2021年10月20日

音韻は神である 言語造形の観点から






人の話を聴くといふこと、それは、話されてゐる内容を聴き取ることと共に、ことばの音韻を聴くといふことでもあるのです。


その音韻のひとつひとつを追ふやうに聴くのです。


音韻が空間の中を動きます。聴く人はその動きに沿ひます。沿ふことによつて、聴く人は、聴きつつ、自分自身が内的に動く、といふことになります。


つまり、人は、注意深く人の話を聴く時には、動きをもつて全身で聴いてゐるのです。


人と人とがことばを交はし合ひ、聴き合ふといふこと。


そもそも、それは、まさに、秘儀とも言へる芸術の営みです。



オンラインクラス「いかにして人が高い世を知るにいたるか」より


※サムネイルの絵は、セザンヌ「カード遊びをする人々」



※これら一連の動画は、みな、シュタイナーの講演録『普遍人間学』や著作『いかにして人が高い世を知るにいたるか』における本筋を踏まえながらも、その本筋とは別に、参加者の方々から発せられることばを講師の諏訪耕志が聴くことから即興的に生まれた話を収録してゐます。



ーーーーーーー


★『普遍人間学』オンラインクラスには、二クラスあります。
金曜夜7時半から9時半のクラス(月二回)
土曜朝10時から12時のクラスです。(月二回)


参加費
体験参加費 一回のみ 3500円
3回連続ご参加 9000円


★『いかにして人が高い世を知るにいたるか』オンラインクラスには、二クラスあります。
いずれも、毎週木曜と日曜の夜に行つてゐます。


木曜夜クラス 午後8時〜9時
日曜夜クラス 午後8時〜9時


参加費
体験参加費 一回のみ 2000円
4回連続ご参加 5000円


御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。  


もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。


ただ、クラスが、読書と共に、とても内密な語らひの場になりますので、録画ご視聴して下さる方のお顔とお声を参加して下さる皆さんに、ご紹介させてもらふことになります。


一度、オンライン上でお顔をお見せくださることが可能でしたら、とてもありがたく思ひます。


お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.p...  


お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


どうぞよろしくお願ひいたします。





2021年10月17日

息遣ひから美が生まれ、シンパシーから藝術が始まる






意志の力、意欲の力、欲する力、ふるまひから、わたしたちは学びを始めることができます。

シュタイナー学校の子どもたちも、毎朝、そのやうなからだの動きから授業を始めます。

その動きが、闊達な息遣ひを促してくれるのですね。

大人だつて、さうです。

意欲から始めればこそ、息遣ひがハーモニックに整へられ、さらに、こころにシンパシーが湛へられます。

芸術は、シンパシーを基とします。愛を基とします。まるごとひとつといふところから始めるのです。



※これら一連の動画は、みな、シュタイナーの講演録『普遍人間学』や著作『いかにして人が高い世を知るにいたるか』における本筋を踏まえながらも、その本筋とは別に、参加者の方々から発せられることばを講師の諏訪耕志が聴くことから即興的に生まれた話を収録してゐます。


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★『普遍人間学』オンラインクラスには、二クラスあります。
金曜夜7時半から9時半のクラス(月二回)
土曜朝10時から12時のクラスです。(月二回)

参加費
体験参加費 一回のみ 3500円
3回連続ご参加 9000円


★『いかにして人が高い世を知るにいたるか』オンラインクラスにも、二クラスあります。
いずれも、毎週木曜と日曜の夜に行つてゐます。

木曜夜クラス 午後8時〜9時
日曜夜クラス 午後8時〜9時


参加費
体験参加費 一回のみ 2000円
4回連続ご参加 5000円

御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。  

もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。

ただ、クラスが、読書と共に、とても内密な語らひの場になりますので、録画ご視聴して下さる方のお顔とお声を参加して下さる皆さんに、ご紹介させてもらふことになります。

一度、オンライン上でお顔をお見せくださることが可能でしたら、とてもありがたく思ひます。

お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    

鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.p...  

お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/

どうぞよろしくお願ひいたします。



ことばの社(やしろ)を打ち樹ててゆく



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言語造形をするたびにいつも感じるのは、どこか神社の境内に入るやうな感覚です。


それは、ことばの芸術に全身全霊で取り組むことで、作品がある意味、霊化・精神化されることによつて生まれる感覚なのです。


そして、ことばの精神によつて、目には見えませんが、精神の空間に、確かにリアルに感覚されることばの社(やしろ)が立ち上がつて来ます。


わたしたちは、語る人も聴く人も、ことばの社、ことばのお宮、ことばの家、と言つてもいいやうな精神の時空間の内側に入つて行くのです。


ことばを耳で聞く、といふよりも、ことばに全身が包まれる、と言つた方が、この感覚をよく言ひ表します。


そのプロセスを皆で共にする場。それが、言語造形が営まれる現場です。


そのような社を日本の各地に新しく打ち樹てていくこと。それこそが、アントロポゾフィーハウスの地道な仕事であり、大いなる理想なのです。


言語造形といふことばの芸術は、アントロポゾフィーが営まれるところ、シュタイナー教育が営まれるところ、日々の暮らしが営まれるところに、ゆつくりとこれから浸透して行きます。


なぜならば、芸術は、常に、人の生に時をかけてゆつくりと働きかけてゆくものだからです。


芸術とは、人によつて高められた「自然」です。


※写真は、奈良県吉野郡東吉野村に鎮座まします丹生川上神社中社境内にて。

posted by koji at 08:18 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月16日

昨晩のオンラインライブを終へて 芸術としての英語教育







昨晩は、通訳藝術道場の冠木友紀子さんとの共同作業「芸術としての英語教育」の第一回目のオンラインライブを行はせていただきました。


ここで、冠木さんが仰られてゐることの中には、これからの英語教育(のみならず、すべての教育)について幾つもの重要な示唆が込められてあります。


日本における古くからの教育スタイルに倣ふこと。


そのスタイルを新しい意識で設へること、それは「いまのシュタイナー学校ならできる」といふ言ひ方を、ここで冠木さんはされてゐます。


「いまのシュタイナー学校」といふスタイルは、きつと、これからの日本社会に、なんらかの形をもつて拡がりゆき、共有されてゆくものであると、わたしは予感してゐます。


つまり、今の学校システムは、崩壊して行くプロセスの中にある、といふことです。


さあ、わたしたちは、我が国の教育をどのやうな新しいスタイルで創りなしてゆくことができるでせう。


そして、英語の授業の時間数をこれ以上多くすることには意味がないこと、さらには、日本人全員が英語を学ぶことが、いかほど日本の国力を無駄に消費してゐるかといふこと、などなど・・・。


これらの問題意識、問題提議は、わたしたちの国語教育との関係性において深い意味を持つ示唆へと繋がりゆくと、わたしには思はれます。


英語教育は、必ずや、国語教育との関係性の中で見つめ直されなければならない。わたしたち日本人は、きつとその道を辿りゆくことになるだらうと予感します。


この通訳藝術道場とアントロポゾフィーハウスとの共同作業は、昨晩のこの第一歩目から始まり、ゆつくりと、言語の学びと職能への道を提示できるやうなものへと成長して行きたいと考へてゐます。


ーーーーーー


10月30日(土)20時〜21時
フェイスブック・オンラインライブ
『【有料1時間】中高生の「なんで英語やらなくちゃいけないの」に本気で応える【言語造形と通訳藝術コラボA】』
https://www.facebook.com/events/572032667373848/


11月27日(土) 12月11日(土)19時半〜21時
『【有料1時間半×2】英語入門から通訳養成までをひとすじ
の道とする「芸術としてのことばの学び」【言語造形と通訳藝術コラボB】』
https://www.facebook.com/events/1069411890474422/



posted by koji at 12:52 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自分自身を健やかに忘れる



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自分自身のことばかりにこだわつてしまふ。


さういふときが、あります。


そんなとき、すべての芸術と同じく、言語造形の営みは、そのやうな自分自身の内側を覗きこんでばかりゐる意識のありやうを外側へ引つ張り出します。


言語造形では、ことばの音韻といふ、自然から授かつてゐる、とても客観的なものを素材とし、その素材に懸命に取り組むうちに、人は自分自身を健やかに忘れるのです。


ただ、その素材への取り組みは、やはり、法則に則つて進めて行かねばなりません。無手勝流では、つひには、自分自身のくせから抜け出せない、いびつなものを産み出すばかりです。


法則といふ極めて客観的なものに則ることによつてこそ、その人その人の個性が初めて輝き出し、美しい主観が顕れてきます。


この仕事が自分に合ふかどうか、そんなことばかり前もつて考へて、自分のことだけが気になつてゐるのではなく、自分自身のことなど忘れて目の前に提示されてゐるものに懸命に取り組んでみるうちに、これまで思ひもよらなかつた自分自身と対面することになる。 


このことは、人のすべての仕事に共通することでもありますね。


もう、自分自身のこと、自分の性格や、自分の個性や、自分の好き嫌ひやを言ひ立てることではなく、「仕事」に向き合つていく、そんな爽やかな道が、きつと、あります。


※写真は、大阪市住吉区の大海神社の秋の大祭の空。



posted by koji at 07:20 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月15日

夜明け



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ものごとを考へるきつかけは、やはり、痛みや苦しみに触れるところからではないでせうか。


人は、どれほど、幸ひを求めて生きようとしましても、その人の成長に必要な痛みならば、必ずそれはやつてくる。そして、その痛みはその人に何かを教へようとしてゐる。


しかし、その痛みや苦しみが何をわたしに教へようとしてゐるのかと、その人がみづから問ひを立てなければ、その痛みや苦しみは消化されることなく、繰り返し繰り返しその人を訪れる。


問ひを立てるといふ内なる行為は、考へるといふ内なる行為によつて起こされます。


少し話は別のところへ赴きますが、ここ数十年、感じ続けてゐることがあります。


それは、男であること、肉体的なことよりもより深い性質としての男性性といふ、人におけるある側面、表現が否定される場面に出くわすことが多いといふことなのです・・・。


男性性とは、昔流のことばで言へば、「男らしいあり方」となるでせうか。もしくは、肉体のあり方から離れ、より抽象的に表現するならば、「優れてゐる」「強い」「大きい」「立派な」「偉い」「緊張感」「一頭地、抜きんでてゐる」「理想的な」「高みを目指す」「すること」「創ること」「なしとげていくこと」「変へていくこと」、そんなことばで表現されてゐた「何か」だと感じますが、いかがでせうか。


しかし、わたしは、この言ひ方が指し示さうとしてゐるものが否定されてゐるのでは、実はなく、男性性の不健康なあり方が、人々に嫌悪されてゐる、さう思はれてならないのです。


上にあげた「ことば」がすべて、他者を抑圧する方向へと人を陥れる向きをいつしか持つてしまつた。人の自由を抑圧する向き、人の存在を抑圧する向き、人の精神を抑圧する向きを、上にあげた男性性を表す「ことば」といふ「ことば」が持つやうになつてしまつた。なぜ、さうなつてしまつたのかを書かうとすれば、一冊の本になつてしまふのかもしれません。


人は、いま、その不健康な向きを嫌悪します。激しいと言つてもいいほどの怒りをもつて嫌悪します。


しかし、だからと言ひましても、一方の女性性といふものだけで、世は出来てゐるのではないがゆゑに、世のまるごとが傾き、崩れゆかうとしてゐる。


その女性性といふものを言はうとするなら、これも昔流の言ひ方ですが、「女らしいあり方」となるでせうか。このことばは、「優しさ」「繊細さ」「柔らかさ」「細やかさ」「ふくよかさ」「うちとけること」「リラックス」「あること」「あるがまま」「護ること」「変はらないこと」などなどを指し示すやうに思はれます。


わたしは、あへて、男性性といふものを「精神」と捉へます。そして、女性性といふものを「こころ」と捉へます。


どちらも、人において、なくてはならないものです。


精神とは、天からの光といふやうにイメージされます。叡智や高い知識、イデー、理念、理想です。


一方、こころとは、そもそも、天からの光を受け止め、宿し、孕み、産みなし、育てる、大地の豊かさ、そのやうにイメージされます。


天と地といふふたつの健やかなあり方が内において重なり合つて、その人はその人になりゆく。


問ひを立て、天からの光を降ろす、それがそもそもの男性性の健やかなあり方ではないだらうか。


その天からの光、天からの答へを待ち望み、そして降りて来た光を受け止め、孕み、産みなし、育む、それがそもそもの女性性の健やかなあり方ではないだらうか。


そのふたつのあり方、働き方は、ひとりの人の内側に、そもそもあるものですし、育ちゆくものです。


しかし、現代は、喜びだけではなく、すべての人が、天と地の間に立たうとするみづからといふ存在を意識せざるをえないがゆゑの、痛みや苦しみを負つてゐる時代、意識のこころの時代です。


いや、むしろ、痛みや苦しみを通してこそ、こころを豊かに、成長させることができる時代に生きてゐはしないでせうか。


なぜならば、痛みや苦しみが人生に訪れることによつて、人は、初めて、この世に生まれて来たこと、いま生きてゐること、死にゆくことの「意味」を問ふからです。


楽しみや幸せや快楽だけに包まれてゐますと(それらは、とても、とても、大切なことであり、天からの恩寵でもありますが、そもそも、それのみの人生はありえません)、人は、決して、問ひません。


痛みや苦しみ、そして死を避けて避けて避け続けた果てに、わたしたちは何を生きるのでせうか。


その痛みや苦しみを恐れずに、勇気を持つて問ひを立て続けることが、男性性のそもそも持つてゐる本当の健やかな仕事ではないでせうか。


問ひを立てればこそ、その痛みや苦しみこそが、思ひもよらぬ秘密を明かすやうになります。


そして、その明かされる秘密こそが、その人のこころが稼ぐ、その人の理想です。


その理想は、痛みや苦しみを潜り抜けてこそ得られる宝物ではないでせうか。


夜明け前の闇が最も暗いやうに、わたしたちが、いま、闇を見ざるをえないのならば、勇気を持つてその闇をあるがままに迎へ、闇であること、そして、闇があることそのものを認めること、闇が教へてくれようとしてゐることに対して、勇気を持つて問ひを立てることをするならば、きつと、思ひもよらない秘密が明かされる。


夜明けが来ます。





※写真は、なかむら よしこさんが撮られた青森県田子町(たっこまち)の大黒森の丘からの夜明けの光景です。

posted by koji at 12:11 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月12日

芸術としての文章 遠山一行著作集(二)



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ふと、購つてそのままにしておいた『遠山一行著作集(二)』を読み始めました。


ヨーロッパのクラシック音楽に対する批評文集です。


はじめの数十頁を読んだだけですが、すぐさま感じとられたのは、昭和の文人による文章の素晴らしさです。


想ひが思索によつて整へられ、奥行きのある清潔な文体。


著者にとつては、その対象は音楽ですが、対象が何であれ、考へる働きをもつてこころを導きながら、己れの想ひを深めて行くことのできる対象に出会へたとき、その人は仕合はせです。


そのやうな「もの」との出会ひ方、つきあひ方、取り組み方ができたとき、その人は対象についての知だけではなく、己れみづからの〈わたし〉といふものの充実をも受け取ることができる。


それが、科学的認識とは一線を画する芸術体験(芸術的認識)のもつ意味なのです。


そのやうな芸術的認識へと導くものこそが、批評といふものだと思ひます。


文章といふものそのものが、芸術になりうる。遠山氏の文章も、そのやうな文章であります。


たとへ、そこに記されてある音楽をこの身で聴いたことがなかつたとしても、文章そのものを読む喜び、感動、知的刺激を得ることができる。


芸術としての文章、そのやうなものをたくさん読みたい、声にも出してみたい、と念ふのです。


先人の織りなしてきた文目(あやめ)豊かな文章の織物に触れ、それを着こなして己れのものにする、そんな自己教育のあり方を模索していかうと念ふのです。


こころを慰め、疲れを癒し、喜びを感じること、それは人が何よりも芸術に求めるものですが、そこだけに尽きない、考へる働きを促し、想ひを拡げ、得心を深める、そんなこころの使ひ方をしたくなるやうな芸術や文章に出会ひたい。


時代から時代へとそのつど情勢は移りゆきますが、それらを貫いて、決してそれらに左右されない根本の精神を語り、謡ふ、文芸の道、ことばの道を指し示してゐる数多の本を読み込んでいく、その喜びを子どもたちにも伝へて行きたい。


また、これは大変な身の程知らずの不遜な言ひ方になつてしまひますが、自分自身もそのやうな芸術作品を生み出していきたい、と切に希ふのです。




posted by koji at 09:27 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月11日

「世は美しい」普遍人間学オンラインクラスより






おほよそ7歳から13〜14歳までの子どもたちの内には、どういふ願ひが息づいてゐることでせう。


そして、わたしたち子どもの傍にゐる大人は、その願ひに応えへてゆくために、どういふことができるのでせう。


科学から芸術へ。


そのやうに、教育といふものを根本的になりかはらせて行く必要を、21世紀の20年代に生きるわたしたちは感じ始めてはゐないでせうか。


100年前にルードルフ・シュタイナーは、その必要性を明言してゐます。



※これら一連の動画は、みな、シュタイナーの講演録『普遍人間学』や著作『いかにして人が高い世を知るにいたるか』における本筋を踏まえながらも、その本筋とは別に、参加者の方々から発せられることばを講師の諏訪耕志が聴くことから即興的に生まれた話を収録してゐます。




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★『普遍人間学』オンラインクラスには、二クラスあります。
金曜夜7時半から9時半のクラス(月二回)
土曜朝10時から12時のクラスです。(月二回)

参加費
体験参加費 一回のみ 3500円
3回連続ご参加 9000円


★『いかにして人が高い世を知るにいたるか』オンラインクラスには、二クラスあります。
いずれも、毎週木曜と日曜の夜に行つてゐます。

木曜夜クラス 午後8時〜9時
日曜夜クラス 午後8時〜9時

参加費
体験参加費 一回のみ 2000円
4回連続ご参加 5000円

御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。  

もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。

ただ、クラスが、読書と共に、とても内密な語らひの場になりますので、録画ご視聴して下さる方のお顔とお声を参加して下さる皆さんに、ご紹介させてもらふことになります。

一度、オンライン上でお顔をお見せくださることが可能でしたら、とてもありがたく思ひます。

お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    


鈴木一博氏訳の『普遍人間学』『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。「精巧堂出版」

『普遍人間学』
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031

『いかにして人が高い世を知るにいたるか』
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0007  


お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/


どうぞよろしくお願ひいたします。


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10/15(金)20時半 【無料★15分】シュタイナー教育の英語を支えるヒント



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『10/15(金)20時半 【無料★15分】シュタイナー教育の英語を支えるヒント【言語造形と通訳藝術コラボ@】互いの問いに基づく対談』 


フェイスブック・オンラインライブにて、通訳藝術道場の冠木友紀子さんと、アントロポゾフィーハウスのわたくし諏訪耕志とで、英語教育について対談させていただきます。


イベントページはこちら↓
https://www.facebook.com/events/416814409900970


ご視聴いただき、お気軽にコメントやメッセージをいただくことで、わたしたちと共に言語について、英語教育について、大切なことを改めて感じ、考へ、学びの道の実践を探つてゆきませんか。


そして、これは、10月30日(土)20時〜21時のフェイスブック・オンラインライブ『【有料1時間】中高生の「なんで英語やらなくちゃいけないの」に本気で応える【言語造形と通訳藝術コラボA】』へのお誘ひであります。
https://www.facebook.com/events/572032667373848/


さらに、さらに、11月27日(土)と12月11日(土)19時半〜21時の『【有料1時間半×2】英語入門から通訳養成までをひとすじ
の道とする「芸術としてのことばの学び」【言語造形と通訳藝術コラボB】』へのご案内でもあります。
https://www.facebook.com/events/1069411890474422/



勝ち組の仲間入りをするためではなく、英語教育、そして語学とは、そもそも、芸術を学ぶといふことです。言語とは、ことばとは、そもそも、芸術であるからです。


民と民との間に精神の架け橋を架ける仕事、それが外国語を学ぶといふことであります。


さあ、英語は、そして日本語は、わたしたち日本人に何を教へてくれようとしてゐるのでせうか。


共に考へ、共に追ひ求めていきませんか。

posted by koji at 11:24 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月09日

おひさまの丘 宮城シュタイナー学園での時間



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おひさまの丘 宮城シュタイナー学園にて、今回、6年生、4年生、2年生、それぞれの授業に参加させていただきました。


2年生と4年生の合同の時間では、秋ならではの昔話「ならなしとり」が劇に仕立てられます。子どもたちは先生が作つた衣装を身に纏つて演じます。からだまるごとで物語を生きます。


4年生のみの時間では、この学園を中心とする地図を描くことで、郷土学のはじまりを生きます。また、午後には、大工さんと共に、家造りも始まり、床を組む木材を伐り整へる仕事に取り組んでゐました。


どちらの授業においても、どの時期に、何を子どもは学ぶべきかといふことは、勿論、大切なことで、しつかりと考へられたカリキュラムに沿つて、ひとつひとつの授業が繰りなされてゐます。


しかし、最もかなめのことは、ひとときひとときにおける、教師の方のこころと精神のありやうであり、そこからごく自然に生まれて来る、立ち居振る舞ひ、ことばの語り口。


そのことを、今回の授業でありありと感じさせてもらへたのです。


繰り返しますが、教師が何をなすかも勿論大切なことですが、それ以上に大切なことは、教師その人の音楽的なあり方、芸術的なあり方であることを、ありありと感じさせてもらつたのです。


先生の語り口が、歌、なのです。


そして、6年前のこの宮城シュタイナー学園の誕生と共に、ずつと成長を共にして来た6年生の授業における、担任の先生と子どもたちの関係に、わたしは、こころの底から深く何かを感じたのでした。


それは、語弊を招くことを恐れるのですが、担任の先生と子どもたちとの間に育まれて来た神秘的な何かでした。


人と人との関係は、かうなりうる、といふこと。


きつと、昔の教育とは、このやうなものだつた、といふ幻視にも似た想ひに包まれてしまつたのです。


「シュタイナー教育における第二の七年期の子どもたちに対して教師は権威でなければならない」と言ふやうな紋切り型のフレーズはここでは念頭に浮かび上がつては来ません。


もつと、情が直接に感知する何かが、息づいてゐるのでした。


子どもたちも教師も、共に、同時代のこの地球の上に生きてゐる者同士であるといふこと。


そして、きつと、浅くない縁で結ばれた人と人とが、とこしへに、結ばれては、ほどかれ、また、結ばれ・・・。


担任の福島 玲子さんは、「いつも通りの授業なのです」と慎ましく仰つてをられました。


そんな環境に毎日生きてゐる子どもたちと共に、ほんのひとときではありますが、言語造形をもつて生きさせてもらへたわたしでした。


ことばの美しさ。和歌といふことばの芸術。そのことを子どもたちに語りかけ、共にからだまるごとで詠ひ上げる。写真は、そのときのものです。


糸電話を使つての音の響きを体験する物理学のはじまりの6年生の授業をわたしは共にさせてもらつたのですが、翌日わたしが大阪に帰つたその日の授業で、四人の子どもたちが、そろつて、わたしの姿をも書きとどめてくれたノートを、福島先生が送つて下さいました。


授業の中で、先生が思はず教室の床に落としてしまつたものを、一斉にさつと椅子から立ち上がつて、皆で拾ひ集める、そんな子どもたちでした。


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posted by koji at 17:54 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

胆汁質で訓んでみる「走れメロス」太宰治作 言語造形






文学作品を、その文体から、ふさはしい気質をもつて訓んでみる四回目の試み。

火の元手を命の営みの内に滾らせる「胆汁質」。

その火は、この太宰治の作品『走れメロス』の文体において、静かに燃えてゐます。

その火は、作者の内に滾つてゐたものです。

作者は、この燃え滾る精神を人類に伝へるべく、古伝説とシルレル(シラー)の詩に託して、『走れメロス』といふ作品をみづからの内なる火をもつて謡ひ上げた、そのやうに感じます。


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※関連動画 
『多血質で訓んでみる「学問のすすめ」福沢諭吉作』 
https://youtu.be/-qoPLgf_wjU
『憂鬱質で訓んでみる「高瀬舟」森鷗外作』 https://www.youtube.com/watch?v=85OblFAtSt8
『粘液質で訓んでみる「やまなし」宮沢賢治作』
https://youtu.be/Dz-HzKO87_Q

2021年10月08日

奥入瀬川沿ひにて



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あるところから駅まで歩いて行かうと、道を歩いてゐて、静かで大きな夜空の下、自分が今どこにゐるのか分からなくなり(スマホを持つてゐないわたし)、しばらくさまよひ歩いてゐました。


街灯も乏しいところを歩いてゐて、だんだんと、のんきなわたしもなぜだか不安になつて参ります。


そんなとき、「ああ、かうして、若い時から道を歩いて、道に迷ひ、途方に暮れたこともたくさんあつたけれども、必ず、誰かに出会ひ、助けてもらへたなあ・・・」と想ひ起こすのです。


さうして、このたびも、中に明かりがついてゐる消防団の施設の前にやつてきました。


中で、人の声がします。人の声つて、かういふとき、とても暖かく感じるものです。


「すみませーん」とわたしが声を上げてみると、中から屈強な男の人が出てきてくれました。


「すみません、スマホを持つてゐないものですから、駅までの道が分からなくなつてしまひました。ここから、どう行けばいいでせうか」とわたしが尋ねると、その人は「どこから来たの」。


「はい、向かうのイオンからです」。「はあ、そんで、歩いて行くの」「はい」「遠いよ」「はい」「ちょつと待つてて」。

さう言つて、中に入り、仲間の人と話しした後、また出てきてくれて、「この前を流れてる奥入瀬川に沿つて、まーすぐ歩いて行つたら、線路にぶつかるから、そこを左に曲がつて、また、まーすぐ歩いて行けば、着くよ」と教へてくれました。


「ありがたうございます。助かりました」と言ふと、にこつと笑つて、「気をつけてね」と言ひながら見送つてくれました。


青森の南部の訛りのあることばが、何か暖かいものをわたしに贈つてくれるのでした。


スマホがないから、かうして、人に道を訊ける、といふこともあります。


さうして、奥入瀬川沿ひを、誰も人がゐないのをいいことに、大声をあげて、なぜだか笑ひながら、歩いて行きました。







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10/2 第三回 アントロポゾフィーハウス青森三沢



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かうして、ほぼ連日、子どもたちと一緒に、胸の領域を弾ませ、こころを息づかせるべく、詩や物語の朗唱・朗読を通して言語造形をさせてもらつてゐます。(そして、子どもたちが、越中さんと一緒に昼ご飯を作つてくれるのです)


また、大人の方々にも、アントロポゾフィーの学びを根底に置く、言語造形とオイリュトミーの練習をしていただいてゐます。


人生の真ん中、35歳あたりを境にして、こころと精神が、だんだんと、からだを離れゆくといふ法則。


その人生の法則に則らうとするならばこそ、このアントロポゾフィーといふ精神の学びが、値千金の重みをもたらしてくれます。


アントロポゾフィーといふ人間学を基にするからこそ、普段、からだにべつたりと張り付いてゐるこころと精神を、からだから解き放つ言語造形とオイリュトミーに取り組んでいくことができるのです。


人生を生きて行く、その毎日の営みに静かで確かな充実感をもたらすメディテーションの営み。それが、アントロポゾフィーといふ密(ひめ)やかな学びのもたらす恵みです。


そして、からだから、こころと精神を自由に羽ばたかせるレッスン。それが、アントロポゾフィーを礎にする芸術実践です。


わたしたちのアントロポゾフィーハウスといふ精神の社は、このメディテーションと芸術実践といふふたつの柱で、支へられてゐます。


次回の三沢でのアントロポゾフィーハウスの活動は、11月20日(土)9時半から13時まで、青森県三沢市の「中川塾」にて、です。ご関心のおありになる方、どうぞ、お気軽にお越しくださいね。


講師: 
諏訪耕志(言語造形&アントロポゾフィー講義)https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji


越中奉(オイリュトミー)


場所: 青森県三沢市下久保1-4-6
    自由学舎「中川塾」


参加費: ドネーション制


お問ひ合はせ・お申し込み:
佐々木 千晶さん aibaru0809@gmail.com


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9/29 第三回目 アントロポゾフィーハウス青森の集ひ 和歌へのいざなひ



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ことばとは、そもそも、芸術です。


その芸術であるところ、つまり、ことばのことばたるところをひとりひとりの人から引き出す、それがルードルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーから生まれたことばの芸術「言語造形」です。


第三回目のアントロポゾフィーハウス青森のクラスは、言語造形を通して、絵本の読み聞かせと共に、日本の古い歌「和歌」に取り組んでみました。


「萬葉集」の精神史的意味、そしてわが国最初の、書き留められた詩のアンソロジーである「萬葉集」を成立させた大伴家持の悲願。


そのやうなことと共に、わたしたちは、和歌といふ、やまとことばのみを使つた珠玉のことばの芸術作品に全身で取り組んだのです。


青森の方々は、即座に、空間に放たれることばの音韻で描かれるシュプールをこころの眼で追ひ始められます。


ことばによる、その動き、その姿、その色あひ。


それらは、こころを動かします。こころを満たします。そして、こころを安らはせます。


このやうなご時世だからこそ、恐れず、臆せず、こころの灯を消さずに、ことばといふ芸術に取り組む時間を。


今回も、場所を提供して下さつた小林さんにこころから感謝いたします。


そして、幼な子と息遣ひを合はせつつ傍にゐ続けて下さつた越中さん。その幼な子との姿が、お陽さまの光に包まれてゐました。


次回は、場所は、青森市内で、11月16日(火)10時から12時ごろまで(お申込み先着7名様まで)、そのあと、お昼ご飯を一緒に、またご参加者が8名様以上になる場合は、午後1時半から3時半の午後クラスにご参加いただきます。


どうぞ、ことばの芸術「言語造形」をからだ一杯に味はひにお越しになられませんか。お待ちしてゐます。


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9/28 第一回 青い森でのびのび育つ会&アントロポゾフィーハウス合同勉強会



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先日9月28日、青森県柳川にて、「シュタイナー教育からの人間観、そして言語造形とオイリュトミー」と題して、第一回目の会を持つことができました。


青い森でのびのび育つ会は、青森にて学校に通ふことに違和感を感じてゐる子どもたちにどういふ学びの環境を大人が提供して行くことができるかを模索し続けてゐる有志の運動体です。


人と学びの関係を、ルードルフ・シュタイナーの精神の学「アントロポゾフィー」によつて深くから見て取つて行かうといふ、わたしたちアントロポゾフィーハウスとの合同プロジェクトとして、このたび、第一回目のクラスを開くことができたのでした。


学校といふ既存の学びの場ではどうしても違和感を感じてしまひ、学校には通はずに、家庭で時を過ごす子どもたちが、ますます、増えて来てゐます。


しかし、20歳あたりまでの人といふものは、学ぶといふこと、成長するといふことにおいて、きつと、大人からのサポートが欠かせません。子どもだけでは、若者だけでは、みづからを学びによつて成長させていくことはまだできないのです。


学校とは異なる学びと成長の場をどう、わたしたち大人は創つて行くことができるか。


そのことを考へつつ、探りつつ、実現して行きたいと念ひます。


まづもつて、アントロポゾフィーハウスの越中さんが子どもたちと共にオイリュトミーを。そして、わたくし諏訪がことばを音読することを。


これらの芸術的な営みは、子どもたちの息遣ひを解き放つことによつて、胸の領域を健やかに育んでゆくのです。


歯が生へ変はり始めてから思春期にいたるまで(第二・七年期)の子どもたちには、とりわけ、胸の領域を育んであげることが必要であり、それは情の育みへとつながります。


こころを育てること、とりわけ、情を育てることこそが、そのころの子どもたち自身が意識の奥底で心底、求めてゐることなのです。


何はなくとも、わたしたちは、まづ、ことばと動きの芸術を通して、その子どもたちの求めに応へて行きたいと思ひます。


そして、大人が集まり、アントロポゾフィーの視点からの人間学を芸術的に、また講義によつて学びゆきます。


第二回目は11月15日(月)の午後1時から4時頃まで青森市内(場所未定)でいたします。ご関心のおありになる方、どうぞご連絡をお気軽にくださいね。



ーーーーーー


〈スケジュール〉

13:00 開場
13:10 小・中学生への言語造形とオイリュトミー
13:45 大人の言語造形
14:45 大人のアントロポゾフィー勉強会
16:00 終了予定


講師:諏訪耕志(言語造形とアントロポゾフィー)
   越中奉(オイリュトミー)


絵本や文学作品など、声に出して読んでみたいものを ひとつ持参してください。


参加費:
大人の言語造形と勉強会 ドネーション制
子どもへの芸術体験 無料


《問合せ・お申込》
Facebookにてメッセージか、メールにてお願いします。
メール:aoimorinobi@gmail.com


※メールの方は、氏名、携帯電話番号をお知らせください。こちらからの返信が届かないケースがありますので、その時は電話もしくはショートメールにてご連絡いたします。



主宰:青い森でのびのび育つ会 & アントロポゾフィーハウス


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虹の輪



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このたびの東北への言語造形行脚の旅。

行きの飛行機からも、帰りの飛行機からも、雲の上に映る我が飛行機の影の周りを囲む虹の輪。

かういふものは、よく観られるものなのでせうか。

わたしは初めてでした。

まるで、虹と共に東北へ入り、虹と共に東北から帰つて来たやうです。

さう言へば、昨年冬に初めて東北への行脚に出かけ、神戸空港に帰つて来たときも、六甲の山並みに大きな虹が架かつてゐたなあ・・・。



最近、また、『蛇の輪』といふお話を語つたのですが、わたし自身が、今年、そこで語られてゐる「蛇の輪」から出ることができたのではないか、と思つてゐるところなのでした。


ちなみに、「虹」とは、大空に架かる美しく大いなる「蛇」のことを言ひます。漢字もどちらも虫偏で、「虹」はノアの箱舟のエピソードの中でも語られてゐる、ノアと神とのとこしへの契りの徴(しるし)ですね。



posted by koji at 21:39 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年09月26日

色彩との戯れ フォルムの慰め



サムネイルの彫刻は、マイヨール「コウベのディナ」


わたくし諏訪のかなり個人的な感官の働きと感覚について述べさせてもらひました。




「考へる働きを大切に管理すること」https://youtu.be/fn5cj6fA1y8
「動きと静かさ」https://youtu.be/c0ciCS8PY6c
これら二つの動画の続編です。





※これら一連の動画は、みな、シュタイナーの著作『普遍人間学』や『いかにして人が高い世を知るにいたるか』における本筋を踏まえながらも、その本筋とは別に、参加者の方々から発せられることばを講師の諏訪耕志が聴くことから即興的に生まれた話を収録してゐます。



ーーーーーーー

★『普遍人間学』オンラインクラスには、二クラスあります。
金曜夜7時半から9時半のクラス(月二回)
土曜朝10時から12時のクラスです。(月二回)


参加費
体験参加費 一回のみ 3500円
3回連続ご参加 9000円


★『いかにして人が高い世を知るにいたるか』オンラインクラスには、二クラスあります。
いずれも、毎週木曜と日曜の夜に行つてゐます。

木曜夜クラス 午後8時〜9時
日曜夜クラス 午後8時〜9時


参加費
体験参加費 一回のみ 2000円
4回連続ご参加 5000円

御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。  

もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。

ただ、クラスが、読書と共に、とても内密な語らひの場になりますので、録画ご視聴して下さる方のお顔とお声を参加して下さる皆さんに、ご紹介させてもらふことになります。

一度、オンライン上でお顔をお見せくださることが可能でしたら、とてもありがたく思ひます。

お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    

鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.p...  

お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/

どうぞよろしくお願ひいたします。




2021年09月25日

動きと静かさ



サムネイルの絵は、上村松園「序の舞」



「考へる」働きと人のまるごとが、どう結びつきえるのか。


頭、胸、手足。そのやうに三つの主なる部位からなつてゐる人のからだ。


動きと静かさの間にバランスを取りつつ、そのからだを芸術的に用ゐることが、大切なポイントになつて来ます。






この動画は、「考へる働きを大切に管理すること」https://youtu.be/fn5cj6fA1y8 の続編です。
そして、「色彩との戯れ フォルムの慰め」https://youtu.be/RuA6lxRZqic へと続きます。


※これら一連の動画は、みな、シュタイナーの著作『普遍人間学』や『いかにして人が高い世を知るにいたるか』における本筋とは別に、参加者の方々から発せられることばを講師の諏訪耕志が聴くことから即興的に生まれた話を収録してゐます。


ーーーーーーー

★『普遍人間学』オンラインクラスには、二クラスあります。
金曜夜7時半から9時半のクラス(月二回)
土曜朝10時から12時のクラスです。(月二回)

参加費
体験参加費 一回のみ 3500円
3回連続ご参加 9000円


★『いかにして人が高い世を知るにいたるか』オンラインクラスには、二クラスあります。
いずれも、毎週木曜と日曜の夜に行つてゐます。

木曜夜クラス 午後8時〜9時
日曜夜クラス 午後8時〜9時


参加費
体験参加費 一回のみ 2000円
4回連続ご参加 5000円

御自身のご都合でのお休みは、キャンセル無効とさせていただき、録画したものを見ていただくことができます。なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。  

もし、お時間などのご都合がつかない方で、それでもご関心がおありになる方がゐらつしゃいましたら、録画受講といふ形でご参加されることもお勧めいたします。

ただ、クラスが、読書と共に、とても内密な語らひの場になりますので、録画ご視聴して下さる方のお顔とお声を参加して下さる皆さんに、ご紹介させてもらふことになります。

一度、オンライン上でお顔をお見せくださることが可能でしたら、とてもありがたく思ひます。

お振り込み  

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041 スワ チハル  

// 他銀行から // 店名 〇ニ八(ゼロニハチ) 普通 2888904    

お申し込み、お振り込みいただいた方に、オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。    

鈴木一博氏訳の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』を用います。本をお求めの際は、こちらでどうぞ。
「精巧堂出版」https://www.seikodo-store.com/show1.p...  

お申し込み・お問ひ合はせ   「ことばの家 諏訪」 https://kotobanoie.net/access/

どうぞよろしくお願ひいたします。


2021年09月24日

こころを決めること 〜言語造形「蛇の輪」〜






生きてゐると、本当に色々なことがありますね。


鬱屈を溜めてしまふことも、くたびれてしまふことも、こころが引き裂かれるやうなことも、ありますね。


だけれども、人は、必ず、立ち直るのです。


それは、どの人の内側にもある意地といふものによつてかもしれません。


その意地は、無分別に暴力的、自己中心的に発揮されることもあるでせう。いまは我が国の根元を支へてをられる神、タケハヤスサノヲノミコトのかつてのありやうのやうに。


しかし、そのやうな幼いかたちで発露して行くことを通してこそ、やがては、その意地は本物の「勇気」へとなり変はる。


そして、それが、どの人のこころの内にもある「意欲」「意志」の力です。


剣(つるぎ)として、我が国の神話でも、ミカエルといふ大天使のお話でも、語られてゐます。


この「蛇の輪」といふお話の中の「男の子」と「蛇」は、わたしの内なる「男の子」であり、内なる「蛇」であります。


みづからの剣で、みづからを不自由に囲ひ込んでゐる内なるものに、一撃をくはへる。


その意地、意志、意欲、勇気、決断、こころを決めること。


その上昇して行く内なる力は、どこから来るのでせう・・・。


昨日、和歌山で語らせてもらひました「蛇の輪」です。よろしければ、どうぞ、お聴きください。


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ミンヌ『聖遺物箱を担ぐ少年』



2021年09月23日

頭から始まる




ヨハネス・フェルメール「天秤を持つ女」


朝夕の虫の音に包まれてゐますと、なぜかこころも澄み、意識が目覚めて来てゐる気づかされます。


秋の訪れは、考へる力による意識の目覚めを促してくれるのですね。


それは、まづ、自分にとつて、何がたいせつなことで、何がたいせつなことでないかが、明らかになることでもあります。


頭における意識の視界が澄んでくる。わたしにとつてこのことほどありがたいことはありません。


この明らかさが、わたしを行くべき場所に導いてくれます。そして、毎日なすべきことをこつこつとして行く力をわたしに与へてくれます。


季節の巡りとこころの巡りが重なることの健やかさよ!


心臓と手足への道は、頭から始まる。そんな季節の到来です。



2021年09月22日

こころのこよみ(第25週) 〜仕事の季節〜



ルオー「受難」



わたしはいま、わたしを取り戻し、
 
そして輝きつつ、内なる光を拡げゆく、
 
場と時の闇の中へと。
 
眠りへと自然がせきたてられるとき、
 
こころの深みよ、目覚めよ、
 
そして目覚めつつ、陽の熱を担ひゆけ、
 
寒い冬のさなかへと。
   
 
Ich darf nun mir gehören        
Und leuchtend breiten Innenlicht     
In Raumes- und in Zeitenfinsternis.   
Zum Schlafe drangt naturlich Wesen,   
Der Seele Tiefen sollen wachen      
Und wachend tragen Sonnengluten     
In kalte Winterfluten.   
 
   
 
陽の光と熱を浴びながら歩き回る夏の彷徨が終はつて、静かに立ち止まり、内なるこころの光と熱を生きていく秋が始まつてゐる。
 

内なるこころの光と熱によつて、こころが目覚めゆくといふこと。


「わたしがわたしである」ことに目覚めゆくといふこと。
 

そして、こころが生きる情熱を感じ始めるといふこと。
 

これほど、頼りになるものがあるだらうか。
 

かうして、わたしたちは、秋から冬にかけて、たとへ外の世が生命力を失つて行き、枯れて行つても、内なるこころは、きつと、「ひとりのわたし」として、活き活きと目覚めゆくことができる。
 

夏にいただいた陽の光と熱の大いなる働きを、内なるこころの光と熱としてゆく。
 

そして、来たる冬の寒さのさなかへと意欲的にそのこころの光と熱を注ぎ込んでゆくことができる。
 

光と熱。
 

それはいまやわたしのこころの内から発しようとしてゐる。
 

そしてこれからやつてくる冬の闇と寒さとのコントラストを際立たせようとしてゐる。
 

陽の光と熱と共にあの夏をからだ一杯で生きたからこそ、この秋があるのだ。そして、この秋が、冬へと引き続いていく。
 

そのやうな季節のつながり、くりなし、なりかはりをていねいに、確かに、感じること。それが、内なるこころのつながり、くりなし、なりかはりをも自覚することへと繋がつていく。
 

四季を生きること、一年のいのちを生きることが、みづからを知ることへとわたしを導く。
 

この『こころのこよみ』に沿ひつつ、四季それぞれに息づいてゐる「ことば」を聴く。
 

ならば、それらの「ことば」が、生命ある連続としてこころにしづしづと流れてくる。
 

夏、外なる光と熱の中にわたしは溶け込み、ある意味、わたしはわたしを見失つてゐた。
 

秋、わたしはわたしを取り戻し、萌してゐた希みが羽を拡げようとしてゐる。
 

さあ、これからが、稔りの季節、粛々とした仕事の季節だ。
  
 
  
わたしはいま、わたしを取り戻し、
そして輝きつつ、内なる光を拡げゆく、
場と時の闇の中へと。
眠りへと自然がせきたてられるとき、
こころの深みよ、目覚めよ、
そして目覚めつつ、陽の熱を担ひゆけ、
寒い冬のさなかへと。



posted by koji at 17:38 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

よくみる人、よく考へる人






最近、解剖学者の養老孟司さんが話してをられる動画を観まして、年老いた人が、このやうに、当たり前でありながら本質を見抜いた高い見識をまつすぐにことばにして下さることのありがたさをひしひしと感じたのでした。

そして、こんなことを思つたのです。


人と人との集まりの中で、いはゆる人間関係における世代間での断絶といふやうなものがありますね。


もしかしたら、いまは、その集まりそのものが成り立つてゐないのかもしれませんが・・・。


いまから100年前、20世紀初頭、理想を求めてルードルフ・シュタイナーのもとに集まつた人たちの中でも、その世代間の断絶といふものから生まれる情のせめぎ合ひが激しくきしんださうです。


当のシュタイナーは、若い世代には「もつと謙虚になつて、これまでに古い世代が積み重ねてきたものを敬ひつつ認めることを学んではどうか」と問ひかけ、古い世代には「変に若ぶらずに、しつかりと精神において老いるやうに、こころにおいて熟するやうに」と諭しました。


しかし、おほもとの問題は、激変しようとしてゐる時代の精神そのものの中で、古いものにしがみついてゐる古い世代と、新しく生まれ変はらうとしてゐるものを先取りしてゐる若い世代との間の葛藤であることを、シュタイナーは勿論見抜いてをりました。


さらに、より根源的なことは、よくみて、よく考へてゐる人たちと、よくみず、よく考へてゐない人たちとが、いつの代にも存在してゐて、争ひは、よくみず、よく考へない人たち同士の間で起こつてゐるといふことです。


よくみず、よく考へない古い世代と、よくみず、よく考へない若い世代とがぶつかり合つてゐたといふことではないか、とわたしは思ふのです。


つまり、シュタイナ―のもとに集まるアントロポゾーフの人たちの例で言ふならば、ぶつかり合つてゐる人たちは、まこと、いま、何が本質的に大切なことで、何が非本質的なことであるかをみづからで、よくみず、よく考へてゐない。


本質的なところとさうでないところを見分ける、その力は、ひとり、まぎれなく考へることからしか生まれない。


そのためのひとつの学びの手口として、シュタイナーの「ことば」を、みづから、よくみること、そしてよく考へることがあるわけですが、皆、シュタイナーから発された「ことば」を、分かつたつもりになつてゐるだけで、みづからで、よくみてゐない、よく聴いてゐない、よく読んでゐない、よく考へてゐない。(特に次の二冊の書。『自由を考える(自由の哲学)』と『いかにして人が高い世を知るにいたるか』)


自分の立場や、自分にとつてこれまでのお決まりの思ひ方、感じ方、考へ方にしがみついたまま、そこからものを言ふことによつて、わたしたちは、万人が万人の敵となる、あの黙示録に予言されてゐるあり方へと突き進んでゐるのでせう。


本当に、2021年を生きてゐるわたしこそが、自戒するところです。


賢者のことばを一言一句厳格に捉えることをもつて、それで足れりとしてゐる老人も、自由にものを言ふことこそが人であることの証だと思ひ込んでゐる若者も、みづからを律すること、みづからを研ぐこと、みづからを磨くことによつてのみ、「ことば」は人と人とを繋ぐ自由な何かになりうる、といふことを学ぶ必要があるやうです。


世代間の断絶などといふものは、幻である。さう思ひます。

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2021年09月20日

終はりは始まりの時




「やさしい世界の終はり方(石村利勝作)」
「交響曲/新世界より第2章(A.ドヴォルザーク作曲)」


先日、上梓された石村利勝氏の『詩集ソナタ/ソナチネ』から受ける深い感銘について駄文を弄させてもらひましたが、それに引き続き、昨年の冬、青森にて上演しました言語造形公演から石村氏の詩「やさしい世界の終はり方」の朗唱をお聴きいただきたく、ここに再度挙げさせていただきます。


熱心に聴いて下さるお客様の前でなされたこの作品。


ピアノの山本恵美さんのとても印象深いドヴォルザークと共に、わたし自身、この作品の優しげな表情の奥底にある何かに少しだけ触れ得た、記憶に残るひとときでした。


ひとつの音韻から拡がる詩の精神。それは、この作品を詠ふたびごとに、新しく生まれ変はります。


この詩の作者・石村利勝氏は、この詩に以下のやうに註記してをられてゐます。https://note.com/ishimuratoshi58/n/n3838036004b6


「これは、前に世界が終はつた時のことを思ひ出してかいたものです。なつかしい思ひ出です。」


昨年の2020年、令和2年といふ年は、わたしにとつては、この「やさしい世界の終はり方」といふ詩と共に生きた一年でありました。


今年2021年もあと三か月ちょつとになりますが、一層激しい外の世の動きの中にあつて、この詩の精神が世に語らうとしてゐる何かを聴き取らうとしてゐる毎日です。


ある世の終はりをすでに遥かな過去に体験した精神が、いま、また、予言的な響きを奏でてゐます。


青森公演の最後の演目がこの作品だつたのですが、終演後、中学生の女の子がわたしに駆け寄つて来て、この詩に対する深い感動を様々なことばでわたしに伝へてくれました。


わたしは、かけがへのない、ひとりの聴き手に恵まれたことの仕合はせにこころから感謝しました。


さう、何かが終はればこそ、何かが新しく始まる。


そのことを信じて、毎日を生きてゐます。




            「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志 




※同日の公演から『小さな村で見た(石村利勝作)』

「無言歌 no,3(G.フォーレ作曲)」
「小さな村で見た(石村利勝作)」
「Old Plantation(W.ギロック作曲)」


2021年09月19日

時間どろぼうと言語造形



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以下の文章は、8年前に二人の娘たちとの家庭読書会のことを書いたものです。

いま、中学生一年生となつてゐる次女と、ふたりで『源氏物語』を毎日、読み継いでゐます。



♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾ ♾


小学二年生の長女に、まだ少し早いかもしれないのだけれども、ミヒャエル・エンデの『モモ』の読み聞かせをここのところずつとしてゐます。


5歳の次女も、分かつてても分かつてなくても、ぢつと耳を澄まして聴いてゐる。


今日は、前半のクライマックスと言つてもいい、「時間どろぼう」の章に差し掛かつてきた。


「時間どろぼう」の語りかけることばにこころを奪はれてしまつた人は、いかに時間を節約して、いかに無駄を省き、いかに計算通りに効率的に生きていくかに血道を上げていくことになる。


その生き方、そのこころのあり方が、他の誰でもない、まさに俺のことではないか!


「時間が足りない」「お金が足りない」「・・・が足りない」「足りない」「足りない」・・・。


そんな、思考にもならない深い感情のところで何かに急かされるやうに意識が焦つてゐる。


そして、どれほど子どもの前で「早くしなさい!」「ぐずぐずするなつ!」といふことばを連発してゐることだらう。


自分自身のあり方が戯画として描かれてゐるのを観て、『モモ』を読むそのたびごとに、こころが治癒されるのです。


「時間どろぼう」に取りつかれてゐた自分自身をこの読書が治癒するのです。


この本を読むことで、お父さん自身の呼吸がだんだんゆつくりとなり、表情も豊かに優しくなつてくるのを、子どもたちも感じるのでせう。


「お父さんやお母さんが『早くしなさい!』なんて言ふ時、時間どろぼうがお父さんやお母さんの背中に張り付いてるねん」なんてことをわたしが話しても、娘たちはにこにこして、親のそんなあり方を懐深く広く受け止めてくれる。


次女がこんなことを今日言つたので大笑ひしました。


「生まれてくる前に、神さまにお願ひしてん。時間どろぼうさんが一杯ゐるところぢやなくて、言語造形さんが一杯ゐるところに生まれますやうにつて。そやからお父さんも言語造形さんになつてん」


さうや、さうや、言語造形をするから、普段よりもずつと息を深くして間(ま)をもつてことばを話すことができるな。言語造形さんは、時間どろぼうさんを追ひ払ふんや。


そんなことを娘たちと話して笑ひながら、本当に言語造形さんがある意味をいつもよりも深く感じたのでした。




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2021年09月18日

精神の教科書 詩集ソナタ/ソナチネ



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石村利勝氏の第一詩集が出版されました。


これほど出版を待つた本は、これまでになかつたことでした。


春、夏、秋、冬、四季の巡りに添つて「詞(ことば)」が綴られ、最後に「SONATINE」と題された一連の恋愛詩で構成された、一冊の詩集です。


いにしへにおいては、本を読むといふことが、晴れやかな日の晴れのことであつたこと。


第一頁を開き、まづはそのやうなことを想ひ起こしてしまふ、懐かしくも不思議な手触りを感じたのでした。


この混乱した世情のさなか、しかし、季節は確かに秋へと移りゆく、このとき、わたしは、この詩集の【秋の詞】ばかりを、手元に届いてからのこの三日間、ずつと、夜更けに訓み続けてゐます。


さうして訓むことで、こころの深みからなにがしかが引き出されて来るのをゆつくりと覚えるのです。


その覚えは、こころにありありと感覚されるそれでありつつも、しかし、ことばにできない、風の色のやうな、立ち上がり、舞い上がり、吹きすぎてゆくやうなおぼろな絵姿なのです。


それら様々な絵姿・イマジネーションは、我が胸の奥を突くやうにわたしに働きかけて来、情を揺さぶり、震はせます。


さらには、我がこころから引き出されて来る、これらの力が、創造的、生産的な力であることも、いま、予感されてゐます。


まだ、秋の詞にしか接してゐないのですが、これらの作品が、この世の次元を超える遥かな過去をどこかわたしには感じさせるのにも関はらず、確かなリアリティーと共に、すべてがまことの人間性を湛へてゐると直感されるがゆゑに、この一冊は創造性と生産性をわたしに促す精神の教科書になつてゆく、そんな予感なのです。


この詩集には、著者が21歳(1990年)から27歳(1996年)までに書き記した最初期の作品が選ばれてゐます。


青年のこころと精神が織りなしたこれらの作品に、56歳の自分がこのやうに胸を衝かれるのは、どういふことなのだらうと、考へて続けてもゐるのです。


ひとりの人の、こころからの敬ひが注ぎ込まれた、日本の文学。


そして、著者の友であり、文芸評論家である小川榮太郎氏の真実の献身により、根底で支へられた日本の文学。


まづは、そのやうに、感じてゐます。



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目覚めよ



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甲山(かぶとやま)が後ろに控えるわたしが卒業した関西学院大学



十代の若い人たちに、学ぶ喜びを呼び覚ましてもらふこと。

それが、アントロポゾフィーハウスの仕事のひとつとして、どうしても来年から始めたいことであります。

わたし自身の十代後半の想ひ出として、お恥ずかしいことながらいまだ夢見心地の意識でありましたが、ひたすらに大学といふところへの期待がありました。

はつきりと意識されてはゐなかつたのですが、わたしには、学ぶといふことへの強い強い憧れがありました。それは、すなはち、「人といふもの」を知ることへの強い憧れでした。

だからこそ、人を求めてゐました。

客観的な科学などではなく、学問に、芸術に、仕事に、精魂込めて生きてゐる「人」を求めてゐました。

客観的な、冷たいものではなく、こころからの暖かさに触れたかつたのです。

しかし、大学で、人を見いだすことはできませんでした。

そこには、教室がありました。図書館がありました。研究所もありました。事務所もありました。しかし、「人」はゐませんでした。

別のたとへになりますが、子どもも、若者も、自分たちだけでは、いくら大自然のもとにゐようとも、その自然から何も学ぶことはできません。自然について生きた語りをする大人が、どうしても要るのです。

同じく、文化の営みに入つて行きたい若者も、その文化の営みを生きてゐる大人がそばにゐる必要があるのです。

そして、さらに大切なことは、学び手である若者に、「うやまひ」と「へりくだり」の情が内に育まれてゐてこそ、初めて彼は「人」に出会ふことができるといふことです。

客観的な科学を第一の主要課題とする現代の教育機関では誰も教へてくれないことです。

そのやうな客観的な科学に押しのけられて、ほんものの智慧(この「智」といふ漢字は、「とも」とも読みます)は泣いてゐる。おほよそ100年前、そんなことをルードルフ・シュタイナーは語つてゐます。

「わたしの名は、客観的な科学の前では名のることを許されてゐない。わたしは、フィロソフィー、ソフィア、智慧である。わたしは、愛といふ恥ずべき名と、その名によつて含まれてゐるものを持つてゐる。そして、それは、人のこころの奥深くの愛と関はりがある。わたしは、人前には出られない。どうしても顔を伏せて歩いてしまふ。「客観的な科学」は、「フィロ(愛)」を含まないことを誇りにしてゐる。さうして、そもそもの「ソフィア(智)」を失つてゐる。しかし、それでも、わたしは歩んで行く。そもそも、わたしは、なほ、人であることの気高い情を内に担つてゐる」(1922年10月4日 シュテュットガルト 「青年のための教育講座」から)

若い人たちは、まどろんでゐます。しかし、そのまどろみをみづから引き裂いて、目覚めたいと切に求めてゐます。

しかし、その求めに応へるには、わたしたち大人こそが、まどろみをみづから切り裂き、目覚めなければなりません。

フィロソフィー(愛智)に出会ふこと。

フィロソフィー(愛智)を生きる人に出会ふこと。

そのやうな仕事を始めて行く必要が、あります。

目覚めよ、わたし。



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「比べる」から「敬ふ」へ






学びといふ学びのはじめもはじめに、この「うやまふ」といふこころもちをわたしたちは持つことができるでせうか・・・。


「すべてを試し、選び、そして、最善を取れ」。


このやうなスローガンのもと、わたしたちは、極めて便利で快適な生活を享受してゐます。


しかし、そのために払はなければならなかつた代償を、わたしたちは払ひ続けてゐます。


これから、わたしたちは、このやうな精神の借金状態を続けていくのでせうか。


それとも・・・。

2021年09月17日

こころのこよみ(第24週) 〜生産的であるもののみがまことである〜






みづからを絶えず創り上げつつ、
 
こころは己れのありやうに気づく。
 
世の精神、それは勤しみ続ける。
 
みづからを知ることにおいて新しく甦り、
 
そしてこころの闇から汲み上げる、
 
己れであることの意欲の稔りを。
 
 
 
Sich selbst erschaffend stets,         
Wird Seelensein sich selbst gewahr;      
Der Weltengeist, er strebet fort        
In Selbsterkenntnis neu belebt        
Und schafft aus Seelenfinsternis       
Des Selbstsinns Willensfrucht.     
 
 
 
創る人は幸ひだ。生み出す人は幸ひだ。育てる人は幸ひだ。
 

金と引き換へにものを買ひ続け、サービスを消費し続ける現代人特有の生活のありやうから、一歩でも踏み出せたら、その人は幸ひだ。
 

その一歩は、料理を作ることや、手紙や日記を書いてみることや、花に水をやることや、ゴミを拾ふことや、そんなほんの小さな行ひからでもいいかもしれない。
 

この手と脚を動かし、世と触れ合ふ。
 

そのやうな行為によつてこそ、みづからを創り上げることができ、その行為からこそ、こころは己れのありやうに気づく。
 

そして、「世の精神」。
 

それは、一刻も休まず、勤しみ、生み出してゐるからこそ、「世の精神」であり、だからこそ、太陽や月は周期を持ち、四季は巡る。
 

「世の精神」はそのやうにして絶えず勤しみながら、人に働きかけ、また人からの働きかけを受けて、絶えず己れを知りゆかうとしてゐる。
 

「世の精神」みづからが、人との交流を通して、己れを知らうとしてゐる。「世の精神」は、人の働きを待つてゐる。


そして更に「世の精神」は、人といふものにみづからを捧げようとし、人といふものから愛を受け取ることを通して、より確かに己れといふものを知りゆき、己れを知れば知るほど、そのつど新たに新たに「世の精神」は甦る。
 

同じく、わたしたち人は、そんな「世の精神」に倣ひつつ、地球上のものといふものに働きかけ、ものを愛し、ものに通じていくことをもつて、みづからを新たに新たに知りつつ、たとへ、肉体は年老いても、そのつどそのつどこころは甦り、精神的に若返ることができる。
 

「世の精神」には、人が必要であり、人には「世の精神」が必要なのだ。


我が国、江戸時代中期を生きた稀代の国学者、本居宣長(1730-1801)も、そして、ゲーテ(1749-1832)といふ人も、その「世の精神」に倣ひ続け、「ものにゆく道」を歩き通した人であり、両人の残された仕事の跡を顧みれば、晩年に至るまでのその若々しい生産力・創造力に驚かされる。
 

シュタイナーは、そのゲーテのありかたをかう言ひ当ててゐる。
 
 

ーーーーー
 

ゲーテは、ひとたび、こんな意味深いことばを語りました。
 
「生産的であるもののみが、まことである」
 
それは、かういふことです。
 
人は、きつと、みづからを、まことの有するところとなします。
 
そして、まことは働きかけます。
 
そして、人が生きて歩むとき、まことは、まことであることの証を、生産的であることを通して見いだします。
 
これが、彼にとつて、まことの試金石でした。
 
すなはち、生産的であるもののみが、まことです。
 
(1908年10月22日 於ベルリン 講演「ゲーテの密やかなしるし」より)
  

ーーーーー
 
 
 
秋には、「己れの力」が「意欲の稔り」として発露してくる。
 

創ること、生み出すこと、育てることなどの行為は、わたしたち人にこころの確かさ、安らかさ、活発さを取り戻させてくれる。
 

そして、行為し、ものと交はり、人と交はる時に、各々人は初めて、己れのこころの闇に直面する。壁に突き当たる。
 

しかしながら、その己れの闇を認め、赦すことからこそ、「わたしはある」「わたしはわたしである」といふ、こころの真ん中の礎である情に目覚め、己れであることの意欲の稔りを、汲み上げていく。
 

「ものにゆくこと」「生産的・創造的であること」、それがまことへの道だ。
 
 
 
 
みづからを絶えず創り上げつつ、
こころは己れのありやうに気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みづからを知ることにおいて新しく甦り、
そしてこころの闇から汲み上げる、
己れであることの意欲の稔りを。


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2021年09月16日

我が内に潜む愛



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青森県平館の海



ああ、わたしたちは、なぜ、星の世からこの世へやつて来たのでせう。


その意味は、きつと、分からない、分かり切れないのでせう。


でも、わたしがこの世にかうしてやつて来たことは確かです。


そこに意味を見いだすことができるとしたら、それは、わたしがそのことを問ひ続けるからこそでせう。


この世にどんなことが起こり、どんな風に繰りなして行かうと、わたしがこの世に降りて来たことには意味がある。


その意味を探る、この人生です。


その意味は、外の世にはなく、ひたすら、我が内の世にあります、きつと。


我が内の世にどのやうなものが秘められてゐるか。楽しみだなあ。



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2021年09月15日

アントロポゾフィアの希ひ



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青森県平舘の海



様々な学びや体験を提供する機会がわたしたち現代人には用意されてゐます。その内のひとつとして、アントロポゾフィーがあります。では、そのアントロポゾフィーが他の学びや体験と異なるところとは何でせう。


それは、こころの内に精神を求める人に応へようとしてゐることです。その精神とは、単なる考へや情報や気持ちよさやワクワクをもたらすものではなく、生理的、心理的な次元を含みつつ、精神的な次元における「いのち」を人にもたらすものです。


精神から流れ出づる「いのち」とは、人を浮かれさせたり、単なる感情的な熱狂にいざなつたりしません。


精神は、静かで、落ち着いた安らぎのうちに、確かで明瞭な内容のあることばを語ります。アントロポゾフィーとは、その精神のいのちを人々にもたらさうとする「ことば」なのです。ですので、「ことば」とは、いま、人の意識を映し出すものなのです。


アントロポゾフィーといふ精神(アントロポゾフィア)は、そもそも、「はじめにありしことば」が、いま、人の内なるものを響かせ得る「ことば」、人の高い意識を響かせ得る「ことば」として、世に発されることを求めてゐます。


わたしたちアントロポゾフィーハウスは、このアントロポゾフィアが求めてゐることを明確に意識して仕事をしていきたいと希つてゐます。それは、わたしたち日本の民が、母国語である日本語をもつて、明確に、心臓の脈打つ暖かさから、精神の「ことば」、精神のいのち溢れる「ことば」を語り出すことへと、人の教育を創つてゆくことです。国語教育を基にする人の教育です。幼な子から人生の終はりに近づいてゐる人たちまで、「ことば」を愛しみ、育て、後世の人たちに、まことの、善き、美しい生き方を伝へてゆけるやうな国語の力を養ふことです。


この世で、「ことば」を授かつてゐるのは、人のみです。人であることの証として、その「ことば」をみづからどう育ててゆくか。


アントロポゾフィーの学び手としては、まづもつて、ルードルフ・シュタイナーのことばをどう日本語で、どうみづからのことばで語るか。そこには、尽きせぬ精神からのいのちが泉のやうに沸き上がつてくるがゆゑに、学びには、こと欠きません。


共に、アントロポゾフィーの文献を熱心に読み込んで行きませう。基本文献から始まり、貪欲に、数多ある講演録を読み込んでいきませう。そして、共に、そこから、わたしたちに何ができるかを、語り合つてゆきませう。


さらには、ことばを表現する術を身をもつて学んでいきませう。小手先ではなく、全身全霊で知を、叡智を、語りゆきませう。さうして、わたしたちから、まづ、美しさを体現していきませう。他人ではなく、まづ、〈わたし〉から、です。


オンラインでも何でも、人は人と会ひ、ことばを交はし合はねばなりません。アントロポゾフィーにおいては、そのやうな人の集ひが欠かせません。わたくし諏訪は、アントロポゾフィーが真摯に語られる場を創るために、どこへでも足を運ばせていただきます。


わたしが足を運ぶすべてのところで、出会ふおひとりおひとりとそのやうな場を創りなしてゆきます。アントロポゾフィーを語り、アントロポゾフィーを生きる場を、です。


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2021年09月14日

おひさまの丘 宮城シュタイナー学園との共同作業



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10月より仙台のおひさまの丘 宮城シュタイナー学園とアントロポゾフィーハウスとの協働の仕事が始まります。


まづは、午後の一枠の時間を取つてもらつて、第二・七年期の子どもたちへの「音読指導」といふ名の言語造形😉


ことばを活き活きと声に出すこと。それは、からだまるごとをもつてする芸術的な営みなのです。


歯が生へ変はり始めてから性の成熟期に至るまでの子どもたちにとつて、胸をときめかせながら、心臓と肺を目一杯使ひながら、ことばを発声することの意味深さ。


一年生、二年生、四年生、六年生、それぞれ、どんな声を響かせてくれるだらう・・・。今から楽しみで仕方ありません。


そして、授業が終はつた午後のひととき、学園の教師の方々、理事の方々、親御さんたち、外部の方々に集まつていただき、言語造形を楽しんでいただきます。


その時間は、和歌やその他の文学作品、ことばの藝術作品を通して始まる、互ひの息遣ひの交流。


ことばといふものは、その人の声を通して、その人そのものを語り、その人の崇高なところをも語り、それゆゑに、人のこころとこころを繋ぐ精神そのものなのです。


言語造形によつて、声を出すその人がどんどん変はりゆく、その姿は、本当にどの人もどの人も美しく、「人とは、そもそも、ことばであつたのだ(はじめにことばありき)」といふことを想ひ起こすのです。


なぜ、言語造形は、そのやうな働きをするのでせう。


それは、アントロポゾフィーといふ精神の学から汲まれてゐる藝術だからです。


わたしたちは、今といふ、この混迷の時期だからこそ、100年前にルードルフ・シュタイナーによつて発せられたアントロポゾフィーの有効性と必要性を強く感じてゐます。


この秋から始まる、宮城シュタイナー学園とアントロポゾフィーハウスの共同作業は、この日本の地、東北の地に、アントロポゾフィーを日本語で日本の文化の文脈において根付かせて行かうではないか、といふ運動の始まりでもあるのです。


わたし自身も、現場の経験をたんと重ねて来られた宮城シュタイナー学園の皆さんから、できうる限り深く大きく学んで行きたいと思ひます。


未来を生き、未来を創つてゆく子どもたち、若者たちのために、アントロポゾフィーは何かをすることができるはずです。


東北地方の方々、仙台の方々、どうぞ、よろしくお願ひ申し上げます。


アントロポゾフィーハウス 諏訪耕志拝





日時: @10月7日(木) 14:30〜16:00
A11月25日(木) 同上
B12月23日(木) 同上
   C 1月27日(木) 同上


場所: おひさまの丘宮城シュタイナー学園
  第一校舎(仙台市青葉区中山2-22-18)


参加費: 3,500円/1回 (4回連続参加の方は4回で12,000円です)


持ち物など: 動きやすい服装でお越しください。ご自身で声に出して読みたい和歌を1〜2首ご用意ください。2回目以降のテーマは後ほどお知らせいたします。


なお、コロナウイルス対策としてのマスク着用は、ご参加される方の全くの自由意志にお任せします。着けたい方は着け、着けたくない方はどうぞそのままでご参加下さい。


お問い合わせ、お申し込み
電話:022-725-5086
Eメール: info@ohisamanooka-steiner.or.jp
お名前、ご住所、お電話番号をお知らせください。




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言語造形「雨ニモマケズ」(宮沢賢治作)






いつの日か、この作品を、と思ひ続けてゐました。


あまりにも人口に膾炙した作品であるだけに、自分勝手に躊躇して、取り組むまでに時間を要してしまひました。


賢治の複雑な思ひを、このノートに鉛筆で書き殴られた作品の表情を、表すことができただらうか・・・。


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こころのこよみ(第23週) 〜霧のとばり〜






秋めいて和らぐ、

感官へのそそり。

光の顕れに混じる、

ぼんやりとした霧のとばり。

わたしは観る、場の拡がりに、

秋、そして冬の眠り。

夏はわたしに、

みづからを捧げてくれた。



Es dampfet herbstlich sich            
Der Sinne Reizesstreben;            
In Lichtesoffenbarung mischen          
Der Nebel dumpfe Schleier sich.         
Ich selber schau in Raumesweiten         
Des Herbstes Winterschlaf.           
Der Sommer hat an mich            
Sich selber hingegeben.       



ゆつくりと和らいでくる陽の光。

 
それとともに、感官へのそそりも和らいでくる。


そして、秋が日一日と深まりゆくにつれて、過ぎ去つた夏と、これからやつてくる冬とのあひだに、立ちかかるかのやうな、霧のとばり、「秋霧」。


その「とばり」によつて、戸の向かう側とこちら側にわたしたちは改めてこころを向けることができる。


戸の向かう側において、過ぎ去つた夏における世の大いなる働きの残照をわたしたちは憶ひ起こす。


夏における外なる世の輝き。


そして夏における内なるこころの闇。


その外と内のありやうを憶ひ起こす。


そして、戸のこちら側において、だんだんと深まつてくる秋における生命の衰へと、来たるべき冬における生命の死とを、わたしたちは予感する。


これからの冬における外なる世の闇。


そしてクリスマスに向かふ内なるこころの輝き。


その外と内のありやうを予感する。
夏を憶ひ起こすことと、冬を予感すること。


こころのアクティブな働きをもつて、その間に、わたしたちは、いま、立つことができる。


さうすることで、きつと、こころが和らげられ、静かでありながらも、意欲を滾らせてゆくことができる。



 
秋めいて、和らぐ、
感官へのそそり。
光の顕れに混じる、
ぼんやりとした霧のとばり。
わたしは観る、場の拡がりに、
秋、そして冬の眠り。
夏はわたしに、
みづからを捧げてくれた。




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これからの28年



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この人の世を健やかに生きて行くこと。


「あなたが生きて行く上での目標は」などと、たとへば、街頭アンケートで問はれたら、わたしは、たぶん、そのやうな答へをすると思ひます。


しかし、健やかに生きて行くこと、それは、並大抵のことではありませんよね。


人生の複雑怪奇さに通暁して行くためには、何かが必要だと感じます。


そして、探します。


そして、前の人生からのご縁で、その何かに出会ひます。


様々なものと人に出会ふことができましたが、わたしにとつて決定的だつたのは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーとの出会ひでした。28歳の時でした。


そして、いま、56歳です。


この28年間、わたしは、アントロポゾフィーといふ海の中に飛び込み、泳ぎ続けて来ました。


その海は、ルドルフ・シュタイナーといふひとりの人の「行ひ」と「ことば」と「考へ」から、生きて織りなされてゐます。


そして、すぐに気づかされることなのですが、それらの織りなしは、個人性を超えて、深く、深く、世と人類の始原、天地の初発(あめつちのはじめ)に届くものでした。


とにもかくにも、わたしは、その海を泳ぎ続けて来たのです。


そのやうな海の深さがあるのにも関わらず、わたしは水面近くをアップアップしながらの格好のよくない泳ぎ方でしたが、それでも、泳ぎ続けては来ました。


そして、56歳のいま、もし許されるなら、かすかすながらもこの海を泳いできた力をもつて、のちの人とのちの世に少しでも資する仕事をさせてもらひたい。


世と人が健やかになりうるやうな、アントロポゾフィーからの仕事をさせてもらひたい。


さう、こころに決めてゐます。


何ができるのか、本当に未知ではあります。しかし、これまでにして来たことの先に道は長く果てしなく延びてゐます。


アントロポゾフィーといふ精神の学の根源と言つてもいい、「ことばの教育・ことばの芸術」を礎(いしづえ)にした「子どもたちの教育、若者たちの教育、人の教育」を織りなす社(やしろ)造り。


それが、全く新しく、友と力を合はせながら織りなして行きたい仕事です。


たくさんの方々に教へを乞ひながら、これまで海を泳いで来た自身の力を注ぎ込みつつ、友と協力し合つて、やつて行きたい。


これからの28年をもつてです(😆)!



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2021年09月13日

人を働きものにするアントロポゾフィー






『普遍人間学』といふタイトルのこの本には、副題がついてゐて、「教育の基として」とあります。


その副題ゆゑに、シュタイナー教育に関心をもつ多くの人が、この本を手に取り、そしてそのシュタイナーの述べ方の難解さのゆゑに、多くの人が読むことを途中でやめてしまひます。


この本に限らず、シュタイナーの著述・陳述は難解さに満ちてゐる、そんな印象をどうしても抱いてしまひます。


なぜでせう。


なぜ、シュタイナーは、そのやうなことばの使ひ方をしたのでせう。


そこには、とても大切な意味が秘められてゐます。




2021年09月10日

この世に生まれてきた意味に対する予感



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今日、中学校を休んでゐる(やめた?)次女と、ゆつくりと話をすることができました。


多くの同級生たちが、本当に自分が考へてゐることや感じてゐることを表現せず、彼ら、彼女らは、友だちに嫌はれず、先生や親に怒られないやうなキャラクター設定を自分でしてゐて、そのいくつかのキャラクターを上手にその都度その都度出してゐるだけだ、と。


だから、ずつと仲良くはやつて来たけれども、多くの同級生たちの喜びが、お腹の底から全く共有できない、と。


学校の先生方も皆一生懸命やつてをられるのだけれど、その授業にこころを動かされたことがない、と。


中学一年生の一学期まで学校に通ひ続けてゐたが、本当に辛かつた、と。


上辺の喜びでなく、こころの底からの喜びが学校ではひとつもなかつた、と。


次女が言はうとしてゐる「喜び」とは、きつと、この世に生まれてきた意味に触れる時に訪れる喜びなのですね。


誰かに褒められたり、好かれたりすることで得られるものとは、違ふやうです。


この世に生まれてきた意味に対する予感。


さう、わたし自身も、その予感に従つて、ここまで生きて来たやうに思ふ。


取り繕ふことなく、誤魔化すことなく、そして、焦ることなく、その意味を予感しながら、道を歩いて来たし、これからも歩いてゆく。


そんなわたしのことも話し、彼女もたつぷり話してくれて、午後のひとときが過ぎ、またそれぞれ、自分の部屋に戻つて本を読み始めました。


かうして同じ家の中で過ごすことも、後から思へばかけがへのない時間だつた、と想ひ起こすこともあるのかもしれません。



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2021年09月09日

老人になつた時の姿 シュタイナー「普遍人間学」から



セザンヌ「庭師ヴァリエの肖像」



皆さんは、毎日、自分自身に、どんな「ことば」を語りかけてあげてゐますか。


人は、みづからに語りかける「ことば」通りの人となりゆく。


年老いた時、長い人生の内に、みづからに語りかけて来たとおりの人になる。


人は、ことばを話す存在です。


そして、ことばは、人といふものを語り、人といふものを作りゆくのです。




行はれたし 精神の想ひ起こしを






わたしたちは、未来に向かつて、いまを生きてゐますね。


自分が抱くよき想ひやアイデアが実現することをひたすら願ふ人もゐる。


一方、他人が考へ、想つたことをそのまま受け入れ、押し付けられるがままに、その考へや想ひが実現しないやうに、ひたすら恐れつつ生きてゐる人もゐる。


考へが実現するやうに希ひながら生きる人。


一方、考へが実現しないやうに恐れながら生きる人。


わたしは、できうるならば、前者でありたい。


そのために、みづから抱く考へをみづからよく選びたいと思ひます。


そして、わたしみづからによつて選ばれるその考へは、実は、わたしの過去からやつて来てゐるのですね。


未来を創り上げていく上で、考へることは欠かせない。しかし、その考へとは、過去からやつて来るもの。


よつて、上手に、過去を想ひ起こすといふことが、過去と未来を繋ぎつつ、今を健やかに生きる上で、とても大切なことであり、それは日々のこころの練習なのです。


過去を上手に想ひ起こすために、昔の人は、よく、昔話を子どもたちに語り聴かせてゐました。


昔話や伝説や神話を語り、それを聴くといふことは、すべて、過去を上手に、芸術的に、想ひ起こすことに他なりませんでした。


自分はひとりで生きてゐるのではないこと、大いなるものに守られ育まれて生かされて来たこと、そのやうな「むかし、むかし」「天地の初発(あめつちのはじめ)」から続く、世と〈わたし〉との繋がりを想ひ起こすことでした。


その精神の想ひ起こしによつて、人は、未来を神々と共に創りゆくことができる、健やかな今を稼いでゐたのです。


2021年を生きてゐるわたしたちにとつて、いまといふ時代は、その想ひ起こしを、誰も外からは与へてくれない時代です。そのやうなほのぼのとこころもからだも暖まり、元気が溢れて来るやうな想ひ出を持つこと、育むことが難しい時代です。


だからこそ、その想ひ起こしを意識的に、積極的に、みづから始めようと念ひます。


アントロポゾフィー運動とは、その想ひ起こしを積極的に人に促さうとする精神の運動です。


アントロポゾフィーからの語り部の養成。それは、深い意味での「教員養成」なのです。


「教員」とは、ひとりの語りかける人のことです。


わたしも、ひとりの人として、考へを実現して行きたいと念ひます。


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2021年09月08日

作法に潜む日本の精神文化






日本に昔から伝へられて来た、外なる振る舞ひ、外なる作法にこそ、深いこころの秘儀が湛へられてゐました。


その外なる作法が壊され、失はれてしまつた今にいたるまでの必然的な歴史の流れを、わたしたちは見通すことができます。


さうして、わたしたちは、改めて、意識的に、こころに日本ならではの美しく、気高く、誇り高い気風を取り戻すことが、きつと、できるはずです。


そのためには、わたしたちの歴史「国史」を知ること、その歴史の悲しみを感じることです。


情をもつて、ご先祖様の生きた道筋を辿り直すこと、それが、歴史を学ぶといふことです。



『「ゆつくりと」時の内側に入る』
https://youtu.be/U4HXJUB96IA 
『身振りで学ぶ「うやまひ」と「へりくだり」の細道』
https://youtu.be/cYMCL5_IUe0
の続編です。




2021年09月07日

毎月の合宿 アントロポゾフィーハウス



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アントロポゾフィーハウスといふ運動体は、まづもつて、アントロポゾフィーといふ精神の学に取り組み続ける人として、何か世に対してできることがあるのではないかと、まさに精神から「仕事」を創つて行かうとするわたしたち二人の人から始まつてゐます。


今年2021年を起点にし、来年2022年より、さらにエンジンをふかせて行きたいと考へてゐます。


そのエンジンをふかせるためにも、毎月、合宿をしての、オイリュトミーと言語造形の研鑽と共に、学びと勉強が、欠かせません。


いつも、いつも、シュタイナーその人のことばに立ち返ることが、とてもたいせつなことです。


その勉強を共にすること、活き活きとした読書会は、より深く、より多面的に、より実践に結びつくやうに、自分たちのこころを刺激し合ひ、耕し合ひ、一文一文においてひとりでは気づけなかつたことに気づくことができる。


そして、読み合ふ一文一文から、対話が生まれ、またその対話から新しい「仕事」を生み出してゆくためのアイデアが降りて来るのです。


わたしたちがなす仕事のひとつひとつに、アントロポゾフィーが裏打ちされ、色濃く通つてゐます。


来年以降、きつと、新しい「仕事仲間」が増えることを信じて、粛々と、ていねいに、かつ、意欲に満ち溢れて、アントロポゾフィーの営みにいのちを吹き込んで行きたいと念つてゐます。


諏訪耕志



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2021年09月06日

行はれたし 精神の想ひ起こしを






わたしたちは、未来に向かつて、いまを生きてゐますね。


自分が抱くよき想ひやアイデアが実現することをひたすら願ふ人もゐる。


一方、他人が考へ、想つたことをそのまま受け入れ、押し付けられるがままに、その考へや想ひが実現しないやうに、ひたすら恐れつつ生きてゐる人もゐる。


考へが実現するやうに希ひながら生きる人。


一方、考へが実現しないやうに恐れながら生きる人。


わたしは、できうるならば、前者でありたい。


そのために、みづから抱く考へをみづからよく選びたいと思ひます。


そして、わたしみづからによつて選ばれるその考へは、実は、わたしの過去からやつて来てゐるのですね。


未来を創り上げていく上で、考へることは欠かせない。しかし、その考へとは、過去からやつて来るもの。


よつて、上手に、過去を想ひ起こすといふことが、過去と未来を繋ぎつつ、今を健やかに生きる上で、とても大切なことであり、それは日々のこころの練習なのです。


過去を上手に想ひ起こすために、昔の人は、よく、昔話を子どもたちに語り聴かせてゐました。


昔話や伝説や神話を語り、それを聴くといふことは、すべて、過去を上手に、芸術的に、想ひ起こすことに他なりませんでした。


自分はひとりで生きてゐるのではないこと、大いなるものに守られ育まれて生かされて来たこと、そのやうな「むかし、むかし」「天地の初発(あめつちのはじめ)」から続く、世と〈わたし〉との繋がりを想ひ起こすことでした。


その精神の想ひ起こしによつて、人は、未来を神々と共に創りゆくことができる、健やかな今を稼いでゐたのです。


2021年を生きてゐるわたしたちにとつて、いまといふ時代は、その想ひ起こしを、誰も外からは与へてくれない時代です。そのやうなほのぼのとこころもからだも暖まり、元気が溢れて来るやうな想ひ出を持つこと、育むことが難しい時代です。


だからこそ、その想ひ起こしを意識的に、積極的に、みづから始めようと念ひます。


アントロポゾフィー運動とは、その想ひ起こしを積極的に人に促さうとする精神の運動です。


アントロポゾフィーからの語り部の養成。それは、深い意味での「教員養成」なのです。


「教員」とは、ひとりの語りかける人のことです。


わたしも、ひとりの人として、考へを実現して行きたいと念ひます。


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2021年09月05日

奥入瀬川のほとりで



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青森の三沢駅から電車に乗り、下田駅で降り、まるつきり知らない町を歩かうと、おいらせ町の奥入瀬川のほとりまでたどり着きました。


なにせ、わたしはスマホを持たない、超現代人。


見渡す景色を頼りに、歩く、歩く。


ひとりでゐること、ひとりであることを、いま、学んでゐる。そんなことを奥入瀬川を見てゐて思ふのでした。


ひとりであることで、初めて、何か大いなるものに守られてゐる〈わたし〉に目覚めることができる。


〈わたし〉と世。


そのやうに分かれて見えてゐたふたつが、ひとつであることを知る旅。


〈わたし〉と世はひとつであることに目覚めることで、このからだを持つた小さなわたしが誰かに愛されようと愛されまいと、どちらでもよくなるやうな・・・。


〈わたし〉と世がひとつであること、それは、そのひとつであることそのものが愛する主体であつたことへの更なる目覚め。愛される客体としての小さなわたしでなく。


久しぶりに4〜5時間も歩いて、脚のいろんなところが痛くなつてしまひました😅




posted by koji at 06:32 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年09月04日

越中奉さんによるレポート@



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青森市荒川振り返りながら子どもたちとのひと時をお伝えします。


12時30分をすぎると受講者が集まってこられました。初めてのおとなの13時からの講座は、初々しい母さまたちが主役となります。


私とともに母さんをプレイルームで待つお仕事に勤しんでくれる子どもチームのメンバーは3人です。年中のT.Kちゃん、2年生のT.Iちゃんと2歳ちょいのU.Iちゃん姉妹がゾクゾクとやってきます。


3人からあまりに可愛いプレゼント🎁をもらいました。お母さんたちから“おやつ""青森特製カシスシロップ&水"頂きました。さあ、お母さんたちは、学びに向かいます。3人の少女たちはしばしの別れです。


Uちゃんは、とても内面の世界、母さんの守りの世界が大好きですから、カタツムリ🐌のように、母さまの守りはカイガラの家のよう、いつも護りくださるので、後ろに隠れて、人や怖いものを見送ります。できなければ涙と慎ましげな大きな泣き声で追払い、去ってゆく危機から自らを護ります。こんな時、ぼくは"アブラカダーブラ ブラダカラーバ"とおまじないを心でつぶやき、手をつなぎます。


別れの時がきました。「Uちゃん❣️母さん行ってくるね」の声と動きに、一声😭わーんと泣きましたが。魔法のように‍♀️"ぽん"と決意したように静かになり、私の抱っこに身を任せました。


Uちゃんは、一瞬にして、全てを解き明かしたのです。母さんの優しくてまっすぐな、『ことば』の精神の深みから「さあ母さんね、大事な学びに行ってくるね、でも愛するあなたよ、いつものようにだきあげにきますからね、少しまっててね……」たくさんたくさん、わかったのです。


これは彼女のイントゥイティーフな、直感のなす技でしょう(シュタイナーの本の至るところにかかれてます)


そしてまた、Uちゃんの<わたし>の意識のきざし(芽生え)でしょうか、それはあらたにドンドン育ってゆくでしょう。


また、彼女に起こったことを助けつつ、受け入れつつ、導けたのは、周りにいた、おとなたちや子どもたちのイントゥイティーフな 直感からもたらされたもので。なんて美くしいことでしょう。


Uちゃんは、わたしの腕でねむり、ソファの上でねむり、起きては、お姉ちゃんたちがつくってくれた、水や、りんごクリーム、ケーキ、ラズベリーを私の腕の中でたべてくれました。起きても、新たな自分自身の使命?母さんを待つことをわたしの腕の中で、健気ですが、静かなこころもちで、まっとうしてくださいました。


お母さんが、ワークショップを終えて彼女の元にかえってきて挨拶しました。そして諏訪耕志さんの昔話を聴きに、二人歩き出したときの晴れやかな神々しさは、今も忘れられません。


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身振りで学ぶ「うやまひ」と「へりくだり」の細道






「うやまひ」といふ日本語。それは、「うや(ゐや・禮)」+「まひ・舞」といふなりたちださうです。つまり、「礼」をもつて舞ふこと、そのやうな立ち居振る舞ひから生まれたことばなのですね。


わたしたち日本人は、そのやうな振る舞ひから、日本語を織りなして来たのですね。



この動画は、オンラインクラス『いかにして人が高い世を知るにいたるか』からのもので、『「ゆつくりと」時の内側に入る』https://youtu.be/U4HXJUB96IA 
の続編です。


そして、この動画の後、三つ目として
『作法に潜む日本の精神文化』https://youtu.be/Eaz7mDynxqk
へと続きます。

2021年09月03日

これからの28年


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この人の世を健やかに生きて行くこと。


「あなたが生きて行く上での目標は」などと、たとへば、街頭アンケートで問はれたら、わたしは、たぶん、そのやうな答へをすると思ひます。


しかし、健やかに生きて行くこと、それは、並大抵のことではありませんよね。


人生の複雑怪奇さに通暁して行くためには、何かが必要だと感じます。


そして、探します。


そして、前の人生からのご縁で、その何かに出会ひます。


様々なものと人に出会ふことができましたが、わたしにとつて決定的だつたのは、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーとの出会ひでした。28歳の時でした。


そして、いま、56歳です。


この28年間、わたしは、アントロポゾフィーといふ海の中に飛び込み、泳ぎ続けて来ました。


その海は、ルドルフ・シュタイナーといふひとりの人の「行ひ」と「ことば」と「考へ」から、生きて織りなされてゐます。


そして、すぐに気づかされることなのですが、それらの織りなしは、個人性を超えて、深く、深く、世と人類の始原、天地の初発(あめつちのはじめ)に届くものでした。


とにもかくにも、わたしは、その海を泳ぎ続けて来たのです。


そのやうな海の深さがあるのにも関わらず、わたしは水面近くをアップアップしながらの格好のよくない泳ぎ方でしたが、それでも、泳ぎ続けては来ました。


そして、56歳のいま、もし許されるなら、かすかすながらもこの海を泳いできた力をもつて、のちの人とのちの世に少しでも資する仕事をさせてもらひたい。


世と人が健やかになりうるやうな、アントロポゾフィーからの仕事をさせてもらひたい。


さう、こころに決めてゐます。


何ができるのか、本当に未知ではあります。しかし、これまでにして来たことの先に道は長く果てしなく延びてゐます。


アントロポゾフィーといふ精神の学の根源と言つてもいい、「ことばの教育・ことばの芸術」を礎(いしづえ)にした「子どもたちの教育、若者たちの教育、人の教育」を織りなす社(やしろ)造り。


それが、全く新しく、友と力を合はせながら織りなして行きたい仕事です。


たくさんの方々に教へを乞ひながら、これまで海を泳いで来た自身の力を注ぎ込みつつ、友と協力し合つて、やつて行きたい。


これからの28年をもつてです(😆)!




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2021年09月02日

アントロポゾフィーハウス青森 恐れや鬱屈を吹き飛ばせ!☺️



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だんだんと解き放たれてゆく、皆さんの息遣ひ、皆さんのこころもち。


音韻のひとつひとつから立ち上がつて来る、こころに響くみづみづしい情。


わたしたちは、外なる状況に上手にお付き合ひしながらも、内なるところにこそ主導権を持ち、何もないところに新しい何かを産み出してゆくことができる、創り出してゆくことができる、そんな自由な存在です。そもそも。


深く、活き活きとした息遣ひをもつて、こころから本当の声、本当の響き、本当のこころを空間に解き放つてゆくことから、まこと、高い〈わたし〉を見いだし、織りなして参りませう。


自由な精神から集まつて下さつた青森の皆さん、幼な子にひたすら寄り添ひ続けて下さつた越中さん、お世話を献身的にして下さつた五十嵐さん、緊急事態宣言発令の中、急遽、ご自宅を開放して下さつた小林さん、本当に、こころからお礼を申し上げます。


ありがたうございました。また、今月29日(水)、場所は未定ですが、青森市内にて言語造形の営みを続けさせていただきます。もしよろしければ☺️


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2021年09月01日

風と光の津軽半島



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青森県津軽半島最北端に近い、平舘(たいらだて)に連れて行つてもらひ、こころの洗濯をすることができました!


大地に沈みこんでゐるわたしたちの先つ祖(さきつおや)の方々の血と涙に、足で触れさせてもらへた。そんな感覚です。


わたしたちの国、日の本の国の民もまた、神と共に生きてゐて、ことばには出さずとも、日々の暮らしの営み、四季の季節の巡り、一年一年(ひととせひととせ)に繰り返される恵みと艱難を通して、誇り高く、自分たちのライフスタイルを謳歌してゐた、そんな息吹きをいまだ感じさせてくれる土地。


それが、青森でした。


いまも、なほ、限りなく、限りなく、美しい空と海の青!


風と光のどこまでもすがすがしい精神!


足で踏む海辺の砂と石から沸き上がつて来る喜び!


本州の最北に位置するこの土地には、大都会にはない、どんな力が眠つてゐるのか、どのやうな四大(地水風火)の精神の方々の働きが盛んなのか、からだとこころと精神の感覚をフルに働かせて、この土地の方々と親しく交はりながら、わたしも生きて行きます。


ご案内して下さつた千葉さん、工藤さんに、感謝!

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2021年08月30日

語り口調の闊達さ 福翁自傳



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明治31年(1898年)、福沢諭吉が65歳の時、速記者を前にして語り尽くし、みづから校正し出版した『福翁自傳』。


幕末から明治にかけての激動の時代を、本当にさばさばした気性と透徹した先見性をもつて駆け抜けた男。


読んでゐて、そんな印象が最初から最後まで持続する、無類に面白い自伝でありました。


人生におけるなんとも身軽で闊達な彼の足取りは、その文体が如実に表してゐますが、とりわけ、この作品は口から語られたことばの並びをそのまま活かしてゐるので、その息遣ひとことばの運びが彼の気質とひとつになつて、まぎれもなく、ここに福沢諭吉といふひとりの人がゐるといふ感覚を読み手にもたらしてくれるのです。


ここに人がゐる、といふ感覚。ここで人が語つてゐる、といふ感覚。


それは、この上なく、貴重なものです。


このやうな健やかな人を知ることで、彼のことばを読む人、聴く人にも、その健やかさが流れ込んできます。


その健やかさは、自分自身を信じ、何かをとことんまでやり抜く、その貫く力から生まれて来てゐます。


すがすがしいのです。



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2021年08月29日

「ゆつくりと」時の内側に入る






「いかにして人が高い世を知るにいたるか」木曜オンラインクラスからの動画です。


時とは、いのちの流れである。


ミヒャエル・エンデの『モモ』に、そのやうなことばが出て来ます。


この暮らしの中で、いかに、ゆつくりと、ていねいに、ひとつひとつの行為をなしていくか。


そんな行為から、身の振る舞ひから、わたしたちは、こころの練習に取り掛かることができます。

2021年08月28日

こころのこよみ(第22週) 〜深まりゆく感謝の念ひ〜






世の拡がりから来る光が、
 
内において力強く生き続ける。
 
それはこころの光となり、
 
そして、精神の深みにおいて輝く。
 
稔りをもたらすべく、
 
世の己れから生まれる人の己れが、
 
時の流れに沿つて熟していく。
 
       
 

Das Licht aus Weltenweiten,
Im Innern lebt es kräftig fort:          
Es wird zum Seelenlichte            
Und leuchtet in die Geistestiefen,        
Um Früchte zu entbinden,            
Die Menschenselbst aus Weltenselbst       
Im Zeitenlaufe reifen lassen.    
 
 
 
 
鈴木一博氏が「こころのこよみ」の解説されてゐて、この週のこよみにこのやうな文章を記してをられる。


そもそもひとつであるところが、
外にあつて「光」と呼ばれ、
内にあつて「意識」と呼ばれる。
内と外はひとつの対であり、
リアルなところは、内と外のあはひにある。
ゲーテのことばにかうある。
「なにひとつ内にあらず、
 なにひとつ外にあらず /
 そも、内にあるは外にあるなり」
(Nichits ist drinnen,nichits ist draußen;/ 
 Denn was innen,das ist außen.「Epirrhema」)


夏の間、外に輝いてゐた陽の光が、いつしか、こころの光になつてゐる。
 

そのこころの光は、萌しであり、これから、だんだんと、長けゆく。
 

そのこころの光は、感謝の念ひであり、だんだんと深まり、秋から来たるべき冬に向けて、だんだんと、熟してゆく。
 

その成熟は、冬のさなかに訪れる新しい年の精神の誕生を我がこころに迎へるための、なんらかの備へになる。
 

それは、太陽の輝きの甦りに向けての備へである。
 

むかし、我が国では、そもそも、その冬至の頃(旧暦の十一月の終はり頃)に、新嘗祭(にいなへのまつり)を毎年行つて来た。
 

一年の米の収穫には、いい年もあれば、悪い年もある。
 

しかし、どんな年であれ、米(むかしは米のことを「とし」と言つた)を授けて下さつた神に対する感謝の念ひを育みつつ、日本人は生きて来た。
 

この感謝の念ひが、秋から冬への移り行きの中に生まれる寂しさ、孤独、侘しさといつた情を凌ぐ、静かな元手となつてゐた。

 
それが、また、こころの光であつた。
 
 
 
西の国々では、冬至の直後にイエス・キリストの誕生を祝ふクリスマスがある。
 

そして、キリストの誕生とは、「ひとり生みの子ども」「神の子」「ひとりであることのもたらし手」「世の己れから生まれる人の己れ」の誕生であつた。
 

西洋では、一年の稔りへの感謝の念ひを年の終はりにすることに代はつて、キリストの誕生を寿いだのだ。
 

それは、「ひとりであること」の稔りであつた。
 

その「ひとりであること」の自覚の光が、秋から冬に向けて熟して行く。
 
 
憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥   芭蕉
 
 
人は、「ひとりであることの自覚」から生まれる寂しさといふ情にまで徹してみることで、鬱々としたもの思ひを突き抜けることができる。


そして、この「ひとりであること」の自覚の上にこそ、キリストは寄り添つてくださるのかもしれない。
 

そして、「ひとりであること」の自覚を持つひとりの人とひとりの人が出会ふところにこそ、精神は息づく。
 

他を否むところからではなく、他に感謝することからこそ、人のうちに己れが生まれる。


他に感謝するとは、ひとりの人としてのわたしが、世の己れを世の己れとしてしつかりと認めることであり、その他の己れを認める力が、わたしの己れをひとり立ちさせるのだ。


ひとりの他者も、世である。


芭蕉は、また、この「閑古鳥」も「ひとり」であることを認め、ひとりであるもの同志として、その閑古鳥との精神の交流、閑古鳥への感謝をも感じてゐる。
 
 

 
世の拡がりから来る光が、 
内において力強く生き続ける。 
それはこころの光となり、 
そして、精神の深みにおいて輝く。 
稔りをもたらすべく、 
世の己れから生まれる人の己れが、 
時の流れに沿つて熟していく。




posted by koji at 16:24 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする