2020年04月09日

種を播かなければならない



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ミレー「種をまく人」



友よ、大地は貧しい。
ささやかな収穫を得るためにも、
ぼくらはたつぷり
種を播かなければならない。
  フリードリッヒ・シュレーゲル
 
 
 

わたしも、いま、豊かな収穫に向けて、
種を、たくさん、播いてゐます。
貧しかつた自分自身といふ大地に。
 
 
ウィルス感染の事実はどうであれ、
いま、わたしには、
さういふ時間が赦されて与へられてゐます。
 
 
人それぞれ事情はあるでせう。
 
 
しかし、こと、わたしには、
いま、豊かな収穫に向けた、
準備の時間をいただいてゐる、
さう感じてゐます。
さう確信してゐます。
 
 

 
友よ、大地は貧しい。
ささやかな収穫を得るためにも、
ぼくらはたつぷり
種を播かなければならない。
 
 
 



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2020年04月08日

こころのこよみ(第52週)〜十字架を生きる〜



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こころの深みから
 
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
 
美が空間の広がりから溢れ出るとき、
 
天の彼方から流れ込む、
 
生きる力が人のからだへと。
 
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
 
精神といふものと人であることを。
 
 
 
Wenn aus den Seelentiefen 
Der Geist sich wendet zu dem Weltensein 
Und Schönheit quillt aus Raumesweiten,
Dann zieht aus Himmelsfernen
Des Lebens Kraft in Menschenleiber
Und einet, machtvoll wirkend,
Des Geistes Wesen mit dem Menschensein.
 
 
 
ものをぢつと観る。
ものがありありとしてくるまで、ぢつと観る。
そのとき、こころの深みが動く。
こころの力を振り絞つて、
そのものとひとつにならうとするとき、
わたしの精神とものの精神との交流が始まる。
 
 
眼といふものは、実は腕であり手なのだ。
 
何かを観るといふ行為は、
実は手を伸ばしてその何かに触れる、
もしくはその何かを摑むといふことなのだ。
 
 
そのやうな見えない腕、
見えない手が人にはある。
 
 
何かをぢつと觀る、それはとても能動的な行為だ。
 
 
おほもとに、愛があるからこそ、する行為だ。 
 
 
 
見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑(とこなめ)の
絶ゆることなく また還り見む
          柿本人麻呂 (萬葉集0037)
 
 
  
そのやうにして、アクティブに、
腕を伸ばすがごとくにものを観、
自然の響き、
音楽やことばの響きに耳を澄ますとき、
方向で言へば、
まさに上から、天から、
そのつどそのつど、
フレッシュな光、息吹き、啓けがやつてくる。
 
 
言語造形をしてゐるときも、同じだ。
 
 
みづから稽古してゐるとき、うまくいかなくても、
それでも繰り返し、繰り返し、
ことばがありありとしたものになるまで、
美が立ち上がつてくるまで、
ことばに取り組んでゐるうちに、
また、他者のことばを
こころの力を振り絞りながら聽いてゐるときに、
「これだ!」といふ上からの啓けに見舞はれる。
 
 
そのたびごとに、わたしは、力をもらへる。
喜びと安らかさと確かさをもつて生きる力だ。
 
 
精神である人は、
みづからのこころとからだを使つて、
ぢつと観る。聽く。働く。美を追ひ求める。
 
 
そのとき、世の精神は、
力強く、天から働きかけてくれる。
 
 
そして、
精神と人とをひとつにしようとしてくれてゐる。
 
 
空間の広がりの中で、
人と世が美を通して出会ひ(横の出会ひ)、
精神との交はりの中で、
人と天が生きる力を通して出会ひ(縱の出会ひ)、
その横と縱の出会ひが十字でクロスする。
十字架を生きる。
 
 
そこで、
『こころのこよみ』は、
この第52週をもつて一年を終へ、
甦りの日(復活祭)に臨む。
 
 

 
 
 
こころの深みから
精神がみづからありありとした世へと向かひ、
美が空間の広がりから溢れ出るとき、
天の彼方から流れ込む、
生きる力が人のからだへと。
そして、力強く働きながら、ひとつにする、
精神といふものと人であることを。
 
 

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2020年04月05日

幼な子たちの御靈に〜『ファウスト』を読んで〜


 
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ゲーテの『ファウスト』を
初めてしつかりと読み終へました。
 
 
最後の節、
「深山の谷」の、
夭折した幼な子の靈たちのことばを読み、
慟哭せざるを得ませんでした。
 
 
【夭折した幼な子たちの合唱】
 
教へて下さい 善き父よ
わたしたちはどこを漂ひ
わたしたちは誰なのか
わたしたちはみな 仕合はせです
わたしたちはみな ここにゐて
こころ穏やかです
 
互ひに手を繋ぎ合ひ
ひとつの喜びの輪になりませう
空をゆつくり巡りながら 声を合はせ
清きこころを歌ひませう
神の教へを受けて育つものは
疑ふことなく信じます
敬ひ信じるあの方を
 
   (『ファウスト』「深山の谷」より) 
 
 

いま、現実の世界でも、
多くも多くの幼な子たちが、
閉じ込められてゐたところから、
救ひ出されてゐるやうですね。
 
 
そんなときに、
この『ファウスト』を読むことができたこと、
そして読み終へた後、
これまでに夭折してしまつた、
幼な子たちの御靈(みたま)が、
いま微笑みながら、
見上げた空に浮かんでゐた小さな雲として、
天へと消ゑて行つたことが、
奇しき「しるし」のやうに思へてなりませんでした。
 
 
 
 
 

『ファウスト』とは、
悪魔と契約を交わした男のお話です。
 
 
彼は最後には、救はれて、
聖なるをとめのもとへと昇つてゆきます。
  

とても僭越なこととは思ひながらも、
先日演じたわたしたちの劇『 をとめ と つるぎ 』と、
この『ファウスト』の大河のやうな精神とは、
ひとすじ繋がつてゐることを知り驚きました。
 
 
これは、『ファウスト』を読み、
また『 をとめ と つるぎ 』を
聴いていただいてゐなければ、
なんのことだか分からないことだと思ふのですが・・・。
 
 
ただ、『ファウスト』の最後のことばだけ、
ここに挙げておきたいと思ひます。
 
 
【神々しく秘めやかな合唱】
 
なべて過ぎゆくものは
たとへに過ぎず
地の上にては至らざりしもの
ここにまったきものとして現はれ
おほよそ ことばに言ひがたきこと
ここになる
とこしへなるもの をとめなるもの
われらを彼方へと導きゆく
 
   (『ファウスト』「深山の谷」より)
 
 
 
をとめと神は いまも ひとつです
神 われらの親なり われらの親なり
神と人 そも親子なり
   (『 をとめ と つるぎ 』より)
 
  



 

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2020年04月04日

帝塚山教室「ことばの家 諏訪」へのお誘ひ


 
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大阪市住吉区帝塚山にある「ことばの家 諏訪」。
ご一緒に、朗読・語り・演劇といふ、
ことばの芸術「言語造形」を楽しんでみませんか。
 
 
物語ること、それは、
自分自身の内側からことばが溢れ出てくる、
喜びの体験です。
 
 
ぜひ、ご一緒に、
ことばの世界を楽しんでみましょう!
 
 
外側の世界からの勢ひに圧倒されず、
自分自身の内側から、
動きを生みだしていきませう。
 
 
舞台に立って、
ご自身を表現していく世界も待っています。
 
 
 
 
いくつかのクラスがあります。
(午前10時から12時半まで)
●月曜クラス(月一回)
●水曜クラス(月一回)
●金曜クラス(月一回)
●日曜クラス(月二回)
●土曜クラス(月三回)
     
 
参加費   最初の体験ご参加  2000円。
次回以降  4回連続ご参加   14000円
 
 
 
講師:諏訪耕志プロフィール 
言語造形のためのアトリエ、
『ことばの家 諏訪』主宰。
1964年大阪市出身。
日本語の美と風雅(みやび)を
甦らせていくことを念願にしてゐる。
 
 

ご連絡先:
「ことばの家 諏訪」  
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20
Tel/Fax 06-7505-6405  
e-mail info@kotobanoie.net
ホームページ https://kotobanoie.net/

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継続することのたいせつさ



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4年前の今日も舞台をやつてゐたんだなあ。
 
 
樋口一葉の『十三夜』です。
 
 
一葉の擬古文を現代語訳せず、
そのまま言語造形にかけたものでした。
 
 
ことばの意味ではなく、
ことばの動きや間、
内的な身振りや音楽的な調べで、
表現して行つていいんだ、
といふことを、
理屈ではなく身体で学び始めたのは、
この作品あたりからでした。
 
 
何事も続けることがたいせつだと、
いまあらためて念ひます。
 
 
――――― 
 
 
先日の川崎市まぶね教会での言語造形公演、
「十三夜」を無事終へさせていただきました。
 
 
足を運んでいただいた皆さん、
本当にありがたうございました。
 
 
当日を終へて個人的に感じましたことが、
ふたつありました。
 
 
まづは、
樋口一葉の文章を
全身をもつて発声していくといふこと。
 
 
きつと、作家は、
頭だけで文章を書いてゐません。
全身で書いてゐます。
ですから、文章を書くには、
健康なからだが要ります。
 
 
しかし、一葉は、
からだを健やかに保つだけの
生活的条件にあまりにも恵まれてゐませんでした。
それゆゑ、みづからのからだを蝕んでしまいました。
  
 
そのやうに、
からだに刻み込むやうにして
記された文章といふものを、
わたしたちが発声するとき、
口先だけで発するのではなく、
充分な健康をもつて、
全身をもつて発するときにこそ、
文章はその精神を顕はにしてくれる
といふことです。
 
 
精神的な仕事といふものは、
全身を使つての、
からだまるごとからの仕事からのみ
成り立つのだといふこと。
 
 
ひとつひとつの発声で
自分自身の立ち位置が決定されてきます。
一文一文、
前方に限りなく広がつてゐる空間に
ダイヴィングするやうに、
ことばを発していくことによつて、
世界が変はつていくのです。
活路が開かれていくのです。 
 
 
そして、もうひとつは、
小さなことをていねいに描くことを、
いくつもいくつも積み重ねることによつてのみ、
大きなことを表現することができるのだといふこと。
 
 
具体的なディテールを
どんどん描き続けていくうちに、 
ぐわつと大きな感情の波が立ち上がつてくる。
この作品の奥底に静かに流れてゐるテーマの
大きさに触れることができる。
 
 
今回の稽古においては、
わたしの方が、
パートナーの千晴にたくさんの細やかな示唆をもらひ、
多くのことを学び、助けられました。
 
 
地に足をしつかりとつけて、
この手でしつかりと物を摑むが如く、
この目で見、
この耳でじかに聴くが如く、
汗を流し、
涙と血を流すが如く、
このからだを通してこそ響いてくるものを、
ひとつひとつ大事にすること。
 
 
どれほどのものが聴いて下さつた方々と共有できたのか、
それは未知のものではありますが、
同じ時と場を共に創ることができたやうな、
そんなこの上ない充実感を
わたし自身いただくことができました。
 
 
素晴らしいギター演奏をしてくれた清水さん。
司会を務めて下さつた大原さん。
受付をひとりでやつてくれた志穂ちやん。
会場の外でお客様を誘導してくれた瓦吹さん、加藤さん。
お客様にお茶の用意をしてくださつた愛さん。
暖かいこころで
わたしたちの儀式を見守つてくださつた石井牧師。
そして来て下さつたすべてのお客様。 
皆さんのお蔭で公演は成り立ちました。
かさねがさね、本当にありがたうございました。
 
 
またこれからも言語造形の舞台を
創りつづけていきますので、
どうぞ、どうぞ、よろしくお願ひいたします。 


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2020年04月01日

5月からの「缶詰・宮澤賢治」クラスのお知らせ


 
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来年、令和3年3月に、
言語造形による舞台劇
『缶詰・宮澤賢治』(構成・演出 諏訪耕志)
を演じるメンバーを募集いたします。
 
 
この5月から土曜日、
月に三回のペースで、
(7月のみ二回、
 本番前の2月、3月には、
 必要に応じて更なる回数)
「ことばの家 諏訪」にて、
言語造形の稽古をいたします。
 
 
ことばの造形による、
宮澤賢治の世界。
 
 
それは、
宇宙大の広やかさと深さを湛えるひとりの人
といふもの、さらには、
その人と自然との交感を歌ひ上げるものです。
 
 
ことばによる表現の極みを目指す舞台にしたい、
さう考へてゐます。
 
 
賢治が描かうとした、
この世と精神の世との交はり。
 
 
芸術とは、まさに、
その交はりを描くものであり、
その交はりを生きるものです。
 
 
一年間のこの舞台創りを通して、
その交はりを共に生きませんか。
 
 
この舞台創りを通して、
あなたも言語造形をする人として、
足掛かりをつけていきませんか。
 

この舞台創りを通して、
ここ日本に、
言語造形といふ芸術を
共に仕立てていきませんか。

 
 

   講師:諏訪耕志(言語造形をする人)
 
 

――――――
 
 
『缶詰・宮澤賢治』クラス
 
 
 
【稽古日程】
 
令和2年 5月より土曜日
5/9, 5/23, 5/30,
6/6, 6/13, 6/27,
7/4, 7/11,
8/1, 8/8, 8/22,
9/5, 9/12, 9/26,
10/3, 10/10, 1024,
11/7, 11/14, 11/28,
12/5, 12/12, 12/26,
1/9, 1/23, 1/30,
2/6, 2/13, 2/27,
3/6, 3/13(本番), 3/14(本番)
 
※本番前の2月、3月は、
 必要に応じて平日稽古あり
 
 
 
【時間】
 
午前9時半から13時
(本番が近づく2月、3月は、
 必要に応じて午後も稽古あり)
 
 
 
【参加費】
 
月謝制
稽古日二回の7月は、8000円
稽古日三回の月は、12000円
稽古日四回以上の月でも、12000円
 
一括払ひ
116000円(1か月分お得です)
 
(資料代、衣装代など製作費含む)
 
その他、本番&リハーサル会場費は全員で負担
 
 
 
【稽古場】
 
「ことばの家 諏訪」 帝塚山教室 
https://kotobanoie.net/access/ 
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20  
南海高野線「帝塚山」徒歩5分
 
 
 
【本番日(予定)】
 
令和3年(2021年)3月13日(土)、14日(日)
 
 
 
【本番会場】
 
未定 
 
 
 
【お問ひ合はせ】
 
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
 
 

posted by koji at 10:07 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第51週) 〜花が待つてゐる〜


 
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金沢の武家屋敷庭にて。

 
 
人といふものの内へと
 
感官を通して豐かさが流れ込む。
 
世の精神は己れを見いだす、
 
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
 
その相(すがた)から力が、
 
きつと新たに汲み上げられる。
 
 
 
Ins Innre des Menschenwesens
Ergießt der Sinne Reichtum sich,
Es findet sich der Weltengeist
Im Spiegelbild des Menschenauges,
Das seine Kraft aus ihm
Sich neu erschaffen muß.
 
 
 
より目を開いて、より耳を澄まして、
ものごとといふものごとに
ぢつと向かひあつてみれば、
ものごとは、
より活き活きとした相(すがた)を
わたしに顯はしてくれる。
 
 
わたしが花をそのやうに觀てゐるとき、
花もわたしを觀てゐる。
 
 
そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、
もはや死んだものではなく、
ますます、ものものしく、活きたものになりゆく。
 
 
また、わたしの瞳も、
だんだんとそのありやうを深めていく。
物理的なものの内に精神的なものを宿すやうになる。
 
 
花へのそのやうなアクティブな向かひやうによつて、
わたしみづからが精神として甦る。
 
 
そして、その深まりゆくわたしの内において、
花の精神(世の精神)が甦る。
花の精神は、さういふ人のアクトを待つてゐる。
 
 
「待つ」とは、そもそも、
神が降りてこられるのを待つことを言つたさうだ。
 
 
松の木は、だから、神の依り代として、
特別なものであつたし、
祭りとは、その「待つ」ことであつた。
 
 
中世以前、古代においては、
人が神を待つてゐた。
 
 
しかし、いま、神が人を待つてゐる。
世の精神が人を待つてゐる。
 
 
世の精神が、己れを見いだすために、
わたしたち人がまなこを開くのを待つてゐる。
わたしたち人に、
こころの眼差しを向けてもらふのを待つてゐる。
 
 
植物は、激情から解き放たれて、
いのちをしずしずと、淡々と、
また悠々と営んでゐる存在だ。
 
 
しかし、植物は、
人の問ひかけを待つてゐるのではないだらうか。
 
 
さらには、人のこころもちや情に、
応えようとしてゐるのではないだらうか。
 
 
人と植物とのそのやうな關係は、
古来、洋の東西を問はず営まれてきた。
 
 
とりわけ、日本にをいては、
華道、さらには茶道が、
そのやうな植物と人との關係を
この上なく深いものにしてゐる。
 
 
それは、表だつて言挙げされはしないが、
植物を通しての瞑想の営みとして
深められてきたものだ。
 
 
落(おち)ざまに 水こぼしけり 花椿
松尾芭蕉
 

 
 
 
人といふものの内へと
感官を通して豐かさが流れ込む。
世の精神は己れを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
その相(すがた)から力が、
きつと新たに汲み上げられる。
 

  

posted by koji at 00:28 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月31日

ノート『 をとめ と つるぎ 』と公演ご感想



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この『 をとめ と つるぎ 』といふ作品。
 
 
これは、
わたしたちの国にずつと貫かれてゐる悲願、
そのやうなものを描かうとした作品でありました。
 
 
歴史の流れの底に、
静かに、しかし、確かに流れてゐるもの。
 
 
それは、
「死して生きる」
といふ精神伝統です。
 
 
また、わたしたち「ことばの家」の舞台は、
ことばの働きそのものを
ぢかに打ち出す芸術です。
 
 
ゆゑに、
舞台に立つひとりひとりの俳優に、
とても大きな負荷を掛けてしまはざるを得ません。
 
 
演出家のわたしは、
ことばの一音一音の発し方にまで、
厳しく注文をつけざるをえませんでした。
 
 
いはば、
作曲されたスコアを、
演奏する者の技量が多く必要とされる舞台だつたのです。
 
 
舞台に立つた俳優のみんなは、
本当に頑張つてくれました。
 
 
お客様から暖かいご感想をいただけたこと、
本当にありがたいことです。
 
 
ここにご紹介させていただきます。
 
 
ことばが難しかつたといふご感想が、
ちらほら見受けられるのですが、
意味などは分かつても分からなくても、
さほど問題ではありません。
 
 
古格を湛えた日本語が俳優の肉体に宿ること、
そして、その肉体から、
光のやうにことばが放射されること、
嵐のやうにことばが巻き上がること、
それこそが、
今回の舞台の眼目でありました。
 
 
皆様、本当にありがたうございます。
 
 
この作品が、
この国の甦りに繋がることを、
切望してゐます。
 

なぜなら、
この国は言霊の助くる国だからです。
 

 
―――――


今日は公演ありがとうございました。
始められたときにはおそらく、
そのように想定されていた訳ではないと思いますけれど、
今このようなときに、
必要な公演をしてくださったように思いました。
 
個人的には、
諏訪家の御長女、夏木さんが公演前の案内をしてくれ、
まるでプロデューサーのように一番後ろで、
観客を気遣って居る姿、
かさねさんの天才的な演技だけでも、
もう感無量でした。
 
人と人との横の繋がりが、遮断されている今、
それぞれが、自分を見詰める作業をしているのだと思います。
「辛苦みつつ降りし」(たしなみつつくだりし)
素戔嗚命、日本武尊、仲哀天皇の如く、頼りを挫かれ、
断腸の想いの中に居る方もたくさんいらっしゃるでしょう。
その中で、それぞれの剣をとり、
進まねばならない時にあるのだろうと思います。
コロナという天照らす太陽の光冠を意味する名にも、
深意を感じざるを得ません。
 
公演前には、また住吉大社と大海神社に参拝できました。
そして権禰宜の小出さんから、
神功皇后のお話も直々にお伺いし、有り難い1日でした。

(MDさん)
 
 

昨日は素晴らしい舞台をありがとうございました。

出演者のみなさんからの
言葉ひとつひとつへの熱い想いを
真正面という特等席で浴びるように受け取って涙あふれてきました。

古の神々は、遠い遠い存在なのに、
すぐそばにいるような身近な存在にも感じられて、
終わったあとはなんとも不思議な感覚でした。

知識不足もあり、また言葉も難しい場面もあり、
正直深く深く理解することはできなかったと思うのですが、
自然とあふれてしまう涙に自分自身驚きながら、
心がふるえているのを感じて、
理解しようと懸命に観るのではなく、ただ、受け取る、
ただ、ことばの力、パワー、エネルギーを浴びながら、
その世界に、空間に、浸る、それでよいのかな、
と途中から自然とそんな風にいられたようにおもいます。(今思い返すと、、、)

大変な状況の中、開催を決意してくださったこと、
そしてお忙しい中お声かけくださったことにほんとうに感謝しています。
ありがとうございます🙏😌

かさねちゃんの堂々とした姿、
澄み渡る声、軽やかに舞うような所作にも感動しました。

これからもみなさまの世界に触れられる機会を楽しみにしております。

(NCさん)



昨日は、本当に素晴らしい公演ありがとうございました。
 
まだ、ぴったりかみあうことばが見つからないのですが、
なにか、私たち一人ひとりが脈々と受け継ぎ、
魂に刻んでいる精神に、響き、
スイッチを押してもらった感覚になっています。
 
そして、どうして、私自身、
こんなにもこの『をとめとつるぎ』公演を
たのしみにしていたのかも分かった気がします。
 
今回、日々刻々と変わる状況。
舞台以外のところでのたくさんの対応に負われ、
舞台に集中することがものすごく難しい状況だったと思います。
でもでも、演者さん、おひとりお一人、
どなたも全くブレがなく、立ちあがっていく舞台。
そこにも深く感動しました。
本当にありがとうございました。
 
(TKさん)
 


素晴らしい芸能、
芸術の世界を体験させて頂き有難うございます。
この世の中の流れの中の上演は、
演じた側も観た側も全て必要だっと
(悩み葛藤したこと含めて)確信しました。
しばらく波立つ日々が続くと思いますが、
お互い健やかに上機嫌にまいりましょう。
 
(MMさん)
 

 

昨日はありがとうございました!!
 
こんな国難のときだからこそ、
日本を造りあげて下さった神々達や英霊やご先祖様の
祈りや愛の中で生きていることを感じて涙止まらなかったです〜!
 
娼婦が出てくるところも諏訪さんの優しさを感じ、また号泣しました!!
どんな者の中にも平等に光や愛が降り注いでいることを実感して、
自分がどれだけ祈られている存在か、泣けて泣けて仕方なかったです!!
 
ほんとありがとうございました。
 
(SIさん)
 

 
悩んだ上の覚悟の決断だった事、
みなさんの演技からもひしひしと伝わってきて
その命がけの舞台に感動で胸が震えました。
自己を超えて表現されているそれぞれの役柄の
本人の思いを背負い受け取って、感動しました。
 
出演者の皆様によろしくお伝え下さいませ。
感謝と感動でいっぱいです。と
 
素晴らしい時間をありがとうございました
 
(YEさん)
 

 
昨日は、ありがとうございました。

私は権禰宜さまのお話も興味深かったです。
2月にどうしても気になった「出雲と大和」展を観に、
東京へ行きました。
七支刀がすごく気になり、
石上神宮に参りたいなぁと思っておりました。
神功皇后とご縁あるものだったのですね。

私は、「をとめ」という女性性と、
「つるぎ」という男性性のムスビを、
また深く人生で味わっていきたいと思いました。

母は、くびきを残したのだーという物語の背景に、
すごく響くものがあったようで、涙していました。

素晴らしい芸術に触れて、感動の1日でした。

ありがとうございました。

(FRさん)



力強いエネルギーを感じました。

前にお聞きした、なぜヤマトタケルノミコトは、
伊吹山に行くときに草薙剣を持って行かなかったのか?への、
答えがほのめかされてましたね。

「くびきを残した」と言うのが何に当たるのかを、
考えたいと思います。

皆様方の熱演も素晴らしく、
また娘様が見事に演じられて、感動いたしました。

ありがとうございました。

(THさん)



諏訪さん、ありがとうございます!おつかれさまです。

本当、諏訪さんの精神が貫かれた作品に触れられて、
みなさんの魂からの言葉の響きに、
あの場の一部になったような時間を共有させて頂き、
自分の中にもあるものと共鳴して、
ここにいさせてもらっているのだなぁという喜びも感じ、
本当に素敵な時間を過ごさせて頂きました。

みなさんもですが、娘さんも本当になんともなんとも素敵です〜♡♡
本当に目に見えない世界をみせてもらいました。
そして終わった後の少女に戻ったキュートさに惚れてしまいます。

この度の勇気ある講演、ありがとうございました!

(TSさん)




この度は言語造形劇「をとめとつるぎ」舞台公演を
ご成就いただきましたこと、
まことにありがとうございました。
 
 
私ごとき演芸等に疎い者から見ても
素晴らしい世界観に引き込まれました。
繊細に紡ぎ出された物語は、
諏訪様の高いご見識と感性あってこそ
練り上げられたものと感じました。
 
 
神と人との関係を見事に扱うことは
難しいことと思われますが、
今回その題材には、
ヤマトタケルとタラシナカツヒコ、
ヤマトヒメとオキナガタラシヒメ、
その二者の重なりによる苦悩を
それぞれが語ることで、
古代日本の神人関係を見事に実現化されたものと思います。
 
 
ましてや、神明に奉仕する一神職として、
それらの情景は真に迫るものがありました。
 
 
また、折にふれて歌を入れられましたが、
「あれ、どこかで聞いたような言葉が…」と思へば、
万葉集の水江浦島子の短歌であったりと、
場面を見てこそその選択に合点がいったりして、
心から恐れ入った次第です。
 
 
長々と感想文を書けばキリがありませんが、
この混迷する疫病流行化の情勢のなか、
十二分に言語造形劇を作り上げられご公演せられたことに、
なによりも厚く御礼を申し上げます。
 
(KEさん)

―――――

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2020年03月30日

新学期を迎へる今


 
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平櫛田中作「第一歩」


 
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時
高天原(たかまのはら)に
なりませる神の御名(みな)は・・・
 
 
この文から『古事記(ふることぶみ)』は始まります。
 
 
日本の神話では、
天地の初めといふ意識を
つねなること、
いまのいま、
と教へてきたやうに思ひます。
 
 
それが『古事記』が伝へる、
思想であり、精神的感覚です。
 
 
古は今にあり、
今に古がある。
 
 
つねに、
初めに還る、
永遠といふ循環の思想です。
 
 
さあ、
新しく勉強を始めよう。 
新しく稽古を始めよう。
新しく仕事を始めよう。
 
 
学校が新学期を迎へられるのか、どうか、
勉強を始めるのに、
そんなことはどうでもいいことなのです。
 
 
自分自身から始めていきませう!
 
 
 


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2020年03月29日

言語造形劇「 をとめ と つるぎ 」



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昨日、言語造形劇「 をとめ と つるぎ 」、
大阪での上演を終へました。
 
 
この状況の中、
お越し下さつた皆様、
そしてお越しになれなかつた皆様、
皆様のおこころに支へられ、見守られ、
わたしたちは仕事をさせていただきました。
 
 
このささやかな仕事が、
皆様への、
この国への、
そして、この世とあの世への、
いのちのはなむけになりますことを、
祈ります。
 
 
言語造形といふ芸術が、
この世に何をもたらすことができるのだらうか、
と問ひかけながらの試みでした。
 
 
劇上演前に、神功皇后の各地に残る伝承を
魅力たつぷりに物語つて下さつた、
住吉大社権禰宜の小出英詞様、
そして、
劇上演のために、
本当に献身的に手伝つて下さつた皆様、
本当に、こころより、感謝申し上げます。
 
 
このたびは、
中止になりました、
東京公演にお申込みいただいてゐた方々からも、
ご援助をいただき、
何とも申上げやうのないほどの感謝を感じてをります。
 
 
演じてくれた仲間たち、
一年間、稽古につきあつてくれたこと、
こころより、こころより、感謝します。
 
 
皆様、ありがたうございました。
 
 
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住吉大社権禰宜の小出英詞さんによる講演『今蘇る神功皇后の伝承』


posted by koji at 22:52 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月26日

「をとめとつるぎ」東京公演の延期につきまして


  
昨日25日に、
東京都知事による緊急記者会見が行われ、
今週末の不要不急の外出自粛を都民に求めました。
  
 
実際の科学的・医学的な状況がどのようなものか、
それは不分明です。
  
 
しかし、そのことを別にしましても、
このような社会情勢の中、
わたくしどもの日曜日29日に上演予定でありました、
『をとめとつるぎ』東京公演を実施することは、
とても難しいと判断をせざるをえませんでした。
 
 
できうる限りの用心をした上での
公演実施を考えておりましたが、
都知事からのこのような要請が出ました以上、
来られるお客様、スタッフたちの心配を
看過することはできません。
 
 
楽しみにしていて下さった方々、
お申し込み下さった方々には、
まことに申し訳なく、かつ残念に思います。
 
 
代金をお振り込み下さった方々には、
わたくしどもからご連絡もさせていただきますが、
これをご覧になられた方は、
お振り込みの銀行口座などを
お知らせいただけませんでしょうか。
 
 
公演後になってしまいますが、
なるべく早急に御返金させていただきます。
 
 
東京公演、
中止ではなく、
延期の可能性を探っていきたいと思っております。
 
 
まことに断腸の念いです。
 
 
なにとぞ、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 
 
 
令和2年3月26日 「ことばの家 諏訪」 諏訪耕志拝
 

posted by koji at 20:00 | 大阪 | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月24日

こころのこよみ(第50週)〜願はくば、人が聴くことを!〜



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人の<わたし>に語りかける。
 
みづから力強く立ち上がりつつ、
 
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
 
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
 
「あなたの内に、
 
 わたしのいのちを担ひなさい。
 
 魔法の縛りを解いて。
 
 ならば、わたしは、
 
 まことの目当てに行きつく」
 
 
 
Es spricht zum Menschen-Ich,
Sich machtvoll offenbarend
Und seines Wesens Kraefte loesend,
Des Weltendaseins Werdelust:
In dich mein Leben tragend
Aus seinem Zauberbanne
Erreiche ich mein wahres Ziel.
 
 
 
 
春が少しづつ近づいて来てゐる。
木々や草花たちのたたずまひ。
なんと「ものものしい」までに、
活き活きとしてゐることだらう。
 
 
明るく暖かな日差しの中で、
それぞれの植物が歓声を上げてゐるのが
聴こえてくるやうな気がする。
 
 
この週の「こよみ」において、
「世のありありとした繰りなす喜びが、
人の<わたし>に語りかける」とある。
 
 
この語りかけを人は聴くことができるだらうか。
 
 
2行目に「offenbarend」といふことばがあつて、
それを「立ち上がりつつ」と訳してみたが、
鈴木一博さんによると、
この「offenbaren」は、
「春たてる霞の空」や、
「風たちぬ」などの
「たつ」だと解いてをられる。
 
 
「たつ」とはもともと、
目に見えないものが
なんらかの趣きで開かれる、
耳に聴こえないものが
なんらかの趣きで顕わに示される、
さういふ日本語ださうだ。
 
 
「春がたつ」のも、「秋がたつ」のも、
目には見えないことだが、
昔の人は、それを敏感に感じ、
いまの大方の人は、それをこよみで知る。
 
 
いま、植物から何かが、
「力強く」「ものものしく」立ち上がつてきてゐる。
 
 
人の<わたし>に向かつて、
<ことば>を語りかけてきてゐる!
 
 
わたしはそれらの<ことば>に耳を傾け、
聴くことができるだらうか。
 
 
喜びの声、励ましの声、
時に悲しみの声、嘆きの声、
それらをわたしたち人は聴くことができるだらうか。
 
 
それらを人が聴くときに、
世は「まことの目当てに行きつく」。
 
 
「聴いてもらへた!」といふ喜びだ。
 
 
世が、自然が、宇宙が、喜ぶ。
 
 
シュタイナーは、
「願はくば、人が聴くことを!」
といふことばで、
晩年の『礎(いしずえ)のことば』
といふ作品を終へてゐる。
 
 
願はくば、人が、
世の<ことば>を、
生きとし生けるものたちの<ことば>を、
海の<ことば>を、
風の<ことば>を、
大地の<ことば>を、
星の<ことば>を、
子どもたちの<ことば>を、
聴くことを!
 
 
 
 
 
人の<わたし>に語りかける。
みづから力強く立ち上がりつつ、
そしてものものしい力を解き放ちつつ、
世のありありとした繰りなす喜びが語りかける。
「あなたの内に、
 わたしのいのちを担ひなさい。
 魔法の縛りを解いて。
 ならば、わたしは、
 まことの目当てに行きつく」
 
 

posted by koji at 23:04 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

わたしが、つるぎをとります〜「 をとめ と つるぎ 」に見る神功皇后〜


 
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静かさに満ちてゐる住吉のやしろ。
 
 
朝ごとに参るたびに、
この地を産土の地として、
生きてくることができたことを
仕合はせに思ふのです。
 
 
これほどに美しいところであつたか。
神のゐますところ、かくも近くあつたか、と。

 
今回のわたしたちの舞台
『 をとめ と つるぎ 』は、
ここの御宰神であられる、
住吉三神と神功皇后の御登場によつて、
幕が閉められます。
 
 
神功皇后(劇中では息長帯比売命)は、
突然、御崩御された仲哀天皇に代はられ、
天照大御神の御こころを受けられた
住吉三神の御神勅のままに、
征戦を率ゐ給ひて、
韓の国に船で向かはれます。 
 
 
このときの御進発に当たつての、
全軍に下された神功皇后の御ことばが、
日本書紀に記されてゐます。
 
 
――――
 
 
吾(あ)れ婦女(たをやめ)にしてまた幼し、
しかれどもしばらく
男貌(ますらをのすがた)をかりて、
あながちに雄略(ををしきはかりごと)を起し、
上は神祇(あまつかみくにつかみ)の
霊(みたまのふゆ)を蒙(かがふ)り、
下は群臣(まへつきみたち)の助けによりて、
兵(つはもの)を起して高き波を渡り、
船を整へてもつて財の土(くに)を求めむ。
もし事ならば群臣ともに功(いさをし)あり、
事ならずば吾(あ)れ独り罪あらむ。
すでにこのこころあり、それ共に議(はから)へ。
 
 
――――
 
 
ここに、
「事ならずば吾(あ)れ独り罪あらむ」とは、
住吉の三柱の大神の御神勅のままに、
事を決する一大決心を述べられてゐます。
 
 
臣下にもし罪があつて、
事が不成功に終はつたとしたら、
その罪はすべてご自身にあると、
申されてゐます。
 
 
わたしたちの劇では、
神功皇后はかう申されてゐます。
 
 
「わたしが、つるぎをとります」
 
 
最大の男性性の体現であり、
また神の意をそのままに受け入れられる、
最大の女性性の体現者。
 
 
その方が、神功皇后であります。
 
 
このたびの劇には描かれてゐませんが、
御子の応神天皇を補佐する、
その後の御摂政でも、
神功皇后は政治を執り行ふときは、
ことごとく、
神の意を聴きながら、
なされたやうです。
 

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神功皇后が鎮まられてゐる第四本宮。朝日に浮かぶオーブが美しい。

 
 
言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
https://kotobanoie.net/play/
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)

posted by koji at 15:46 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 神の社を訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月22日

開演時間を遅くさせないために



皆様、こんにちは。
 
 
昨日お知らせさせていただきましたやうに、
言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
https://kotobanoie.net/play/
28日大阪公演、29日東京公演、
開催いたします。
 
 
つきましては、
口頭などでご参加意思を示して下さつてをられる皆様、
まことに恐れ入りますが、
公演前日の27日(金)までに、
下にございます、ゆうちょ銀行の口座に、
お振り込みいただけますでせうか。
 
 
御参加の旨、
何らかの形でお伝へして下さつてゐる方が、
当日お越しになるのを
わたくしどもは待つのですが、
もしお越しになりませんと、
開演時間を意味なく、
遅らせることになつてしまふのです。
 
 
お振り込みをしていただき、
ご参加の意志をお教へいただけましたら、
大変助かります。
 
 
どうぞよろしくお願ひいたします。
 
 

諏訪耕志拝
 
 
 
事前お振込制、全席自由席。
. 
 
 
ゆうちょ銀行
以下にお振込みの上、 ことばの家 諏訪 までご一報くださいませ。
 
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
 
言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
https://kotobanoie.net/play/
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)
 
 

 
【 お問い合わせ 】
 
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 

posted by koji at 12:29 | 大阪 | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月21日

言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』上演につきまして



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今月28日(土)29日(日)に予定しております、
わたくしどもの言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』、
大阪、東京、予定通りそれぞれ上演いたします。
 
 
武漢ウィルスによるこの状況の中で、
上演することには、リスクがあります。

 
しかし、会場における感染防止のための、
わたくしどもができる最善の措置をした上で、
また、お越しいただくお客様にも、
ご理解ご協力をお願いすることで、
わたくしどもの作品を、
いま、世に出すことを決めました。
 
 
もちろん安易な判断は慎むべきですが、
芸術の火を灯していく必要を感じています。
 
 
御理解いただきましたならば、ありがたく存じます。
 
 
健康と生命は言うまでもなくとても大切なものです。
すでにお申し込み、ご入金いただいております方で、
ご来場を辞退なさりたいという方、
どうぞ公演前日までにお知らせください。
公演後になりますが、
なるべく早くに必ず御返金させていただきます。
 
 
 
 

以下、上演するにあたりまして、
お伝えいたしたいことを記させていただきます。
 
 
上演実施にあたりましては以下の措置をいたします。
・劇場施設内に除菌スプレーを設置します。
・場内換気のため、
 上演前、上演中の休憩時にドアなどを解放します。
・お客様おひとりおひとり離れて座っていただけるよう、
 座席をご案内させていただきます。
・受付や運営に携わるスタッフはマスクを着用します。
 
 
また、ご来場くださる皆様には、
以下のことをお願いいたします。 
・ご来場くださるお客様は、
 必ずマスクを着用のことお願いいたします。
・会場にお入りになる時には、
 設置してあります除菌スプレーにて、
 両手の殺菌をお願いいたします。
・ご来場当日に体調がすぐれないお客様、
 咳・発熱の症状のあるお客様は、
 外出をお控えください。

 
なにとぞ、どうぞよろしくお願い申し上げます。
わたしたちは、お待ちしております。 
  
 
こういうときだからこそ、
上演されるべき作品だと感じています。
 
 
 

 
「この国を守り給へ、
 我と汝の御子を、守り給へ―――― 」
         ( 『 をとめ と つるぎ 』より )
 
 
 
 
 

言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
https://kotobanoie.net/play/
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)



posted by koji at 19:33 | 大阪 | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月16日

こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜



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「わたしは世のありありとした力を感じる」
 
さう、考への明らかさが語る。
 
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
 
暗い世の夜の中で。
 
そして世の昼に近づきゆく、
 
内なる希みの光をもつて。
 
 
 
Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.
 
 
 
今回の『こころのこよみ』について、
以前書いたもののうちのひとつに、
2011年3月11日のことがあつてすぐのものがある。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/191122893.html
 
 
地震と津波と原発事故から
遠く離れた大阪に生きてゐる自分にとつてさへも、
この『こよみ』で言はれてゐることが、あの当時、
リアリティーをもつて強く迫つてきた。
 
 
また、いま、世界中に拡大してゐる、
武漢発のウィルスの脅威が、
わたしたちに押し寄せてゐる。
 

この週の『こよみ』に、
もう一度向かひ合ふ中で、
シュタイナーの1923年2月3日、4日の
ドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、
今週の『こよみ』が響き合つてきた。
 
 
春が近づいてくる中で感じる、
ありありとした世の力。
 
 
たとへ、その力を感じることができても、
わたしが考へつつ、
その感じを考へで捉へなければ、
わたしはそれをことばにして言ひ表すことはできない。
 
 
世のありありとした力も、
それに対して湧きあがつてくる感じも、
<わたし>といふ人からすれば、
外側からやつてくるもの。
 
 
それらに対して、人は、
考へることによつて、
初めて、内側から、
<わたし>から、応へることができる。
 
 
そのやうにして、
外側からのものと内側からのものが合はさつて、
知るといふこと(認識)がなりたち、
ことばにして言ひ表すこともできる。
 
 
2011年の3月11日以来の月日の中で、
わたしたちの外側からあまりにも
たくさんの世の力がありありと迫つてきた。
 
 
そんな外側からの力に対し、
わたしたちの内側からの考へる力が追ひつかない、
そんな脅威と焦慮にわたしたちは見舞はれた。
 
 
そして、たくさんの、たくさんの、
ことばが行き交つた。
 
 
わたしたちの考へる力は、
その都度その都度、
外の世からやつてくる力に対して
応じていかざるをえないが、
しかし、
そのことに尽きてしまはざるをえないのだらうか。
 
 
対応していくにしても、
その考へる力が、
明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、
その対応は、とかくその場限りの、
外の世に振り回されつぱなしのものに
なりはしないだらうか。
 
 
その確かな一点、明らかな一点とは、
「わたしはある」といふことを
想ひ起こすこと、考へることであり、
また、その考へるを見るといふこと。
 
 
他の誰かがかう言つてゐるから、かう考へる、
ああ言つてゐるから、ああ考へるのではなく、
他の誰でもない、
この「わたしはある」といふ一点に立ち戻り、
その一点から、
「わたしが考へる」といふ内からの力をもつて、
外の出来事に向かつていくことができる。
 
 
それは、
外の出来事に振り回されて考へるのではなく、
内なる意欲の力をもつて、
みづから考へるを発し、
みづから考へるを導いていくとき、
考へは、
それまでの死んだものから
生きてゐるものとして活き活きと甦つてくる。
 
 
そのとき、人は、
考へるに<わたし>を注ぎ込むこと、
意欲を注ぎ込むことによつて、
「まぎれなく考へる」をしてゐる。
(この「まぎれなく考へる」が、
 よく「純粋思考」と訳されてゐるが、
 いはゆる「純粋なこと」を考へることではない)
 
 
わたしたちが日々抱く考へといふ考へは、
死んでゐる。
 
 
それは、考へるに、
<わたし>を注ぎ込んでゐないからだ。
みづからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、
外の世に応じて「考へさせられてゐる」からだ。
そのやうな、
外のものごとから刺戟を受けて考へる考へ、
なほかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考へは、
死んでゐる。
 
 
多くの人が、よく、
感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言ふ。
実は、その多くの人は、そのやうな、
死んだ考へをやりくりすることに対する
アンチパシーからものを言つてゐるのではないだらうか。
 
 
ところが、
そのやうな受動的なこころのあり方から脱して、
能動的に、エネルギッシュに、
考へるに意欲を注ぎ込んでいくことで、
考へは死から甦り、
生命あるものとして、
人に生きる力を与へるものになる。
 
 
その人に、軸ができてくる。
 
 
世からありとあらゆる力がやつてくるが、
だんだんと、
その軸がぶれることも少なくなつてくるだらう。
 
 
その軸を創る力、
それは、みづからが、考へる、
そして、その考へるを、みづからが見る。
この一点に立ち戻る力だ。
 
 
この一点から、外の世に向かつて、
その都度その都度、考へるを向けていくこと、
それは、腰を据ゑて、
その外のものごとに沿ひ、交はつていくことだ。
 
 
では、その力を、
人はどうやつて育んでいくことができるのだらうか。
また、そのやうに、
考へるに意欲を注ぎ込んでいく力は、
どこからやつてくるのだらうか。
 
 
それは、夜、眠つてゐるあひだに、
人といふ人に与へられてゐる。
 
 
ただし、昼のあひだ、
その人が意欲を注ぎつつ考へるほどに応じてである。
 
 
夜の眠りのあひだに、人はただ休息してゐるのではない。
 
 
意識は完全に閉ぢられてゐるが、
考へるは、意識が閉ぢられてゐる分、
まつたく外の世に応じることをせずにすみ、
よりまぎれなく考へる力を長けさせていく。
 
 
それは、眠りのあひだにこそ、
意欲が強まるからだ。
ただ、意欲によつて強められてゐる考へる力は、
まつたく意識できない。
眠つてゐることによつて、
意識の主体である
アストラルのからだと<わたし>が、
エーテルのからだとフィジカルなからだから
離れてゐるのだから。
 
 
眠りのあひだに、わたしたちは、
わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、
次の一日の中でフレッシュに力強く考へる力を
その世の方々から戴いて、
朝、目覚める。
 
 
要は、
夜の眠りのあひだに長けさせてゐる精神の力を、
どれだけ昼のあひだに
みづからに注ぎこませることができるかだ。
 
 
そのために、シュタイナーは、その講演で、
本を読むときに、もつと、もつと、
エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでほしい、
さう述べてゐる。
 
 
それは、人のこころを育てる。
 
 
現代人にもつとも欠けてゐる
意欲の力を奮ひ起こすことで、
死んだ考へを生きた考へに甦らせることこそが、
こころの育みになる。
 
 
アントロポゾフィーの本をいくらたくさん読んでも、
いや、シュタイナー本人からいくらいい講演、
いい話を聴いたとしても、
それだけでは駄目なのだと。
 
 
文といふ文を、意欲的に、深めること。
 
 
ことばを通して、
述べられてゐる考へに読む人が生命を吹き込むこと。
 
 
アントロポゾフィーは、そのやうにされないと、
途端に、腰崩れの、中途半端なものになつてしまうと。
 
 
1923年といふ、彼の晩年近くの頃で、
彼の周りに集まる人のこころの受動性を
なんとか奮ひ起こして、
能動的な、主体的な、
エネルギッシュな力に各々が目覚めるやうに、
彼はことばを発してゐた。
 
 
その力は、
夜の眠りのあひだに、
高い世の方々との交はりによつて
すべての人が贈られてゐる。
 
 
夜盛んだつた意欲を、
昼のあひだに、
どれだけ人が目覚めつつ、
意識的に、
考へるに注ぎ込むか。
 
 
その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、
「内なる希みの光」。
 
 
外の世へのなんらかの希みではなく、
<わたし>への信頼、
<わたし>があることから生まれる希みだ。
 
 
その内なる希みの光こそが、
昼のあひだに、人を活き活きとさせ、
また夜の眠りのあひだに、精神を長けさせる。
 
 
その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、
「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、
それが復活祭を前にした、こころの仕事であり、
2011年3月11日以降の日本、
そして、ただいまのウィルスの脅威の下に生きる
わたしたちにとつて、
実はとても大切なこころの仕事なのだと思ふ。
 
 
 
 
 
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光をもつて。

 

posted by koji at 23:43 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月12日

『 をとめ と つるぎ 』公演開催につきまして


 
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武漢から拡がつてゐるウィルスによつて、
わたしたちの暮らしも、
わたしたちの芸術活動も、
少なくない影響を受けてゐます。
 
 
政府が行なつてゐる、
集会や登校などに対する自粛要請も、
コロナウィルスといふ未知の対象に対する、
専門的な見識を基にした上での、
できうる限りでの最善の判断だと
了解してゐます。
 
 
わたしたちも、最終的には、
3月20日の春分の日には、
判断するつもりですが、
いまのところ予定通り、
3月28日(土)には大阪にて、
3月29日(日)には東京にて、
公演をするつもりでをります。
 
 
もちろん、
現状に対する意識を配りながら会場を設へ、
来て下さる皆様にも、
ご協力をお願ひすることになります。
 
 
 
 
 
 
 
昨年の3月から稽古を始め、
この一年間、
この作品の隅々にこころを籠めてきました。
 
 
愛を注ぎ込んできた、
と言つてもいいと思ひます。
 
 
今回の『 をとめ と つるぎ 』といふ作品をもつて、
ことばがもつ精神のエネルギーを、
生き切りたいと希つてゐるのです。
 
 
舞台から客席まですべて、
地面を這ひ廻り、
壁を突き抜け、
天空に拡がりゆく、
そんなことばの運動を実現させたいのです。
 
 
土といひ、
水といひ、
風といひ、
火といひ、
四大すべての働きを巻き起こす、
ことばの精神の顕現を求めて、
この一年間やつてきました。
 
 
芸術を神話にしたいのです。
 
 
また、20日ごろにお知らせさせていただきます。
 
 
どうぞよろしくお願ひいたします。
 
 
 

言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
https://kotobanoie.net/play/
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)


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下二枚の写真撮影 : 山本美紀子さん



posted by koji at 23:21 | 大阪 | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月10日

一枚の絵

 
 
IMGP0254.JPG
丹生川上の夢淵付近

 
 
今月、次々と仕事がキャンセルになり、
わたしのやうに、
フリーランスで生計を立ててゐる者にとつては、
ピンチであります。
 
 
しかし、さういふ、いまだからこそ、
チャンスであると考へてゐます。
 
 
勉強できます。
 
 
そして、
この世は、いはば、
神が描く一枚の絵です。
 
 
だから、
絵をみるときのやうに、
この世をぢつと、ぢつと、みる。
 
 
絵の前に立つとき、
わたしは静かに立ち尽くし、
画面を凝視する。
 
 
からだとこころを静止のうちに置くのです。
 
 
さうして、
絵のうちに渦巻いてゐる精神が、
こちらのこころに働きかけて来るのを、
待つのです。
 
 
ときにゆるやかに、
ときに一気呵成に、
精神が働きかけて来て、
やがてこころが激しく動き始める。
 
 
そのこころの動き、働きは、
強制されてのものではなく、
みづからのもの、
統制されつつ、自由の翼を得たものです。
 
 
要(かなめ)のことは、
絵をみるときのやうに、
こちらが右往左往せずに、
ぢつと立ち止まり、
ぢつと立ち尽くし、
ぢつとみつめること、
さう自戒してゐます。
 
 
さうして、
こころに、
精神の風と光と熱を流し込むのです。
 
 
いま、外なる仕事はありません。
 
 
こころだけになり、
精神に親しくつきあふ、
そんなチャンスのときだと感じてゐます。
 
 
 
 

我れ立たむ ながるる川の 岸の辺に
淀みも早瀬も 同じ神川
 
 
 
 

 
 
 



posted by koji at 12:12 | 大阪 ☔ | Comment(0) | うたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月08日

こころのこよみ(第48週)〜行はれたし、精神の見はるかしを〜


 
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平櫛田中『養老』


 
 
世の高みから
 
力に満ちてこころに流れてくる光の中で
 
現はれよ、こころの謎を解きながら、
 
世の考への確かさよ。
 
その光り輝く力を集め、
 
人の心(臓)の中に愛を呼び覚ますべく。
 
 
 
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
 
 
 
考へる力といふものについて、
人はよく誤解する。
 
 
考へるとは、
あれこれ自分勝手に
ものごとの意味を探ることでもなく、
浮かんでくる考へに次から次へと
こころをさまよはせることでもなく、
何かを求めて思ひわづらふことでもなく、
ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
 
 
考へるとは、本来、
みづからを措いてものごとに沿ふこと、
思ひわずらふことをきつぱりと止めて、
考へが開けるのをアクティブに待つこと、
そして、ものごととひとつになりゆくことで、
愛を生みだすこと。
 
 
今回もまた、
鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから
多くの示唆を得てゐる。
 
 
人が考へるとは、
考へといふ光が降りてくるのを待つこと、
人に考へが開けることだ。
 
 
考へが開けるきつかけは、
人の話を聴く、
本を読む、
考へに考へ抜く、
道を歩いてゐて、ふと・・・など、
人によりけり、時と場によりけり、
様々あるだらうが、
どんな場合であつても、
人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、
考へは開ける。
たとへ、身体は忙しく、活発に、
動き回つてゐても、
頭のみは、静かさを湛えてゐるほどに、
考へは開ける。
 
 
そして、頭での考への開けと共に、
こころに光が当たる。
考へが開けることによつて、
こころにおいて、ものごとが明るむ。
そして、こころそのものも明るむ。
 
 
「ああ、さうか、さうだつたのか!」
といふときの、
こころに差し込む光の明るさ、暖かさ。
誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
 
 
明るめられたこころにおいて、
降りてきたその考へは、その人にとつて、
隈なく見通しがきくものだ。
 
 
また、見通しがきく考へは、
他の人にとつても見通しがきき、
その人の考へにもなりうる。
 
 
そもそも、考へは誰の考へであつても、
考へは考へだから。
 
 
人に降りてくる考へは、
その人の考へになる前に、
そもそも世の考へである。
 
 
自然法則といふものも、
自然に秘められてゐる世の考へだ。
 
 
人が考へることによつて、
自然がその秘密「世の考へ」を打ち明ける。
 
 
その自然とは、ものといふものでもあり、
人といふ人でもある。
 
 
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、
我が子が、どういふ人になつていくのか、
もしくは、自分自身がどういふ人なのか、
それは、まづもつては、謎だ。
 
 
その謎を謎として、
長い時間をかけて、
その人と、もしくはみづからと、
腰を据ゑてつきあいつつ、
その都度その都度、
こころに開けてくる考へを
摑んでいくことによつてのみ、
だんだんと、その人について、
もしくは、わたしといふ人について、
考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
 
 
それはだんだんと明るんでくる
「世の高みからの考へ」でもある。
 
 
わたしなりの考へでやりくりしてしまうのではなく、
からだとこころをもつて対象に沿ひ続けることによつて、
「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
 
 
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。
長い時間をかけて、
ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
 
 
どちらにしても、そのやうに、
考へと共にこころにやつてくる光とは、
世からわたしたちへと
流れるやうに贈られる
贈り物といつてもいいかもしれない。
 
 
さらに言へば、それは、
わたしの<わたし>が、
わたしの<わたし>に、
自由に、
本当に考へたいことを、
考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
 
 
―――――――
 
人のこころ!
あなたは安らう頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。
 
(『礎のことば』より)  
――――――――
 
 
その贈り物があるからこそ、
わたしたちは、また、
世の考へが贈られるのを
待ちつつ考へることができるし、
考への光が降りてくればこそ、
わたしたちは、こころの明るさと共に、
その考へを見通し、見はるかすことができ、
その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
 
 
ある人の長所にあるとき、はつと気づいて、
その人をあらためてつくづくと見つめ、
その人のことを見直したり、
好ましく思つたりもする。
 
 
長所にはつと気づく、
それこそが、
考への光が降りてきたといふことだらうし、
その人について光をもつて考へられるからこそ、
こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
 
 
人を愛する時とは、
世の高みから、
力に満ちて流れてくる「世の考へ」が、
こころに開ける時。
 
 
考へが開けるとき、
そこには、きつと、愛がある。
 
 
愛が生まれないときは、
考へてゐるやうで、実は考へてゐない。
自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、
巡り巡る考へや思ひに翻弄されてゐるときだ。
 
 
考へることによつて愛が生まれることと、
愛をもつて考へることとは、
きつと、ひとつの流れとして、
人の内側で循環してゐる。
 
 
 
 
 
世の高みから
力に満ちてこころに流れてくる光の中で
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考への確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の心(臓)の中に愛を呼び覚ますべく。
 
 
 


posted by koji at 07:10 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月06日

仕事と死生観



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人それぞれ、仕事がありますが、
人生観、もつと突つ込んで言へば、
死生観と重なるやうな仕事を毎日していくことが、
とても仕合はせなことであると思つてゐます。
 
 
わたしの場合、
なぜか若い頃から、
言語と人間の関係を摑みたいといふ、
漠然とした希みがあり、
二十代の終はりに、
言語造形に出会つたとき、
まるで生まれる前から希んでゐたことに
出会へたやうに感じたことを憶えてゐます。
 
 
言語と人間の関係を、
学問的にでなく、
科学的にでなく、
芸術的に追ひ求めていく。
 
 
我が身をもつて、
わたしのまるごとをもつて、
言語に取り組んでいく。
 
 
さういふ芸術的行為が、
真の認識の訪れを招きよせる。 
 
 
舞台の上で、
一回限りの、
ことばとわたしといふ人との合一が起こるなら、
そのときのリアリティこそ、
わたしに、
ことばが人に授けられてゐる意味、
文学といふことばの芸術が存在する意味、
世が存在する意味、
神がありありとあられる意味を、
教へてくれる。
 
 
舞台とは、
新しい世紀における宗教的トポスだと、
感じざるをえません。
 
 
そんな舞台の上で、
生き、死んでいく。
 
 
そのやうな仕事をしていきたいと思ひます。
 
 
 
言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)
https://kotobanoie.net/play/
 
 

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2020年03月01日

こころのこよみ(第47週)〜行はれたし、精神の慮りを〜


 
セザンヌ「アヌシー湖」.jpg
セザンヌ「アヌシー湖」

 
 
世のふところから甦つてくるだらう、
 
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
 
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
 
神々しい力を通して備へられ、
 
内において力強いわたしとして生きてゐることを。
 
 
 
Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
Den Sinnenschein erquickend Werdelust,
Sie finde meines Denkens Kraft
Gerüstet durch die Gotteskräfte
Die kräftig mir im Innern leben.
 
 
 
 
以前にも引用させてもらつたが、
鈴木一博さんが以前、
日本アントロポゾフィー協会会報に
掲載された『礎(いしずえ)のことば』から、
ここ二、三週間の『こころのこよみ』への
大きな示唆をもらつてゐる。
 
 
精神
こころ
からだ
 
 
人は、
この三つの次元の違ふありやうからなりたつてゐる。
 
 
自分自身を顧みても、
やはり、どちらかといふと、
精神が上の方に、
からだが下の方にあり、
こころがその間に挟まつてゐることを感じる。
 
 
そして、この『こころのこよみ』は、
その名の通り、
真ん中の「こころ」が、
活き活きと生きることを願つて書き記されてゐる。
 
 
この時期、
陽の光がだんだんと
明るく、暖かく、長く、
わたしたちを照らし出すとともに、
地から、少しづつ少しづつ、
草木の力が繰りなしてきてゐるのを
見てとることができる。
そして、「啓蟄」といはれるやうに、
虫たちをはじめとする動く生き物たちも地の下から、
水の中から這ひ出してきてゐる。
 
 
わたしたち人は、どうだらう。
 
 
人においても、
近づいてきてゐる春の陽気にそそられて、
からだもこころも動き出さうとしてゐないだらうか。
 
 
世の、春に近づいていく繰りなしが、
まづは、下のからだへの蠢(うごめ)き、
繰りなしを誘ひ出し、
感官へのそのやうな働きかけが、
真ん中のこころを動かさうとしてゐないだらうか。
 
 
その動きこそが、喜びにもなりえる。
 
 
以下、鈴木さんの文章からの引き写しだが、
その
精神の想ひ起こし、
精神の慮り、
精神の見はるかしに、
まさにリアリティーを感じる。
 
 
________________
 
 
 
こころといふものは、
常にシンパシーとアンチパシーの間で
揺れ動いてゐる。
 
 
しかし、人は、
そのシンパシー、アンチパシーのままに
こころを動かされるだけでなく、
その間に立つて、
そのふたつの間合ひをはかり、
そのふたつを引き合はせつつ、
バランスを保ちつつ、
静かなこころでゐることもできる。
 
 
むしろ、さうあつてこそ、
こころといふものをわたしたちは感じとることができる。
 
 
そのこころの揺れ動き、そしてバランスは、
からだにおける心臓と肺の張りと緩みのリズムとも
織りなしあつてゐる。
 
 
こころのシンパシー、アンチパシーとともに、
心拍は高まりもするし、低まりもする。
 
 
また、呼吸といふものも、
そのこころのふたつの動きに左右される。
吐く息、吸ふ息のリズムが
整つたり、乱れたりする。
 
 
そして、心拍の脈打ちと脈打ちの間、
吐く息、吸ふ息の間に、
静かな間(ま)を
わたしたちは感じとることができる。
 
 
その静かな間(ま)を感じとつてこそ、
わたしたちは、
リズムといふもの、
時といふものをリアルにとらへることができる。
 
 
そして更に、
こころにおいて、
シンパシーとアンチパシーとの間で生きつつ、
からだにおいて、
心と肺のリズムの間で生きつつ、
わたしたちは、
世といふものとの間においても、
リズミカルに、ハーモニックに、
調和して生きていく道を探つていくことができる。
 
 
荒れた冬の海を前にしてゐるときと、
茫洋として、
のたりのたりと静かに波打つてゐる春の海を
前にしてゐるとき。
 
 
峨々たる山を前にしてゐるときと、
穏やかな草原を前にしてゐるとき。
 
 
いまにも雨が降り出しさうな、
どんよりとした曇り空の下にゐるときと、
晴れ晴れとした雲ひとつない青空を仰ぐとき。
 
 
しかめ面をしてゐる人の前にゐるときと、
につこりしてゐる人の前にゐるとき。
 
 
そして、春夏秋冬といふ四季の巡りにおいて、
それぞれの季節における
からだとこころのありやうの移りゆき。
 
 
世といふものと、
わたしたちとの間においても、
ハーモニーを奏でることができるには、
そのふたつが、
ひとりひとりの人によつて、
はからわれ、釣り合はされ、ひとつに響き合つてこそ。
 
 
世とわたし。
そのふたつの間を思ひつつ、
はかりつつ、響き合はせる。
その精神の慮(おもんぱか)りを
積極的にすることによつて、
人は、世に、和やかに受け入れられる。
 
 
人と世は、ひとつに合はさる。
 
 
そして、人は、歌ふ。
春夏秋冬、それぞれの歌を歌ふ。
 
 
慮る(besinnen)は、
歌ふ(singen)と語源を同じくするさうだ。
 
 
こころにおける精神の慮り、それは歌心だ、
と鈴木さんは述べてゐる。
 

 人のこころ!
 あなたは心と肺のときめきに生き
 心と肺に導かれつつ、時のリズムを経て
 あなたそのものを感じるに至る。
 行はれたし、精神の慮りを
 こころの釣り合ひにおいて。
 そこにては波打つ世の
 成りつ為しつが
 あなたの<わたし>を
 世の<わたし>と
 ひとつに合はせる。
 もつて、あなたは真に生きるやうになる
 人のこころの働きとして。
         (『礎のことば』より)
 
 
春の訪れとともに世のふところから、
下のからだを通して、感官への輝きを通して、
こころに、繰りなす喜び。
 
 
そして、
上の精神からの考へる力。
その考へる力は、
冬のクリスマスの時期を意識的に生きたことによつて、
神々しい力によつて備へられてゐる。
その考へる力によつて、
こころにもたらされる力強い<わたし>。
 
 
世とからだを通しての下からの繰りなしによつて、
こころに生まれる喜びといふ情を、
上の精神からやつてくる考へる力が支へてくれてゐる。
 
 
この下からと上からのハーモニックな働きかけによつて、
真ん中のこころに、
喜びが生まれ、育つていく。
 
 

 
 
世のふところから甦つてくるだらう、
感官への輝きを息づかせる繰りなす喜びが。
その喜びは見いだす。わたしの考へる力が、
神々しい力を通して備へられ、
内において力強いわたしとして生きてゐることを。
 
 
 
※絵は、セザンヌ『アヌシー湖』
 
 


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2020年02月28日

戸嶋靖昌記念館にて



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東京の半蔵門にある、
戸嶋靖昌記念館を訪れました。
http://shigyo-sosyu.jp/toshima/index.html
 
 
この美術館を開いた執行草舟氏の著書をこよなく
愛読し、熟読し、精読するわたしにとつて、
ここを訪れることは、数年来の念願でした。
 
 
初めて戸嶋の絵を観るわたしに、
主席学芸員の安倍三崎さん、坂田さんが、
勿体ないほどのまことに暖かい対応をして下さり、
ていねいでこころの籠もつたお話をして下さいました。
 
 
「おもてなし」といふ、
昔から日本人が大切にしてきた行ひの恩恵に、
わたしは触れ、浴させていただいたのです。
 
 
戸嶋の絵の前に立ち、
わたしは「これが絵だ」といふ、
身も蓋もない言ひ方しかできないやうな、
烈しく強い振動と、
奥行きへと引き摺り込まれるやうな運動を感じ、
それは、
絵といふ芸術でのみ感じるものでありました。
 
 
そして、思ひもかけず、
執行氏の書斎でもある社長室へ
招き入れていただいたのでした。
 
 
執行氏はまだ出社されてゐなかつたのですが、
そこに満ち満ちてゐる渦巻きのやうな精神が、
部屋の隅々に、
膨大な本の背表紙といふ背表紙に、
ぶち当たつては還流してゐるのでした。
 
 
精神の労働のための工房の只中にゐるやうな、
興奮と感激がわたしを打つのです。
 
 
執行氏御本人がゐらつしゃらなくて、
よかつたと思ひました。
 
 
また、執行氏の文業から感じてゐた精神が、
案内をして下さつたお二方の
ことばの端々、隅々に満ちてゐるのです。
 
 
死を見据えるひとりひとりの人が、
どうひとつひとつの仕事と向き合ひ、
どうひとりひとりの人と向き合ひ、
どうひとつひとつの芸術作品と向き合ふのか。
 
 
おそらく、社員の方々、皆、
そのことの実行に、
体当たりで毎日を費やされてをられます。 
 
 
その姿を目の当たりにし、
わたしはこの記念館(企業体)は、
現代における「奇跡」だ、
そんな念ひで千鳥ヶ淵の帰り道を歩きました。
 
 
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執行草舟氏の社長室にて。三島由紀夫自筆の額の前。




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愛読のよろこび


 
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前田英樹氏の『愛読の方法』を再読。
 
 
一冊の本を愛読する。 
それは、わたしに、
静かな時間、熱い時間を取り戻させてくれます。
 
 
つまり、真に「読む時間」に、
わたしは立ち戻ることができるのです。
 
 
真に「読む時間」。
さういふ時間がどれほど侵食されてゐるか。
それは、ひとりで生きる時間です。
より精確に言ふと、
尊敬する先人と共に生き、
ことばを交はし合ふ時間です。
 
 
愛読に愛読を重ねる。
さうして、もはや、
嘆賞するしかないところまで、
その本の一文一文の底へと掘り進める。
 
 
さういふ喜びが、
こころの柔らかな人の前に拡がる。
 
 
一冊の本の前に留まつて愛読すること。
それは、こころを耕すことです。
こころの硬くなつた表土を、
掘り起こして、掘り起こして、
柔らかく鋤き込むことです。
 
 
さういふ喜びに向かふ行為は、
尊敬する人との対話に熱中できる喜びであり、
とくに古典の場合には、
遠く死んだ人への祈り、礼拝でもあります。
 
 
そんな無私の、からっぽの自分に立ち返り、
ただ、強い振動だけが自分の中に満ちる時間。
 
 
その喜びを重ねていきたい。
さう思ひます。
 
 
 
 
●古典は、ひとつの時代にたくさんの読者を得た本ではない。ひとつの時代にゐる少数の読者が、絶えることなく蘇つては、読み継いでゐる本である。そこには、時代を貫いて生き続ける愛読者の系譜といふものがある。古典を巡る愛読者の系譜にみづから入り込むことほど、多くの人間が、孤独や絶望や嫉妬や怨恨から救はれる道はないやうに思はれる。
(ちくま新書 102ページ) 
 
 

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2020年02月27日

山の風

 
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山を登つてゐて、
山の高みに向かつて歩いていくことは、
本を読むことと似てゐると思つた。 
 
 
自分が自分であるために本を読むやうに、
山を歩く。森を歩く。川辺を歩く。
 
 
文章といふもののもつ香気によつて
自分自身を洗ひ流していくやうに、
わたしたちは木の間からやつて來る
光と風によつてみづからを洗ひ浄める。
そしてそもそも持つてゐた、
こころざしといふものを念ひ起こす。
 
 
高いところに吹く風は、
人を多かれ少なかれ、
素直にするのではないか。
 
 
また、よくよく目を見開いて歩くことの
大切さを思ひ出させる。
感官を開いて、
やつてくる感覚を
ひとつひとつ目一杯味ははうとすると、
山や空や風や光がものものしくものを言ひ出す。
 
 
本を読むときも、
目を精一杯見開いて、
一語一語、
一文一文を噛みしめるやうに、読む。
 
 
さうすると、本といふ「自然」が、
ものものしく読み手にものを言ひ出すのだ。
 
 
さて、人が書くものには、
文体・文の相(すがた)といふものがあつて、
それは、書き手その人の後ろ姿を見せてくれる。
 
 
文章とは、人の内的な姿・相である。
 
 
 文章といふのは、
 その功(こう)
 広大熾盛(こうだいしじょう)で、
 その徳(とく)
 深厚悠久(しんこうゆうきゅう)な、
 実に人間の仕事の中での
 一の大事といつて然るべきものである。
 
 
幸田露伴の『普通文章論』の冒頭の一文を思ひだす。
 
 
そのやうな内的な姿が
虚空に刻みだされたやうな文章によつて、
「人といふもの」に出会へた喜びを
感じることができる。
 
 
そして、山の風、光、雨粒も、
何かを人に伝へようとしてゐるやうに感じる。
 
 
 われもまた 高みにのぼる そのごとに
 風をまとひて 風になりたし
               
 
 



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2020年02月23日

こころのこよみ(第46週)〜行はれたし、精神の想ひ起こしを〜


 
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世、それはいまにもぼやかさうとする、
 
こころのひとり生みの力を。
 
だからこそ、想ひ起こせ、
 
精神の深みから輝きつつ。
 
そして観ることを強めよ、
 
意欲の力を通して、
 
己れを保つことができるやうに。
 
  
 
Die Welt, sie drohet zu betäuben 
Der Seele eingeborne Kraft;
Nun trete du, Erinnerung,
Aus Geistestiefen leuchtend auf 
Und stärke mir das Schauen,
Das nur durch Willenskräfte 
Sich selbst erhalten kann.
 
 
 
 
「ひとり生み」とは、何か。
 
 
シュタイナーのヨハネ福音書講義の第四講に、
そのことばが出てくる。
 
 
かつて福音書が書かれた頃、
「ふたり生み」とは、
父と母の血の混じりあいから生まれた者のこと、
「ひとり生み」とは、
そのやうな血の混じりあいから生まれた者でなく、
神の光を受け入れることによつて、
精神とひとつになつた者、
精神として生まれた者、
神の子、かうがうしい子のことだつた。
 
 
今から二千年以上前には、
人びとの多くは、「わたし」といふ、
人のための下地をすでに備へながらも、
後に聖書に記されるところの「光」を
まだ受け入れることができなかつた。
 
 
「群れとしてのわたし」のところには、
「光」は降りてきてゐたが、
ひとりひとりの人は、
その「光」をまだ受け入れてゐなかつた。
 
 
「ひとりのわたし」といふ意識はまだなく、
おらが国、おらが村、おれんち、
そのやうな「ふたり生みの子」としての意識が、
ひとりひとりの人のこころを満たしてゐた。
 
 
しかし、少数ではあるが、
「光」を受け入れた者たちは、
その「光」を通してみづからを神の子、
「ひとり生みの子」となした。
 
 
物の人がふたり生み、
精神の人がひとり生みだ。
 
 
そして、キリスト・イエスこそは、
その「光そのもの」、
もしくは「光」のおおもとである
「ことばそのもの」として、
「父のひとり生みの息子」として、
肉のつくりをもつてこの世の歴史の上に現れた。
 
 

ことば(ロゴス)、肉となれり
(ヨハネ書一章十四節)
 
 
彼こそは、
ひとりひとりの人に、
こよなく高く、ひとりの人であることの意識、
「わたしはある」をもたらすことを
使命とする者だつた。
 
 
わたしたちが、
その「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、
それは、
キリスト・イエスの誕生と死を想ひ起こすといふこと。
 
 
そして、
わたしたちひとりひとりの内なる、
「わたしはある」を想ひ起こすこと。
 
 
それは、
日々のメディテーションによつて生まれる、
精神との結びつきを想ひ起こすことであり、
目で見、耳で聞いたことを想ひ起こすことに尽きず、
精神の覚え「わたしはある」を想ひ起こすことだ。
 
 
その想ひ起こしが
そのやうにだんだんと深まつていくことによつて、
人は、
「わたしはある」といふこと、
「みづからが神と結ばれてある」といふこと、
みづからの「わたし」が、
神の「わたし」の内にあるといふこと、
そのことを確かさと安らかさをもつて、
ありありと知る道が開けてくる。
 
 
「想ひ起こす」といふ精神の行為は、
意欲をもつて考へつつ、
いにしへを追つていくといふことだ。
 
 
普段の想ひ起こすことにおいても、
頭でするのみでは、
その想ひは精彩のないものになりがちだが、
胸をもつて想ひ起こされるとき、
メロディアスに波打つかのやうに、
想ひがこころに甦つてくる。
 
 
さらに手足をもつて場に立ちつつ、
振舞ふことで、
より活き活きと、みずみずしく、深みをもつて、
想ひが甦つてくる。
 
 
故郷に足を運んだ時だとか、
手足を通して自分のものにしたもの、
技量となつたものを、
いまいちどやつてみる時だとか、
そのやうに手足でもつて憶えてゐることを、
手足を通して想ひ起こすかのやうにする時、
想ひが深みをもつて甦る。
 
 
そして、
そのやうな手足をもつての想ひ起こしは、
その人をその人のみなもとへと誘ふ。
 
 
その人が、その人であることを、想ひ起こす。
 
 
その人のその人らしさを、
その人はみづから想ひ起こす。
 
 
例へば、
この足で立ち、歩くことを憶えたのは、
生まれてから一年目辺りの頃だつた。
その憶えは、
生涯、足で立つこと、歩くことを通して、
頭でではなく、
両脚をもつて想ひ起こされてゐる。
その人が、その人の足で立ち、歩くことを通して、
その人の意識は目覚め、
その人らしさが保たれてゐる。
 
 
だから、
年をとつて、足が利かなくなることによつて、
その人のその人らしさ、
こころの張り、意識の目覚めまでもが、
だんだんと失はれていくことになりがちだ。
 
 
手足を通しての想ひ起こし、
それは、意欲の力をもつてすることであり、
人を活き活きと甦らせる行為でもある。
 
 
そして、それはメディテーションにも言へる。
 
 
行はれたし、精神の想ひ起こしを
もつて、あなたは真に生きるやうになる、
まこと人として、世のうちに
(シュタイナー『礎のことば』1923年12月25日)
 
 
メディテーションによる想ひ起こしは、
手足による想ひ起こしに等しいもの。
 
 
メディテーションとは、
意欲をもつての厳かで真摯な行為。
 
 
毎日の行為である。
 
 
「ひとり生みの力」を想ひ起こすこと、
それは、わたしの「わたし」が、
神の「わたし」の内に、
ありありとあること、
「わたしのわたしたるところ」、
「わたし」のみなもと、
それを想ひ起こすことだ。
 
 
世に生きてゐると、
その「ひとり生みの力」を
ぼやかさうとする機会にいくらでも遭ふ。
 
 
世は、
ふたり生みであることから生まれる、
惑ひといふ惑ひをもたらさうとする。
 
 
「だからこそ、勤しみをもつて、想ひ起こせ」。
 
 
「惑ひといふ惑ひを払つて、想ひ起こせ」。
 
 
想ひ起こされたものを
しつかりとこころの目で観ること、
もしくは想ひ起こすといふ精神の行為そのものをも
しつかりと観ること、
それがつまり、
「観ることを強める」といふことだ。
 
 
その意欲の力があつてこそ、
人は、「己れを保つことができる」、
おのれのみなもとにあることを
想ひ起こすことができる。
 
 
 
 


世、それはいまにもぼやかさうとする、
こころのひとり生みの力を。
だからこそ、想ひ起こせ、
精神の深みから輝きつつ。
そして観ることを強めよ、
意欲の力を通して、
己れを保つことができるやうに。
 
 
 
 

posted by koji at 21:33 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

月と六ペンス



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サマセット・モームの『月と六ペンス』。
初めて読みました。
 
 
上っ面なことばを一切発しない男、
チャールズ・ストリックランドの物語。
 
 
芸術と精神。
 
 
男と女の間に生まれる魔の相。
 
 
人間といふものの醜さと悲しさと崇高さに、
こころがきりきりと、
時間から時間のさらに奥へと、
引き摺り込まれてしまふ、
わたしにとつてはそのやうな作品でした。
 
 
しかし、ここに描かれてゐる、
生と死を突き破つても、
まだ進むことを止めない精神といふものを
我が身で生きないうちは、
この作品の本当の怖さを感じることはできない、
さう思ふ。
 
 
死といふものを
目前に据えざるをえないときがあるならば、
そのとき、またふたたび、
この作品に出会へるだらうか、
さう思ふのです。
 
 
いや、むしろ、
かう言つた方がいいのかもしれません。
この作品にぶち当たることができるやうな、
人生を創ること。
 
 
崇高な作品は、
凡人であるわたしを叱咤激励するのです。
 

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2020年02月21日

見た夢を想ひ起こす 〜『 をとめ と つるぎ 』に向かつて〜


 
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自分が夜見た夢を想ひ起こす。
 
 
本番に近くなり、
そんな練習をわたしたち舞台に立つ者はします。
 
 
それは、表の練習といふよりも、
裏の練習・密の練習と言つてもいいかもしれません。
 
 
夢の中で、
あの人はこんな表情をして、
わたしを見つめた・・・。
 
 
あの人はこんな風に背中を向けて、
向かうへと去つて行つた・・・。
 
 
こんな風に扉が閉まり、
わたしは家の外に締め出されてしまつた・・・。
 
 
たとへばそのやうに、
夢の中に起こつたできごとを、
目覚めた今、追ひかけ、辿つてゆく。
 
 
その作業は、
わたしたち舞台に立つ者の身の振る舞ひを、
芸術的にします。
 
 
夢を生きる。
 
 
それは、芸術を芸術的に生きるといふことです。
 
 
夢、
それはなかば目覚めつつ、
なかば眠りつつの世です。
 
 
それは、情の世でもあります。
 
 
だから、目覚めてゐるときでも、
虹の七色を大空に見たり、
風のそよぎを頬に感じたり、
道端に咲く花びらにこころを注いだり、
雷鳴轟く響きに身を震はせたりするとき、
つまり自然の営みを感覚するとき、
わたしたちは、
その自然が送つてよこす情を、
注意深く生きること。
 
 
それが、
芸術をする人にとつての深い養ひになります。
 
 
 
 
 

言語造形劇『 をとめ と つるぎ 』
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)


posted by koji at 21:16 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月20日

今蘇る神功皇后の伝承 〜をとめとつるぎ〜



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このたびの大阪公演では、
をとめ と つるぎ 』開演前に、
住吉大社権禰宜を務めてをられる、
小出英詞さんに、
「今蘇る神功皇后の伝承」と題しまして、
ご講演を賜ります。
 
 
小出氏は、
「住吉大社の歴史と文化」などのテーマで、
各地で講演をされてをられる方です。
 
 
そのお話があまりにも深い蘊蓄に富み、
ユーモア溢れ、
とても分かりやすいお話の仕方をされるため、
各地でひっぱりだこの方なのです。
 
 
昨年は、
神功皇后の御崩御1750年記念の年だつたのですが、
そのことの意味を深くから捉へ、
大社内でも、
その顕彰のため実際に動かれてゐた小出さんです。
 
 
この住吉の地を文化的にも歴史的にも、
見つめ直すことをし続けてをられ、
さらにわたしたちの芸術的なアプローチにも、
ご理解を寄せて下さり、
このたびのご講演をお引き受け下さいました。
 
 
どうぞ、お楽しみに。

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我が身を切る痛さ 〜漱石『明暗』を読んで〜



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漱石の『明暗』を、
この齢になつて初めて読み終へました。
 
 
これまで三十代、四十代と、
おそらく十年に一度づつ、
読まうとしたことがあつたのですが、
いずれも途中で読み切らずに投げ出してゐました。
 
 
このたび、やうやく、読み終へることができました。
 
 
主人公を中心として、
人のエゴとエゴが絡み合ひ、擦れ違ひ、ぶつかり合つて、
読んでゐて胸が苦しく、やり切れなくなるほど・・・。
 
 
にも関はらず、
今回はなぜ、
最後までぐんぐんと読み進めることができたのだらう。
 
 
この作品の中に描かれてゐるエゴが、
紛れもなく、わたし自身のうちに、
幾重にもしぶとく絡み合つて巣食つてゐること。
 
 
そのことを五十代になつてやうやく、
痛いほどに感じることができたからこそ、
読み抜くことができたとしか思へません。
 
 
人と人とが傷つけ合ふとき、
たいていは、
エゴとエゴとがぶつかり合つてゐるのではないでせうか。
 
 
しかし、
エゴから解放されてゐる人と、
エゴをもつ人とは、
ぶつかり合はない。
 
 
エゴをもつ人は、
エゴから解き放たれてゐる人の前から、
すごすごと退散するしかない。
 
 
この作品は、
その退散していく姿を描かうとして、
描く前に未完に終はつてゐます。
 
 
漱石が病で倒れ、そのまま亡くなつてしまつたからです。 
 
 
わたくしを去つて、天に則る。
 
 
そんなことばを漱石は晩年、
弟子たちにしきりに語つてゐたさうです。
 
 
わたくしを去ることの、
我が身を切るやうな痛さと難しさ。
 
 
わたし自身もこの作品を読み、
その痛さと難しさに、
光りを当てていかざるをえません。

posted by koji at 10:20 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月18日

建部大社を訪ねて


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日本武尊様をお祀りする、
滋賀県の建部大社に足を運びました。
 
 
今回の舞台『 をとめ と つるぎ 』にて
登場されるお方のひとりです。
https://kotobanoie.net/play/
 
 
琵琶湖から流れ出る
瀬田川からほどないところに
鎮座ましましてをられます。
 
 
よく舞台創りをしてゐる者が揃つて、
神前にていねいにお参りしますよね。
 
 
そのこころもちがよく分かるやうになりました。
 
 
日本ならではの懐かしい、
素晴らしい風習だと思ひます。
 
 
ものづくりといふものは、
人間だけでしてゐることではない、
といふ感覚です。
 
 

posted by koji at 19:52 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 神の社を訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月16日

こころのこよみ(第45週)〜余計なことを考へない力〜


 
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東山魁夷 「碧湖」

 
 
考へる力が強まる、
 
精神の生まれとの結びつきの中で。
 
それは感官へのおぼろげなそそりを
 
まつたき明らかさへともたらす。
 
こころの満ち足りが
 
世の繰りなしとひとつになりたいのなら、
 
きつと感官への啓けは、
 
考へる光を受けとめる。
 
 
 

Es festigt sich Gedankenmacht
Im Bunde mit der Geistgeburt,
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
Zur vollen Klarheit auf.
Wenn Seelenfülle
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
Muß Sinnesoffenbarung       
Des Denkens Licht empfangen.
 
 
 
 
ここで言はれてゐる「考へる力」とは、
余計なことを考へない力のことである。
 
 
そして、この時、この場で、
何が一番大事なことかを考へる力のことだ。 
 
 
その力を持つためには、練習が要る。
その練習のことを、
シュタイナーはメディテーションと言つた。             
 
普段に感じる共感(シンパシー)にも
反感(アンチパシー)にも左右されずに、
浮かんでくる闇雲な考へを退けて、
明らかで、鋭く、
定かなつくりをもつた考へに焦点を絞る。
ひたすらに、そのやうな考へを、
安らかに精力的に考へる練習だ。
 
 
強い意欲をもつて考へることで、
他の考へが混じり込んだり、
シンパシーやアンチパシーに巻き込まれて、
行くべき考への筋道から
逸れて行つてしまわないやうにするのだ。
 
 
その繰り返すメディテーションによつて、
「考へる力」が強く鍛へられる。
 
 
この時期に、
メディテーションによつて強められる考へる力が、
こころにそそりが及んできてゐるのを、
おぼろげに感じるやうにわたしたちを導き、
さらに、だんだんと、
そのそそりを明らかなものにしてゆく。
 
 
それが明らかになるほどに、
こころは満ち足りを感じる。
こころのなかに精神が生まれるからだ。
 
 
そして、そのこころの満ち足りは、
自分だけの満ち足りに尽きずに、
人との関はり、世との関はりにおいてこそ、
本当の満ち足りになるはずだ。
 
 
こころの満ち足りは、やがて、
ことばとなつて羽ばたき、
人と人とのあひだに生きはじめ、
精神となつて、
人と世のあひだに生きはじめる。
 
 
こころの満ち足りが、
世の繰りなしとひとつになつてゆく。
 
 
ひとりで考へる力は考へる光となつて、
人と人のあひだで、
人と世のあひだで、
明るく灯されるのだ。
 
 
 
 

考へる力が強まる、
精神の生まれとの結びつきの中で。
それは感官へのおぼろげなそそりを
まつたき明らかさへともたらす。
こころの満ち足りが
世の繰りなしとひとつになりたいのなら、
きつと感官への啓けは、
考へる光を受けとめる。
 
 
 

 
 

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2020年02月14日

幸魂塾での言語造形



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前田 恭仁子さんの発意により、
京田辺市の三山木にて、
言語造形クラスが始まりました。
 
 
想ひといふ想ひを内に秘めたまま、
ことばを表に出せない人、
出せたとしても、
いびつな形でしか出せない人、
そんな人がいま、どれほどたくさんゐるか。
そんないまだからこそ、
言語造形をこそ、
世に伝へたい。
 
 
その真摯な希みを、
今日、恭仁子さんは語つてくれました。
 
 
場所は、
前田 三四郎さんが、
この4月から始められる合気道の道場、
【幸魂塾(さちみたまじゅく)】です。
 
 
三四郎さんのこの道場に込める念ひ。
 
 
彼のことばをお借りします。
 
 
「『幸魂塾』
 「幸魂」は文字通り、
 「幸せ」「愛」を意味し、
 形としては安定感のある「四角」。
 わたしは「宇宙人が地に足をつける」
 という想いをこめて道場の名にしました。
 生き辛さを抱えた宇宙人のような人が、
 この地球に根付いて楽しく暮らせるようになる。
 それがわたしの願いです 」
 
 
前田ご夫婦の熱い念ひと、
お祀りされてゐる天御中主神様によるのでせう、
清浄でとても健やかな空気を感じる道場。
 
 
そこで、これから毎月第二金曜日の午前10時から、
言語造形のクラスを始めます。
(3月のみは第一金曜日の6日)
 
 
ご関心あられる方は、
どうぞ前田さんご夫妻にご連絡をお願ひします。
 
 
 

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2020年02月11日

音楽のやうに 『 をとめ と つるぎ 』


 
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音楽を聴くとき、
いろいろな聴き方があります。
 
 
ただ、聞いてゐるだけでは、
音といふ音が、
時間の中を流れて行くばかりです。
 
 
しかし、
熱心に音の流れに耳を澄まし、
ひとつひとつの音を追ひゆくことで、
優れた音楽は、
思ひもよらない深みと繊細さを帯びた、
情と叡智に満ちたものへと、
変貌します。
 
 
まるで、大自然の命の営みに等しく、
あるときは空の風のごとく吹き過ぎ、
あるときは海の波のごとく打ち寄せ、
またあるときは山脈のごとく聳え立ち、
音楽は生まれ、死に、そしてまた甦ります。

 
 
そのやうに「音楽を聴く」には、
聴こゑて来る音を
意味に満ちた「ことば」に、
再構築する精神の能力が要ります。
 
 
そして、そのやうな能力は、
鍛えれば鍛えるほどに、
研ぎ澄まされて来るやうに感じます。
 
 
 

 
 
わたしたち「ことばの家 諏訪」では、
言語を、そのやうに聴きたい人に向けて、
作品を創り上げていきたいと希つてゐます。
 
 
 
 

 
今日も言語造形劇「 をとめ と つるぎ 」のために、
メンバーが集まり、各々、
目一杯の精神力をこの作品に注いでくれました。
 
 
この劇を書かせてもらつたわたしが
作曲者とするならば、
メンバーみんなは演奏家で、
この拙い曲を通して、
愛といふものを一生懸命演奏しようと、
懸命に取り組んでくれてゐます。
 
 
本当に奇跡のやうなことだと
わたしは思つてゐます。
 
 
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posted by koji at 22:20 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

建国記念日の朝に



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あな清(さ)やけ 初国知らしし この朝の
まさをきみそら 昇る陽のたま
 
 
初国の 朝に昇らむ 陽のたまは
われをも浄めむ 彼をも浄めむ

posted by koji at 09:22 | 大阪 ☀ | Comment(0) | うたの學び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月08日

こころのこよみ(第44週) 〜ひとりの人〜



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新しい感官へのそそりに捉へられ、
 
こころに明らかさが満ちる。
 
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
 
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
 
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
 
 
Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit,
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
 
 
 
2月に入り、
空気の冷たさはいつさう厳しくなつてきてゐるが、
陽の光の明るさが増してきてゐることが感じられる。
 
 
わたしたちの感官に、まづ、訴へてくるのは、
その陽の光だ。
 
 
冬から春への兆しを、
わたしたちは何よりもまず、
陽の光のありやうに感じ取つてゐる。
 
 
しかし、現代を生きてゐるわたしたちは、
その外なる陽の光が明るさを増してきてゐる、
そのことを感じはしても、
それ以上の何かを感じることは
ほとんどないのではないだらうか。
 
 
昔の人は、その陽の光に、
あるものを感じ取つてゐた。
 
 
それは、ひとりひとりを、
神の力と結ぶことによつて、
まさしく精神としての『人』とする力だ。
 
 
太陽を見上げたときに、
次のやうな情を強く感じた。
 
 
「この天の存在から、
 光とともにわたしたちの内に、
 わたしたちを暖め、
 わたしたちを照らしながら、
 わたしたちに染み渡り、
 わたしたちひとりひとりを
『人』とするものが流れ込んでくる」
 
 
(『人の生きることにおける、
  引き続くことと繰りなすこと 
   1918年10月5日ドルナッハ』より)
 
 
しかし、だんだんと、
そのやうな情と感覚は失はれてきた。
 
 
陽の光を通して感じてゐた神からの叡智が
だんだんと失はれてきた。
 
 
そして人は、
自分の周りの事柄に対しては
知識を増やしていつたが、
ますます、自分は何者か、
自分はどこからやつてき、どこへ行くのかが、
分からなくなつてきた。
 
 
人といふものが、
そして自分自身といふものが、
ひとつの謎になつてきたのだ。
 
 
そのとき、ゴルゴタのこと、
イエス・キリストの十字架における死と、
墓からの甦りが起こつた。
 
 
もはや、物質としての太陽の光からは、
わたしたちを『人』とする力を感じ、
意識することはできない。
 
 
しかし、キリストがこの世にやつてき、
さらにゴルゴタのことが起こることによつて、
もはや外の道ではやつてくることができない力、
人の最も内なる深みから、精神から、
自分を『ひとりの人』とする力が
立ち上がつてくる可能性が開けた。
 
 
イエス・キリストはみづからをかう言つた。
「わたしは、世の光である」。
 
 
ふたたび、ひとりひとりの人に、
みづからを『ひとりの人』として捉へうる力が
もたらされた。
 
 
その力は物質の太陽の光からでなく、
精神の光から、もたらされてゐる。
 
 
わたしたちは、
2月の明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、
精神的な観点においても、
内なる陽の光からのそそりを捉へてみよう。
 
 
さうすることから、きつと、わたしたちは、
みづからの出自を改めて明らかさとともに
想ひ起こすことができる。
 
 
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。
「わたしは、そもそも、精神の人である」と。
「<わたし>は、ある」と。
 
 
キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。
 
 
わたしたちは、そのことを、
「いま、想ひ起こす」「念ふ」ことができる。
 
 
「新しい感官へのそそりに捉へられ、
 こころに明らかさが満ちる。
 満を持して精神が生まれたことを念ふ」
 
 
そして、
明るさを増してきてゐる陽の光によつて、
外の世において、
命が、植物や動物たちの中で繰りなしてくる。
絡みあひながら、芽生えながら。
 
 
さらに、わたしたち人は、
秋から冬の間に、
まぎれなく考へる力を内において繰りなしてきた。
 
 
考へる力には、意欲の力が注ぎ込まれてこそ、
まぎれなく考へる力となる。
 
 
考へる力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、
人はまぎれなく考へる力において、
自由になりうる。
 
 
外の世に、
どんなことが起こらうと、
どんな出来事が繰りなされやうと、
こころに、
意欲的に考へる働きを繰りなして行くことで、
わたしたちは、
みづから自由への道を開いていくことができる。
 
 
日々、自分に向かつてやつてくるものごとの
ひとつひとつを、
自分に対してのメッセージとして受けとり、
考へていき、
そして振舞つていくことによつて、
開けてくる道がある。
 
 
その道は、
『ひとりの人』としてのわたしを、
自由へと、
導いていくだらう。
 
 
 
 
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
 
 

posted by koji at 22:57 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

型を叩き込む


 
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基本練習といふものが、
言語造形にもあります。
 
 
その練習を積み重ねることによつて、
型をからだに叩き込むのです。
 
 
知性で捉えられた知識は、
芸術においては頼りにならないもので、
なにほどのものでもありませんが、 
からだに叩き込まれた型は、
その人を根底から支へます。
 
 
型とは、
その芸術に固有の法則から生まれてゐます。
 
 
自然のものすべてに法則があるやうに、
ことばといふものにも法則があるのです。
 
 
ことばは人間が作つたものではなく、
神が造られたものだからです。
自然のものだからです。
 
 
その法則を知識としてではなく、
繰り返し、繰り返し、
練習といふ実践を通して、
からだまるごとで、
ことばの法則に則つてゆくのです。
 
 
昔、あるオイリュトミストが、
わたしに言つたことがあります。
 
 
「練習はあまり必要ありません。
むしろ、意識の持ち方が大事。
いまは、意識魂の時代だから」
 
 
わたしは、その方には申し上げませんでしたが、
それは絶対に違ふと思ひました。
 
 
意識などは、すぐに変へられる。
 
 
しかし、その変へられた意識は、
ふたたび、また、元の木阿弥に返つてしまふのだ。
 
 
元の木阿弥に返つて、
お馴染みのやり方、あり方になつてしまふのが、
人のからだだ。
 
 
人は、繰り返し練習を重ねること以外には、
己れみづからのからだを通しての技量を
めていくことは決してできません。
 
 
からだとは、それほどに、
手のかかるものであります。
 
 
また、その繰り返しの練習から、
身に叩き込まれた型があるからこそ、
逆に、その人からしか生まれない、
個性的なものが生み出されます。
 
 
しかし、この個性は、
長い時間の中でこそ生まれて来るものです。
 
 
十年、二十年、三十年・・・
限りはありませんが、
そのやうな長い時間を通して、
培はれた基礎がものを言ひます。
 
 
わたしも、
不遜に聴こゑるのを恐れるのですが、
基礎練習を重ねつつ、
これからどういふものが、
この身から生まれて来るのかと、
気を引き締めてゐます。
 
 
 

posted by koji at 22:54 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月07日

型を叩き込む


 
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基本練習といふものが、
言語造形にもあります。
 
 
その練習を積み重ねることによつて、
型をからだに叩き込むのです。
 
 
知性で捉えられた知識は、
芸術においては頼りにならないもので、
なにほどのものでもありませんが、 
からだに叩き込まれた型は、
その人を根底から支へます。
 
 
型とは、
その芸術に固有の法則から生まれてゐます。
 
 
自然のものすべてに法則があるやうに、
ことばといふものにも法則があるのです。
 
 
ことばは人間が作つたものではなく、
神が造られたものだからです。
自然のものだからです。
 
 
その法則を知識としてではなく、
繰り返し、繰り返し、
練習といふ実践を通して、
からだまるごとで、
ことばの法則に則つてゆくのです。
 
 
昔、あるオイリュトミストが、
わたしに言つたことがあります。
 
 
「練習はあまり必要ありません。
むしろ、意識の持ち方が大事。
いまは、意識魂の時代だから」
 
 
わたしは、その方には申し上げませんでしたが、
それは絶対に違ふと思ひました。
 
 
意識などは、すぐに変へられる。
 
 
しかし、その変へられた意識は、
ふたたび、また、元の木阿弥に返つてしまふのだ。
 
 
元の木阿弥に返つて、
お馴染みのやり方、あり方になつてしまふのが、
人のからだだ。
 
 
人は、繰り返し練習を重ねること以外には、
己れみづからのからだを通しての技量を
めていくことは決してできません。
 
 
からだとは、それほどに、
手のかかるものであります。
 
 
また、その繰り返しの練習から、
身に叩き込まれた型があるからこそ、
逆に、その人からしか生まれない、
個性的なものが生み出されます。
 
 
しかし、この個性は、
長い時間の中でこそ生まれて来るものです。
 
 
十年、二十年、三十年・・・
限りはありませんが、
そのやうな長い時間を通して、
培はれた基礎がものを言ひます。
 
 
わたしも、
不遜に聴こゑるのを恐れるのですが、
基礎練習を重ねつつ、
これからどういふものが、
この身から生まれて来るのかと、
気を引き締めてゐます。
 
 
 

posted by koji at 18:45 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月04日

【小川榮太郎】美の行脚(第四回):小林秀雄『本居宣長』について《前編》






いやあ、これはこたへられない面白さです・・・。
 
 
文章の内側に、
ひとりの人といふ、
唯一無二の存在が息づいてゐるものこそが、
文学であるならば、
思想も歴史も、文学でなければならない。
 
  
どんどん零落していく日本の文化力を、
水際で押しとどめた仕事として、
小林秀雄の『本居宣長』といふ作品があると、
感じてゐるわたしにとつて、
この小川氏と石村氏の対談は本当に嬉しいものです。
 
 
小林の『本居宣長』一冊、全50章を、
一年間かけて高校生などと読むことができたら、
どんな豊かな時間が生まれるだらう。
 
 
学ぶとはどういふことか、
人として生きるとはどういふことか、
民族精神の伝統に則つた学問観と死生観といふ、
ふたつの大いなる問ひを抱く機縁を摑むことができる。
 
 
そんな一冊だと信じてゐるのです。



posted by koji at 19:57 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

すべての学びの根柢 〜歴史と風土教育〜

 

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いま、自分も含めてですが、
神社や歴史的遺蹟を巡り歩いてゐる人が、
とても多くなつてゐます。
(特に、関西・近畿地方において?)
 
 
多くの人が、
思ひ出すべき何かを思ひ出さうとして、
さういふ所を訪ね歩いてゐるのだと感じます。
 
 
奈良の大和路の辺りを歩いてゐて、
つくづく感じることが、
我が国の文化と歴史を
知りながらかういふ所を歩いてゐるのと、
知らないで歩いてゐるのとの違ひは大きい、
とてつもなく大きい、といふことでした。
 
 
そして、かういふ学びと行為は本来、
小学生、中学生、高校生のときに
やつておきたいことだ、
といふことです。
 
 
いまの大抵の修学旅行や遠足などは、
ただのレクリエイションになつてしまつてゐて、
学校では我が国の歴史や文化のなりたち、
敬ふべき大切なものをなんら教へずに、
ただ子どもたちを名所旧蹟に引つ張つていき
歩き回らせてゐる。
 
 
子どもたちには何の感興も感動もない。
酷いものになると、
ディズニーランドや、
テーマパークなどに連れて行つて、
子どもたちの浅はかな機嫌を取る。
 
 
歴史や風土を教へるにも、
子どもたちが我が国、我が土地、我が風土に、
誇りと美しさを覚えるやうな、
人の成長にふさわしい教へ方と内容が必要です。
 
 
そのやうな教育の根源は、我が国に於ては、
幸ひながら、
古事記や萬葉集や風土記といつた、
古典作品に収められてゐます。
声高に叫んだりしませんが、
静かに収められてゐます。
 
 
我が国の古典作品は、
我が国の土着のものでありながら、
どこまでも高くて深い見識をいまだに湛えながら、
わたしたちのこころのとばりの向かう側に、
ひつそりと佇んでゐます。
 
 
その古典を学びながら、
そこから歴史と風土と文化を知らうとしながら、
その固有の精神・神々と、
土地の精神・地霊の方々との、
交はりを求めて、
その伝来の土地の上に足を踏み出していく。
 
 
その足をもつての学びは、
人に自己肯定感と、
故郷に戻つた時のやうな、
どこまでも深い安心感をもたらすのです。
 
 
多くの問題、こころの問題のおほもとは、
己れの出自・源に対する
不見識、否定感、不信感にある。
 
 
しかしこれは、そもそも、
学校教育に期待するやうなものではないのかもしれない。
 
 
家庭での、わたしたち親たちによる、
わたしたち親自身の自覚の問題です。
 
 
それは、夫婦関係、親子関係、人間関係の深まりといつた、
小さな社会の礎創りこそが、
すべての学びの根底にあるからです。
 
 
自分自身の足元を見直す。
 
 
そんなあり方を探つていきたい、
と考へてゐます。
 
 
 
#国学  #教育

posted by koji at 07:34 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月03日

憧れと現象



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わたしには、憧れがあります。
 
 
その憧れとは、
発声される国語芸術を、
この国に成立させることです。
 
 
その憧れは、明らかに、
精神から来てゐます。
 
 
そして、わたしは、
ここ地上にて、
人々と共に生きてゐます。 
 
 
そこで生じる現実は、
明らかに地上的現象です。
 
 
この憧れと地上的現象とを、
ひとつに重ね合はせて行く。
 
 
わたしには、それができるだらうか。
 
 
そんな懐疑などありません。
 
 
やつて行くしかないのです。
 
 
昨日は、素晴らしいお料理と和やかな談話、
皆さんに本当にお世話になりました。
 
 
どうもありがたう。


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posted by koji at 17:29 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こころのこよみ(第43週)〜天に向かふこころの炎〜



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冬の深みにおいて、
 
精神のまことのありやうが暖められ、
 
世の現はれに、
 
心(臓)の力を通してありありと力が与へられる。
 
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 
 人の内なるこころの炎」
 
 
 
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
 
 
 
 
いま、人と人は、
どれほど分かり合へてゐるだらうか。
 
 
人と人との間に、
無関心が、行き違ひが、無理解が、
そして憎しみまでもが立ちはだかつてゐる。
 
 
自分自身のこととしても、
そのことを痛切に感じる。
 
 
わたしたちは、
そのやうなあり方を「世の冷たさ」として、
密かに、ときにひどく辛く感じてゐる。
 
 
その冷たさから自分を守らうとして、
こころを閉ざす。
 
 
こころを閉ざした者同士がいくら出会つても、
求めてゐる暖かさは得られさうにない。
 
 
しかし、
このあり方が時代の必然であることを
知ることができれば、
何かを自分から変へていくことが
できるのではないだらうか。
 
 
15世紀以降、
人のこころのあり方が変はつてきてゐる。
 
 
意識のこころの時代だ。
 
 
この時代において、
まづ、人のこころは冷たく、
硬い知性に満たされる。
 
 
その知性は、
すべてを、人までをも、
物質として、計量できるものとして扱はうとする。
 
 
この時代において、
この冷たく硬い知性が、
人のこころに満ちてきたからこそ、
現代の文明がここまで発達してきた。
 
 
そして、文明が発達すればするほど、
人は、己れが分からなくなつてくる。
人といふものが分からなくなつてくる。
 
 
人といふものは、からだだけでなく、
こころと精神からもなりたつてゐるからだ。
 
 
だから、その冷たく硬い知性を
己れのものにすることによつて、
人は、人といふものがわからなくなり、
他者との繋がりを見失つてしまふ。
 
 
己れの己れたるところとの繋がりさへも
見失つてしまふにいたる。
 
 
文明の発達を支へる冷たい知性が、
冷たい人間観、人間関係を生み出した。
 
 
そして、そのやうに繋がりが断たれることによつて、
人は、自分が「ひとりであること」を
痛みと共に感じざるをえない。
 
 
以前の時代には、
無意識に繋がつてゐた人と人との関係。
人と自然との関係。
人と世との関係。
 
 
それらが断たれていく中で、
人はひとりであることに初めて意識的になり、
改めて、
自分の意志で繋がりを創つていく力を
育んでいく必要に迫られてゐる。
 
 
しかし、むしろ、かう言つた方がいいかもしれない。
 
 
ひとりになれたからこそ、
そのやうな力を育んでいくことができるのだと。
 
 
ひとりになることによつて、初めて、
人と繋がることの大切さに
しつかりと意識的になることができる。
 
 
だから、
このやうな人と人との関係が
冷たいものになつてしまふことは、
時代の必然なのだ。
 
 
そして、
この時代の必然を見やる、
ひとり立ちしたひとりひとりの人が、
みづから天(精神)と繋がり、
垂直の繋がりをアクティブに創り出すならば・・・。
 
 
そのとき、至極精妙な天からの配剤で、
横にゐる人との繋がり、
水平の繋がりが与へられる。
 
 
垂直の繋がりが、
ひとりひとりの人によつて育まれるがゆゑに、
水平の繋がりが天から与へられる。
 
 
さうして初めて、
人と人とが分かち合ひ、
語り合ひ、愛し合ふことができる。
 
 
地上的な知性で、
地上的なこころで、
地上的なことばで、
人と人とが分かり合へるのではない。
 
 
そのやうな意識のこころの時代が始まつて、
すでに500〜600年経つてゐる。
 
 
わたしたち人は、そのやうに、
いつたん他者との関係を断たれることによつて、
痛みと共に、冷たく、硬い知性と共に、
ひとりで立つことを習つてきた。
 
 
そして、そろそろ、ひとりで立つところから、
意識のこころの本来の力、
「熱に満ちた、暖かい知性」、
「頭ではなく、心臓において考へる力」、
「ひとり立ちして愛する力」を
育んでいく時代に入つてきてゐる。
 
 
他者への無関心、無理解、憎しみは、実は、
人が、からだを持つことから必然的に生じてきてゐる。
 
 
硬いからだを持つところから、
人は冷たく硬い知性を持つことができるやうになり、
からだといふ潜在意識が働くところに居座つてゐる
他者への無理解、憎しみが、
こころに持ち込まれるのだ。
 
 
だから、これからの時代のテーマは、
そのやうな、からだから来るものを凌いで、
こころにおいて、
暖かさ、熱、人といふものの理解、愛を、
意識的に育んでいくことだ。
 
 
「世の冷たさに力強く立ち向ふのは、
 人の内なるこころの炎」だ。
 
 
その「内なるこころの炎」は、
天に向かつて燃ゑ上がる。
精神に向かふ意志の炎となる。
 
 
日常生活を送るうへで、
日々の忙しさにかまけつつも、
なほかつ求めざるを得ないこころの糧。
それは、精神である。
 
 
地上に生きる人にとつて、
なくてはならないこころの糧としての精神。
その精神の具象的なもののうち、
代表的なもののひとつは、キリストであらう。
 
 
キリストのこと、
クリスマスにをさな子としてこの世に生まれたこと、
春を迎へようとする頃
ゴルゴタの丘の上で起こつたこと、
そのことを深みで感じつつ、
深みで知りゆくことによつて、
ますます意識的にこころを精神に向かつて
燃ゑ上がらせることができる。
 
 
そして、
人と人との間に吹きすさんでゐる無理解と憎しみといふ
「世の冷たさ」に立ち向かふことができる。
 
 
ひとりで立ち、ひとりで向かひ合ふことができる。
 
 
キリストのことを考へないまま信じるのではなく、
キリストのことを考へて、想ひ、そして知りゆくこと。
 
 
意識のこころの時代において、
人は、そのやうなキリスト理解をもつて、
みづからのこころに炎を灯すことができる。
 
 
なぜなら、キリストの別の名は、
「わたしは、ある」だからだ。
 
 
「わたしは、ある」。
 
 
さう、こころに銘じるとき、
わたしたちは、こころに炎を感じないだらうか。
 
 
そして、キリスト教徒であるなしにかかはらず、
キリストと繋がる。
 
 
 
 

冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖められ、
世の現はれに、
心(臓)の力を通してありありと力が与へられる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
 人の内なるこころの炎」
 
 
 

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2020年02月01日

今日の稽古『 をとめ と つるぎ 』



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演出する者が涙を流してゐては、
仕方がないと思ふのです。
 
 
だけれども、出るんだから、仕方がない。
 
 
役者の方々、
各々の役をだんだん深めてゐて、
そのひとこと、その一音に、
涙が出るのです。
 
 
今日は、メークの方も来て下さり、
わたしたち劇の中にどつぷり入り込んでゐる者
とは違ふ別の角度から意見を下さり、
とてもありがたい。
 
 
国の歴史を支へた人物たちの人格や、
精神の片鱗にでも触れることができたら、
さう希つて、
この言語造形劇『をとめとつるぎ』
を創り続けてゐます。
 
 
そして、
舞台芸術としてのことばの芸術を
この日本に仕立てて行きたい。
 
 
そんな理想をもつてやつてゐます。
 
 
応援いただけましたら、
とても嬉しいです。
 
 
ぜひ、
大阪公演3月28日(土)
東京公演3月29日(日)
https://kotobanoie.net/play/
お運びください!
 
 
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posted by koji at 22:54 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月31日

娘の声



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わたしからは何も言はないのに、
明日の稽古に備へて、
小5の娘が稽古場で大声出してゐるのが、
聴こゑてきます。
 
 
今度の「 をとめ と つるぎ 」の舞台を
最後の出演にすると彼女は言ひました。
 
 
小さいときから、
親に随分つきあつてくれたこと、
本当にありがたく思ひます。

posted by koji at 21:52 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月30日

音の内へ 〜フルトヴェングラー第九を聴いて〜



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クラシック音楽を
少しづつ、少しづつ、聴き出して、
数年になります。
 

まだ、何が何やらよく分からず、
ただ、買ひ求めた数少ないアルバムを、
繰り返し、繰り返し、聴き続けてゐます。
 
 
何度も聴いて来た、
フルトヴェングラー指揮、
ベートーヴェン第九交響曲(1951年バイロイト)を、
家人が誰も家にゐないことをいいことに、
今日は大音量で聴きました。
 
 
時間の中を疾走するが如く、
フレーズからフレーズへ
ダイナミックに音が移りゆき、
しかも一音一音へ意識が細やかに配られ、 
時には、まるで天上から
突然神々が降りて来られたかのやうに感じたり、
ベートーヴェンの精神が
聴いてゐるわたしの身を揺さぶり、舞はせ、
肉体があることを忘れさせるやうな時間。
 
 
第四楽章の最後の加速していく演奏に、
ほとんど我を忘れてゐる自分がゐました。
 
 
ひとつひとつの音と声によつて、
完璧なまでに精緻に組み立てられた構造物なのに、
そのひとつひとつの響きが、
肚の底から鳴らされ切つてゐる。
 
 
すべての演奏が終はつた瞬間、
嗚咽に似た感情が、
身の内から滾々と湧き上がつて来たことに、
自分自身、驚いてしまひました。
 
 
このやうに、クラシック音楽を聴くことは、
酔狂者の一種の暇つぶしなのだらうか、
さう、みづからに問ふてみました。
 
 
さうではない、と思ひました。
 
 
喜びも悲しみもすべての感情を生き切る。
それを歌ひ上げる。
 
 
人は、そのやうに生き切らなければならない。
 
 
この演奏は、演奏そのもので、
そのことを示してくれてゐるやうに
思はれてなりません。
 
 
人生を生き切つて、
人はくたくたになり、
へたばつてしまふかもしれない。
 
 
それと同じやうに、
この演奏を聴いたあと、
やはり、くたくたになります。
 
 
しかし、
音の中に真正面から入り込んでいくことによつて、
普段の生ぬるい自分が死んでしまふ。
 
 
そんな事態に踏み込める音楽、芸術が、
いまだ存在してゐることが、
ありがたいことです。
 
 
なにごとも外に居ては分からないものですね。
 
 
内へ、内へと、入り込まねば、
と改めて念はされました。 
 
 

posted by koji at 19:08 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月29日

5月からの「缶詰・宮澤賢治」クラスのお知らせ



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来年、令和3年3月に、
言語造形による舞台劇
『缶詰・宮澤賢治』(構成・演出 諏訪耕志)
を演じるメンバーを募集いたします。
 
 
この5月から土曜日、
月に三回のペースで、
(7月のみ二回、
 本番前の2月、3月には、
 必要に応じて更なる回数)
「ことばの家 諏訪」にて、
言語造形の稽古をいたします。
 
 
ことばの造形による、
宮澤賢治の世界。
 
 
それは、
宇宙大の広やかさと深さを湛えるひとりの人
といふもの、さらには、
その人と自然との交感を歌ひ上げるものです。
 
 
ことばによる表現の極みを目指す舞台にしたい、
さう考へてゐます。
 
 
賢治が描かうとした、
この世と精神の世との交はり。
 
 
芸術とは、まさに、
その交はりを描くものであり、
その交はりを生きるものです。
 
 
一年間のこの舞台創りを通して、
その交はりを共に生きませんか。
 
 
この舞台創りを通して、
あなたも言語造形をする人として、
足掛かりをつけていきませんか。
 

この舞台創りを通して、
ここ日本に、
言語造形といふ芸術を
共に仕立てていきませんか。

 
 

   講師:諏訪耕志(言語造形をする人)
 
 

――――――
 
 
『缶詰・宮澤賢治』クラス
 
 
 
【稽古日程】
 
令和2年 5月より土曜日
5/9, 5/23, 5/30,
6/6, 6/13, 6/27,
7/4, 7/11,
8/1, 8/8, 8/22,
9/5, 9/12, 9/26,
10/3, 10/10, 1024,
11/7, 11/14, 11/28,
12/5, 12/12, 12/26,
1/9, 1/23, 1/30,
2/6, 2/13, 2/27,
3/6, 3/13(本番), 3/14(本番)
 
※本番前の2月、3月は、
 必要に応じて平日稽古あり
 
 
 
【時間】
 
午前9時半から13時
(本番が近づく2月、3月は、
 必要に応じて午後も稽古あり)
 
 
 
【参加費】
 
月謝制
稽古日二回の7月は、8000円
稽古日三回の月は、12000円
稽古日四回以上の月でも、12000円
 
一括払ひ
116000円(1か月分お得です)
 
(資料代、衣装代など製作費含む)
 
その他、本番&リハーサル会場費は全員で負担
 
 
 
【稽古場】
 
「ことばの家 諏訪」 帝塚山教室 
https://kotobanoie.net/access/ 
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20  
南海高野線「帝塚山」徒歩5分
 
 
 
【本番日(予定)】
 
令和3年(2021年)3月13日(土)、14日(日)
 
 
 
【本番会場】
 
未定 
 
 
 
【お問ひ合はせ】
 
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
 
 
  

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2020年01月27日

ことばの家の「普遍人間学、そして言語造形クラス」


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大阪の帝塚山にある「ことばの家 諏訪」での
『普遍人間学、そして言語造形クラス』
へのご案内です。
 
 
ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』。
 
 
この難解な講義録の一文一文、一語一語を、
ご一緒に読み解いて行きませんか。
 
 
この本の副題は、
「教育の基として」とあります。
 
 
ことばに沿ひ続けて行くことによつて、
わたしたちはそこに、
教育の基としての、
「人といふものの謎」を深めていくのです。
 
 
そこには、
子どもをこんな風に教育していけばいい、
といふやうな手軽な答案はどこにも記されてゐません。
 
 
真摯に読みこむことによつて、
問ひが生まれて来ます。
 
 
そして、答へはすべて、
暮らしの中に、
実践の中に、
人生の中に、
あります。
 
 
つまり、わたしたちは、
この学びによつて、
問ひの立て方を学んでゆくのです。
 
 
翻訳は、言語造形家の鈴木一博氏によるものです。
 
 
その、ことばの選び方は、
精神とこころからの翻訳です。
 
 
 
 
午前中に、
そのやうな読書に勤しんだ後、昼食を挟んで、
午後には、
言語造形といふ、
全身での日本語の修練に入つて行きます。
 
 
言語造形、それは、
からだの奥、
こころの奥、
精神の奥から生まれ出づる、
ことばの芸術です。
 
 
朗読や語り、朗唱をもつて、
ことばの芸術を味はふ時間です。
 
 
毎月第三日曜日、
講師は、わたくし諏訪耕志です。
 
 
体験としての講座ご参加を募集してゐます。
 
 
ご関心のあられる方、お待ちしてゐます。
 
 
詳細は ↓
『普遍人間学、そして言語造形』を学ぶクラス
https://kotobanoie.net/univ/
 
 
※ご参加していただく前に、
以下のサイトから『普遍人間学』のご購入を、
どうぞよろしくお願ひします。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 

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再びひとつになりゆく


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神と人とが分かれてしまつた痛みを、
詩人たち、
とりわけ、日本の詩人たちは、
昔から、
個人的な悲しみを超えた、
国の悲しみと捉へました。
 
 
さうして、
再びその分離が収まりゆくことを
悲願としたのです。
 
 
神と人との分離は、まづ、
人のこころの乱れとして潜在し、
それは、ことばの乱れ、国語の乱れとして、
明らかに現はれてくるのでした。
 
 
松尾芭蕉の語録『三冊子』に、
「俳諧の益は俗語を正すなり」といふ、
ことばがあります。
 
 
「正す」といふと、どこか、
「上から目線」な趣を与へてしまひますが、
しかし、芭蕉は、明らかに、
国の歴史を貫く高い精神を
しつかりと覚え、
みづからもそれを把持しよう、
後世に伝へようとしてをりました。
 
 
その高い精神からこそ、
俳諧師は、
正しい国語を普及しようといふ考へをもつて、
全国を旅しました。
 
 
詩人とは、
とても足の強い人たちだつたのですね。
 
 
ことばと、足の運び。
 
 
そこには深い関係があります。
 
 
そのやうな足の運びをもつて、
古典の中に流れてゐる考へ方や感じ方を、
世俗の人に分かるやうに説いて行きました。
 
 
真の詩人とは、
国の歴史を背負ひつつ、
国語運動の先端たる担ひ手です。
 
 
そして、全国の様々なところで、
深い志を共にすることのできる人々と
輪を囲む。
 
 
その場では、
ほんのひとこと、ことばが口に出ただけで、
その心意気と風雅が分かち合はれる。
 
 
泣いてしまふ。
 
 
そのやうに思ひと情が
深くから動くやうな、
人を創ること。
 
 
一語一句で千古の情が湧き上がるやうな、
切迫した感覚を磨くこと。
 
 
和歌、連歌、俳諧、
それらのことばの芸術に勤しむことで、
詩人たちは、
さういふ切迫した「ことばの感官」を
人々と共に育んできました。
 
 
江戸時代、二百何十年にわたる、
そのやうな国民的な国語教育が、
各地で詩人たちによつてなされてゐたからこそ、
地方における明治維新への強烈な志もまた、
準備されたのでせう。
 
 
不肖わたくしも、
言語造形といふ国語芸術をもつて、
「俗語を正す」運動、
「ことばの感官を育む」運動、
「神と人とが再びひとつになりゆく」運動に、
連なりたいと希つてゐるのです。
 
 
「神と人とが再びひとつになりゆく」。
 
 
もはや、宗教の場においてではなく、
まごころとまごころが通ひ合ひ、
研鑽と見識が織りなし合ふ、
芸術の場においてこそ、
神と人との出会ひが生まれる。
さう感じてゐます。
 

posted by koji at 13:43 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月26日

ミニ発表会


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今日は、
ミニ発表会をしました。
 
 
違ふクラスで言語造形をしてゐる者が
互ひの声を聴き合ひ、
刺戟を受け合ひ、
交流を深められたら、
そんな念ひで皆さんに集まつてもらつたのです。
 
 
集まることのできる方だけの、
小さな会でした。
 
 
しかし、
おひとりおひとりの語りが素晴らしかつた。
 
 
物語り、詩、ひとり芝居・・・。
 
 
ことばの芸術を
こころゆくまで味はふことができました。
 
 
きらびやかな衣装も、
特別な舞台装置もいらない。
 
 
魅力あることばだけでいい。
 
 
それさへあれば、
わたしたちは世界を創ることができる。
 
 
ことばひとつで、
新しい世界が立ち上がつてくる。
 
 
わたしだけでなく、
皆さん、各々、
大いに感動と刺激を受けられたやうでした。
 
 
この集ひは、いいです。
 
 
とても、いいです。
 
 
また、これからも、やつていきたいと思ひます。
 
 
発表された皆さん、
どうもありがたうございました!
 

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2020年01月25日

こころのこよみ(第42週) 〜こころをこめてする仕事〜


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この冬の闇に
 
みづからの力の啓けがある。
 
こころからの強い求めがある。
 
暗闇にそれらをもたらし、
 
そして予感する。
 
心(臓)の熱を通して、感官が啓くことを。
 
 
  
 
Es ist in diesem Winterdunkel
Die Offenbarung eigner Kraft
Der Seele starker Trieb,
In Finsternisse sie zu lenken
Und ahnend vorzufühlen
Durch Herzenswärme Sinnesoffenbarung.
 
 
 
 
毎週、この『こころのこよみ』を生きていく。
 
 
毎週、ここに記されてある詩句を
繰り返しこころの内で味はつてみる。
 
 
さうすると、ここに記されてあることばが、
それを読んでゐる自分自身のこころの歩みと、
重なつてくるのを感じることができる。
 
 
そのこころに重なつてきてゐる力は、さらに、
心(物質の心臓とエーテルの心臓の重なりあひ)
の働きを活性化させるやうに感じる。
 
 
そのことは、この詩句に沈潜するほどに感じられる、
体内に流れ出す熱い血をもつて確かめられる。
 
 
物質の心臓は、
物質のからだの中心を司る器官で、
血液の巡りによつて活き活きと脈打つてゐる。
 
 
エーテルの心臓は、
人のエーテルのからだの中心を司る器官だが、
愛の巡りによつて活き活きと脈打ち、
そこから光が発し、熱が生まれる。
 
 
内に抱く考へが、愛を基にしたものならば、
その考へはエーテルの心臓を活き活きと脈打たせる。
 
 
さうでないならば、
その考へはその心臓を締め付ける。
 
 
活き活きと脈打つエーテルの心臓が光と熱をもつて、
物質の心臓の働きを促し、熱い血の巡りを促し、
さらに、こころの働きといふ働きを促しだす。
 
 
その活性化されだしたこころの働きを通して、
ものが、よく見えだし、よく聴こえはじめる。
 
 
そして、肉の目や耳には映らない、こころのもの、
他者の情や他者の考へがリアリティーをもつて、
心臓で感じられるやうになつてくる。
 
 
きつと、その道は、人の情や考へだけでなく、
ものといふもの、
例へば、
植物や動物の情、
地水風火の情や考へなどをも
感じられることへと繋がつていくだらう。
 
 
頭の脳で理解するのではなく、
心臓で感じ、
心臓で考へることができるやうになつていくだらう。
 
 
外なる感官だけでなく、
そのやうな内なる感官もが啓きはじめ、働きはじめる。
 
 
「そして予感する
 心(臓)の熱を通して、感官が啓くことを」
 
 
そして、その啓かれるものを受けとることを通して、
わたしたちはどう振舞ふことができるだらうか。
 
 
「 みづからの力の啓け
 こころからの強い求め
 それらを冬の暗闇にもたらす」
 
 
その振る舞ひは、きつと、
その人その人の仕事として、
世の冬の暗闇に光をもたらすものになるはずだ。
 
 
お金を稼ぐことが
仕事をすることだといふ意味ではなく、
その人がこころをこめてすることこそが
仕事であるとするならば、
わたしたちは、いま、いる場所で、
その仕事を始めることができる。
 
 
 
 
この冬の闇に
みづからの力の啓けがある。
こころからの強い求めがある。
暗闇にそれらをもたらし、
そして予感する。
心(臓)の熱を通して、感官が啓くことを。
 
 
 
 

posted by koji at 09:23 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月19日

こころのこよみ(第41週)〜心臓からほとばしりでる力〜



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こころから生み出す力、
 
それは心(臓)の基からほとばしりでる。
 
人の生きる中で、神々の力を、
 
ふさはしい働きへと燃ゑ上がらせるべく、
 
おのれみづからを形づくるべく、
 
人の愛において、人の仕事において。
 
 
 
 
Der Seele Schaffensmacht
Sie strebet aus dem Herzensgrunde
Im Menshenleben Götterkräfte
Zu rechtem Wirken zu entflammen,
Sich selber zu gestalten 
In Menschenliebe und im Menschenwerke.
  

 
 
人は、善きこと、素晴らしいことを、
大いに考へることはできても、
それを行為にまで移していくことには、
難しさを感じるのではないだらうか。
 
 
考へることや思ひ描くこと。
そして、実際に、すること。
 
 
この間には、人それぞれにそれぞれの距離がある。
 
 
 
 
「血のエーテル化」(1911年10月1日 バーゼル)
と題された講演で
シュタイナーが語つてゐることを要約して、
今週の『こよみ』をメディテーションする上での
助けにしてみる。
 
 
 
―――――――
  
 
人は、昼間、目覚めつつ考へてゐるとき、
心臓からエーテル化した血が
光となつてほとばしりでて、
頭の松果体にまで昇つていき、輝く。
 
 
そして、
人は、夜眠つてゐるあひだ、
考へる力が眠り込み、
逆に意志・意欲が目覚め、活発に働く。
そのとき、
大いなる世(マクロコスモス)から
人の頭の松果体を通り、
心臓に向かつて、
「いかに生きるべきか」
「いかに人として振舞ふべきか」
といつた道徳的な力が、
その人に朝起きたときに
新しく生きる力を与へるべく、
色彩豊かに流れ込んでくる。
 
 
それは、神々が、
その人を励ますために夜毎贈つてくれてゐる力だ。
 
 
だから、人は夜眠らなければならない。
 
 
人が少しでも振る舞ひにおいて
成長していくためには、
眠りの時間に神々から助けをもらう必要がある。
 
 
昼間、人において、
「こころから生み出す力」、考へる力が、
「心(臓)の基」から、
エーテル化した血が光となつてほとばしりでる。
 
 
その下から上へのエーテルの流れは、
頭の松果体のところで、
夜、上から下への神々の力と出会ひ、
そこで光が色彩をもつて渦巻く。
 
 
その光の輝きは心臓あたりにまで拡がつていく。
 
 
それが、
人といふミクロコスモスで毎日起こつてゐることがらだ。
 
 
そして、
マクロコスモス、大いなる世からの視野には、
キリスト・イエスが
ゴルゴタの丘で血を流したとき以来、
そのキリストの血がエーテル化し、
地球まるごとを中心から輝かせてゐるのが視える。
 
 
そのとき以来、
ひとりひとりの人が、
キリストのゴルゴタのことを親しく知るほどに、
みづからの内なるエーテル化した血の流れが、
キリストのエーテル化した血とひとつになつて、
昼間、人を輝かせ、力づけてゐる。
 
 
そのキリスト化したエーテルの血と、
マクロコスモスから夜毎やつてくる
神々の力とが出会ふことで、
人は、さらに昼間、
愛において、
仕事において、
その神々の力をふさわしい働きへと燃ゑ上がらせる。
 
 
考へ、思ひ描くこと。
(心臓から上つていくエーテル化した血の流れ)
 
 
そして、
実際に、すること。
(高い世から心臓に降りてくる力)
 
 
その間を、人みづからが埋めていく。
 
 
そのふたつを、人みづからが重ねていく。 
 
 
それが時代のテーマだ。
 
 
―――――――
 
 
 
 
 
シュタイナーによつて語られた
これらの精神科学からのことばを、
何度も繰り返して自分の考へで辿つてみる。
鵜呑みにするのではなく、
折に触れて、何度も考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴタのことを親しく知るといふことは、
自分自身が生まれ育つた文化風土において、
どういふ意味を持つのか、
考へてみる。
 
 
キリストのゴルゴダのことの意味は、
自分以外の人や物事を念ふて死ぬことができる、
といふことではないだらうか。
 
 
むかしの日本に、
さういふ文化が根付いてゐたこと。
大いなる理想を考へ、
そしてその通りに
実行してゐた人が数多ゐたこと。
 
 
わたしたちの先祖の方々が
当り前のやうに歩いてゐたそのやうな道を、
わたしたち現代人が想ひ起こすとき、
そのやうな道があつたことを、
ありありと念ふとき、
本当に自分のこころが、
輝き、力づけられるかどうか、
感じつつ、確かめていく。
 
 
そして、
そのやうに輝き、力づけられた自分のこころと、
神々の力が、交はつてゐること。
 
 
その交はりがあることによつて、
自分の仕事が、充実して、
まるで自分以上の力、神々の力が
燃ゑ上がるやうな瞬間を迎へることができること。
 
 
そのことを感じつつ、確かめていく。
 
 
 
こころから生み出す力、
それは心(臓)の基からほとばしりでる。
人の生きる中で、神々の力を、
ふさはしい働きへと燃ゑ上がらせるべく、
おのれみづからを形づくるべく、
人の愛において、人の仕事において。 
 
 
 

posted by koji at 17:42 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする