2020年07月02日

ゆつくりとした動き・ていねいな動き オンラインクラスへのお誘ひ


 
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この「アントロポゾフィークラス・オンライン」では、
二週間に一回の『普遍人間学』の学びを通して、
暮らしの中で精神の導きを得るための
ひとつのきつかけをもたらさうとしてゐます。
 
 
 
●金曜10時〜12時クラス(7/10, 7/31, 8/28)

 
●土曜10時〜12時クラス(7/11, 8/1, 8/29)
 
 
詳しくは、こちら
 
 
 
それは、毎日の暮らしと仕事の中で、極めて意識的に、
「ゆつくりとした動き」「ていねいな動き」を自分自身にさせていくことなのです。
 
 
その「ゆつくりとした動き」「ていねいな動き」が、
おのづから深くて、いきいきとした息遣ひ、
安らかなこころもちに立ち戻らせてくれます。
 
 
そして、それは、瞑想(メディテーション)への導きであり、
それ自身が「動く瞑想」です。
 
 
二週間に一度、『普遍人間学』を学ぶこのクラスを通して、
定期的にそのきつかけに触れるのです。
 
 
さうして、またわたしたちは、
自分自身のこころの癖・傾向や、
暮らしの外側の流れに押し流されさうになる自分を何度でも再び、
安らかで落ち着いた自分自身のまんなか・精神の泉・天の真名井に立ち戻らせることができます。
 
 
ひとりだけでは難しい、そのやうな自己教育も、
地域を越えて、その意識で集まる仲間と共に、
このみずみずしい精神の泉の水を汲み合ふ二時間です。
 
 
また、どうぞ、暮らしの中にそのやうな時間を共にもつていきませんか。
 
 
  
諏訪耕志拝


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2020年07月01日

弔ひの声  平家物語


 


 
このウィルス騒ぎの三か月間、
家に籠もる時間が多くなり、
『平家物語』を最初から最後まで、
じつくり読むことができました。
 
 
読み進めてゐる最中も、
読み終はつた今でも、
何より、わたしに強い印象を残してゐるのは、
「死」といふものに対する当時の人々の態度です。
 
 
今のわたしたちのやうに、
死ぬことが怖くて怖くてたまらない人も、
当然をりますが、
これほどまでに人は、
死といふものに、
潔く突き進んで行くことができるものか、
と感嘆するしかないやうな人も、
たくさん、たくさん、出てくるのです。
 
 
そして、泣くのです。
 
 
多くも多くの人が、武士たちが、
涙に濡れる袖を絞るのです。
 
 
この物語は、いつたい、何なのか。
 
 
読んでゐる間中、
ずつと、弔ひの声が聴こえてくるのです。
 
 
わたし自身、恥ずかしい話ですが、
この齢になつて初めて、
世は無常であるといふことを痛感しました。
 
 
本当に、世は、無常なのですね。
 
 
そして、そのときに感じざるをえない、
もののあはれを詠ひ、語り継いで来た、
わたしたちの祖先の皆様に、
本当に尊敬の念を覚えます。
 
 
なぜならば、それを詠ひ、語るといふ行為は、
「もののあはれ」の情をみづからつかみとり、
その情の上に立たないとできることではないからです。
 
 
そのことばの響きは、
死といふものを貫く、
人の真のいのちがあることを教へます。
 
 
全十三巻の物語を読み終へた今、
冒頭にある、
諸行無常の響きがあるといふ、
祇園精舎の鐘の声を、
切に聴きたいですし、
盛者必衰の理をあらはすといふ、
沙羅双樹の花の色を、
切に見たいと念ひます。
 

動画は、その「死」を描いた場面ではありませんが、
二十歳の若武者が己れのいのちを懸けて弓を放つ、
「那須与一」の段の語りです。
https://youtu.be/FR70tahwzO0
 

2020年06月30日

7〜8月アントロポゾフィークラス・オンラインのお知らせ


 
 
『普遍人間学の第三講』に取り組む次回のクラスの日程をお知らせいたします。
 
 
●金曜10時〜12時クラス(7/10, 7/31, 8/28)
 
 
●土曜10時〜12時クラス(7/11, 8/1, 8/29)
 
 
ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』のオンライン講座のお知らせです。
(録画したものを観ていただくこともできます)
 
 
全十四講義、
シュタイナーによつて語られてゐるのですが、
シュタイナーの各講義を
三回ひとつづきで、
わたくし諏訪耕志が、
ていねいに語り降ろさせていただきます。
 
 
このたびは、第三講のクールです。

 
アントロポゾフィーの学びを
日本の精神伝統を鑑みながら、
少しづつじつくりと進めていきます。
 
 
ライン上ですが、
ことばの語りを聴き、
みづからもことばを発することで、
時を共有しながら、
人間学の理解を確かにしつつ、
深い息遣ひを常に想ひ起こしながら、
瞑想(メディテーション)の大切さを確認し合ふ、
そんな時間です。
 
 
この機会に、
この講義録『人間学』の内実を、
深くから身をもつて生きてみませんか。
己れのものにしていきませんか。
 
 
途中からでも、
無理なく、講座内容は理解できます。
 
 
共に、精神の学びに取り組んで行きませう。
 
 
※これまでの金曜クラスの時間が変はり、
 朝10時から12時までになります。
 ご注意ください。

 

講師:
諏訪 耕志

 
  
 

今回は、第三講を三回に分けて取り組みます。
 
 
@7月10日(金)10時〜12時
 7月11日(土)10時〜12時
『 人とは何かが分からなくなつたわたしたち 』
 
 
A7月31日(金)10時〜12時
 8月1日(土)10時〜12時
『 地球を甦らせる人 』
 
 
B8月28日(金)10時〜12時
 8月29日(土)10時〜12時
『 人は世の傍観者ではない 』
 
 
  

●参加費 
 
初回体験参加 3500円、
3回連続 9000円
 
連続して受講していただくことが
最善だと考へますので、
初回体験参加を除いては、
3回連続で受講していただくやう、
お願ひいたします。
  
またその場合でも、
御自身のご都合でのお休みは、
キャンセル無効とさせていただき、 
録画したものを見ていただくことができます。
 
なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。
 
 
 
●お申し込み・お問ひ合はせ
 
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
 
 
 
●お振り込み
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
お申し込み、お振り込みいただいた方に、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。
 
 

鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を
講座の前にでも、あとにでも、
ご自身で読んでいただくことで、
学びの主体性も高まりますので、
ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌
 
出版元の精巧堂出版のページです。
ここからご注文できます。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 

ありがたうございます。 


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2020年06月29日

外郎売 〜教員養成のための言語造形〜


 
『普遍人間学』。それは、ルドルフ・シュタイナーが、世界で最初のヴァルドルフ(シュタイナー)学校の開校前に行つた教師に向けての14日間連続の講義です。
 
 
その『普遍人間学』のあとの演習の時間に、言語造形のレッスンのための素材を、ほぼ毎日、受講者に授けてゐます。
 
 
それは、意味のあつてないやうな、ことばの群れですが、それらを繰り返し練習することで、言語の器官を体操させ、しなやかにすることができるのです。
 
 
教師が、ひとつひとつの音の響きに全身で入り込んで、意識的に明瞭に話すことができること、子どもへの教育におけるそのことの重要性を彼は語つてゐます。
 
 
そこで与へられてゐる素材は、もちろんドイツ語です。
 
 
たとへば、こんな感じです。
 
 
Lalle Lieder lieblich
Lipplicher Laffe
Lappiger lumpiger
Laichger Lurch

 
わたしたち日本人が、そのやうな素材を探すとするなら、歌舞伎の『外郎売(ういろううり)』といふものがありますよ。
 
 

 
 
子どもたちの前で話すことを仕事にしてゐる方は、ぜひ、暗記して、繰り返し繰り返し、練習してみることをお勧めします。
 
 
言語造形を通して、母音、子音に意を配りながら、息遣ひ豊かに、内的な身振りをもつて、練習していくことができます。
 
 
子どもたちが求めてゐる「ことば」とはどのやうなものか、感じられてくると思ひます。
 
 
 

 
 
 

posted by koji at 23:06 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月28日

7/23〜7/26 真夏の連続講座 『 言語造形 その実践と理論 』



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真夏の四日間をかけて、
言語造形といふことばを話す芸術を、
実践と理論、ふたつの面から迫つて行きます。
 
 
夏、ことばに全力で取り組む。
 
 
発せられることば、響くことば、
それは、ありのままのわたしです。
 
 
だからこそ、そこに向き合ふ。
 
 
お話、物語、詩、
それらが声の響きとなつて空間に広がり渡る時、
ことばは芸術になりえます。
 
 
だからこそ、そのとき、
人そのものに美が湛えられてゐます。
 
 
言語造形といふ芸術をどつぷりと体験する四日間です。


午前は、
からだを動かしつつ、
全身をもつてことばを語り、歌ふことを、
系統だてて基礎から練習していきます。
 
 
午後は、
ルドルフ・シュタイナーが最晩年に残した講義録、
『言語造形と演劇芸術』に沿つて、
言語造形とはいかなる芸術であるのか、
そもそも、ことばとはいかなるものなのか、
といふことをこころに落とし込む時間です。
それは、アントロポゾフィーといふ精神科学に、
身を持つて深く入り込む確かなひとつの入り口です。
 
 

芸術実践とメディテーションといふふたつの面から、
自由になりゆく道を歩み始めます。

 
 
夏の青空に向かつて、
思いつきり息を解き放ち、声を解き放ち、
ことばの精神を活き活きと生きる、
そんな四日間になります。
 
 
ご関心のあられる方、どうぞご参加下さい。
 
 

講師:
諏訪耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
 
 
日時:
令和二年7月23日(木・祝)より26日(日)までの四日間
実践の部 午前9時半より12時まで
理論の部 午後13時半より16時まで
 
 
場所:
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
参加費:
四日間連続 32000円
単発参加 一日 10000円
 
 
 
お振り込み:
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
 

お問ひ合はせ・お申し込み
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 


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2020年06月27日

幸魂塾での言語造形


 
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4か月ぶりの、京田辺市三山木の幸魂塾での言語造形。
 
 
清々しい場で芸術に取り組むことのできる幸せを噛みしめながら時を過ごしました。
 
 
前田さんご夫妻、そして集まつて下さつた皆さん、どうもありがたうございました。
 
 
人の声には、ある種のブロックが掛かつてゐます。
 
 
それは、心理的なものかもしれませんし、経験値からのものかもしれません。
 
 
深く息を使ひ切ること、手足をおほらかに使ふこと、文章の中にこころとからだをもつて入つて行くこと。
 
 
さうすることで、自分自身でも知らない声に出会つていくのです。
 
 
ことばを発する喜び、変はりゆく他者の声を聴く喜び、そんな喜びの時を分かち合ふことができます。
 
 
ご関心のおありになる方、共に、そんな、ことばの芸術に共に取り組んで行きませんか。
 
 
クラスは、毎月第三金曜日の午前10時から12時半まで。
 
 
参加費は、初回体験参加は4000円、以降4回連続で14000円
加へまして、講師の交通費(大阪市内「玉出」・「同志社前」間)を頭割りでご負担いただいてゐます。ご了承ください。
 
 
ご関心あられる方は、
どうぞ前田恭仁子さんにご連絡をお願ひします。
フェイスブックページ
https://www.facebook.com/serenity1217?fref=profile_friend_list&hc_location=profile_browser
 
 
昨日、撮つてくださつた動画です。 ↓
https://www.facebook.com/maeda.sanshiro/videos/2971130959666609/
 
 

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2020年06月25日

遊びと集中力

 
 
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小林秀雄の
『考へるヒント』や『本居宣長』を読んでゐて、
とりわけ魅力的なのは、
江戸時代の学者たちについて縷々述べてゐるところだ。
 
 
ものを学ぶには、
本ばかり読んで、机上の智識を弄ぶのではなく、
外に出て、人と世に交はれ、人と世に働きかけよ。
 
 
さう言ふ人は幾らでもゐる。
 
 
しかし、江戸時代中後期に現れた学者たちは、
市井で生きていくことの中に真実を見いだすこと、
俗中に真を見いだすことの価値の深さを知つてゐた。
だから、
さういふ当たり前のことは、
わざわざ口に出して言はなかつた。
 
 
むしろ、独りになること、
そして、その「独り」を強く確かに支へ、励ますものが、
本であること。
師と古き友を、本に求める。
本といふもの、とりわけ、古典といふものほど、
信を寄せるに値するものはないと迄、
こころに思ひ決め、その自恃を持つて、
みづからを学者として生きようとした人たち。
 
 
そして、古典といふ書の真意は、
独りきりで、幾度も幾度も読み重ねることから、
だんだんと読む人のこころの奥に、啓けて来る。
 
 
そのときの工夫と力量を、
彼らは心法とか心術と云ふた。
 
 
一度きりの読書による知的理解と違つて、
精読する人各自のこころの奥に映じて来る像は、
その人の体得物として、
暮らしを根柢から支へる働きを密かにする。
 
 
数多ある註釈書を捨てて、
寝ころびながら、歩きながら、
体で験つすがめつ、
常に手許から離さず、
さういふ意気に応へてくれるものが、
古典といふものだらう。
 
 
さうしてゐるうちに、
学び手のこころの奥深くで真実は熟し、
やがて表の意識に浮かび上がつてくる。
 
 
そのとき浮かび上がつてくるものは、
学説などといふものではなく、
真理を追ひ求めた古人の人格であり、
それは浮かび上がつた後も、
依然多くの謎を湛えてゐる筈だ。
 
 
ちなみに、
部屋に独り籠もつて、
かういふ本の読み方ができる人は、
きつと、幼い頃、
目一杯、からだを動かせて遊んだ人だ。
 
 
その遊びの中で、
意欲が、ファンタジーへと昂ぶり、
さらには、
ものをまじまじと見ることのできる力
(ふだんのイマジネーション)にまで、
稔つてゐる。
 
 
からだを芸術的に動かす、
その働きは、 
よく観る力、よく聴く力、よく読む力に、
後年なりかはるからだ。
 
 
子どもの頃の身体を使つた遊び程、
人の意欲を強める芸術はない!
 
 
 

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2020年06月24日

世の光と世の熱による禊ぎ 〜ヨハネ祭を迎へて〜



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ダヴィンチ『洗礼者聖ヨハネ』



今日6月24日は、キリスト文化圏では、
『ヨハネ祭』といふお祭りの日です。
 
 
その祭りの日について、
ルドルフ・シュタイナーの
『こころのこよみ 第12週』に則して書かせてもらひました。
 
 
今週のこの「こころのこよみ」のことばに、
わたしは本当に助けられてゐます。

 

 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
世の美しい輝き、
 
それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、
 
内に生きる神々の力を
 
世の彼方へと解き放つやうにと。
 
わたしは己れから離れ、
 
ただ信じつつ、みづからを探し求める、
 
世の光と世の熱の中に。
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
 
とくに、後半の三行です。
 
 
「わたしは己れから離れ
 ただ信じつつ、みづからを探し求める
 世の光と世の熱の中に」
 
 
己れから離れること。
 
 
光の息遣ひをもつて、
からだをフルに使つて練習をすることで、
己れのからだからこころを解き放つこと。
 
 
さうすることで、
恐れと憎しみに囚はれてしまひがちなこころが、
からだの外側を流れてゐる精神の光と熱の流れに、
触れることができる。
 
 
その流れに触れてこそ、
〈わたし〉が目覚めるのです。
 
 
その流れの中にこそ、
〈わたし〉が生きてゐるのです。
 
 
そのやうに感覚できるみづからを、
この感覚を、
ただ、ただ、信じて、
己れのこころを救ひ、落ち着かせ、養つてゐます。
 
 
それは、洗礼者ヨハネがヨルダン川で行つてゐた、
水の洗礼にも似る、
世の光と世の熱による禊ぎ、洗礼であります。

 
 




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2020年06月23日

こころのこよみ 第12週 ヨハネ祭の調べ 〜子どもたちの歌声〜


 
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帝塚山古墳

 
 
世の美しい輝き、

それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、

内に生きる神々の力を

世の彼方へと解き放つやうにと。

わたしは己れから離れ、

ただ信じつつ、みづからを探し求める、

世の光と世の熱の中に。
 
 

Johanni-Stimmung
 
Der Welten Schönheitsglanz,
Er zwinget mich aus Seelentiefen
Des Eigenlebens Götterkräfte
Zum Weltenfluge zu entbinden;
Mich selber zu verlassen,
Vertrauend nur mich suchend  
In Weltenlicht und Weltenwärme.
 
 
 
 
今週のこよみには、
「ヨハネ祭の調べ」といふ副題がついてゐる。
 
 
キリスト教が生まれる以前、古代諸宗教においては、
夏至を一年の頂点とするお祭りが熱狂的に行はれてゐた。
 
 
人といふものを導く神は、太陽にをられる。
その信仰が人びとの生活を支へてゐた。
太陽がもつとも高いところに位置するこの時期に、
太陽にをられる神に向かつて、人々は我を忘れて、
祈祷をし、捧げものをし、踊り、歌ひながら、
その祭りを執り行つてゐた。
 
 
洗礼者ヨハネは、その古代的宗教・古代的世界観から、
まつたく新しい宗教・新しい世界観へと、
橋渡しをした人であつた。
 
 
彼は、夏に生まれたといふだけでなく、
いにしへの宗教における夏の熱狂を取り戻すべく、
まさしく、炎のやうな情熱をもつて、
ヨルダン川のほとりにおいて、
全国から集まつてくる人々に水をもつて洗礼を授けてゐた。 
 
 
しかし、彼は、これまでは太陽にあられた神が、
まうすぐこの地上に降りてこられることを知つてゐた。 
 
 
 
 汝ら、悔い改めよ、天の国は近づけり(マタイ3.2)
 

そして、みづからの役目がそこで終はることをも知つてゐた。
 
 
 わが後に来たる者は我に勝れり、
 我よりさきにありし故なり(ヨハネ1.15)
 
 
 我は水にて汝らに洗礼を施す、
 されど我よりも力ある者きたらん、
 我はそのくつの紐を解くにも足らず。
 彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん (ルカ3.16)
 
 
 彼は必ず盛んになり、我は衰ふべし(ヨハネ3.30)
 
 
 
ヨハネはイエスに洗礼を授け、
イエスのこころとからだに、
太陽の精神であるキリストが降り来たつた。
それは、太陽の精神が、その高みから降りて、
地といふ深みへと降りたといふことであり、
ひとりひとりの人の内へと降り、
ひとりひとりの人の内において活き活きと働き始める、
その大いなる始まりでもあつた。
 
 
「内に生きる神々の力」とは、
人の内にこそ生きようとしてゐる、
キリストのこころざし(Christ Impuls)だ。
ヨハネがそのことに仕へ、
みづからを恣意なく捧げたことが、
四つの新約の文章から熱く伝はつてくる。
そのときからずつと、キリストは、この地球にあられる。
そのことをわたしたちは実感できるだらうか。
 
 
しかし、シュタイナーは、その実感のためには、
ひとりひとりの人からのアクティビティーが要る
と言つてゐる。
みづからの内において、
キリストがあられるのを感じることは、
おのづからは生じない。
人が世に生きるにおいて、
みづからを自覚し、自律し、自立させ、
自由に己れから求めない限りは、
「内に生きる神々の力」という実感は生まれ得ない。
 
 
ヨハネ祭は、もはや、古代の夏至祭りではなく、
熱狂的に、我を忘れて祝ふものではなく、
意識的に、我に目覚めて、キリストを探し求める祝ひ。
 
 
それは、この世を離れるのではなく、
この世を踏まえつつ、羽ばたくといふ、
わたしたち現代に意識的に生きる人といふ人の
求めることでもある。
 
 
この夏の季節、地球の精神・キリストは、
息を吐くかのやうに、
みづからのからだである地球から離れ、
世の彼方にまで拡がつていかうとしてゐる。
わたしたち人も、
キリストのそのやうな動き・呼吸に沿ふならば、
己れから離れ、己れのからだとこころを越えて、
精神である「みづから」を見いだすことができる。
 
 
生活の中で、わたしたちはそのことを
どう理解していくことができるだらうか。
からだを使つて働き、汗を流し、学び、歌ひ、遊ぶ、
それらの動きの中でこそ、
からだを一杯使ふことによつてこそ、
からだから離れることができ、
こころを一杯使ふことによつてこそ、
こころから離れることができ、
「世の光と世の熱の中に」
みづからといふ精神を見いだすことができる。
 
 
そして、この夏において、意識的に、
子どもに、習ふこと。
 
 
わたしの目の前で、笹の葉にたんざくを吊るしながら、
けらけら笑ひ、歌ひ、踊つてゐる子どもたち。
 
 
ヨハネ祭のとき、古代の人々は、
鳥たちが歌ふことから学びつつ、
その歌声を人間的に洗練させて、
音楽と詩を奏で、歌ひ、踊つたといふ。
 
 
鳥たちの声の響きは大いなる世の彼方にまで響き渡り、
そしてその響きに応じて、
天から地球に精神豊かなこだまのやうなものが降りてくる。 
 
このヨハネ祭の季節に、人は、夢のやうな意識の中で、
鳥たちに学びつつ、歌ひ、踊ることによつて、
己れから離れ、
いまだ天に見守られてゐる<わたし>を
見いだすことができた。
 
 
いまも、子どもたちは、幾分、
古代の人たちの夢のやうな意識のありやうを生きてゐる。
そんな夏の子どもたちの笑ひ声と歌声をさへぎりたくない。
その響きはいまも彼方の世にまで届くのだから。
 
 
そして、わたしたちが己れから離れ、
大いなる世、コスモスをより精神的に理解するほどに、
天が、ひとりひとりの<わたし>、
「内に生きる神々の力」を
見守つてくれてゐるのを感じることができる。
 
 
そして、子どもたちの歌声に対するエコーのやうに、
天が響き返してくれてゐるのを聴き取ることができる。
 
 
さらには、この世の様々な状況に対応していく道を、
きつと、見いだしていくことができる。
 
 
とりわけ、芸術行為は、そのことを実感させてくれる。
 
 
夏至の頃に、
キリストは世の高みと拡がりに至ることによつて、
毎年繰り返して、昂揚感を覚えてゐると言ふ。
 
 
ヨハネ祭の調べ。
 
 
それは、ひとりひとりが外の世に働きかけることによつて、
意識的に、目覚めつつ、みづからを高めつつ、
みづからといふ精神を見いだすこと。
 
 
そこから、地上的なキリスト教ではなく、
夏に拡がりゆくキリストの昂揚を通して、
より大いなる世のキリストを見いだしていくこと。
 
 
そのことがキリスト以降、
改められた夏の祭りとしての、
ヨハネ祭の調べだと感じる。
 
 
 

 
世の美しい輝き、
それは、わたしをこころの深みから切に誘(いざな)ふ、
内に生きる神々の力を
世の彼方へと解き放つやうにと。
わたしは己れから離れ、
ただ信じつつ、みづからを探し求める、
世の光と世の熱の中に。
 


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2020年06月21日

子どもの宗教性

 

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今日、娘たちが贈つてくれた花束

 
 
これも、8年前に書いた文章なのですが、今日、父の日を祝つてくれた娘たちのことを想ひつつ、再掲します。またしても長文ですが、ご勘弁を。
 
 
―――――――
 
 

毎日、小さな子どもたちと暮らしてゐて、何よりも感じさせられることは、とにかく子どもたちは、意志・意欲の力に満ち溢れてゐるといふことです。
 
 
「・・・したい!」「・・・が欲しい!」の連続。時に、反対に「・・・したくない!」と言つたりもしますが。
 
 
その意欲は、周りの大人の都合や思惑をものともせず、子どもはその願ひが叶へられるまでその声で連呼するか、「ダメ!」と言はれ、怒られて、泣きぢやくるか、です。
 
 
その子の気質によつて意欲の発露の仕方にも違ひはあるでせうが、共通してゐるのは、歯が生え変はるまでの子どもの意欲の強さは並大抵ではないことです。
 
 
「強く欲する」といふこの力は、そもそも、大いなるシンパシー(共感)の力です。何かを欲しがるといふのは、その何かとひとつになりたい、誰かと同じやうにしたい、誰かと同じやうになりたい、真似したいといふ、大いなるこころの力です。
 
 
なぜ、これほどまでに、小さな子どもたちのシンパシーの力は強いのでせうか。
 
 
それは、世を信頼してゐるからです。世は善きところだと信頼してゐるからです。善きものと同じやうになりたい。善きものとひとつになりたい。すべての人が本来その願ひをもつてゐます。だからこそ、子どもたちは、周りのものといふもの、ことといふことを欲します。真似します。
 
 
その「善きものとひとつになりたい」といふ願ひを、人の宗教性と呼びたいのです。
 
 
大人はその宗教性をからだから自由になつてゐる精神とこころにおいて育むことができます。大人の宗教的感情は、自分自身の精神とこころをもつて高い世の精神とこころに帰依することで育まれます。
 
 
しかし、幼い子どもはいまだ精神とこころがからだから自由になつていず、精神、こころ、からだ、まるごとで周りの世に帰依してゐます。その帰依の仕方は、大人のやうにこころで意識的にしてゐるのではなく、からだにおいて、無意識に、血液循環、消化、呼吸の働きなどにいたるまで、周りに帰依してゐます。全身が感覚器官であり、だからこそ、幼い子どもは徹底的に周りを摸倣する存在です。からだそのものが、おのづから宗教的雰囲気の中に生きてゐます。
 
 
子どもが「Aがしたい」「Bが欲しい」などと言ふときに、わたしたち大人はそのAやBに意識が向きがちであつたり、そのわがままなありかたに堪忍袋の緒が切れたりするものですよね。しかし、「・・・したい」「・・・が欲しい」といふこころの力、シンパシーの力そのものに目を向けますと、子どもの中にはからだに至るまでの宗教性が息づいてゐることに気づかされます。
 
 
そして、子どもは、善きものだけでなく、悪しきものまで、すべてを真似ます。大人においては、善きものに向かつてこころを意識的に育んでいくといふことができますが、子どものからだにおける宗教性は、おのづからなもの、無意識のものであるゆゑに、悪しきものにも帰依できるのです。
 
 
悪しきものとは、なんでせう。現代において、わたしたちは挙げていけばきりがないほどの悪しきものに囲まれてゐるのかもしれません。子どもをもつ親は、何を信頼し、何に帰依していくことができるのか、判断しかねてゐます。
 
 
人の育ちにとつて、善きもの、悪しきものは確かにそれぞれありますが、その中でもつとも大切で、人の育ちを応援してくれる善きものは、その人自身の考へる力、感じる力、欲する力、この三つのこころの力が健やかになりゆくことだと、わたしは感じ、考へてゐます。その力こそが、外の様々な状況や環境に対しあひ、適応しながらも、己れ自身を信頼し、道を切り開いてゆくことを可能にしてくれるのではないでせうか。
 
 
そして、子どもは密やかに、からだにいたるまで親の内に生きるこのこころの力を真似します。それは、考へ方、感じ方、欲し方が、おのづからな習ひのもの、習慣になるだけでなく、そこからこころとからだの健やかさまでをも左右していくといふことです。
 
 
わたし自身、親として感じ、考へ、そして失敗を繰り返しながら練習してゐることなのですが、わたし自身の考へるその考へ、感じるその感じ、欲するその欲が、子どもに真似されていいものかどうかを、そのつどそのつど見てとることです。
 
 
子どもがゐてくれなかつたら、わたしはこんなことを思ひもよらなかつたでせう。思ひにはゐたつても、実際に成長していく人をまぢかに見なければ、深くこころに記すこともなく、練習することもなかつたでせう。その機会を与へてくれてゐる子どもたちに、こころから感謝したいのです。
 
 
子どもの宗教性に応へること。それをまづ、自分自身の考へ方、感じ方、欲し方を見てとることから始めたいと、いま、こころから思ひます。できる、できないにとらはれません。とにかく、さうこころがけたい、こころざしたい、といふことです。
 
 
シュタイナー幼稚園などで、よく唱へられる詩に次のものがあります。
 
 
 

  わたしの頭も、わたしの足も、
  神さまのすがたです。
  わたしはこころにも、両手にも、
  神さまの働きを感じます。
  わたしが口を開いて話すとき、
  わたしは神さまの意志に従ひます。
  どんなものの中にも、お父さん、お母さん、
  すべての愛する人の中にも、
  動物や、草花、木や、石の中にも、
  神さまのすがたが見えます。
  だから、怖いものはなにもありません。
  わたしの周りには、愛だけがあるのです。  
           (ルードルフ・シュタイナー)
 
 
 
大人として子どもの傍にゐるわたしが、どんな不条理な世にゐたとしても、あへて、周りのいたるところに、この詩に述べられてゐる尊いもの、愛を見つけ出していく・・・。詩のことば、祈りのことばから、わたしは自分の考へる力、感じる力、欲する力を、耕します。子どもの宗教性に応へられるやうなこころの力を、毎日の生活の中で、呼び起こします。昨年2011年の春から、特に、意識してゐることを書かせてもらいました。
 
 
 
 


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2020年06月20日

イソップ物語『狐と月影』 言語造形






イソップ物語から「狐と月影」といふ短いお話です。
ドイツ語版からの翻訳は、鈴木一博氏です。


寓話は、お話の最後に教訓が添えられてゐます。
望むべくは、聴く人の知性にではなく、
情に訴へるやうに語りたいものです・・・(^_^;)。 


ことに動物寓話は、
9,10歳あたりの子どもたちの情に訴へることによつて、
健やかな意識の目覚めを促します。
 

ちなみに、一連の動画では、
お話の前に題名を言つてゐますが、
子どもたちに語る時には、
その親しい雰囲気ゆゑに、
題名をあまり引き立てないことにおのづとなるでせう。
 
 
 

2020年06月19日

若い人に向けて 〜たとへば、東京と大阪〜



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七年間通つた、新宿牛込柳町にある銭湯「柳湯」
 
 

随分以前に書いた文章で、自分自身のことを振り返りながら、人生の中の発意・自主性・イニシアティブの重要性について書いたものです。長文ですが、ご勘弁を。
 
 
 
――――――
 

 
わたし自身のことから書き始めるのですが、シュタイナーといふ人を初めて知り、アントロポゾフィーの本を読み出したのは、二十八歳のときでした。まづは、子どもへの教育についての本を読み始めたのですが、そこに書かれてある教育観、人間観、世界観、宇宙観を貫いてゐるまぎれもない精神からの観点にこころを鷲づかみにされました。更に、言語造形といふ芸術に出会ひ、自分の仕事は、この言語造形とアントロポゾフィーを生きることそのことだと、出会つてすぐに感じ、それまでの仕事をやめて、それから約七年間、言語造形とアントロポゾフィーを学ぶために、毎日アルバイトをしながら、東京に住んでゐました。
 
 
東京といふところは、学びの機会だけに限らず、観るもの、聴くものが、世界中からと言つてもいいくらゐ、豊かに供給されてゐますよね。わたしは、アントロポゾフィーと言語造形を通して、特に芸術に向けての関心と情熱が深まつていき、それに応へてくれるかのやうに、東京は質の高いものを豊かにわたしに与へてくれました。こちらがその気にさへなれば、そしてお金さへあれば、東京といふところはいくらでも享受と学びの機会を与へてくれました。わたしにとつては、東京の街そのものが、大学のやうでした。
 
 
そして三十五歳になつたときに、ふるさとの大阪に帰つてきました。そのとき、わたしがまづ感じたのは、芸術の享受、学びの享受といふ面に関しては、東京と比べると、その量においては、五分の一、いや、十分の一ぐらゐかもしれない、といふことでした。これはあくまでも、当時のわたしの個人的な感覚です。
 
 
しかし、ここでも、すぐに気がつきました。外側から得るものはさほど多くないかもしれない。けれども、自分が意味を見いだし、やつてみたいこと、やつていかうとしてゐることを、いま、ここから、自分から、始めてみることはできる。自分自身がたとへまだまだ未熟であつても、こころざしさへあれば、です。大阪といふところはそんな気風がある。そのことを肌で感じました。
 
 
それまで、東京でたつぷりと豊かで深い学びをさせてもらへたといふ実感があつたのですが、同時に、その外的な豊かさから必然的に生まれてしまふこころの受動性、そして何よりも、人を何かのレベルで判別しようとする強すぎる批判性・選別性を人との関係の中でどこか感じてゐました。それは、東京といふ大都会に生きる人がもつてしまはざるをえないものかもしれませんし、それよりも、きつと、わたし自身の中にあるこころのありやう(受動性と批判性)でもあります。ただ、大阪に帰つてきて、初めてはつきりと意識したのは、東京にゐたときのやうなありやうの中では、わたしは、わたしとして自立するのがとても難しかつた、といふことでした。外側から与へてもらえるものは、とても質の高いもので、量も豊かなのですが、それゆゑに、こころが受け身になりがちで、また、批判するこころの力が強すぎて、人と人とが警戒しあつてゐる、他者の目が常に気になる、「誰かのお墨付きをもらへないうちは、自分で何かを始めるなんてとんでもない」といふやうな雰囲気をわたしはどこか感じてゐました。
 
 
わたしが、アントロポゾフィーから、そしてシュタイナーといふ人から学んだもつとも大きなことは、「わたし」を育むこと、そのために何度失敗してもいいから、恐れずにトライしつづけること、さうすることによつてのみ、だんだんと「わたし」に対する信頼が自分の中に育つてくるといふことです。「わたし」に対する信頼こそが、生きていく上で、もつとも大きなもののひとつだといまも感じてゐます。
 
 
十九世紀後半から約三百年かけて、時代精神ミヒャエルが、わたしたちを見守り、支へ、応援してくれてゐると、シュタイナーは語り、そのミヒャエルとの結びつきをひとりひとりが真摯に受けとめながら生きていくことがどれほど大事なことかを、病床にいながらも書き続け、それが遺言のやうに『ミヒャエルの手紙』として、わたしたちに残されてゐます。
 
 
その『手紙』において、ミヒャエルの働きは様々な面で深められてゐるのですが、その基本的なことのひとつとして、時代精神ミヒャエルは、「わたし」に目覚めつつ、「わたし」を信頼しつつ、発意・イニシアティブをもつ人と結びつかうとします。
 
 
あくまでも、わたし個人が感じたことですが、東京における、豊かさと同時にもたざるをえなかつた恐れと不安。そして自分のふるさとである大阪に帰つてきて生まれたイニシアティブ。失敗を恐れず、他者の目を気にかけず、とにかく、やつてみよう、そして、やりつづけていかうとするイニシアティブ。だから、東京は住みにくい、ふるさとや大阪は住みやすいなどとは勿論一概に言へませんが、やはり、そこに、現代を生きることの難しさと希望を見るのです。場所の問題ではないのですが、場所は、人が、創つてきたものです。要(かなめ)は、これからの人の意識です。
 
 
目に見える外側の豊かさが本当の豊かさではないことに、人は、きつと、気づいていくでせう。これからはますます、人が各々の「わたし」をもつて、ためつすがめつ、ひとつひとつのものごとを消化し、深め、ものにしていくプロセスそのものが豊かさであること、そして、「わたし」に対する信頼を育んでいくことこそが豊かさであると感じとつていくでせう。
 
 
人が、「わたし」をもつて、ひとり立ちすること。そこをこそ、ミヒャエルは応援しようとしてゐます。そして、その応援をもらへるやうな環境を他者のため、自分のためにわたしたちはどのやうにして創つていくことができるでせうか。共に、考へ、各々実際に創つていきたいですね。
 
 
 

 

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こころのこよみ(第11週)〜白日の下の美しさ〜


 
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この太陽の時の中で、
 
あなたは、賢き知を得る。
 
世の美しさに沿ひつつ、
 
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
 
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
 
 そして、世の<わたし>の内に、

 みづからを見いだすことができる」
 
 
 
Es ist in dieser Sonnenstunde   
An dir, die weise Kunde zu erkennen:      
An Weltenschönheit hingegeben,       
In dir dich fühlend zu durchleben:       
Verlieren kann das Menschen-Ich        
Und finden sich im Welten-Ich.    
 
 
 
 
 
「世の美しさ」とは、
決して表側だけの美しさを言つてゐるのではないだらう。
 
 
「この太陽の時の中で」は、
美しさも醜さも、素晴らしさも馬鹿馬鹿しさも、
すべてが白日の下に晒される。
 
 
それらすべてが白日の下に晒され、
光が当てられるからこそ、
「世の美しさ」なのだ。
 
 
その晒されたものがなんであれ、
人はそれを経験し、生きなければならない。
 
 
善と悪、美と醜、真と偽、喜びと悲しみ、
それぞれがひとつのもののうらおもてだといふこと。
 
 
そのやうな、のつぴきならなさが、
「世の美しさ」として感じられるだらうか。
そして、それに沿ふことができるだらうか。
 
 
どんな単純なものごとであれ、複雑なものごとであれ、
どんな素晴らしいことであれ、酷いことであれ、
わたしたちは、そのものごと、できごとを見くびらずに、
その深みを見てとることができるだらうか。
 
 
ものごとは、なんであれ、
付き合ひ続けて、沿ひ続けて、
初めて、密やかに、その深さを打ち明け始める。
 
 
子どもの立ててゐる寝息や家族の笑顔。
草木や花々の健気ないのちの営み。
日々つきあつてゐる者同士の関係、愛、いさかひ、葛藤。
毎日移り変はつていく世の動向。
人びとの集団的意識の移り行き。
それらひとつひとつが、その深みを顕してくれるのは、
はやばやと見くびつてしまはずに、
こころをこめてそれに向き合ひ続け、
沿ひ続けるときだ。
  
 
そして、ものごとに沿ふといふ行為の、
肝腎要(かなめ)は、
ものごとと<わたし>との関係において、
何が過ぎ去らず、留まるものなのか、
いつたい何が本質的なことなのか、
といふ問ひをもつこと。
 
 
それが精神を通はせつつ、
ものごとに沿ふことの糸口になる。
からだをもつて振る舞ひ、
こころから行為していくことの糸口になる。
 
 
その時、捨てようとしなくても、
人は狭く小さなわたしを捨てることができるかもしれない。
 
 
そして、はるかに広やかで、
はるかに深みをもつた<世のわたし>の内に、
「賢き知」と、他の誰のでもない、
自分自身のこころざしが、
立ち上がつてきはしないか。
 
 
人の<わたし>は、みづからを失ひ、
そして、世の<わたし>の内に、
みづからを見いだすことができる。
 
 
 
 
 

この太陽の時の中で、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿ひつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
 そして、世の<わたし>の内に、
 みづからを見いだすことができる」
 
 
 
 
 

posted by koji at 19:04 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月18日

6年前の公演「グリム童話のひととき」




 

6年前の2月に「ことばの家」にて行ひました公演です。
 
 
この時は、小学2年生だつた長女が、
『星の銀貨』を語りました。 
 

演目・出演は、
「兎の花嫁」(諏訪千晴)
「星の銀貨」(諏訪夏木)
「白雪姫」(諏訪耕志)
音楽作曲・演奏(森田徹さん)
 
日本語翻訳 鈴木一博氏です。
 
 
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6/22(月)アントロポゾフィー・ゼミクラス


 
 
『普遍人間学』を読みこんで、
自分自身のことばで語ることを目指す、
アントロポゾフィー・ゼミクラス。
 
 
今回も、オンラインで、
第三講に取り組みます。
 
 
人こそが、
地球における真の働き手であるがゆゑに、
人なしでは、
地球がなりたたないこと。
 
 
第三講では、
そのやうなエコロジー上での、
眼から鱗が落ちるやうな観点が述べられてゐます。
 
 
それは、人といふものが、
精神から生まれてゐるからです。
 
 
 

日時は、
6/22(月)の午後13時から15時半。
 
 
ご参加前に、
鈴木一博氏訳の本書をどうぞお読みください。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 
人といふものを、
こころから精神から理解していくために、
読みこんで、自分自身のことばに鋳直していく、
そして、アントロポゾフィーのうちの最も大切な、
内なる練習(メディテーション)についても、
何かを分かち合へる、
そんな時間にしていきませう。


参加後は、何らかの形で、
文章を書いていただき、
御自身の学びを形にして行つていただきます。





●参加費 

初回体験参加 3500円、
3回連続 9000円

連続ご参加の場合、
御自身のご都合でのお休みは、
キャンセル無効とさせていただき、 
録画したものを見ていただくことができます。

なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。



●お申し込み・お問ひ合はせ

「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/



●お振り込み

// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル

// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904


お申し込み、お振り込みいただいた方に、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。
オンライン上でお会ひできますこと、
楽しみにしてゐます。





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2020年06月17日

シュタイナーが語る「ことばの家」



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ことばには、光が潜んでゐます。
色彩として顕れ、
そして、詩には音楽が密かに響いてゐます。
 
 
その光と楽の音をこそ引き上げたくて、
言語造形といふ芸術に携わつてゐます。
 
 
今日も、再開したクラスで、
その光と音楽を感覚する喜びを
味はふことができたのでした。
 
 
ずつと我が仕事場・アトリエである、
「ことばの家」では、
様々な人によつて、
様々な作品から、
光と音楽が生みなされてきました。
 
 
その精神で、
「ことばの家」は営まれてきました。
 
 
「ことばの家」とは「神が語る家」であるといふ、
ルドルフ・シュタイナーのことばに、
どこまでも支へられてゐるからです。
 
 
第一ゲーテアヌム建築中の、
106年前の今日、
1914年6月17日にドルナッハの丘の上で響いた、
彼のことばから、いまも、
わたしの胸の内にその精神が、
泉のやうにこんこんと湧き上がつてきます。
 
 
 
―――――――
 
 

(要約)
 
 
人びとは口から耳へと伝へられるものが、
平和と調和を作り出せると本当に信じてゐます。
 
 
しかし、平和、調和、人が人としてあるありやうは、
神々がわたしたちに語りかけるとき、
初めて生まれるのです。
 
 
このゲーテアヌムの壁、
そして窓に施される芸術的なフォルムによつて、
神々はわたしたちに語りかけてきます。
フィジカルな壁は生きてゐませんが、
エーテルの、精神の、壁は、生きて動くものなのです。
 
 
地球の大地がその懐から植物たちを生み出すやうに、
わたしたちが造形する壁のフォルムは
(内において)生きて動くものを生み出します。
 
 
わたしたちの建築は、そのフォルムによつて、
きつと、神々のことばを語り始めます。
植物のエーテルのフォルムに耳を傾け、
それらをわたしたちの壁のフォルムによつて
創らうではありませんか。
 
 
自然に潜む神々が、人に、語る喉頭を創つたやうに、
わたしたちは、芸術によって、
神々が語りかける喉頭を創るのです。
 
 
わたしたちは、
これらのフォルムが
何を意味するのかを解釈するのではなく、
心臓で聴くかのやうに、
神々のことば、精神のことばを分からうとします。
その分かる力を育むこと、
それがわたしたちのなすべきことです。
 
 
このやうに、
精神への道を見いださうといふ聖きこころもちが、
この仕事場に満ちますやうに。
 
 
仕事場とは、きつと、人がその精神を愛の内に見いだし、
平和と調和を地上に拡げていくやうな
精神への道を見いだす場です。
 
 
真の芸術への、真の精神への、
そしてすべての人への愛をもって、
「ことばの家」「神が語る家」を建てようではありませんか。
 
 
       (1914年6月17日 ドルナッハ)
 
 
 

―――――――
 
 
 


本当に、このことばに尽きます。
 
 
そして、この精神があるところならどの場所も、
「ことばの家」「ことばの宮」「ことばの社」
になりえます。
 
 
このシュタイナーのことばに何かを感じる方は、
この世のどこかにをられるはずだ、
さう信じてゐるのです。
 
 
 
 

posted by koji at 23:03 | 大阪 | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月15日

まっさらな、新しい21年



「言語造形をしたい!」といふ人たちと、
今日、言語造形をすることができました。
  
 
参加者の方が綴つて下さつた文章です。↓
『 あたらしく、はじまる。 mitteの庭 note 』

 

 
リアルな空間で、
ことばのまぎれもない精神が拡がりゆくのを、
感覚することの神秘と喜び。
 
 
なんて、ありがたいことか。
 
 
わたし自身、
師匠の下から離れて、
おほよそ21年経つのですが、
今日から、
まっさらな、新しい21年を始めるのだ、
と念ひました。
 
 
クラスご案内 ↓

『言語造形クラス〜宮澤賢治と共に〜
(和歌山県岩出市)』


 
 
 

posted by koji at 22:52 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月13日

こころのこよみ(第10週) 〜お天道様が見てゐるよ〜



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堺の宿院の上空
 
 

夏の高みへと
 
太陽が、輝くものが、のぼる。
 
それはわたしの人としての情を連れゆく、
 
広やかなところへと。
 
予感しつつ、内にて動く、
 
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
 
あなたはいつか知るだらう、
 
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 
        
 
 
Zu sommerlichen Höhen            
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;     
Es nimmt mein menschlich Fühlen       
In seine Raumesweiten mit.           
Erahnend regt im Innern sich          
Empfindung, dumpf mir kündend,        
Erkennen wirst du einst:            
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.       
 
 
 
 
これから来たる夏の太陽の光と熱によつて、
植物の緑が、花のとりどりの色となつて、
上へ上へと燃え上がる。
 
 
鳥たちが、虫たちが、
いよいよ高らかに、軽やかに、
夏の青空の高みに向かつて、鳴き声を響かせ、
大いなる世、宇宙にその響きが拡がつていく。
 
 
太陽によつて引き起こされる、
そんな植物と動物たちの働きが、
夏の空気に働きかけてゐるのを、
わたしたちは感じることができるだらうか。
 
 
もし、さういふことごとを人が感じつつ、
来たる夏を生きることができるならば、
みづからの、人ならではのところ、
人であること、わたしであることもが、
ここよりも、さらに、高いところに、
さらに広やかなところにのぼりゆき、
天によつて見守られることを、
情として感じることができるだらうか。
 
 
「お天道様が見てゐるよ」
幼い頃、このことばを親たちからよく聞いた。
 
 
おそらく、そのことばは、古来、
日本人がずつと我が子どもたちに
言ひ伝へてきたものだらう。
 
 
「お天道様」それは、太陽の神様であり、
わたしたちに警告を発しつつ、
わたしたちを見守つてゐる存在として、
常に高みにあるものとして
感じてゐたものだつたのだらう。
 
 
そして、いま、わたしたちは、
その「お天道様」を、人の人たるところ、
<わたし>であるところとして、
感じてゐるのではないだらうか。
 
 
「神なるものが、いま、あなたを感じてゐる」とは、
「高い<わたし>こそが、
いま、低い、普段の、わたしを見守つてくれてゐる」
「お天道様が、いま、あなたを見てゐる」
といふことかもしれない。
 
 
天照大御神のみことば。
「これの鏡はもはら我(わ)が御魂として
 吾(あ)が前を拝(いつ)くがごと拝き奉れ」
 
 
わたしたちは、
自分自身のこれまでの見方や感じ方や考へ方から離れて、
改めて、この季節だからこそ、
「お天道様」に見守られてゐることを感じ、
「お天道様」からの視点、
「おのづから」なありかたで、
生きていくことができるだらうか。
 
 
見る眼を磨き、耳を澄ますなら、
きつと、予感と感覚が、教へてくれるだらう。
 
 
 
 
 
 
夏の高みへと
太陽が、輝くものが、のぼる。
それはわたしの人としての情を連れゆく、
広やかなところへと。
予感しつつ、内にて動く、
感覚。おぼろにわたしに知らせつつ。
あなたはいつか知るだらう、
「神なるものが、今、あなたを感じてゐる」
 
 
 
 

 
 

posted by koji at 05:33 | 大阪 🌁 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月12日

アントロポゾーフの仕事 〜動画・グリム童話『星の銀貨』〜



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(↑クリックしますと、youtubeの動画です)
 

 
アントロポゾフィーといふ精神科学を学ぶほどに、
昔話、童話、メルヒェンといふものに対する、
いのちの通ふ理解が、
こころの深いところで生まれて来るやうに感じます。
 
 
それは、精神科学における考への内容といふよりも、
その考への「かたち」に、
お話のひとつひとつが触れるのを感覚する、
そんな実感です。
 
 
お話の中に、神々しい叡智が息づいてゐるのです。
 
 
昔の人は、
その叡智を感じるところからお話を語つてゐた。
 
 
唯物的世界観の中でその叡智を失つてしまつた、
現代人であるわたしたちは、
もう一度、芸術を通して、
その叡智を活き活きと汲み上げ、
意識的に、
土地から土地へ、
オンラインで(笑)、
旅しつつ、語り歩くことができます。
 
 
精神科学を広めようとしなくてもいい。
 
 
それをこころから求める人が必ずゐて、
その人には、必ず、その学問が届くはずだから。
 
 
ただ、アントロポゾーフの仕事があるとするならば、
精神科学といふ現代の人類に与へられてゐる叡智を、
各々、各自のスタイルにメタモルフォーゼさせ、
すべての人、すべての子どもたちに、
彼らが求めてゐるものとして、
何かを供していくことにあるのではないでせうか。
 
 
いま、精神科学の観点からお話を語るといふ作業は、
中世の聖なる吟遊詩人の仕事の再現です。
 
 
「メルヒェン、伝説とは、
 人がこの世に生まれて来る時に、
 人生の旅路に備へて、
 精神の故郷から授けられる、
 善き天の使ひである。
 それは、人生といふ旅路を通して、
 人にかいがいしく付き添ふ友である。
 その人にその友が付き添ふことによつて、
 人生は、まこと、内において、
 活き活きとしたメルヒェンとなる」
     (ルートヴィッヒ・ライトナー)
 
 
人生がメルヒェン・昔話・神話になるとは、
人生が精神的なものになる、
といふことです。



2020年06月10日

自由への道A メディテーション「考へるといふこと」


 
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人をこころから愛することができるのは、
その人を「想ふ」からであり、
その想ひは、「考へる」ことにより初めて得られる。
 
 
さう、『自由の哲学』第一章にあります。
 
 
昨日は、
「見初める」ことから、
誰かを、何かを、愛する道筋を述べました。
 
 
今日は、
「考へる」ことから、
誰かを、何かを、愛する道筋です。
 
 
初対面の時は、
さほど印象付けられない相手であつても、
何度も会ひ、何度も語りあふうちに、
その人のことばや振る舞ひから、
だんだんとその人についての「想ひ」を抱くやうになる。
 
 
「想ひ」とは、
その字のごとく、
ある相が心の上の描かれてゐるありやうです。
 
 
その人のことをこころに想ひ描くには、
その人のことを考へなければなりません。
  
 
考へるからこそ、想ひが抱かれます。
 
 
そして、その想ひから、
やがて、その人を愛する道が始まります。
 
 
それは、メディテーションの道です。
 
 
精神の世から生まれてゐるある高貴な考へを、
こころの中で想ひとしてしつかりと抱くのです。
 
 
すると、その考へが力を持ち始めます。
 
 
その考へが、その人のまるごとに浸みこんで来ます。
 
 
こころとからだ、まるごとが、
その考への精神から方向づけられて来ます。
 
 
メディテーションとは、
精神を敬ひ、尊び、愛しつつ、
精神とひとつになりゆくこころの道なのです。
 
 
昨日述べた、
芸術実践といふ「見初める」ことの練習、
そして、今日述べてゐる、
メディテーションといふ「考へる」ことの練習、
このふたつを意識的に修めて行くこと。
 
 
これが、人がひとりの人になりゆく道、
自由への道、
アントロポゾフィーの要でもあります。
 
 
この夏、言語造形といふ芸術を礎にして、
四日間連続の講座『言語造形 その実践と理論
を開催します。(7/23〜7/26)
 
 
アントロポゾフィーといふ精神の学びに、
言語造形といふ芸術にどつぷりと、
入り込んで行く、ひとつの門に、
この夏、共に入つていきませんか。
 
 
 

posted by koji at 17:32 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月09日

自由への道@ 芸術実践「見初めるといふこと」


 
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あるものの前を多くの人が通り過ぎてゆく。
 
 
しかし、ひとりがそのものの前に立ち止まり、
そのものを見初める。
  
 
そして、その人は、
他の誰も見向きもしなかつたそのものを
愛し始める。
 
 
愛がこころに宿る時には、
こんなプロセスがあることを、
シュタイナーは『自由の哲学』の第一章で述べてゐます。
 
 
いろいろと頭で考へてから愛するのではなく、
一目見たその時から、
なぜか、愛するこころが発動する。
 
 
さう、「考へる」からではなく、
「見る」から始まるのです。
 
 
そして、「見る」とは、
そもそも、いつも、
「見初める」であるはずです。
 
 
「見る」といふ行為は、
いつも新しい何かを人に運んでくれます。
 
 
幼な子は、いつもそんな目を持つてゐますし、
初々しいこころを持つ大人も、
そんな目を持ち続けてゐます。
 
 
その「見初める」といふ、
愛に向かふ初々しいこころの働きに、
皆さんも覚えがあると思ひます。
 
 
実は、芸術実践とは、
この「見初める」働きであり、
この働きを繰り返し、繰り返し、
繰りなしていくことです。
 
 
眼を働かせるそのたびごとに、
手を動かすそのたびごとに、
からだを使ひ、身を震わせるそのたびごとに、
新しく、まつさらの感覚に見舞はれる。
 
 
決まり切つた答へなどなく、
行為をするたびごとに、
新しい精神に出会へる。
 
 
それは、
芸術行為の本質的な道筋です。
 
 
それは、
世の何かを愛することに向けての、
自己認識の道、
自由への道なのです。
 
 
たとへば、誰かを愛する時、
眼で、耳で、からだで、感官で、
その人と出逢つたその時に、
その人の魅力と真価を理屈抜きに感じてしまふがゆゑに、
その人を愛し始める。
その人への愛がこころに芽生へる。
 
 
それは、
その人の内に、
その人を愛し始めてゐるわたしを見いだす、
別のことばで言へば、
世の内にみづからを見いだす、
そんな自己認識のひとつの方向なのです。
 
 
自己認識、
みづからを知る、
それは、自由への道でもあります。
 
 
芸術実践とは、
そのやうな「見初める」ことから
愛することへの道を歩いて行くことであり、
それこそが、自己認識へと至る道となるのです。
 
 
次に自己認識のもうひとつの方向も、
シュタイナーは述べてゐます。
 
 
つづく・・・。
 

 
『第二金曜アントロポゾフィークラス・オンライン』
『第二土曜アントロポゾフィークラス・オンライン』


『真夏の連続講座 言語造形 その実践と理論』7/23〜7/26



 

posted by koji at 13:23 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月08日

7/23〜7/26 真夏の連続講座 『 言語造形 その実践と理論 』



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真夏の四日間をかけて、
言語造形といふことばを話す芸術を、
実践と理論、ふたつの面から迫つて行きます。
 
 
午前は、
からだを動かしつつ、
全身をもつてことばを語り、歌ふことを、
系統だてて基礎から練習していきます。
 
 
午後は、
ルドルフ・シュタイナーが最晩年に残した講義録、
『言語造形と演劇芸術』に沿つて、
言語造形とはいかなる芸術であるのか、
そもそも、ことばとはいかなるものなのか、
といふことをこころに落とし込む時間です。
それは、アントロポゾフィーといふ精神科学に、
身を持つて深く入り込む確かなひとつの入り口です。
 
 
この四日間で、
わたしたちは、
言語造形といふ芸術の内側にどつぷりと入ることになります。
 
 
芸術実践とメディテーションといふふたつの面から、
自由になりゆく道を歩み始めます。

 
夏の青空に向かつて、
思いつきり息を解き放ち、声を解き放ち、
ことばの精神を活き活きと生きる、
そんな四日間になります。
 
 
ご関心のあられる方、どうぞご参加下さい。
 
 

講師:
諏訪耕志
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
 
 
日時:
令和二年7月23日(木・祝)より26日(日)までの四日間
実践の部 午前9時半より12時まで
理論の部 午後13時半より16時まで
 
 
場所:
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/
 
 
参加費:
四日間連続 32000円
単発参加 一日 10000円
 
 

お振り込み:
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 


お問ひ合はせ・お申し込み
ことばの家 諏訪
https://kotobanoie.net/access/

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2020年06月07日

こころのこよみ(第9週) 〜大いなる父なるもの〜



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我が意欲のこだわりを忘れ、
 
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
 
精神とこころのものとしてのわたしに。
 
光の中でわたしを失くすやうにと、
 
精神において観ることがわたしに求める。
 
そして強く、予感がわたしに知らせる、
 
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
 
 
 
Vergessend meine Willenseigenheit,
Erfüllet Weltenwärme sommerkündend
Mir Geist und Seelenwesen;
Im Licht mich zu verlieren
Gebietet mir das Geistesschauen,
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
Verliere dich, um dich zu finden.  
 
 
 
「わたしは、
 これをしたい、
 あれをやりたい、
 これをしなければ、
 あれをしなければ・・・」
 
 
そのやうな意欲といふものも、
内なる「熱」と言つていいのだけれども、
その意欲の中にある
「こだわり」を忘れることができるだらうか。
「・・・しなければ」といふやうな
「恐れ」を忘れることができるだらうか。
 
 
朝、陽の光が輝き出すと、その熱が、
来たる夏を知らせてくれてゐるやうに感じる。
 
 
そして、「熱いなあ」と感じるだけにせずに、
ずつと、その熱に問ひかけるやうにしてゐると、
その陽の光から発せられてゐる熱は、
自分が抱いてゐる意欲の熱よりも、
はるかに、はるかに、巨大で、
太陽の意欲は、わたしの意欲よりも、
はるかに、はるかに、
強く、深く、遠くを見通してゐるかのやうな
豊かさであると感じる。
 
 
そのやうな意欲の大いなる力は、
太陽を通して、どこから来るのだらう。
 
 
シュタイナーは、
『世と人のなりかはり』(全集175巻)の中で、
「父なるもの」からだと話してゐる。
 
 
その「父なるもの」
「そもそも世を創りし方、
 そしていまも創り続けてゐる方」
と人との出会ひは、
ひとりひとりの生涯の内に一度はきつとある。
 
 
人生の中で、
己れといふもののこだはりが脱ぎ捨てられた時、
夏の太陽のやうな巨大な輝きと熱、
感動と驚きと畏敬の念いに満たされる時、
その出会ひは生じる。
 
 
だから、子どもの頃、丁度、
これから始まる夏にかけて、
大いなる天空を仰ぎ、
そこに拡がる青空や夜の星々に想ひを重ね、
感情と意欲を大いなる叡智に沿はせていくことは、
人生にきつと一度は生じる
「父なるもの」との出会ひに向けた良き備へになる。
 
 
人生の中で、このことばが、
予感として、響くときが、きつとある。
 
 
光の中で、
あなたを失ひなさい、
あなたを見いだすために
 
 
 
 
 
我が意欲のこだわりを忘れ、
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
精神とこころのものとしてのわたしに。
光の中でわたしを失くすやうにと、
精神において観ることがわたしに求める。
そして強く、予感がわたしに知らせる、
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
 
 
 

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2020年06月04日

こころの食べ物 グリムメルヘン「おいしいお粥」



 
 
 
グリム童話の「おいしいお粥」です。
https://youtu.be/XMpIxE4_oD8
翻訳は、言語造形家の鈴木一博氏。
 
3歳、4歳、5歳あたりから、
聴かせてあげたいお話です。
(もちろん、7歳、8歳、9歳でも楽しむことができます)

その頃の子どもといふのは、
自分自身の内なる丸いお鍋の中で、
お粥を煮ては、食べ、煮ては、食べることを
だんだんとし始めるものです。
 
さて、内なるお鍋とは、内なるお粥とは、何でせう。
 
ぐつぐつぐつぐつ・・・。
 
 
 
ほんものの昔話、メルヘンは、子どもたちにとつて、
なくてはならないこころの食べ物です。
 
こころが成長していくための糧です。
 
なぜなら、それらのお話はすべて、
子どもたちが生まれる前にゐたところ、
精神の世から生まれてゐるのですから。
 
どうぞ、お子さんと一緒に、お楽しみください。
 
 

5/25 アントロポゾフィー・ゼミクラス参加者レポートA  t.m.さん



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3ヶ月ぶりくらいの読書会で、久々に精神の世に触れさせていただきました。光の呼吸を教えていただいた時、昨年の古事記の世界が浮かび上がってきました。
 
 
「私たち一人一人が光を下ろす柱となる。」
 
 
このことこそが、アントロポゾフィを学び続ける意味であり、終わることのない自己教育の意味だと思います。
 
 
私たち日本人ならではの感覚で、光の呼吸のメディテーションを普段から意識していきたいと思いました。
 
 
私は今、パプリカの農作業のバイトをしているのですが、紐でつるしたり、芽や葉をつんだりと様々な作業がありますが、そのまず初めにあるのが「見る」という行為です。 
 
ここでも、シンパシー、ファンタジー、そしてふだんのイマジネーションによって「見る」ということができているのだと考えたりしています。
 
 
意識して眼差しを向けないと「見えない」ことを実感しています。そして、そのように意識して「見る」「愛でる」という行為を行うことで、実際に手を入れる必要がないパプリカ苗も生き生きとしているように思うのです。
 
 
人間が意識を向ける、働きかけることをしないままだと、「死」の方向へ進む。しかし、人が意識を向けて働きかけることで、「死」から「生」へと命が注がれていく。農作業は本当にそのことに身をもって実感させてくれます。
 
 
家の掃除や整頓、庭の手入れも子育ても、みな芸術であるということ。芸術は「死んだものに命を吹き込む」ものであることを改めて実感しました。
 
 
そこで、ひとつ疑問に思ったことは、自然と人間との関係です。人の手が入り込まない自然そのものは、「死」とは私は思えないのです。ありのままの自然は生命力にあふれています。
 
 
その一方、農業など、自然の中に人の手が加わることで、その植物や風景は芸術として命を吹き込まれる。
 
 
この命の違いはなんだろうかと、考えていたのですが、本来の自然は無意識の世界であり、人間の働きが自然に加わることで、意識的になるのかもしれないと思いました。その意識的な世界が芸術を生む。そこに、自然界、植物界、動物界、と人間の違いが見えてくるのかもしれません。そう考えていくと、なぜ、「人間だけがそうなのか」という問いが私の中に生まれてくるのです。とても面白いです。 
 
 
私たちの中にある「天の真名井」から真実や本質を汲み出すこと。人が生きる意味はこの作業の繰り返しのように思います。
 
 
そしてそこにはいつも人間への、世界へのわくわくとする興味からくる「問い」があってこそです。
 
 
それは私たちの「欲する」力が健全に働いていること、そして「欲する」働きが「考える」働きと「こころ」でバランスを取りながら、私の中を行き来していることが大切だと思いました。
 
 
 
―――――
 
 
 
t.m.さんの問ひ。
 
 
人の意識が向けられず、
全く人の手が入つてゐない自然と、
人の意識が向けられ、手入れされてゐる場。
そこに通つてゐる精神のいのちの違ひ。
 
 
それは何でせうか。
 
 
問ひを立てるひとりひとりが、
答へを見いだしていくことができます。
 
 
そして、
地球といふこの場が、
いかにして神々によつて織りなされて来たのか、
そして、
人といふもののが、
どのやうにしてなりたつて来たのか、
それらを学ぶといふこと、
それらを知りゆくといふことは、
それらをなしてこられた存在を、
敬ひ、愛するといふこと。
 
 
ですから、それらを学ぶといふことは、
この地球を創つた方々、
わたしたち人を創つた方々へ、
恩をお返しすることなのです。
 
 
わたしたちのアントロポゾフィーの学びは、
その感情と意欲を基にしてゐます。
 
 
それゆゑ、
我が身にその基を築くための練習も
欠かせないものです。
 
 
知を稼ぐことと、
意欲を培ひ、
情を育むこととが、
織りなし合つて、
わたしたちも少しずつ、
繰りなしていきます。
 
 
 
※写真は、講師・諏訪のノート
 

posted by koji at 08:33 | 大阪 🌁 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月02日

瞑想のことばと言語造形


  
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メディテーション(瞑想)において
響かせられることばは、
お日様に向かふ花弁のやうに、
こころに精神を取り入れる入り口になります。
 
 
そして、
言語造形で養はれることばの感官(言語感覚)は、
メディテーション(瞑想)するときにおいて、
とてもたいせつなものです。
 
 
ことばに意味だけを求めるのではなく、
その響き、リズム、動き、かたち、
バイブレーションをありありと見て、聴いて、
感覚する。
 
 
その機能と器官が、ことばの感官です。
 
 
このことばの感官が、
日常のことばの世界を離れた、
精神の力を呼び集めてくれます。
 
 
言語造形はこの感官を養ひます。
 
 
また、この感官は、
みづからの動きを感覚する動きの感官
(運動感覚)と表裏一体のものですので、
からだの動きを養ふことでもあります。
 
 
しかし、この動きといふものが、
静かさ、安らかさと共にある。
 
 
せわしなく動きまわるのではなく、
静かさが動いてゐる。
 
 
さういふ感官の働きを養ひます。
 
 
日本の神話に、
「天(あめ)の安(やす)の川」といふ川が、
出てきますが、
あの高天原(精神の世)に流れてゐる川は、
弥(ゐや)進む川、
どんどん流れて流れつづけてゐる川でありつつ、
安らかな流れなのです。
 
 
精神とは、常に、
一瞬も休むことなく動き続けてゐますが、
静かさを失はない、
静さが凄い勢ひで動いてゐる。
 
 
その生命の精神の流れは、
人の疲れて病んだこころとからだを癒し、
生命力を甦らせるのです。
 
 
そんな精神の流れ、
天の安の川の水と共に、
言語造形をしていきたいと思ひます。
 
 
滞らずに、安らかに、動きの中に入つて行く。
 
 
それこそが、人体の免疫力を上げる、
とてもたいせつなものです。
 
 
瞑想、そして言語造形、
精神からの学びと芸術です。
 
 

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2020年06月01日

6/15(月)新しい言語造形クラス!〜宮澤賢治と共に〜(和歌山県岩出市)


 
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健やかな息遣ひを取り戻したい!
 
 
宮澤賢治の作品の語りに、
新しく6月から取り組んで行きませんか。
 
 
宇宙大のひろやかさと深遠さをもつ賢治の世界を、
言語造形といふことばの芸術で描いていきませう。
 
 
おひとりおひとりに合わせて、
テキストは、こちらで用意します。
 
  
初めての方、どうぞお気軽にご参加下さい。
言語造形といふ芸術の素晴らしさを
共に味はつていきませう。 
お待ちしてゐます。
 
 
 

講師:
諏訪耕志(「ことばの家 諏訪」主宰)
https://kotobanoie.net/profile/#suwakoji
 
 
日時:
毎月第二月曜日 午後1時から3時まで
(2020年6月、8月、2021年1月のみ 第三月曜日)
 
 
場所:
和歌山県岩出市内 公民館
(お申し込みいただいた方に詳細ご連絡いたします)
 
 
参加費:
初めての方の体験参加 2000円
それ以降の方 5回連続 17500円
講師の交通費(大阪・和歌山間)をその日の参加者で頭割りし、ご負担をいただきます。ご了承ください。
 
 
お問ひ合はせ・お申し込み:
「ことばの家 諏訪」 
tel 06-7505-6405
e-mail info@kotobanoie.net



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2020年05月31日

5/25 アントロポゾフィー・ゼミクラス参加者レポート@ y.yさん

 

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オンラインでのアントロポゾフィー・ゼミクラス
 
そこではルドルフ・シュタイナーの
『普遍人間学』を扱ひ、
参加者が前もつて読みこみ、
講義を聴きつつ、
自分自身のことばで語らひ、
講義の後、
メディテーション(瞑想)に取り組みながら、
自分自身のことばで書く、
そんな学びの循環を大切にするクラスです。
 
参加してゐる方々のレポートなどを
公開させていただき、
アントロポゾフィーを真摯に学び、
自分のものにしていく気概の輪を創つて行く、
なんらかの機縁に繋がることを熱望してゐます。
 
5月25日には、第二講を取り上げました。
この講から、人といふものについて、
微に入り細に入り説かれていきます。
 
 
―――――
 
 
普遍⼈間学 第2講  y.y(イニシャル)
 
私達は呼吸する。その呼吸によって、私達の精神は、⽣まれる前の世界と死んだ後の世界を⾏き来している。⼀息ごとに⽣まれ、⼀息ごとに死んでいると⾔うことも出来る。⽣も死も今この瞬間にともに存在しているのだと気づいた。一瞬前の⾃分はもう今の⾃分ではないし、今の⾃分は一瞬後の⾃分を⽣み出していることだ。
 
さらに私達は常に何かを考えている、その考えは⽣まれる前の世界において決めていた、「⽣まれた後する仕事」を想い起こさせようと働きかける。そして、その事を為すべく私達は⼿⾜を動かす。想い起こしながら、考え、欲しながら進む、それが呼吸による精神の助けをかりて、我々の⽣きている時間の中で繰りなされている。
 
この想い、または意欲が「感じる」という事に跳ね返されて、シンパシーとアンチパシーが⽣じる。このシンパシーとアンチパシーの間でどちらにも偏りなく中庸を保つ事、その事で私達は⾃分の内⾯を健やかに保ち、あらゆる想念、感情から⾃由でいる事ができる。
 
その位置は、「考える事を⾒る」という作業によって獲得する事ができる。
 
この「考える事を⾒る」という事を⾏なってみると、⼀つの気づきがあった。それは考えた⾃分を⾒ている、もう⼀⼈の⾃分に出会うという事だ。さらに、考えた⾃分とそれを⾒ている⾃分の両⽅を⾒ている⾃分を感じるのだ。
 
ありのままを⾒る、感じる、考えるという事から、ある程度の距離を保ち、内⾯が健やかでいられる時、私達は⾃由であるという事が出来る。この「考えを⾒る」という事で私達は内⾯の⾃由、精神の⾃由を⼿にする事が出来る。そしてその事がリアルに今を⽣きる、⾃分を今、ここに、健やかに存在させるという事の助けになる。
 
そのように⾃分の内⾯を健やかに保ちつつ、教師は世界の物事に対してシンパシックに受け取り、その事柄に命を吹き込む。⼀⾒静かに存在している花や⽊、⽯や動物、または歴史や物語。⼦供達が出会うこの世界の様々な事柄は、⼀⾒無機質でそっけない表情をしている。
 
しかし教師がそこに関⼼を持ちつつ深く⾒ることで、その静かな物が雄弁に語りはじめ、その秘密を明かしてくれる。教師はそれらと対話し、感じ、捉え、⾃らの中に描いた「絵姿」を⽣き⽣きとした⾔葉で⼦供に伝える。この事が「教師の仕事」である。
 
そういう意味では、⼦供の前に⽴ち、授業をすつ遥か前から「教師の仕事」は始まっている。呼吸し、感じ、観察し、想い描き、⼿放し、前に進む、これら全てが教師の仕事の⼀部である。
 
しかし、この仕事は、常に闇の世界からの抵抗にさらされる。それは恐れ、不安、欲望、⾃尊⼼、という形で私達に働きかけ、その感情⾃体がが⾃分そのものであるかのような錯覚を起こさせる。そして精神の世界から私達を遠ざける。
 
この闇の⼒はルシファ、⼜はアーリマンと呼ばれる存在である。健やかな呼吸によって、そして、考えを正しく感情から分かつ術を⾝につける事によって私達はこの闇の勢⼒に精神を⽀配される事に抵抗する事ができる。この⼀瞬⼀瞬の弛まぬ業によって⾃我が強められ、常に精神界の助けをかりつつ教育者となってゆくことが出来る。⾃⼰の内⾯と向かいあわずして、他者を教育する者とはなり得ないという事なのか。
 
教育はまず⾃⼰教育からであると⾔われるのは、このような教育者の姿勢こそが地下通路を通して⼦供へと伝わって⾏くからなのだとつくづく感じる事が出来た。
 
―――――
 
 
写真は、講師・諏訪のノートから

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生まれ変はり


 
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フリードリッヒ「雲海を見おろすさすらひ人」

 
わたしたちは、この同じ時代を
共に生きてゐます。
 
 
同じ空気、同じ雰囲気のなかに生きてゐます。
 
 
しかし、これからは、同じ空気のなか、
同じ時代のなかであつてさへも、
ひとりひとりの意識の違ひで、
これまでとは比べものにならないほど、
人によつて生き方も大きく分かれてくるだらう、
さう想ひます。
 
 
これからは、ますます、
皆が皆、横並びになることで、
安心するやうな生き方は終はり、
ひとりひとりが、
言ふならば、自分勝手に生き始める。
 
 
さうして、どんどんその人らしい、
自由な生き方に入つて行く人もあれば、
逆に、自分勝手に生き始めることで、いつさう、 
こころの底のじりじりとした不安は、
誤魔化せないやうになる人もゐる。
 
 
わたしもさうです。
この不安を誤魔化して生きて行くことはできないと、
痛感してゐます。
 
 
最も恐れてゐたことが起こるやうに、
人生はできてゐる。
 
 
そんなことをリアルに痛感するのです。
 
 
問題は、この恐れといふ情に、
しつかりと向き合ふことだと
思はざるをえないやうになりました。
 
 
向き合はないと、
わたしは、一生涯、
自分といふ人間の本質にアクセスしないまま、
生涯を終へてしまふことになる。
 
 
わたしといふ人間の本質にアクセスする、
自己認識といふものが、
これほど抜け落ちるものなのかと、
これまでの人生を振り返つて愕然とします。
 
 
これまでと同じやうな、
考へ方、感じ方、生き方を繰り返すのは、
もう御免だ、
新しい生き方を始めたい、
さう熱望するのは、
きつと、
支配欲や承認欲求や愛の不足感からではなく、
さうせざるをえない、
ぎりぎりのところまで来てゐるのです。
 
 
下手な比喩ですが、
靄のかかつた山の遥か向かうに、
雲の切れ間からかすかに光が見えてゐるとしたら、
それは、どんな生き方を人に指し示してゐるのだらう。

 
少なくとも、わたしは、
自分自身の弱みといふところに、
真正面から向き合へるときが来てゐるのなら、
そこからゆつくりとでもいいから、
あらためて高みを目指す生き方をしたい。
 
 
自分自身の精神の向きに従つて、
切磋琢磨して己れを磨きつづけたい。
 
 
さうして、わたしは、人に学びたい。
 
 
その人は、生きてゐる現世の人であり、
またすでにこの世を去つてゐる人もある。
  
 
すべての人のことばに、もつともつと、
耳を澄まして聴き入りたい。
 
 
人のことばの後ろにあるこころと精神、
それは、わたし自身のこころを育てる、
なによりのものだから。
 
 
また、
この世を去つて、
数十年、数百年、数千年経つても、
厳としてわたしのこころの前に直立してゐる方々の
こころと精神。
 
 
彼らが残した仕事の価値は、
時の流れの試練をくぐり抜けて、
今も果てしなく重く、高い。
 
 
彼らが残してくれたのは、「ことば」、
書かれた「ことば」です。
 
 
その「ことば」は、
ひつそりと静かに慎んでゐながら、
それを読みに来る人、
聴きに来る人、
摑みに来る人を待つてゐます。
 
 
その「ことば」から溢れ、流れて来る、
その人のこころと精神に、
禊ぎをさせてもらふやうに、
洗はれ浄められる必要がわたしにはある。
 
 
毎日の暮らしのなかで、
さういふ精神の営み、
精神からの受洗、
こころの生まれ変はりを生きていく。
 
 
さう、こころを決めてゐます。
 
  



posted by koji at 08:22 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月30日

こころのこよみ(第8週)〜聖霊が降り給ふ日々〜


 

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ギュスターブ・ドレ「ペンテコステ」


 
感官の力が長けゆく、
 
神々の創り給ふものに結びつけられて。
 
それは考へる力を沈める、
 
夢のまどろみへと。
 
神々しいものが、
 
わたしのこころとひとつにならうとする時、
 
きつと人の考へるは、
 
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。
 
 
 
Es wächst der Sinne Macht          
Im Bunde mit der Götter Schaffen, 
Sie drückt des Denkens Kraft           
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen           
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken  
Im Traumessein sich still bescheiden. 
 
 
 
※ Denken といふ名詞を「思考」とは訳さずに、
「考へる」としてゐます。
denken といふ動詞(考へる)から生まれてゐるがゆゑ、
その活き活きとした働きを殺さないやう、
名詞でありながら、動詞的に訳してゐます。
 
 

 
感官の力(見る力や聴く力など)が、
ものに吸ひ寄せられてしまふこともあるだらう。
たとへば、
テレビやこのコンピューターの画面などに。
 
 
しかし、ものに吸ひ寄せられたままではなく、
感官の力を、もつと意識的に、意欲的に、働かせ、
じつくりと腰を据ゑて、何かを見る、
何かに耳を澄ませてみる・・・。
 
 
考へる力が鎮められ、沈められる位、
見てみる、聴いてみる。
 
 
見れど飽かぬも、
まさに、見てとればいよいよ飽かぬも。
なぜ、飽かぬのだらうか。
それは、見てとる、見る、見ゆ、に先立つて、
愛するがあるからだ・・・。
 
 
そのとき、そのときの、「愛する」から、
からだの大いさ、
からだを使ふことの大事さが披かれる。
 
 
その時のこころのありやうは、むしろ、
「考へるは、夢のやうなありやうの中で、
 静かに慎んでゐる」
と表現することがぴつたりとする。
 
 
さうすると、わたしたちは、何を受け取り、
どのやうに感じるだらう。
 
 
この週は、聖霊降臨祭の週でもある。
 
 
約二千年前、
十字架刑の三日後にキリストは甦り(復活)、
その後四十日間に渡つて、
キリストは精神のからだをもつて現はれ、
当時の弟子たちに親しく語りかけたといふ。
 
 
しかし、キリストはその後十日間、
弟子たちの前からその姿を消したといふ(昇天)。
 
 
その十日の間、
弟子たちは
「夢のやうなありやうの中で静かに慎んで」いた。
 
 
ひとところに集まつて、
静かに熱く、
しかし夢にまどろんでゐるやうなありかたで祈つてゐた。
 
 
そして、聖霊降臨の日、
それは聖霊(聖き精神)が、
ともに集つてゐる弟子たちに初めて降りてきて、
弟子たちがさまざまな言語をもつて
(ひとりひとりがおのおの自分のことばで)、
そのキリストのことばとしての聖き精神を
語り始めた日だつた。
 
 
前週において、
「さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 考へる力に代はつて」
とみづからの精神に呼びかけた。
 
 
その「予感」への呼びかけとは、
こざかしく考へることを止めて、
より大いなるものからの流れ
(世の考へ・キリストのことば)に
耳を傾けるといふ行為だつた。
 
 
それは、「静かに慎む」「傾聴する」
ありやうをもつて、
みづからを浄めつつ待つといふ行為でもある。
 
 
二千年後のわたしたちは、
考へる力が失はれてくるこの季節においても、
そのやうな備へをしようと
アクティブにみづからをもつていくならば、
「神々しいものが、わたしのこころとひとつになる」
聖霊降臨祭を、
自分たちのいまゐる場所で、
きつと打ち樹てていくことができる。
 
 
「すべては神々の創り給ふものである」
「神々しいものとこころがひとつになる」
といつたことを読んだり、
言つたりするにとどまらず、
予感し、実感し、見て、
そのことを生きていくために、
からだを通して、
実際の練習を意識的にしつづけていくことの
大切さを感じる。
 
 
教育であれ、芸術であれ、そこにこそ、
アントロポゾフィーの社会性が育つていく
基盤があるのではないだらうか。
 
 
 
 

感官の力が長けゆく、
神々の創り給ふものに結びつけられて。
それは考へる力を沈める、
夢のまどろみへと。
神々しいものが、
わたしのこころとひとつにならうとする時、
きつと人の考へるは、
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。



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2020年05月28日

本を読むときと講義を聴くときの違ひ

 
 
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たつた一枚写真に残されてゐる講義中のシュタイナー


 
何かを学ばうとして、
その何かに関する本を読むことと、
その何かに関して、
誰かから講義を受けることとの間には、
少し違ひがあります。
 
 
本当に学びたいといふ内なる真剣さ。
それは、どちらにも共通して必要です。
 
 
さて、
本を読む時に、望むべくは、
その内容によつて、
こころが変に乱されたり、
煽られたりすることなく、
静かに考へつつ、かつ、熱い想ひをもつて、
理解すること(分かること)へといたることです。
 
 
さうして、その読書が、
こころにばかりか、
からだのすべての液、
すべての力にいたるまで働きかけて、
日々の暮らし方、生き方に影響を与へて行くとき、
その学問そのものには、
理性や知識だけでなく、
精神的ないのちが宿つてゐます。
 
 
そのやうな書を読む人は、
死んでゐる文字を甦らせるやうな
読み方へといざなはれます。
 
 
その書に込められてゐる内容の精神、
考へとしての精神が、
書き手から読み手へと流れ込んで行くのです。
 
 
 

 
一方、講義などを通して、
人の語ることばから何かを学ばうとするとき、
その講義を聴く人は、
語る人から教義を受け取るのではありません。
 
 
語る人その人の精神を受け取るのです。
 
 
語る人の精神が、
語られることの精神とひとつになつてゐるからです。
 
 
つまり、「人」に出会ひにゆくために、
「人の精神」
「精神の人」に
出会ひにゆくために、
講義を聴きに行くのです。
 
 
その人との出会ひのひとときに、
その学問の精神は、そのつど、そのつど、
生まれます。甦ります。むすばれます。
 
 
講義とは、
人と人との間に繰りなされる、
精神の劇でもあります。
 
 
一回かぎりの劇なのです。
 
 
そこにおいては、
和やかで親しみに溢れる雰囲気のなかに、
内なる真剣さがあるほどに、
精神的ないのちが宿ります。
 
 
かうして、
本を読むときとは違ふ精神の受け取り方を、
講義を聴くときに意識してゐますと、
人と人とが、
共に学びつつ生きて行くといふことの
意味深さを感じることができます。



 
 
 

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2020年05月27日

自由への三つの密めやかな次第



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人は、自分の外に広がる世界にはよく目を注ぎます。
 
 
しかし、こころといふ、
内なるところに広がる世界に目を注ぐことには、
あまり慣れてゐないのではないでせうか。
 
 
こころ(ドイツ語ではSeele)が、
湖(See)だとしますと、
その水面に浮かび上がつて来た様々な感情や考へ、
それらはなぜ浮かび上がつて来たのでせう。
  
 
それらは、きつと、
どこかから風がこちらに向かつて吹いて来るやうに、
外の世界に何らかの出来事が起こつたり、
他者の言動をきつかけに、
こころが揺さぶられて、
浮かび上がつてきたものですね。
 
 
それらは、湖の底に沈められてゐたものが、
運命(仕合はせ)といふ風に吹かれ、
湖の水まるごとが揺さぶられることによつて、
沈殿物が湖水の面に浮かび上がつて来た、
といふことでせう。
 
 
これまでの人生の中で
経験せざるをえなかつた傷や痛みからの、
自分自身では認めたくない自分自身の情が、
そのつど繰り返し浮かび上がつて来ます。
 
 
その浮かび上がつて来たものを、
いまこそ、
ひとつひとつ丁寧に汲みとつてあげること。
 
 
それが、人の成長にとつて、
とてもたいせつなことだと強く思ひます。
 
 
どのやうな、はき違へられた考へも、
不健康な情も、
抑えつけたり、排除したりせず、
あるがままの客として、
すべて、丁寧に汲みとつて、
迎へて、響かせて、送る。
 
 
そんなとき、人は、
客と一体化してゐない、
ひとりの主(あるじ)です。
 
 
その内なる行為は、
「光の息遣ひ」を通して、
こころといふ湖水を浄めていく、
非常に地道な作業です。
 
 
さうして人はゆつくりと、
みづからのこころに精神の光を当てて行くことで、
みづからを総べ、
律していくことを学ぶことができます。
 
 
他者を責めず、
世を批判せず、
ただただ、誠実さと親身なこころもちに、
みづからを委ねて仕事に邁進することができる。
 
 
自分の好みや性向、お馴染みの考へ方、感じ方を、
できうるかぎり洗ひ流し、
そのつどその場で新しく精神を迎へ入れ、
流れ込ませる生き方、
これが一つ目の次第、「自律」です。
 
 
ここからすべては始まります。
 
 
さらに人は、
暮らしの中で、
仕事を通して、
みづからのこころにだけでなく、
みづからのからだにも精神の光を当てて行く。
からだにまで光を当てて行くのです。
 
 
このとき、すべての人の行為、仕事は、
芸術行為です。
 
 
死んだものに精神のいのちを吹き込み、
甦らせる、すべての行為が芸術です。
 
 
絵を描くことや音楽を奏でることだけでなく、
お料理も、お掃除も、お散歩も、
すべての行為が、
そもそも芸術行為です。
 
 
これもひとつの修業です。
 
 
倦まず弛まず練習をつづけることで、
人はみづからの足で、
立つことができるやうになりゆきます。
 
 
これが二つ目の次第、「自立」です。 
 
 
そして、人は、
そのつど、そのつど、
世に精神の光を当てて行くこと、
みづからのこころやからだにだけでなく、
世のものごとに光を当てて行くことを学びゆき、
社会の中で自分はそもそも精神なのだといふこと、
精神みづからであるといふことを知るやうになります。
 
 
これが三つ目の次第、「見識」です。
 
 
この自由へといたる三つの次第、
「自律」「自立」「見識」は、
ルドルフ・シュタイナーの
『自由の哲学』第三章、
「考へるは世をとらえるに仕へる」に、
詳しく述べられてゐます。
  
 
「ことばの家 諏訪」では、これから、
「光の息遣ひ」を通して、
この一つ目の次第に習ひ、
生活の中で習慣にしてゆく、
そして、だんだんと、
第二、第三の次第へと、
そんな稽古の場をもつていきます。
 
 
こころざしを持つ人と共に、
精神の「みすまるの珠」を繋いでいきませう。



 

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2020年05月26日

朝・夜 アントロポゾフィークラス・オンラインのご案内



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ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学 第二講』の
オンライン講座のお知らせです。
 
 
夜クラス 第二・四金曜日 21時〜23時
朝クラス 第二・四土曜日 10時〜12時
(両クラス、同じテーマを取り上げますが、
 ライブの語りなので、随分と内容は変はります)
 
 
全十四講義、
シュタイナーによつて語られてゐるのですが、
シュタイナーの各講義を
三回ひとつづきで、
わたくし諏訪耕志が、
ていねいに語り降ろさせていただきます。
 
 
このたびは、第二講のクールで、
すでに第一回目を5月22日(金)、23日(土)
に行ひました。
 
 
新しくご参加されたいといふ方には、
録画された第一回目の講義をご覧いただき、
6月12日(金)、13日(土)
の第二回目にご参加いただけます。
 
 
アントロポゾフィーの学びを
日本の精神伝統を鑑みながら、
少しづつじつくりと進めていきます。
 
 
ライン上ですが、
ことばの語りを聴き、
みづからもことばを発することで、
時を共有しながら、
人間学の理解を確かにしつつ、
深い息遣ひを常に想ひ起こしながら、
瞑想(メディテーション)の大切さを確認し合ふ、
そんな時間です。
 
 
この機会に、
この講義録『人間学』の内実を、
深くから身をもつて生きてみませんか。
己れのものにしていきませんか。
 
 
第二期からでも、
無理なく、講座内容は理解できます。
 
 
共に、精神の学びに取り組んで行きませう。
 
 

 
 
講師: 諏訪 耕志
 
  
 

今回は、第二講を三回に分けて取り組みます。
 
 
@夜クラス 5月22日(金)21時〜23時
 朝クラス 5月23日(土)10時〜12時
『 内なる死を生へと甦らせる 』
 
 
A夜クラス 6月12日(金)21時〜23時
 朝クラス 6月13日(土)10時〜12時
『 わたしのこころを精神から捉える 』
 
 
B夜クラス 6月26日(金)21時〜23時
 朝クラス 6月27日(土)10時〜12時
『 かたち・絵姿をもつて子どもに働きかける 』
 
 
  

●参加費 
 
初回体験参加 3500円、
3回連続 9000円
 
連続して受講していただくことが
最善だと考へますので、
初回体験参加を除いては、
3回連続で受講していただくやう、
お願ひいたします。
  
またその場合でも、
御自身のご都合でのお休みは、
キャンセル無効とさせていただき、 
録画したものを見ていただくことができます。
 
なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。
 
 
●お振り込み
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
お申し込み、お振り込みいただいた方に、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。
 
 

鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を
講座の前にでも、あとにでも、
ご自身で読んでいただくことで、
学びの主体性も高まりますので、
ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌
 
出版元の精巧堂出版のページです。
ここからご注文できます。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 

ありがたうございます。
  


●お申し込み・お問ひ合はせ
 
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/


 

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いのちを吹き込む学問 〜普遍人間学・第二講から〜

 

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大神神社の末社、天皇社の上空


 
こころとは、月のやうなものだ。
お日様に照らされて、
満ちたり欠けたりしながら輝く。
 
 
こころとは、水のやうなものだ。
お日様の熱によつて、
熱くなつたり、冷たくなつたりする。
 
 
イタリア中世の神学者、
トマス・アクィナスのことばです。
  
 
現代の心理学は、
そのお日様、
つまり、人の精神、世の精神を見失つてしまつてゐる。
 
 
さういふ、お日様を見失つた心理学では、
ひとりひとりの人のこころを暖めない。
 
 
こころを失つたこころの学問になつてしまつてゐる。
 
 
それゆゑ、
精神から、こころといふものを捉える、
そんな心理学こそが、
いま求められてゐる。
 
 
自分自身を、そして子どもを教育する上で、
そんなお日様に照らされ、暖められた心理学が必要だ。
 
 
こころを甦らせる、いのちを吹き込む、
そんな学問が必要だ。
 
 
ルドルフ・シュタイナーの
『普遍人間学』の第二講では、
そんなことがまづ、述べられ、
そこからこころのことがらが、
精神の観点から詳細に見てとられてゐます。
 
 
感覚に偏りがちな人には、
考へることの大切さを。
 
 
考へることに偏りがちな人には、
感覚し、感じ、欲することの大切さを。
 
 
アントロポゾフィーは、
人のこころに、
そんなバランスをもたらさうとします。
 
 

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2020年05月25日

6月から! ことばの家 諏訪 言語造形



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皆さん、ことばの家で、
言語造形といふことばの芸術でもつて、
新しい世界を創り始めて行きませんか。
 
 
ウィルス騒ぎの恐れから自由になり、
人と人とが親しく交はり合ふ中で、
ことばがいのちを得て羽ばたいて行くのです。
 
 
6月から、
言語造形のクラスを始めます。
 
 
どうぞ、怖れから自由になり、
芸術の泉へ、
天の真名井に、
共に飛び込みませう。
 
 
世界中が不自由にあえいでゐる今、
この〈わたし〉から自由になつてゆかないで、
誰かがその自由を用意してくれるのを待つのでせうか。
 
 
そんなことはできるはずがありません。
 
 
この〈わたし〉から自由な世界を切り開いて行くのです。
 
 
その勇気は、愛からしかやつてきません。
 
 
愛のないところに、
恐れが湧き上がつて来るのですから。
 
 
外側の世界からの勢ひに圧倒されず、惑はされず、
自分自身の内側から、
新しい動きを生みだしていきませう。
 
 
舞台に立つのです。
 
 
そして、神から頂いてゐるこのいのちを、
表現していくのです。
  
 
集まりませう。
 
 
 
 

●月曜クラス(月一回)
●水曜クラス(月一回)
●金曜クラス(月一回)
●日曜クラス(月二回)
●土曜クラス(月三回)
 
(午前10時から12時半まで)
     
 
 
参加費   最初の体験ご参加  2000円。
次回以降  4回連続ご参加   14000円
 
 
 
講師:諏訪耕志プロフィール 
言語造形のためのアトリエ、
『ことばの家 諏訪』主宰。
1964年大阪市出身。
日本語の美と風雅(みやび)を
甦らせていくことを念願にしてゐる。
 
 

ご連絡先:
「ことばの家 諏訪」  
大阪市住吉区帝塚山中2-8-20
Tel/Fax 06-7505-6405  
e-mail info@kotobanoie.net
ホームページ https://kotobanoie.net/
 




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2020年05月23日

オンライン講義を始めて



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現在のこの状況において、
新しいものに疎いこのわたしも、
5月になつて漸く、
オンラインによる仕事を始めさせてもらひました。
(ちつとも、新しくはないのでせうね😅)
 
 
わたしにとつては初めてのことで、
受講して下さつてゐる皆さんには、
いろいろとご迷惑をお掛けしてゐます。
 
 
しかし、わたしは、
このたびのこのやうな仕事の仕方から、
思はぬ気づきを与へられてゐます。
 
 
それは、このオンラインでの仕事が、
プライバシーとパブリシティーとが
交錯するやうな時空間で成り立つてゐることからの、
気づきなのです。
 
 
普段のプライバシーの領域で、
どういふ考へと情をもつて生きてゐるか。
 
 
外に出て行つて人様と会ひ、
緊張感をもつて仕事をするとき以上に、
プライベートな空間に身を置いたまま仕事をする、
このオンラインでの仕事では、
自分独りでゐるときの意識のあり方が、
その質に、より密やかに影響することを
感じてゐます。
 
 
プライベートな時間の中でこそ、
自分のこころを
自分で見守ることの大切さを感じるのです。
 
 
この仕事の形態はわたしに、
精神の舵取りの必要性を教へてくれてゐます。
 
 
現代の文明の利器に、
精神からの感謝の念ひを向けることの大切さを思ひます。
 
 



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2020年05月22日

こころのこよみ(第7週)〜さあ、来たれ、わたしの予感よ〜


 
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わたしのわたしたるところ、
  
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
 
世の光に強く引き寄せられて。
 
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 
あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
 
考へる力に代はつて。
 
考へる力は感官の輝きの中で、
 
みづからを見失はうとしてゐる。
 
     
    
 
Mein Selbst, es drohet zu entfliehen,
Vom Weltenlichte mächtig angezogen.
Nun trete du mein Ahnen
In deine Rechte kräftig ein,
Ersetze mir des Denkens Macht,
Das in der Sinne Schein
Sich selbst verlieren will.
 
  
 

人は、芸術に取り組むとき、
ある種の息吹きを受ける。
 
 
シュタイナーは、そのやうな、
芸術をする人に大いなる世から吹き込まれる息吹きを、
インスピレーションと呼んだ。 
(Inspiration は、ラテン語の
  insprare (吹き込む)から来てゐる)
 
 
一年の巡りで言へば、わたしたちは、
秋から冬の間に吸ひ込んだ精神の息、精神の風、
「インスピレーション」を、
春から夏の間に芸術行為をもつて解き放たうとしてゐる。
 
 
秋から冬の間、
「わたしのわたしたるところ」「考へる力」は
そのインスピレーションを孕むことができたのだ。
 
 
その「わたしのわたしたるところ」「考へる力」が、
変容して、春から夏の間のこの時期、
意欲の力として、からだを通して息が吐かれるやうに、
大いなる世へと拡がつていかうとしてゐる。
 
 
「わたしのわたしたるところ、
 それはいまにも離れ去らうとしてゐる」
 
 
その精神の吐く息に連れられて、
芸術行為を通して
「わたしのわたしたるところ」「考へる力」は、
外の世に拡がつてゆく。働きかけてゆく。
 
 
芸術をするとは、頭で考へることを止めて、
みづから頭が空つぽになるまで
手足を働かせることである。
 
 
それは、世の光に引き寄せられることであり、
自分のからだの外にこころが出て行くことである。
 
 
「世の光に強く引き寄せられて」
 
 
さうして、外へと出て行くほどに、
光の贈りものをいただける。 
 
 
その光の贈りものとは、
「予感」といふ、より高いものからの恵みである。
 
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ、
 あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
 考へる力に代はつて」
 
 
芸術とは、
インスピレーションといふ世の風に吹き込まれつつ、
予感といふ世の光に従ふことである。
 
 
練習を通して初めてやつてくる
予感に沿つていくことである。
練習とは、身を使ふことである。
 
 
秋から冬、インスピレーションを孕んだ考へる力が、
まづは頭から全身に働きかける。
 
 
その精神の息吹きを、
春から夏、練習によつて、解き放つていく。
 
 
その息吹きが練習によつて解き放たれるその都度その都度、予感が、光として、
ある種の法則をもつたものとしてやつてくる。
 
 
インスピレーションが、
胸、腕、手の先、腰、脚、足の裏を通して、
息遣ひを通して、芸術として世に供され、
供するたびに、芸術をする人はその都度、
予感をもらえるのだ。
 
 
この小さな頭でこざかしく考へることを止めて、
やがて己れに来たるべきものを感じ取らうとすること。
 
 
「さあ、来たれ、わたしの予感よ」
と精神に向かつて呼びかけつつ、動きつつ、待つこと。
 
 
それは、秋から冬の間、
明らかに紛れなく考へる働きとは趣きがまるで違ふが、
アクティビティーにおいては、
それに負けないぐらゐの強さがゐる。
 
 
世から流れてくるものを信頼すること。
  
 
そして、そのやうな、身の働きの中で、芸術行為の中で、
予感が恩寵のやうにやつてくる。
 
 
だから、この季節において、考へる力は、
感官の輝きの中で、
手足の働きの中で、
意欲の漲りの中で、
見失はれていいのだ。
 
 
「考へる力は感官の輝きの中で、
 みづからを見失はうとしてゐる」
 
 
そして、積極的に手足を使つて、
息を解き放ち、力を揮つて、感官の輝きの中で、
創造に勤しむのだ。
 
 
 
わたしのわたしたるところ、
それはいまにも離れ去らうとしてゐる、
世の光に強く引き寄せられて。
さあ、来たれ、わたしの予感よ、
あなたの力に満ちたふさはしさの中に、
考へる力に代はつて。
考へる力は感官の輝きの中で、
みづからを見失はうとしてゐる。
 
 

posted by koji at 18:06 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

幸せと不幸せに揺れ動く生のさなかで

 
 
人が雄々しく舵をとる
 
舟は風と波とに揺られるも
 
内なるところは揺れもせず
 
風と波とを従へつつ
 
人がはてなき深みを見やる
 
難に会はうと会ふまいと
 
頼れるは内なるところの力なり
 
 
(シュタイナーによつて改変されたゲーテのことば)

posted by koji at 18:04 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月20日

自分自身のことばで語るアントロポゾフィー・ゼミクラスのお知らせ

 

ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』は全十四講あります。
 
 
この本を自分自身で読みこんでいく人のために、
月に一回、一講義ずつのペースで、
アントロポゾフィー・ゼミクラスのお知らせです。
 
 
オンラインでの開催です。
 
 
テキストは、鈴木一博氏訳を使ひます。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 
毎月第四月曜日、
開始時間は午後1時、終了時間は3時半ごろの予定です。
 
 
参加する方は、前もつて読んでおいていただき、
オンライン上で、
その内容を丁寧に深めて行くことを目指します。
 
 
人といふものを、
こころから精神から理解していくために、
読みこんで、自分自身のことばに鋳直していく、
そして、アントロポゾフィーのうちの最も大切な、
内なる練習(メディテーション)についても、
何かを分かち合へる、
そんな時間にしていきませう。
 
 
参加後は、何らかの形で、
文章を書いていただき、
御自身の学びを形にして行つていただきます。
 
 
 
 
 
●参加費 
 
初回体験参加 3500円、
3回連続 9000円
 
連続ご参加の場合、
御自身のご都合でのお休みは、
キャンセル無効とさせていただき、 
録画したものを見ていただくことができます。
 
なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。
 
 
 
●お申し込み・お問ひ合はせ
 
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
 
 
 
●お振り込み
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
お申し込み、お振り込みいただいた方に、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。
 
 

オンライン上でお会ひできますこと、楽しみにしてゐます。
 

posted by koji at 20:50 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月18日

垂直の生き方 アントロポゾフィークラス・オンライン



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レオナルド・ダ・ヴィンチ「ウィトルウィウス的人体図」

 
 
色々な物事、様々な人に遭遇して、
初めて人は自分自身を知る。
 
 
それらすべての経験は、
かけがへのない、
その人の成長に欠かせない経験です。
 
 
ただ、それらは、
水平の地平での、
人と世との織り成し合ひです。
 
 
普段、人は、
さういふ水平の地平で生きてゐると思ふのです。
 
 
人は、水平の地平と並んで、
どうしても垂直の生き方を求めずにはゐられない生き物です。
 
 
垂直とは、
精神と繋がりつつ、
精神と重なりつつ、
精神と交はりつつ、
この一瞬を生きるあり方だと念つてゐます。
 
 
垂直とは、
天と地を貫くものです。
 
 
人にとつて、考へる働きと欲する働きとは、
対極にありつつ、
天と地を繋いで、
人を人たらしめるふたつのこころの働きです。
 
 
そもそも、考へるとは、常に、
「天地(あめつち)の初発(はじめ)」
を想ひ起こすことです。
 
 
そもそも、欲するとは、常に、
「世のまるごとが弥榮(ゐやさか)に榮えること」
を希(こひねが)ふことです。
 
 
シュタイナーの『普遍人間学』を軸にした、
このアントロポゾフィークラスをもつて、
そのふたつの働きを、
光の呼吸と共に、
織り成していきませう。
 
 
垂直の生き方を求める方、
このアントロポゾフィーの学びを通して、
息遣ひを共にしていきませう。
 
 
こころより、お待ちしてゐます。
 
 
諏訪耕志拝
 
 
 
 
ことばの家アントロポゾフィークラス・オンライン
 
『普遍人間学 第二講』を三回に渡り深めて行きます。
 
 
@夜クラス 5月22日(金)21時〜23時
 朝クラス 5月23日(土)10時〜12時
『 内なる死を生へと甦らせる 』
 
 
A夜クラス 6月12日(金)21時〜23時
 朝クラス 6月13日(土)10時〜12時
『 わたしのこころを精神から捉える 』
 
 
B夜クラス 6月26日(金)21時〜23時
 朝クラス 6月27日(土)10時〜12時
『 息遣ひと共に生きるこころ 』
 
 
(夜・朝 両クラス、同じテーマを取り上げますが、
 ライブの語りなので、随分と内容は変はります)
 
 
 
詳しくはこちら ↓
http://kotobanoie.seesaa.net/article/475057208.html
 


posted by koji at 19:11 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『外郎売』Speach Formation「KABUKI Speach UIROUURI」by SUWA KOUJI






歌舞伎の演目から『外郎売』です。
 
 
この「外郎売」のセリフ、
演劇人やアナウンサー、
声優によつてよく取り上げられます。
 
 
早口ことばによる滑舌の稽古として、
用いられてゐるのですね。
 
 
言語造形においても、
特に早口ではないのですが、
ことばのひとつひとつの音韻を、
その音韻に相応しく形造つたり、
前で鳴らしたり、後ろで鳴らしたり、
昇らせたり、くだらせたり、
様々な内なる身振りを試みたりで、
本当に取り組みがいのある魅力的な作品です。
 
 
途中、一箇所、間違ひました!
どうぞご容赦下さい^_^;
 

聴いていただき、
お楽しみいただけたら、嬉しいです。
 
 

2020年05月16日

こころのこよみ(第6週) 〜生活の中に根付いてゐる信仰〜



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己れであることから甦る、
 
わたしのわたしたるところ。
 
そしてみづからを見いだす、
 
世の啓けとして、
 
時と場の力の中で。
 
世、それはいたるところでわたしに示す、
 
神々しいもとの相(すがた)として、
 
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
 
 
Es ist erstanden aus der Eigenheit  
Mein Selbst und findet sich
Als Weltenoffenbarung             
In Zeit- und Raumeskräften;         
Die Welt, sie zeigt mir überall
Als göttlich Urbild
Des eignen Abbilds Wahrheit.

 

じつくりと見る。
じつくりと聴く。
じつくりと受けとる。
 
 
そのやうに世に向かつて、人に向かつて、
意識的に感官を開くほどに、
世も人も、ものものしく語りだす。
 
 
そして、
世と人に向かつて我が身を披けば披くほど、
我がこころが起き上がつてくる、
立ち上がつてくる、
甦つてくる。
 
 
たとへば、幼い子どもを育ててゐるとき、
大人の忙しさについつい子どもを
巻き込んでしまふことがある。
 
 
そんな時、
よく子どもは大人の意向にことごとく反発して、
ぐずつたり、泣きわめいたりする。
 
 
しかし、
この「忙しさ」といふこころの焦りに、
大人であるわたしみづからが気づけた時、
目の前の子どもにじつくりと眼を注ぐことができた時、
子どもの息遣ひに耳をじつくりと傾けることができた時、
子どもが落ちつくことが、よくある。
 
 
そんな時、
子どもがいつさう子どもらしく輝いてくる。
その子が、その子として、啓けてくる。
 
 
そして、さうなればなるほど、
眼を注いでゐるわたし自身のこころも
喜びと愛に啓けてくる。
わたしが、わたしのこころを取り戻してゐる。
 
 
子どもを育ててゐる毎日は、そんなことの連続。
 
 
きつと、子どもだけでなく、
お米その他の作物をつくつたり、
育てたりすることにおいても、
それを毎日してゐる人には、
同じやうなことが感じられてゐるのではないだらうか。
 
 
子どもがゐてくれてゐるお陰で、
他者がゐてくれてゐるお陰で、
ものがあつてくれるお陰で、
わたしはわたしのわたしたるところ、
わたしのまことたるところを見いだすことができる。
 
 
他者といふ世、
それはこちらが眼を注ぎさへすれば、
いたるところでわたしに
わたしのまことたるところを示してくれる。
 
 
他者に、世に、
わたしのまことたるところが顕れる。
 
 
そのことも、
不思議で、密やかで、かつリアルなことだが、
そのわたしのまことたるところが、
神々しい元の相(すがた)に
相通じてゐることに気づいていくことは、
あらためて、
信仰といふことに対する親しさを
わたしたちに与へてくれる。
 
 
生活の中に根付いてゐる信仰。
 
 
日々、
つきあつてゐるものといふものや他者を通してこそ、
啓いていくことができる信仰。
 
 
もうすぐ、聖霊降臨祭がやつてくる。
 
 
 
己れであることから甦る、
わたしのわたしたるところ。
そしてみづからを見いだす、
世の啓けとして、
時と場の力の中で。
世、それはいたるところでわたしに示す、
神々しいもとの相(すがた)として、
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
 
 

posted by koji at 20:02 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『いかにして人が高い世を知るにいたるか』といふ書の意味



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背後の、天を仰ぐ亀と共に

 
 
「密(ひめ)やかに学ぶ人が問ふてほしいのは、
 みづからといふものを、
 育つといふことに向けていくのに、
 何が役立つかである」
 
 
今朝読んだこの書の一文です。
 
 
わたしは育つ。
わたしは、みづからを育てて行くことができる。
みづからを育てて行けばこそ、
世を育てるに資することができる。
 
 
わたしが輝くことによつてこそ、
他者の輝きがいよいよ見えて来るのでした。
世の輝きが初めて見えるやうになるのでした。
 
 
では、このわたしを育てるためには、
何が役立つのだらう。
 
 
こと、わたしにとつては、
とりわけ、
与へられてゐる仕事のために、
最善の準備をすること、
そして、それにより、
己れを充実させ切ることです。
 
 
しかし、わたしを育てるための方途は、
この書に具体的に記されてある通り、
他にもまだまだ数多あります。
 
 
その可能性を己が身で常に試していたい、さう思ひます。
 
 
この『いかにして人が高い世を知るにいたるか』といふ書が、
何度もの読みの中で、
どれほど、なりかはつて行くことか。
 
 
そのことを実感するのは、
とても感慨深いことです。
 
 
ただ、この書が指し示すところの、
微妙な味はひ、香り、深みは、
いくつもの痛みと苦しみ、悲しみを
人生の中で経験することによつて、
いよいよ触知できる、
さう実感します。
 
 
また、いくつもの回り道を迂回して、
ふたたびこの書に立ち戻つて来る、
その機縁を待たねばならないやうにも思ひます。
  
 
さうして、
この書に静かに取り組む人に、
この書は語りかけてきます。
 
 
その声は、とても静かで、密(ひめ)やかで、かつ、
この身に熱をもたらすやうな確かさを湛えてゐます。
 
 
現実の時間の中で、
この書の内容に沿つて、
こころの練習をつづけること、
実際にしつけることこそが、
すでに、その人を、
精神への道に置くやうに感じられます。
 
 
この鈴木一博氏による翻訳は、
ドイツ語と日本語といふ、
ふたつの言語の間の隔たりを隔たりとして、
意識的に捉えながら、
その違和感と同時に、
目覚ましい親しさを生みだしてゐます。
 
 
違和感と親しさ。
その二律背反は、翻訳することの中に、
常に浮かび上がつてくることでせう。
 
 
この翻訳は、とりわけ、
違和感「と」親しさ、と言ふときの、
この「と」に意識的になることで、
積極的に人のこころに、
新しい言語感覚をもたらさうとしてゐます。
 
 
どの国の人であれ、どの民族の人であれ、
ふだんの親しくしてゐる身の動きがあり、
その動きはある程度、普遍的なものであるはずです。
 
 
そして、シュタイナーは、
親しみのある動きを湛える動詞といふことばを、
特に念入りに用ひました。
 
 
翻訳においても、
その動きを引き立てることで、
ふたつの言語にある隔たりに新しい橋を架けようと、
訳者は努めてゐるやうに感じられます。
 
 
たとへば、
denken (考へる)といふ動詞から生まれてゐる、
Denken といふ名詞は、普通、「思考」と訳されますが、
ここでは、その内なる動き
「か・向かふ」「か・迎へる」を殺さないやうに、
「考へる」とそのまま訳されてゐます。
だから、
「人の思考は・・・」と普通訳されるところが、
「人の考へるは・・・」となります。
 
 
普段、わたしたちが言はない言ひ方です。
 
 
また、たとへば、
sein といふ be 動詞に当たる動詞から生まれてゐる、
Dasein といふ名詞も「存在」と訳されずに、
「ある」と訳されてゐます。
だから、
「精神の存在として・・・」などと普通訳されるところが、
「精神のあるとして・・・」
「ありありとした精神として・・・」と訳されてゐます。
 
 
また、
Verwandlung は、
普通「変化、変容」などと訳されますが、
ここでは、
「なる」「変はる」といふ親しい動詞を身に引きつけながら、
「なりかはり」と訳されてゐます。
 
 
これらは、ほんの一例に過ぎませんが、
この翻訳は、一貫して、
からだとこころに親しくつきそふことばを、
精神の観点から選択してゐます。
 
 
動詞に湛えられてゐる「動き」を汲み取りながら、
読んでみて下さい。
 
 
文字を追ひつつ、
声に出しながら本を読む人は、
自分の考へる働きに、
自分の欲する働き、意欲の働きが注ぎ込まれるのを、
感じるでせう。
 
 
考へると欲するが重なります。
 
 
みづからの身の働きをもつて本を読むといふことが、
この翻訳によつて促されてゐますし、
そもそも、この書を書き記したシュタイナーも、
その促しをこそ、人の意識にもたらさうとしました。
 
 
考へる働きに、
欲する働きを注ぎ込んで、
意識を持続させ、
意識を活性化させ、
その反復によつて、
外の世の動きに惑はされない、
内なる力を育む。
 
 
そのことが、時代の課題でもある。
 

この書に限らず、
シュタイナーによるすべての著作は、
そのことの促しに満ちてゐます。 

 
 

 


posted by koji at 09:50 | 大阪 ☔ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月14日

祈り

 
 
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今からおほよそ二千年ほど前にも、
この国に、
天災、疫病、打ち続き、
民たち多く死にゆきて、
ところ定めずさすらひて、
叛(そむ)く者あまた出で来たつたさうです。
 
 
ときの第十代・崇神天皇、
御眞木入日子印恵命
(みまきいりひこゐにえのみこと)は、
その窮状を治めようとなされて、
祈りに祈られたことが、
古事記、日本書紀、それぞれに記されてあります。
 
 
すべてが、
己れの至らなさゆゑだとお考へになられ、
御苦衷の程、いかなるものであつたでせう。
 
 
三輪山の、西の麓にある、
お宮址の、
磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)、
そして、
崇神天皇をお祀りしてゐる、
大神神社の末社である天皇社に、
お参りしてきました。
 
 
なぜか、ここには、幾たびも、幾たびも、
通ふやうにお参りしてゐます。
 
 
わたしたちも、
この長いお籠りの時を経て、
天岩戸開きのやうに、
きつと、遠からず、
次の歌のやうなやりとりが、
わたしたちの間でもなされることと、
信じてゐます。
 

 
此の神酒(みき)は 我が神酒ならず やまと成す
大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久(活日)
 
 
味酒 三輪の殿の朝門にも
出でて行かな 三輪の殿門を(諸大夫)
 
 
味酒 三輪の殿の 朝門にも
押し開かね 三輪の殿門を(崇神天皇)
 
 

いま、今上陛下も、
どれほどお祈りされてゐらっしゃることでせう。

posted by koji at 19:40 | 大阪 | Comment(0) | 神の社を訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月12日

第二期 アントロポゾフィークラス・オンライン


 
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ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学』の
第二回目のオンライン講座のお知らせです。
 
 
夜クラス 第二・四金曜日 21時〜23時
朝クラス 第二・四土曜日 10時〜12時
(両クラス、同じテーマを取り上げますが、
 ライブの語りなので、随分と内容は変はります)
 
 
アントロポゾフィーの学びを
日本の精神伝統を鑑みながら、
少しづつじつくりと進めていきます。
 
 
ことばの語りを聴き、
みづからもことばを発することで、
人間学の理解を確かにしつつ、
深い息遣ひを常に想ひ起こしながら、
瞑想(メディテーション)の大切さを確認し合ふ、
そんな時間です。
 
 
この機会に、
この講義録『人間学』の内実を、
深くから身をもつて生きてみませんか。
己れのものにしていきませんか。
 
 
第二期からでも、
無理なく、講座内容は理解できます。
 
 
共に、精神の学びに取り組んで行きませう。
 

 
講師: 諏訪 耕志
 
  
 

今回は、第二講を三回に分けて取り組みます。
 
 
@夜クラス 5月22日(金)21時〜23時
 朝クラス 5月23日(土)10時〜12時
『 内なる死を生へと甦らせる 』
 
 
A夜クラス 6月12日(金)21時〜23時
 朝クラス 6月13日(土)10時〜12時
『 わたしのこころを精神から捉える 』
 
 
B夜クラス 6月26日(金)21時〜23時
 朝クラス 6月27日(土)10時〜12時
『 息遣ひと共に生きるこころ 』
 
 
  

●参加費 
 
初回体験参加 3500円、
3回連続 9000円
 
連続して受講していただくことが
最善だと考へますので、
初回体験参加を除いては、
3回連続で受講していただくやう、
お願ひいたします。
  
またその場合でも、
御自身のご都合でのお休みは、
キャンセル無効とさせていただき、 
録画したものを見ていただくことができます。
 
なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。
 
 
 
●お申し込み・お問ひ合はせ
 
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
 
 
 
●お振り込み
 
// ゆうちょ銀行から //
記号 10260 番号 28889041
スワ チハル
 
// 他銀行から //
店名 〇ニ八(ゼロニハチ)
普通 2888904
 
 
お申し込み、お振り込みいただいた方に、
オンライン会議室ZoomのURLをお伝へします。
 
 

鈴木一博氏訳の『普遍人間学』を
講座の前にでも、あとにでも、
ご自身で読んでいただくことで、
学びの主体性も高まりますので、
ぜひ、一冊、お手元に置いて読んでみて下さい😌
 
出版元の精巧堂出版のページです。
ここからご注文できます。
https://www.seikodo-store.com/show1.php?show=b0031
 
 

ありがたうございます。
 
 

posted by koji at 21:51 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月10日

こころのこよみ(第5週) 〜セザンヌ 画家の仕事とは〜


 
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精神の深みからの光の中で、
 
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
 
神々の創りたまふものが啓かれる。
 
その中に、こころそのものが顕れる、
 
ありありとした世へと広がりつつ、
 
そして立ち上がりつつ、
 
狭い己れの内なる力から。
 
 
 
 
Im Lichte, das aus Geistestiefen
Im Räume fruchtbar webend
Der Götter Schaffen offenbart:
In ihm erscheint der Seele Wesen
Geweitet zu dem Weltensein
Und auferstanden
Aus enger Selbstheit Innenmacht.
 
 
 
 
画家とは、何をする人なのだらう。
セザンヌの絵を観て、
そのことを考へさせられる。
 
 
「仕事」として絵を描くとは、どういふことか。
 
 
セザンヌのことばによると、
「感覚を実現すること」、
それこそが絵を描くといふことであつた。
それこそが、彼の「仕事」だつた。
 
 
彼が強い意欲をもつて、
ものを見ようとすればするほど、
ものの方が、彼をぢつと見つめる。
 
 
自然が自然そのものの内に秘めてゐる持続的な、
強い、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。
 
 
それは既に、
感官(目や耳などの感覚器官)を超えて
受信される「もの」である。
 
 
そして、
自然からのそのやうな
「もの」の流れに応じるかのやうに、
あまりにも巨大なセザンヌ自身の
「こころそのもの」が顕れる。
 
 
その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。
そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。
 
 
そのふたつの出会ひそのものを、
キャンバスの上に、色彩で顕わにしろと、
彼は自然そのものに求められる。
 
 
その求めに応へるのが、
「感覚の実現」であらうし、彼の仕事であつた。
その求めに応へ続けたのが、彼の生涯だつた。
 
 
世は、人に、
「その場その場で実り豊かに織りなしつつ
 神々が創りたまふもの」
を啓いてほしいと希つてゐる。
 
 
なぜなら、それによつて、人は、
「 狭い己れの内なる力から、
 ありありとした世へと広がりつつ、
 自分の足で立ち上がりつつ、
 自分自身のこころそのものを顕わにする」ことが
できるからなのだらう。
 
 
セザンヌは、そのことを、
意識的になさうとした人だと感じる。
 
 
 
精神の深みからの光の中で、
その場その場で実り豊かに織りなしつつ、
神々の創りたまふものが啓かれる。
その中に、こころそのものが顕れる、
ありありとした世へと広がりつつ、
そして立ち上がりつつ、
狭い己れの内なる力から。
  
 

posted by koji at 19:21 | 大阪 ☁ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月09日

みる、愛づ、愛でる 〜乙女座からの贈り物〜

 
 
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ものをよく「みる」こと、
じつと「みる」ことから始めることの意味深さ。
 
 
「みる」といふことばの底には、
「愛(め)づ」「愛(め)でる」といふ、
極めて感情的・意欲的なことばが息づいてゐる。
 
 
「愛(め)づ」といふことばから
「めづらし」といふことばも生まれる。
 
 
人は、何でも見てゐるやうに思ひ込んでゐるが、
愛してゐるものしか、
実は見てゐないし、見ゑてゐない。
 
 
何かを「愛でる」。
だからこそ、その何かを「みる」ことができる。
 
 
そして、その「みる」といふことばは、
他の動詞に付くことで、
その行為をますます意欲的な行為へと押し進める。
 
 
「触れてみる」「動いてみる」「立つてみる」
「嗅いでみる」「味はつてみる」「見てみる」
「湯加減をみる」「聴いてみる」「話してみる」
「感じてみる」「考へてみる」「してみる」・・・。
 
 
おほよその動詞に付くことのできる「みる」。
 
 
人がその意欲的な行為をするための働きを、
大いなる世から与へてくれてゐるのは、
乙女座のお宮である。
 
 
乙女座。
それは永遠の乙女であり、
永遠の女性性であることの宇宙的表現である。
 
 
「みる」といふ行為は、
対象に光を当てる働きであり、
光を当てることによつて、
その対象からその対象たるところ、
本質といふものを引き出す愛の働きである。
 
 
だから、「みる」は多くの動詞に付くことで、
その行為を意欲的なものに、愛に満ちたものにする。
 
 
 
 
 
本を読むときでも、それは当てはまる。
 
 
本といふ人格と精神が総動員されてゐるものを、
まづは、徹底的に信頼して、愛して、
目を皿のやうにして愛でて読むことによつて、
本は秘めてゐる秘密を初めて打ち明けてくれる。
 
 
さうして、
そんな「みる」といふ意欲的・感情的な行為から、
やがてゆつくりと「考へる」「知る」といふ、
対話的行為へと、こころが深まつてゆく。
 
 
そんな行為にいざなう本こそが、
読むべき本だと感じる。
 
 
 
 
 

昔の日本人は、
そんな「みる」力を相当強く養つてゐたやうだ。
 
 
結婚するために、「お見合ひ」をする。
 
 
そのとき、
相手の年齢や職業などをそこそこ弁えるだけで、
あとは、ほとんど、「一目でみて」決めてゐた。
 
 
 
相手の趣味や収入や性格や、
その他様々な情報などは置いておき、
たつた「一目みて」
こころを決める力を持つてゐた。
 
 
さういふこころの力を育むことが教育の基だと念ふ。 
 
 
 
 

posted by koji at 16:20 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

キャロル・キング『ミュージック』と清々しい朝



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昨日までの三日間、
本当に久しぶりに仕事をさせてもらひました!
 
 
仕事を通して、
人様と繋がることができることは、
なんて素晴らしいことなんだらう。
 
 
あらためて、ありがたさを痛感しました。
 
 



一晩明けて今朝は、
これまでの長い自粛期間の、
修行僧のやうな(?)こころもちとは、
随分と違ふ、
穏やかで、安らかな朝を迎へることができた。
 
 
こんなときは、
コーヒーを飲みながら、
キャロル・キングのアルバム『ミュージック』。
 
 
前作『タペストリー(つづれおり)』での
大成功で深く自信をつけたであらう彼女が、
お腹に御子を宿しながら、
おそらくゆつたりと創り上げた、
約50年前の珠玉の作品。
 
 
聴いてゐて、
こころに寛ぎと安らぎと喜びが湧き上がつてくる。
 
 
からだの隅々の細胞が甦つてくる。
 



 
個人的には、
このウィルス騒ぎはフェイクだと見てゐますが、
とにかくも、
緊急事態宣言が発信された、
この自粛期間は、
わたし自身が新しく生まれ変はるための、
この上ない絶好の機会でありました。
 
 
お先、真つ暗、先が見えないからこそ、
第九・七年期のはじまり、
今年56歳になるこれから先の自分自身が、
どんな人になりゆくのか、
楽しみで仕方がないのです。


posted by koji at 11:42 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ことばの家 アントロポゾフィークラス・オンラインのお知らせ


 
朝クラス (1).png
夜クラス (1).png
 
 

昨日までの三日間、
アントロポゾフィークラス・オンラインに
ご参加して下さつた皆さん、
本当にありがたうございました。
 
 
本当に遅ればせながら取り組んだ、
Zoom での講義をしてみまして、
わたしにとつてはまるで、
深海の底に沈められてゐた宝の箱を、
見いだしたやうな、
想つてもみなかつたやうな喜びの中に、
今朝、ゐます。
 
 
遠く宮城、茨城、長野、神奈川などからも
ご参加下さり、
オンラインを通して、
こんなにも親しく人と人とが、
触れ合へることを
初めて知りました。
 
 
最初の会に、
思ひ切つてご参加して下さつた皆さんに、
こころより感謝申し上げます。
 
 
スタートとして、
今回は三日連続でさせていただきましたが、
このアントロポゾフィークラスを、
これからは、
第二・第四金曜日の夜9時から11時まで、
毎月行ふことになりました。
 
 
日本の伝統精神に即しながらの、
アントロポゾフィーの理解の深まり。
 
 
ご関心のおありになる方、
ぜひ、お仲間にお入りくださいね。
 
 
深くて、時に闊達な息遣ひを共有しながら、
精神の「みすまるの玉」を繋いでいきませう。
 
 
いまこそが、
天地(あめつち)の初発(はじめ)であります。
 
 
講師 諏訪耕志拝
 
 
――――――
 
 
●ことばの家 アントロポゾフィークラス・オンライン
 
 
ルドルフ・シュタイナーの
『普遍人間学』を軸にして、
アントロポゾフィーの学びを進めて行きます。
 
 
ことばの語りを聴き、
みづからもことばを発することで、
人間学の理解を確かにしつつ、
深い息遣ひを常に想ひ起こしながら、
瞑想(メディテーション)の大切さを確認し合ふ、
そんな時間です。
 
 

5月22日より、毎月第2・第4金曜日
夜21時より23時まで 
(7月のみ、第二・第五金曜日)
 
 
『普遍人間学 第二講』に入つて行きます。
 
 
参加費は、初回単発ですと3500円、
3回連続ですと9000円といたします。
 
 
連続して受講していただくことが
最善だと考へますので、
初回参加を除いては、3回連続で受講していただくやう、
お願ひいたします。
 
 
またその場合でも、
御自身のご都合でのお休みは、
キャンセル無効とさせていただきます。
なにとぞ、どうぞよろしくお願ひいたします。
 
 
お申し込み・お問ひ合はせは、
「ことばの家 諏訪」
https://kotobanoie.net/access/
まで、お願ひします。
 
 
 
ありがたうございます。
 
 
  

posted by koji at 09:09 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月05日

『密(ひめ)やかな集まり』アントロポゾフィークラス・オンラインのお知らせ


 
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生家に残されてゐるゲーテの部屋


 
「何を知つてゐるか」「何をするか」よりも、
「どうあるか」。
 
 
その問ひを自分自身に向けることこそが、
アントロポゾフィーといふ学問の
根幹にあること。
 
 
つくづく、さう念ひます。
 
 
開かれてはゐますが、
同時に、
こころの密(ひめ)やかな集まりとなります。
 
 
明日からの三日間、
お申し込み下さつた方々、
ありがたうございます。
 
 
Zoom ミーティングのURLは、
明日の開始時間の30分前にはお知らせします。
ご入場も30分前から大丈夫です。
 
 
新しく始まるアントロポゾフィーの集ひです。
ご関心おありの方、
どうぞこの機会に、
こころを動かして、
新しい部屋にお入りになりませんか。
 
 
お待ちしてゐます。
 
 
諏訪耕志
 
 
 
『ことばの家アントロポゾフィークラス・オンライン』
イベントページです↓
https://www.facebook.com/events/262959258175899/

 
 

第一日目 5月6日(水・祝)
第1クラス 10時から12時
第2クラス 21時から23時
『普遍人間学・第一講』から
「現代を生きるわたしたちの課題」
 
 
第二日目 5月7日(木)
第1クラス 10時から12時
第2クラス 21時から23時
『普遍人間学・第一講』から
「息遣ひとことばとメディテーション」
 
 
第三日目 5月8日(金)
第1クラス 10時から12時
第2クラス 21時から23時
『普遍人間学・第一講』から
「人の九分節」
 
 
 


posted by koji at 11:24 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする