2019年07月14日

公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』、想ひ起こすこと





昔話の「たつの子たろう」。
 
謡曲を言語造形作品とした「高砂」。
 
そして、丹後国風土記を下敷きにした劇「浦島子」。
 
 
このたびの言語造形公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』は、茫洋とした、陸と海との境の行き来を描いたものでした。
 
 
そして、わたしたちは、この公演に臨んで、何か、大切なことを想ひ起こさうとしてゐたのでした。
 
 
海の神を祀る、住吉大社のお膝元に生きてゐるわたしたちにとりまして、この題材は、ひたひたと静かに波が寄せてくるかのやうに、わたしたちの人生にも引き寄せられて来たものなのでした。
 
いや、きつと、わたしたちが引き寄せられて来たのでせう。

 
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諏訪千晴の「たつの子たろう」を舞台袖で聴いてゐて、物語の終はりに、「たつ」と「たろう」と一緒に、お客様のこころも天へと登つて行くのをありありと感じ、ありありと観たのでした。
 
 
それは、ことばに相応しい身ぶり・造形を通して、ことばの音韻から音韻への流れが息遣ひとともに、螺旋のフォルムを描きつつ、天へと巡り登つて行つたからです。
 
 
 
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さらに、古語で詠はれ、演じられた「高砂」「浦島子」に、お客様は何を感じたでせうか。
 
 
 
頭の知性によるのではなく、手足の運動をもつて、詠はれ、演じられるそれらの古典作品は、日本人であるわたしたちに何を想ひ起こさせるのでせうか。
 

 
相生(あひおひ)の松風の爽やかさ、青海原の広やかさ、君の恵みのありがたさ・・・
 
 
 
さらには、男と女がひとつであつたこと、人と神とがひとつであつたこと・・・。
 
 
 
パーソナルな次元を超えた、人としての普遍的な想ひ出へと、世のはじまり、天地の初発(あめつちのはじめ)へと、いま、ここにて、わたしたちに立ち戻らせる道を示すのが、芸術のつまりの存在意味だと思ふのです。
 
 
 
このたびの舞台に何人かの子どもたちが聴きに来てくれてゐました。
 
 
意味をすぐには受け取り難い古語に直面した子どもたちは、はじめはきつと、むずがります。
 
しかし、そのことばに深い息遣ひと内的な身ぶりがあることで、だんだんと、その難しさを乗り越えていき、言語造形そのものを味はふやうになつてゆくのです。
 
 
 

聴き手とわたしたち演者は、ことばに波打つ「精神」こそを共有することができただらうか。
 
足利智子さんの奏でる楽の音(ね)が呼び起こす「精神」こそを共有することができただらうか。

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そんなことを想ひ続けてゐます。
 
 
  
その「精神」は、時を越えて、人の意識の上層部ではなく、下層部へと働き続けます。
  

 
 
公演を終へて、浦島子の精神と、山幸彦と豐玉姫の精神に、感謝を捧げますと、わたしのこころはいつになく動くのでした。
 
 
 
 
能舞台。
 
そこは、ことばの運動にとつては、解放と凝縮が極端といつていいほど顕はになされなくてはならない場でありました。
 
 
  
「ことば」の芸術。
 
そここそを、聴き取つていただくことができるやうな舞台芸術を、これからも、とこしへに、創りつづけて行きたい、さう念つたのでありました。
 
 
 
ものごとの外側をわたしたちはとかく忙しく廻り続けがちです。
 
 
しかし、静かな内側へとみづから跳び込んで、精神の海にありありとある宝物を、わたしたち演者と一緒になつて掴み取る聴き手と出会ひたい。
 
 
そのために、これからも、とこしへに、創り続けて参ります。
 
  
そのために、言語を造形すること、ひとつひとつの音韻にすがたを与へていくことに、こころもからだもまるごとで取り組んでいく人へと、わたし自身ますますなりゆくのです。
 
 
 
ことばに仕へる人が必要です。
 
 

他業に目移りすることなく、そのことを本業にする人が必要です。(このことは、世阿弥も、そのやうなことを申してをります)
 
 
 
また、新しく、道を歩んで行きたいと念つてゐます。
 
 
 
どうぞよろしくお願ひ申し上げます。
 

 
 
 
 
 

 
浦島子、魚(うお)取る漁夫(あま)なり、
釣り翁(をきな)なり、
さはあれど、志は高くして、
雲を凌ぎていよいよ新たなり、
こころは強く弱く思ひやりて、
ひじりを得て、
おのづから健やかなり・・・
 (「ことばの家 諏訪」版 浦嶋子より)
 
 
 
 
 
 
人のこころ!
あなたは手足に生き
手足に支へられつつ、場を経て
精神の海へと行きつく。
行なはれたし 精神の想ひ起こしを
こころの深みにて。
そこにては
世の生みなし手が司り
あなたの〈わたし〉が
神の〈わたし〉のうちに
ありありとある。
もつてあなたは真に生きるやうになる
まこと人として、世のうちに。
 (ルドルフ・シュタイナー『礎のことば』より)
 
 
 


 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志記
 
 
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写真撮影:山本美紀子さん

 




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2019年07月11日

こころのこよみ(第12週)  ヨハネ祭の調べ 〜子どもたちの歌声〜


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帝塚山古墳 

 
世の美しい輝き、
 
それは、わたしをこころの深みから切に誘ふ、
 
内に生きる神々の力を
 
世の彼方へと解き放つやうにと。
 
わたしは己れから離れ、
 
信じつつ、ただみづからを探し求める、
 
世の光と世の熱の中に。
 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Johanni-Stimmung
Der Welten Schönheitsglanz,   
Er zwinget mich aus Seelentiefen
Des Eigenlebens Götterkräfte
Zum Weltenfluge zu entbinden; 
Mich selber zu verlassen,            
Vertrauend nur mich suchend           
In Weltenlicht und Weltenwärme.        
 
 
 
今週のこよみには「ヨハネ祭の調べ」といふ副題がついてゐる。
 
キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行はれてゐた。
 
人といふものを導く神は、太陽にをられる。
 
その信仰が人びとの生活を支へてゐた。
 
太陽がもつとも高いところに位置するこの時期に、太陽にをられる神に向かつて、人々は我を忘れて、祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌ひながら、その祭りを執り行つてゐた。
 
洗礼者ヨハネは、その古代的宗教・古代的世界観から、まつたく新しい宗教・新しい世界観へと、橋渡しをした人であつた。
 
彼は、夏に生まれたといふだけでなく、いにしへの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、まさしく、炎のやうな情熱をもつて、ヨルダン川のほとりにおいて、全国から集まつてくる人々に水をもつて洗礼を授けてゐた。
 
しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、まうすぐこの地上に降りてこられることを知つてゐた。 
  

   汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり
   (マタイ3.2)
 

そして、みづからの役目がそこで終はることをも知つてゐた。
 
 
   わが後に来たる者は我に勝れり、
   我よりさきにありし故なり
   (ヨハネ1.15)
 
   我は水にて汝らに洗礼を施す、
   されど我よりも力ある者きたらん、
   我はそのくつの紐を解くにも足らず。
   彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん
    (ルカ3.16)
 
   彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし
   (ヨハネ3.30)
 
 
ヨハネはイエスに洗礼を授け、イエスのこころとからだに、太陽の精神であるキリストが降り来たつた。
 
それは、太陽の精神が、その高みから降りて、地といふ深みへと降りたといふことであり、ひとりひとりの人の内へと降り、ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、その大いなる始まりでもあつた。
 
「内に生きる神々しい力」とは、人の内にこそ生きようとしてゐる、キリストのこころざし(Christ Impuls)。
 
ヨハネがそのことに仕へ、みづからを恣意なく捧げたことが、四つの新約の文章から熱く伝はつてくる。
 
そのときからずつと、キリストは、この地球にあられる。
 
そのことをわたしたちは実感できるだらうか。
 
 
 

しかし、シュタイナーは、その実感のためには、ひとりひとりの人からのアクティビティーが要ると言つてゐる。
 
みづからの内において、キリストがあられるのを感じることは、おのづからは生じない。
 
人が世に生きるにおいて、みづからを自覚し、自律し、自立させ、自由に己れから求めない限りは、「内に生きる神々しい力」という実感は生まれ得ない。
 
ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、熱狂的に、我を忘れて祝ふものではなく、意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝ひ。
 
それは、この世を離れるのではなく、この世を踏まえつつ、羽ばたくといふ、わたしたち現代に意識的に生きる人といふ人の求めることでもある。
 
この夏の季節、キリストは息を吐くかのやうに、みづからのからだである地球から離れ、世の彼方にまで拡がつていかうとしてゐる。
 
わたしたち人も、キリストのそのやうな動き・呼吸に沿ふならば、己れから離れ、己れのからだとこころを越えて、精神である「みづから」を見いだすことができる。
 
 
 

生活の中で、わたしたちはそのことをどう理解していくことができるだらうか。
 
からだを使つて働き、汗を流し、学び、歌ひ、遊ぶ、それらの動きの中でこそ、からだを一杯使ふことによつてこそ、からだから離れることができ、こころを一杯使ふことによつてこそ、こころから離れることができ、「世の光と世の熱の中に」みづからといふ精神を見いだすことができる。
 
 
 

そして、この夏において、意識的に、子どもに、習ふこと。
 
わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、けらけら笑ひ、歌ひ、踊つてゐる子どもたち。
 
ヨハネ祭のとき、古代の人々は、鳥たちが歌ふことから学びつつ、その歌声を人間的に洗煉させて音楽と詩を奏で、歌ひ、踊つたといふ。
 
鳥たちの声の響きは、大いなる世の彼方にまで響き渡り、そしてその響きに応じて天から地球に精神豊かなこだまのやうなものが降りてくる。
 
このヨハネ祭の季節に、人は、夢のやうな意識の中で、鳥たちに学びつつ、歌ひ、踊ることによつて、己れから離れ、いまだ天に見守られてゐる<わたし>を見いだすことができた。
 
いまも、子どもたちは、幾分、古代の人たちの夢のやうな意識のありようを生きてゐる。
 
そんな夏の子どもたちの笑ひ声と歌声をさへぎりたくない。その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。
 
 
  

そして、わたしたちが己れから離れ、大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、子どもたちの歌声に対するエコーのやうに、ひとりひとりの<わたし>、「神々しい力」が、天に見守られてゐるのを見いだし、響き返してくれてゐるのを聴き取ることができ、この世の様々な状況に対応していく道を見いだしていくことができるのではないか。
 
言語造形をしてゐても、さう、実感してゐる。
 
夏至の頃に、キリストは世の高みと拡がりに至ることによつて、毎年繰り返して、昂揚感を覚えてゐると言ふ。
 
ヨハネ祭の調べ。
 
それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによつて、意識的に、目覚めつつ、みづからを高めつつ、みづからといふ精神を見いだすこと。
 
そこから、地上的なキリスト教ではなく、夏に拡がりゆくキリストの昂揚を通して、より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。
 
そのことがキリスト以降、改められた夏の祭りとしての、ヨハネ祭の調べだと感じる。
 
 
 
世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘ふ、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つやうにと。
わたしは己から離れ、
信じつつ、ただみづからを探し求める、
世の光と世の熱の中に。
 
  
 



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2019年07月07日

こころのこよみ(第11週) 〜白日の下の美しさ〜


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この太陽の時の中で、
 
あなたは、賢き知を得る。
 
世の美しさに沿ひつつ、
 
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
 
<人のわたし>は、みづからを失ひ、
 
そして、<世のわたし>の内に、みづからを見いだすことができる。
 
           ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Es ist in dieser Sonnenstunde   
An dir, die weise Kunde zu erkennen:      
An Weltenschönheit hingegeben,       
In dir dich fühlend zu durchleben:       
Verlieren kann das Menschen-Ich        
Und finden sich im Welten-Ich.        
 
 
 
「世の美しさ」とは、決して表側だけの美しさを言つてゐるのではないだらう。
 
「この太陽の時の中で」は、美しさも醜さも、素晴らしさも馬鹿馬鹿しさも、すべてが白日の下に晒される。
 
それらすべてが白日の下に晒され、光が当てられるからこそ、「世の美しさ」なのだ。
 
その晒されたものがなんであれ、人はそれを経験し、生きなければならない。そのやうな、のつぴきならないものが、「世の美しさ」として感じられるだらうか。そして、それに沿ふことができるだらうか。
 
どんな単純なものごとであれ、複雑なものごとであれ、どんな素晴らしいことであれ、酷いことであれ、わたしたちは、そのものごと、できごとを見くびらずに、その深みを見てとることができるだらうか。
 
ものごとは、なんであれ、付き合ひ続けて、沿ひ続けて、初めて、密やかに、その深さを打ち明け始める。
 
子どもの立ててゐる寝息や家族の笑顔。
 
草木や花々の健気ないのちの営み。
 
日々つきあつてゐる者同士の関係、愛、いさかひ、葛藤。
 
毎日移り変はつていく世の動向。
 
人びとの集団的意識の移り行き。
 
それらひとつひとつが、その深みを顕してくれるのは、はやばやと見くびつてしまわずに、こころをこめてそれに向き合ひ続け、沿ひ続けるときだ。
 
そして、ものごとに沿ふといふ行為の、肝腎要(かなめ)は、ものごとと<わたし>との関係において、何が過ぎ去らず、留まるものなのか、いつたい何が本質的なことなのか、といふ問ひをもつこと。
 
それが精神を通はせつつものごとに沿ふことの糸口になる。からだをもつて振る舞ひ、こころから行為していくことの糸口になる。
 
その時、捨てようとしなくても、人は狭く小さなわたしを捨てることができるかもしれない。
 
そして、はるかに広やかではるかに深みをもつた<世のわたし>の内に、「賢き知」と、他の誰のでもない、自分自身のこころざしが、立ち上がつてきはしないか。
 
 
 
この太陽の時の中で、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿ひつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
<人のわたし>は、みづからを失ひ、
そして、<世のわたし>の内に、みづからを見いだすことができる。
 
 

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2019年07月04日

ありがたうございました!『常世の濱の浪の音聞こゆ』


物凄い風雨の中。
 
まさに、雨ニモマケズ、風ニモマケズ、先週の『常世の濱の浪の音聞こゆ』公演にお越し下さつた皆様、本当にありがとうございました。
 
そして、上演中の休憩時には、雨雲が風に吹き上げられ、見事な晴れ間が拡がつてをりました。
 
あれから、わたし自身、作品のことを静かに考へ、感じてをりますが、なにはさておき、人について感じてゐることを書きたく思ひました。
 
 
 
 
 
これまでの数多のわたしたちの舞台に加へ、このたびも、足利智子さんの奏でる妙なる楽の調べに、わたしたちはどれほどインスパイア―されてゐることでせう。
 
前にも書かせてもらひましたが、演じてゐるわたしたちの背後から静かに寄せて来る波のやうなライアーの響きは、からだを越えて拡がりゆく演者と観客のこころを、舞台いつぱいの精神へと導くのです。
 
そして、今回は、木製のリコーダーが空気の塊りと塊りの間を抜けて行くやうな調べで、わたしたちの舞ひを支へ、導いてくれたのでした。それはまた、絶妙のものでした。
 
さらに、智子さんには実際的な場の設へや衣装のチェック、そして精神的な観点からの舞台創りまで、ずつと、共同作業をしてもらつてゐます。
 
この奇しきご縁には、天を仰ぐしかありません。
 
智子さん、いつもいつも、「ことばの家」を見守つてくれて、ありがたう!
 
 
 
 

後日、公演時の写真をご紹介させていただきたいと思つてゐるのですが、今回の写真はすべて、山本 美紀子さんによるものです。
 
みっこさんの画は、舞台上における、動くことばとひとつにならうとするわたしたちの姿を平面に焼き付けてくれるものです。
 
それは、動きと静かさをともに捉える、感覚と決断からの仕事だと推ふのです。
 
それは、きつと、全身全霊での写真撮影であらうと思ひます。
 
勝手なわたしたちの言ひ分に沿つて下さるやうな、みっこさんのお仕事、そしてそこから生まれる一枚一枚の作品。
 
また、撮影だけでなく、能舞台の見取りをも助けて下さつたこと、会場の空調の調節を細やかに見て下さつたこと、本当に助かりました。
 
こころから感謝します。みっこさん、いつもいつもありがたう!
 
 
 
 

当日の場内の湿気の暑さにむずがり始めた子どもを優しくなだめて下さつた何人かのお客様がゐらつしゃいました。細やかなおこころ遣ひ、本当にありがたうございました・・・。お陰様で、上演時の雰囲気も子どもたちを包み込んでくれました。
 
 

 
 
そして、大雨の中、お客様のために道案内をして下さつたり、会場の受付けや片づけなど、様々なことでお手伝ひして下さつたお仲間の皆様。
 
こころから感謝いたします。いつも本当にありがたうございます。
 
 
  
 
能舞台での言語造形は初めてに近いもので、わたしたちにとつては、またもやの挑戦でした。
 
このやうな挑戦ができたのも、すべては共演者とさらに多くの人の応援とご協力あつてのことです。
 
かさねがさね、どうもありがたうございました。

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2019年07月02日

第二回 「日本と皇室の歴史」勉強会(7月)のお知らせ


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第二回 「日本と皇室の歴史」勉強会(7月)のお知らせです。
 
 
先月のご案内で、かうしたことを書かせていただきました。
 
ーーーーー
 
「日本」といふ本があるとするならば、「令和」といふ新しい章が始まり、わたしたちはその章を読み始めたばかりです。いや、書き始めたばかりです。
 
これから、どういふ物語を紡いでいくのか。
 
わたしたちは読者でありつつ、作者でもあるはずです。
 
ーーーーー
 
令和の御代が幕開けして、二ヶ月が経ちましたが、皆さん、いかがでせうか。
 
新しい物語を紡ぎ始められてをられるのではないでせうか。
 
「ことばの家 諏訪」は普段、ことばの芸術「言語造形」とアントロポゾフィーの学びに勤しむアトリエなのですが、月に一回、わたしたちの国、日本の近代史を貫いて来た思想と精神を辿る学びをしてゐます。
 
これからも日本といふ国に生きて行くわたしたちひとりひとりが、新しい物語を紡いでいくためにも、明治維新以来、ここ百五十年、わたしたち日本人が生き抜いてきたその道筋をしかと知りたい。そしてひしひしと感じたい。その生き様を。そして、多くの、多くの、国の民たちの精神の拠り所としての皇室のことを。
 
静かだけれども、熱い、そんな勉強会です。
 
江崎 道朗氏による『天皇家 百五十年の戦い[1868-2019]』を教科書にしてゐます。
 
先月は、序章などを読みながら、なぜ、女系天皇を排し(女性天皇を拝するのではなく)、男系天皇を護持しなければならないかを皆で考へてみました。
 
今月は、19ページの「皇室の存在意義を力説した中江兆民」の段落から読み始めます。
 
ぜひ、共に、少しずつ、学んでいきませんか。
 
お待ちしてをります。
 
 
●日時:
 
7月6日(土)
毎月第一土曜日午後3時より5時頃まで
 
 
●場所・お問ひ合はせ・お申し込み:
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
●参加費:
 
場所代として500円
 
 

 
※ご参加される方は、教科書を各自ご購入の上、お申し込みをお願ひいたします。

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2019年06月28日

6月30日(日)言語造形公演「常世の濱の浪の音聞こゆ」のご案内


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写真撮影 山本美紀子さん



うみ、みづうみ・・・。
 
そこには、何があるのでせうか。
 
そこは、目に見えるところと目に見えないところの境ではないか。
 
海に囲まれ、水が豊富な日本といふ島国に生きた昔の多くの人は、そんな想ひを抱いたやうです。
 
 
 
 

その境を越えたところに、精神の海、「常世(とこよ)の海」が拡がつてゐる。
 
そこには、何があるのでせうか。 
 
そこには、契りがあります。約束があります。物語があります。人の運命が横たわつてゐます。
 
そのお話しをいたしませう。
 
 
 
 

あさつて30日(日)、大阪市阿倍野区にある山中能舞台にて、「ことばの家 諏訪」のメンバーが語り、謡ひ、演じ、足利智子さんがタオライアー、縦笛を演奏いたします。
 
わたしたちと御一緒に、「常世の濱の浪の音」を聴きに行きませんか。
 
お待ちしてをります。
 
6月30日(日)14時開演
言語造形公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』
 
 
 
  
 
 


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2019年06月26日

仕事と信仰心


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琵琶湖東岸の能登川付近の水田 

わたしたちはめいめい仕事を持つてゐる。
 
その仕事の中にこそ、信仰心が育つ肥沃な土壌がある。
 
仕事といふものが、その人その人によつてからだとこころを総動員させながら数限りない反復を通してなされる時、その反復は極めて微妙で繊細ながらも確かな手応へといふものを人に授ける。
 
それは、仕事といふ「もの」のなかにその人が入りこんで、共に呼吸をするやうな工合とも言へる。
 
その時、わたしたちは、自身のこころが静まり、清まり、深まつてゐることにも気づく。
 
そして、そのやうなこころのありやうによつて喜びと感謝と共に初めて見えてくるもの・ヴィジョンがあることをも知つてゐる。
 
そのヴィジョン・見えてくるものを、わたしたち日本人は、神として捉へてきた。
 
わたしたち日本の無数の無名の水田耕作者は、神からの「ことよさし」である米作りを通して、植物的生命の中に入り込み、神への感謝と喜びと畏れと共に生活してきた、その信仰を身をもつて感じ取つてゐた。
 
日本人の信仰は、経典や説教や伝道で育まれて来たのではない。
 
米作りといふ生産生活そのものが信仰を育んできたのだし、米作りによる祭の生活そのものが信仰生活だつた。
 
それは、「神ながらの道」「ものへゆく道」であつた。
 
「言挙げ」を拒む静かな日々の労働、無言の反復こそが、人を神に導く。
 
いま、わたしたちは、各々、各自の仕事を「ことよさし」された仕事として捉へ直すことができるだらうか。
 
そして、外側の何かに反発するのでも同調するのでもなく、自分の生業に静かに立ち戻り、感謝をもつてそれに取り組むことができるだらうか。
 
それ以外の言動や行動は、結局のところ、いつたい何を引き起こすことになるのだらうか。
 
あまりにもかまびすしい「言挙げ」に満たされてゐる現在、いかにしてあへて目を閉じ、耳を塞ぎ、理屈を言はずに、手足を動かしていくか。
 
その胆力が問はれてゐる。
 
 


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2019年06月24日

こころのこよみ(第10週) 〜お天道様が見てゐるよ〜


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堺の宿院の上空 

 
夏の高みへと
 
太陽が、輝くものが、のぼる。
 
それはわたしの人としての情を連れゆく、
 
広やかなところへと。
 
予感しつつ、内にて動く、
 
感覚。ぼんやりとわたしに知らせつつ。
 
あなたはいつか知るだらう、
 
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
Zu sommerlichen Höhen            
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;     
Es nimmt mein menschlich Fühlen       
In seine Raumesweiten mit.           
Erahnend regt im Innern sich          
Empfindung, dumpf mir kündend,        
Erkennen wirst du einst:            
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.       
 
 
 
 
これから来たる夏の太陽の光と熱によつて、植物の緑が、花のとりどりの色となつて、上へ上へと燃え上がる。
 
鳥たちが、虫たちが、いよいよ高らかに、軽やかに、夏の青空の高みに向かつて、鳴き声を響かせ、大いなる世、宇宙にその響きが拡がつていく。
 
太陽によつて引き起こされるそんな植物と動物たちの働きが、わたしたちの周りの夏の空気に働きかけてゐるのを、わたしたちは感じることができるだらうか。
 
もし、さういふことごとを人が感じつつ、来たる夏を生きることができるならば、みづからの、人ならではのところ、人であること、わたしであることもが、ここよりも、さらに、高いところに、さらに広やかなところにのぼりゆき、天によつて見守られることを、情として感じることができるだらうか。
 
 
「お天道様が見てゐるよ」
幼い頃、このことばを親たちからよく聞いた。
 
おそらく、そのことばは、古来、日本人がずつと我が子どもたちに言ひ伝へてきたものだらう。
 
「お天道様」それは、太陽の神様であり、わたしたちに警告を発しつつ、わたしたちを見守つてゐる存在として、常に高みにあるものとして感じてゐたものだつたのだらう。
 
そして、いま、わたしたちは、その「お天道様」を、人の人たるところ、<わたし>であるところとして、感じてゐるのではないだらうか。
 
「神なるものが、いま、あなたを感じてゐる」とは、「高い<わたし>こそが、いま、低い、普段の、わたしを見守つてくれてゐる」「お天道様が、いま、あなたを見てゐる」といふことかもしれない。
 
天照大御神のみことば。
「これの鏡はもはら我(わ)が御魂として吾(あ)が前を拝(いつ)くがごと拝き奉れ」
 
わたしたちは、自分自身のこれまでの見方や感じ方や考へ方から離れて、改めて、この季節だからこそ、「お天道様」に見守られてゐることを感じ、「お天道様」からの視点、「おのづから」なありかたで、生きていくことができるだらうか。
 
見る眼を磨き、耳を澄ますなら、きつと、予感と感覚が、教へてくれるだらう。
 
 
 
夏の高みへと
太陽が、輝くものが、のぼる。
それはわたしの人としての情を連れゆく、
広やかなところへと。
予感しつつ、内にて動く、
感覚。ぼんやりとわたしに知らせつつ。
あなたはいつか知るだらう、
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 

posted by koji at 21:37 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ことば、精神


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今日も、幼な子たちと昔話を分かち合ふ。
 
幼な子たちは、ことばのかたちを求めてゐる。
 
ことばの音韻のもつ動きとすがたを、まるで大好物の食べ物を求めるやうに求めてゐる。
 
粗雑なことばの使ひ方から離れ、丁寧にひとつひとつの音韻が扱はれるとき、「あ」の開かれた響きや「い」の緊張をもたらす響きなどが、幼な子たちのからだをひそやかに織りなしていく。
 
ことばが、幼な子のからだを創り、小学生のこころを創る。
 
なぜなら、ことばとは、そもそも、精神だから。
 
精神が、0歳から7歳ごろまでの子どものからだを創り、7歳から14歳ごろまでの子どものこころを創る。
 
語り部とは、昔から、精神の伝道師だつた。
 
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一列目の男の子たちの頭がずらりとそろってゐるのが可愛らしいなあ・・・。

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男の子たち、一生懸命、お話しを聴いてゐる・・・。



posted by koji at 20:00 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月18日

教育の根本

 
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二階でわたしが勉強してゐると、学校から帰つてきた次女が早速二階に上がつてくる。
 
さうして、今月終はりに演じる「高砂」の稽古をする。
 
ほんの二十分ほどの稽古だが、このことの積み重ねは、どういふ作用を彼女にもたらすだらう。
 
間違ひないのは、わたし自身の芸術に対する積極性、能動性、創造性のみが、彼女に働きかけるだらうといふこと。
 
創造する力を子供に望むことはできるが、それを引き起こす方法は教へることはできない。
 
また、教へるものではない。
 
こちら側に、その創造性があるか、ないか。
 
それだけが問題だと思ふ。
 
知識に知識を重ねて教へ込むことを第一としない。
 
創造する働き、整へる働き、行為する働きが大切なこと。
 
しかし、それらの大切さをいくら口で説いてもたいして意味はないやうにも思ふ。
 
自分自身で悟り知るまで待つこと。
 
これらのことは、おそらく、わたしの親から受け継いだものだと思ふ。

 
6月30日(日)言語造形公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』
於 山中能舞台
 

写真は、去年の奈良での公演先でのひとこま。
(撮影:山本美紀子さん)

posted by koji at 17:46 | 大阪 ☁ | Comment(2) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月17日

こころのこよみ(第9週) 〜大いなる父なるもの〜


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天王寺の茶臼山の上空 

 
我が意欲のこだわりを忘れ、
 
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
 
精神とこころのものとしてのわたしに。
 
光の中でわたしを失くすやうにと、
 
精神において観ることがわたしに求める。
 
そして強く、予感がわたしに知らせる、
 
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
 
 
 
Vergessend meine Willenseigenheit,
Erfüllet Weltenwärme sommerkündend
Mir Geist und Seelenwesen;
Im Licht mich zu verlieren
Gebietet mir das Geistesschauen,
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
Verliere dich, um dich zu finden.  
 
 
 
「わたしは、これをしたい、あれをやりたい、これをしなければ、あれをしなければ・・・」
 
そのやうな意欲といふものも、内なる「熱」と言つていいのだけれども、その意欲の中にある「こだわり」を忘れることができるだらうか。「・・・しなければ」といふやうな「恐れ」を忘れることができるだらうか。
 
朝、陽の光が輝き出すと、その熱が、来たる夏を知らせてくれてゐるやうに感じる。
 
そして、「熱いなあ」と感じるだけにせずに、ずつと、その熱に問ひかけるやうに、してゐると、その陽の光から発せられてゐる熱は、自分が抱いてゐる意欲の熱よりも、はるかに、はるかに、巨大で、太陽の意欲は、わたしの意欲よりも、はるかに、はるかに、強く、深く、遠くを見通してゐるかのやうな豊かさであると感じる。
 
そのやうな意欲の大いなる力は、太陽を通して、どこから来るのだらう。
 
シュタイナーは、『世と人のなりかはり』(全集175巻)の中で、「父なるもの」からだと話してゐる。
 
その「父なるもの」「そもそも世を創りし方、そしていまも創り続けてゐる方」と人との出会ひは、ひとりひとりの生涯の内に一度はきつとある。
 
人生の中で、己れといふもののこだはりを脱ぎ捨てられたことで、夏の太陽のやうな巨大な輝きと熱、感動と驚きと畏敬の念いに満たされる時、その出会ひは生じる。
 
だから、子どもの頃、丁度、これから始まる夏にかけて、大いなる天空を仰ぎ、そこに拡がる星ぼしに想ひを重ね、自分の感情と意欲を大いなる叡智に沿はせていくことは、人生にきつと一度は生じる「父なるもの」との出会ひに向けた良き備へになる。
 
人生の中で、このことばが、予感として、響くときが、きつとある。
 
光の中で、あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために
 
 
我が意欲のこだわりを忘れ、
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
精神とこころのものとしてのわたしに。
光の中でわたしを失くすやうにと、
精神において観ることがわたしに求める。
そして強く、予感がわたしに知らせる、
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
 
 
 


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2019年06月16日

夏の集中講座『シュタイナー教育と自己教育』のお知らせ!(8月28日、29日、30日)


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くすのき園 - 大阪あびこシュタイナー幼稚園にて保育をされている樋口早知子先生。
 
元シュタイナー学校の担任教師でもあり、いま”世界の輪唱&北欧伝承歌krajaを歌う会”を主宰されている足利智子さん。 
 
そして、「ことばの家 諏訪」を主宰しておりますわたくしこと諏訪耕志
 
この三人で、この夏、三日間連続の講座を催します。
 
 
 
幼児教育におけるリズムの重要性。
 
小学生にとっての音楽の楽しさと大切さ。
 
子どもにことばをいかに語りかけるか、本をいかに読み聴かせるか(言語造形)。
 
さらには、シュタイナーが示唆した視点から、幼児教育に始まり、生涯にわたる自己教育について、深く掘り下げて学んでいきます。
 
真夏の三日間、初めて出会う人々と共に、楽しく集中した学びを共にしていきませんか。
 
お申し込み、お待ちしております。
 
         
 
 

日時: 令和元年8月28日(水)29日(木)30日(金)
    9時15分開場 9時半開始 16時半終了予定
 
 
場所: ことばの家 諏訪
    https://kotobanoie.net/access/
    大阪市住吉区帝塚山中2-8-20
    南海高野線「帝塚山」駅より徒歩5分
    南海上町線「帝塚山三丁目」駅より徒歩5分
    地下鉄四つ橋線「玉出」駅より徒歩15分
 
 
参加費: 三日間連続参加 25000円  
     一日単発参加 10000円
 
 
お問い合わせ・お申し込み: ことばの家 諏訪
         https://kotobanoie.net/access/
         Tel 06-7505-6405
         E−Mail  info@kotobanoie.net
 
 
参加費お振込先: ゆうちょ銀行へのお振り込みになります。
         
         // ゆうちょ銀行から //
         記号 10260 番号 28889041
         スワ チハル
 
         // 他銀行から //
         店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
         普通 2888904
 
 
 

【プログラム】
 
 
8月28日(水)
 9時半 シュタイナー幼児教育の朝のひととき(樋口)
 10時 講座「人生における七年ごとの人の成長」(諏訪)
 12時 昼休み
 13時半 大人が味わうシュタイナーの音楽の時間(足利)
 14時半 休憩
 14時45分 ことばの語り方・本の読み聴かせ方(諏訪)
 16時     振り返り
 16時半    終了
 

8月29日(木)
 9時半 シュタイナー幼児教育の朝のひととき(樋口)
 10時 講座「十二の感覚を育む(十二の星の宮とのつなが     り)その一」(諏訪)
 12時 昼休み
 13時半 大人が味わうシュタイナーの音楽の時間(足利)
 14時半 休憩
 14時45分 ことばの語り方・本の読み聴かせ方(諏訪)
 16時  振り返り
 16時半 終了
 
 
8月30日(金)
 9時半 シュタイナー幼児教育の朝のひととき(樋口)
 10時 講座「十二の感覚を育む(十二の星の宮とのつなが     り)その二」(諏訪)
 12時 昼休み
 13時半 大人が味わうシュタイナーの音楽の時間(足利)
 14時半 休憩
 14時45分 ことばの語り方・本の読み聴かせ方(諏訪)
 16時  振り返り
 16時半 終了
 
 
 
※昼食は、お弁当を持ってきていただいて教室でお取りくださってもいいですし、帝塚山近辺にあるカフェなどにも行くことができます。
 
※最終日のプログラムが終わったあと、皆さんでお食事にまいりましょう!(自由参加)
 
 
 

【講座ご紹介】
 
 
●9時半〜10時  講師:樋口早知子
「シュタイナー幼児教育の朝のひととき」 
リズムのある生活は子どもたちの体を育てます。お集まりの時のゲーム遊び、手遊び、ライゲンなど全てにリズムがあります。朝の一時、幼稚園で行われている楽しい集いを体験しましょう。
 
 
●10時〜12時  講師:諏訪耕志
「人生における七年ごとの人の成長」 (8月28日)
「十二の感覚を育む(十二の星の宮とのつながり)その一」 (8月29日)
「十二の感覚を育む(十二の星の宮とのつながり)その二」 (8月30日)  
この世に生まれてからおおよそ二十歳にいたるまで、どの人も、教育という大人からのサポートを受ける必要があります。そうして、ゆっくり時間をかけて成長していく存在。それが人です。しかし、それ以降、人はみずから自分自身に教育を施すことができるようになってゆきます。この世に生まれてから生涯に渡って、それぞれの年齢における教育(自己教育)が、どういうものでありうるでしょうか。また、幼い頃に体験した時間と教育空間が、その人の中年期、熟年期、晩年期に、からだとこころにどういう現象となって現れてくるでしょうか。三日間をかけて、自己教育というものをシュタイナー教育の観点からあらためて問い直していきます。
 
 
●13時半〜14時半  講師:足利智子
「大人が味わうシュタイナーの音楽の時間」 
シュタイナー学校では一日中、どこかのクラスから音楽が聞こえてきます。笛、歌、音と一緒に体を動かすこと…とりわけ大切なのは、「耳を澄まして聞いてみる」こと! この講座では、シュタイナー学校で子どもたちが体験する「音の世界」「歌の世界」を、大人の皆さんに体験して頂きます。シュタイナー学校で歌われる季節の歌や輪唱、耳を澄ませて音を聞くゲームなど、どなたでも楽しんでいただける内容です。さぁみなさんご一緒に、大人の音楽の時間を楽しみましょう!
 
 
●14時45分〜16時  講師:諏訪耕志
「ことばの語り方・本の読み聴かせ方(言語造形)」  
ことばを話すということ、それは、実は芸術行為なのです。
子どもに語りかけるとき、読み聞かせをするとき、最も大切なこととは、息遣い。呼吸のあり方を見直すことから、ことばのクラスは始まります。そして、少しずつ、ことばに応じたからだの使い方、さらには、ことばの一音一音の響きを大切にしていくこと、というように、三日間かけて、シュタイナーが示唆したことばの芸術「言語造形」に触れていきます。言語造形をもって語りかけるとき、お話しを聴く子どもたちの様子が、まるで変ってきます。そしてわたしたち大人自身の、ことばに対する考え方も変わってまいります。ことばとの関係を、この夏、あらためて、見つめ直してみませんか。
 
 
 
【講師プロフィール】
 
 
樋口早知子
くすのき園あびこシュタイナー幼稚園教師。保育園に勤めながら乳幼児の教育のあり方を模索し続け、シュタイナー教育に出会う。2006年ミカエルカレッジで学ぶ。2008年よりくすのき園を開園。乳幼児の保育に携わっている方たちと共に学びを深めている。
  
 
足利智子
2009年北海道ひびきの村ティーチャートレーニングコース修了後、北海道シュタイナー学園いずみの学校で4〜6年生の担任を務める。現在大阪市で小学校非常勤講師として務める傍ら、音楽の豊かさを分かち合うべく世界の輪唱と北欧伝承歌を歌う会を主宰。ヒーリングライアー奏者としてことばの家の言語造形公演での共演多数。
 
 
諏訪耕志
「言語造形のためのアトリエ ことばの家 諏訪」主宰。1964年大阪市出身。1994年よりルドルフ・シュタイナーハウスにて言語造形家鈴木一博氏に師事。2004年より関西を中心に自身の活動を始める。言語造形の舞台、ワークショップ、シュタイナーのアントロポゾフィー講義などを通して活動中。日本語の美と風雅(みやび)を甦らせていくことを念願にしている。
 
 

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2019年06月15日

信頼と創造 〜言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』に向かつて〜


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来春公演予定の言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』。
 
今日は、稽古の前にたつぷりと時間をかけて、ストレッチ&ムーブメント。
 
指導は、帯中日子天皇(仲哀天皇)を演じる、平木 大士さん。
 
かうして、他者と肌を触れ合ひ、押し合ひ、へし合ひする時間を重ねて行くことで、他者を感じ、自分自身を感じ、仲間との間に流れる信頼を醸造し、劇といふ芸術ならではの創造が始まること。
 
そして、なによりも、そこには、喜びが生まれること。
 
そんなことを平木さんは教へてくれます。
 
お陰様で、メンバーの間にも、互いに対する理解と信頼とが回を追ふごとに深まつて来ました!
 
そして、これから夏にかけて、たつぷり時間をかけて、本格的に言語造形劇に、ひとつひとつの役、ひとつひとつの身ぶり、ひとつひとつのことばの造形に取り組んでいきます。
 
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2019年06月14日

こころのこよみ(第8週) 〜聖霊が降り給ふ日々〜


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感官の力が長けゆく、
 
神々の創り給ふものに結びつけられて。
 
それは考へる力を沈める、
 
夢のまどろみへと。
 
神々しいものが、
 
わたしのこころとひとつにならうとする時、
 
きつと人の考へるは、
 
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。
 
           ルドルフ・シュタイナー 
 
 
※ Denken といふ名詞を「思考」とは訳さずに、「考へる」としてゐます。 denken といふ動詞(考へる)から生まれてゐるがゆゑ、その活き活きとした働きを殺さないやう、名詞でありながら、動詞的に訳してゐます。
 
 

Es wächst der Sinne Macht          
Im Bunde mit der Götter Schaffen, 
Sie drückt des Denkens Kraft           
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen           
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken  
Im Traumessein sich still bescheiden. 
 
 
 
 
感官の力(見る力や聴く力など)は、ものに吸ひ寄せられてしまふこともあるだらう。たとへば、テレビやこのコンピューターの画面などに。
 
しかし、ものに吸ひ寄せられたままではなく、感官の力を、もつと意識的に、意欲的に、働かせ、じつくりと腰を据ゑて、何かを見る、何かに耳を澄ませてみる・・・。
 
考へる力が鎮められ、沈められる位、見てみる、聴いてみる。
 
見れど飽かぬも、まさに、見てとればいよいよ飽かぬも。
 
なぜ、飽きないのだらうか。
 
それは、見てとる、見る、見ゆ、とこころの働きを遡つてゆくと、そこに「愛でる」、つまり、「愛する」があるからだ。
 
人は、愛してゐるものしか、実は見てゐない。
 
そのとき、そのときの、「愛する」こころの働きから、ものが初めてものものしく見えてくるのであり、そこに、からだのおほいさ、実用の大事さが披かれる。
 
その時のこころのありやうは、むしろ、「考へるは、夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる」と表現することがぴつたりとする。
 
さうすると、わたしたちは、何を受け取り、どのやうに感じるだらう。
 
 
 

復活祭の五十日後は、聖霊降臨祭の週でもある。
 
約二千年前、十字架刑の三日後にキリストは甦り(復活)、その後四十日間に渡つてキリストは精神のからだをもつて現はれ、当時の弟子たちに親しく語りかけたといふ。
 
しかし、キリストはその後十日間、弟子たちの前からその姿を消したといふ(昇天)。
 
その十日の間、弟子たちは「夢のやうなありやうの中で静かに慎んで」ゐた。
 
ひとところに集まつて、静かに熱く、しかし夢にまどろんでゐるやうなありかたで祈つてゐた。
 
そして、聖霊降臨の日、それは聖霊(聖き精神)が、ともに集つてゐる弟子たちに初めて降りてきて、弟子たちがさまざまな言語をもつて(個人個人がおのおの自分のことばで)、そのキリストのことばとしての聖き精神を語り始めた日だつた。
 
前週において、「さあ、来たれ、わたしの予感よ、考へる力に代はつて」とみづからの精神に呼びかけた。
 
その「予感」への呼びかけとは、こざかしく考へることを止めて、より大いなるものからの流れ(世の考へ・キリストのことば)に耳を傾けるといふ行為だつた。
 
それは、「静かに慎む」ありやうをもつて、みづからを浄めつつ大いなるものからの流れを待つといふ行為でもある。
 
二千年後のわたしたちは、考へる力が失はれてくるこの季節においても、そのやうな備へをしようとアクティブにみづからをもつていくならば、「神々しいものが、わたしのこころとひとつになる」聖霊降臨祭を、自分たちのいまゐる場所で創つていくことができるかもしれない。
 
「すべては神々の創り給ふものである」「神々しいものとこころがひとつになる」といつたことを、読む、言ふにとどまらず、予感し、実感し、見て、そのことを生きていくために、からだを通して、実際の練習を意識的にしつづけていくことの大切さを感じる。
 
教育であれ、芸術であれ、そこに、アントロポゾフィーの社会性が育つていく基盤があるのではないだらうか。
 
 
 
感官の力が長けゆく、
神々の創り給ふものに結びつけられて。
それは考へる力を沈める、
夢のまどろみへと。
神々しいものが、
わたしのこころとひとつにならうとする時、
きつと人の考へるは、
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。
 

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2019年06月13日

6月16日(日)普遍人間学 & 言語造形クラス〜ザンジバル島の想ひ出〜

 
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写真は、ザンジバル島の家に友が遊びに来たときのもので、
持つて来てくれた日本の雑誌を貪るやうに読んでゐる。

毎月第三日曜日に、「ことばの家 諏訪」にて、新しく『 普遍人間学 & 言語造形を学ぶ会 』を開いてゐます。
 
『 普遍人間学 』は、ルドルフ・シュタイナーが今から丁度100年前、1919年9月にシュタイナー学校初開校に向けて行つた、教員養成のための14回連続講座の講演録です。
 
「 ことばの家 諏訪 」では、二廻り目の普遍人間学の会です。
 
一回り目では、わたしが一講ずつ、内容を噛み砕いて生徒の皆さんに語りかけるといふスタイルで通しました。
 
今回の二回り目では、一文一文、最初のページから読み込んでいきます。
 
本といふものは、こちらが真摯に求めれば求めるほどに、応えてくれるものです。
 
今週の日曜日、第三回目ですが、第一講のいまだ半ばです。
 
それほど、ゆつくりと一文一文読んでゐます。
 
書くほどのスピードで読むこと。
 
それが、書かれてゐることの深みへ、深みへと、読む人をいざなひます。
 
そんな風にして本を読んで、一体、何の役に立つのか、とか、どういふことがより理解できるのか、とか、そのやうなことなど分からないから、そのやうにして読むのです。
 
行き先を見とおした上で読む進めるのではなく、読むことで自分自身の力で道を切り開いて行くのです。
 
人とは何者なのだらう。
 
さういふ問ひで充分です。
 
 

 
いま、思ひ出したのですが、自分が27歳頃のとき、アフリカの各地を一年近く転々としたあげく、インド洋に浮かぶザンジバル島で二ヶ月、独り暮らしをしたことがありました。
 
そのとき、周りはスワヒリ語のみの毎日だつたのですが、そのとき、仮住まひをした一軒家に、なぜか、福沢諭吉の『文明論之概略』の文庫本が一冊置き去りになつてゐたのです。
 
以前に住んでゐた日本人が置いて行つたのでせう。
 
わたしは、日本語に飢えてゐましたから、その一冊を貪るやうに読みました。
 
そのときの感銘はとても衝撃的で、重層的で、わたしの何かを果てしなく満たしてくれたのでした。
 
話しがあらぬ方向に行つてしまひました。
  
ルドルフ・シュタイナーの著作『自由の哲学』や『テオゾフィー』をはじめ、この『普遍人間学』も、わたしにとつては、二十五年近くの間、目を皿のやうにして読み続けてきた本です。
 
あの、ザンジバル島での読書体験が、日本語で生きていく上でのわたしにとつて決定的なものだつたやうに、本を読むといふことの面白さを、シュタイナーの本で共に体験できたらなあ、そんな想ひでゐます。
 
言語造形と共に、『普遍人間学』、やつていきませんか。
 
お待ちしてます。
 
 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 

 
――――
 
●日程
毎月 第三 日曜日
 
 
●講師
諏訪耕志  https://kotobanoie.net/profile/
 
 
●時間
10:00 〜 12:30 『 普遍人間学 』講義
13:30 〜 15:30  言語造形
 
 
●参加費
 
初回のみ体験参加   6,500円
次回以降4回連続  22,000円
 

精巧堂出版の 鈴木一博訳『 普遍人間学 』 を使ひます。
できましたら、ご参加前にお求めください。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 
●会場&お申し込み・お問ひ合はせ
「 ことばの家 諏訪 」https://kotobanoie.net/access/#map

 
#普遍人間学 #言語造形 #シュタイナー
 
 


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2019年06月12日

呼吸の交響曲


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和歌山でげんごぞうけいによる演劇に取り組んでゐるグループ「親子えんげき塾 ことばの泉」のメンバーの方が書いて下さった記事のご紹介。
 
演劇といふ芸術に取り組んでいく中で何が喜びかと言ふと、言ふ迄もないことかもしれませんが、「共に創つてゆく」といふことです。
 
しかも、普段は触れたこともない他人の手や肩や背中に触れて、摑んで、取つ組み合ひながら、創つてゆく。
 
腕や脚といふ箇所は、人体のなかで、とりわけ、宇宙と繋がる場所だからこそ、その箇所をたわわに使つて、他者といふ宇宙と繋がりつつ、交はりつつ、劇を創り上げて行くのです。
 
また、ことばの芸術であるがゆゑに、共演者と息を合はせること。
 
たとへ自分のセリフでない時でさへも、共演者が話してゐるその呼吸に合はせて無言でゐながら自分も呼吸をし、外側には見えなくても、共演者の声に注意深く耳を澄ましつつ、見えない身ぶりをしてゐますと、この記事にも書いて下さつてゐるやうに、汗だくになります。
 
演劇は、息遣ひによる耳には聴こえない合奏、もしくは交響曲とも言へるのです。
 
双子座は、ことばの芸術を感覚する感官を天で支へてゐる星の宮です。
 
その双子のやうに、大人になつた今、子どもの時のやうに互いの身体に触れ合ひながら芸術を通して汗を流す。
 
かういふ練習は、人を甦らせます。
 
そして、その人をますますその人にしていきます。
 
なぜなら、人は他者をリアルに迎へてこそ、己れといふものを感じ、知りゆくからです。
 
他者が、世が、人には必要です。
 

 
親子えんげき塾 ことばの泉の皆さん、どうもありがたう!
 

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2019年06月11日

造形された人


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萩原碌山『女』

「人の肉体の中で一番裸の部分は、肉声である」と書いたのは、小林秀雄だつた。
 
生の声。
 
それは、その人の裸体を示す。
 
しかし、通常、ことばといふ衣装が、その裸体を覆つてしまつてゐる。
 
ことばで、なんとか、かんとか、裸体の自分を隠さうとする。
 
いや、かう言つた方がいいだらうか。
 
いくらことばで誤魔化さうとも、生の声がその人の裸体を透けて見させる。
 
しかし、ことばでは取り繕つて己れの裸体を隠さうとしてゐるために、聴いてゐる者は、なんとも言ひ難い違和感を感じる。
 
 

歌声は、さういふ取り繕ひから、人を解き放つ。
 
歌は、ことばのまやかしから人を救ひ出す。
 
歌ふこと。
 


言語造形は、歌ではない。
 
歌ではないが、言語造形によつて話されることばも、再び、人の裸体をまざまざと示してくれる。
 
磨かれ輝くやうな裸体から、こわばり節くれだつた裸体まで。
 
音楽のやうな、絵画のやうな、彫刻のやうな、線描のやうな、舞踊のやうな、建築のやうな、ことばのすがた。
 
造形されたことばとは、造形されたその人である。
 
人とは、本来、そのやうな、風と光で出来たやうな、目には見えない粒子のやうなものが時に集合し、時に拡散する、「物の怪」ならぬ、「人の怪」である。
 
ことばのすがたが造形されることによつて、その「人の怪」がかたちをとつて一瞬一瞬立ち顕れる。
 
ことばを造形しようとするその行為が、ふたたび、その人をその人たらしめる。
 


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第一回目「ことばを学ぶ会 in 能登川」ありがたうございました


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今日は、第一回目の「ことばを学ぶ会 in 能登川」でした。 
 
わたしも初めての滋賀県東部での言語造形。
 
初めての方々に言語造形を通して出会えた喜び。
 
全身で受け止めて下さる皆さんに、本当にこころから感謝なのです。
 
赤ん坊から幼な子たちまで、言語造形に、ビビッドに反応し始め、足元にすり寄つて来てくれるのが、可愛くて仕方ありません。
 
言語造形によることばの響きと息遣ひは、人の全身に働きかけるがゆゑです。
 
なにせ、この子たちは、全身が耳、全身が感覚器官です。
 
また、皆さん、今日から、早速、お家で子どもに絵本の読み聴かせを練習します、とのこと。
 
さう、子どもが家庭にゐてくれてゐることで、わたしたちは、絵本などの読み聴かせをしてあげることができ、わたしたちは自身の息遣ひを普段よりも深くしていくことができるのです。
 
さうして、そのたびに、我がこころを、静けさへ、落ちついた深みへと立ち戻らせることができるのですね。
 
子どもに感謝です。
 
来て下さつた皆さん、そして、この場を企画・実施して下さつたよしかわさん、古川さんに、こころから感謝いたします。
 
また、近くにお住まひで、ご関心のあられる方、どうぞ、お気軽にご連絡下さいね。
 
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――――――――
 
 
 
「ことばを学ぶ会 in 能登川」
  
 
日時: 基本的に毎月第三金曜日
    (8月のみ、第四金曜日の23日)
    10時から12時半まで
    
 
 
開催場所: 滋賀県東近江市能登川町
(お申し込み時に場所の詳細お伝えします)
 
 
参加費: 第一回目体験 3500円
     四回連続 14000円
     体験参加以降の単発参加 4000円
     (プラス講師の交通費を頭割りで)
 
 
申込み先: 吉村真弓 haihai4460mw@yahoo.co.jp
 
 
どうぞ、御自身が声に出してみたい作品(絵本や詩集や小説その他)をひとつ持ってきてください。
 
 



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2019年06月09日

6月10日和歌山岩出市「読書会 両親の問診時間」


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赤目四十八瀧

明日の月曜日6月10日、午前10時より、和歌山岩出市にて、「読書会 両親の問診時間」です。
 
テーマは、「家庭と仕事への力の泉」。
 
人は、ときに、疲れ、意気阻喪し、消沈し、外側ならず、自分自身さへも否定してしまひがちになるときがありますよね。
 
人は、どのやうにして、ふたたび、「力」を取り戻すことができるのか。
 
人は、どのやうにして、ふたたび、「わたしの力のみなもとの泉」から新鮮な清水を汲み出すことができるのか。
 
ミヒャエラ・グレックラーさんのことばを辿りながら、自分自身のこととして考へていきます。
 
そして、そのための、毎日の練習の道を探つていきます。
 
お問ひ合はせはこちら ↓
Mitteの庭
 
 

 


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2019年06月08日

血といふもの


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血といふものは、とても謎めいてゐるものだ。
 
男と女では、流れてゐる血に違ひがあるのではないだらうか。
 
これは、わたし個人の思ひなので、ご笑覧いただき、できればご了解いただければ幸ひである。
 
男の血は、外なる対象に、己れの何かを与へ、己れ色に染めようとする。
 
女の血は、外なる何者かから、何かを受け取り、その何者かの色に染まらうとする。
 
男がとかく「自分が、俺が、わたしが」といふことを主張したがり、能動的で、ややもすると他者に対して戦闘的で、野心や支配欲に動かされやすいのに比べて、女はどちらかといふと、受動的であり、共感的であり、むしろ他者を受け入れることを望んでゐるやうにさへ思へる。
 
これは、意識的なものといふよりかは、ほとんど無意識の領域、夢のやうな意識の領域で生起してゐることではないだらうか。
 
それゆゑ、結婚の式を迎える時、伝統的には女は白無垢を纏ふ。
 
さらには、女は、無意識の領域で、できうる限り優れた血を受け取りたいと希つてゐる。
 
そして、優れた血から優れた種を宿し、よきものをこの地に生み出していきたいと希つてゐる。
 
己れの本能的な根柢の希ひからかけ離れた血を受け取つてしまつては、己れの存在そのものが乱され、壊されかねない。
 
だからこそ、ほとんど本能的に女は男を選ぶ。
 
しかし、基本的に、女は待つ。
 
高い精神を宿してゐる男の血が己れに注がれることを待つてゐる。
 
血とは、道であり、道を人の世に敷くために、男は高い精神を己れの血に宿し、その血を女に注ぎ込まうと、幾度もの生を経ながら切磋琢磨し続けてゐる。
 
女は、己れを守るため、家を守るため、そしてつひには、道を守るために、男から高い精神を宿した血を受け取るために、己れを磨き続けてゐる。



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2019年06月06日

向かうは、海 〜公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』〜


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南海高野線の帝塚山駅から西へ歩いて一分のところに帝塚山古墳があり、昔は、古墳の上には樹木が青々と繫つてゐた。(いまは、随分多くが切り倒されてしまつてゐる)
 
子どもだつたわたしは、あるとき、その帝塚山古墳の方を見て、あの向かうは海なのだと、なぜだか強く想つた。
 
明治以降、埋め立てられてしまひ、海は遥か西へ遠ざかり、今の大阪湾になつてしまつてゐるが、古代には、古墳の向かうは本当に波打ち寄せる住吉(すみのえ)の浜だつた。
 
そんなことなど、全く知らなかつたのだけれども。
 
子どものわたしには、住吉の海が視えたのだらうか。
 
潮騒が聴こえたのだらうか。
 
いや、おそらく、海の匂ひが一瞬したのだらう。
 
いまでも、遠く西から海の匂ひが一切れ流れて来て、嗅覚に届くことがある。
 
しかし、子どもの頃、夢とうつつとが混じり合ふやうな時間を長く過ごしてゐたわたしは、そんなヴィジョンとも予感とも言へるもの(もしくは、記憶の像だらうか)が自分のこころに訪れたであらうことが、不思議でもなんでもないのである。
 
帝塚山といふ場所は、そもそも、玉手塚と呼ばれてゐたさうで、この古墳は浦島太郎のお墓だといふ地元の伝説もある。
 
 

わたしは自分が、どこに向かつてゐるのか、しかとは分かつてゐないやうに思ふ。
 
ただ、自分自身の歩き方は、五十何年生きて来て、大分、摑めて来たやうにも思ふ。
 
そして、その歩き方を守つてゐれば、必ず、行くべきところへ行くことができると信じてゐる。
 
今月、念願だつた『浦島子』を、「丹後国風土記」のことばを通して舞台化するところまで、自分はやつてくることができた。
 
海の向かうは常世(とこよ)の国であつたし、子どもの頃のわたしには、常世の濱の浪の音が聴こえてゐた。
 
  
 
 子等に戀ひ 
 朝戸を開き 
 我が居れば 
 常世の濱の 
 波の音聞こゆ 
 
 
足利智子さんと共演で、6月30日(日)、大阪市住吉区西田辺にある山中能舞台にて、言語造形公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』をいたします。
 
演目は、諏訪 千晴 による昔話『たつの子たろう』、諏訪かさねによる謡曲『高砂』、そして言語造形劇『浦島子』。
 
 
 
夏のはじまりのひと日、どうぞ、お運びください。
 
 

6月30日(日)14時開演
言語造形公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』



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2019年06月02日

春の終はりのこころのふるへ


深く 澄み徹る音を求めてゐる
己れの濁りゆゑに
 
春から夏へ なぜ 人は擦れ違ふのか
鳥は舞ひ上がり こころは求めてゐるのに
 
一日の終はりに 糸のふるへを みる

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2019年06月01日

こころのこよみ(第7週)〜さあ、来たれ、わたしの予感よ〜


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わたしのわたしたるところ、
  
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
 
世の光に強く引き寄せられて。
 
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 
あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
 
考へる力に代はつて。
 
考へる力は感官の輝きの中で、
 
みづからを見失はうとしてゐる。
 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,
Vom Weltenlichte mächtig angezogen.
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein,
Ersetze mir des Denkens Macht,
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.
 
 
 
 
人は、芸術に取り組むとき、ある種の息吹きを受ける。
 
シュタイナーは、そのやうな、芸術をする人に大いなる世から吹き込まれる息吹きを、インスピレーションと呼んだ。
 
(Inspiration は、ラテン語の insprare (吹き込む)から来てゐる)
 
一年の巡りで言へば、わたしたちは、秋から冬の間に吸ひ込んだ精神の息、精神の風、「インスピレーション」を、春から夏の間に芸術行為をもつて解き放たうとしてゐる。
 
秋から冬の間、「わたしのわたしたるところ」「考へる力」はそのインスピレーションを孕(はら)むことができたのだ。
 
その「わたしのわたしたるところ」「考へる力」が、変容して、春から夏の間のこの時期、意欲の力として、からだを通して息が吐かれるやうに、大いなる世へと拡がつていかうとしてゐる。
 
 
「わたしのわたしたるところ、
 それはいまにも離れ去らうとしてゐる」
 
 
その精神の吐く息に連れられて、芸術行為を通して「わたしのわたしたるところ」「考へる力」は、外の世に拡がつてゆく。働きかけてゆく。
 
芸術をするとは、頭で考へることを止めて、みづから頭が空つぽになるまで手足を働かせることである。
 
それは、世の光に引き寄せられることであり、自分のからだの外にこころが出て行くことである。
 
 
「世の光に強く引き寄せられて」
 
 
さうして、外へと出て行くほどに、光の贈りものをいただける。 
 
その光の贈りものとは、「予感」といふ、より高いものからの恵みである。
 
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
 考へる力に代はつて」
 
 
芸術とは、インスピレーションといふ世の風に吹き込まれつつ、予感といふ世の光に従ふことである。
 
練習を通して初めてやつてくる予感に沿つていくことである。練習とは、身を使ふことである。
 
秋から冬、インスピレーションを孕んだ考へる力が、まづは頭から全身に働きかける。
 
その精神の息吹きを、春から夏、練習によつて、解き放つていく。
 
その息吹きが練習によつて解き放たれるその都度その都度、予感が、光として、ある種の法則をもつたものとしてやつてくる。
 
インスピレーションが、胸、腕、手の先、腰、脚、足の裏を通して、息遣ひを通して、芸術として世に供され、供するたびに、芸術をする人はその都度、予感をもらえるのだ。
 
この小さな頭でこざかしく考へることを止めて、やがて己れに来たるべきものを感じ取らうとすること。
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ」と精神に向かつて呼びかけつつ、動きつつ、待つこと。
 
それは、秋から冬の間、明らかに紛れなく考へる働きとは趣きがまるで違ふが、アクティビティーにおいては、それに負けないぐらゐの強さがゐる。
 
世から流れてくるものを信頼すること。
 
そして、そのやうな、身の働きの中で、芸術行為の中で、予感が恩寵のやうにやつてくる。
 
だから、この季節において、考へる力は、感官の輝きの中で、手足の働きの中で、意欲の漲りの中で、見失はれていいのだ。
 
 
「考へる力は感官の輝きの中で、
 みづからを見失はうとしてゐる」
 
 
そして、積極的に手足を使つて、息を解き放ち、力を揮つて、感官の輝きの中で、創造に勤しむのだ。
 
 
 
わたしのわたしたるところ、
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
世の光に強く引き寄せられて。
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
あなたの力に満ちたふさわしさの中に、
考へる力に代はつて。
考へる力は感官の輝きの中で、
みづからを見失はうとしてゐる。
 
 

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2019年05月31日

竪琴から拡がる波紋 〜言語造形公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』のお知らせ〜


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いつもの稽古に、今日は、足利智子さんがタオライアーとリコーダーを持つてやつて来てくれた。
 
タオライアーの音色の深さ、真率さに、今日、とても打たれた。
 
自分は音楽に関しては全くの素人なのだが、それでも、ことばの造形と重なり合ふ楽器の音色とバイブレーションに全身を委ねるやうに聴き入つていると、胸の奥に直接込み上げてくる潮騒のやうな情がたつのを覚える。
 
そして、音の響きと共に、空間にも同時にその情が拡がりゆき、こころがからだの外に誘ひ出される。
 
彼女の音色を聴いてゐると、楽器の演奏といふものが、どれほど人のこころと関はつてゐることだらうと思はされる。
 
どこまでも深く、澄んだ響きであつた。
 
わたしたちの言語造形劇『浦島子』をその響きが包む。
 
千三百年以上前の日本語は、そもそも、言語造形されてゐた。
 
さういふことばの芸術と竪琴とが響き合ふ。
 
 
 子等に戀ひ 
 朝戸を開き 
 我が居れば 
 常世の濱の 
 波の音聞こゆ 
 
 
足利智子さんと共演で、6月30日(日)、大阪市住吉区西田辺にある山中能舞台にて、言語造形公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』をいたします。
 
演目は、諏訪 千晴 (Chiharu Hirata)による昔話『たつの子たろう』、諏訪かさねによる謡曲『高砂』、そして言語造形劇『浦島子』。
 
夏のはじまりのひと日、どうぞ、お運びください。
 
6月30日(日)14時開演
言語造形公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』



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明日からの「日本と皇室の歴史」勉強会のお知らせです


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「令和」といふ新しい御代になり、丁度ひと月経ちました。
 
「日本」といふ本があるとするならば、「令和」といふ新しい章が始まり、わたしたちはその章を読み始めたばかりです。いや、書き始めたばかりです。
 
これから、どういふ物語を紡いでいくのか。
 
わたしたちは読者でありつつ、作者でもあるはずです。
 
新しいページを書いていくために、まづは遡つて前のページを読まねばならないのではないか。わたしはさう考へます。
 
そもそもの、天地(あめつち)の初発(はじめ)のくだりから読むこともいいですね。
 
しかし、明日から月に一回行ふ予定の「日本と皇室の歴史」勉強会では、逆に、近々の過去から始めたいと思ひます。
 
約150年前の過去・明治維新から始まる日本と皇室の歴史を、つまりは、日本の近代史を、まづは、学びはじめとしたいと考へてゐます。
  

 
テキストは、江崎 道朗 (Michio Ezaki)氏による『天皇家 百五十年の戦い[1868-2019]』です。
 
まづは、この一冊をわたしたちの教科書として熟読していくことから始めます。
 
我が国の歴史を改めて学び直し始めつつ、自分自身のことばを持つことに向けて歩み出したいと思ひます。
 
この読書会は、読書会でありつつ、精神と精神の出逢ひの時間でありたい。
 
それゆゑ、参加者の活発で活き活きとした発言と共に、ひとりひとりの発言を静かに真摯に傾聴するといふ参加姿勢を大切にしていきたい、議論ではなく、静かに、粛々と、やつていきたいと希つてゐます。
 
ご関心があられる方、どうぞご連絡ください。
 
 
 
●日時:
 
令和元年6月より毎月第一土曜日午後3時より5時頃まで
 
 
●場所・お問ひ合はせ・お申し込み:
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
●参加費:
 
場所代として500円
 
 

 
※ご参加される方は、教科書を各自ご購入の上、お申し込みをお願ひいたします。
 
 
※写真は、少し古い写真を拝借したため、現上皇様が、今上天皇になつてゐます。

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2019年05月29日

己れのこころを護る

 
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ここ数日の、世における様々な出来事に震撼せざるをえない。
 
人のこころは、何かの考へに付け込まれてしまふと、どこまで狂ひ、暴れ廻るものか、知れたものではない。
 
わたしたちは、己れのこころを護らなければならない。
 
しかし、基本的に、外側からやつて来るものに対しては、護りやうがないやうに思はれる。
 
わたしたちは、己れのこころの内側からやつてくるものにこそ用心をして、その害毒に抵抗できる力をつけていくことが、本当のところの護りだと思ふ。
 
昨日、滋賀の『両親の問診時間の会』で参加者の方が、魚類が好きで好きで仕方がない「さかなクン」の話しをしてくれた。
 
そこで、次のやうなことを思ひ出した次第。
 
こころの内に生じる害毒から身を護り、健やかさに立ち戻るための方図のひとつに、わたしは自分の「好き」を想ひ出すといふことをしてゐる。
 
「好き」といふこころの働きを尊重し、こころの内にたいせつに育て上げることが、己がこころを健やかに己れのあるべき場所に立ち戻らせてくれる有効なひとつの薬となりうる。
 
たとへば、他人のちょつとした振る舞ひや、ほんのひとことで、人は、たつたそれだけで、いかに容易く己れを見失つてしまふことだらう。
 
しかし、そんなとき、「自分は、そもそも、何が好きか。何が好きであつたのか」といふひとつの考へを想ひ起こすことができれば、それが人を支へるものになりうること、いくたび深い淵に沈んでしまつても、そこから浮かび上がることができることを、わたしは実感してゐる。
 
仕事といふものは、決して「好き嫌ひ」に従つてしてゐるのではない。
 
しかし、この「好き嫌ひ」といふ感情が、人生の存外深みに流れ続けてゐることは否定しやうがないやうに思ふ。
 
この、人の内にいやおうなく流れ続けてゐる感情の川の流れに沿ふて、山深い川上と海原とを何度でも往復するがよい。
 
何かを、好きで、好きで、それだけを好み通した人生は、人に何を与へ、何を教へてくれるのだらう。
 
理屈では容易に片づけられない、そのやうな性癖をわたしたちは己れのどうしやうもない宿痾と見ることもできる。
 
しかし、また逆に、それを意識的に捉へ直すことによつて、それが、己れを奥深いところで下支へしてくれてゐるありがたい宝物だと見直すこともできるのではないだらうか。



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2019年05月28日

第一回 両親の問診時間の会@滋賀


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今日、第一回目の両親の問診時間の会@滋賀
 
参加して下さつた皆さん、本当にありがたうございました。
 
テーマは、「父親と子育て」。
 
しかし、このテーマは、やはり、夫と妻の関係性の話であります。
 
子育てとは、つまるところ、夫と妻の関係性を育むことです。
 
夫と妻の関係性とは、つまるところ、対話することのできる力の育みといふことです。
 
語り合ふとは、聴き合ふといふことです。
 
また、この会には、幼な子が一杯参加してくれてゐます。
 
この写真に写つてゐないところでも、赤ん坊が寝ころんでゐます(笑)。
 
赤ん坊は、全身で、聴いてゐます。
 
神さまが寝ころがつてゐるやうです。
 
 

 
滋賀県草津市にて毎月第四火曜日、ミヒャエラ・グレックラー女史の講演録『両親の問診時間』を学ぶ会をしてゐます。
 
グレックラーさんは、シュタイナー学校校医、アントロポゾフィー精神科学自由大学 ・医学部門代表などを務められた方です。
 
子どもを育てていくためには、何よりも父親と母親の関係性が大切なのであり、そこからこそ、子どもへの視点が改めて明確になってきます。
 
父親であること、母親であること、そしてなにより人であること、それらをもう一度、新しい視点で振り返ってみませんか。
 
第二回目のテーマは、「シングルマザー」です。
 
初めての方でも、どうぞ、お気軽にお仲間にお入りください。
 
奮ってのご参加、お待ちしています。
 
 
 
講師: 諏訪耕志 https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
 
 
日時: 基本的に毎月第四火曜日 午前10時より12時半まで
 
 
場所: 滋賀県草津市内 個人宅(お申し込みいただいた方に個別のご連絡いたします)
 
 
参加費: 単発でのご参加 3000円
     4回連続参加 10000円
    (プラス講師の交通費を頭割りで)
 
※有料にてお子様の託児あり。お申し込み時にお伝えください。
 
 
お申し込み・お問い合わせ: minttea221@gmail.com(筒井)

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2019年05月26日

晴れと褻


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「ことばの家 諏訪」といふ我が仕事場に、かうして人様が来て下さるといふことの不思議さとありがたさを念ふ。
 
普段、この場は、教室、稽古、勉強の繰り返しで営まれてゐて、情熱が叩き込まれ、汗と涙(本当に!)が床に沁み込んでゐる。
 
さういふ褻の場が、ときにかうして晴れの日を迎へ、舞台が織りなされてあること。
 
神棚にお祀りさせていただいてゐる神々の方々にご協力いただいてゐるとしか考へられない。
 
皆さん、本当に、ありがたうございます。

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こころのこよみ(第6週) 〜何気ない振る舞ひの中の神々しさ〜


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平櫛田中作「幼児狗張子(ようじいぬはりこ)/1911」 

 
己れであることから甦る、
 
わたしのわたしたるところ。そしてみづからを見いだす、
 
世の啓けとして、
 
時と場の力の中で。
 
世、それはゐたるところでわたしに示す、
 
神々しいもとの相(すがた)として、
 
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
          ルドルフ・シュタイナー 
 
 
 
Es ist erstanden aus der Eigenheit  
Mein Selbst und findet sich
Als Weltenoffenbarung             
In Zeit- und Raumeskräften;         
Die Welt, sie zeigt mir überall
Als göttlich Urbild
Des eignen Abbilds Wahrheit.
 
 
 
じつくりと見る。
じつくりと聴く。
じつくりと受けとる。
 
そのやうに世に向かつて、人に向かつて、意識的に感官を開くほどに、世も人も、ものものしく語りだす。
 
そして、世と人に向かつて我が身を披けば披くほど、我がこころが起き上がつてくる、立ち上がつてくる、甦つてくる。
 
たとへば、幼い子どもを育ててゐるとき、大人の忙しさについつい子どもを巻き込んでしまうことがある。
 
そんな時、よく子どもは大人の意向にことごとく反発して、ぐずつたり、泣きわめいたりする。
 
しかし、この「忙しさ」といふこころの焦りに、大人であるわたしみづからが気づけた時、目の前の子どもにじつくりと眼を注ぐことができた時、子どもの息遣ひに耳をじつくりと傾けることができた時、子どもが落ちつくことが、よくある。
 
そんな時、子どもがいつさう子どもらしく輝いてくる。その子が、その子として、啓けてくる。
 
そして、さうなればなるほど、眼を注いでゐるわたし自身のこころも喜びと愛に目覚めてくる。わたしが、わたしのこころを取り戻してゐる。
 
子どもを育ててゐる毎日は、そんなことの連続。
 
きつと、子どもだけでなく、お米その他の作物をつくつたり、育てたりすることにおいても、それを毎日してゐる人には、同じやうなことが感じられてゐるのではないだらうか。
 
子どもがゐてくれてゐるお陰で、他者がゐてくれてゐるお陰で、ものがあつてくれるお陰で、わたしはわたしのわたしたるところ、わたしのまことたるところを見いだすことができる。
 
他者といふ世、それはこちらが眼を注げば注ぐほどに、いたるところでわたしにわたしのまことたるところを示してくれる。
 
他者に、世に、わたしのまことたるところが顕れる。
 
そして、そのわたしのまことたるところが、神々しい元の相(すがた)に相通じてゐる。
 
人は、そもそも、神々しいもの。
 
その神々しさは、日々の何気ない振る舞ひ、ことば遣ひ、眼差しといふ「わたしの末の相(すがた)」の中に、ふと、顕れる。
 
その日々の何気ない相に、神々しいもとの相、人としてのまことたるところが、ふと、示される。
 
生活の中に、他者の中に、己れのふとした振る舞ひの中に、神々しいものが顕れる。
 
そんな、日々、つきあつてゐるものといふものや他者を通してこそ、啓いていくことができる信仰のことを、今週のこよみは歌つてゐる。
 

 
 
己れであることから甦る、
わたしのわたしたるところ。そしてみづからを見いだす、
世の啓けとして、
時と場の力の中で。
世、それはゐたるところでわたしに示す、
神々しいもとの相(すがた)として、
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
 

諏訪耕志記
 
 
 

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2019年05月25日

第一回『源氏物語を味はふ会』ありがたうございました


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『源氏物語を味はふ会』、本日、第一回目でした。
 
山崎方典さんによる、壺をこころえられた物語解説と語句解説。
 
その上での、北川三代さんによる現代語訳文(円地文子訳)と紫式部の原文の朗読。
 
朗読されたことばは空気を震はせ、その震へは定かには言ひがたい色彩に一瞬一瞬染められていきます。
 
おふたりの声とことばとこころが輻輳する、とてもとても豊かな時間でした。
 
聴き手の皆さんは、そんなおふたりの声によつて、古典作品の内側へ、「芸術的に」導かれたのではないでせうか。
 
「ことばの家 諏訪」では、ことばの芸術を通して、「日本」といふ国の精神を、伝統的な血筋を探りながら、少しずつ甦らせていく作業を行ひ続けてゐます。
 
『源氏物語』は、文ひとつ、ことばひとつ、音韻ひとつに、人の思ひの拡がり、深まりを含みもつ、豊かな、あまりにも豊かな作品です。
 
それは、人がこの世を生きていく上で「もののあはれを知る」ことをいかに大事にしてゐたかを、味はひ知る格好のテキストなのです。
 
あとさきのことを計画したり計算したりすることに汲々とするのではなく、いま、この瞬間を生き尽くし、なほかつ、この瞬間を分かち合ふことで、人と人とが和することの驚異的なこころの技量を育むことのありがたさ、喜び、悲しみ、苦しみ・・・。
 
日本人のこころの暮らしにとつて、永遠のものさしになる作品です。
 
足をお運びくださつた皆様、本当にありがたうございました。
 
そして、わたしの、そんな源氏物語への暑苦しい(笑)念ひを受け止めて、解説を引き受けて下さつた山崎さん、朗読を荷つて下さつた北川さんに、こころからの感謝を申しあげたく思ひます。
 
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2019年05月22日

時間を止めること 〜第一回 源氏物語を味はふ会〜


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時間を止めること。
 
わたしは、これほど、贅沢で豊かなことはないやうに思ひます。
 
子どもが無心に遊んでゐるとき、時間は止まつてゐます。
 
清水の舞台から飛び降りるやうな仕事をしてゐるとき、時間は止まつてゐます。
 
溢れるやうなときめきで異性を見つめるとき、時間は止まつてゐます。 
 
文学とは、そもそも、そのやうな静止した時間の中に生きる精神の自由を生きる場所です。
 
 
 

このたびの、5月25日(土)「ことばの家 諏訪」にて行ひます『源氏物語を味はふ会』。
 
 

そんな静止した時間の連続を生きた主人公と女性たちを描いたこの物語を全身に浴びるやうに聴くとき、わたしたち自身は、どのやうな時間を生きることができるのでせう。
 
 

会が終はつたあと、お酒でもいただきながら、恋愛の話でもしませう(笑)。
 
お待ちしてをります!
 

 
また当日は、「ことばの家 諏訪」から歩いて三分ほどのところにある万代池にて、
第33回 帝塚山音楽祭が午前十時から午後五時まで開かれます。 
 
音楽祭で音楽を楽しむのもコミで、「ことばの家 諏訪」での『源氏』の会、どうぞ、どうぞ、お運びください。
 
 
 

 
解説: 山崎方典(高校国語教師)
 
言語造形: 北川三代
 
ナビゲーター: 諏訪耕志
 
 

日時: 令和元年5月25日(土)14時から16時
 
 
会場・お申し込み: ことばの家 諏訪 
          https://kotobanoie.net/access/
 
 
参加費: ご予約 2000円  当日2500円 
 

※写真絵 鹿喰容子さん
 
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2019年05月21日

千七百五十年目の神功皇后祭


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本日は旧暦の四月十七日にあたり、『日本書紀』によると、神功皇后(息長帯比売命)の千七百五十年目の御命日。
 
住吉大社の第四本宮の御祭神であられるゆゑ、そこにて神功皇后祭が行なはれました。
 
(石清水八幡宮でも同じくこのお祭りが今日、行はれてゐます)
 
五十年前には、千七百年祭が行なはれたさうです。
 
今日、本殿の扉が開かれるのを初めて見ました。
 
神主により祝詞が唱へられるのを耳を澄まして聴いてゐると、そのことばの一音一音を通して、これまで感じたことのないものが流れてくるやうで、まるで他の参列者も誰もゐず、息長帯比売命と自分だけになつたやうな感覚に包まれ、からだが熱くなりました。 
 
一緒に参列した妻も、同じやうな感覚に包まれたと言ひます。
 
また、祭りが終はつた後、お宮の前で、嬉しい出会ひにも恵まれました。
 
その方から、立ち話ながらも、色々なとても興味深いお話しを伺へたこと、望外の喜びでした。
 
「ことばの家 諏訪」から歩いても十四、五分のところに、住吉さんがあり、神功皇后のお宮があり、週に何日もお参りできること、自分たちは本当に恵まれてゐるなあと思ふのです。 
 
 
この国を守りし女神とこしへに息吹きかよはす西へ西へと


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2019年05月20日

あそべ をさな子よ

 
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世界といふものは、人を通して、ものごとを通して、ある勢力をもつて、わたしの内側へ押し寄せ、なだれ込んでくる。
 
しかし、こちらの努力が幾層にも積み重ねられてゐれば、なんにも怖くない。
 
しつかりと、立つてゐられる。向かひ合へる。取り組むことができる。そして、こちらのものにすることができる。
 
だから、努力できるといふことは、ありがたいことだ。
 
頑張つて準備できる意欲があるといふことは、何にもましてありがたいことだ。
 
この意欲の力がわたしの内側に根付いてゐるのは、おそらく、子どもの頃、たくさん遊ばせてもらへたからだ。
 
生涯を生き抜いていく力の秘密は、子ども時代にある。
  
 
をさな子よ その草深野(くさふかぬ) 踏みしめよ
時つらぬきて おほぞら拓けよ



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2019年05月19日

こころのこよみ(第5週) 〜セザンヌ 画家の仕事とは〜


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精神の深みからの光の中で、
 
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
 
神々の創りたまふものが啓かれる。
 
その中に、こころそのものが顕れる、
 
ありありとした世へと広がりつつ、
 
そして立ち上がりつつ、
 
狭い己れの内なる力から。
 
        ルドルフ・シュタイナー
 
 
 
Im Lichte, das aus Geistestiefen
Im Räume fruchtbar webend
Der Götter Schaffen offenbart:
In ihm erscheint der Seele Wesen
Geweitet zu dem Weltensein
Und auferstanden
Aus enger Selbstheit Innenmacht.
 
 
 
画家とは、何をする人なんだらう。セザンヌの絵を観て、そのことを考へさせられる。
 
道楽で絵を描くのではなく、「仕事」として絵を描くとは、どういふことか。
 
セザンヌのことばによると、「感覚を実現すること」、それが彼にとつて絵を描くことによつてなしていきたいことであり、彼の「仕事」だつた。
 
彼が強い意欲をもつて、ものを見ようとすればするほど、ものの方が、彼をぢつと見つめる、自然が自然そのものの内に秘めてゐる持続的な、強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。それはすでに感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。
 
そして、自然からのそのやうな「もの」の流れに応じるかのやうに、あまりにも巨大なセザンヌ自身の「こころそのもの」が顕れる。
 
その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。
 
そのふたつが出会ふとき、そこに、垂直の世が立ち顕れる。
 
なじみの眼の前に拡がるのは、どこまでも、水平の世であるが、画家がそのやうに見つめるその場その場において、精神の光が豊かに流れ込んでくる垂直の世が立ち顕れるのだ。
 
その垂直の光景を、キャンバスの上に、色彩で顕わにしろと、彼は自然そのものに求められる。
 
その求めに応へるのが、「感覚の実現」であらうし、彼の仕事であつた。その求めに応へ続けたのが、彼の生涯だつた。
 
世は、人に、「その場その場で実り豊かに織りなしつつ神々が創りたまふもの」を啓いてほしいと、希つてゐる。
 
なぜなら、それによつて、人は、「 狭い己れの内なる力から、ありありとした世へと広がりつつ、自分の足で立ち上がりつつ、自分自身のこころそのものを顕わにする」ことができるからなのだらう。
 
セザンヌは、そのことを、意識的になさうとした人だと感じる。
 
 
 
精神の深みからの光の中で、
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
神々の創りたまふものが啓かれる。
その中に、こころそのものが顕れる、
ありありとした世へと広がりつつ、
そして立ち上がりつつ、
狭い己れの内なる力から。
 
 

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天野の奥之沢明神にて


先日、妻とふたりで、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にまします丹生都比売神社にお参りしました。
 
妻が「ひめの会」に参加してゐる間、わたしはひとりで奥之沢明神で時を過ごすことができました。
 
その御祭神、丹生都比売(にふつひめ)の大神が天野の里に初めてお入りになられたと伝へられる奥之沢明神。

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 森の静かさ
 沢の流れ
 梢から梢へ
 鳴き渡る鳥
 風と光が
 安らかさを
 はこびくる
 いまだ
 女神のまします
 奥之沢
 われ包まれてあり

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走る! 〜『 をとめ と つるぎ 』に向かつて〜


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言語造形をもつて舞台に立つために、皆さん、走る、走る!
 
大地と己れのからだとのかかはり、一瞬天空に浮かび上がる身の感覚を、親しく、密やかに感じながら走ることで、ことば遣ひが俄然活き活きとしてきます。
 
また、それぞれの役が演じ始められる中で、戯曲を目で読んでゐるだけのときには気づかなかつたことが気づかれてゆく。
 
その、手と足が教へてくれる叡智は、わたしたちの小さな頭からは出て来やうがないものです。
 
来春公演予定の『 をとめ と つるぎ 』に向けて、一歩一歩、歩みを進めてゐます。

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2019年05月18日

滋賀県 能登川 新・言語造形クラスのお知らせ

 
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滋賀県の能登川にて、来月6月から毎月第二火曜日の午前に、言語造形のクラスが始まります。
 
ことばを話すこと、それは、そもそも、芸術行為です。
 
物語りを語ることや絵本を読み聴かせすることを通して、ことばを話す芸術「言語造形」に取り組んでいきませんか。
 
ことばというものを見直していきましょう。
 
そして、人間的なことばの響きを想い出していきましょう。
 
初めての方、どうぞ、お気軽にご参加ください。
 
それは、とてもとても喜びに満ち溢れた時間になります。
 
講師: 諏訪耕志
 
 
 
 
「ことばを学ぶ会 in 能登川」
  
 
日時: 第一回目 体験会 6月11日(火)
    10時から12時半まで
    7月から毎月第二火曜日に開催予定です。
 
 
開催場所:能登川
(お申し込み時に場所の詳細お伝えします)
 
 
参加費: 第一回目体験 3500円
     四回連続 14000円
     体験参加以降の単発参加 4000円
     (プラス講師の交通費を頭割りで)
 
 
申込み先:吉村真弓 haihai4460mw@yahoo.co.jp
 
 
どうぞ、御自身が声に出してみたい作品(絵本や詩集や小説その他)をひとつ持ってきてください。
 

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2019年05月17日

太宰治の手紙から、想ひ起こす


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 文化と書いて、
 それに文化(ハニカミ)とルビを振る事、
 大賛成。
 私は優といふ字を考へます。
 これは優れるといふ字で、
 優良可なんていふし、優勝なんていふけど、
 でも、もう一つ読み方があるでせう?
 優しいとも読みます。
 さうして、この字をよく見ると、
 人偏に憂ふると書いてゐます。
 人を憂ふる、
 ひとの淋しさ侘しさ、つらさに敏感な事、
 これが優しさであり、
 また人間として
 一番優れてゐる事ぢやないかしら、
 さうして、そんな、やさしい人の表情は、
 いつでも含羞(はにかみ)であります。
 私は含羞で、われとわが身を食つてゐます。
 酒でも飲まなけれあ、ものも言へません。
 そんなところに
 「文化」の本質があると私は思ひます。
 「文化」が、もしそれだとしたなら、
 それは弱くて、敗けるものです、
 それでよいと思ひます。
 私は自身を「滅亡の民」だと思つてゐます。
 まけてほろびて、その呟きが、
 私たちの文学ぢやないのかしらん。

          (太宰治書翰 河盛好蔵宛)
 
 
自分の仕事つてなんだらうなと、改めて考へてゐて、この太宰の手紙のことを想ひ起こしました。
 
我が国ならではのもの、その根もとに息づいてゐるものを意識すること。
 
太宰は、それを優しさ、とも、含羞(はにかみ)、とも、表現される「文化」だと言つてゐます。
 
古来、我が国の詩人たちは、その奥底に息づいてゐるものを様々に言ひ表してきました。
 
「言霊の風雅(みやび)」、「侘び」、「寂び」、「しおり」・・・
 
本居宣長に至つて、「もののあはれを知ること」とも言ひ表されました。
 
それは、特に自分の場合、日本語といふ、ことばを意識していくことでもあつて、日本語ならではの調べに意を注ぎながら、ことばの運用を大事にしていくことでもあります。
 
日本では、特に、こころを整へてから、ことばを話す、といふよりも、ことばを整へることで、こころを整へ、育んでいく、そんな道があることに、ある種の驚きと誇りをも感じるのです。
 
言語造形を通して、その根もとに息づいてゐるものを、葉と繁らせ、花と開かせ、実とならせること。
 
それこそが、自分の仕事であるのだな。
 
そして、もしかしたら、それこそが、世界中に通じていくやうな、まこと遍き意味(こころの味わい)をもつのではないだらうか。
 
よその国の人がこころから感心しうるもの、それは、日本なら日本ならではの、こころの味わいの深さ、豊かさ。
 
これは、己れだけ(日本だけ)を観てゐて済むことでは、きつと、なくて、他者(外の国、民族)との出会ひの中でこそ見いだされていくことでせうが、自分自身の足許をこそ深く掘つてゆく、そんなおほもとの志が大きくものを言ふやうに思はれます。
 
また、こんなことも考へるのです。
 
わたしたち日本人の意識の深みに古代から引き続きずつと憩つてゐるもの。
 
それは、「神から引き離されてしまつたわたし」ではなく、いまだに「神とひとつである<わたし>」、いはば、「神(かむ)ながら」であること・・・。
 
もし、さうであるならば、その奥底にあるものをこそ、改めて意識に引き上げ、それを、活き活きと、発剌と、表現し、表に顕していくこと。それは、わたしたち日本人が荷つていつていい、ひとつの役割かもしれない。
 
ヨーロッパやアメリカを中心とした「文化」のあり方は、やがて、古来から秘められ続けてゐるアジア、とりわけ日本の「文化」のあり方と、出会ふでせう。これは、未来のことだと思ふのです。
 
その時、どちらかがどちらかを征服するのでなく、真に出会ふ未来に向けて、わたしたちは、己の本来もつてゐるものを磨き、研ぎ澄ませるぐらゐの意識を育んでいくことが大事だなと思ふのです。
 
でも、そんなことは、たいてい、日常の生活の中では忘れ去られてしまつてゐるものですから、だからこそ、想ひ起こす必要がある。
 
慎ましく、かつ、怠ることなく。
 
なんだか、大風呂敷をひくやうなことを書いてしまつた嫌ひがありますが、そんなことを考へつつ、仕事をしてゐます。
 

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2019年05月15日

滋賀 両親の問診時間の会のお知らせ


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滋賀県草津市にて今月5月28日(火)を第一回目として、ミヒャエラ・グレックラー女史の講演録『両親の問診時間』を学ぶ会を始めます。
 
グレックラーさんは、シュタイナー学校校医、アントロポゾフィー精神科学自由大学 ・医学部門代表などを務められた方です。
 
子どもを育てていくためには、何よりも父親と母親の関係性が大切なのであり、そこからこそ、子どもへの視点が改めて明確になってきます。
 
父親であること、母親であること、そしてなにより人であること、それらをもう一度、新しい視点で振り返ってみませんか。
 
第一回目のテーマは、「父親と子育て」です。
 
初めての方でも、どうぞ、お気軽にお仲間にお入りください。
 
奮ってのご参加、お待ちしています。
 
 
 
講師: 諏訪耕志 https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
 
 
日時: 基本的に毎月第四火曜日 午前10時より12時半まで
 
 
場所: 滋賀県草津市内 個人宅(お申し込みいただいた方に個別のご連絡いたします)
 
 
参加費: 単発でのご参加 3000円
     4回連続参加 10000円
    (プラス講師の交通費を頭割りで)
 
※有料にてお子様の託児あり。お申し込み時にお伝えください。
 
 
お申し込み・お問い合わせ: minttea221@gmail.com(筒井)


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2019年05月14日

こころのこよみ(第4週) 〜主と客、重ねてあわせて「わたし」〜


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平櫛田中作「蕉翁像」

 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
 
さう感覚が語る。
 
それは陽のあたる明るい世の内で、
 
光の流れとひとつになる。
 
それは「考へる」に、
 
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
 
そして人と世を、
 
ひとつに固く結びつけようとする。
 
      ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.
 
 
 
シュタイナーがここで使つてゐる「感覚(Empfindung)」といふことばは、「受けて(emp)見いだす(finden)」からできてゐることばだ。
 
感覚には、人によつて受けて見いだされた光、色、響き、熱、味、触などがある。
 
これらは、外から人に向かつてやつてくるものである。
 
しかし、感覚は人の内からもやつてくる。
 
からだの内からやつてくる空腹感や疲労感、こころの内からやつてくる意欲や感情や考へも、感覚なのだ。
 
なぜなら、みづからのからだもこころも、世の一部だからだ。
 
色や響きなど、外からのものを、人は感覚する(受けて見いだす)し、情や意欲や考へといふ内からのものをも、人は感覚する(受けて見いだす)。
 
しかし、外からの感覚は、外からのものとして客として迎へやすいのだが、内からの感覚は、内からのものであるゆゑに、客として迎へにくい。
 
主(あるじ)としてのみづからと、客である情や意欲や考へとを一緒くたにしてしまいがちだ。
 
主と客をしつかりと分けること、それは客を客としてしつかりと観ることである。
 
みづからの情や意欲や考へを、まるで他人の情や意欲や考へとして観る練習。
 
明確に主(あるじ)と客を分ける練習を重ねることで、分けられた主と客を再びひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。
 
その力が、こころを健やかにしてくれる。
 
主と客を明らかに分けるといふことは、主によつて、客が客として意識的に迎へられる、といふことでもあらう。
 
そして、やつてくる客に巻き込まれるのではなく、その客をその都度ふさわしく迎へていくことに習熟していくことで、主は、ますます、主として、ふさわしく立つていく力を身につけていくことだらう。
 
人が、外からのものであれ、内からのものであれ、その客を客として意欲的に迎へようとすればするほど、客はいよいよみづからの秘密を明かしてくれる。
 
感覚といふ感覚が、語りかけてくる。
 
客のことばを聴くこと。それが主(あるじ)の仕事である。
 
外の世からの感覚だけでなく、考へ、感じ、意欲など、内に湧き起つてくる感覚を、しつかりと客として迎へる仕事をするほど、その客が語りかけてきてゐることばを聴かうとすればするほど、わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、少しずつ、太く、深く、大きく、成長させていく。
 
その仕事によつて、わたしは、みづからの狭い限りを越えて、「わたしのわたしたるところ」をだんだんと解き明かしていくことができる。
 
主によつて客が客として迎へられるといふのは、客によつて主が主として迎へられるといふことであるだらう。
 
またそれは、主と客が心理的にまぜこぜになるといふことではなく、精神的にひとつになるといふ、人と世との、もしくは人と人との、出会ひの秘儀とも言つていいものではないだらうか。
 
そして、主と客がひとつになるときに、「わたし」(わたしのわたしたるところ)がいよいよ明らかなものになつていく。
 
つまり、主=「わたし」ではなく、主+客=「わたし」なのだ。
 
たとへば、セザンヌの絵や彼の残したことば、もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けてゐると、ものとひとつになることを目指して彼らがどれほど苦闘したか、だんだんと窺ひ知ることができるやうになつてくる。
 
彼らは、世といふもの、こころといふものの内に潜んでゐる大きな何かを捉へることに挑み、そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、その果てにだんだんと立ち顕れてくる「人のわたし」といふものへと辿りつかうとした。
 
彼らは、色彩といふもの、こころといふもの、さらに風雅(みやび)といふものと、どこまでも辛抱強く向き合ひ、その上で、ひとつにならうとする仕事を死ぬまでやり通した人たちだ。
 
ものとひとつになるときこそ、「人のわたし」ははつきりと立ち顕れてくることを彼らは知つてゐた。
 
感覚を客としてふさわしく迎へれば迎へるほど、それは、「わたしのわたしたるところ」の拡がりと深みを語つてくれる。
 
また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、わたしは、客について、己れについて、さらには「わたし」について、明るく、確かに、考へることができる。
 
そして、わたしと世がひとつであることへの信頼感をだんだんと得ていくことができる。
 
 
 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは「考へる」に、
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
そして人と世を、
ひとつに固く結びつけようとする。
 



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『第一回 源氏物語を味はふ会 〜藤壺と光源氏〜』のご案内


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5月25日(土)「ことばの家 諏訪」にて行ひます『源氏物語を味はふ会』。
 
実母を幼い頃に失つてしまつた若い男の、義理の母(ときの天皇の御后様)・藤壺の宮への燃へ上がるやうな恋心。
 
禁断の恋の渦に巻き込まれてしまふ、藤壺の宮の引き裂かれるやうな複雑なこころ模様。
 
今回の第一回は、光源氏と最愛の藤壺の宮との狂ほしいばかりの間柄を、まづ、取り上げます。
 
「もののあはれ」は、なによりも、男女の恋に知られるものです。
 
 
 
今回、朗読を荷はれる北川三代さん。
 
御年85歳のその艶やかな御声で、言語を造形しながら空間を満たしてくださいます。 
 
当日は、「ことばの家 諏訪」から歩いて三分ほどのところにある万代池にて、帝塚山音楽祭が午前十時から午後五時まで開かれます。 
 
音楽祭で音楽を楽しむのもコミで、「ことばの家 諏訪」での『源氏』の会、どうぞ、どうぞ、お運びください。
 
お待ちしてゐますね。
 
諏訪耕志記
 
 

 
解説: 山崎方典(高校国語教師)
 
言語造形: 北川三代
 
ナビゲーター: 諏訪耕志
 
 

日時: 令和元年5月25日(土)14時から16時
 
 
会場・お申し込み: ことばの家 諏訪 
          https://kotobanoie.net/access/
 
 
参加費: ご予約 2000円  当日2500円 
 

 
 

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『古事記の傳へ』〜令和元年冬至に向けての準備〜


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親子えんげき塾 ことばの泉は、今年、令和元年の暮れ、師走の月、冬至の日に、和歌の浦で『古事記(ふることぶみ)の傳へ』と題して、天の岩戸開きに至る日本の神話を演じます。
 
冬至の、最も太陽の力が弱まり、最も闇の力が強まるそのとき、天照大御神様が天の岩戸からお出ましになられ、陽の光の力が再び甦るのを、わたしたち日本人は毎年、毎冬、お祝ひしてゐました。
 
その冬至の日に向けて、わたしたちも準備を少しずつ始めてゐます。
 
日本人がこころから大切に守り続けてきた物語り。
 
それは、神話です。
 
それは、語り伝へられて来ただけでなく、演じられ、祭りを通して祝はれ続けて来たものです。
 
つまり、古事記の神話は、今年、この月、このとき、いま、起こつてゐることを言語化したものであります。
 
闇の極まる日の冬至の祭りは、そもそも、新嘗(にひなへ)の祭りでした。
 
一年の米作りの終結点として祝はれ、収穫に対して太陽の神、天照大御神に感謝を捧げる、日本人の暮らしの中でなくてはならない、とても重要なものでした。
 
神話といふ文学と、米作りを中心にした暮らしと、信仰が、ひとつになつて何百年も、いや、きつと何千年も営まれて来た国、それが日本です。
 
わたしたちは、いま、何に繋がらうとしてゐるのだらうか。
 
そんなことをこの『古事記の傳へ』を演じようとしてゐる、えんげき塾のメンバーたちはこころの中で感じ始め、考へ始めてゐます。
 
わたしもそんなメンバーの方々と共にこの令和元年を生きることができることが、なんだか晴れがましいのです。
 
昨日の稽古に、見学に来て下さつた村尾 初子 (Hatsuko Murao)さんが動画を撮つて下さいました。
 
https://www.facebook.com/hatsuko.murao/videos/2305188046208315/?t=5

https://www.facebook.com/hatsuko.murao/videos/2305187706208349/?t=7
 
初子さん、どうもありがたうございます。

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古さを慕ふ


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芸術において、自分自身を解放する、自分自身をみつめる、そのことの素晴らしさ、尊さ。
 
そして、つひには、芸術とは、「道」であることに気づくことの、妙なること。

そのことに、気づくことは、芸術が自己実現を促すことといふよりも、「道」そのものを尊び、存続させていくことに、人の務めがあることに気づくことでもあるでせう。

とりわけ、日本に於いて芸術とは、そもそも、すべて「道」です。

「道」とは、人がゆくところ、人が己れの足を動かせて歩くところです。
 
さう言へば、わたしがまだ若くて、随分精神的にも未熟だつた頃、フォルメン線描といふ、シュタイナー芸術のレッスンに出た時、わたしが、今から思えば非常に「つまらない」質問を先生にしたことを想ひ出します。
 
すると先生は、「づべこべ言はずに、手を動かせ」と厳しくわたしに言ひました。
 
まだ三十代前半の若い女の先生でしたが、なぜだか、すぐにわたしは羞恥心と共に、「これは、道なのだ」と直感しました。
 
わたしは、日本人のさういふ先生に教へてもらへたことを幸運に思ひます。
 
言語造形も、「道」です。
 
ことばの発声に取り組めば取り組むほど、ことばそのものの秘密、それを発声してゐる人の秘密、そのことばによつて描かれようとしてゐるものごとの秘密を、だんだんと明かすやうになる。
 
ことばとは、まさしく神から人だけに与へられてゐる「自然」です。

ことばは、己れの「自然」を、人によつて、解き明かされたがつてゐます。
 
人によつて、造形されたがつてゐます。
  
その「自然」の秘密を解き明かしていく「道」をしつかりと歩いて行くための稽古を毎日続けていくこと。
 
そして、その「道」を求める人にここにもひとつの「道」があることをお伝へすること。
 
それが、わたし自身にことよさしされてゐることだと改めて念ひます。




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2019年05月08日

『言語造形と演劇芸術のための学校』のお知らせ


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これは、言語造形に真摯に取り組んでみたいといふ人のための学校です。
 
語るといふ芸術。
演じるといふ芸術。
詠ふといふ芸術。
 
言語造形を通して取り組むこの舞台芸術は、人そのものを楽器となしてゆく練習・修業の道です。
 
練習・修業といふものは、精神だけでなく、肉体をもつてするものですので、みつちりと時間をかけることを要します。
 
精神は、意識のもちやうで目覚めたり、眠り込んだりを行き来しますが、肉体は一定期間、時間をかけて技量を培つていくことでのみ、芸術的に動くやうに育つてくるのです。
 
また、そのやうに時間をかけるからこそ、その人の中に「この仕事こそが天職だ」といふ自覚と己れへの信頼がおのづと育ちます。
 
そして、精神からことばの芸術を織りなす技術者集団を作り、各地で舞台をしていくことによつて、ことばによる祭祀空間を産み出していく。
 
これは、さういふ実践的・創造的な舞台人を育成していくための学校です。

日本の国語芸術、国語教育を身をもつて担つていく人材を育成していくための学校です。
  
ことばをもつて垂直に立つ人を育てゆく学校です。

週四日の稽古で、基本修養年数は五年間。
 
 

この学校は、いはゆる卒業証書のやうなものはお渡しできません。
 
実際の舞台に立つていき、お客様からいただくその都度その折りの拍手が、皆さんの唯一の卒業証書です。
 
すぐにこれで飯を食へるやうになりたいといふやうな思ひではなく、高く、遠い芸術への志を抱く方、このような学校の精神を受け止められる方、共に歩きはじめましょう。
 
これは、言語造形を己れの一生の仕事・天職にしていく道です。
 
 
「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 
 
 
 
 
●就学期間:
 
五年間
 
毎週平日4日間/年間45週
 
春休み(1週間)、ゴールデンウィーク休み(1週間)、
夏休み(3週間)、冬休み(2〜3週間)、祝日はお休み
 
 
 
●時間:
 
午後6時〜午後8時
 
 
 
●場所:
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

 
●講師:

諏訪耕志 (ことばの家 諏訪 主宰)
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji 
 

 
●授業料:
 
入学金 3 万円 (入学決定時に納入)
月謝制 4 万円 (休みの有無に関わらず。合宿などの費用別途)
 
 
 
●授業内容:
 
言語造形
『テオゾフィー』(R.シュタイナー)
『普遍人間学』(R.シュタイナー)
「言語造形と演劇芸術」(R.シュタイナー)講義録
その他
 
 
 
●お申し込み:
 
履歴書一通・なぜ入学希望するかに関する文書一通を添えて、
メールまた郵便で申し込む。
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
後日、面接日をお知らせいたします。

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2019年05月07日

未来の芸術 〜関根祥人を想ひ起こす〜


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九年前に急逝した能楽師・関根祥人。
 
わたしは、彼の舞台を初めて観たのは、確か1990年代中頃、『萬歳樂』といふ舞台だつた。
 
彼が舞台に登場すると、舞台上の空気が一変し、その一挙手一投足の動きと、彼の発することばの響きから、彫りの深い波が大きくうねりながら舞台上から客席後方へと拡がつてゆくのが感じられた。
 
そんな舞台は、それまでに観たことがなかつた。
 
しかし、これこそが、わたしが求めてゐる舞台芸術だ、さう、震へるやうな感動の中でわたしは感じ、その後、できうる限り彼の舞台を繰り返し観た。
 
能といふ舞台芸術が、極めて未来的な芸術であることを教へてくれたのは、能楽師は数多をれども、わたしにとつては彼ひとりであつた。
 
その彼が、2010年、五十歳の若さで急逝した。
 
その後、能といふ舞台芸術からわたしは遠ざかつてしまつた。
 
今日、住吉大社で、天皇陛下御即位記念の奉祝曲「大典」が演じられ、それを観てゐて、しきりに彼のことが思ひ出された。
 
からだとこころと精神の感官を研ぎ澄ませ、伝統の力を敏感に繊細に感じること。
 
さうしていかないと、伝統主義の虚偽を見破ることはできない。
 
それは、演じる者にとつても、観る者にとつてもだ。
 
もはや、伝統主義やお決まりのスタイルに拠りかかつてゐるだけでなく、清新な息吹きを舞台に吹き込まなければ。
 
そのとき、我が国の伝統が新しいかたちで甦る。


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2019年05月05日

こころのこよみ(第3週) 〜「語る」とは「聴く」こと〜


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ナショナル ジオグラフィック協会の「世界の美しい鳥たちより」

世のすべてに語りかける、
 
己れを忘れ、
 
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
 
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
 
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
 
わたし自身であることの鎖から。
 
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」
 
          ルドルフ・シュタイナー
 
 
Es spricht zum Weltenall,
Sich selbst vergessend 
Und seines Urstands eingedenk,
Des Menschen wachsend Ich:
In dir befreiend mich
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
Ergründe ich mein echtes Wesen.
 
 
 
「語る」とは、「聴く」ことである。
 
そのことが、言語造形をしてゐるとリアルに感じられてくる。
 
語り手みづからが聴き手となること。
 
頭で考へないで、聴き耳を立てながら、語るやうにしていく。ひらめきが語りを導いてくれるやうに。
 
「ひらめき」とは、語り手の己が空つぽになり、その空つぽになつたところに流れ込んでくる「ことばの精神」。それはまるで、からだにまで流れ込んでくる生きる力のやうだ。
 
その「ひらめき」「ことばの精神」は、聴き耳を立てるかのやうにして待つことによつて、語り手に降りてくる。
 
「語る」とき、自分が、かう語りたい、ああ語りたい、といふことよりも、「ことばといふもの」「ことばの精神」に、耳を傾け、接近し、沿つていきつつ語る。
 
己れを忘れて、かつ、己れのおほもと(ことばの精神)を頼りにしながら、語り、語り合ふことができる。
 
そのやうに、語り手が「ことばの精神」に聴き耳を立てながら語ることによつて、聴き手も「ことばの精神」に聴き耳を立てる。
 
そのやうな「ことばの精神」と親しくなりゆくほどに、語り手、聴き手、双方の内なる<わたし>が育ちゆく。
 
 
だから、今週の「ことばのこよみ」での、「世のすべてに語りかける」とは、世のすべてから流れてくる「ことばの精神」に耳を傾けることでもある。
 
そのときに流れ込んでくる「ものものしい精神」「ありありとした精神」を感じることによつて、わたしは解き放たれる。みづからにこだはつてゐたところから解き放たれる。
 
だから、たとへば、「他者に語りかける」時には、こちらから必ずしもことばを出さなくてもよく、むしろ、「他者をよく観る、他者の声に聴き耳を立てる」といふこと。
 
そのやうな「語り合ひ」「聴き合ひ」においてこそ、人は、みづからを知りゆく。「ああつ、さうか、さうだつたのか!」といふやうな、ものごとについての、他者についての、みづからについての、解き明かしが訪れる。
 
互ひがよき聴き手であるときほど、対話が楽しくなり、豊かなものになる。
 
特に、この季節、自然といふものをよく観ることによつて、聴き耳を立てることによつて、他者をよく観ることによつて、他者のことばに聴き耳を立てることによつて、自然との対話の内に、他者との対話の内に、わたしは、わたし自身であることの鎖から解き放たれる。そして、わたしは、まことわたしたるところを解き明かす。
 
芽吹き、花開くものたちにたつぷりと沿ふ喜びを積極的に見いだしていきたい。
 
 
 
世のすべてに語りかける、
己れを忘れ、
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
わたし自身であることの鎖から。
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」
 
 


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5月25日(土)源氏物語を味はふ会 〜藤壺と光源氏〜 のお知らせ


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もつとも大事なこと、もつとも密やかなこと、それは語らない。
 
紫式部は源氏物語において、その手法を極めました。
 
それゆゑ、源氏物語は、日本文学の最高峰にいまだに位置してゐるのです。
 
 

令和元年5月25日(土)に、「ことばの家 諏訪」にて、『源氏物語を味はふ会』を催します。
 
この古典文学作品を、親しみやすい解説と言語造形による朗読で味はつてみませんか。
 
今回は、光源氏と、彼の永遠の憧れの女性・藤壺の関係に光を当てていきます。
 
『源氏物語』をこれから読み始めてみようといふ方にも、お勧めです。
 
春の終はりのひととき、源氏物語の世界へご一緒しませう。

 

「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志
 
  
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チラシ絵:鹿喰容子さん


 
解説: 山崎方典(高校国語教師)
 
言語造形: 北川三代
 
ナビゲーター: 諏訪耕志
 
 

日時: 令和元年5月25日(土)14時から16時
 
 
会場・お申し込み: ことばの家 諏訪 
          https://kotobanoie.net/access/
 
 
参加費: ご予約 2000円  当日2500円 
 



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2019年05月04日

わたしたちが欲してゐるのは自己の宿命である


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「わたしたちが欲してゐるのは、自己の自由ではない。自己の宿命である」

「自己が居るべきところに居るといふ実感」

(福田恆存『人間・この劇的なるもの』より)
 
かういふものの感じ方、考へ方を、「もののあはれを知る」といふ認識方法として多くの日本人は理屈抜きに体得してゐたやうに思ふ。
 
「権利!」「人権!」「個人!」「自由、自由!」などと叫んでゐるよりも、腹が据わつてゐて、よほど人としての弁へがあるやうに思ふ。
 
 

posted by koji at 20:32 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月03日

『日本と皇室の歴史』勉強会のお知らせ


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このたびの平成から令和への御代代はりに際し、わたしたち日本人の多くのこころが何らかの脱皮へと動きはじめてゐることを感じはしないでせうか。
 
わたし自身、先の大戦後七十周年であつた平成二十七(2015)年の一年ほど前から、このこころが全く新しい方向へ動き始めてゐることを感じてをりました。
 
そのこころの動きは、生きてゐる者同士の感化といふよりも、すでに亡くなられた方々との交流が、それまでとはまるで違ふ勢ひで始まつた、そんな感覚でありました。
 
この国と皇室の歴史を学び始める、そんな読書会を毎月一回催していきたいと思つてゐます。
 
といひましても、わたし自身も学び始めたばかりの者ですので、教科書を選び定め、それを皆で読み進めていくといふスタイルで始めて参ります。
 
大人にとつての教科書選びは難しいものですが、この御代代はりに際し、名著・良書が出てゐること、まことにありがたいことです。
 
明治維新からの我が国の近現代の歴史の中で、いかに代々の天皇陛下が、国民を守つて来られたかを論じる、江崎 道朗 (Michio Ezaki)氏による『天皇家 百五十年の戦い[1868-2019]』は、紛うことなき名著だと感じてゐます。
 
まづは、この一冊をわたしたちの教科書として熟読していくことから始めます。
 
我が国の歴史を改めて学び直し始めつつ、自分自身のことばを持つことに向けて歩み出したいと思ひます。
 
この読書会は、読書会でありつつ、精神と精神の出逢ひの時間でありたい。
 
それゆゑ、参加者の活発で活き活きとした発言と共に、ひとりひとりの発言を静かに真摯に傾聴するといふ参加姿勢を大切にしていきたい、議論ではなく、静かに、粛々と、やつていきたいと希つてゐます。
 
会の名前をとりあえずは、『日本と皇室の歴史』勉強会として発足させたいと思ひます。
 
ご関心があられる方、どうぞご連絡ください。
 
 
 
●日時:
 
令和元年6月より毎月第一土曜日午後3時より5時頃まで
 
 
●場所・お問ひ合はせ・お申し込み:
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
●参加費:
 
場所代として500円
 
 

 
※ご参加される方は、教科書を各自ご購入の上、お申し込みをお願ひいたします。

posted by koji at 17:11 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

6月30日 言語造形公演『常世の濱の浪の音聞こゆ』のお知らせ


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太古の人は、海に対して夢を見てゐました。
 
 
「霊界」などといふ粗雑なことばを使はず、ていねいになつかしい思ひから「常世(とこよ)の国」と申してをりました。
 
 
主に丹波国風土記から構成した劇『浦島子』と共に、昔話『たつの子たろう』、そして謡曲『高砂』、これらを言語造形を通して聴いていただきます。 
 
海の神秘が物語られ、謡はれ、演じられます。
 
 
能舞台での言語造形とライアーの響き。
 
 
ぜひ、いらしてください。
 
 
 
 
出演:
 
 
昔話『たつの子たろう』 諏訪千晴
 
 
謡曲『高砂』 諏訪かさね
 
 
劇『浦島子』 諏訪耕志 諏訪千晴 諏訪かさね
 
 
音楽 足利智子
 
 
 
 

日時: 令和元年6月30日(日)
    13時半開場 14時開演 15時半終演予定
 
 
 
場所: 山中能舞台
    最寄駅 地下鉄御堂筋線「西田辺」徒歩5分
    大阪市阿倍野区阪南町6-5-8
 
 
 
参加費: ご予約 大人3000円 子ども1000円
     当日  大人3500円 子ども1500円
 
 

【 お申し込み 】

以下のサイトよりお願いいたします。
(前払い事前決済)
https://www.kokuchpro.com/event/tokoyonohama/
 
一番下の、「申込む」ボタンを押してください。
クリック後、30分以内にクレジット決済をお願いいたします。それ以降ですと、ご予約が無効になつてしまひます。


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以下になります。
 
 ゆうちょ銀行から : 記号 10260 番号 28889041 スワ チハル
 他銀行から    : 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904




【 お問い合わせ 】
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/ 
お申し込み: ことばの家 諏訪
       https://kotobanoie.net/access/
 
 
 

posted by koji at 11:19 | 大阪 | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする