその世の方々から戴いて、朝、目覚める。
 
 
要は、夜の眠りのあひだに長けさせてゐる精神の力を、どれだけ昼のあひだにみづからに注ぎこませることができるかだ。
 
 
そのために、シュタイナーは、その講演で、本を読むときに、もつと、もつと、エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでほしい、さう述べてゐる。
 
 
それは、人のこころを育てる。
 
 
現代人にもつとも欠けてゐる意欲の力を奮ひ起こすことで、死んだ考へを生きた考へに甦らせることこそが、こころの育みになる。
 
 
アントロポゾフィーの本をいくらたくさん読んでも、いや、シュタイナー本人からいくらいい講演、いい話を聴いたとしても、それだけでは駄目なのだと。
 
 
文といふ文を、意欲的に、深めること。
 
 
ことばを通して、述べられてゐる考へに読む人が生命を吹き込むこと。
 
 
アントロポゾフィーは、そのやうにされないと、途端に、腰崩れの、中途半端なものになつてしまふと。
 
 
1923年といふ、彼の晩年近くの頃で、彼の周りに集まる人のこころの受動性をなんとか奮ひ起こして、能動的な、主体的な、エネルギッシュな力に各々が目覚めるやうに、彼はことばを発してゐた。
 
 
その力は、夜の眠りのあひだに、高い世の方々との交はりによつてすべての人が贈られてゐる。
 
 
夜盛んだつた意欲を、昼のあひだに、どれだけ人が目覚めつつ、意識的に、考へるに注ぎ込むか。
 
 
その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、「内なる希みの光」。
 
 
外の世へのなんらかの希みではなく、<わたし>への信頼、<わたし>があることから生まれる希みだ。
 
 
その内なる希みの光こそが、昼のあひだに、人を活き活きとさせ、また夜の眠りのあひだに、精神を長けさせる。
 
 
その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、それが復活祭を前にした、こころの仕事であり、わたしたちにとつて、実はとても大切なこころの仕事なのだと思ふ。
 
 
 
 
 
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光を放ちつつ。



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2023年03月12日

今日を生きる心意気


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今、それぞれのオンラインクラスで、シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』と『テオゾフィー 人と世を知るということ』の二冊を講義させてもらっています。


奇しくも、どちらのクラスでも、テーマがシンクロしていまして、「輪廻転生とカルマ(人が再び体をなすことと仕合わせ)」なのです。


つまり、この肉体の眼では確かめることのできない、いわゆる「スピリチュアル」な事柄なのですね。


しかし、この「スピリチュアル」なことこそ、筋道を辿ってしっかりと考えることを通して、こころの内に、その「スピリチュアル」な階段を一段一段昇ってゆくことができるということを教えてくれているのが、ルードルフ・シュタイナーです。


「感覚」だけでなく、しっかりとしたその「論理性」、つまり考える働きによって、精神の世への道を一歩一歩進んでいく。


その考える働きを、静かに、浄めて行く作業、それがメディテーション(瞑想)です。


毎日繰り返されるそのメディテーションによって、わたしたちは、どこに向かうかと言いますと、それは、先ほど挙げたテーマである「輪廻転生とカルマ(人が再び体をなすことと仕合わせ)」を己が身をもって知ってゆくこと、まことの<わたし>を知りゆくことにあるのです。


そして、その知ったところから、今日という一日をどう生きるかという心意気に転換すること、そこにアントロポゾフィーの学びの最大の眼目があると言ってもいいように私は実感しているのです。


「輪廻転生とカルマ(人が再び体をなすことと仕合わせ)」を学ぶとは、それは、これまでの、長い、長い、時間の中で、わたし自身がなして来たこと、なすことができなかったこと、すべてのわたしの来し方のありようが、今のわたしの毎日の暮らしに運命として働きかけて来ていることの意味をリアルに知ることなのです。


我が運命の意味を知る、とは、その運命が、「幸せ」の仮面をかぶっていようと、「不幸せ」の仮面をかぶっていようと、必然性を持ってわたしの人生に訪れた我が運命を愛することであり、我が運命を抱きしめ、我が運命に体当たりしていくことであります。


その体当たりしていくこと、それが、「今日という日をどう生きるかという心意気」に転換されるアントロポゾフィーの学びの真髄であると、わたしは確信しています。


わたしもまた、ひとりの人として、長い、大いなる旅をして来ました。そして、今、生かされて、ここに、います。


そして、すべての人、すべての子どもたちも、大いなる旅の果てに、いま、生かされて、ここで、出会っている。


できることはたかが知れていたとしても、少なくともわたしが出会うすべての人に、その考えと感覚とを重ね合わせて、お付き合いをしていきたい。


それが、アントロポゾフィーの学びと実践に、相も変わらず、付き合い続けている、わたしの悲願なのです。


地味な歩みですが、確かな道を歩いていると、わたしもまた、実感しています。





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2023年03月10日

こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜



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平櫛田中『養老』



光、世の高みから、
 
こころに力満ちて流れくる。
 
現はれよ、こころの謎を解きながら、
 
世の考へるの確かさよ。
 
その光り輝く力を集め、
 
人の胸に愛を呼び覚ますべく。
 
 
 
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
 
 
 
考へる力といふものについて、人はよく誤解する。
 
 
考へるとは、あれこれ自分勝手にものごとの意味を探ることでもなく、浮かんでくる考へに次から次へとこころをさまよはせることでもなく、何かを求めて思ひわづらふことでもなく、ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
 
 
考へるとは、本来、みづからを措いてものごとに沿ふこと、思ひわずらふことをきつぱりと止めて、考へが開けるのをアクティブに待つこと、そして、ものごととひとつになりゆくことで、愛を生みだすこと。
 
 
今回もまた、鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから多くの示唆を得てゐる。
 
 
人が考へるとは、考へといふ光が降りてくるのを待つこと、人に考へが開けることだ。
 
 
考へが開けるきつかけは、人の話を聴く、本を読む、考へに考へ抜く、道を歩いてゐて、ふと・・・など、人によりけり、時と場によりけり、様々あるだらうが、どんな場合であつても、人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、考へは開ける。


たとへ、身体は忙しく、活発に、動き回つてゐても、頭のみは、静かさを湛えてゐるほどに、考へは開ける。
 
 
そして、頭での考への開けと共に、こころに光が当たる。考へが開けることによつて、こころにおいて、ものごとが明るむ。そして、こころそのものも明るむ。
 
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」といふときの、こころに差し込む光の明るさ、暖かさ。誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
 
 
明るめられたこころにおいて、降りてきたその考へは、その人にとつて、隈なく見通しがきくものだ。
 
 
また、見通しがきく考へは、他の人にとつても見通しがきき、その人の考へにもなりうる。
 
 
そもそも、考へは誰の考へであつても、考へは考へだから。
 
 
人に降りてくる考へは、その人の考へになる前に、そもそも世の考へである。
 
 
自然法則といふものも、自然に秘められてゐる世の考へだ。
 
 
人が考へることによつて、自然がその秘密「世の考へ」を打ち明ける。
 
 
その自然とは、ものといふものでもあり、人といふ人でもある。
 
 
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、我が子が、どういふ人になつていくのか、もしくは、自分自身がどういふ人なのか、それは、まづもつては、謎だ。
 
 
その謎を謎として、長い時間をかけて、その人と、もしくはみづからと、腰を据ゑてつきあいつつ、その都度その都度、こころに開けてくる考へを摑んでいくことによつてのみ、だんだんと、その人について、もしくは、わたしといふ人について、考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
 
 
それはだんだんと明るんでくる「世の高みからの考へ」でもある。
 
 
わたしなりの考へでやりくりしてしまうのではなく、からだとこころをもつて対象に沿ひ続けることによつて、「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
 
 
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。長い時間をかけて、ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
 
 
どちらにしても、そのやうに、考へと共にこころにやつてくる光とは、世からわたしたちへと流れるやうに贈られる贈り物といつてもいいかもしれない。
 
 
さらに言へば、それは、わたしの<わたし>が、わたしの<わたし>に、自由に、本当に考へたいことを、考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
 
 
―――――――
 
人のこころ!
あなたは安らう頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。
 
(『礎のことば』より)  
――――――――
 
 
その贈り物があるからこそ、わたしたちは、また、世の考へが贈られるのを待ちつつ考へることができるし、考への光が降りてくればこそ、わたしたちは、こころの明るさと共に、その考へを見通し、見はるかすことができ、その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
 
 
ある人の長所にあるとき、はつと気づいて、その人をあらためてつくづくと見つめ、その人のことを見直したり、好ましく思つたりもする。
 
 
長所にはつと気づく、それこそが、考への光が降りてきたといふことだらうし、その人について光をもつて考へられるからこそ、こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
 
 
人を愛する時とは、世の高みから、力に満ちて流れてくる「世の考へ」が、こころに開ける時。
 
 
考へが開けるとき、そこには、きつと、愛がある。
 
 
愛が生まれないときは、考へてゐるやうで、実は考へてゐない。自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、巡り巡る考へや思ひに翻弄されてゐるときだ。
 
 
考へることによつて愛が生まれることと、愛をもつて考へることとは、きつと、ひとつの流れとして、人の内側で循環してゐる。
 
 
  
 
光、世の高みから、
こころに力満ちて流れくる。
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考へるの確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の胸に愛を呼び覚ますべく。
  



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こころのこよみ(第47週)〜行はれたし、精神の慮りを〜



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世のふところから立ち上がつてくるだらう、
 
感官への輝きを甦らせる繰りなす喜びが。
 
それは見いだす。わたしの考へる力が、
 
神々しい力を通して備へられ、
 
力強く、わたしの内に、生きることを。
 
 
 
Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.
 
 
 
 
以前にも引用させてもらつたが、鈴木一博さんが以前、日本アントロポゾフィー協会会報に掲載された『礎(いしずえ)のことば』から、ここ二、三週間の『こころのこよみ』への大きな示唆をもらつてゐる。
 
 
精神、こころ、からだ。
 
 
人は、この三つの次元の違ふありやうからなりたつてゐる。
 
 
自分自身を顧みても、やはり、どちらかといふと、精神が上の方に、からだが下の方にあり、こころがその間に挟まつてゐることを感じる。
 
 
そして、この『こころのこよみ』は、その名の通り、真ん中の「こころ」が、活き活きと生きることを願つて書き記されてゐる。
 
 
この時期、陽の光がだんだんと明るく、暖かく、長く、わたしたちを照らし出すとともに、地から、少しづつ少しづつ、草木の力が繰りなしてきてゐるのを見てとることができる。そして、「啓蟄」といはれるやうに、虫たちをはじめとする動く生き物たちも地の下から、水の中から這ひ出してきてゐる。
 
 
わたしたち人は、どうだらう。
 
 
人においても、近づいてきてゐる春の陽気にそそられて、からだもこころも動き出さうとしてゐないだらうか。
 
 
世の、春に近づいていく繰りなしが、まづは、下のからだへの蠢(うごめ)き、繰りなしを誘ひ出し、感官へのそのやうな働きかけが、真ん中のこころを動かさうとしてゐないだらうか。
 
 
その動きこそが、喜びにもなりえる。
 
 
以下、鈴木さんの文章からの引き写しだが、その精神の想ひ起こし、精神の慮り、精神の見はるかしに、まさにリアリティーを感じる。
 
 
________________
 
 
 
こころといふものは、常にシンパシーとアンチパシーの間で揺れ動いてゐる。
 
 
しかし、人は、そのシンパシー、アンチパシーのままにこころを動かされるだけでなく、その間に立つて、そのふたつの間合ひをはかり、そのふたつを引き合はせつつ、バランスを保ちつつ、静かなこころでゐることもできる。
 
 
むしろ、さうあつてこそ、こころといふものをわたしたちは感じとることができる。
 
 
そのこころの揺れ動き、そしてバランスは、からだにおける心臓と肺の張りと緩みのリズムとも織りなしあつてゐる。
 
 
こころのシンパシー、アンチパシーとともに、心拍は高まりもするし、低まりもする。
 
 
また、呼吸といふものも、そのこころのふたつの動きに左右される。吐く息、吸ふ息のリズムが整つたり、乱れたりする。
 
 
そして、心拍の脈打ちと脈打ちの間、吐く息、吸ふ息の間に、静かな間(ま)をわたしたちは感じとることができる。
 
 
その静かな間(ま)を感じとつてこそ、わたしたちは、リズムといふもの、時といふものをリアルにとらへることができる。
 
 
そして更に、こころにおいて、シンパシーとアンチパシーとの間で生きつつ、からだにおいて、心と肺のリズムの間で生きつつ、わたしたちは、世といふものとの間においても、リズミカルに、ハーモニックに、調和して生きていく道を探つていくことができる。
 
 
荒れた冬の海を前にしてゐるときと、茫洋として、のたりのたりと静かに波打つてゐる春の海を前にしてゐるとき。
 
 
峨々たる山を前にしてゐるときと、穏やかな草原を前にしてゐるとき。
 
 
いまにも雨が降り出しさうな、どんよりとした曇り空の下にゐるときと、晴れ晴れとした雲ひとつない青空を仰ぐとき。
 
 
しかめ面をしてゐる人の前にゐるときと、につこりしてゐる人の前にゐるとき。
 
 
そして、春夏秋冬といふ四季の巡りにおいて、それぞれの季節におけるからだとこころのありやうの移りゆき。
 
 
世といふものと、わたしたちとの間においても、ハーモニーを奏でることができるには、そのふたつが、ひとりひとりの人によつて、はからわれ、釣り合はされ、ひとつに響き合つてこそ。
 
 
世とわたし。そのふたつの間を思ひつつ、はかりつつ、響き合はせる。その精神の慮(おもんぱか)りを積極的にすることによつて、人は、世に、和やかに受け入れられる。
 
 
人と世は、ひとつに合はさる。
 
 
そして、人は、歌ふ。春夏秋冬、それぞれの歌を歌ふ。
 
 
慮る(besinnen)は、歌ふ(singen)と語源を同じくするさうだ。
 
 
こころにおける精神の慮り、それは歌心だ、と鈴木さんは述べてゐる。
 

 人のこころ!
 あなたは心と肺のときめきに生き
 心と肺に導かれつつ、時のリズムを経て
 あなたそのものを感じるに至る。
 行はれたし、精神の慮りを
 こころの釣り合ひにおいて。
 そこにては波打つ世の
 成りつ為しつが
 あなたの<わたし>を
 世の<わたし>と
 ひとつに合はせる。
 もつて、あなたは真に生きるやうになる
 人のこころの働きとして。
         (『礎のことば』より)
 
 
春の訪れとともに世のふところから、下のからだを通して、感官への輝きを通して、こころに、繰りなす喜び。
 
 
そして、上の精神からの考へる力。その考へる力は、冬のクリスマスの時期を意識的に生きたことによつて、神々しい力によつて備へられてゐる。その考へる力によつて、こころにもたらされる力強い<わたし>。
 
 
世とからだを通しての下からの繰りなしによつて、こころに生まれる喜びといふ情を、上の精神からやつてくる考へる力が支へてくれてゐる。
 
 
この下からと上からのハーモニックな働きかけによつて、真ん中のこころに、喜びが生まれ、育つていく。
 
 

 
 
世のふところから立ち上がつてくるだらう、
感官への輝きを甦らせる繰りなす喜びが。
それは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
力強く、わたしの内に、生きることを。
 
 
 

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こころのこよみ(第46週)〜行はれたし、精神の想ひ起こしを〜



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世、それはいまにもぼやかさうとする、
 
こころのひとり生みの力を。
 
だからこそ、想ひ起こせ、
 
精神の深みから輝きつつ。
 
そして観ることを強めよ、
 
意欲の力を通して、
 
己れを保つことができるやうに。
 
  
 
Die Welt, sie drohet zu betäuben 
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf 
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte 
Sich selbst erhalten kann.
 
 
 
 
「ひとり生み」とは、何か。
 
 
シュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講に、そのことばが出てくる。
 
 
かつて福音書が書かれた頃、「ふたり生み」とは、父と母の血の混じりあいから生まれた者のこと、「ひとり生み」とは、そのやうな血の混じりあいから生まれた者でなく、神の光を受け入れることによつて、精神とひとつになつた者、精神として生まれた者、神の子、神々しい子のことだつた。
 
 
今から二千年以上前には、人びとの多くは、「わたし」といふ、人のための下地をすでに備へながらも、後に聖書に記されるところの「光」をまだ受け入れることができなかつた。
 
 
「群れとしてのわたし」のところには、「光」は降りてきてゐたが、ひとりひとりの人は、その「光」をまだ受け入れてゐなかつた。
 
 
「ひとりのわたし」といふ意識はまだなく、おらが国、おらが村、おれんち、そのやうな「ふたり生みの子」としての意識が、ひとりひとりの人のこころを満たしてゐた。
 
 
しかし、少数ではあるが、「光」を受け入れた者たちは、その「光」を通してみづからを神の子、「ひとり生みの子」となした。
 
 
物の人がふたり生み、精神の人がひとり生みだ。
 
 
そして、キリスト・イエスこそは、その「光そのもの」、もしくは「光」のおおもとである「ことばそのもの」として、「父のひとり生みの息子」として、肉のつくりをもつてこの世の歴史の上に現れた。
 
 

ことば(ロゴス)、肉となれり(ヨハネ書一章十四節)
 
 
彼こそは、ひとりひとりの人に、こよなく高く、ひとりの人であることの意識、「わたしはある」をもたらすことを使命とする者だつた。
 
 
わたしたちが、その「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、キリスト・イエスの誕生と死を想ひ起こすといふこと。
 
 
そして、わたしたちひとりひとりの内なる、「わたしはある」を想ひ起こすこと。
 
 
それは、日々のメディテーションによつて生まれる、精神との結びつきを想ひ起こすことであり、目で見、耳で聞いたことを想ひ起こすことに尽きず、精神の覚え「わたしはある」を想ひ起こすことだ。
 
 
その想ひ起こしがそのやうにだんだんと深まつていくことによつて、人は、「わたしはある」といふこと、「みづからが神と結ばれてある」といふこと、みづからの「わたし」が、神の「わたし」の内にあるといふこと、そのことを確かさと安らかさをもつて、ありありと知る道が開けてくる。
 
 
「想ひ起こす」といふ精神の行為は、意欲をもつて考へつつ、いにしへを追つていくといふことだ。
 
 
普段の想ひ起こすことにおいても、頭でするのみでは、その想ひは精彩のないものになりがちだが、胸をもつて想ひ起こされるとき、メロディアスに波打つかのやうに、想ひがこころに甦つてくる。
 
 
さらに手足をもつて場に立ちつつ、振る舞ふことで、より活き活きと、みずみずしく、深みをもつて、想ひが甦つてくる。
 
 
故郷に足を運んだ時だとか、手足を通して自分のものにしたもの、技量となつたものを、いまいちどやつてみる時だとか、そのやうに手足でもつて憶えてゐることを、手足を通して想ひ起こすかのやうにする時、想ひが深みをもつて甦る。
 
 
そして、そのやうな手足をもつての想ひ起こしは、その人をその人のみなもとへと誘ふ。
 
 
その人が、その人であることを、想ひ起こす。
 
 
その人のその人らしさを、その人はみづから想ひ起こす。
 
 
例へば、この足で立ち、歩くことを憶えたのは、生まれてから一年目辺りの頃だつた。その憶えは、生涯、足で立つこと、歩くことを通して、頭でではなく、両脚をもつて想ひ起こされてゐる。


その人が、その人の足で立ち、歩くことを通して、その人の意識は目覚め、その人らしさが保たれてゐる。
 
 
だから、年をとつて、足が利かなくなることによつて、その人のその人らしさ、こころの張り、意識の目覚めまでもが、だんだんと失はれていくことになりがちだ。
 
 
手足を通しての想ひ起こし、それは、意欲の力をもつてすることであり、人を活き活きと甦らせる行為でもある。
 
 
そして、それはメディテーションにも言へる。
 
 
行はれたし、精神の想ひ起こしを
もつて、あなたは真に生きるやうになる、
まこと人として、世のうちに
(シュタイナー『礎のことば』1923年12月25日)
 
 
メディテーションによる想ひ起こしは、手足による想ひ起こしに等しいもの。
 
 
メディテーションとは、意欲をもつての厳かで真摯な行為。
 
 
毎日の行為である。
 
 
「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、それは、わたしの「わたし」が、神の「わたし」の内に、ありありとあること、「わたしのわたしたるところ」、「わたし」のみなもと、それを想ひ起こすことだ。
 
 
世に生きてゐると、その「ひとり生みの力」をぼやかさうとする機会にいくらでも遭ふ。
 
 
世は、ふたり生みであることから生まれる、惑ひといふ惑ひをもたらさうとする。
 
 
「だからこそ、勤しみをもつて、想ひ起こせ」。
 
 
「惑ひといふ惑ひを払つて、想ひ起こせ」。
 
 
想ひ起こされたものをしつかりとこころの目で観ること、もしくは想ひ起こすといふ精神の行為そのものをも、しつかりと観ること、
それがつまり、「観ることを強める」といふことだ。
 
 
その意欲の力があつてこそ、人は、「己れを保つことができる」、おのれのみなもとにあることを想ひ起こすことができる。
 
 
 


世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。



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2023年03月09日

わたしたちの屈折『ヴァルドルフ教育における歴史の授業』に参加して



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先日、Shikoku Anthroposophie-Kreis主催の 「対談『ヴァルドルフ教育における歴史の授業』〜問いと実践〜」というオンラインでの営みに参加させていただきました。


京田辺シュタイナー学校の中村真理子先生が歴史の授業の実践を分かりやすく語り直して下さる、滅多にない、まことにありがたい機会でした。


中村先生の語って下さったポイントはいくつもあり、どれもがとても大切なことだったのですが、その中でも、とりわけ印象深いものと受け取ったことがありました。


それは、子どもの年齢に応じて、そのときそのときに子どもがこころの奥底で求めているものを、神話における神々の振る舞いや歴史上の人物像を通して、物語ることの重要性です。


子どもの幾つの年齢で、何を素材として取り上げることができるのかということは、まさしく、シュタイナーの教育学から、アントロポゾフィーの人間学から見識を得ることができます。


そこで、このオンラインの営みが設けられるに至った、ひとつの問いがありました。


それは、子どもたちに歴史を教えてゆく際に、アントロポゾフィーの人間観・世界観から得られる歴史への見識に基づく授業をすることと、日本の歴史について教える際の、微妙な(もしくは、明らかな)違和感を現場の先生方はどう感じ、実際にどう授業されているのか、という問いでした。


中村先生は、物語の出自の洋の東西を問わず、子どもがいま求めているもの、子どもの成長に資するものを、絵姿豊かに語ることが、大切であることを教えて下さいました。


そして、むしろ、日本の神話や物語、人物伝に、子どもの成長に資するものをより多く見いだして行くことの重要性を仰っていたことも印象的でした。


この時間を共に過ごさせていただいた後、わたし自身の中で、生産的な問いが生まれて来てくれていることもありがたいことだと感じています。


学びという学びは、つまるところ、自己認識を目指していて、古代ギリシャの密儀の中のことば「汝みずからを知れ」は、いまも、わたしたちに痛切な響きをもたらしているように実感します。


それは、個人個人のことでもありますが、きっと、民族のこと、国家のことでもあるでしょうし、歴史を学ぶとは、人類が人類を知る、民が民を知る、人が人を知るということに他ならないように思います。


世界の中に日本があり、外があるからこそ、内がある。


外国のことをよく知ることを通して、内なる国、自国のことを知る、そんな自己認識のありかた。


学びには、そういう側面が欠かせません。


そして、もうひとつ、自分自身の中心軸をしっかりと打ち樹てるべく、我が民族、我が国の独自の精神文化をより深く追求していくことによる自己認識のあり方。


どちらかひとつではなく、両方の学びの間に釣り合いが取られて、わたしたちは、個人においても、民族のことにおいても、国家のことにおいても、内と外とのハーモニーを健やかに生きることができるように思います。


小学生から中・高校生の歴史の学びにも、その視点がとても重きをなします。


ただ、ここに大きく深い問題があるように感じています。


それは、日本の近・現代史は、精確に言うならば、日本の精神は、相当、屈折している、もしくは、屈折させられているということです。


明治維新以来、西洋の最新の文明に追いつけ、追い越せという文明開化のスローガンの下、とりわけ、若いエリートたちは、それまでの自国の文明文化をある意味、大いに否定し、父や祖父、母や祖母の持っていた考え方、生き方を古臭いものとして葬り去ろうとして来た、そんな近代の歩みであったからです。


言い方を変えますならば、もともと成長していた樹木を、真ん中、もしくは根もとからぶった切って、全く違うところで育った木を接ぎ木した上で、「それ生えろ、それ伸びろ、それ花咲け、それ稔れ」とばかりに大急ぎでやってきたものですから、無理がたたる。


それは、外国から開国を要求され、植民地化されるかどうかという瀬戸際での国家的判断からなされたことですので、歴史の必然としか言いようがない、けれども、何とも言えないような苦しみと哀しみを感じざるを得ないことがらです。


その無理が無理のまま最後に爆発してしまったのが、78年前の世界大戦での日本の大敗北であったのではないかと思うのです。


そして、戦後、明治維新以来の無理の反動でしょうか、わたしたちは自主独立する心意気など全く失い、しかし、また、明治維新以来のヨーロッパとアメリカこそが主(あるじ)であり、我々は従(おきゃく・しもべ)であるという底深い観念・心情がこころの奥底に染み付いてしまっているように思われますが、どうでしょう。


そして、シュタイナー教育が、今は亡き子安美知子さんの「ミュンヘンの小学生」という一冊の新書の1975年発刊以来、約50年近くに亘って、日本に少しずつ広まって参りました。


ヨーロッパからの精神文化として伝わって来たシュタイナー教育運動、その日本における伝播においても、やはり、先ほど書きました、日本民族の近・現代にずっと引きずっている、どうしようもない屈折とコンプレックス、自己不信感が伴われて来たのではないだろうか。


わたし自身の問題意識として、そのことがずっとあります。


子どもたちに歴史を教えるということは、そういう事情の上になされることだからこそ、わたしたち大人の意識のありようがまことに難しい。


その屈折を屈折のまま子どもに伝えることもひとつの教育と言えるのかもしれませんが、やはり、大人自身が、明治維新以来の屈折を、ひとり、引き受け、人としてその屈折をまっすぐにしようという意識と気概が要るように念うのです。


屈折を屈折と自覚せずに、子どもたちに歴史を教えることは、子どもたちを複雑な、まさに屈折せざるを得ない存在へと育ててしまうことにならないだろうか・・・。


わたしたち昭和の後半から平成に教育を受けて来た者たちは皆、そういう教育を受けて来たのではないだろうか。だからこそ、内において、皆、とても屈折している・・・。


アントロポゾフィーを学ぶわたしたち日本人は皆、そのことに向き合い始めていると思います。


そして、これは、大変なことだとわたしは考えています。だからこそ、このオンラインに参加させていただきました。そして、この問い、この考える営みを持続させていくこと、さらには、実際の教育現場を創りなしてゆくことで、これからの教育を新しく創ってゆくことが、わたしにとっての人生の大きな課題のひとつなのです。


Shikoku Anthroposophie-Kreisの皆様、そして中村先生、まことに貴重な機会を与えて下さいました。どうもありがとうございました。





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2023年03月08日

3/17(金)19:30〜21:00 シュタイナーの会員への手紙B オンラインクラス



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今からおよそ100年前に書かれたシュタイナーから協会員に向けての手紙を取り上げているのですが、100年後の今、これらの手紙は、アントロポゾフィーという精神の学問に本当に惹かれているすべての人に向けてのものだと感じます。


この精神からの世界観、人間観の学びと実践を、人生において共にやって行きたいと欲しておられる方と、この内容をぜひ分かち合いたい。そう思いました。


計18通の内、今回は3通目ですが、いつからでもご参加頂ける内容です。


アントロポゾフィーにご関心のおありになられる方、共に読み深めて参りませんか☺️


講師:諏訪耕志



【日時】
毎月第三金曜日午後7時半から9時までオンラインクラス。 
今回は、3月17日です。


【参加費】
初回体験参加のみ3500円 
以降5回連続15000円

参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。


※扱うテキストは、
 わたくし諏訪の拙訳による「会員への手紙」を用います。


以下へのお振込み、お問い合わせ、お申し込みになります。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/



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2023年03月05日

意識していい自分の息遣い



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子どもを育んでいこうとするわたしたちの課題。


わたしたちの教育の課題は、子どもの精神・こころを、からだと調和させるということです。


その調和のためには、呼吸というものが、とても重きをなします。


わたしたちは、子どもの傍で、歌を歌い、お話を読んだり語ってあげたりすることができます。


また、ものを観る時、聴く時、ものに触れる時、ものを扱う時、ものを言う時、わたしたちは深い息遣い、活き活きとした息遣いで、それらの行為をなしていくことができます。


その時になされるわたしたち大人の息遣いが、子どもの息遣いをおのずと整えていくのです。


その整えられた息遣いは、その子の胸の領域から下腹部を中心とする新陳代謝を司る領域に働きかけ、その子の血の巡りを促し、臓器を健やかに成り立たせていくことの助けになります。


さらに、呼吸の働きが持つより大事な側面として、呼吸のリズミカルな繰りなしは、頭を中心とする神経・感官のシステムにも働きかけていき、その子が、深い息遣いで、静かに、ものを観、ものを聴き、ものに触れることのできる力をみずから育んでいくことを支えていきます。


子どもが静かさの中で世に生きることを、理屈からではなく、息遣いというおのずからの働きによって学んでいくことができるのです。


その子の精神・こころが、その子のからだ(とりわけ神経・感官のシステム)に健やかに流れ込んでいくことによって、その子は静かさの中で生きることを学んでいきます。


精神・こころとからだの間にハーモニーが生まれてくるのです。


子どもの息遣いは大人の息遣いからなりたっていきますので、わたしたち大人の意識次第で、そのハーモニーが子どもの中に生まれることを助けることができます。


教師の方だけではなく、子どもをを持つ親御さんの方々とも、この意識を分かち合っていくことができたらと希っています。


そのためには、大人自身が折々の芸術体験、芸術実践の時間を持つことです。


人は、科学だけでは、人として生きていくことはできません。芸術が必要です。


そして、家庭こそが、子どもの育ちにとっての無尽蔵に豊かな場所なのです。



posted by koji at 12:04 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

またまた、ありがとうございました!絵本の読み聴かせのヒント(2)in 宮城



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先週に引き続き、言語造形を通しての絵本の読み聴かせの時間。ご参加くださった皆さん、どうもありがとうございました。


息遣いを深く、活き活きとさせながら、絵本に書かれてある一文一文を丁寧に、かつ、我が身から解き放つように声にすることによって、ことばが空間に充ち満ちて響きゆきます。そして、静かさという間が生まれます。


そうすると、部屋が、空間が、語り始めるのです。


家庭の中で、子どもと一緒に絵本を読み始めると、そこが、ことばのお宮、ことばのお社になるのです。


そうしますと、子どもは、ことばを聞くというよりも、ことばに包まれる、そして、ことばを生きる、ことばを体験することができる。


特に、歯が生え変わる前の幼な子たちは、全身が感官です。


全身を耳にして、傍にいる大人のことば遣い、息遣いを聴いています。


それは、思っているよりも深く、子どものからだの奥深くに染み込んでゆきます。


だからこそ、わたしたちは、幼な子を育む、そんなことばのお宮、ことばのお社を打ち樹てるべく、言語造形による絵本の読み聴かせ、お話の語り聴かせをすることのできる人材養成をしていきたいと考えています。


そして、シュタイナー幼児教育を真ん中に置いた、お母さんやお父さんがゆっくりと安らかなこころもちに帰りつつ、芸術の営みに触れることのできる空間づくりの実現を目指して、回を重ねて行くことができたらと考えています。


同じようなこころざしを抱いている方、ぜひ、ご参加くださいね。


次回は、5月7日(日)9時半から12時まで、宮城野コミュニティセンター・大広間(仙台市宮城野区萩野町2-13-10 )にて、ワークショップをいたします。限定10名様です。お申し込み、お早めにいただけましたら、幸いです。



日時・場所:
2023年5月7日(日)9:30-12:00
 宮城野コミュニティセンター・大広間(仙台市宮城野区萩野町2-13-10 )
定 員:各回10人(先着)
参加費:3,000円
申 込:フォームよりお申し込み下さい。
https://ssl.form-mailer.jp/fms/c4bb41d8772911
持ち物:
・声に出して読みたい絵本、詩集、小説などひとつ
・筆記用具
・飲み物
 *動きやすい格好でお越しください。
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講 師:諏訪耕志(ことばの家)
1964年大阪市出身・在住。1994年よりルードルフ・シュタイナーハウスにて言語造形家鈴木一博氏に師事。現在、舞台公演、朗読・語りの会、講座などを通して活動中。2004年より、言語造形のアトリエ「ことばの家」を主宰
.
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言語造形とは
ことばの本来的な要素であるかたち、動き、間合いなどを、人間に相応しく、我が身をもって、意識的に創造していこうとする、言語芸術。「ことばを話す術・語る術」に取り組む時、人は必然的に、「わたしという人間」に取り組むことになります。その人の生命が、こころが、精神が、ことばに満ちる時、ことばはことば本来の輝きを取り戻し、人が人本来の輝きを取り戻します。
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※キャンセルポリシー
開催日1週間前までキャンセル無料。それ以降、お休みされる場合は、お友達などにご紹介ください。ご紹介いただけない際には、恐れ入りますが参加費の50%をお振込みいただきます。
※お子さんの同伴について
集中して学びを深めていただくため、1歳以上のお子さんの同伴はご遠慮ください。(0歳から1歳までのお子さんは同伴いただいて大丈夫です)
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主 催:アントロポゾフィーハウス宮城


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2023年03月02日

七年生たちとの狂言の舞台づくり



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今週初めから、仙台にある「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」に来て、もうすぐ七年生を終えようとしている子どもたちと狂言のお稽古をしています。


言語造形を通しての狂言の作品作りなのです。


わたしが来るまでに、担任の福島玲子先生の導きの下、ほとんど完璧にせりふを憶えている子どもたちには、本当に感心しました。この子たちにとっては、記憶するということが、頭の作業というよりも、からだまるごとの営みだと、観ていて感じます。


舞台の上を幾何学におけるフォルムの上を正確に歩きつつ、日を追うごとに、腹の底から空間一杯に轟くような声を出し、ひとつひとつの所作も型に沿って作りなして来た子どもたちは、まるで、大地から樹液を吸い上げて大空高く聳え立つ樹木のようになって参りました。


思春期に入って来た子どもたちは、これまでの軽やかさ、透明さを湛えたありようから、重さに支配されるありようへと成長して来ますが、だからこそ、大地にしっかりと根付くような、我が足でしっかりと立つ力をこそ求めています。


狂言という舞台芸術は、そういう子どもたちにとって、何か、とてもよき作用を及ぼしているようです。


まだまだ寒い仙台ですが、稽古を終えた後の子どもたちは、汗をかき、ほっぺも紅潮しています。


また、これまで一度も生の狂言の舞台を観たことがないというこの子たちですが、だからこそ、舞台に立つということの直接的な体験をすることができているのではないか、そう感じています。


子どもたちが毎日このような芸術体験だけでなく、まさに芸術性に満ちた国語・算数・理科・社会の授業を積み重ねることができる、このシュタイナー学園、子どもたちだけでなく、大人にとっても、すべての人にとっても、本当に天からの恵みのような場所だということを、今回も、つくづく実感しています。


この学園を支えているすべての方々に、感謝と讃嘆です。


わたし自身、この一週間、学園の様々な方々と、学園のこと、共同体というもののこと、教員養成のこと、ひとりひとりのありかたなどについて深く親しく語り合えていることにも、得難いありがたさを感じています。


明日は、狂言への取り組みの最終日。子どもたちとことばの芸術を生きたいと思います。





posted by koji at 23:31 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ありがとうございました!言語芸術と日本 アントロポゾフィーハウス宮城



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日本という国を、日本語という言語を、日本ならではの暮らし方、ものの感じ方、考え方を、少なくても数千年にわたって保ち続けることができたのはなにゆえでしょうか。


それは、政治(まつりごと)のあり方に、常に変わらぬ精神的な中心が存在し続けて来れたからであり、さらには、文学を、ことばの芸術を守り抜き、育て上げて来たからです。


古き大和ことばによって語られ謡われた『古事記(ふることぶみ)』が、『萬葉集(よろづのよのふみ)』が、国の危機のさなか、編纂され、国民に愛されて来たからこそ、人は古代からの連綿とした歴史の継続を実感することができたのです。


だから、いまも、日本はあります。


この国をこの国として存続させていきたい、子どもたちにこの国を健やかな国として引き継いでいきたい、そんな熱い念いをもって、多くの方がお集まりくださいました。


本当に、感謝です。


また、5月7日(日)に、『言語芸術と日本』として言語造形のクラスを仙台にて持たせていただきます。


そんな意識を共有すべく、どうぞお集まりください。お待ちしています。





posted by koji at 21:49 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

一冊の本はひとりの生きた人格であること  オンラインクラスへのお誘ひ






ルードルフ・シュタイナーによつて1904年から書かれ始めた『いかにして人が高い世を知るにいたるか』といふ一冊の本。

この本は、まさに、シュタイナーといふひとりの人の、今も活き活きと息づてゐる精神の命が脈打つてゐる本であることを実感します。

よつて、ひとりの生きてゐる師に面するやうなこころもちでこの本を読むのです。



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【アントロポゾフィーハウス ことばの家 オンラインクラスのご案内】

【「いかにして人が高い世を知るにいたるか」クラス】

 月曜クラス(毎週) 20時〜21時
 木曜クラス(毎週) 20時〜21時
 
●ご参加費
体験単発参加  2000円
お月謝制(基本的に月に4回) 5000円




【「シュタイナーの会員への手紙」』クラス】

【日時】
2023年1月20日(金)を第一回目としまして、
毎月第三金曜日午後7時半から9時までオンラインクラスです。 
途中からでもご参加可能です。

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【参加費】
初回体験参加のみ3500円 
以降5回連続15000円
.
参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。
.
※扱うテキストは、
 わたくし諏訪の拙訳による「会員への手紙」を用います。




【「テオゾフィー 人と世を知るということ」クラス】

●開催日時
毎月二回 いずれも土曜日
(正確なスケジュールは、下記の「含まれるクラス」欄にてどうぞご確認ください)
午前10時〜12時

●ご参加費
体験単発参加  3500円
6回連続    18000円


※連続ご参加の場合、ご自身のご都合による欠席は講座費は払い戻しはいたしません。後日、録画した動画をご覧いただけます。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



HP「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
https://kotobanoie.net/
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諏訪耕志ブログ『断想・・アントロポゾフィーに学びつつ・・』
http://kotobanoie.seesaa.net/

2023年03月01日

こころのこよみ(第45週)〜こころの満ち足り、晴れやかさ〜



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東山魁夷 「碧湖」



考への力が強まる、
 
精神の生まれとの結びつきの中で。
 
それは感官へのおぼろげなそそりを
 
まつたき明らかさへと晴れ渡らせる。

こころの満ち足りが、

世のくりなしとひとつになれば、
 
きつと感官への啓けは、
 
考へる光を受けとめる。
 
 
 

Es festigt sich Gedankenmacht
Im Bunde mit der Geistgeburt,
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
Zur vollen Klarheit auf.
Wenn Seelenfülle
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
Muß Sinnesoffenbarung       
Des Denkens Licht empfangen.
 
 
 
 
ここで言はれてゐる「考へる力」とは、余計なことを考へない力のことである。
 
 
そして、この時、この場で、何が一番大事なことかを考へる力のことだ。 
 
 
その力を持つためには、練習が要る。その練習のことを、シュタイナーはメディテーションと言つた。             
 

普段に感じる共感(シンパシー)にも反感(アンチパシー)にも左右されずに、浮かんでくる闇雲な考へを退けて、明らかで、鋭く、定かなつくりをもつた考へに焦点を絞る。ひたすらに、そのやうな考へを、安らかに精力的に考へる練習だ。
 
 
強い意欲をもつて考へることで、他の考へが混じり込んだり、シンパシーやアンチパシーに巻き込まれて、行くべき考への筋道から逸れて行つてしまわないやうにするのだ。
 
 
その繰り返すメディテーションによつて、「考への力」が強く鍛へられ、その力がそのまま、「光」の働きであることを感覚するやうになる。
 
 
この時期に、メディテーションによつて強められる考への力が、こころに及んでくるひとつひとつのそそりを明るく照らす。


一つ一つの感覚、情、意欲、考へが、考への明るく晴れ渡らせる光によつて、明らかになる。
 
 
それが明らかになるほどに、こころも晴れ晴れとした満ち足りを感じる。こころのなかで感覚と精神が結ばれるからだ。
 
 
そして、そのこころの満ち足りは、自分だけの満ち足りに尽きずに、人との関はり、世との関はりにおいてこそ、本当の満ち足りになるはずだ。
 
 
こころの満ち足りは、やがて、ことばとなつて羽ばたき、人と人とのあひだに生きはじめ、精神となつて、人と世のあひだに生きはじめる。
 
 
こころの満ち足りが、世の繰りなしとひとつになつてゆく。
 
 
ひとりで考へる力は、考へる光となつて、人と人のあひだを、人と世のあひだを、明るく晴れ渡すのだ。
 
 
 

考への力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まつたき明らかさへと晴れ渡らせる。
こころの満ち足りが
世の繰りなしとひとつになれば、
きつと感官への啓けは、
考へる光を受けとめる。
 
 
 

posted by koji at 14:32 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

9歳頃から14歳頃までの文法をもっての国語教育






9歳頃、子どもは、これまでの「自分と世はひとつ」といふ感覚が去りゆき、自分の両親や教師を含め、周りの世を対象化して見つめ始めます。

シュタイナー教育では、「ルビコン川を渡る」といふ言ひ方で、その頃の子どものあり方を表現してゐます。

その頃から、子どもは、当たり前に過ごしてゐたこと、生きてゐたことを、改めて対象化、意識化して行くべき時期が始まるのです。

その子どもの成長に資すもののひとつが、文法の学びです。

それは、当たり前にこれまで使つてゐたことばの運用には、実は、法則があるのだといふことへの驚きに満ちた学びのひとつなのです。

そして、文法をそのやうに驚きをもつて学びゆくことによつて、ことばの用ゐ方に筋道のやうなものが生まれ、こころに骨格ができ始めます。

第二・七年周期の真ん中ごろから始まる、こころの骨格づくりは、その頃の子どもたちが夢見ごこちではあつても切に求めてゐるものなのです。



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『大阪・第三土曜日午前オンサイトクラス
「言語造形 いのちとこころのエクササイズ」』
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人のいのちを司っている「エーテルのからだ」。
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幼児期にはそのからだは、フィジカルな体をなりたたせるためにまさに手一杯です。
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しかし、だんだんとエーテルのからだはそのお役目から解き放たれてゆき、そこに波打っているいのちの力は、考える力、記憶する力へとなり変わっていきます。
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そして、老いてくると共に、それらエーテルのからだから解き放たれて来る考える力、記憶する力が、その人の<わたし>によってしっかりと掴まれていないと、その人を興奮させ、憂鬱にさせ、果ては認知症への導きとなってしまいます。
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つまり、考える力・記憶の力と、からだとこころの健康とは、すこぶる近しい関係にあります。
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わたしたちは、言語造形を通して、また、それに準じるエクササイズ・練習を通して、〈わたし〉とエーテルのからだをしっかりと結びつけるための時間を創って参ります。
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約三年ぶりに再会する大阪「ことばの家」での言語造形の時間。
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これまでよりも、人のいのちとこころの健やかさをかたちづくってゆくことをより意識してクラスをしていきます。
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どうぞ、ご関心のおありになる方、一度、大阪まで、お運びください。お待ちしています。
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講師:諏訪耕志

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【日時】
第三土曜
午前10時から13時までの毎月一回のオンサイトクラスです。
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【場所】
アントロポゾフィーハウス ことばの家 
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20
最寄り駅 南海高野線「帝塚山」 
     南海阪堺線「姫松」 
     地下鉄四つ橋線「玉出」
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【参加費】
初回体験参加のみ2500円 
以降5回連続30000円
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※ご参加の方は、声に出してみたい文学作品をひとつ持ってきてください。また、教室でのマスク着用はおひとりおひとりの自由に任せておりますので、どうぞご了承ください。
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【アントロポゾフィーハウス和歌山 クラスのご案内】

日時:毎月第二の月曜日
   10時から12時 言語造形
   12時半から14時 アントロポゾフィーの学び

場所:和歌山県岩出市内の公民館

参加費:初回体験 5000円
    5回連続 20000円

お問い合わせ・お申し込み:
  アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/



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【アントロポゾフィーハウス ことばの家 オンラインクラスのご案内】

【「いかにして人が高い世を知るにいたるか」クラス】

 月曜クラス(毎週) 20時〜21時
 木曜クラス(毎週) 20時〜21時
 
●ご参加費
体験単発参加  2000円
お月謝制(基本的に月に4回) 5000円




【「シュタイナーの会員への手紙」』クラス】

【日時】
2023年1月20日(金)を第一回目としまして、
毎月第三金曜日午後7時半から9時までオンラインクラスです。 
途中からでもご参加可能です。

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【参加費】
初回体験参加のみ3500円 
以降5回連続15000円
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参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。
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※扱うテキストは、
 わたくし諏訪の拙訳による「会員への手紙」を用います。




【「テオゾフィー 人と世を知るということ」クラス】

●開催日時
毎月二回 いずれも土曜日
(正確なスケジュールは、下記の「含まれるクラス」欄にてどうぞご確認ください)
午前10時〜12時

●ご参加費
体験単発参加  3500円
6回連続    18000円


※連続ご参加の場合、ご自身のご都合による欠席は講座費は払い戻しはいたしません。後日、録画した動画をご覧いただけます。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/


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HP「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
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諏訪耕志ブログ『断想・・アントロポゾフィーに学びつつ・・』
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you tube channel「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
チャンネル登録、どうぞよろしくお願ひします。
https://www.youtube.com/user/suwachimaru

言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーの精神科学・アントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想ひ起こさせようとしたのです。

わたくし諏訪耕志は、1993年から、アントロポゾーフ・言語造形家である鈴木一博氏に師事し、2003年より「ことばの家」として、大阪の住吉にて、言語造形、ならびに、アントロポゾフィーを学ぶ場を設けてゐます。


2023年02月28日

ありがとうございました! ことばと子どもの育ち アントロポゾフィーハウス宮城



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深い息遣いによって、自分自身に立ち戻るひととき。


そして、お母さんご自身が、ご自身であることに安らぎを感じるひととき。


それが、幼な子と分かち合う、絵本の読み聞かせのひと時です。


絵本に記されてある芸術的なことば遣い、息遣いを通して、お母さんご自身が安らかなこころもちへと立ち戻るのです。


一日に3分でもいい、そんな幼な子との時間を分かち合えること、それはお母さんにとっても、子どもにとっても、その時にしか持つことのできないかけがえのないひとときなのです。


2/26のワークショップへお越しくださった皆さん、どうもありがとうございました。


また、3/4(土)9時半から12時まで、そんなことを想い起こすワークショップの時間を持ちます。


また、仙台での幼児教育の新しい現場づくりにご関心のおありになる方、ぜひ、ワークショップ後の昼食をともにしながら、語らい合いましょう。


お待ちしています☺️


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『ことばと子どもの育ち』〜絵本の読み聞かせを通して学ぶ〜


2023年3月4日(土)9:30-12:00

宮城野コミュニティセンター・大広間(仙台市宮城野区萩野町2-13-10 )
 
定 員:各回15人(先着)

参加費:3,000円

申 込:フォームよりお申し込み下さい。

持ち物:
・声に出して読みたい絵本1冊
・筆記用具
・飲み物
 *動きやすい格好でお越しください。


講 師:諏訪耕志(ことばの家)
1964年大阪市出身・在住。1994年よりルードルフ・シュタイナーハウスにて言語造形家鈴木一博氏に師事。現在、舞台公演、朗読・語りの会、講座などを通して活動中。2004年より、言語造形のアトリエ「ことばの家」を主宰


言語造形とは
ことばの本来的な要素であるかたち、動き、間合いなどを、人間に相応しく、我が身をもって、意識的に創造していこうとする、言語芸術。「ことばを話す術・語る術」に取り組む時、人は必然的に、「わたしという人間」に取り組むことになります。その人の生命が、こころが、精神が、ことばに満ちる時、ことばはことば本来の輝きを取り戻し、人が人本来の輝きを取り戻します。


※キャンセルポリシー
開催日1週間前までキャンセル無料。それ以降、お休みされる場合は、お友達などにご紹介ください。ご紹介いただけない際には、恐れ入りますが参加費の50%をお振込みいただきます。
※お子さんの同伴について
集中して学びを深めていただくため、1歳以上のお子さんの同伴はご遠慮ください。(0歳から1歳までのお子さんは同伴いただいて大丈夫です)


主 催:アントロポゾフィーハウス宮城


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2023年02月25日

こころのこよみ(第44週) 〜ひとりの人〜



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東山魁夷「冬華」



新しい感官へのそそりに捉へられ、
 
こころに明らかさが満ちる。
 
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
 
世の繰りなしが、絡み合ひながら芽生える、
 
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
 
 
Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit,
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
 
 
 
空気の冷たさはいつさう厳しくなつてきてゐるが、陽の光の明るさが増してきてゐることが感じられる。
 
 
わたしたちの感官に、まづ、訴へてくるのは、その陽の光だ。
 
 
冬から春への兆しを、わたしたちは何よりもまず、陽の光のありやうに感じ取つてゐる。
 
 
しかし、現代を生きてゐるわたしたちは、その外なる陽の光が明るさを増してきてゐる、そのことを感じはしても、それ以上の何かを感じることはほとんどないのではないだらうか。
 
 
昔の人は、その陽の光に、あるものを感じ取つてゐた。
 
 
それは、ひとりひとりを、神の力と結ぶことによつて、まさしく精神としての『人』とする力だ。
 
 
陽を見上げたときに、次のやうな情を強く感じた。
 
 
「この天の存在から、
 光とともにわたしたちの内に、
 わたしたちを暖め、
 わたしたちを照らしながら、
 わたしたちに染み渡り、
 わたしたちひとりひとりを
 『人』とするものが流れ込んでくる」
 
 
(『人の生きることにおける、引き続くことと繰りなすこと 1918年10月5日ドルナッハ』より)
 
 
しかし、だんだんと、そのやうな情と感覚は失はれてきた。
 
 
陽の光を通して感じてゐた神からの叡智がだんだんと失はれてきた。
 
 
そして人は、自分の周りの事柄に対しては知識を増やしていつたが、ますます、自分は何者か、自分はどこからやつてき、どこへ行くのかが、分からなくなつてきた。
 
 
人といふものが、そして自分自身といふものが、ひとつの謎になつてきたのだ。
 
 
そのとき、ゴルゴタのこと、イエス・キリストの十字架における死と、墓からの甦りが起こつた。
 
 
もはや、物質としての太陽の光からは、わたしたちを『人』とする力を感じ、意識することはできない。
 
 
しかし、キリストがこの世にやつてき、さらにゴルゴタのことが起こることによつて、もはや外の道ではやつてくることができない力、人の最も内なる深みから、精神から、自分を『ひとりの人』とする力が立ち上がつてくる可能性が開けた。
 
 
イエス・キリストはみづからをかう言つた。「わたしは、世の光である」。
 
 
ふたたび、ひとりひとりの人に、みづからを『ひとりの人』として捉へうる力がもたらされた。
 
 
その力は物質の太陽の光からでなく、精神の光から、もたらされてゐる。
 
 
わたしたちは、1月から2月へかけて、明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、精神的な観点においても、内なる陽の光からのそそりを捉へてみよう。
 
 
さうすることから、きつと、わたしたちは、みづからの出自を改めて明らかさとともに想ひ起こすことができる。
 
 
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。「わたしは、そもそも、精神の人である」と。「<わたし>は、ある」と。
 
 
キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。
 
 
わたしたちは、そのことを、「いま、想ひ起こす」「念ふ」ことができる。
 
 
「新しい感官へのそそりに捉へられ、
 こころに明らかさが満ちる。
 満を持して精神が生まれたことを念ふ」
 
 
そして、明るさを増してきてゐる陽の光によつて、外の世において、命が、植物や動物たちの中で繰りなしてくる。絡みあひながら、芽生えながら。
 
 
さらに、わたしたち人は、秋から冬の間に、まぎれなく考へる力を内において繰りなしてきた。
 
 
考へる力には、意欲の力が注ぎ込まれてこそ、まぎれなく考へる力となる。
 
 
考へる力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、人はまぎれなく考へる力において、自由になりうる。
 
 
外の世に、どんなことが起こらうと、どんな出来事が繰りなされやうと、こころに、意欲的に考へる働きを繰りなして行くことで、わたしたちは、みづから自由への道を開いていくことができる。
 
 
日々、自分に向かつてやつてくるものごとのひとつひとつを、自分に対してのメッセージとして受けとり、考へていき、そして振舞つていくことによつて、開けてくる道がある。
 
 
その道は、『ひとりの人』としてのわたしを、自由へと、導いていくだらう。
 
 
  
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
 

posted by koji at 21:11 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小学校低学年における国語教育 シュタイナー教育の観点から






子どもとことば。

そこには、成長するといふことにおける秘密の関係があります。

国語とは、その人のこころをかたちづくるための、大切なものです。

ことばによつてかたちづくられることで、ますます、こころは明瞭さ、健やかさ、力強さを宿し始めるのです。

ことばによつて、かたちづくられてゐないこころは、時に暴れまわり、沈み込み、はしゃぎまわります。

国語教育とは、こころから精神への成長を促すうえで、なくてはならないものなのです。





2023年02月21日

安心できる場づくり シュタイナー教員養成



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仙台におけるシュタイナー教員養成講座。


昨年の5月のプレ講座から始まり、わたしはアントロポゾフィーの講義と言語造形を担当させてもらっています。


一年に4回、仙台の「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」に集まって朝から夕までの三日間連続の講座を様々な芸術実践を通してするほかに、毎週一回オンラインで集まり、シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』という本を読みつつ、メディテーションの営みにも取り組み続けていまして、参加されているメンバーの方々との関係性がとても親しいものになってきていることを感じています。


この教員養成という営みですが、とかく、「シュタイナーはこう言っているのだから、教育実践においても、これこれこうでなければならない」というような規則のようなものが、シュタイナー教育にはつきまとっている印象を醸す恐れがあるのかもしれない、とよく危惧します。


しかし、徹頭徹尾、そうではないのですね。


実際に目の前にいるひとりひとりの子どもと丁寧に付き合い続けること、そして、教師ひとりひとりと丁寧に付き合い続け、誰よりも、そのひとりの教師を知ること、そこにこそ、この教育の特徴があります。


ひとりひとりの子どもを知ることだけでなく、教師である、その人を知ることなのです。


つまり、教師になろうとする人であるならば、自分自身をどこまでも知りゆこうと勤しむこと、そして、共に働く仲間の教師を互いに知りゆこうと勤しむことなのです。


教員養成の眼目は、いえ、すべての人の仕事のそもそもの眼目は、人を知るということなのです。


何をするか、何を教えるか、という事々は、「人というもの」を知ることから、ゆっくりと、その人その人に啓けて来ます。


だからこそ、教員養成とは、極端なものの言い方に聴こえてしまうかもしれませんが、そこで学ぶ者が「自分に何ができるか」と問うことではなく、「子どもというものは、どのようにして成長して行くことができるのか」「人というものは、どのような存在なのか」「世(宇宙)というものは、どのようななりたちをしているのか」という、本当に大切なことをまずは学び、知るために営まれているのです。


何が大切なことで、何が本当のことかを、知ること。アントロポゾフィーから、それを学び続けること。


自分自身の人生経験だけを下地にした、ある意味、自分勝手な価値観から仕事をするのではないのです。


そうではなく、「人というもの」についてのその認識こそを基にして、人は、自分自身を知るという学びに勤しみながら、ゆっくりと、少しずつ、少しずつ、自分にできることから始めて行けばいいのです。


ですので、学び合い、共に働く、仲間の存在が大切です。


それは、この人間観、世界観、宇宙観を共に育み合いながら、それぞれにできることを励まし合い、促がし合い、相談し合いながら、少しずつ、共に仕事を進めていくことのできる仲間の存在です。


同僚の援け、そして精神からの援けがあるからこそ、教師自身が自分の足りないところがあっても、努力して、ゆっくりと少しずつ力をつけて行くことができますし、何よりも安心して働いて行くことができる。


まずは、教師のための職員室が、誰もが安心して語り合うことのできる場であるように。


教師が安心して生きていますと、きっと、子どもたちも安心して毎日を生きていくことができます。


そのような場づくりのために、シュタイナー教員養成講座は開かれています。


人を、自分自身を、からだにおいて、こころにおいて、精神において、芸術的に知るということ。


その営みを通して、新しい場づくり、新しい仕事づくりが生まれて来ています。




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2023年02月17日

2/27(月)3/1(水)ワークショップ「平家物語 那須与一」宮城シュタイナー学園



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物語ること。それは、単なる伝達ではありません。


単なる伝達とは、ことばの意味だけが伝われば、それで十分とする営みです。


それによって、わたしたち人と人との間に、できうる限り効率よい、記号化された方法が際限なく導入されることになります。


しかし、語るということ。それは、人と人とが何かを分かち合うことです。


それは、あるものごとが、ことばを通して、複数の人のそれぞれの知性だけではなく情と意欲によって受け取られ、活き活きと生きられることです。


つまり、何らかのPublicityを意識した人の営みです。


その物語るという行為にわたしたちも挑んでみます。約800年前の物語『平家物語』を通してです。


しかし、そのPublicityを意識する物語りを、800年前のスタイルで復元することが、現代にふさわしいでしょうか。


琵琶法師やその後の語り物に付き添うように奏でられていた謡いものに近いスタイルで物語ることは、わたしたちの感覚に訴えて来るでしょうか。


ひとりひとりの人がみずからの足で立ち上がり、目覚めた意識でPublicityを人と人との間で分かち合うべく、現代ならではのスタイルで物語ることができるのではないでしょうか。


このたびの『平家物語 那須与一の段』ワークショップは、その現代にふさわしい分かち合いを学び取るべく、なされます。


物語るということは、独り立ちした人がPublicityに向き合う、現代ならではの意識の培いに、必ず、資することになります。


いま、わたしたちは、単に「伝える」ことにあくせくするのではなく、いかに「語る」か、いかに「物語る」かを学んでいく必要があります。


人前でことばを話すことにご関心のある方、ぜひ、この機会に、言語造形ワークショップへのご参加をお誘いいたします。


言語造形講師  諏訪耕志



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


●日時
第一回目 2023年2月27日(月)15時半〜17時半
第二回目    3月 1日(水)15時半〜17時半


●場所
おひさまの丘 宮城シュタイナー学園
 (仙台市青葉区中山2-22-18)


●参加費
一回 3500円
二回連続 6000円


●お申し込み
電話:022-725-5086
Eメール:info@ohisamanooka-steiner.ne.jp

お申し込み下さった方に、『平家物語 那須与一の段』のテキストをメールにてお送りします。

*動きやすい服装でいらしてください。

※三名の方のご参加をクラス実施の際の最少人数といたします。どうぞご了承ください。




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2023年02月14日

こころのこよみ(第43週)〜冷たさに立ち向かふこころの炎〜



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冬の深みにおいて、
 
精神のまことのありやうが暖まる。
 
それは、世の現はれに、
 
胸の力を通してありありとした力を与へる。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 
 人の内なるこころの炎」
 
 
 
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
 
 
 
 
いま、人と人は、どれほど分かり合へてゐるだらうか。
 
 
人と人との間に、無関心が、行き違ひが、無理解が、そして憎しみまでもが立ちはだかつてゐる。
 
 
自分自身のこととしても、そのことを痛切に感じる。
 
 
わたしたちは、そのやうなあり方を「世の冷たさ」として、密かに、ときにひどく辛く感じてゐる。
 
 
その冷たさから自分を守らうとして、こころを閉ざす。
 
 
こころを閉ざした者同士がいくら出会つても、求めてゐる暖かさは得られさうにない。
 
 
しかし、このあり方が時代の必然であることを知ることができれば、何かを自分から変へていくことができるのではないだらうか。
 
 
15世紀以降、人のこころのあり方が変はつてきてゐる。
 
 
意識のこころの時代だ。
 
 
この時代において、まづ、人のこころは冷たく、硬い知性に満たされる。
 
 
その知性は、すべてを、人までをも、物質として、計量できるものとして扱はうとする。
 
 
この時代において、この冷たく硬い知性が、人のこころに満ちてきたからこそ、現代の文明がここまで発達してきた。
 
 
そして、文明が発達すればするほど、人は、己れが分からなくなつてくる。人といふものが分からなくなつてくる。
 
 
人といふものは、からだだけでなく、こころと精神からもなりたつてゐるからだ。
 
 
だから、その冷たく硬い知性を己れのものにすることによつて、人は、人といふものがわからなくなり、他者との繋がりを見失つてしまふ。
 
 
己れの己れたるところとの繋がりさへも見失つてしまふにいたる。
 
 
文明の発達を支へる冷たい知性が、冷たい人間観、人間関係を生み出した。
 
 
そして、そのやうに繋がりが断たれることによつて、人は、自分が「ひとりであること」を痛みと共に感じざるをえない。
 
 
以前の時代には、無意識に繋がつてゐた人と人との関係。人と自然との関係。人と世との関係。
 
 
それらが断たれていく中で、人はひとりであることに初めて意識的になり、改めて、自分の意志で繋がりを創つていく力を育んでいく必要に迫られてゐる。
 
 
しかし、むしろ、かう言つた方がいいかもしれない。
 
 
ひとりになれたからこそ、そのやうな力を育んでいくことができるのだと。
 
 
ひとりになることによつて、初めて、人と繋がることの大切さにしつかりと意識的になることができる。
 
 
だから、このやうな人と人との関係が冷たいものになつてしまふことは、時代の必然なのだ。
 
 
そして、この時代の必然を見やる、ひとり立ちしたひとりひとりの人が、みづから天(精神)と繋がり、垂直の繋がりをアクティブに創り出すならば・・・。
 
 
そのとき、至極精妙な天からの配剤で、横にゐる人との繋がり、水平の繋がりが与へられる。
 
 
垂直の繋がりが、ひとりひとりの人によつて育まれるがゆゑに、水平の繋がりが天から与へられる。
 
 
さうして初めて、人と人とが分かち合ひ、語り合ひ、愛し合ふことができる。
 
 
地上的な知性で、地上的なこころで、地上的なことばで、人と人とが分かり合へるのではない。
 
 
そのやうな意識のこころの時代が始まつて、すでに500〜600年経つてゐる。
 
 
わたしたち人は、そのやうに、いつたん他者との関係を断たれることによつて、痛みと共に、冷たく、硬い知性と共に、ひとりで立つことを習つてきた。
 
 
そして、そろそろ、ひとりで立つところから、意識のこころの本来の力、「熱に満ちた、暖かい知性」、「頭ではなく、心臓において考へる力」、「ひとり立ちして愛する力」を育んでいく時代に入つてきてゐる。
 
 
他者への無関心、無理解、憎しみは、実は、人が、からだを持つことから必然的に生じてきてゐる。
 
 
硬いからだを持つところから、人は冷たく硬い知性を持つことができるやうになり、からだといふ潜在意識が働くところに居座つてゐる他者への無理解、憎しみが、こころに持ち込まれるのだ。
 
 
だから、これからの時代のテーマは、そのやうな、からだから来るものを凌いで、こころにおいて、暖かさ、熱、人といふものの理解、愛を、意識的に育んでいくことだ。
 
 
「世の冷たさに力強く立ち向ふのは、人の内なるこころの炎」だ。
 
 
その「内なるこころの炎」は、天に向かつて燃ゑ上がる。精神に向かふ意志の炎となる。
 
 
日常生活を送るうへで、日々の忙しさにかまけつつも、なほかつ求めざるを得ないこころの糧。それは、精神である。
 
 
地上に生きる人にとつて、なくてはならないこころの糧としての精神。その精神の具象的なもののうち、代表的なもののひとつは、キリストであらう。
 
 
キリストのこと、クリスマスにをさな子としてこの世に生まれたこと、春を迎へようとする頃、ゴルゴタの丘の上で起こつたこと、そのことを深みで感じつつ、深みで知りゆくことによつて、ますます意識的にこころを精神に向かつて燃ゑ上がらせることができる。
 
 
そして、人と人との間に吹きすさんでゐる無理解と憎しみといふ「世の冷たさ」に立ち向かふことができる。
 
 
ひとりで立ち、ひとりで向かひ合ふことができる。
 
 
キリストのことを考へないまま信じるのではなく、キリストのことを考へて、想ひ、そして知りゆくこと。
 
 
意識のこころの時代において、人は、そのやうなキリスト理解をもつて、みづからのこころに炎を灯すことができる。
 
 
なぜなら、キリストの別の名は、「わたしは、ある」だからだ。
 
 
「わたしは、ある」。
 
 
さう、こころに銘じるとき、わたしたちは、こころに炎を感じないだらうか。
 
 
そして、キリスト教徒であるなしにかかはらず、キリストと繋がる。
 
  
 

冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖まる。
それは、世の現はれに、
胸の力を通してありありとした力を与へる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 人の内なるこころの炎」
 
 


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2023年02月13日

2/17(金)オンラインクラス「シュタイナーからの会員への手紙」へのご案内



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精神の社。

いま、それは、目に見えない形で生み出されえます。

固定的な場ではなく、密(ひめ)やかな学びをこころから求める人が集うところには、どこであっても、精神の働き(神々の働き)が上から及び、そこに人と人とのハーモニーが結ばれます。

99年前にシュタイナーによってアントロポゾフィー協会員に向けて書かれた文章ですが、いまでは、目には見えない精神の社づくりに参加する人に向けての広やかな射程をもつ文章だと感じます。

このオンラインクラスにて、その精神の社づくりとは、どういう精神からなされるのかを、共に学んでゆきます。

次回、2月17日(金)夜7時半から9時までのクラスでは、二通目の手紙の文章に取り組みます。

アントロポゾフィーという人を知りゆくための精神の学にご関心のおありになる方、また、現代にふさわしい人と人との集いづくりにご関心のおありになる方、このシュタイナーの晩年の願いを共に読んで行きませんか。

参加くださった方がご自身のブログに文章を書いて下さったものをシェアさせていただきます。T.M.さん、どうもありがとうございます。





【日時】
毎月第三金曜日午後7時半から9時までオンラインクラスです。 

【参加費】
初回体験参加のみ3500円 
以降5回連続15000円

参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。

※扱うテキストは、
 わたくし諏訪の拙訳による「会員への手紙」を用います。



以下へのお振込み、お問い合わせ、お申し込みになります。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/
https://youtu.be/Q_POc6RxVF4


2023年からの新しい自分に向かっての
新しい学びを始めて行きませんか! 
講師 諏訪耕志




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2023年01月30日

2/27(月)3/1(水)言語造形ワークショップ in おひさまの丘 宮城シュタイナー学園



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「おひさまの丘 宮城シュタイナー学園」にての言語造形ワークショップのお知らせです。


2023年2月27日(月)と3月1日(水)、いずれも午後3時半から5時半まで、我が国の語り物の真髄ともいえる『平家物語』の「那須与一の段」に取り組みます。


まさに肉体の文学ともいえる『平家物語』。

活き活きとした語り口に潜んだダイナミズムに触れる時、わたしたちはことばに目覚め、自らの呼吸に目覚め、自分自身に目覚めるのです。

そして、この物語を通して、シュタイナーが示唆した、ことばに潜んでいる「6つの身振り」を学んでみます。

この6つの身振りは、人が話すことばには、必ず、この6つの身振りのどれかが裏打ちされているのです。


琵琶法師の時代からわたしたちの時代に至って、人はいよいよ自分自身の足で立つことを促がされています。

『平家物語』という叙事の芸術は、ひとりひとりが健やかに自らの足で立つことを求めています。

アントロポゾフィーから汲まれたことばの芸術、言語造形。

その目指すところは、人の働きのまるまるをもって、ことばを話し、語り、詠っていくことです。

そして、人の成長、人のひとり立ちをどこまでも促そうとするものです。


ぜひ、この機会に、言語造形を通して、日本の古典文学に体当たりしてみませんか。


お待ちしております!


言語造形講師  諏訪耕志



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



●日時
第一回目 2023年2月27日(月)15時半〜17時半
第二回目     3月 1日(水)15時半〜17時半


●場所
おひさまの丘 宮城シュタイナー学園
 (仙台市青葉区中山2-22-18)


●参加費
一回 3500円
二回連続 6000円


●お申し込み
電話:022-725-5086
Eメール:info@ohisamanooka-steiner.ne.jp

お申し込み下さった方に、『平家物語 那須与一の段』のテキストをメールにてお送りします。

*動きやすい服装でいらしてください。

※三名の方のご参加をクラス実施の際の最少人数といたします。どうぞご了承ください。




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執行草舟氏『人生のロゴス』



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執行草舟氏の最新刊『人生のロゴス』。

本屋に並ぶ初日に贖ひ、毎日、二頁から六頁程づつ読み続けてゐる。

見開き二頁づつに、大いなる先人ひとりひとりのことばが執行氏によつてひとつづつ選ばれ、見開いた左の頁には、そのことばを座右銘とし、ご自身の生をかたちづくつて来られた執行氏による、渾身の文章が記されてゐる。

これらのひと筆で描かれたやうな、ひとつひとつのことば、そして執行氏がそれらのことばにどれほど接近し、どれほど存在まるごとで交はつて来られたのか。

今日の時点では、まだ、十人の先人の方々のことばしか読んではゐないのだが、まさに、これらこそが、「ロゴス」と古代ギリシャで言はれたものではないかと念ふ。

それらひとつひとつのことばが(まさに「ひとつひとつ」である!)読むわたしの精神に強く重く響く。

他の本を読んでゐる時には鈍くしか響かないわたしの鈍い精神が、この書の一頁一頁、ひとことひとことに、強く響かせられ、揺り動かされ、目覚めさせられるのだ。

「ことば」「ロゴス」「言霊」とは、そのやうに、人の身の奥に眠つてゐる鉄床(かなとこ)を叩く鉄の鎚(つち)なのではないか。

手に繰る二頁ごとに、こころの鉄床から火花が飛び散る。

だから、さうやすやすと頁を繰りたくはない。

頁を遡り、また繰り返し、先に読んだ二頁を見つめる。

先ほど、「ひと筆書き」などと書いてしまつたが、その「ひと筆」に、先人の方々はどれほど莫大な命の元手を懸けてをられることだらう。

ゆつくりと、じつくりと、ひとりひとりに、ひとつひとつのことばに、付き合ひたい。

また、登場するそれぞれの人のポートレイトが高田典子氏によつてペン画で描かれてゐて、その表情、身振りが、まこと、その人の精神を映し取つてゐると直感する。

子どもの頃に読んだ文学作品などによく美しい挿絵が描かれてあり、とりわけ、子どもであつたそのころの自分にとつては、小さくない印象がその作品と共に我がこころに刻まれたものだが、ここに描かれてあるペンによる肖像画も、二頁ごとに創られてゐるこの精神の芸術、魂の芸術、人といふものの芸術作品を一層印象深いものに仕立ててゐるのだ。

190人による190のことば、そして執行氏による文章が収められてあり、彼のそれらの文章は、わたしにはどこか人類の嘆きと叫びのやうに聴こえて来る。

また、その文章は「批評するといふことは愛するといふことである」ことを証するものであり、そして、時系列に並べられてはゐないが、これこそ、「人としての歴史」が綴られてゐる書だとわたしに感じさせるのだ。

毎日、たいせつに、読んでゆきたい。






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2023年01月29日

昔話『紀州岩出の 子守り神の話』







子どもを守り、育てる。

それは、わたしたち大人のなすべき仕事。

それは、まづは、大人自身が己れのこころを育むこと。

そして、神々との共同作業。

そのことが、子どもたちを守り、育ててゆくことへとおのづから繋がつてゆく、とわたしには思へるのです。





2023年01月28日

こころのこよみ(第42週) 〜こころをこめてする仕事〜



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この冬の闇に

みづからの力の啓けがある。

こころからの強い求めがある。

暗闇にそれをもたらし、

そして予感する。

胸の熱を通して、感官が啓くことを。



Es ist in diesem Winterdunkel
Die Offenbarung eigner Kraft
Der Seele starker Trieb,
In Finsternisse sie zu lenken
Und ahnend vorzufühlen
Durch Herzenswärme Sinnesoffenbarung.



毎週、この『こころのこよみ』を生きていく。


毎週、ここに記されてある詩句を繰り返しこころの内で味はつてみる。


さうすると、ここに記されてあることばが、それを読んでゐる自分自身のこころの歩みと、重なつてくるのを感じることができる。


そのこころに重なつてきてゐる力は、さらに、心(物質の心臓とエーテルの心臓の重なりあひ)の働きを活性化させるやうに感じる。


そのことは、この詩句に沈潜するほどに感じられる、体内に流れ出す熱い血をもつて確かめられる。


物質の心臓は、物質のからだの中心を司る器官で、血液の巡りによつて活き活きと脈打つてゐる。


エーテルの心臓は、人のエーテルのからだの中心を司る器官だが、愛の巡りによつて活き活きと脈打ち、そこから光が発し、熱が生まれる。


内に抱く考へが、愛を基にしたものならば、その考へはエーテルの心臓を活き活きと脈打たせる。


さうでないならば、その考へはその心臓を締め付ける。


活き活きと脈打つエーテルの心臓が光と熱をもつて、物質の心臓の働きを促し、熱い血の巡りを促す。それをここでは、「胸の熱」としてゐる。その胸の熱が、さらに、こころの働きといふ働きを促しだす。


その活性化されだしたこころの働きを通して、ものが、よく見えだし、よく聴こえはじめる。


そして、肉の目や耳には映らない、こころのもの、他者の情や他者の考へがリアリティーをもつて、心臓で感じられるやうになつてくる。


きつと、その道は、人の情や考へだけでなく、ものといふもの、例へば、植物や動物の情、地水風火の情や考へなどをも感じられることへと繋がつていくだらう。


頭の脳で理解するのではなく、心臓で感じ、心臓で考へることができるやうになつていくだらう。


外なる感官だけでなく、そのやうな内なる感官もが啓きはじめ、働きはじめる。


「そして予感する
 胸の熱を通して、感官が啓くことを」


そして、その啓かれるものを受けとることを通して、わたしたちはどう振舞ふことができるだらうか。


「 みづからの力の啓け
 こころからの強い求め
 それを冬の暗闇にもたらす」


その振る舞ひは、きつと、その人その人の仕事として、世の冬の暗闇に光をもたらすものになるはずだ。


お金を稼ぐことが仕事をすることだといふ意味ではなく、その人がこころをこめてすることこそが仕事であるとするならば、わたしたちは、いま、いる場所で、
その仕事を始めることができる。



この冬の闇にみづからの力の啓けがある。
こころからの強い求めがある。
暗闇にそれをもたらし、
そして予感する。
胸の熱を通して、感官が啓くことを。



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2023年01月27日

すべての学びは愛へと繋がつてゆくこと



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昨日、我が家の窓から空を見上げた時の写真です。



近現代史を色々な面から学びたい、さう思ひ、色々な所へ足を運び、また本を読んでゐます。


まづは、自分たちの国の歴史に対して、とりわけ、先の大戦に対して、多角的に、かつ、しつかりと自分の中の認識を深めたいと思つてゐます。


大きなものごとを動かすとき、文書といふものがたいてい残されます。


わたしたちは、その残されてゐる文書を丁寧に見て取つていくことによつて、時の政局の中で、人がどう考へ、どう動いたかが、客観的に見えて来る。


さうして得られていく認識を積み重ね、自分自身で考へ、判断していくならば、だんだんと、ことの真相が啓けてくる。


1995年にアメリカ政府によつて公開されたヴェノナ文書によつて、日米関係においてそれまで秘されてゐた事実が公になつたことや、近年、一次資料への研究を重ねて来られてゐる林千勝氏などの報告を読んだり、you tubeで観たりしますと、驚愕の念ひに襲はれるほどです。


アメリカでも、ヨーロッパでも、ここ日本でも、むしろ、いはゆる高学歴といふものもなく、ただひたすらに働き続けてゐる人が、自分自身の頭で考へ、こころで感じる経験を積み重ねることで、ことの真実がどこにあるかを摑むことができる。


しかし、それらの多くの人々は、それをことばに表す術を知らず、利口な人たちの雄弁の前に沈黙を強いられてゐる。


自分自身の目で見て、自分自身の頭で考へる。そして、自分自身のことばで語る。


この当たり前のことが如何に難しいか。


歴史観を自分自身の中で育てていくことは、大変なことです。


また、だからこそ、真実を我がことばに鋳直して行く技量を育てて行くこと、国語力を育んで行くことは、本当に、人としての一大事なのです。


その営みが、きつと未来を闇から光へと導く。


わたしたち大人は、テレビや新聞、もしくはインターネットの表層的な情報やなんとなくのイメージに踊らされたり、凝り固まるのではなく、本当に学んでいきたいものです。


世界の歴史を、とりわけ自国の歴史を、色眼鏡をかけずに学んでいくこと、本質的にはそれはとても密やかな学びですが、それはきつと、子どもたちと、さらには自分自身に希望を与へます。


失望や落胆、自虐ではありません。


希望と自尊と、そこから必然的に生まれて来る、愛です。


すべての学びは、愛に繋がつてゆきます。







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2023年01月26日

読書のすすめ







本を読むといふこと。そして、本の読み方。

そのことの意味と方法をわたしたちは、学ぶことができます。

そのことを教へてくれるのは、誰でせう。

それは、よき本の書き手です。

なぜなら、よき本の書き手こそ、よき本を読み込み、読み続け、読み重ねて来た、その人だからです。

数限りない読書を通して、その人は、よき書き手になつたに違ひありません。

では、本を読むことの価値とは、何でせう。

それは、世の深みを知るといふことに尽きます。

浅さではなく、深みです。

本を読まないことは、人生を生きていく上で、世の浅さを泳ぐしかないことへ、そして、情といふ波に巻き込まれ、溺れ、翻弄されることへと人をいざなひます。

世の深み、人の深み、それは、人生の様々な経験だけでなく、その経験の意味を、知性と情ではつきりと「知る」こと、その知をこころで練り上げること、そして己れのことばへと鋳直すことによつて、得られます。

それら一連のプロセスを経させてくれるのが、読書なのです。

つまりは、読書とは、知的な営みでありつつ、人を人へとなしてゆくための、欠くべからざる、芸術行為なのです。

だからこそ、そのプロセスとは、根気を持つて、一冊の本と、長く、じつくりと、腰を据ゑて、お付き合ひをすることです。

さうしてこそ、人は、その本から秘密を打ち明けてもらへます。

もちろん、子どもが、自分自身の読みたい本を選び始める時、乱読、乱読の連続です。それでいいのです。

しかし、だんだんと何年かかけてその子は自分自身のこころの求める方向性を摑み始めるでせう。

さうして、一冊一冊の本を吟味して選び始めるのです。

流れゆく情報を提供し続けるインターネット上で文字を読むことでは、腰を据ゑてひとつの対象と付き合ひ続けることができないのです。

さう、ありきたりの情報は、いくらでも、インターネットを通して、手に入れることができますが、そのものが秘めてゐる秘密、その人が最も大切にしてゐることは、こちらが腰を据ゑて、こころを込めてお付き合ひし続ける以外、決して打ち明けてはもらへません。

わたしは、ルードルフ・シュタイナーといふ人からそのことの大切さを教えてもらひました。

もちろん、原書はドイツ語で書き記されてあり、わたしは日本語の翻訳でそのことを学んだので、翻訳のあり方も、大変、重要な要素でした。

わたしは、翻訳者・鈴木一博といふ人に出会へ、日本語といふものへの道を歩く、その姿勢の何たるかを彼から学ばせてもらつたやうに思ひます。

彼も、まさしく、言語を生きるといふことが、人にとつてだういふ意味を持つのかといふことに対して、はつきりと意識的な人でした。

シュタイナー自身がそのことに本当に意識的であつた人だつたからこそです。

ことばを、大切に読む人、聴く人、書く人、話す人、その人は世の深み、人の深みを知り、その深みを生きるがゆゑに、さういふ人が増えてゆくことが、世を守り、世を建て直し、世に新しい息吹を吹き込んでゆく原動力になるのです。

では、最後に、だういふ本を選べばいいのか、といふことについて。

それは、その人のこころに、よき本を求めるこころが息づいてゐるなら、必ず、よき本の方からその人に接近して来ます。




2023年01月23日

こころを謳ひ上げる いのちを解き放つ 言語造形発表会「かえる」



ショートバージョン



楽しくて、悲しくて、嬉しくて、寂しい、そんなこころといのちを生きるといふこと。


呼吸を解き放つて、目を輝かせて、手足をのびのびと動かして、人は、もつと、もつと、そんなこころといのちを活き活きと生きることができる。


ことばの芸術、言語造形が、そのことを促がしてくれます。


ことばとは、身振りと共なる、人の甦りです。


2023年1月22日、よく晴れ上がつた日曜日、和歌山の岩出市にて、草野心平の作品を集めた『言語造形 かえる』の発表をし、新しいいのちの甦りとこころの浄まり願つて、お祝ひしたのでした。


アントロポゾフィーハウス和歌山の発表会に来て下さつた皆様、どうもありがたうございました。終演後に輪を囲んで話して下さつたひとつひとつのことばが、演者のわたしたちのこころに響いてゐます。


そして、言語造形といふ芸術に喜びをもつて勤しんでくれた、西さん、東郷さん、平尾さん、本当にありがたうございました。、月に一回の稽古にもかかわらず、わたしたちは、ずつと、笑顔と喜びを湛えて、この作品に取り組み続けることができました。お三方の働きで、世にこころの健やかさといのちの巡りが確かにもたらされました。


ロングバージョン



三人の女性による詩の朗唱です。

出演
西京子
東郷桃子
平尾由美子




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【アントロポゾフィー和歌山 クラスのご案内】

日時:毎月第二の月曜日
   10時から12時 言語造形
   12時半から14時 アントロポゾフィーの学び

場所:和歌山県岩出市内の公民館

参加費:初回体験 5000円
    5回連続 20000円

お問い合わせ・お申し込み:
  アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/



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【アントロポゾフィーハウス ことばの家 オンラインクラスのご案内】

【「いかにして人が高い世を知るにいたるか」クラス】

 月曜クラス(毎週) 20時〜21時
 木曜クラス(毎週) 20時〜21時
 
●ご参加費
体験単発参加  2000円
お月謝制(基本的に月に4回) 5000円




【「シュタイナーの会員への手紙」』クラス】

【日時】
2023年1月20日(金)を第一回目としまして、
毎月第三金曜日午後7時半から9時までオンラインクラスです。 
途中からでもご参加可能です。

.
【参加費】
初回体験参加のみ3500円 
以降5回連続15000円
.
参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。
.
※扱うテキストは、
 わたくし諏訪の拙訳による「会員への手紙」を用います。




【「テオゾフィー 人と世を知るということ」クラス】

●開催日時
毎月二回 いずれも土曜日
(正確なスケジュールは、下記の「含まれるクラス」欄にてどうぞご確認ください)
午前10時〜12時

●ご参加費
体験単発参加  3500円
6回連続    18000円


※連続ご参加の場合、ご自身のご都合による欠席は講座費は払い戻しはいたしません。後日、録画した動画をご覧いただけます。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/


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HP「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
https://kotobanoie.net/
.
諏訪耕志ブログ『断想・・アントロポゾフィーに学びつつ・・』
http://kotobanoie.seesaa.net/
.
you tube channel「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
チャンネル登録、どうぞよろしくお願ひします。
https://www.youtube.com/user/suwachimaru


言語造形(Sprachgestaltung)とは、ルドルフ・シュタイナーの精神科学・アントロポゾフィーから生まれた、ことばの芸術です。ことばを話すことが、そもそも芸術行為なのだといふことを、シュタイナーは、人に想ひ起こさせようとしたのです。

わたくし諏訪耕志は、1993年から、アントロポゾーフ・言語造形家である鈴木一博氏に師事し、2003年より「ことばの家」として、大阪の住吉にて、言語造形、ならびに、アントロポゾフィーを学ぶ場を設けてゐます。


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2023年01月21日

時の節目(ふしめ)に 〜1924年1月1日「クリスマスの集ひ」にて ルードルフ・シュタイナー〜



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時の節目(ふしめ)に
世の靈(ひ)の光 顕れし
地のものへの流れに

夜の闇
司(つかさど)りたりし
昼の明るき光
人のこころに輝けり


暖めむ
貧しき羊飼ひの胸を

照らさむ
賢き王の頭(かうべ)を

神の光
キリストの陽(ひ)
暖めよ
我らの胸を
照らせよ
我らの頭(かうべ)を

よきものとなりゆくやうに
我ら 胸より織りなすもの
我ら 頭(かうべ)より目指し導きゆかむもの



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


これまで夜の闇に支配されてゐましたが、昼の明るい光に照らされていい時がやつて来たやうに感じてゐます。

しかし、その節目を迎えるのも、その人の<わたし>次第かもしれません。

「ひとりでいかに生き切るか(倫理的個体主義)」といふシュタイナーが1894年に『自由の哲学』で書いたことばが時代のことばとして、いまだに鳴り響いてゐるのが、ありありと聴こえます。


新しく年が明けて、三週間が経ちました。2023年のいま、「クリスマスの集ひ」における最後のシュタイナーのことばを、わたしも我がことばとして胸の内にて歌ひます。


よきものとなりゆくやうに
我ら 胸より織りなすもの
我ら 頭(かうべ)より目指し導きゆかむもの





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2023年01月20日

こころのこよみ(第41週)〜胸からほとばしる力〜



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こころから生み出す力、
 
それは胸の基からほとばしりでる。
 
人の生きる中で、神々の力を、
 
ふさはしい働きへと燃え上がらせるべく、
 
おのれみづからを形づくるべく、
 
人の愛において、人の仕事において。
 
 
 
 
Der Seele Schaffensmacht
Sie strebet aus dem Herzensgrunde
Im Menshenleben Götterkräfte
Zu rechtem Wirken zu entflammen,
Sich selber zu gestalten 
In Menschenliebe und im Menschenwerke.
  

 
 
人は、善きこと、素晴らしいことを、大いに考へることはできても、それを行為にまで移していくことには、難しさを感じるのではないだらうか。
 
 
考へることや思ひ描くこと。そして、実際に、すること。
 
 
この間には、人それぞれにそれぞれの距離がある。
 
 
 
 
「血のエーテル化」(1911年10月1日 バーゼル)と題された講演でシュタイナーが語つてゐることを要約して、今週の『こよみ』をメディテーションする上での助けにしてみる。
 
 
 
―――――――
  
 
人は、昼間、目覚めつつ考へてゐるとき、心臓からエーテル化した血が光となつてほとばしりでて、頭の松果体にまで昇つていき、輝く。
 
 
そして、人は、夜眠つてゐるあひだ、考へる力が眠り込み、逆に意志・意欲が目覚め、活発に働く。そのとき、大いなる世(マクロコスモス)から人の頭の松果体を通り、心臓に向かつて、「いかに生きるべきか」「いかに人として振舞ふべきか」といつた道徳的な力が、その人に朝起きたときに新しく生きる力を与へるべく、色彩豊かに流れ込んでくる。
 
 
それは、神々が、その人を励ますために夜毎贈つてくれてゐる力だ。
 
 
だから、人は夜眠らなければならない。
 
 
人が少しでも振る舞ひにおいて成長していくためには、眠りの時間に神々から助けをもらふ必要がある。
 
 
昼間、人において、「こころから生み出す力」、考へる力が、「胸の基」から、エーテル化した血が光となつてほとばしりでる。
 
 
その下から上へのエーテルの流れは、頭の松果体のところで、夜、上から下への神々の力と出会ひ、そこで光が色彩をもつて渦巻く。
 
 
その光の輝きは心臓あたりにまで拡がつていく。
 
 
それが、人といふミクロコスモスで毎日起こつてゐることがらだ。
 
 
そして、マクロコスモス、大いなる世からの視野には、キリスト・イエスがゴルゴタの丘で血を流したとき以来、そのキリストの血がエーテル化し、地球まるごとを中心から輝かせてゐるのが視える。
 
 
そのとき以来、ひとりひとりの人が、キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、みづからの内なるエーテル化した血の流れが、キリストのエーテル化した血とひとつになつて、昼間、人を輝かせ、力づけてゐる。
 
 
そのキリスト化したエーテルの血と、マクロコスモスから夜毎やつてくる神々の力とが出会ふことで、人は、さらに昼間、愛において、仕事において、その神々の力をふさわしい働きへと燃え上がらせる。
 
 
考へ、思ひ描くこと。(胸から上つていくエーテル化した血の流れ)
 
 
そして、実際に、すること。(高い世から心臓に降りてくる力)
 
 
その間を、人みづからが埋めていく。
 
 
そのふたつを、人みづからが重ねていく。 
 
 
それが時代のテーマだ。
 
 
―――――――
 
 
 
 
 
シュタイナーによつて語られたこれらの精神科学からのことばを、何度も繰り返して自分の考へで辿つてみる。鵜呑みにするのではなく、折に触れて、何度も考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴタのことを親しく知るといふことは、自分自身が生まれ育つた文化風土において、どういふ意味を持つのか、考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴダのことの意味は、自分以外の人や物事を念ふて死ぬことができる、といふことではないだらうか。
 
 
むかしの日本に、さういふ文化が根付いてゐたこと。大いなる理想を考へ、そしてその通りに実行してゐた人が数多ゐたこと。
 
 
わたしたちの先祖の方々が当り前のやうに歩いてゐたそのやうな道を、わたしたち現代人が想ひ起こすとき、そのやうな道があつたことを、ありありと念ふとき、本当に自分のこころが、輝き、力づけられるかどうか、感じつつ、確かめていく。
 
 
そして、そのやうに輝き、力づけられた自分のこころと、神々の力が、交はつてゐること。
 
 
その交はりがあることによつて、自分の仕事が、充実して、まるで自分以上の力、神々の力が燃え上がるやうな瞬間を迎へることができること。
 
 
そのことを感じつつ、確かめていく。
 
 
 
こころから生み出す力、
それは胸の基からほとばしりでる。
人の生きる中で、神々の力を、
ふさはしい働きへと燃え上がらせるべく、
おのれみづからを形づくるべく、
人の愛において、人の仕事において。 
 



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2023年01月17日

信頼の中の、密(ひめ)やかな学び



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和歌山や滋賀、大阪、そして青森、仙台、神奈川の方々とここ数年来取り組んでゐることがあります。


それはルードルフ・シュタイナーから生まれた「密(ひめ)やかな学び」です。


「密(ひめ)やかな学び」は、「Geheimschulung」といふドイツ語を鈴木一博さんが翻訳されたものです。高橋巌さんは「神秘学」と訳されてゐたのではなかつたかな(いま手元にないので、不確かでごめんなさい)。


いずれのクラスも、皆さん、子育てと子どもへの教育をきつかけに集まられた方々です。


しかし、子どもを育てるとは、つまるところ、大人自身の自己教育に懸かつてゐること。


その自己教育は資格を取ることや、何かの能力をつけること以上に、つまるところ自分自身のこころの育みに尽きるといふこと。


そのことへと思ひ至られ、かうして、「密(ひめ)やかな学び」へと皆さん参じられてゐます。


仙台で行つてゐますシュタイナー教員養成においても、二年間で八回集まる講座の時間以外に、オンラインで毎週全員が集まり、この「密やかな学び」をこつこつと積み重ねてゐて、自分自身のこころへのこの密やかな働きかけこそが、教員養成の要(かなめ)であることを分かち合つてゐます。


また、この学びは、その名の通り、「密やかな」ものですので、繊細なこころのことに取り組み、メンバーが互いにこころを開き合つて、互いのこころと精神に目覚めゆく時間になつてゐます。.


ですので、どのクラスの雰囲気も本当に親しみある信頼の情に浸されてゐます。


アントロポゾフィーの学びと実践は、この親しみと信頼の雰囲気を社会へともたらしていくことを目指してゐます。


そのためには、仲間との信頼を感じられるクラスと、ひとりきりになる時間との往復の中で、わたしがわたしに向き合ふ、そんな「密やかな学び」が必要なのです。




posted by koji at 22:40 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第40週)〜虚しい想ひ込みを焼き尽くす世のことば〜



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そして、わたしはある、精神の深みに。
 
わたしのこころの基において、
 
胸に満ちる愛の世から、
 
己れであることの虚しい想ひ込みが、
 
世のことばの火の力によつて、焼き尽くされる。
 
 
 
Und bin ich in den Geistestiefen,
Erfüllt in meinen Seelengründen
Aus Herzens Liebewelten
Der Eigenheiten leerer Wahn
Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft.
 
 
 
「わたしは、いる」「わたしは、いま、ここに、いる」といふ響きから生まれてくる情よりも、「わたしは、ある」といふ響きから生まれてくる、「いま」「ここ」さへも越えた、「わたし」といふものそのもの、「ある」といふことそのことの、限りのない広やかさと深さと豊かさの情。
 
 
何度も声に出してゐる内に、その情を感じる。
 
 
「わたしは、ある」。「我あり」。
 
 
それは、その人が、どんな能力があるとか、どんな地位に就いてゐるとか、からだの状態が、健やかであらうが、さうでなからうが、そのやうな外側のありやうからのことばではなく、ただ、ただ、その人が、その人として、ある、といふこと。そのことだけをその人自身が見つめて、出てきたことば。
 
 
そのときの「わたし」は、目には見えない<わたし>だ。
 
 
 
 
そして、シュタイナーの『精神の世の境』といふ本から要約したかたちだが、「愛」についてのことばを引いてみる。
 
 
―――――
 
 
精神科学の学び手は、考へる力を通して、「わたしがあることの情」を育んでいくことに重きを置いてゐる。
 
 
その情が、こころに強さと確かさと安らかさを与へてくれるからだ。
 
 
そして、学び手は、この感官(物質)の世を生きるにおいては、その強められた「わたしがあることの情」を抑へることを通して、愛を生きる。
 
 
愛とは、みづからのこころにおいて、他者の喜びと苦しみを生きることである。
 
 
感官を凌ぐ意識によつて人は精神の世に目覚めるが、感官の世においては、精神は愛の中で目覚め、愛として甦る。
  
 
ルドルフ・シュタイナー
ーーーーーー
  
 
 
「世のことばの火の力」1月6日、ヨルダン川におけるヨハネの洗礼によつて、30歳のイエスは、「世のことば」キリストを受け入れた。その「世のことば」は火の力にまでなつてゐる。
 
 
その火の力は、わたしたちひとりひとりのこころの基において「己れであることの虚しい思ひ込み」を焼き尽くす。
 
 
そして、胸に、他者への愛が息づき始める。
 
 
わたしによつて強められた「わたしがあることの情」が、わたしによつて抑へられることによつて、「己れであることの虚しい想ひ込み」が焼き尽くされる。胸に愛(インスピレーション)が満ちる。
 
 
そして、わたしはある、精神の深みに。
 
 
 
 
そして、わたしはある、精神の深みに。
わたしのこころの基において、
胸に満ちる愛の世から、
己れであることの虚しい想ひ込みが、
世のことばの火の力によつて、焼き尽くされる。




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2023年01月15日

開校式のシュタイナーの挨拶(1919.9.7.)から













1919年9月7日(日)に、世界で初めての自由ヴァルドルフ学校(俗称 シュタイナー学校)の開校式が開かれ、ルードルフ・シュタイナーによつてなされた開校の挨拶のことばが、『普遍人間学』全十四講の後に、記録されてゐます。


そこに、教育といふ人の営みそのものの深みが、短い言葉の中に凝縮されてゐるのです。


人類史上未曾有の惨劇、第一次世界大戦が、漸くも漸く、終結した翌年、アントロポゾフィーに勤しむ人々は、壊滅したドイツからこの悲惨な世界を新しく建て直して行くため、未来の人類に向けて、子どもたちのための学校を見識と勇気をもつて打ち樹てたのでした。


その営みは、50年、100年、300年先を見込んでのものです。


その人類史上における意味深いひとときにおいて、シュタイナーによつて発せられたことばは、いかなるものであつたのか。


そのことを述べさせてただいた一連の拙講義の中から、五つの動画をご紹介させていただきます。




2023年01月13日

こころのこよみ(第39週)〜<わたしがあること>の情〜



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精神(靈・ひ)の啓けに身を捧げ、
 
わたしは世といふものの光を得る。
 
考へる力、それは長ける、
 
わたしにわたしみづからを明かしながら。
 
そしてわたしに呼び覚ます、
 
考へる力を通して、わたしがあることの情を。
 
 

An Geistesoffenbarung hingegeben
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
Gedankenkraft, sie wächst
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
Und weckend löst sich mir
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.
 

 
「精神(靈・ひ)の啓け」。
 
 
それは、「わたしがある」といふことを実感すること。
 
 
それこそが、すべての現代人における、もつとも深い願ひなのではないだらうか。
 

どんなときでも、どんな場所でも、誰と会つてゐても、誰に会つてゐなくても、「わたしがある」といふことへの情、信頼、確かさが己れに根付いてゐるほどに、人は健やかさに恵まれはしないだらうか。
 
 
その「わたしがある」といふ情が、この時期に、イエスの誕生によつて、人にもたらされた。
 
 
それを「精神(靈・ひ)の啓け」と、ここでは言つてゐる。
 
 
では、「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」といふ情はどのやうに稼がれるだらうか。
 
 
それは、「考へる力が長ける」ことによつて稼がれる。
 
 
普段、わたしたちの考へる力は、目に見えるもの、手に触れるものなど、物質的なものについて考へることに、尽きてしまつてゐる。
 
 
「いま、何時だらう」「今日は何を食べようか」「あそこに行くまでには、どの電車に乗り継いでいつたらいいだらうか」「ローンの返済を今月ちやんと済ませることができるだらうか」などなど・・・。
 
 
わたしたちのふだんの考へる力は、そのやうに特に意志の力を要せず、やつてきたものを受けとり、適度に消化し、あとはすぐに流していくことに仕へてゐる。
 

しかし、たとへば、葉がすべて落ちてしまつた木の枝や、目に美しい花や紅葉などが消え去つた冬の裸の枝。
 

それらをぢつと見つめながら、こころの内で、次のやうなことをみづからの意欲・意志を注ぎ込みながら、考へてみる。
 
 
その寒々しい冬の裸の枝に、やがて来たる春や夏には鮮やかな花が咲き、緑滴る葉が生い茂る。
 
 
そのいまは目には見えない花や葉を想ひ描きつつ、その木に脈々と通ふ生命について、熱く考へてみる。
 
 
さうすると、その寒々しかつた冬の裸の枝の先に、何か活き活きとした光のやうなものが感じられてくる。
 
 
それぐらゐ、考へる力を、見えるものにではなく、見えないものに、活き活きと意欲を働かせつつ向けてみる。
 
 
すると、その考へられた考へが、それまでの外のものごとを単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、ものやことがらの内に通つてゐるかのやうな、活き活きと命を漲らせたものになる。
 
 
考へる力を、そのやうに、感官を超えたものに、意志をもつて向けていくことによつて、死んでゐた考へを命ある考へに転換できる。
 
 
死を生に転換できる。
 
 
そして、その考へる力によつて、わたしたちみづからも活き活きとしてくる。
 
 
その考へる力によつて、わたしにわたしみづからが明かされる。
 
 
わたしに、「わたしがあること」の情を、呼び覚ます。
 
 
それは、おのづから生まれるのではなく、ひとりひとりの人がみづから勤しんでこそ稼ぐことのできる高くて尊い情だ。
 
 
「わたしがあること」の情とは、みづからに由るといふ情、「自由」の情でもある。
 
 
その内なる自由からこそ、「わたしを捧げる」意欲、つまり、愛する道を歩いていくことができる。
 
 
そして、「わたしがある」といふことをもつて「身を捧げる」。
 
 
ならば、「わたしは世といふものの光を得る」。
 
 
それは、どこまでも、この「わたしのわたしたるところ」、「わたしがある」への信頼から、人との対話へと、仕事へと、一歩踏み出していくこと。
 
 
それは、きつと、見返りを求めない、その人のその人たるところからの自由な愛からのふるまいだ。
 
 
その勇気をもつて踏み出した一歩の先には、きつと、「世といふものの光」が見いだされる。
 
 
たとへ闇に覆はれてゐるやうに見える中にも、輝いてゐるもの、輝いてゐる人、そして輝いてゐる「わたし」を見いだすことができる。
 
 
「わたしがある」といふ情を育みつづけるならば。
 
 
 
 
 
精神(靈・ひ)の啓けに身を捧げ、
わたしは世といふものの光を得る。
考へる力、それは長ける、
わたしにわたしみづからを明かしながら。
そしてわたしに呼び覚ます、
考へる力を通して、わたしがあることの情を。




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2023年01月12日

土曜日午前オンサイトクラス大阪「言語造形 いのちとこころのエクササイズ」



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人のいのちを司っている「エーテルのからだ」。

幼児期にはそのからだは、フィジカルな体をなりたたせるためにまさに手一杯です。

しかし、だんだんとエーテルのからだはそのお役目から解き放たれてゆき、そこに波打っているいのちの力は、考える力、記憶する力へとなり変わっていきます。

そして、老いてくると共に、それらエーテルのからだから解き放たれて来る考える力、記憶する力が、その人の<わたし>によってしっかりと掴まれていないと、その人を興奮させ、憂鬱にさせ、果ては認知症への導きとなってしまいます。

つまり、考える力・記憶の力と、からだとこころの健康とは、すこぶる近しい関係にあります。

わたしたちは、言語造形を通して、また、それに準じるエクササイズ・練習を通して、〈わたし〉とエーテルのからだをしっかりと結びつけるための時間を創って参ります。

約三年ぶりに再会する大阪「ことばの家」での言語造形の時間。

これまでよりも、人のいのちとこころの健やかさをかたちづくってゆくことをより意識してクラスをしていきます。

どうぞ、ご関心のおありになる方、一度、大阪まで、お運びください。お待ちしています。


講師:諏訪耕志


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【日時】
1月14日(土)を第一回目としまして、
2月からは第三土曜日(2/18, 3/18, 4/15, 5/20, 6/17, 7/15 ・・・)
午前10時から13時までの毎月一回のオンサイトクラスです。

【場所】
アントロポゾフィーハウス ことばの家 
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20
最寄り駅 南海高野線「帝塚山」 
     南海阪堺線「姫松」 
     地下鉄四つ橋線「玉出」

【参加費】
初回体験参加のみ2500円 
以降5回連続30000円


※ご参加の方は、声に出してみたい文学作品をひとつ持ってきてください。
 また、教室でのマスク着用はおひとりおひとりの自由に任せておりますので、どうぞご了承ください。


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●第三金曜夜オンラインクラス「シュタイナーの会員への手紙」

【日時】
1月20日(金)を第一回目としまして、
午後7時半から9時までの毎月一回のオンラインクラスです。 

【参加費】
初回体験参加のみ3500円 
以降5回連続15000円

参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。

※扱うテキストは、
 わたくし諏訪の拙訳による「会員への手紙」を用います。


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●毎週月曜夜オンラインクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」

【日時】
1月9日(月)を第一回目としまして、
夜8時から9時までの毎週月曜日夜のクラスです。

【参加費】
体験単発参加 2000円 
お月謝制(基本的に月に4回)5000円

参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。

※扱う書籍は、鈴木一博氏訳の
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。
恐れ入りますが、以下のサイトから、
ご参加前にご購入をお願ひいたします。
精巧堂出版 https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007


三つのクラス、いずれも、
以下へのお振込み、お問い合わせ、お申し込みになります。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/
https://youtu.be/Q_POc6RxVF4


2023年からの新しい自分に向かっての
新しい学びを始めて行きませんか! 
講師 諏訪耕志



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2023年01月11日

新しいオンラインクラス😌第三金曜夜「シュタイナーの会員への手紙」



シュタイナーの会員への手紙.jpg



アントロポゾフィー運動は、ひとりひとりのこころとこころが精神の世のみなもとに結ばれて、初めて動き出すものだと感じています。

そのみなもとに自分自身を結ぶことは、人を決して縛りはしません。むしろ、精神のみなもととの結びつきは、その人をますますその人になしゆき、その人を自由への道へといざないます。

そのためのアントロポゾフィー運動の新たな始まりに向けて、今から99年前の学び手に対するシュタイナーが書き記した手紙を読み解き始めます。

計18通の手紙をわたくしによる拙訳で、月に一回、第三金曜日の夜7時半から9時までの時間の中で分かち合って参ります。



【日時】
1月20日(金)を第一回目としまして、
毎月第三金曜日午後7時半から9時までオンラインクラスです。 

【参加費】
初回体験参加のみ3500円 
以降5回連続15000円

参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。

※扱うテキストは、
 わたくし諏訪の拙訳による「会員への手紙」を用います。



以下へのお振込み、お問い合わせ、お申し込みになります。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/
https://youtu.be/Q_POc6RxVF4


2023年からの新しい自分に向かっての
新しい学びを始めて行きませんか! 
講師 諏訪耕志

posted by koji at 12:47 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月03日

1/9(月)より新オンラインクラス(毎週月曜夜20時〜21時)「いかにして人が高い世を知るにいたるか」へのご案内☺️



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2023年を迎え、<わたし>という揺るがない自分軸を打ち樹てるために、自分自身のこころを自分自身で育てて行く必要をますます感じています。


人は雄々しく舵を取り、激しい風と波に揺られるも、内なるところは揺るがず、果てなき深みを見やる。難に会おうと会うまいと、頼れるは内なるところの力。


人生を生きて行く上でやってくる幸せや不幸せに一喜一憂せず、芯なる力を、毎週毎週の繰り返しの学びを通して育んでゆくクラスです。


今年から、共に、やっていきませんか。このクラスでの営みを通して、こころとこころを精神で繋いでまいりましょう☺️



●毎週月曜夜オンラインクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」

【日時】
1月9日(月)を第一回目としまして、
夜8時から9時までの毎週月曜日夜のクラスです。

【参加費】
体験単発参加 2000円 
お月謝制(基本的に月に4回)5000円

参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。

※扱ふ書籍は、鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。
恐れ入りますが、以下のサイトから、ご参加前にご購入をお願ひいたします。
精巧堂出版 https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007











posted by koji at 15:28 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年12月30日

おひさまの丘 宮城シュタイナー学園 第二回教員養成講座 終はりました



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三日間にわたる教員養成講座を昨日終へました。


渋谷先生によるオイリュトミーの時間。そこでは、とても豊穣な時間が流れ、受講生の皆さんの呼吸がどこまでも健やかに育まれる。ひとつの母音の動きとかたちに、一瞬の精神の目覚めが訪れる。そんな精神の体験を受講生の方が語つてくれたのでした。教員養成講座において、一瞬でもいい、そのやうな精神の芸術的な体験があれば、それは教育といふ仕事を支へて行く礎になると、わたしは思ふのです。


さう、今回の教員養成講座は、聖なるクリスマスの日々、わたしたちが精神の目覚めを学び、その学びを通して精神の目覚めを実感することを共にしたいとの希ひからのものでした。


福島先生による手仕事の時間。そこでは、受講生の方々同士で助け合ひながら、手の働きを通して、没頭しつつ精神の眠りの境(意欲の境)へとゆつくりと入つて行く時間であり、そこには、こころとからだの安らぎがあるのでした。その眠りの健やかな享受が、わたしたちを再び、爽やかな目覚めの意識へと甦らせるのですね。眠りをくぐり抜けた後の目覚めは、大切な認識に人を至らせます。それは、「手はみんなのために働く」といふ認識です。


言語造形では、我が国の精神を支へ続けてゐる「古事記(ふることぶみ)」の原文を全身全霊で語り、演じることが始まりました。神話から、わたしたちの社会のあり方、文化の営みのあり方、そもそもの精神のあり方を、理屈抜きにからだとこころまるごとで学んで行かうよといふ時間。来年2023年のクリスマスに『古事記(ふることぶみ)の傳へ』といふ言語造形劇として、学園の皆さんの前で受講生全員で発表できたらといふ希ひをもつてゐるのです。


「精神の目覚め」といふテーマでのわたしからの講義。わたしがことのほか驚き、ありがたかつたのは、受講生の皆さんが、一日の全講義が終はるたびごとに、皆さんご自身でいま一度講義の内容を振り返り、自問自答し、翌朝、そのことをシェアして下さることでした。まさしく、その内的な行ひこそが、このたびのテーマをまるごと生きてゐるといふことだからです。


精神が目覚めゆくことによつて、ひとりひとりの人が、ますます、その人になつてゆく。


もう、何かから、誰かからの自由ではなく、わたしが<わたし>になりゆくこと、それがまことの自由なんだと、わたしたちは確かめ合ひました。


毎週一回のオンラインクラスと共に、それが、このたびの教員養成講座のおほもとのテーマなのです。


三日間の昼食のお世話をして下さつた学園の方々、講座のための下準備をして下さつたスタッフの方々、共にこの仕事を成り立たせるべく尽力して下さつた講師の皆様、そして、年末の慌ただしいこの時期に、果敢にも、アントロポゾフィーといふ精神の学びに飛び込んできて下さつた受講生の皆さん、そして、そして、この集ひを高くから暖かく見守つて下さつてゐる見えざる方々、本当にありがたうございました。


来たる新しい年。わたしたちも、自分自身のこころと精神の力で、新しい年にいのちを吹き込み、すべてのものをよりよきものにだんだんとして行くのですね。


ありがたうございました😇😇😇 よきお年を!




posted by koji at 11:14 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年12月26日

こころのこよみ(第38週) 聖き夜の調べ



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わたしは感じる、
 
まるでこころの奥で、
精神の子が魔法から解かれたやうだ。
 
その子は胸の晴れやかさの中で、
 
聖き、世のことばとして、
 
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
 
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
 
わたしのわたしたるところ、神の基から。
 
 
 
Weihe-Nacht-Stimmung   
Ich fuehle wie entzaubert
Das Geisteskind im Seelenschoss,
Es hat in Herzenshelligkeit
Gezeugt das heil'ge Weltenwort
Der Hoffnung Himmelsfrucht,
Die jubelnd wächst in Weltenfernen
Aus meines Wesens Gottesgrund.
 
 
 
 
クリスマス、それは、をさな子の誕生を寿ぐ日。
 
 
どの人のこころの奥にも眠つてゐる、をさな子のをさな子たるところの生まれを祝ふ日。
 
 
をさな子、それは、子ども時代の内でもとりわけ、記憶の境の向かう、三歳以前のわたしたちのありやう。
 
 
いまこそ、この時代こそ、世の男たちの(このわたしの)内なるをさな子が目覚めますやうに。さう祈らずにはゐられない。
 
 
なぜなら、をさな子のをさな子たる力とは、世のすべての争ひ、分け隔て、エゴ、それらを越える、創造する力、愛する力だから。
 
 
わたしたちは、この世に生まれてから、おほよそ三年かけて、歩く力、話す力、考へる力を育み始める。
 
 
その三つの力は、人のからだを創つていく力でもある。
 
 
歩く力によつて脚が、話す力によつて胸が、考へる力によつて頭が、だんだんと創られていく。
 
 
歩く力、話す力、考へる力は、当然その子によつて、意識的に身につけられたものでもなければ、大人によつて教へ込まれたものでもなく、そのをさな子の内から、まるで神々しい力が繰り出してくるかのやうに、地上的な力を超えたところから、生まれてくる。
 
 
そのおのづと生まれてくる神々しい力は、しかし、三年間しかこの世にはない。
 
 
をさな子のをさな子たるところが輝く三年間から後は、その子の内に、少しづつ地上を生きていくための知性と共に、エゴがだんだんと育ち始める。
 
 
しかし、きつと、それも、人の育ちにはなくてはならないもの。
 
 
三年の間のみ、人の内に、からだを創るための神々しい力が通ふ。
 
 
その地を越えた神々しい力は、この地を生きていくための基の力である。
 
 
「聖き、世のことば」キリストも、この世に、三年間しか生きることができなかつた。
 
 
イエス、三十歳から三十三歳の間だ。
 
 
そのイエスにキリストとして三年間通つた力は、をさな子のをさな子たるところからの力であつた。
 
 
キリストは、世のすべての争ひ、分け隔て、エゴを越え、人のこころとこころに橋を架ける愛する力として、この地上に受肉した。
 
 
後にキリストを宿すイエスが母マリアから生まれたとされてゐる、24日から25日の間の聖き夜。
 
 
その夜から、キリストがイエスに受肉した1月6日までをクリスマスとして祝ふ。
 
 
そして、このクリスマスは、二千年以上前のおほもとの聖き夜に起こつたことを想ひ起こすことを通して、わたしたちの内なるをさな子たるところを想ひ起こす時だ。
 
 
そして、いまから三千年以上あとに、すべての人がみづからのこころに精神のをさな子(生命の精神 Lebens Geist)、キリストを見いだすことを、予め想ひ起こして祝ふ時だ、さうシュタイナーは語つてゐる。
 
 
三歳以前のわたしたちの内に、確かに、その神々しい力が通つてゐた。
 
 
そして、実は、いまも、通つてゐる。
 
 
しかし、そのことを人は知らない。
 
 
わたしが、その神々しい力を想ひ起こせばこそ、いまもその力が通つてゐることに目覚めることができる。
 
 
このクリスマスの日々に、その力を自分の内にも認めればこそ、来る年への希みが羽ばたき始める。
 
 
争ひ、闘ひ疲れてゐる男たちが、みづからの内なるをさな子を想ひ起こしてゆくならば、世はおのづから刻一刻となりかはつていくだらう。
 
 
 
 
  
『聖き夜の調べ』

わたしは感じる、
まるでこころの奥で、
精神の子が魔法から解かれたやうだ。
その子は胸の晴れやかさの中で、
聖き、世のことばとして、
希みに満ちた天の実りとして、生まれた。
それが喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、
わたしのわたしたるところ、神の基から。
 
 

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2022年12月23日

こころのこよみ(第37週) 〜歌へ、冬の夜に〜



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世の冬の夜に精神の光を荷ひゆくべく、
 
恵みに満ちたわたしは心底追ひ求める。
 
輝くこころの萌しが、
 
世の基に根をおろすことを。
 
そして神のことばが、感官を覆ふ闇の中で、
 
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くことを。
 
 
 
Zu tragen Geisteslicht in Weltenwinternacht
Erstrebet selig meines Herzens Trieb
Dass leuchtend Seelenkeime
In Weltengruenden wurzeln
Und Gotteswort im Sinnesdunkel
Verklaerend alles Sein durchtoent.
 
 
 
 
わたしは、既に十分な恵みに満たされてゐる。この世に生かされてゐる、といふことの中に、どれほどの豊かな恵みが既に潜んでゐるか。
 
 
そのことを想ひ起こすたびごとに、わたしのこころは明るく暖かくなる。こころが精神の光に照らされてゐるのを感じる。
 
 
でも、そんな恵みに満ちてゐるわたしが、心底追ひ求めることがある。それは、自分の力を最大限に使ひ尽くして、仕事をすることだ。
 
 
この恵みに満ちたからだとこころをフルに使つて仕事をすることだ。
 
 
輝くこころの萌しを世の基に根づかせることだ。天から戴いてゐる恩恵を大地にお返しするのだ。照らされてゐるだけではなく、自分自身から照らしていくのだ。
 
 
さうして、そのやうに仕事をしていくうちに、この恵みに満ちたからだとこころを使つてゐるのが、わたしのわたしたるところ、「精神」だといふことが感じられてくる。
 
 
実は、精神こそが隠れた主役で、わたしの人生の一コマ一コマを進めてゐたことに気づく。
 
 
その精神は、からだを基にしながら、からだの制約を超える。
 
 
こころに足場を見いだしながら、こころを、豊かに、大きく、広くしていく。
 
 
精神が主役である。
 
 
その精神が奏でようとしてゐる音楽がある。
 
 
その音楽を奏でることに、このからだとこころがいかに仕へていくことができるか。
 
 
仕事をすることによつてこそ、ますます精神が主役になつていくのを、日一日と感じることができる。
 
 
身の回りが暗く寒くなつてくるほど、身の内に宿つてゐる<わたし>こと精神が、ますます明るさ・暖かさ・熱さを滾らすことができる。
 
 
<わたし>こと精神。
 
 
「神のことば」と和して響くところをこそ、<わたし>といふのではないだらうか。
 
 
「神のことば」はありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響いてゐる。
 
 
だからこそ、<わたし>よ、歌へ。
 
 
もつと高らかに。
 
 
そしてもつと優しく。
 
 
 
 
世の冬の夜に精神の光を荷ひゆくべく、
恵みに満ちたわたしは心底追ひ求める。
輝くこころの萌しが、
世の基に根をおろすことを。
そして神のことばが、感官を覆ふ闇の中で、
ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くことを。




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こころのこよみ(第36週)〜汝は何を怖がつてゐるのか〜



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レオナルド・ダヴィンチ『サルヴァトール・ムンディ』


わたしといふものの深みにおいて
 
いま、目覚めよ、と
 
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
 
  汝の仕事の目当てを
 
  我が精神の光で満たせ、
 
  我を通して、汝を捧げるべく。
 
 
 
 
In meines Wesen Tiefen spricht
Zur Offenbarung draengend
Geheimnisvoll das Weltenwort ;
Erfuelle deiner Arbeit Ziele
Mit meinem Geisteslichte
Zu opfern dich durch mich
 
 
 
 
わたしといふものの深みにおいて、
「いま、目覚めよ」と、
世のことばが密やかに響く。
 
 
「世のことば」とは、キリスト。
キリストがささやくやうに
「いま、目覚めよ」と言ふ。
 
 
「目覚めよ」とは、
恐れや不安を乗り越えよ、といふこと。
 
 
世のことばがささやいてゐる。
 
 
汝は何を怖がつてゐるのか。
何も怖がることはない。
己れの内に隠されてゐる恐怖から、
他者を罵り、責め、他者に期待することは、
もうやめよ。
 
 
汝を捧げよ。
汝の仕事に。
我・キリスト・汝の〈わたし〉を通して。
 
 
仕事をするといふこと、
生きるといふことは、
さういふことであつた。
 

 
わたしといふものの深みにおいて
いま、目覚めよ、と
密(ひめ)やかに世のことばが語る。
  汝の仕事の目当てを
  我が精神の光で満たせ、
  我を通して、汝を捧げるべく。
 
 


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2022年12月18日

骨を想ふ





♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


●毎週月曜夜オンラインクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」

【日時】
1月9日(月)を第一回目としまして、
夜8時から9時までの毎週月曜日夜のクラスです。

【参加費】
体験単発参加 2000円 
お月謝制(基本的に月に4回)5000円

参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。

※扱ふ書籍は、鈴木一博氏訳の
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。
恐れ入りますが、以下のサイトから、
ご参加前にご購入をお願ひいたします。
精巧堂出版 https://www.seikodo-store.com/show1.p...



●第二土曜日午前オンサイトクラス大阪
「言語造形といのちとこころのエクササイズ」

【日時】
1月14日(土)を第一回目としまして、
午前10時から13時までの毎月一回のオンサイトクラスです。

【場所】
アントロポゾフィーハウス ことばの家 
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20
最寄り駅 南海高野線「帝塚山」 
     南海阪堺線「姫松」 
     地下鉄四つ橋線「玉出」

【参加費】
初回体験参加のみ2500円 
以降5回連続30000円



●第三金曜夜オンラインクラス「シュタイナーの会員への手紙」

【日時】
1月20日(金)を第一回目としまして、
午後7時半から9時までの毎月一回のオンラインクラスです。 

【参加費】
初回体験参加のみ3500円 
以降5回連続15000円

参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。

※扱うテキストは、
 わたくし諏訪の拙訳による「会員への手紙」を用います。



三つのクラス、いずれも、
以下へのお振込み、お問い合わせ、お申し込みになります。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/
https://youtu.be/Q_POc6RxVF4


2023年からの新しい自分に向かっての
新しい学びを始めて行きませんか! 
講師 諏訪耕志


♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾



HP「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
https://kotobanoie.net/
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諏訪耕志ブログ『断想・・アントロポゾフィーに学びつつ・・』
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こころのこよみ(第35週) 〜<わたしはある>そして<慎ましく生き抜いてゆく>〜



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<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
 
それを再び見いだしえるのか、
 
こころが活き活きと働くならば。
 
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
 
己れみづからが手足となり、
 
世を慎ましく生き抜いてゆく。
 
 
  

Kann ich das Sein erkennen,
Daß es sich wiederfindet   
Im Seelenschaffensdrange ?   
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n, 
Das eigne Selbst dem Weltenselbst   
Als Glied bescheiden einzuleben.
 
 
 
 
この『こよみ』の<ある>といふことばから、言語造形家の鈴木一博さんが以前、シュタイナーの『礎のことば』について書かれてゐた文章を想ひ起こした。
 
  
そもそも、<わたし>は、気づいたときには、もう既に、ここに<あつた>。
 
 
ものごころがついたときから、<わたし>が既に<あらしめられてある>ことに、気づきだした。
 
 
この<わたし>は、わたしが気づく前から<ある>。
 
  
そして、いま、<わたしはある>といふ事態をありありと感じることができる時といふのは、わたしのこころが活き活きと生きて働いた後、そのことをその活き活きとした感覚を失はずに想ひ起こす時ではないか。
 
 
だから、そのやうに、こころにおいて活き活きと何かを想ひ起こすことで、<わたしがある>といふことを、より深く、より親しく感じ、より明らかに知つていくことができる。
 
 
何を想ひ起こすのか。
 
 
内に蘇つてくる、ものごころがついてからの想ひ出。
 
 
また、ふだんは想ひ起こされないものの、故郷の道などを歩くときに、その場その場で想ひ出される実に多くのこと。
 
 
当時あつたことが、ありありと想ひ出されるとき、そのときのものごとだけでなく、そのときの<わたし>といふ人もが、みづみづしく深みを湛えて甦つてくる。
 
 
それらを頭で想ひ描くのでなく、胸でメロディアスに波立つかのやうに想ひ描くならば、その想ひ出の繰りなしは、みづみづしい深みを湛えて波立ついのちの織りなしと言つてもいいし、「精神の海」と呼ぶこともできる。
 
 
その「精神の海」に行きつくことによつて、人は「みづからがある」ことに対する親しさを得ることができはしないだらうか。
 
 
そして、その「精神の海」には、わたしが憶えてゐるこころの憶ひだけではなく、からだが憶えてゐるものも波打つてゐる。
 
 
たとへば、この足で立つこと、歩くこと。ことばを話すこと。子どもの頃に憶えたたくさんの歌。自転車に乗ること。字を書くこと。筆遣ひ。包丁遣ひ。などなど。
 
 
身についたこと、技量、それはどのやうに身につけたかを頭で想ひ出すことはできなくても、手足が憶えてゐる。
 
 
手足といふもの、からだといふものは、賢いものだ。
 
 
それらの手足が憶えてゐることごとへの信頼、からだの賢さへの信頼があるほどに、人は、<わたしがある>といふことに対する確かな支へを持てるのではないだらうか。
 
 
また、パーソナルな次元を超えて、人といふ人が持つてゐる、からだといふなりたち、こころといふなりたち、果ては、世といふもの、神といふもの、それらも人によつて想ひ起こされてこそ、初めて、ありありと、みづみづしく、その人の内に生き始める。
 
 
だからこそ、<わたしはある>といふ想ひを人は深めることができる。
 
 
<神の内に、わたしはある><わたしの内に、神はある>といふ想ひにまで深まることができる。
 
 
想ひ出をみづみづしく蘇らせること。
 
 
手足の闊達な動きに秘められてゐる技量といふ技量を発揮すること。
 
 
それらすべてを司つてゐる世の生みなし手にまで遡る想ひを稼いで得ること。
 
 
それらが、<わたしがある>といふことの意味の解き明かし、<わたしがある>といふことへの信頼を生みはしないか。
 
 
それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。
 
 
わたしのこころが活き活きと生きたことを想ひ起こすことと、<わたしはある>とが響きあふ。
 
 
<ある>といふことを知つていくことは、<ある>といふことを想ひ起こしていくことだ。
 
 
世の中において、こころが<生きた>こと、手足が<生きた>こと、わたしまるごとが<生きた>ことを、活き活きとわたしが想ひ起こす時、<わたし>も、世も、ありありと共にあつたのであり、いまも共にあるのであり、これからも共にありつづける。
 
 
わたしと世は、きつと、ひとつだ。
 
 
そして、いまも、これからも、精神からの想ひ起こしをすることで、こころを活き活きと働かせつつ、力が与へられてゐるのを感じつつ、手足を使つて、地道に、慎ましく、世を生きてゆくほどに、<ある>といふことを、つまりは、<わたしがある>といふことを、わたしは知りゆき、何度でも見いだしていくだらう。
 
 
ここで、クリスマス会議でシュタイナーにより発せられた『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。
 
 
 
 
   人のこころ!
  
   あなたは手足に生き
 
   手足に支へられつつ、場を経て
 
   精神の海へと行きつく。
 
   行はれたし、精神の想ひ起こしを
 
   こころの深みにて。
  
   そこにては
 
   世の生みなし手が司り
 
   あなたの<わたし>が
 
   神の<わたし>のうちに
 
   ありありとある。
 
   もつて、あなたは真に生きるやうになる
 
   まこと人として、世のうちに。
 
 
              (鈴木一博氏訳)
 
 
 
 
<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
己れみづからが手足となり、
世を慎ましく生き抜いてゆく。





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2022年12月16日

難しさを恐れず なすべきことをなしていく





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【アントロポゾフィーハウス ことばの家 オンラインクラスのご案内】

【「いかにして人が高い世を知るにいたるか」クラス】

★2023年1月9日よりの
 新・月曜クラス(毎週) 20時〜21時

 木曜クラス(毎週) 20時〜21時
 日曜クラス(毎週) 20時〜21時

●ご参加費
体験単発参加  2000円
お月謝制(基本的に月に4回) 5000円


【「テオゾフィー 人と世を知るということ」クラス】

●開催日時
毎月二回 いずれも土曜日
(正確なスケジュールは、下記の「含まれるクラス」欄にてどうぞご確認ください)
午前10時〜12時

●ご参加費
体験単発参加  3500円
6回連続    18000円


※連続ご参加の場合、ご自身のご都合による欠席は講座費は払い戻しはいたしません。後日、録画した動画をご覧いただけます。

●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904

参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/


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HP「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
https://kotobanoie.net/
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諏訪耕志ブログ『断想・・アントロポゾフィーに学びつつ・・』
http://kotobanoie.seesaa.net/
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you tube channel「アントロポゾフィーハウス ことばの家」
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https://www.youtube.com/user/suwachimaru



アントロポゾフィーハウス2023年 三つの新クラスのご案内



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●毎週月曜夜オンラインクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」


【日時】1月9日(月)を第一回目としまして、
夜8時から9時までの毎週月曜日夜のクラスです。


【参加費】
体験単発参加 2000円 
お月謝制(基本的に月に4回)5000円


参加費をお振り込みいただいた方に、zoomのIDとパスワードをお伝えします。


※扱ふ書籍は、鈴木一博氏訳の
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。
恐れ入りますが、以下のサイトから、ご参加前にご購入をお願ひいたします。
精巧堂出版 https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007




●第二土曜日午前オンサイトクラス大阪
「言語造形といのちとこころのエクササイズ」


【日時】
1月14日(土)を第一回目としまして、
午前10時から13時までの毎月一回のオンサイトクラスです。


【場所】
アントロポゾフィーハウス ことばの家 
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20
最寄り駅 南海高野線「帝塚山」 
     南海阪堺線「姫松」 
     地下鉄四つ橋線「玉出」


【参加費】
初回体験参加のみ2500円 
以降5回連続30000円




●第三金曜夜オンラインクラス
「シュタイナーの会員への手紙」


【日時】
1月20日(金)を第一回目としまして、
午後7時半から9時までの毎月一回のオンラインクラスです。 


【参加費】
初回体験参加のみ3500円 
以降5回連続15000円


参加費をお振り込みいただいた方に、
zoomのIDとパスワードをお伝えします。


※扱うテキストは、わたくし諏訪の拙訳による
「会員への手紙」を用います。




三つのクラス、いずれも、以下へのお振込み、お問い合わせ、お申し込みになります。


●お振込み先
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル


// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904


●お申し込み・お問い合わせ
アントロポゾフィーハウス ことばの家
https://kotobanoie.net/access/
https://youtu.be/Q_POc6RxVF4



2023年からの新しい自分に向かっての新しい学びを始めて行きませんか! 講師 諏訪耕志





posted by koji at 14:47 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする