
我が目の前で、気になる身の動きをしきりにする人がいました。
わたしは、しかし、気にしているということを表には表さず、じっと黙っていましたが、こころの内ではかなり気に病んでいたのでした。
ところが、ある考えがふとやってきたのでした。
それは、その動きをする人の、表側ではなく、内なるこころのありように意を向けてみようという考えでした。
そして、そうしてみた、その一瞬、わたしははっとしたのです。
それは、その人のこころの動きと、わたしの内なるこころの動きとが、恐らくですが、全く同じだということに気づいたのです。
わたしにとって目障りと言ってもいい、その人の動きは、まさに、わたしが自分のこころの内でしている不調和で、ある意味、不誠実な動きそのものをからだの動きや顔の表情をもって表してくれていたのでした。
わたし自身はこころの内に秘めていて、他者に気づかれていないし、自分自身さえも気づいていないそのこころの動きを、その人は表側に身振りや表情として出してしまっている、という違いがあるだけなのだということに気づいたのでした。
そして、はっと、思い至ったのでした。
つまり、これは、おそらく無意識でしょうが、その人がわたしの目の前でそのような動きをすることによって、わたしにアンチパシーを呼び起こし、わたしにわたし自身のこころの内なる動きのありようを気づかせよう、意識させようとしてくれているということなのではないか。
この人は、わたしだ。
本当に青天の霹靂とはこのことを言うのだ、そう思えたのでした。
そして、この気づきが起こるやいなや、わたしはその人の動きに対して、いや、その人に対して、全く新たな情が湧きおこって来たのでした。
さらに、そればかりでなく、まるで悪魔が去って行ったかのように、その人のその動きが止んで行き、その人が話し出すと、叡智に満ちたとても深みのあることばが発せられるではありませんか。
わたしの目の前で起こるあらゆることごとは、わたしの内なるこころの鏡像だと、改めて思い知ったのでした。
こころの眼が開けると、みずからのこころの内なる恐れや怒りや低い情欲が、こころの世における動物や人のすがたとなって外から自分自身に襲い掛かって来ることについて、ルードルフ・シュタイナーが『いかにして人が高い世を知るにいたるか』という本の中に書いています。
金縛りにあった時、そのような恐ろしいすがたにリアルにまみえることがあること、ご経験のおありになる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
こころの世では、物質の世で起こることの真相が顕わになるということなのですね。
こころの世で起こっていることは、無意識であろうとも、現代の多くの人に働きかけています。
理由の分からない不安感や怖れに苛まれている人も多く、こころの免疫力が相当落ちていることを痛感しています。
それゆえに、精神の観点、靈(ひ)の観点からこころの世のことを学ぶ必要があるとわたしは思います。
物質的な観点からでは、絶対に人生の謎は解けないからです。
わたしには、勇気が必要だと思いました。
現象と本質を分けて観てとる、心臓からの勇気です。
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