2012年01月23日

心配はしないことにする

よく、シュタイナーの学びなどの集まりについて、こんなことを聞くことがあります。

どれほど宣伝に苦心しても、人が集まりにくいということ。

わたしはそのことについて、こう考えます。

これは、一応、利益を追求することのみが目的ではない人が考えることとして、
読んでいただければと思うのですが、
もしかしたら、
これからの時代において、
経済のあり方そのものが、人に沿ったものになるのなら、
考えていってもいい考え方かもしれないと、
わたしは思っています。


その考えというのは、
きっと、宣伝ということそのことが、
いまはもう、ことがらの中の本当に大事なことではない、ということ。

「人を集めなければいけない」という、
「・・・せねばならない」という気持ちがあるところからの宣伝には、
もう人が動かない時代に入っているのです。

人は、どういう気持ちが発せられているところに集まってくるのか。

それは、まぎれもなく、愛です。

そして何かを主催し、開催する側において、
ことがらの本質的なことは、
集まる人数のことを考えるのではなく、
そのことをすることに対して、
自分たちが「喜び」と「愛」を感じているかどうか、
ということではないでしょうか。

いくら人数が集まっても、そこにノルマのようなものがあっては、
そのときは、
「やった。ちゃんと採算が合った。儲けが出た」と考えられて一応の満足はするのですが、
そのことをずっとずっと続けていくには、
いつも何かに急きたてられてやっているような感覚に人は段々と陥ってきます。

そして、集まってくる人のことを、
「お金を持ってくる人」と感じるように段々となってくるのではないでしょうか。

本質的なことは、
他者を動かすことにベストを尽くすのではなく、
自分たちが愛のある集まりを創っていくことにベストを尽くすこと。

そこから、きっと、出会う人が必然的に出会うことになっている。
その結果、集まってくる人が多かろうと、少なかろうと、
あとは、神様に委ねる。

もちろん、宣伝はし、できる限りのことはする。

でも、心配は一切、しないことにする。

これは、わたしの考え方です。


posted by koji at 07:26 | 大阪 曇り | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月17日

こころのこよみ(第40週) 〜こころの中で他者を生きる〜

Und bin ich in den Geistestiefen,

そして、わたしはある、精神の深みに。

Erfüllt in meinen Seelengründen

わたしのこころの基において、

Aus Herzens Liebewelten

心に満ちる愛の世から、

Der Eigenheiten leerer Wahn

己であることの虚しい想い込みが、

Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft.

世のことばの火の力によって、焼き尽くされる。




「わたしは、いる」
「わたしは、いま、ここに、いる」という響きから生まれてくる情よりも、

わたしは、ある」という響きから生まれてくる、
「いま」「ここ」さえも越えた、
「わたし」というものそのもの、
「ある」ということそのことの、
限りのない広やかさと深さと豊かさの情。

何度も声に出している内に、その情を感じます。

「わたしは、ある」。

それは、その人が、
どんな能力があるとか、
どんな地位に就いているとか、
というような外側のありようからのことばではなく、
ただ、ただ、
その人が、その人として、ある、ということ。
そのことだけをその人自身が見つめて、出てきたことばです。

そのときの「わたし」は、目には見えない<わたし>です。


そして、
シュタイナーの『精神の世の境』という本から要約したかたちですが、
「愛」についてのことばを書いてみます。

    精神科学の学び手は、
   考える力を通して「みずからの情」を育んでいくことに重きを置いている。
   その情が、こころに強さと確かさと安らかさを与えてくれるからだ。

   そして、学び手は、
   この感官の(物質の)世を生きるにおいて、
   その強められた「みずからの情」を抑制することを通して、
   愛を生きる。
   愛とは、
   みずからのこころにおいて、
   他者の喜びと苦しみを生きることである。
   感官を凌ぐ意識によって人は精神の世に目覚めるが、
   感官の世においては、精神は愛の中で目覚め、愛として甦る。



世のことばの火の力
それは、きっと、愛だと感じます。

そして、それによって、「己であることの虚しい思い込みが、焼き尽くされる」。


posted by koji at 16:42 | 大阪 晴れ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月16日

惑わされずに、考える力を鍛える 〜アーリマンとわたし〜

冬の只中です。いよいよ寒くなってきましたね。

外の世界では寒さが増し、闇が広がっています。

しかし、この冬、わたしは、
こんなことを考え、感じるように、自分を仕向けています。


外の世では寒さと闇が広がっている。

しかし、自分の内側では正反対に熱と光が広がろうとしている。

その内なる熱と光こそが、
「考える力」。

その考える力は、物質に囚われていない。

物質に囚われない、とは、
見た目に囚われない、ということ。

囚われていないからこそ、
むしろ、物質を、あらためて、内なる光で照らし、内なる熱で貫き、暖める。

それは、日々接するものごとに新しい意味を見いだすということ。

そして、もしわたしが、
外なる感官を通しての情報を受け取りつつも、
それに囚われずに、
内なる意欲を持ちながら、考える力を保ちつづけたなら、
それはわたしのわたしたるところからの力だけに、
わたし自身をも意欲で満たし始める。

わたし自身をも、
意欲に満ちた考える力の熱と光で、
照らし、貫き、暖める。

考える力は、
人が、人であることの、
わたしがわたしであることの拠り所だ。

その考えを、ことばとともに、
何度も何度も繰り返し反芻する。

すると、
その考えを理解するだけでなく、
その考えを生き始めている自分を感じる。




このように、自分から自分を仕向けているのも、
この「考える力」を萎えさせようとする力が、
自分に働きかけてきていることを確かに感じているからなのです。

考える力が長け始める、この時期だからこそ、
逆に、その考える力を萎えさせようとする力も、
きっと、人に働きかけてくるのでしょう。

他者の言動、その見た目や、見かけ、
それらが、わたしを惑わそうとしているのを感じます。

まるで、気温が下がり、光が失われていくのを、
人のこころにも及ぼそうとするかのように、
何かが、誰かが、わたしに働きかけているのを感じます。

その何か、誰か、に名前をつけて、
「アーリマン」とシュタイナーは言いました。

その精神存在は、
どの人の内側にも働きかけていて、
人に、愛を、忘れさせます。

恐れと疑いと憎しみを人にもたらそうとします。

その精神存在の実在を証明することは不可能でしょうが、
しかし、
そのようなこころのありようが自分の中に生まれ、
自分の中でリアリティーを持っていることは、
誰も否定できないのではないでしょうか。

この「人に、愛を、忘れさせる」力に対抗できるのが、
「キリストのこころざし」である、
「考える力」ではないでしょうか。

見た目に惑わされず、
現象に惑わされず、
外側に囚われずに、
「本質的なことを、本質的でないことから、分かつ」べく、
考える。

しかし、
その力は、
外側からの惑わしという働きかけがあって初めて、
鍛えられることを感じます。

他者との接触を通してこそ、
その考える力は、そのつど、そのつど、鍛えられるなあ、というのが実感です。

新しい年が始まり、
わたしは、また、そのことに、
新しく挑戦していきたい。

そう考えています。


posted by koji at 07:02 | 大阪 曇り | Comment(1) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月08日

こころのこよみ(第39週)〜自由と愛〜

An Geistesoffenbarung hingegeben

精神の啓けに身を捧げ、

Gewinne ich des Weltenwesens Licht.

わたしは世というものの光を得る。

Gedankenkraft, sie wächst 

考える力、それは長ける、

Sich klärend mir mich selbst zu geben, 

わたしにわたしみずからを明かしながら。

Und weckend löst sich mir 

そしてわたしに呼び覚ます、
 
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.

考える力を通して、みずからの情を。




精神の啓け」。
それは、
心(心臓)の明るさの中に、
 精神の子が、
 聖き、世のことばとして生まれた
」と、
年の終わりの聖き夜の調べとして、
先週の『こころのこよみ』に謳われていました。


「精神の子」
「聖き、世のことば」
「キリスト」
とは、何なのか。
わたしにとって、どのようなものなのだろうか。

ヨハネ福音書講義を読むと、
その問いにこうシュタイナーは答えています。

それは、
「わたしこと」
「われあり」
だと。

「わたしがある」ということを人にもたらしたもの。
それがキリストだと、
密のキリスト教では認められ、人から人へと伝えられてきた。

この「わたしがある」ということを実感することこそが、
現代人におけるまさにもっとも深い願いなのではないでしょうか。

どんなときでも、どんな場所でも、誰と会っていても、誰に会っていなくても、
「わたしがある」ということへの情、信頼、確かさが己に根付いているほどに、
人は健やかさに恵まれます。

その「わたしがある」という情が、この時期に、生まれた。

それを「精神の啓け」と、ここでは言っています。

このクリスマスの時期、皆さんはいかがだったでしょうか。

「わたしがある」というところへと、
身を捧げる」。
ならば、「わたしは世というものの光を得る」。

それは、
どこまでも、
この「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」への信頼から、
人との対話へと、
仕事へと、
一歩踏み出していくことです。

それは、きっと、
見返りを求めない、
その人のその人たるところからの自由な愛からのふるまいでしょう。

その勇気をもって踏み出した一歩の先には、
きっと、
「世というものの光」が見いだされます。
輝いている場面に出会います。
輝いている人に出会います。
輝いている「わたし」に出会います。

皆さんはいかがだったでしょうか。



そして、
「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」という情は、
どのように稼がれるのでしょう。

それは、「考える力が長ける」ことによって稼がれます。

普段、わたしたちの考える力は、
目に見えるもの、手に触れるものなどに、張り付いてしまっています。
物質的な感官を通して入ってくるものに対して考えることに尽きてしまっています。

「いま、何時だろう」
「今日は何を食べようか」
「あそこに行くまでには、どの電車に乗り継いでいったらいいだろうか」
「ローンの返済を今月ちゃんと済ませることができるだろうか」
などなど・・・。

また、目に美しいもの、ここちよいもの、快をもたらしてくれるものには、
それらを享受するのに、特に努力はいりません。

わたしたちのふだんの考える力は、
そのように特に意志の力を要せず、
やってきたものを受けとり、適度に消化し、あとはすぐに流していくことに仕えています。

しかし、たとえば、葉がすべて落ちてしまった木の枝。
目に美しい花や紅葉などが消え去った冬の裸の枝。
それらをじっと見つめながら、
こころの内で、
考える力にみずからの意欲・意志を注ぎ込みながら、
来たる春や夏に咲きいずるはずの、
目には見えない鮮やかな花や緑滴る葉を想い描きつつ、
その木というものの命に精神の眼差しを向けてみるならば、
その寒々しかった冬の裸の枝の先に、
何か活き活きとした光のようなものが感じられてこないだろうか。

それぐらい、
考える力を、見えるものにではなく、見えないものに、
活き活きと意欲を働かせつつ向けてみると、
その考えられた考えが、
それまでの外のものごとを単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、
ものやことがらの内に通っているかのような、
活き活きと命を漲らせたものになる。

考える力を、そのように、
感官を超えたものに意志をもって向けていくことによって、
わたしたちは内において、
自然界に写る影の像を命ある像に転換できます。

死を生に転換できるのです。

そして、その考える力によって、
わたしたちみずからも活き活きとしてきます。

わたしにわたしみずからを明かします

わたしに、みずからの情を、呼び覚まします

「みずからの情」、
それは、すなわち、「わたしがある」という情ですし、
みずからに由るという情、
「自由」の情でもあります。

キリストとは、
「わたしがある」「わたしこと」を人にもたらしたものです。

そして、いまももたらし続けているならば、
現代において、なおいっそう、
ひとりひとりが、
キリストによってもたらされたみずから考える力を長けさせることによって、
「わたしがある」ことの情、つまり、内なる自由から、
「わたしを捧げる」意欲、つまり、愛する道を歩いていくことを、
キリストは応援している。

この『こころのこよみ』を読みながら、
そのことをメディテーションします。

posted by koji at 21:27 | 大阪 晴れ | Comment(2) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月07日

大いなる恵み〜演劇祭 in 大阪あびこ ありがとうございました〜

あびこくすのき園に来ていただいたたくさんのお客様、どうもありがとうございました。
そして、手伝ってくださった皆さん、本当にありがとうございました。
皆さんの暖かい気持ち、善意、喜びが、創り手であるわたしたちを包んでくれました。

終演後、アンケートを書いていただいたのですが、
こんなに絶賛されたことは、いまだかつてわたしは経験したことがない!(笑)

子どものまだあどけない、しかし、まっすぐな瞳と声。
お母さんたちの真摯な想い。
それらを、皆さんは感じてくださり、暖かい眼差しで見守ってくださったのでしょう。

今回のお芝居で、わたしが気づかされた最も大事なことは、
創り手であるわたしたち仲間のあいだに、
信頼と愛と各々の自立が育まれようとしているなら、
そこから見えない何かがわたしたちのお芝居創りの輪から拡がってゆく、
ということです。

その何かを、
観に来てくださったお客さんは、もしかしたら感じて下さっているのかもしれない。
きっと、そうに違いない。

そのことに気づき、実感できたことが、
この2012年という新しい年が始まるに当って、
天から授けられた大いなる恵みです。

まずは、小さなサークルの中の、
人と人との関係を丁寧に大事に育んでいくことから。
その関係性を、側にいる子どもたちは、きっと、見てくれている。

和歌山岩出シュタイナー演劇塾の皆さんとの共同作業のお陰で、
その確信をこれからも一歩一歩深めていく道を歩みだすことができそうです。

この世にいま共にいる朋、
そして見えないけれども応援して下さっている方々。

こころから感謝します。

posted by koji at 11:29 | 大阪 晴れ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月28日

冬は、内を育む季節〜演劇祭in和歌山ありがとうございました〜

かさじぞう写真.JPG おはなし子ども写真.JPG  後藤さん「かさじぞう」.JPG
 

先日のクリスマス・イブの日、
「子どもも大人も演劇祭」を和歌山で開きました。

会場は古い民家をお借りしたのですが、
お陰さまで、満員のお客様で、
暖かい気持ちに包まれた、とても和やかな時間になりました。

初めて人の前で演じる子どもたちとその親御さんたち。
初々しい張りのある声と動き。

あれだけの人の前で、
思いっきり声を出し、歌い、演奏し、動いた子どもたちの内側では、
どのようなものが生まれただろうか。

そして、これからも、彼らといっしょに何を創っていくことができるだろう。

そう考えると、
この年の暮れに、わたし自身、本当に大きな宝の山をいただいたなあ、
と念うのです。


また、特に、今回の親御さんたちが演じた「かさじぞう」において、
演じ手の皆さんが、
外側のこととともに、
各々みずからの内側のことに意を注いでくださったことを感じました。

わたしたちは、
外側のものに沿うことも大切なのですが、
特にこの冬の季節においては、
むしろ外に沿うことから脱して、
意識的に、内側の生をいきいきと育むことで、
個人的なものを越えて、
より深く広やかな情と想いに生きることができる。

そして、その情と想いからこそ、お芝居に身を投じる。
もしくは、身を投じることによって初めて、
そのような情と想いが湧きあがってくる。

その深められ、強められた情と想い、そして捧げるということこそが、
「かさじぞう」というお芝居には必要でした。

舞台装置も背景も何もなく、
たったひとつの照明と、
ただ、演じ手さんたちがこころを籠めて作った素朴な衣装と、
抑制された動きと表情と、
そしてなにより、内なる情と想いを立ち上がらせることばの響き。

それだけです。

この冬の季節に、
意識的に内の生をいきいきと育むことで、
来る春と夏において、
わたしたちは、
外の世の美しさに出会うことができる道が啓けてきます。

冬は、内を育む季節。

わたしたちは、外でも、内でも、いろいろとあり、忙しくしていますが、
冬のこの時期こそは、
高いものをこころに宿すことを意識して、
静かに過ごしたい季節ですね。


    密やかに学ぶ人は、
   外の世に対して鈍くなってはほしくない。
   しかし、
   みずからのたわわな内の生がみずからに向きを与えるようにしてほしい。
   そして、
   その向きでみずからを外の世の印象に沿わせてほしい。
   ・・・
   まずもってわたしたちの内に生きるところが、
   わたしたちに外の世の美しさへの鍵を与える。
   ・・・
   人が外の世に向かう、内容のあるありようを育もうとするにおいては、
   きっと、みずからの情と想いにつきあうということを習っている。
   外の世はその現れという現れにおいて、
   こうごうしい晴れやかさに満ちている。
   しかし、人が、きっと、
   こうごうしさをみずからのこころに見いだしているからこそ、
   周りに見いだそうとする。
                 (『いかにして人が高い世を知るにいたるか』P.31〜32)


posted by koji at 09:37 | 大阪 晴れ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月24日

こころのこよみ(第38週)〜聖き夜の調べ〜


Weihe-Nacht-Stimmung   聖き夜の調べ

Ich fuehle wie entzaubert

わたしは感じる、

Das Geisteskind im Seelenschoss,

まるでこころの奥で、精神の子が魔法から解かれたようだ。

Es hat in Herzenshelligkeit

その子は心の明るさの中で、

Gezeugt das heil'ge Weltenwort

聖き、世のことばとして生まれた。

Der Hoffnung Himmelsfrucht,

希みに満ちた天の実りが、

Die jubelnd wächst in Weltenfernen

喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、

Aus meines Wesens Gottesgrund.

わたしのわたしたるところ、神の基から。
   



クリスマス、それは、おさな子の誕生を寿ぐ日です。

おさな子のおさな子たるところの生まれを祝う日です。

どの人のこころの奥にも眠っているおさな子が、
魔法を解かれたかのように目覚めうることを認め合う日です。


おさな子、
それは、子ども時代の内でもとりわけ、
記憶の境の向こう、三歳以前のわたしたちのありようです。

この世に生まれたわたしたちは、
そのおさな子の時代に、
おおよそ三年をかけて、
立ち、歩く力、
話す力、
考える力を、
人として生きる最もベーシックな三つの力として身につけ始めました。

それらの力は、その人が生涯を生きていく上で育んでいくことになる、
こころの三つの力、
欲する力(意欲・意志)
感じる力(情)
考える力(思考)
の萌しとしての表れでもあります。

その力は、当然その子によって意識的に身につけられたものでもなければ、
大人によって教え込まれたものでもなく、
そのおさな子の内から、
まるでこうごうしい力が繰り出してくるかのように、
地上的に考える力を超えたところから、
生まれてきました。

そのおのずと生まれてきたこうごうしい力は、
しかし、
三年間しかこの世にはありません。

おさな子のおさな子たるところが輝く三年間から後は、
その子の内に、
少しずつ地上を生きていくための知性と共に、
エゴがだんだんと育ち始めます。

きっと、それも、人の育ちにはなくてはならないものです。

しかし、おおよそ、三年の間のみ、
人の内に、そのこうごうしい力は通います。

この地を生きていくための基の力であり、
かつ、
この地を越えたこうごうしいところからの力は、
三年の間のみ、
おさな子に通います。


ですから、
「聖き、世のことば」キリストも、
この世に、三年の間しか生きることができませんでした。

イエス、三十歳から三十三歳の間です。

そのイエスに三年間通った力は、
おさな子のおさな子たるところからの力として、
世のすべての争い、分け隔て、エゴ、
それらを越える、愛する力として、
この地上に受肉しました。


後にキリストを宿すイエスが母マリアから生まれたとされている、
24日から25日の間の聖き夜。
その夜から、キリストがイエスに受肉した1月6日までをクリスマスとして祝います。

そして、このクリスマスは、
二千年以上前のおおもとの聖き夜に起こったことを想い起こすことを通して、
わたしたちの内なるおさな子たるところを想い起こすときです。

わたしたちの内にも、確かに、そのこうごうしい力が通っていました。

そして、いまも、通っています。

しかし、わたしがわたしたるところから、
そのこうごうしい力を想い起こせばこそ、
いまもその力が通っていることを知ることができます。

このクリスマスの日々に、
その力を自分の内にも認めればこそ、
来る年への希みが生まれ、羽ばたき始めます。

    希みに満ちた天の実りが、

   喜びの声を上げて世の彼方へと拡がりゆく、

   わたしのわたしたるところ、神の基から
    



posted by koji at 05:45 | 大阪 晴れ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月21日

闇はだんだんに光をとらえるにいたる

例えば、シュタイナー教育の実践の場や、
わたしが取り組んでいる言語造形の練習場や「ことばとメディテーション」の場など、
精神的なものの実現・定着を目指している場において、
気をつけなければならないな、と感じ、考えていることがあります。

そのような「光の場」において、
人は、みずからの内に深くしまいこんでいるものが出て来てしまうのではないか、
ということです。

その場が、光を目指すほどに、
闇が忍び寄ってくる。

そして、その闇の忍び寄り方には、ふたとおりある。

普段、どちらかというと、
熱狂しやすく、陶酔しやすく、熱くなりやすく、またその反動で冷たくなってしまう、
そのような質(たち)をわたしが持っているならば、
光の場に入ると、
その場がここちよく感じられるあまりに、
「このことのみが真実だ、
 他はたいしたことがない、
 いつまでもここにいたい、この場からもう、出て行きたくない」
と感じる方へわたしは傾いてしまう。

一方、
精神的なものごとを信じている、信じていないに関わらず、
精神から離れている生活を営んでしまっているようなとき、
ものごとはすべて計算で割り切れるとの思い込み、
すべては計画通りに進んでいってもらいたいとの偏った希み、
人のことも自分のことも信じられなくなってしまうようなとき、
光の場に入ると、
その場の雰囲気が嘘臭く思えたり、
こんなものは現実的ではない、と思ったり、
早くこの場から出て行きたい、と願ったり、
疲れや失望を過剰に感じたり、
その向きへとわたしは傾いてしまう。

どちらも、わたしの内にないことではないのです。

光の場だからこそ、
そのように闇が強くふたとおりに人のこころを通して忍び寄ってきます。

光の場は、きっと、いま、人に、強く求められています。

わたしたちは、気づいた者から、
そのような光の場を各地に創っていくことを始めています。

そして同時に、
そのような場に闇が忍び寄ってくることに、
遅かれ早かれ誰しもが直面します。

直面して初めて人は学ぶことができると思うのです。

光の場を創っていく上で、
イニシアティブを持って創っていく人は、
己のこころに忍び寄ってくるふたとおりの闇に意識的であることが大切なことだと、
自戒しています。

そして、そのふたとおりの闇のあり方に傾かず、
その間でバランスを取って立つとはどういうことなのか、
それを意識的に追い求めていかざるをえません。

シュタイナーは『ヨハネ福音書講義』の第二講でこう語っています。

    光、闇にそそぎき、闇、光をとらえずありき (ヨハネ一)

   闇はだんだんに光をとらえるにいたります。


それは、
「人が内なるところにおいて闇に打ち勝ち、ロゴスの光を知る」との意味です。


posted by koji at 06:19 | 大阪 曇り | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月20日

クリスマスと「かさじぞう」

和歌山の岩出で、小学生の子どもたちとその親御さんたちとで、
この3ヶ月、お芝居の練習に取り組んできました。

そしてこの土曜日、クリスマス・イブの日に和歌山の米市農園で、
年を越えて1月6日(金)、顕現祭の日に大阪我孫子のくすのき幼稚園で、
「かさじぞう・おはなしのおはなし」を演じさせてもらいます。

子どもたちも親御さんたちも、それは頑張って練習してこられました。

ありがたいことに、
練習を重ねるほどに、
子どもたちの内側に増してくる喜び、
親御さんたちの内側に耕されていくこころの深みが、
感じられました。

それは、だんだんと育まれていく作品への愛でした。

この育みは、本当にありがたいことで、
人の力だけではなく、
わたしたちを見守ってくださっている目には見えない方々があられるかのように思えるのも不思議です。



お芝居を練習していますと、
そのプロセスの中で、いつもおのおのの作品の深みが見えてきます。

(「おはなしのおはなし」については、
 今回出演されるおひとりの方が書いてくださっています。
 どうぞご覧下さい。
 http://kurukurunikki.jugem.jp/?eid=279

今回、大人たちが演じる「かさじぞう」。

日本人には馴染み深いお話です。

貧しさのあまり食べるものもないじいさまは、
冬の夜に、
風と雪が吹き付ける中へと、
人の冷たいこころが吹き付け、通り過ぎていく中へと、
出て行きます。

それはまるで、この世における地獄巡りです。

その巡りの果てに、じいさまは六人の地蔵様に捧げものをします。

そして、じいさまは雪で真っ白になって、ばあさまのもとへと帰ってきます。

その白さとは、人の何を表しているのでしょうか。

その白いじいさまを、ばあさまは喜びをもって迎えます。

そのふたりの結びつきは、人の何を表しているのでしょうか。

その結びつきのもとに、
六人の地蔵様が、
どっさりこと、
豊かさをもたらしてくれます。

その豊かさとは、人に授けられる何を表しているのでしょうか。

パレスチナという地に、
イエスが生まれたことを祝うクリスマス・イブの夜。

そのイエスが30歳になったとき、
ヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受け、
太陽の神であるキリストがイエスに降りたもうたことを祝う顕現祭。

そのクリスマス・イブの夜と顕現祭の日を結ぶ十二夜・十三日の、
丁度真ん中である大晦日の夜とお正月の朝との間に、
何が起こったのでしょうか。

古来、多くの民族の伝統において、
この時期に、新しく太陽の神さまが歳神として人々のもとに降りてこられ、
新しい年に備え、新しいたましいを与えてくださることを待ち望み、祝う、
宗教的な儀式が執り行われていたそうです。

わたしたち日本人も、その「新しいたましい」として、
大人たちから「お年玉」をもらっていたのでしょうね。

シュタイナーは、その太陽の神さまは六人おられると語っています。

そしてその六人の神さまの力をひとつにしてこの地に降りてこられたのが、
キリストだと語っています。

このクリスマスの時期に、
どっさりこと授けられる豊かさは、
わたしたちが新しい一年を生き抜いていくことができるための「お年玉」かもしれませんね。

皆さんとこの聖きことの雰囲気を、
いくたりかでも分かち合うことができればと願っています。


posted by koji at 09:16 | 大阪 曇り | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月18日

こころのこよみ(第37週)〜クリスマスを前にした希み〜

Zu tragen Geisteslicht in Weltenwinternacht

世の冬の夜に、精神の光を荷いゆくべく、

Erstrebet selig meines Herzens Trieb

恵みに満ちたわたしは心から追い求める。 
      
Dass leuchtend Seelenkeime

輝くこころの萌しが、  
  
In Weltengruenden wurzeln 

世の基に根をおろすように。  

Und Gotteswort im Sinnesdunkel

そして神のことばが、感官を覆う闇の中で、  

Verklaerend alles Sein durchtönt.

ありとあらゆるものを輝かせ、貫いて響くように。


前週の『こころのこよみ』において、
メディテーションをしている人の、
冴えて目覚めてきたこころの内に、
「世のことば」「キリスト」が語りかけてくるさまが描かれてありました。

そのことばは、
「あなたの仕事の目当てをわたしの精神の光で満たしなさい、
 わたしを通して、あなたを捧げるべく」
と響いてくるとあります。

ことばを通してメディテーションを続けていますと、
だんだんと、そのことばに沿った形で、生活と人生が流れ始めるのを感じます。

考える力が実の力であり、
その力こそが生きることを導いている事実をまざまざと感じます。

「わたしの仕事の目当てをキリストの精神の光で満たす」とは、
そして「キリストを通して、わたしを捧げる」とは、
と考え続けていくことを通して、
その考えと声にだんだんと親しんでいく、
だんだんと近づいていく、
だんだんとひとつになっていく、
その内なる道が踏み均されていきます。

そして、だんだんと密やかながら、
これまでの自分の考え方、感じ方、欲し方に変化が生まれてくる。

そして、さらに、その内なる道に沿うかのように、
外なる道が、自分の前に啓けてくる。

そのようなプロセスをわたしたちは、クリスマスに向けて歩んでいくことができる。

その「キリストのことば」を精神の光として、
こころに荷ってゆくことができるならば、
そのこころざしは、
「輝くこころの萌し」として、きっと「世の基に根」をおろします。

人のこころが輝いていれば、
きっと、
その人の周りの世も輝きだします。

人のこころに、
「神のことば」
「キリストのことば」
「わたしのわたしたるところからのことば」が響いているほどに、
きっと、
「ありとあらゆるものが輝きだし」
「ありとあらゆるものを貫いて響きだす」ことでしょう。

人は、仕事を通して、事に仕えることを通して、
ありとあらゆるものを輝かせ、響かせることができる。

そんな希みをクリスマスを前にして抱くことができるのならば、
わたしたちは、特に未来を荷っていくだろう世代の人たちに対して、
何らかの貢献ができるかもしれません。

わたしたちが、いま、各々の仕事を通してやっていくことができること、
それを見定めていきたいですね。


posted by koji at 16:41 | 大阪 晴れ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

〜シンデレラ、わたしの内の子ども時代〜 入間カイさんの講演会 7(終わり)

シュタイナー教育は、子どもだけでなく大人をも励ますものです。
そう、入間さんは、講演の始めに言いました。

大人の中にずっと在り続ける「子ども時代」。

講演を聴いたあと、わたしはこんなことを考え続けています。

わたしの中の第一・七年期についての問い。
それは、
「わたしと他者との、一対一の関係をしっかりと生きているだろうか」
という問いです。
その関係をわたし自身がどう生きているかこそが、
第一・七年期にある子どもへの働きかけとなっていくでしょう。

わたしの中の第二・七年期についての問い。
それは、
「わたしは、複数の他者との間で、社会的な交わりをしっかりと生きているだろうか」
という問いです。
同じく、そのわたし自身の姿が、
きっと、第二・七年期の子どもに深く働きかけていきます。

そして、
わたしの中の第三・七年期についての問い。
それは、
「わたしは、世界に対して、世に対して、人として、人類の一員として、
どう生きようとしているのか」
という問いです。
日頃している考えの回路から少しでも飛翔し、
少しでも静かに、かつしっかりと考えることができるのなら、
そう自分自身に問いかけることができます。

そう自分自身に問いかけ続ける人こそが、
第三・七年期にある若い人たちとの対話を創っていくことができるのでしょう。

第三・七年期にある若い人たちは、
その問いを密かに持っていて、ときにそれを顕わに表立たせてきます。

その若い人の「わたし」の力が、
いよいよ、ひとりで考える力としてなりかわってきたからこそです。

そして、他者と語り合う中でこそ、そのひとりで考える力が育まれていきます。

若い人は、ときに、大人にとって突拍子もないことを言い出したりしますよね。

そんなとき、時間をかけながら、
側にいる他者、特に長じた者が、
「その考えは、本当に、あなたによって、考えられたものなのか」
「そのことは、本当に、あなたが欲しいものなのか」
「あなたが欲しいものは、本当は何なのか」
というような問いを投げかけることによって、
若い人の内側から浮かび上がってくる意志・意欲・感情を、
彼・彼女自身の考える力でいま一度貫かせてみることができたら。

そして、
若い人たちの内側から湧きあがってくる、
世界に対するより根源的な問いに対して、
「世界では、いま、こういう問題が起こっていて、
それらに対して、こういう人たちが、こういう意識をもって、取り組んでいる」
というような具体的に摑むことができる情報を情熱をもって語る大人がいれば。

そして、さらに、
他者にはなかなか気づかれにくい、
もしかして自分自身でさえ気づいていない、
若い人ひとりひとりの内にある密やかな「輝き」を、
側にいる大人が見てとってあげられたら。

(そのことを入間さんは、『シンデレラ』のお話を通して話されました。
 他の誰も認めようとしなかったシンデレラの美しさ、
 それはどの人の内にも潜む密やかなところであり、
 そこを見いだし、認め、愛した王子さま。
 第三・七年期の若い人は、その王子さまを求めているし、
 さらに本質的なことは、
 若い人は、自分で自分の中の密やかなところを見いだすことを、
 手伝ってもらいたいのです)


他者と語り合うことによって、
語りを聴くことによって、
また己のうちの密やかなところを認めてもらい、自分で認めることを通して、
若い人の内側に、
考える力がだんだんと目覚めてきます。

「では、わたしは、世に対して、何をしていこうか」
という考えがだんだんと立ち上がってきます。

第三・七年期にある人にとっては、その力はまだおぼつかなく、きっと支えが要ります。

若い人がひとりで考える練習をサポートする。
それが、若い人の側にいる大人のひとつの役割でしょう。

ここでとても大切なポイントは、
大人の考え方を押し付けない、ということかもしれません。

「わたしは、こう考えるのだけれども、あなたは、どう考えますか」
というこころの姿勢をとりながら、語り合うことができれば。

彼らが求めているのは、
自分の考える力をひとり立ちさせていくことです。

人は、練習すれば必ず目覚めてくる「考える力」を深く信頼したいのです。
それが、己に対する信頼に、
ひいては他者に対する信頼、世に対する信頼に、きっと、繋がっていきます。

そのように順番を間違えずに、満を持して出できた考える力が、
感じる力、欲する力と、手に手を取りあって、ひとり立ちしていくこと。

それこそが、教育の目指すところであっていいのではないか。

そう、シュタイナーは語り続けました。

さて、わたしの内なる「子ども時代」をどう育んでいこうか、
これがわたしにとっての2012年からのあらためての課題です。

読んでくださって、ありがとうございました。

そして、講演をしてくださった入間さん、
講演を準備してくださった箕面シュタイナー幼稚園友愛会の皆さん、
素晴らしい時間でした。
どうもありがとうございました。


posted by koji at 07:53 | 大阪 晴れ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月17日

〜順序を間違えないこと〜 入間カイさんの講演会 6

欲する力・意欲・意志がむき出しの0歳から7歳。

その意欲・意志が感じる力・情の衣をまとい始めるのが7歳から14歳。

そしてその意欲・意志・情から、
だんだんとひとりで考える力が生まれてくるのが14歳から21歳。

それら三つの力はどれも、
その人のその人たるところ、
「わたし」から生まれてこようとしているものですが、
年齢によってその表れ方が異なっていて、
欲する力として、
感じる力として、
考える力として、
順番に現れてきます。

それらおのずと生まれてくる力の順序を間違えずに、
その順序どおりに育んでいくことが、
人の育ちにとってとても大事な意味を持ちます。


講演会において、こんな質問が出ました。

小学生に、「自分で考えなさい」という指導がよくなされるのだが、
シュタイナー教育に云う「意志を育てる」ということと果たして噛み合うのか。

人というものをよく見てとってみると、
小学校に通っている時期には、
子どもの内側からのむき出しの欲する力が変容し始め、
おのずと、感じる力という衣をまとい始めている、
しかし、自分ひとりで考える力は、まだ生まれてきていない。

「自分で考えなさい」「自分で判断しなさい」という指導は、
その時期の子どもには早すぎる。

「シュタイナー教育では、こう考える」というのではなく、
人をあるがまま観てとる練習をしていけば、
そのような判断・順序を間違えない判断がだんだんとなされるようになってくる。

その旨を入間さんはことばにしておられました。

人をあるがままに観てとる練習は、様々に差し出されていますが、
そのひとつをアントロポゾフィーも差し出していますね。


posted by koji at 06:48 | 大阪 晴れ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月16日

〜ことばの主(あるじ)になる練習〜 入間カイさんの講演会 5

入間さんは、こうも語っていました。
第ニ・七年期の子どもの成長を促すのは、
子どもと地域との関係性、
それは一対多の関係性とも言えるのですが、
より本質的に言えば、それは人と民族との関係性である。

民族とは、
ひとつの言語を母語として共有している人々の集まりを言います。

ひとつの言語を共有することによって、
人々は共にある、ということを実は感じています。
ほとんど無意識、もしくは夢のような意識の次元においてですが、感じています。
なぜなら言語は、おもに、感情の次元において、ものを言うからです。
感情とは、夢のような意識において、繰りなされています。
そして、ことばもその感情から発せられています。

そして、これは分かりにくいことかもしれませんが、
言語は、それを話す人に、
その言語に沿った叡智を贈ってくれています。

ことばの叡智、
キリスト教の密で言われる「ロゴス・ことば」、
もしくは、人をどこまでも育てようとする「愛」です。

ことばを大切に扱う人のところに、
ことばの精神から、
愛と叡智への予感が降りてきます。

ことばにはそのような働きがあることを、
言語造形を通しても学んでいくことができます。

そのように実は叡智に裏打ちされていることばを通して、
他者と素直に語り合い、
違いを見出し、それを尊び、
自分と他者とのつながりを見いだしていくのが、
第二・七年期の子どもの成長における大事な大事なことです。

それは、子どもにとってのことであるだけでなく、
親というひとりの大人と、
学校生活を含む地域社会というものとの間の関係において、
意識されていっていいことでもあるでしょう。

第二・七年期の子ども時代、
それは、ことばの働きにだんだんと通じていくことの始まりであり、
ことばの主(あるじ)になる練習をどんどんしていきたい時代です。

大人自身の、
内なる第二・七年期の子ども時代に光を当てることによって、
ことばと自分自身との関係にいま一度目覚めることができるのではないでしょうか。

わたしたち大人自身が、
複数の他者との関係の中で、
どう、ことばとつきあい、
どうみずからを育んでいくことができるでしょうか。

そのことこそが、第二・七年期の子どもへの、
このうえなく大切な働きかけになります。

考えつつ、取り組んでいければ、と思っています。

posted by koji at 05:34 | 大阪 晴れ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月15日

〜彩りの豊かさ〜 入間カイさんの講演会 4

わたくしごとで恐縮なのですが、
上の娘が来年の春から小学校へ上がります。

我が娘がそういう年齢になって、
わたしの中でも教育に対する意識が、
恥ずかしながらようやく目覚めてきたように感じています。

これまでの約6年間は、
まさしく個と個、
娘と母親である妻、もしくは、娘と父親であるわたしとの関係の中で、
すべてが完結していた。
そう実感します。

そして、そこには、
個と個の関係の中でもっとも基のものと言える妻とわたしとの関係が、
良かれ悪しかれ、
とても色濃く娘に影響していたように感じます。

もちろん、
どちらか一方の親しかいない家庭においても、
大人と大人との関係性、
子どもに目を注いでくれる誰か他の大人と、子どもの親との関係性が、
とても重要になってくるということでもあります。

幼稚園にも、共にそこに通う園児たちや親御さんたちもいるわけですが、
それでも、そこは先生を親とするもうひとつのより広やかな家庭です。
そこでは、基本的・本来的に、
先生という親と子どもの、
一対一の関係が子どもにとって大切なものでした。

いまの多くの施設では、
そのような一対一の、
ひとりの子どもにしっかりと目を注ぐことのできるひとりの大人がいるようなところは、
本当に少なくなっているのかもしれません。

そんな状況において、
第一・七年期にある子どもに必要な個と個の関係性を、
どのようにしてひとりひとりの子どもに質的に補っていくことができるか。
そのことがとても大事なテーマでもありますね。



さて、子どもは歯が生え変わりだし、小学校へと上がってゆきますが、
第ニ・七年期に入っていく子どもの成長にとって本質的なことは、
それまでの個と個の関係性を育むということから、
だんだんと、
個とそのほか大勢の大人たちや子どもたちとの関係を、
いかに創っていくかということへと移り行きます。

地域の中には、様々な職種につき、
様々な価値観で生きている人々がいます。
それまでほとんど親にしか意識が向かっていなかった子どもが、
そのような人という人の彩りの豊かさにどんどん目が奪われていくことでしょう。

かつ、クラスという集団の中においても、
いろんな子どもがいます。

幼児期においては、
子どもの中に生まれ出る意欲や意志は、まるごとむきだしの意欲や意志で、
ある意味、原始的なものでした。

しかし、第二・七年期の子どもにおいては、
だんだんと、その意欲が感情という衣を着つつ現れてきます。

そして、そのクラスの中で、
様々な色の違う感情の衣を着た子どもたちに出会うのです。

その彩りの豊かさの中で子どもは実に多くのことを学びます。

人は、みんな、違って、いい。

みんな、それぞれ、色合いが違い、向きが違い、もって生まれているものが違う。

その違いが、感情の表れの違いとして際立ってきます。

ひとりひとりの違いを尊重する、
そして、そこから、ひとりひとりの尊厳を見る、
そんなこころの姿勢が教師によってなされるのなら、
どれほど大切なものが子どもたちの内側に流れ込んでいくでしょう。

そういう大人の下で、
子どもは、自分という個にゆっくりと目覚め始め、
そして、クラスメートや先生、地域の様々な人々の中にある個という個に、
だんだんと目覚め、
その彩りの豊かさに目覚めていきます。

社会という集まりの中で、
自分という個と、
大勢の他者との関係を、
だんだんと見いだしていく、
一対多の関係の本来的な豊かさを、
第二・七年期の子どもたちは学んでいくことができます。

もし、そこで、
「よい点数を取ることが、よい人になる道です」
もしくは、
「よい点数を取ることで、あなたは他の人に抜きん出ることができますよ」
というひといろの価値観がまかり通るのなら、
子どもの内側から生まれでようとする、
その子固有の意欲や意志が削ぎ落とされ、
感情が傷つけられ、萎えていくことにもつながりかねません。

小学校において、はや、灰色ひといろの服をみんなで着ているようなものです。

(そのことを入間さんは、
 「ありときりぎりす」というイソップのお話と、
 レオ・レオニの「フレデリック」という絵本からのお話との対比で話されていました)

子どもたちの周り、
そして内側を、
カラフルにしておいてあげたいですね。




posted by koji at 07:31 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月14日

〜個と個〜 入間カイさんの講演会 3

「子ども時代」の第一・七年期、0歳から7歳にいたるあたりまで、
幼い子どもは、
自分のすべてを委ねることができるひとりの大人を必要としています。

その一対一の関係を通して、
子どもは「世は善きところである」という信頼を、
きっと、ますます深めていくことができるのでしょう。

その個と個の関係において、
人はまず最初の<わたし>の健やかな成長がなされていきます。

その最初の<わたし>の健やかな成長とは、
その子の内側から湧き上がってくる「意志・意欲」を、
そのままその子固有の「意志・意欲」として受け止めてくれる、
ひとりの大人の存在を必要としています。

その個と個の関係、一対一の関係を育む場として、
家庭があり、
その延長線上に幼稚園、ないしは保育園がある。

入間さんは、
この第一七年期の子どもの健やかな成長を指し示すような童歌があって、
まどみちおさんが作詞した「ぞうさん」を挙げられていました。

  ぞうさん、ぞうさん、おーはながながいのね
  そうよ、かあさんも、なーがいのよ

  ぞうさん、ぞうさん、だーれがすきなあの
  あーのね、かあさんが、すーきなのよ

幼い子どもが、
ひとりのお母さん(もしくは、それに代わる誰か)との結びつきを通して、
個と個の信頼を育んでいる姿が描かれていますね。

ひいては、自分自身への信頼をも育んでいます。
(そのことに関しては、「ぞうさん」との対比で、
「うさぎとかめ」のイゾップの話を入間さんは挙げられていました。
とても面白い対比です。
どうぞ、彼の著書『三月うさぎのティータイム』をお読みください)



入間さんの話しを聴くうちに、
わたしの中にこれまで考え、感じていたことが、
あらためて意識の上に上ってきています。

わたしたち大人の内側に、
第一・七年期の子どもにとっての大切なテーマでもある、
この個と個の関係性をあらためて創っていくことの重要性を、
いやと云うほど感じているのが、現代という時代かもしれません。

その関係性の基とも言える、
家庭の中における個と個の関係性、
家庭の中における夫と妻の関係性、
そこには、
その人の第一・七年期のありようが映し出されていて、
もしかしたら、
そここそに、
新しい宗教性が啓かれるかもしれません。

そのことが、
もっとも現代的なテーマとして、
わたしたち大人が向かい合って行っていいことだと、
あらためてわたしは考えさせられています。


posted by koji at 07:09 | 大阪 晴れ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月13日

〜大人の内なる子ども時代〜 入間カイさんの講演会 2

入間カイさんの講演会から、日が経つにつれて、
そこで語られた事柄を、
だんだんと想い起こされるままに書いています。

そこで語られることがシュタイナーのことばを基にしたものであっても、
人がその人ならではのことばで語るところに、
新しい意味合いと深い味わいが生まれるのですね。

わたしにとっては、とても印象深く、
これからも様々に想いが深まってくるのではないだろうかと感じています。


人における「子ども時代」。
それはこの世に生まれたときから、
7年周期を3回経て、およそ21歳になるまで続きます。

しかし、実のところ、その「子ども時代」は、
その人の一生涯を通じて内側にあり続ける。

よく、シュタイナー教育に初めて接した人の多くから、こんなことばを聞きます。

「わたしも、子どもの頃にこんな教育を受けたかった」

でも、大人になっても、遅くはない。

なぜならば、人の内側には、
いまだにその人の「子ども時代」が息を潜めているからなのです。

「子ども時代」が息を潜めて、いまだにその人の中にあるからこそ、
シュタイナー教育などに接したときに、
そのようなことばが思わず呟かれるのかもしれません。

「子ども時代」を強く保ち続けている人などは、
どれだけ年を重ねても、若さを持ちつづけている。

子どもの気持ちにいつでも帰ることができる。

自分の中の子どもに語りかけるように、
何かを創ったり、語ったり、書いたりすることができる。

その創られ、語られ、書かれたものが、
また、子ども(子どものこころを持つ人)に愛される。

幾つになっても、わたしの中の「子ども時代」に働きかけることができるとしたら、
そのつど、人は新しく人生を始めることができるのかもしれませんね。

少しずつ、入間さんによって語られたその「子ども時代」について、
想い起こしつつ書いていけたらと思います。



posted by koji at 05:11 | 大阪 晴れ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月11日

〜大人と大人の間の信頼〜 入間カイさんの講演会 1

今日、入間カイさんの伊丹での講演会、
「今、この時代に大人がこどもにできること」を聴きに行ってきました。

アントロポゾフィーを深くから摑んだ彼の話は、
いつもとても明晰で、かつ繊細にことばを選びつつ、
大切な考えをわたしたちに伝えてくれます。

今回は、この講演会の題名からも伺えるのですが、
3月11日後のわたしたちにとって、
とても重く、切実なメッセージが彼から伝わってきました。

このときにあって、
わたしたち大人がいま、もっとも意識して創り上げていくべきもの。

それは、人と人との信頼、
そしてそこからこそ生まれる「つながり」だということ。

3.11後の世は、
わたしたちにいま一度、
人と人との信頼というものを取り戻せ、
そして、大人たちよ、そのために、いま一度、目覚めよ、
というメッセージを送ってくれているのではないでしょうか。


子どもは、大人たちの間の信頼関係をこそ土台にして、
人間として成長していくことができる、
自分の<わたし>を育んでいくことができる。

もしかしたらこれから、
子どもたちにとって、
こころの上でも、
からだの上でも、
健やかに生きていくことが大変厳しい時代になろうとしているのなら、
わたしたち大人は、
なんとかして、
子どもたちひとりひとりの個の成長、
子どもたちの内側から発し、伸び、花開こうとする<わたし>の力を、
邪魔しないようにしなければならない。

そうして子どもの中で育った<わたし>のみが、
外の世界からやってくる様々なものに太刀打ちできる。

その<わたし>のみが、
困難な道を切り開いていくことができる。

そのための具体的、かつ発展的な示唆が、
シュタイナー教育によってなされているのですが、
そのような教育上の示唆以上に、
子どもの側にあるわたしたち大人のありようそのものが、
これからはますます問われていくだろう。

ひとりひとりの子どもの<わたし>は、
大人と大人の間の信頼関係を側で感じることによって、
そしてひとりひとりの大人の自己信頼から生まれる気概に接することによって、
育まれる。

人と人との信頼からこそ生まれる「つながり」。

そして、ひとりひとりの人の内から発せられる自己信頼の光と力。

そのことに真摯に取り組んでいくのに、
アントロポゾフィーからのこころの練習が、
ますます、ものを言ってくるだろう、
今日の講演を聴きつつ、そう強く感じました。

posted by koji at 22:39 | 大阪 晴れ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月10日

こころのこよみ(第36週)〜お金と仕事〜

In meines Wesens Tiefen spricht  

わたしというものの深みにおいて、

Zur Offenbarung drängend  

いま、目覚めよ、と、

Geheimnisvoll das Weltenwort:  

密やかに世のことばが語る。

Erfülle deiner Arbeit Ziele

「あなたの仕事の目当てを

Mit meinem Geisteslichte, 

わたしの精神の光で満たしなさい、

Zu opfern dich durch mich.   

わたしを通して、あなたを捧げるべく」




秋から冬にかけてのここ数週間の一連の『こころのこよみ』において、
上がってきたキーワードは、「仕事」です。

ここで言う「仕事」とは、
まさしく字に書くごとく、
「事に仕えること」でしょう。

己の内に充実し、実ってきた力をもって、
世に出て行き、
世の中で働き、
世に仕える。

世が与えてくれている事に仕える。

そして、人に仕える。

それを「仕事」と言うのでしょう。

その「仕事」においてこそ、
わたしのわたしたるところが感じられ、
そのわたしたるところによって世に息が吹き込まれ、
だんだんとそのわたしたるところが「ありありと世の内にある」ようになってくる。


今週の『こよみ』で、特に言い表されているのは、
その「仕事」の目当てを、
表面的な成果や成功や金や収入や損得に置くな、ということです。

「仕事」に必ずついてまわる「お金のこと」。

その「お金」のことで眠り込むな、ということです。

それは、こういうことだと考えます。

「お金」は、人の生命、生活、人生をなりたたせていく上で、
なくてはならないものと感じられます。

その「金!金!金!」という感じや感情に眠り込むとは、
「金がなければ生きては行けない」という考えにがんじがらめになることであり、
一方、
その感情から目覚めるとは、
「お金は要る人のところへ要る分だけ必ず行くようになっている、
事に仕えることに専念しようとする人のところには、
その仕事に必要なお金は必ず回ってくるようになっている、
よって、
まず何が本質的なこととしてこころに据えられるべきなのか、
それは、
己の内なる力を全部使って、
事に仕えるべく、己をもっていこうとすることだ。
お金は、きっと、要る分だけ、後からついてきてくれる」

わたしは、そう、考え、そう、感じます。

人と人との間でやりとりされるお金というものに関して、
決めるべきことは、はっきりと決めてしかるべきでしょう。

まずは、法の観点から(情)。
または、経済の観点から(考え)。
はたまた、精神の観点から(意志、意欲)。

(ちなみに、
法における平等は、人と人の間に醸されるべき情を大事に汲み取るものであってほしいですし、
経済の友愛は、情からではなく、ある定かな考えからなされてしかるべきですし、
精神の自由は、ひとりひとりの個別の意欲をふさわしく評価することとひとつです。)

しかし、お金というものを含む世のものごとは、
すべて、精神からなりたっています。

その精神をはじめにこころに据えることなくして、
法も、経済も、人間的なものとしてなりたちえないはずです。

生活を織りなしていくために、
まず精神を基に置く。

自分の仕事について、
「その事に愛をもって仕えることができるかどうか」。

そのことをはじめに考えることができるだろうか。

その考えは、
決してこころの表面でのものではなく、
わたしというものの深みにおいて、初めて繰りなされます。

わたしというものの深みにおいて、
世のことばが密やかに語ります。

いま、目覚めよ」と。

「世のことば」キリストは、
わたしというもの、人というもの誰しもの深みにおいてのみ、
きっと、ものを言うのでしょう。

いま、目覚めよ」と。

金は大切だ、生活も大切だ、いのちも大切だ、幸せも大切だ、
しかし、
あなたの仕事の目当てを
わたしの精神の光で満たしなさい。
わたしを通して、あなたを捧げるべく。


posted by koji at 23:51 | 大阪 曇り | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月09日

前田さんのお話し会『冬の・・・ほっこり 小さな物語』

「ことばの家」で集中して学んでいらっしゃる生徒さんのおひとり、
前田さんが年末にお話し会を催します。

小さなお話し会ですが、きっと、
聴き応えのある時間になりますよ!

ぜひ、お近くの方、いらしてくださいね。


冬の小さな物語.jpg
年の暮。
寒くなって参りました。
心の温まるお話はいかがですか。

今回は小さなお話を用意しました。

1.宝のお話
2.ときそば(古典落語)
3.創作 クリスマスのお話

ぶらっとお立ち寄りくださいませ。


日時: 12月23日(金)  午後4時00分〜(約1時間)
    12月24日(土)  午後4時00分〜(約1時間)

場所: 京田辺市興戸公民館 2階和室 
     http://ekitan.com/eknv/C/0/D/Q16QDtx0S4L.html
     近鉄京都線 興戸駅

参加費:無料(定員20名ほど)



主催 : 音なうもの
代表  : セレーナ前田
連絡先 : 0774-26-2891 (TEL/FAX)


posted by koji at 21:27 | 大阪 晴れ | Comment(0) | 講座・公演情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月08日

子どもオイリュトミーワークショップ2011 〜京都〜

京都の流れ.jpg講師紹介.jpgゆめ基金申込書.jpg

友人が催すワークショップのお知らせです。



【子どもオイリュトミーワークショップ2011 〜京都〜】

今回の企画は、
子どもたちにオイリュトミーの楽しさをぞんぶんに味わってもらいたい!
との思いから生まれました。

オイリュトミーの動きを通して物語を味わい、
体をいっぱい使って表現してもらいたいと思います。

2日間にわたるワークショップは、
低学年と高学年の2つのグループに分かれ、同時に進めていきます。

低学年は保護者の方々にも参加していただき一緒に動きます。
高学年は二日間かけて作品に取り組み、その成果を舞台で発表してもらいます。

その後、講師たちによる小さなパフォーマンスもありますので、どうぞ楽しんでご覧下さい。

この機会を通してオイリュトミーが身近なものとなりますよう心から願っています。

シオン音の庭 代表 穴田 眞



日 時   12月 21日(水)・22日(木)

会 場   文化パルク城陽 ふれあいホール・音楽練習室
      京都府城陽市寺田今掘1番地 ■最寄駅近鉄 寺田駅

     
参加費   低学年と保護者 2日間 5,000円
高学年     2日間 5,000円

低学年と保護者 : トルストイ再話「大きなかぶ」
             講 師:オイリュトミスト 松山由紀 ・ 市川聡子  
             ピアニスト:前川佳代
      時間    1日目 13:30〜14:50    2日目 13:30〜17:50


高学年  宮沢 賢治「セロ弾きのゴーシュ」
            講 師:オイリュトミスト 穴田 眞 ・ 安藤 幹人 ・ 川崎 友理子 
            ピアニスト 前川佳代
      時間    1日目 13:30〜16:45      2日目 13:30〜17:50


◉主 催 シオン音の庭

◉申込み FAX 0774-62-6806 メール sion.otono.niwa@gmail.com

子どもゆめ基金助成金助成活動 後援:京田辺市教育委員会 宇治市教育委員会

posted by koji at 22:30 | 大阪 曇り | Comment(0) | 講座・公演情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月06日

こころのこよみ(第35週)〜<ある>と<生きる>〜

Kann ich das Sein erkennen,

<ある>とは何か、わたしは知りえるのか、

Daß es sich wiederfindet   

それを再び見いだしえるのか、

Im Seelenschaffensdrange ?   

こころが活き活きと働くならば。

Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n, 

わたしは感じる、わたしに力が与えられているのを。

Das eigne Selbst dem Weltenselbst   

それは、己みずからが手足となって、

Als Glied bescheiden einzuleben.

世を慎ましく生き抜いていく力だ。




この週の『こよみ』の<ある>ということばから、
言語造形家の鈴木一博さんが以前、
シュタイナーの『礎のことば』について書かれていた文章を想い起こしました。


そもそも、わたしは、気づいたときには、もうすでに、ここにありました。
ものごころがついたときから、
わたしがすでにあらしめられてあることに、気づきだしました。

そして、この<わたしがある>という事態は、
わたしのこころが活き活きと生きて、働いているときにこそ、
まさに、ありありと感じられます。

その感じから始まって、
<わたしがある>ということをより深く、より親しく、より明らかに知っていくためには、
こころにおいて、
活き活きと想い起こすことが助けになります。

何を想い起こすのか。

内に蘇ってくる、ものごころがついてからの想い出。

また、ふだんは想い起こされないものの、
故郷の道などを歩くときに、その場その場で想い出される実に多くのこと。

当時あったことが、
ありありと想い出されるとき、
そのときのものごとだけでなく、
そのときの<わたし>という人もが、
みずみずしく深みを湛えて蘇ってきます。

それらを頭で想い描くのでなく、
胸でメロディアスに波立つかのように想い描くならば、
その想い出の繰りなしは、
みずみずしい深みを湛えて波立ついのちの織りなしと言ってもいいですし、
「精神の海」と呼ぶこともできる。

その「精神の海」に行きつくことによって、
人は「みずからがある」ことに対する親しさを得ることができはしないでしょうか。

そして、その「精神の海」には、
わたしが憶えているこころの憶いだけではなく、
からだが憶えているものも波打っています。

たとえば、
この足で立つこと、歩くこと。
自転車に乗ること。
ことばを話すこと。
子どもの頃に憶えたたくさんの歌。
字を書くこと。筆遣い。
包丁遣い。
などなど。

身についたこと、技量、
それはどのように身につけたかを頭で想い出すことはできなくても、
手足で憶えています。

それらの手足で憶えていることごとへの信頼があるほどに、
人は、<わたしがある>ということに対する確かな支えを持てるのではないでしょうか。

また、パーソナルな次元を超えて、
人という人が持っている、
からだというなりたち、
こころというなりたち、
果ては、
世というもの、
神というもの、
それらも人によって想い起こされてこそ、
初めて、ありありと、みずみずしく、
その人の内に生き始める。

だからこそ、
<わたしがある>という想いを、
<神の内に、わたしがある>、
もしくは、
<わたしの内に、神がある>
という想いにまで、
人は深めることができる。

想い出をみずみずしく蘇らせること。
手足の闊達な動きに秘められている技量という技量を発揮すること。
それらすべてを司っている世の生みなし手にまで遡る想いを稼いで得ること。

それらが、<わたしがある>ということの意味の解き明かし、
<わたしがある>ということへの信頼を生みはしないか。

それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。

そのようにわたしのこころが活き活きと生きることと、
<わたしがある>とが響きあいます。

こころとからだが、活き活きとしているときこそ、
わたしは、ここに、<ある>ことを実に感じ、実に知ります。

<ある>ということを知っていくことは、
世の中において、
こころが<生きる>こと、
手足が<生きる>こと、
わたしまるごとが<生きる>ことと、
きっと、ひとつです。

そして、いまも、これからも、
精神からの想い起こしをすることで、
こころを活き活きと働かせつつ、
力が与えられているのを感じつつ、
手足を使って、
世を生きてゆくほどに、
<ある>ということを、
つまりは、
<わたしがある>ということを、
わたしは知りゆき、再び見いだしていくでしょう。

ここで、『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。

    人のこころ!

   あなたは手足に生き

   手足に支えられつつ、場を経て

   精神の海へと行きつく。

   行われたし、精神の想い起こしを

   こころの深みにて。

   そこにては

   世の生みなし手が司り

   あなたの<わたし>が

   神の<わたし>のうちに

   ありありとある。

   もって、あなたは真に生きるようになる

   まこと人として、世のうちに。


              (鈴木一博さん訳)





posted by koji at 23:25 | 大阪 晴れ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月04日

こころのこよみ(第34週)〜「ある」〜

Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte

密やかに、古くから保たれてきたものが、

Mit neu erstandnem Eigensein

新しく生まれてきた己のありようと共に、

Im Innern sich belebend fühlen:

内において活き活きとするのを感じる。

Es soll erweckend Weltenkräfte

「それは、きっと、目覚めた世の数々の力を、

In meines Lebens Außenwerk ergießen 

わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込み、

Und werdend mich ins Dasein prägen.  

そしてだんだんとわたしを、<ある>の内へと刻み込んでいくだろう」




「密やかに、古くから保たれてきたもの」

それは、
みずからのこころというものの核のことです。

こころは、その相(すがた)を刻一刻と変えます。
しかし、そのこころというものの核は、変わらずに留まり続けます。

その核を「わたしのわたしたるところ」、<わたし>、もしくは精神と言ってもよく、
それを意識の上に据えるために、
メディテーションというこころの練習があります。

そのメディテーションを続けていくならば、
その核を、
「おおもとのみずからにおいて繰り返す地上の人生を貫くところ」(『密の学のあらまし』)
として、どの人もそれを観るのだ、
とシュタイナーは書いています。

この『こころのこよみ 第34週』では、
それを、 「密やかに、古くから保たれてきたもの」と言い表しています。

そのみずからにおいて、
引き続くもの、消え去らないもの、留まるものが、
「新しく生まれてきた己のありようと共に、
 内において活き活きとするのを感じる」
とあります。

秋において、新しく生まれてきた己のありようとは、
実りゆく己として、
強められたわたしとして、
外の人生、仕事、生活の中に見いだすことができるありようです。

ものや人にこころを込めて向かい合うそのたびごとに、
新しく見いだされるそのものや人の輝き。
その輝きを見いだすとき、
実は、そのつどそのつど、
新しい己自身をも見いだしているものではないでしょうか。

人は何かにときめくとき、
ときめいているわたし自身にも気づくことができます。

その、ときめいているわたし自身が、
そのつど、そのつど、新しく生まれる己です。

別の言い方をするなら、
わたしが日々生きる局面という局面には、
生きることの仕合わせが織りなされています。

生きることの仕合わせとは、
わたしと人との間で、
わたしと世との間で、
織りなされる関係性、運命、カルマというものです。

その織りなしの中でこそ、
わたしのわたしたるところが、新しく見いだされます。
古くから保たれてきたものが、新しく見いだされます。

「古くから保たれてきたものが、
 新しく生まれてきた己のありようと共に、
 内において活き活きとするのを感じる」


わたしの中の、
古さと新しさ、
留まるものと新たに生まれたもの、
その織りなしあい。

それが、
人生の外なる仕事と、
内なる<わたし>のありようとの織りなしあいへと、きっと繋がっていきます。

内なる<わたし>が、活き活きとこころに生みだされるほどに、
わたしを囲む世の数々の力も、きっと活き活きと目覚めて、
わたしの人生の外なる仕事に注ぎ込まれてくるでしょう。

「そしてだんだんとわたしを、<ある>の内へと刻み込んでいくだろう」

<ある Dasein>とは、
「存在」「実存」というふうに訳されることが多いと思うのですが、
「はじめにことばありき」のあるですし、
「われあり」のあるですし、
「むかし、あるところに、じいさまとばあさまがあった」の「ある」ですし、
ありとあらゆるものを主語としえる「ある」です。

「古くから保たれてきたものが、
 新しく生まれてきた己のありようと共に、
 内において活き活きとする」
ほどに、
わたしは、
ますます<ありあり>と「ある」ようになっていく。

それは、
みずからの内なる古さと新しさの間の往復と合一、
みずからの内と外の間の往復と合一、
みずからがするメディテーションと仕事の間の往復と合一の中で、
だんだんと感じられていくことです。


posted by koji at 00:01 | 大阪 曇り | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月30日

和歌山&大阪 ☆「子どもも大人も演劇祭!かさじぞう&おはなしのおはなし」公演

演劇塾公演.jpg


この年の暮れ、そして来たる年の始めに、皆さんと喜びを分かち合いたい!
大切なことを思い出したい!

和歌山の岩出シュタイナー演劇塾で学ぶ小学生たちとその親たちが、
クリスマスの時にふさわしい、
ふたつの素朴なお芝居をお届けします。


おはなしとは、そもそも、この世のものではないんだ。
この世に生まれてくる子どもがわたしたち親に、
あの世からおはなしを持ってきてくれるんだよ。
そんな『おはなしのおはなし』を、
小学1年生から3年生の子どもたちが歌い、演じます。


そしてその母親たちが演じる『かさじぞう』
この年から年へと移り変わる大事なときに、
わたしたちは何を待ち望み、
何を受け取ることができるのでしょうか。
昔からずっと語り継がれてきたであろう『かさじぞう』は、
その大切なことをわたしたちに思い出させてくれるかもしれません。


一時間弱ほどの公演の後、
岩出シュタイナー演劇塾のご紹介かたがた、
観に来て下さった方々との交流の時間を設けさせていただきます。
お時間のある方は、どうぞ公演後もご参加くださいね♪



◯日時/  和歌山 12/24(土) 開演午後2時〜
      大阪   1/6(金) 開演午後2時〜


◯場所/  和歌山 米市農園  和歌山県紀の川市北中216
              TEL&FAX 0736-77-3716
              ホームページ http://komeichi.net/
         大阪 くすのき園 あびこシュタイナー幼稚園
           大阪市住吉区遠里小野 5 - 7 - 28
              ホームページ http://kusunokien.exblog.jp/i9/ 
               
◯入場無料(カンパ箱を置いてます。どうぞよろしくお願いします。)

○お問い合わせ 和歌山 「モモの会」  
             E-Mail  momonokai.wakayama@gmail.com
        大阪  「ことばの家」 
             http://www.kotobanoie.net/access.html



※和歌山公演の当日は、12:00〜米市農園さんでピザランチをいただけます。
大人1000円 小学生以下500円(要予約)
ご希望の方は、momonokai.wakayama@gmail.comまでご連絡ください。
なおピザランチの予約は、12/16で締切らせていただきます。
それ以降のご予約はお受けできませんので、ご了承ください。


主催:暮らしの中にシュタイナーの世界観を「モモの会」
    http://momonokai-wakayama.blogspot.com/



【岩出シュタイナー演劇塾】

小学生になった子どもたちは、
演劇のなかで伸びやかに声を出し、
からだを動かして演じ、
楽器を演奏することを通して、
こころとからだとことばをみずから育んでいきす。

わたしたち大人も子どもの側でみずから汗を流して演劇に取り組むことで、
共に喜び、感じ、考えながら、練習しています。

子どもたちは、きっと、そんな大人たちの姿を見ているでしょう。

シュタイナー教育は、そのすべての教科に芸術性が通っていること、
教育そのものが芸術であることを旨としています。

その中でも子どもたちと演劇を創っていくことに焦点を絞って、
この塾は営まれています。

posted by koji at 22:48 | 大阪 曇り | Comment(1) | 講座・公演情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月27日

こころのこよみ(第33週)〜人に任されている仕事〜

So fühl ich erst die Welt,

わたしはいま、世をこう感じる。

Die außer meiner Seele Miterleben

それは、わたしのこころが共に生きることなしには、

An sich nur frostig leeres Leben 

そこにはただ、凍りついた虚しいいのちのみ、

Und ohne Macht sich offenbarend,

そして、力が啓かれることもない。

In Seelen sich von neuem schaffend, 

人のこころにおいて、世は新しく創りなす。

In sich den Tod nur finden könnte.

世そのものにおいては、死を見いだすのみ。




前々週から、
己みずからの内なる力が満ちてくることと共に、
その力をもって世に出て行き、
世に働きかけ、
世と共に生き、
世に何かを生み出す、
そのような人のありようが描かれてありました。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/234925600.html
http://kotobanoie.seesaa.net/article/236130223.html

世とは、
このわたしにとって、
四季折々に織りなしている自然のいちいちのことでしょうし、
人という人、他者のことでもありますし、
それは、このわたしをも含むものでもありますし、
そして、物質の域だけでなく、そこを超えて、
こころの域、
精神の域にまで及ぶものであります。

その「世」というものに、
この「わたし」が働きかけることによって、
何が生じるでしょうか。

たとえば、
こころを籠めて世の何かを、
世話する、
面倒をみる、
手塩にかけて育てる、などなど・・・。
人が、そうするとき、
その何かはどのような変化を見せてくれるでしょうか。

人がこころを注ぎつつ手入れしている庭と、
ほったらかしの庭とでは、
何かが違います。

人が大事に、感謝をもって住んでいる家と、
家のあちこちに対して文句を言いつつ、手入れが行き届かない家と、
また、誰も住んでいない家とでは、
それぞれ、趣きを異にします。

対象が、
庭や家だけでなく、
動物や人ならば、
その違いもより明らかに見られるのではないでしょうか。

それは、決して、気のせいではない、
明らかな趣の違いですね。

今週の『こよみ』では、こう記されてあります。

   わたしのこころが共に生きることなしには、
  そこにはただ、凍りついた虚しいいのちのみ

世は、
人によってこころから意を注がれることを待っているのではないでしょうか。

花も、動物も、水や風やあらゆる自然のものも、
人が創り出したあらゆるものというもの、機械類までも、
そして、
もちろん、人や、
目には見えないが世に存在している者たちも、
人から、こころを向けられるのを待っているのではないでしょうか。

人がこころを注ぐところに、
初めていのちが宿る。

いのち、
それは人が、その人みずからのこころの力をもって、
世に新しく与えることのできる愛、
と言ってもいいかもしれません。

人からの愛が注がれるところに、
初めて、世そのものがもっている力が啓かれる。

地球、そして世は、
人からの積極的な行為、愛を、待っている。

人とは、
なんと大きな仕事を任されていることでしょう。

posted by koji at 10:30 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月20日

こころのこよみ(第32週)〜己の足で立つ〜

Ich fühle fruchtend eigne Kraft

わたしは、実りゆく己の力を感じる。

Sich stärkend mich der Welt verleihn; 

その力は、強められたわたしを世に委ねる。

Mein Eigenwesen fühl ich kraftend 

わたしのわたしたるところを力強く感じる。

Zur Klarheit sich zu wenden  

明るみへと向かうべく、

Im Lebensschicksalsweben. 

生きることの仕合わせが織りなされる中で。




「実りゆく己の力」
「強められたわたし」
「力強く感じられるわたしのわたしたるところ」


それは、どのようなものを言っているのでしょうか。
どのようなわたしの状態を言っているのでしょうか。

人がこの状態を生きることからこそ、人の世に愛が育っていく、
という確信。

シュタイナーのすべての仕事の基は、その確信にあります。

ものには順序があり、
人ひとりひとりが自分の足で立ってこそ、
そこから人と人とのハーモニーが生まれてくる。

ハーモニーを目指して人が集まってくるとき、
みずからの足で立つということを、
ひとりひとりが意識して育んでいくことができればいいですね。

みずからの足で立つという状態は、どういう状態なのか。

このことを論じるのは難しい。

ひとりひとりが、各々の状況にあり、
各々の「仕合わせ(運命)」を生きていて、
その中でみずからの足で立つということは、
それこそ各々のあり方、スタイルでなされていくことで、
一般論では捉えられません。
(たとえば、経済的に自立することが自分の足で立つことだと捉える人もいるでしょうし、
他者への依存心からの決別こそがそうだと捉える人もいるでしょう)

しかし、その己の足で立つということを、
こころの側面で見てみるならば、
そこにひとつの共通した趣きが現れてきます。

考える、感じる、欲する。
このこころの三つの力にある種の調和が息づいています。

安らかさ、確かさ、優しさ、強さ、そして愛が、
こころに息づいています。

また、
自分自身を含めたあらゆるものごとに、
バランスを見いだすことのできるこころの状態とも言えはしないでしょうか。

物質の側面に偏るでもなく、
精神の側面に偏るでもなく、
その両方を兼ね備えた存在として己を見、世のものごとのすべてを見ることができる。

気をつけたいのは、
自分が高みに立ってしまい、
知らず知らずのうちにこころが批判的になることです。

そうなることによって、
ことばの上では精神を唱えながら、
精神が干からびていく。

精神が干からびていけば、
人とものごとの、
こころとからだしか目に入らなくなる。

精神と物質の間のバランスを感じながら、
人は己のこころの充実をもって、
世に出て行きます。

その内なる充実、バランスが、
きっと、外なる充実、バランスを呼び寄せます。

世とは、
その充実とバランスが人によって委ねられているところのものです。

世とは、
人が「わたしのわたしたるところ」から照らす光に応じて、
 「明るみ」を増していくところです。

世とは、
人によって、
 「生きることの仕合わせが織りなされる」ところです。

「仕合わせ Schicksal」とは、
「運命」とも訳されますが、
人がする「仕事」が、
人に「合わさる」ことです。

己の足で立つことから、
人が、
「仕合わせ」をみずから織りなしていきます。

世は、
「明るみ」へ向かって、
人が「わたしのわたしたるところ」から足を踏み出すのを待っています。

人は世によって創られますが、
世も人によって創られます。





posted by koji at 17:42 | 大阪 晴れ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月13日

こころのこよみ(第31週)〜三つの力の織りなし〜

Das Licht aus Geistestiefen,

精神の深みからの光が、

Nach außen strebt es sonnenhaft.  

まるで太陽のように輝きだす。

Es wird zur Lebenswillenskraft 

それは生きる意欲の力になり、

Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit, 

そして、おぼろな感官に輝きいり、

Um Kräfte zu entbinden, 

力を解き放つべく、

Die Schaffensmächte aus Seelentrieben 

こころから創ろうとする力を

Im Menschenwerke reifen lassen.

人の仕事において、熟させる。



考える(思考)、欲する(意欲・意志)、感じる(感情)。

この三つの力が、こころの内に織りなされています。

この第31週の『こころのこよみ』には、
その三つの力がバランスよく織りなされている様が描かれています。

「精神の深みからの光が、まるで太陽のように輝きだす」

メディテーションという、
物質の世にとらわれない、
「まぎれなく考える」行為によってこそ、
この太陽のように輝きだす光を覚えることができます。

また、その「まぎれなく考える」という内なる行為には、
必ず、「考えるに仕える」という意欲の力、欲する力が欠かせません。

アントロポゾフィーのこころの練習においては、
むき出しの意欲に向き合うのではなく、
まぎれなく考えるメディテーションを通して、
意欲の培いに取り組んでいきます。

意欲・意志は、考えることの内に育まれていきます。

まぎれなく考えることから、
つまり、精神の輝く光から、
「生きる意欲の力」が生まれ、育ってきます。

そして、見ること、聴くこと、触れること、その他の感官に、
その光が輝きいります。

「おぼろな感官に輝きいり」

それは、感官という「世を欲する働きと器官」「意欲の器官」に、
考える力が通うということでもあります。

この考える力と欲する力との結びつき、結婚が、
感じる力という子を産みだします。

「力を解き放つ」

そして、その感情の力は、
こころからの情熱となって、
人を仕事に向かわせ、
人を仕事において深め、前進させるでしょう。

「こころから創ろうとする力を、人の仕事において、熟させる」

posted by koji at 07:34 | 大阪 晴れ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月09日

こどももおとなも落語会

空堀ことば塾の子どもたちとジョイントで、
落語を語らせていただきます。(わたしは「時そば」を)

子どもたちのみずみずしい声と共に、
息はずむ時間になりますよ〜!

お時間がゆるせば、どうぞお越しを!


2011年11月23日(水・祝) 
     13:00〜14:00 子どもの落語
     14:00〜15:00 茶話会
     15:00〜16:00 大人の落語  「牛ほめ」「平林」「時そば」

場所: 建築設計事務所 桃李舎 http://www.architect-box.com/27/27_205052.html
                  大阪市都島区東野田町4丁目4−12 
                  tel 06-6352-1717
                  地下鉄長堀鶴見緑地線「京橋」 南東 へ 468 m

参加費: 入場は無料ですが、お茶と手作りのお菓子をご用意します。
       お召し上がりの方は、大人のみお茶券(300円)をご購入下さい。
       よろしくお願いいたします。

posted by koji at 19:22 | 大阪 曇り | Comment(0) | 講座・公演情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月06日

こころのこよみ(第30週)〜自分の真ん中〜

Es sprießen mir im Seelensonnenlicht

こころの太陽の光の中でわたしに生じる、

Des Denkens reife Früchte,

考えることの豊かな実り。

In Selbstbewußtseins Sicherheit  

みずからを意識することの確かさにおいて、

Verwandelt alles Fühlen sich.  

すべての感じ方が変わる。

Empfinden kann ich freudevoll  

わたしは喜びに満ちて感覚することができる、

Des Herbstes Geisterwachen:  

秋の精神の目覚めを。

Der Winter wird in mir   

冬はわたしの内に、

Den Seelensommer wecken.  

こころの夏を目覚めさせるだろう。



ここで、
「こころの太陽の光」とありますが、
そもそも、その「光」を己のこころに感じ、見るためには、
己のこころの中の「闇」を見て、感じていなければ、
きっと、リアリティーのないことばになるのではないでしょうか。

いまを生きている人で、
己のこころの内に闇を感じない人はおそらくいないでしょう。

しかし、感じてはいても、
しっかりと己の内なる闇を見据えることは、
わたしたちの大きく大切な課題のひとつだと言えます。

いま、わたしたちは、その内なる闇を見据えることを通して、
その闇にみずから光を差し込ませるときを迎えています。

秋という季節だからでもありますし、
現代という時代だからでもあります。

それは、
人が己の考える力をしっかりと研ぎ、鍛えるほどに、
わたしのわたしたる拠り所、故郷、真ん中に、
立ち戻ることができる季節であり、時代だからです。

その真ん中とは、
常に生きていくための力の泉が湧いてくるところです。

みずからがみずからに問うことによって考えることから、
人は真ん中に立ち戻ることができ、
その真ん中からは、その人ならではの豊かな実り、命の水が、もたらされます。

そして、内なる闇に光が注がれていきます。

これまでも常に光は注ぎ続けてくれていたのでしょうが、
闇は光を捉えなかった。
しかし、これからは、人が真ん中に立つことを通して、
だんだんと闇は光を捉えていくでしょう。

また、
自分の真ん中を意識できること、
それは落ち着きと確かさと希みをもたらしてくれます。

その落ち着きと確かさと希みは、
世に対する見方、感じ方を、きっと、変えます。

そして、
喜びとは、
自分の真ん中に立つことから生じてくるのではないでしょうか。

それは、精神の目覚めと言ってもよく、
秋のそのような目覚めは、
冬の内なる熱いこころざしと希みに繰りなしていきます。

ちなみに、
訳のまずさを置いておいて、言うのですが、
まずは、この『こころのこよみ』を、
息を使い切りつつ声に出しながら、
何度も味わうことをしてみますと、
読む人のこころが、
そこに書かれてあることばに、
だんだんと寄り添ってくる。
そして、だんだんとこの『こよみ』の意味(こころの味わい)が、
こころに向かって降りてきます。

学びには様々な道がありますが、
(本を読むことなどを通して)アントロポゾフィーの学びをより進めていくことと、
この『こころのこよみ』を繰り返し声に出すこととが相まって、
メディテーションがだんだんとなりたってくる、
そのような道がある。
そうわたしは感じています。


posted by koji at 23:42 | 大阪 雨 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月05日

彫刻の時間 ―継承と展開―

快慶 大日如来坐像.jpg 地蔵菩薩立像.jpg 平安老母.jpg 

先日、上野にある東京藝術大学美術館に、
平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)の彫刻を観に行った。

田中の彫刻に魅せられて、
これまで何度、
岡山県井原市や東京都小平市の田中美術館へ足を運んだことだろう。

今回は、飛鳥から江戸にまで渡る木彫作品とともに展示されているので、
見比べつつ、田中の作品をゆっくり味わいたいと思って、行ってみた。

鎌倉時代の快慶の大日如来坐像(写真左)の側にいると、
その像の組まれた両手と丹田から、
とても強い力が発せられるのを感じ、
おのずと厳粛なこころもちになる。
悪しきものがその強い力によって祓われている感覚があった。

また同じ鎌倉時代の地蔵菩薩立像(写真真ん中)を見上げて、
その立ち姿の静かさに魅せられる。
その表情だけでなく、全身の姿から、
「耳を澄ましておられる」ことが感じられる。
何に耳を澄ましておられるのか、
わたしもその側に立ち、耳を澄ましてみる。


その後、田中の作品にまみえる。
彼は1872年岡山で生まれ、1979年、107歳で亡くなられた。
その生涯に渡る仕事から生まれた多くの作品に、
わたしはこれまでどれほど慰められてきたことだろう。

今回も、本当に見ごたえのある展覧で、こころから満ち足りた。

彼は近代に生きたのにもかかわらず、
以前の時代の芸術家のこころざしに迫るべく、
彫刻という芸術に潜むエーテルの動きを生きた人として、
わたしに強く訴えかけてくるのだ。

近代の田中の作品からは、
観る人の視覚から運動感覚に渡って強く働きかけてくるものを感じた。

いっぽう、
鎌倉時代のふたつの作品からは、
それだけでなく、
さらに観る人の聴覚までにも働きかけるようなものを感じた。

ちなみに、今回の展覧会は明日11月6日で終わってしまうのだが。

posted by koji at 20:43 | 大阪 雨 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月04日

アントロポゾフィー医学入門講座に参加しました



昨日、11月3日午前、
東京の新宿でアントロポゾフィー医学入門講座に参加した。
ドイツの産婦人科医師、クリストフ・ツェルム氏の講演。

医学・医療の前提となる、
「どのような人間認識から医療はなされうるか」ということが語られ、
わたしにとって、とても有益な時間になった。

それは、
普段の医療において、
「どのような人間認識から医療はなされうるか」ということは、
語られているのだろうか、
語られていないのではないか、
ということに改めて気づかされたからだった。

普段の人間のありようを観察していくことで気づかされる、
人というものの多層性。

その観察から人のからだだけではなく、
こころ、精神を視野に入れた何らかの医療がありえる。

そのような人のまるごとを尊重するあり方が、
これからの時代になくてはならないものになっていくだろう。

  自分の亡くなった父のことを思い出すに、
  そう、強く実感する。

まずもっては、
目には入ってこないこころと精神。

それらは、しかし、必ず、からだに、その働きのしるしを残す。

そのかすかなしるしを読み取ることこそが鍵なのだ。

人は、
冷えと熱、
硬さと柔らかさ、
集中と拡散、
そのような両極性において、
まんなかに立つこと、バランスをとることを通して、
その人、その人ならではの健康を獲得していく。

健康とは、
その人がその人になるべく辿るプロセスそのものなのだ。

だから、病気というものも、
崩れたバランスをとり戻して、
その人がその人になるべく辿る、
プロセスの一部ということになる。



ツェルム氏のユーモアを交えた話から、
本に書いてある知を、
語る人ならではの息遣いから聴くことの大切さを感じる。

この聴いた話を、
家庭において病気の人の面倒を見ること、
家庭医学・医療にどう深めていくことができるか。

それが、これからの、わたしの課題である。


posted by koji at 16:09 | 大阪 晴れ | Comment(2) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする