2009年11月13日

今日の稽古 〜基点としての足〜

 今日は大阪府箕面市で言語造形の稽古。月1回のペースで、もう7年以上続いている。皆さんそれぞれ参加された時期は様々だが、クラスというのは不思議なもので、なぜか期を一にして各々物語を語る力が充実してきている。長い時間の中では、クラスの雰囲気と言おうか、勢いと言おうか、ある時期には停滞した雰囲気になったり、またある時期には今日のように充実したものになってきたりする。今年になって参加された新しい方も周りの皆さんに合わせるかのように毎月どんどん腕を上げていかれるのだ。

 まず、円になって時計回りに歩くことから始めた。足の裏側のどの部分に重心がかかっているか、歩くにつれてその重心がどう移りゆくか、そんなことを意識しながら歩き続けている内に、注意深い足運びにつれて、だんだんと息が深くなっていくのを感じ出す。
 足の運びと呼吸が深く連動していることに気づくことは、言語造形をするうえでとても大事な支えになる。そのことを感じながら「あえいおう」と母音を響かせてみる。いかに上半身の力を抜いて、かつ、己の両の足裏に動きつつある重心を感ずることができるか。それがあれば、大きな声を出さずとも、響きのいい、地に足の着いた語り口が生まれてくる。ことばの一音一音は空間の中を自由自在に動き、同時に基点としての両足は大地と密かに語り合っている。その両足と大地との親密な接触から、身ぶりが生まれ、ことばが生まれる。そしてふさわしいことばとことばの間(ま)が生まれる。

 わたし自身、生徒さんたちとのこの毎日の言語造形を通して、基礎の再発見をさせてもらっている。それは、稽古というものを通してのみ見えてくるもので、そのたびにこころを動かされる。
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2009年11月12日

スターバックスにて。歴史とは。

 スターバックスでコーヒーを飲みながら、池田晶子さんの『メタフィジカル・パンチ』を読んだ。
 
 「戦争の時代を考えよう。生死のぎりぎりが生活の日常であるような時代を考えよう。その方がよほどすっきり話がわかる。(中略)君は君の生活上の不平や不安やメソメソが、爆弾を抱えて敵艦へ突っ込めという至上命令に対して、どのような位置にあると思いますか。」(P.94)

 隣で二人の女の人が声高にいろいろなお喋りをしていた。その横で、池田さんのこんなことばに出会う。

 「確たる世界認識は、自分の死を知るその明らかさと引き換えに獲得されるものだ。ひとたび死んで無になった自分だからこそ、世界のすべてを自分と知るのだ。認識は自在だ。どの時代におけるどの誰かも、全て、『私』だ。私は戦争を知っている。爆弾を抱えて敵艦に突っ込んだことがある。幼い部下にそれを命じたこともある。戦争の愚劣さを知りながら、しかし愚劣を真率に生きるよりしようがなかった人間の悲しみを知っている。『戦争を知らない世代』と自ら名のるなど、恥ずかしいことと思った方がいい。」(P.95)

 歴史とは、ことばだ。そして、まずもって、他者という他者が生きた「しるし」のことだ。しかし、その歴史としてしるされているすべてが、それらのことばすべてが、この「わたし」を映している鏡であり、すべてが「わたし」に関する記述なのだと合点していくならば、歴史は歴史でなくなり、他者は他者でなくなってくる。歴史を学ぶということが、「わたし」について学ぶということになる。ことばを深めていくということになる。
 歴史とは、行為だ。わたしが誰かを、何かを、熱く想うことだ。想い描くことだ。想い起こすことだ。そのとき、その行為は、きっと、時空を超えて「わたし」という意識をだんだんと深め、広げていく。
 シュタイナー語るところ、有史以前に生きていた人々は、己個人の人生をはるかに超えて、先祖たちの人生経験にまで遡って、記憶を保持していた。
 これからのわたしたちは、歴史の中にしるされていること、他者を通して現れていること、それらすべてが己のことであると徹見していくことによって、意識的に自らを超えて記憶を、「想い起こすこと」「想い描くこと」を、育んでいくのだろう。
 スターバックスで隣り合って座った人がいてくれたからこそ、池田さんのことばがわたしに突き刺さってきた。
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2009年10月23日

立つことと昔ばなし その2(終わり)

 アントロポゾフィーに沿って人間学を学んでいくと、昔ばなしを語ることが幾重にもおもしろくなってくる。それは、人というものが歩んできた道のり(人類史)、もしくは、ひとりの人の成長と、昔ばなしにおけるお話の展開が、重なって視えてくるからだ。その重なりをこじつけ、牽強付会(けんきょうふかい)と取る人がいるかもしれない。しかし、丹念に自分自身に沿ってアントロポゾフィーを吟味していくならば、数多くの昔ばなしや神話や伝説の持つ意味深さが己のこととしてリアルに分かってくる。


 ひとりの人間には、からだの面においても、こころの面においても、精神の面においても、それぞれに様々な位相がある。
 からだの面を取ってみると、まずは、感覚器官の大部分と脳を備えた頭の部分がある。そこは本来的に静かに丸く構えられていて、静かに紛れなく考え、また周りに生じていることやものをひたすら受けとる場所だ。それが天の領域だとするならば、運動と仕事を担う手足は地の領域にあって、外の世にひたすら働きかけようとしている。そしてそれら両極の間にあってふたつの働きのバランスを取ろうとしている胸。その胸の領域においては呼吸や血液循環といったリズムを刻む主要な働きが担われている。その胸の働き次第で、頭と足の間のバランスがうまく取れ、風通しの良さをもたらしたり、バランスが時に狂ってしまい、滞ってしまい風通しが悪くなったりしてしまう。
 このからだの三面を、こころの角度で捉えてみると、頭の領域には考えが宿り、手足の領域には意欲が現れ、そして胸の領域においては、まさしく、情が脈打つ。 それら、考え、意欲、情の三つは、こころにおいて常に織りなされて働いている。
 また、精神の角度でこの三面を捉えてみると、頭の領域で人は目覚め、手足の領域では眠っている。そして間の胸の領域では夢見ている。


 昔ばなしの中には、様々な存在が登場してくる。父や王様や殿様であったり、母や鬼婆やお后であったり、娘や王子であったり、その他様々な存在が闊歩するのだが、それらの存在はまさにそれぞれに独特の特徴を帯びている。しかし、それらの存在がすべて、ひとりの人の中にあるそれぞれの部分を担っている。そう考えながらお話をあらためて吟味していくと、そのお話に新しい理解の光が差し込んでくるように思われることが多い。
 例えば、父はわたしの中にいる父であり、母はわたしの中の母なのであり、子はわたしが何歳になろうとも、わたしの中にもありつづけている子なのではないか。そして、父がひとりの人の天に向かおうとする頭の役割、精神を、母が地の領域にあってわたしたち人を支えようとする手足の領域、からだを、子がその父と母との間で新たに生まれ、また葛藤を乗り越え成長していくことを通して、新しい世界を切り開いていくこころの領域を担っている。その子の成長こそがわたしたち人のこころの成長を表してくれている。
 そのように、物語の中で複数の存在が交じり合ってドラマを生じさせていくことは、ひとりの人の内で、頭と手足と胸が、考えと意欲と情が、精神とからだとこころが、それぞれふさわしく育ち、またふさわしくブレンドされていくことを言おうとしている。そのことを通して、ひとりの「人というもの」が立ち上がっていく過程を描いている。
 昔ばなしの中で、ひとりの人が立ち上がり、その人の道を歩き出すのだ。


 今度のわたしたちの舞台『夕鶴/絵姿女房』でも、(父、母、子は出てこないが)そのように、ひとりの人が立ち上がり、歩き出す相(すがた)を描き出すことができれば、本当に嬉しい。
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2009年10月14日

立つことと昔ばなし その1

 人は、しっかりと生きていくためには、自分の足で真っ直ぐに立つ必要がある。それは、からだの面においても、こころの面においても、精神の面においても、そうだろう。
 子どもが生まれて一年経つころには、やっとこさ自分の足で立とうとする。そして立てた時のその子の晴れやかな顔つきと言ったらない。この世に生まれてきて、生きていく上でのバランスをやっと取ったぜ!そう言わんばかりである。そのようにして、人は立つことをまずは覚え、その後に、生きていく上で必要不可欠なことを着々と学びつつ身につけていく。
 この「立つ」ということを改めて見てみると、子どもは何度失敗してもめげずに挑戦しながら、何とかおのれの頭を高み(天)へと向け、おのれの足をもって深み(地)を踏みつつ、バランスを取ろうとしている。その立つという行為が、からだの面ではもちろんのこと、こころの面においても精神の面においても人が人として生きていく上での土台になる。
 さて、人は、一応大人と言われる年頃になって、いよいよ様々な事柄にチャレンジしていかざるをえない。そのように人生はなっている。生きていると、毎日、いろいろなことが起こる。それは滔々と流れる河の流れのように、やってきては、過ぎ去り、またやってきては、過ぎ去る。生きていくというのは、その流れの中で、ひとり、足を踏ん張って立っている、そして少しずつでも歩いていくようなものだ。その時に生じる世の流れとおのれのとの間の抵抗、分離、摩擦を感じることから本格的に人生は始まる。そう、抵抗、分離、摩擦があるからこそ、次に新たな融和、合一があるのだ。そのために、人は、自分の足で立とうとする。そして、頭ひとつ水面から出して、周りを見回し、遠くを見はるかす。そして水の流れに乗って川底を歩き、時に泳いでいくのだ、海に辿り着くまで。(続く)
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2009年10月11日

わたしのミカエル祭その2

  
  (精神から新しく祝祭をつくりだす)そのことは、
  人の内を見やることにとって、多くを意味します。
  ひとりの人と向き合い、
  その人の思うことを見てとることができるということ、
  その人のことばがふさわしく分かるということです。
  巡りつつの世が、秋にかけて、いかに働くかを、
  人が、いまにおいて、見てとることができるなら、
  世の相の謎を、
  人が読み解き、それを汲んでつくりだしつつ働くことができるなら、
  そうした祝祭をつくることにおいて、
  人が、人の欲することをあらわにするのみか、
  神々の欲すること、精神たちの欲することをも、あらわにします。
  ならば、ふたたび精神が人々のところにありあわせます。 
        (『ミカエルの祝祭を精神からつくる』1923年5月23日ベルリン)



 「ことばの家」では、学びの時間の前に必ず参加される方々がひとりひとりおのれのことをおのれのことばで語る時間を設けている。最近、感じていたり、考えたりしていることであったり、経験したことであったり、学びに直接、間接に関係することであったり、それは様々だが、自分のことばで、語っていただいている。人が語っているその間、周りの人は口を挟まず、ただひたすら聞き耳を立てている。そのように聴こうとする人がいてくれることが、話し手の口をどれだけほぐしてくれることか。人は、ただ聴いてくれる人がいるだけで、おのれのこころから様々なものを取り出してくることができる。その作業は、おのれのこころに横たわっている様々な思い、感情、考えをことばに仕立てて空間に投げてみる行為である。そのように、他者との間に、ことばが投げられて初めて、自分はこんなことを感じ、考えていたのかということに気づくことがある。その気づきは、聴いている者だけでなく、語る当人をも癒すことがある。
 毎回のそんな時間が、アントロポゾフィーの学び、言語造形の学びにとって不可欠だと感じている。人が、いま傍にいる人のことを(自分自身のことをも含めて)少しでも知っていこうとせずに、どうしてアントロポゾフィーの学びができるだろう。
 人と向かい合い、その人のことばを聴く。その人の思うところを見てとろうとする。その人のことばを分かろうとする。その意欲こそが、学びの土壌を作る。
 毎回の学びの場が、シュタイナーの言う祝祭でありえる。

 しかし、とりわけ、この秋という季節は、人の深まってくる想いや考えを聴くことができる、いい季節だと思う。わたしも、この秋、ミカエルの祝祭の時期、何人かの本当にいきいきとした人からいきいきとした「はなし」を聴くことができて、こころに力がみなぎって来るのを感じている。人が語り合うって、こんなすごいことだったか、と改めて感じている。
 7年ほど前、わたしは人に呼びかけて、四季折々の祝祭をつくろうと何度も試みていた。ありがたいことにそのたびに10人から20人の人が集まって自分たちなりに祝祭をつくることを試みていた。
 しかし、今、振り返ってみると、その当時のわたしは祝祭をつくりながらも、こころの底の底まで、それら各々の祝祭の深みを感じてはいなかった。祝祭の意義をシュタイナーから受け取り、その意味を感じてはいたが、今から思えば、まだ胸の浅いところでその意味を感じていたに過ぎなかった。
 祝祭は、まずは、ひとりの人の胸の深みから生まれる。精神から祝祭をつくろうとするひとりの人から何かが発する。いまという時代は、その意識さえ持っていれば、その人が足を運ぶところが祝祭の場所になりえる。
 今は、もうあえて、人に呼びかけずともいいのだという自由な気持ちだ。  
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2009年10月06日

ひびきの村・ミカエルカレッジにて(わたしのミカエル祭その1)

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 北海道のひびきの村・ミカエルカレッジで、9月28日から10月2日まで5日間、言語造形の講座だった。丁度、29日のミカエルの祝祭日がある週で、このときに、自分がミカエルカレッジにいることの意味を考えながら毎日を過ごした。
 仕事の準備として、何度もシュタイナーの講演『ミカエルの祝祭を精神から創る』(1923年5月23日ベルリン)を読み返した。そこに書かれてあることのひとつひとつに鼓舞されてミカエルカレッジでの仕事に臨んだ。ここでの言語造形5日間連続講座そのものがミカエル祭にきっとなりえると思った。

  人々が、いまにおいて、厳かに、
  ひとつのミカエルの祝祭を九月の終わりの日々に据えようと、
  こころを決めることができるなら、
  それが、ひとつのことであり、こよなく大きな意味をもつはずです。
  そのことにつけては、きっと人々のうちに勇気が見いだされることになります。
  たんに表側の社会組織について論じるとかだけでなく、
  この地を天に結ぶこと、
  物質のかかわりをふたたび精神のかかわりに結ぶことを、する勇気です。
  そして、それを通して、精神が、ふたたびこの地のかかわりへと導かれて、
  人々のあいだに、実に、ことが起こります。


 この5日間を始めるに当って、このわたしではなく、わたしを通して何か大いなるものが働いてくださるよう、全力を尽くしたい。そうすることが少しでもできれば、「この地を天に結ぶこと」、「ひとつのことが起こる」のではないか。そんなミカエル祭をまずはわたしひとりのこころからやってみようと、こころに決めた。
 ミカエルという大天使は、人がひとりこころを決めさえすれば、そのことが天に適うものである限り、大きなサポートを送ってくれる存在だと言う。こういう目には見えない存在の方々のことを考えつつ仕事をやるのと、そうでないのとでは、その成果が、本当に、違ってくることが、経験の上で分かってきた。
 そしてこの夏からの個人的なテーマである「勇気」。仕事をするに当って、もしくは、新しい世界に入っていくに当って、様々な不安・恐怖が湧き起こってくる。その不安・恐怖を抱くことにはきっと意味があるのだろうが、しかし、だんだんと、それらの感情を抱くことによってものごとは何もよくなりはしないこともこころで分かってきた。「勇気」。祝祭をわたしひとりの内側からだけでも始めるんだとこころを決めさえすれば、きっとそれに応じてくださる存在がいる。
 言語造形を通して、物語ることのダイナミックさ、ことばの力、内的なアクティビティーを共に感じたい。そんな願いを込めた5日間。最後の日の参加者7人の方々の発表を聴いて、わたし自身、本当にこころを揺さぶられた。ひとりひとりの方が自分の足で立っている。そして自分の足で前へ前へと歩みを進めながら身体を目一杯使って身ぶりを繰りなしながらことばを発している。そして最後の段階で、静かに立ちながら物語ることを通して、ひとりひとりの輝きが、本当に、見える。
 この5日間まるごとが、わたしにとってミカエルの祝祭だった。参加してくださった皆にとってもそうであるならと思う。 
 最後まで内的な火を燃やしつつ懸命に言語造形に取り組んでくださった皆さんに本当に感謝だ。 そして、こういう場を創ってくださっているひびきの村のスタッフの方々にこころから感謝。そして、わたしの中で、ミカエルという存在への信頼が強まっていることへの感謝。ありがとう。
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2009年09月26日

ぼろぼろになるまで

 ・・・と言っても、自分のことではなく、本のこと。
 本を読んでいて、自分の手で気づいたことを書き込み、線を引き、ぼろぼろになるまで何十回と繰り返し読み込んでいく、そんな本に出合えたなら、それは本当に幸福なことだと思える。
 なぜなら、一冊の本とは、ひとりの人間だからだ。そんな本に出合えたということは、そこまで信頼を寄せることのできるひとりの人に出会えたということに等しい。そして、その信頼する人を通して大事なことをとことん学ぶべく、腰を据えてその本に付き合い続ける。
 素晴らしい本は、何度読んでも、そのたびの発見、気づき、驚きがあり、こころが動かされる。そこに書かれてあることに潜んでいる細やかさ、味わい深さは、付き合い続けてみないと、前もっては決して分からない。本がそうなら、人なんて、もっとそうだ。だから結婚は、腰を据えてひとりの人と付き合い続けるということの深み、細やかさを知る上で願ってもない機会だ。(これは、また、別のはなし)
 そこで、またまた、シュタイナー。
 彼の『いかにして人が高い世を知るにいたるか』の前書きにこんなことが書いてある。

    こころの育みとして述べられていることを迎えるにおいては、
    他の論を迎えるときのように内容に親しむだけには尽きないことが必要である。
    述べられていることを親しく深めて生きることが必要である。 (P.9)

    ここでのように、生きられてほしいことごとが述べられ、見てとられるにおいては、
    内容をいくたびもとらえかえす必要があるということが明らかになる。
    ・・・人が多くをみずからにとって満ち足りのゆくようにわきまえるにいたるのは、
    いよいよそれを試し、試したあとでに、その事柄の細やかさに、
    いささかなりとも気づくにおいてである。
    その細やかさは、前もっては気づかれないものである。 (P.10)


 繰り返し読み、そこで書かれてあることを自分で試し、また繰り返し読み、また試す。そのプロセスを重ねていく程に、また人生における経験を積んでいく程に、そこにある細やかさに気づくことができるように、その本は書かれてある。時間とともに自分だけでなく本までもが成熟していくというそのことには、驚きとともに喜びがある。
 一冊の本を読み込むということの大切さ、そのことの人生におけるおおいなる意義。アントロポゾフィーの学びには多くの入り口があるが、そこのところを自分で確認しておきたかった。言いたかった。
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2009年09月25日

自分への助言

 小林秀雄が「作家志願者への助言」という文章を書いている。

   助言というものは決して説明でない、分析でない、
   いつも実行を勧誘しているものだと覚悟して聞くことだ。
   親身になって話しかけている時、
   親身になって聞く人が少ない。
   これがあらゆる名助言の常に出会う悲劇なのだ。


 話す人が覚悟して話しているならば、聞く人もその覚悟に応ずるような態度で聞こうとすること、それは人と人との関わり合いとして極めてまっとうなことであり、健やかなことではないか。それは書く人と読む人との関係にもきっと言えることだ。
 そこで彼は五つの助言を作家志望者に向けて書いている。

    一. つねに第一流作品のみを読め
   二. 一流作品は例外なく難解なものと知れ
   三. 一流作品の影響を恐れるな
   四. 若し或る名作家を択んだら彼の全集を読め
   五. 小説を小説だと思って読むな


 これは作家志望者だけではなく、創造的な仕事をしていこうとするすべての人にとっての名助言だ。
 わたしが自分に向けて助言をするなら、こうなる。

   一. つねにシュタイナーのことばに交われ
   二. シュタイナーの書いたものは例外なく難解なものと知れ
   三. シュタイナーの書いたものからの影響を恐れるな
   四. シュタイナーの全集を読め
   五. 精神科学の書を精神科学の書だと思って読むな

 三つ目について。己が全身全霊を込めて信頼できる「人」をなんとかして見出すことの重要性。その「人」に全身全霊をもって交わり、ひとつになるのだ。その交わりの中からこそ、己のことば(オリジナリティー)を汲み出しえる。そこに書かれてあることがまことであるとの健全な予感があるなら、それを自分の力量で自分のことばとして語っていくために、まずは己を空にして対象に交わりつづけるのだ。
 五つ目について。精神をここから遠く離れたところにあるもののように思うな。「いま、ここ」のことであると鋭く悟りながら彼のことばを聴け。科学を、学びを、机上のもの、安楽椅子に座ってなされるものと思うな。全身全霊をもって、ものと交わることこそが科学であり、学びであると思って、彼のことばを聴け。
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2009年09月01日

今日の稽古 〜ことばと身ぶり〜

特に力まず、誇張したりもせず、
淡々と話しているにも関わらず、
深くて確かなこころの内実が、
話されることばから立ち現れてくることを、
今日の稽古で、また、実感した。

活きていることばには必ず、
活きた身ぶりが伴なわれている。もしくは、潜んでいる。

文章やことばや音韻ひとつひとつに応じて、
身ぶりはその都度様々になされる。

シュタイナーは、人間としての典型的なものとして、
六つの身ぶりを挙げてくれている。

または、文章の内側に、まるで感情の通奏低音のように特定の母音が鳴り響いていて、
その母音に応じての身ぶりがなされる。

そして、ひとつひとつのことば、ひとつひとつの音韻の響き、母音、子音に応じた身ぶりもなされえる。

それら、そのときそのときに相応しい身ぶりを、
まずは外的に、そしてだんだんと内的に繰り成していきつつ、
ことばを発声していくことを徹底的に身につける。

そんな稽古を繰り返していくうちに、
俳優によって吐かれる息の中にことばの響きが聴き取られるだけでなく、
確かで深い情が、人間の内的な身ぶりとしてリアリティーをもって感じ取られる。

舞台の上で、ことばを話す。
たったそれだけのことから、
様々な色合いをもったこころのリアリティーが
確かさとともに生まれてくる。

そのこころのリアリティーは、
俳優個人が持とうとするひとりよがりなものではなく、
ことばから、文章から、作品から、おのずと立ち上がってくるものだ。

ことばが、文章が、作品自体が、
こんな風に発声してほしい、こんな風に表現してほしい、と願っている。

その願いに耳を傾ければ傾けるほど、
そして、活き活きとした呼吸を通して相応しい身ぶりを繰りなしつつ、
ことばを発していくことを稽古していくほどに、
わたしたち自身が、
その願いをことばとして鳴り響かせることのできる楽器になっていく。

わたしたちが実現しているのは、
シュタイナーが言語造形と俳優芸術に関して語り、伝えようとしてくれたことの、
ほんの幾ばくかに過ぎないだろう。

しかし、その幾ばくにすぎないものからだけでも、
とても確かなリアリティーを受け取っている。

ことばとは、こうあっていいのではないか。
演劇とは、こうあっていいのではないか。
そんなリアリティーである。
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2009年08月28日

『自由の哲学』序文から

なぜ、この本を読もうとするんだろう。

自分で自分によく問います。

そして、この本の序文をそのたびによく読みます。

一部を載せます。



 わたしたちはもはやひたすら信じようとはしない。
 わたしたちは知っていようとする。
 信仰はわたしたちのまるごと見通していないまことを認めよと求める。
 わたしたちのまるごと見通していないところは、
 すべてをひとりの内も内なるところをもって生きようとする者の嫌うところだ。
 外から来るきまりに従いつつでなく、
 人となりの内に生きるから沸き立ちつつの知っているこそが、
 わたしたちを充ちたらせる。

 ・・・わたしたちは確かに知っているを求める、
 しかし誰しもが誰しもなりにだ。

 ・・・哲学はひとつの芸術だ。
 実の哲学者はみな考えの芸術家だった。
 かれらにとり人の考えは芸術の素材となり、知識の方法は芸術の技法となった。
 それにより、象を具えない考えが象を具えた、ひとりなりの生きるを得る。
 考えが生きるの力となる。
 そのとき、わたしたちはただにものを知っているのみか、
 知っていることそのことが、実の、そのことでそのことを統べる生きた織りなしとなっている。
 わたしたちの実の、すすんで働く意識が、ただにまことを受けとるを凌いでいる。

 芸術としての哲学が人の自由といかにかかわるか、
 人の自由のなんたるか、
 わたしたちが人の自由にあずかっているか、あずかりえないか、
 これがわたしの本の主たる問いだ。
 ・・・ひとつの「自由の哲学」が、この本に記されるところだ。
                     (1894年 ルードルフ・シュタイナー  鈴木一博訳)


勤しめば、勤しむほどに、人が人として生き生きとしてくるのは、不思議ですよね。
言語造形という芸術もまさしく、そうなのですが、
この考えのみを素材にした『自由の哲学』という芸術も、
勤しみに満ちて自分から(!)読んでいくほどに、
まさしく、「考えが生きた力となる」ことを実感します。

その、「自分から読んでいく」ことへのひとつのきっかけになるようにと、
講座を続けています。

考えの芸術に共に取り組んでいくための場です。 



日曜 『自由の哲学』講座

   日程     8/30, 9/27, 10/25, 11/22, 12/27, 1/31, 2/28, 3/28,・・・・・
           (8月,1月以外すべて第四日曜)


   講師     諏訪耕志

   時間     13:30 - 16:00

   参加費    各回 1,500円 , 計12回連続 16,000円

   会場     「ことばの家」帝塚山教室
             南海高野線「帝塚山」駅より、北へ徒歩5分
             地下鉄四つ橋線「玉出」駅2番出口より、南港通を東へ上がり徒歩約10分
             上町線「姫松」駅より、南港通を西へ徒歩約7分

http://www.kotobanoie.net/access.html
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